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2013年4月

教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則

121207cover新刊『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』堀裕嗣著・明治図書・2013年1月

2006年から温めてきたコンテンツです。僕の講演では必ず触れる、僕にとってビッグコンテンツでもあります。今回は明治図書からイクタケマコトさんとのコラボです。僕の代表作になると思います。それだけの価値のあるコンテンツと自負しています。今回は読者にわかりやすく、役立つようにという配慮も僕なりに尽くしています。

書評/きょんどう通信あこがれのベクトル天日干し思考えでゅぴりか水持先生の顧問日誌佐藤玄輝のブログすまいる☆まじっく教師の本棚教師力を高めるすぷりんぐぶろぐ(1)すぷりんぐぶろぐ(2)すぷりんぐぶろぐ(3)Kitto Hareruyo

まえがき

〈教師力ピラミッド〉を考案したのは2007年のことです。

時は前年末に設置された教育再生会議での議論内容が教育の話題の中心、やれ指導力不足教員だの、やれ不適格教員だのと喧しい世の中でした。一度学級を崩壊させたら指導力不足教員……、三度学級を崩壊させたら不適格教員……。授業を成立させられない教師は指導力不足……。大学入試問題を解けない高校教師がいる、明らかに教師としての基礎学力に欠ける……。マスコミは連日、そんな報道を繰り返していました。

一方、当時は保護者クレームが大きく話題とされた時代でもありました。グラウンドに落ちていた石を窓ガラスを割った子の母親が、グラウンドに石があるのが悪いと言った……。学習発表会の劇になぜ自分の子を主役にしないのかと、保護者が猛烈なクレームをつけてきた……。こんなありえないことがまことしやかに語られた時代でした。

どちらも私たち現場教師の実感とは距離のある、何とも形容しがたい政治と行政、マスコミの「つくられた物語」が闊歩する、そんな機運がこの国の学校教育を包み込んでいました。私は当時、なぜ自分たちはこんなにも責められなければならないのか、肩身の狭い思いをしなければならないのか、そう思わずにはいられませんでした。

そんなある日のことです。私の頭の中にふとある疑問が浮かんだのです。

「世間が抱いている理想の教師像ってどんな教師なんだろう……」

私はその全体像を知りたいと思いました。それがわかれば、何か手の打ちようがあるかもしれない、そう考えたのです。

しかし、どんな手立てを踏めばそれがわかるのでしょうか。数ヶ月の間、なんとなくもやもや感を抱きながら過ごしていた私は、ある瞬間、ひらめきました。

「そうか。世論の教師批判を分析して分類すればいいんだ。」

私はその日のうちに、教師批判の分析方法を考え始めました。ちょうどその頃、讀賣教育メール(読売新聞社が毎朝教育ニュースをメール配信してくれるサービス)が数年分溜まっていることに気づきました。私は膝を打ちました。これだ!

「讀賣教育メール」と名付けられたフォルダを開き、私は「教師」「不祥事」「いじめ」「体罰」「クレーム」などをワードに検索しました。ついでにYAHOO!でも同じことをしました。もう、ものすごい数です。

私はまず、モラル系の・犯罪系を取り除きました。教師が犯罪を犯したとか猥褻事件を起こしたといった類のものですね。教師が批判されている内容を分類しました。これはこういう理由で批判されている。ああ、こっちはこんな理由で批判されてる。おや?こっちは……。こんな感じです。

こうした出来上がったのが〈教師力ピラミッド〉です。第1章から詳しく述べていきますので、ここでその内容には触れませんが、私はこの教師力モデルをつくってみて、驚くべき現実に突き当たりました。

「ああ、こりゃ、すべての世論の要求に応えられる教師はあり得ない……」

第1章で〈教師力ピラミッド〉を実際にご覧いただければわかりますが、これらの要求のすべてに応えることはとても人間業ではありません。

しかし、そこで諦めないのが私の私たる所以です。私はせっかく曲がりなりにも「教師力」の全体像をつくりあげたのだから、なんとかこれらの要求のすべてに応える教育手法はないものかと考え続けました。教師修業のモデルとして提案しようか。いやいや、個人で目指すモデルとしては壮大すぎて現実性に乏しい。じゃあ、どうする……。

私は当時、学年3クラス、全校10クラスという小さな中学校で学年主任を務めていました。その立場が割と簡単にその答えをくれました。

「ああ、チームでこの教師力の全体像を機能させればいいんだ」

こうして、いまとなっては私の主張の根幹を成すともいえる〈チーム力〉という発想が生まれたのです。

私の考える「教師力」の全体像をじっくりとお読みいただき、ご批正いただければ幸いです。

【目次】

第1章 「教師力ピラミッド」で教師力をチェックする

第2章 基本モラルと生活スキルをもつ

第3章 友人型指導力で子どもとの関係をつくる

第4章 母性型指導力で子どもを優しく包み込む

第5章 父性型指導力で子どもの壁となる

第6章 事務力がなければ教職は務まらない

第7章 先見性・創造性が教師の評価を決める

第8章 チーム力を発揮しないと学校教育は成立しない

あとがき

〈教師力ピラミッド〉を一書にまとめようという想いを、この5年間、強く持ち続けてきました。自分なりにある程度の高い提案性をもっているとも自負していました。早く出したい。そんな想いもありました。

実は一度、出版が決まって途中まで書きかけたこともあります。本書とはまったく異なる体裁の、冒頭に〈教師力ピラミッド〉を解説し、あとはどちらかというと実践報告を中心とした内容でした。しかし、私は約4割ほどを書いた時点で、その原稿を捨てました。〈教師力ピラミッド〉が私の実践報告とともに語られたのでは、私だけの教師力モデルになってしまう……そんな感覚が私を躊躇させたのです。

