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ふんばり

世の中にはふた通りの人間がいます。

第一のタイプは、何かを始める人間です。無から有を産み出す人間と言っても良いかもしれません。何かに興味をもつとある種の狂気に取り憑かれ、苦労を苦労とも思わずに突き進み、何かを創ってしまう……そういうタイプの人たちです。(もちろん、人間は歴史的な営みの中で生きていますから、いかなる人間も無から有をつくっているわけではありません。しかし、ここでは、取り敢えずそういう哲学的な問題は括弧に括って読み進めていただくことを前提としています。それが「……と言っても良いかもしれません」の意味です。言葉を使うと言うことはこういうことなのだということを、教師という職業に就く人間は日常的に意識すべきでしょう。)

第二のタイプは、何かを続ける人間です。第一のタイプが立ち上げた企画を長く続けられるように、しかもその有効性を損なわすことなく続けられるように、機能させ続ける人間です。慎重を旨としながら、コツコツと物事を進めて確実性を担保していく……そういうタイプの人たちです。

実は、「ふんばり力」という概念は、この二つのタイプのうち、後者のタイプにとって必要となる力です。前者がふんばっていないわけではないのですが、前者の人たちは自分がふんばっていてもふんばっていることにさえ気づかないほどに狂気に取り憑かれているのです。食欲も睡眠欲も忘れて、バランス感覚も気遣いも投げ出して狂気の世界に生きるわけですから、もともと「いまがふんばりどころだ」「ふんばってこの状況を打開しよう」などという感覚自体をもつことがないわけですね。

私は明らかに第一のタイプです。何かを思いついたら、それが完成するまで、少なくともある程度の形になるまで狂気のなかに生きるタイプです。ですから、何かを立ち上げてはだれかに預け、何かを思いついてはそれを形にするために奔走し……と、そういう生活を送っているタイプです。周りには私と同じような第一のタイプが何人かいて(山田洋一くんもその一人ですね。畏友石川晋もそういうタイプです。)、地元で一緒に活動している「研究集団ことのは」のメンバーには第二のタイプが多い、だから私はこういう人たちに支えられて自分の思いつくままに好き勝手に仕事をしていられる、そういう構造があります。

勤務校でも同様です。私の周りには私を支えてくれる実務に長けた人たちがたくさんいて、私のアイディアを採用してそれを形にしてくれる優秀な方々がたくさんいます。そして私には出世欲がありませんから、その成果はその仕事を実務として仕上げた先生方の功績にしてしまいます。私はそこから様々なことを学び、私の活躍の場(本を書いたり論文を書いたり研究会で提案したり学会で発表したりですね。)で考えたことを提案することができる、そういうWIN-WINの関係を築いているわけです。

ですから、正直なところ、私は「ふんばり力」というものと無縁に仕事をしている、それが実感です。

とまあ、勝手なことを書いてきましたが、すべての人たちが私のような生き方ができるわけではありません。ふんばらなくてはならない時もあるでしょう。その場合、ふんばりどころを見極める必要があります。すべてに対してふんばってしまっては、自分が壊れてしまいます。それだけは避けなくてはならないでしょう。人は仕事のためだけに生きているわけではありませんから。いまは若手教師のあなたも、いつかは結婚して子どももできるかもしれません。いまは元気な両親も、いつか介護が必要になっていきます。そういう時期が来たとき、自分が壊れてしまっていては、何のために生まれてきたのかわからないではありませんか。

「ふんばる」ということは、その仕事と真正面から対峙することを意味します。対象が子どもの問題行動や保護者のクレームであった場合にも、「ここがふんばりどころだ」「ここが正念場だ」と感じるということは、間違いなくその子や保護者と真正面から対峙していることを意味します。

まず、ふんばりの対象が人ではなく、仕事であった場合を想定してみましょう。最初に考えなければならないことは、その仕事が本当に自分が時間と労力をかけてやり遂げなければならない仕事なのかどうか、それをちゃんと考えてみなくてはなりません。

だれかの思惑に載せられて、たいして重要ではない仕事をやらされてはいないでしょうか。「流す」とか「流される」とか「サボタージュする」とかいう余地は本当にないのでしょうか。つまり、「はいはい」と聞き流していれば時が解決してくれるような仕事であったり、自分の力量や立場では解決しきれないような仕事で上司の判断で動くのが一番良い選択であるという仕事であったり、さぼっていれば「こいつはこの仕事をやる気がないんだな」と上司が諦めてくれそうな仕事であったり、そういう余地はないのかということです。「ふんばり力」を発揮するには、その仕事と真正面から対峙し、自分を犠牲にしなければなりません。その仕事にそれだけの価値がないのなら、自分にはふんばる必要などないのです。そこには冷静な判断が必要です。

しかし、人は、一度ふんばり構造に入ってしまうと、目に見える成果が出るか、もうどうしようもないほどに失敗して諦めざるを得なくなるか、そのどちらかに行き着くまでふんばり続けることになります。そうした自分が真正面から対峙しなければならない事案など、実はそうそうないというのが私の実感です。学年主任とか、生徒指導主事とか、教務主任とか、管理職とか、そういう立場になれば自分がふんばらなくちゃどうにも回らないという地点に立つことがありますが、若い読者の皆さんにとってはそういう場面はほとんどないのではないかと思います。

子どもの問題行動や保護者のクレームなど、相手が自分に対して真正面から挑んできた場合には、ふんばること、つまり自分も真正面から対峙することは多くの場合、マイナスに作用します。そういう場面で有効性を発揮するのは、「聞き流す」とか「ズラす」とか「煙に巻く」とか「ユーモアで包み込む」とか、「ふんばり力」よりも、むしろ「はぐらかし力」です。力むことよりも脱力することであることの方が多いのが現実なのです。

そのモデルは勤務校のベテラン教師のなかにたくさんいるはずです。その先生方は実は力量が高いのです。あなたが気づいていないだけです。

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