以来、私は〈教師力ピラミッド〉をどのような形で世に問うかということを考え続けました。講演・講座では必ず語るコンテンツなのに、活字としては陽の目を見ていない、そんなコンテンツとして5年が過ぎました。「この内容は本になっているんですか」「これはいつ本になるんですか」と受講者に訊かれたことも一度や二度ではありません。

そんな私の大切なコンテンツが本になったのは、杉浦美南という若手編集者と出逢ったこと、そして彼女が私のたっての希望を聞き入れてイラストをイクタケマコトに依頼することを承諾してくれたからに他なりません。お陰様で、本書は私の実践を何一つ語ることなく、純粋に私の考える「教師力の全体像」を提示する本として仕上がりました。それも私が最も懇意にしているイクタケマコトのイラストに彩られて……。

本書のレイアウトは、私の本づくりとしてはかなりの冒険をしたつもりです。こういうレイアウトの本は世に溢れていますが、私には合わない、私には書けない、もっと言うなら私は書きたくない、と感じていたのです。文章は箇条書きのような短文を連ねる、本文以上にイラストが目立つ、とにかく私が本づくりにおいて最もこだわりをもっている、細かなところまで書き込むということがほとんどなされていません。まるでTWITTERに寄せる短文のようなものが羅列されている、といった趣です。

しかし、〈教師力ピラミッド〉は私の実践を語るわけではありません。あくまでも抽象的な解説で構成されざるを得ません。しかも一つのことを細かいところまで書き込むことよりも、いかに多様な視点を示すかというところに重きが置かれます。そうしたコンテンツを一書にまとめるには、こうした体裁がふさわしいのだと判断しました。このレイアウトの基本型は、あくまで私が考えたものです。私としてはかなりの冒険であるというのは、こうした意味においてです。

もちろん、私が想定していた以上に綺麗に見開きを構成することができたのは杉浦さんとイクタケさんのお力添えがあったからです。この仕上がりに他ならぬ私自身が驚いているというのが正直なところです。聞くところによると、杉浦さんとイクタケさんには、直接逢ったり何度もメールをやりとりしたりしながら、かなり細かな打ち合わせをしていただいたようです。この場を借りて心より御礼申し上げます。

時代は教師受難の時代です。と同時に、教師もチーム力の時代を迎えています。本書もまた、平成17~20年度に勤務した札幌市立上篠路中学校時代の同僚たちとの交流を基本イメージとして構成しました。ここでお名前は挙げませんが、改めて感謝申し上げます。

また、教師のチーム力の大切さを私に最初に提示してくれたのは、いまは亡き師匠森田茂之です。「生徒指導論」という講義レポートを書くにあたって、私がいわゆる現場上がりの大学教師である森田に、「先生、生徒指導で一番大切なことは何ですか」と訊いたところ、彼は間髪を入れず「それは教師の協調体制だよ」と応えました。その言葉からつたないレポートを書いた日がつい昨日のことのように瞼に浮かびます。ありがとうございました。

今後も実践と研究に勤しむことを決意致しまして、あとがきとさせていただきます。

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『スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』

121009coverスペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』堀裕嗣著・明治図書

教師に必要な5つの資質とは? 教師としての心構えから、学級経営、コミュニケーションの方法から伝え方の極意まで、力量アップの秘訣が満載。学級経営や生徒指導に悩む教師への応援歌。

まえがき

TWITTERを始めたのは2011年の春のことです。

学級経営や生徒指導など、教師としての仕事の在り方を140字以内にまとめて軽い気持ちでアップすると、思いの外多くの反応が返ってきました。一つツイートを上げる度にコメントが寄せられたり、お気に入りに登録されたり、リツイートされたり……。

最初はそうした反応がただおもしろくて、どんどんツイートを重ねていたのですが、次第に疑問を抱くようになっていきました。それは教師にとって耳ざわりの良いツイートについてはずいぶん多くの反応があるのですが、教師を批判するツイートについては明らかに反応がにぶいのです。

「ああ、この人たちは自分のツイートを癒やしに使っている……」

そんなことを感じたものです。

実は私のツイートには、無条件に教師を応援するものなど一つもありません。むしろ、一般的な教師の在り方に批判的なものばかりで構成しているというのが他ならぬ私自身の実感です。しかし、140字という限定された表現の在り方が、そしてひと目見ては流れていく情報としての処理のされ方が、私の意図を超えて耳ざわりの良いものに見え、口当たりの良いものとして機能してしまう……そういう現実がありました。

本書は、私がTWITTERでつぶやいたもののうち、リツイートの多かったものを40ツイート抽出して、それぞれに解説を施したものです。どれも学級経営や教師としての在り方の心構えを提示しています。その意味では教育技術の極意というよりは、教師としての構えの極意になっています。

私は既に、学級経営の技術については『学級経営10の原理・100の原則』を、生徒指導の技術については『生徒指導10の原理・100の原則』(ともに学事出版)を上梓しています。本書はそれらの教育技術がどのような理念・思想に支えられているのか、その基盤についてできるだけわかりやすくということを念頭に書きました。どうぞ両著とともにお読みいただければ幸いです。

本書は5つの章で構成しました。

第1章は「教師の資質」と題して、すべての教師が共通して目指すべき5つの資質について私の考えを述べました。「いつも笑顔でいること」「孤独に耐える力をもつこと」「無駄とわかっていることに取り組めること」「子どもといっしょに馬鹿げたことを一生懸命にやるのを楽しめること」「いつでも変われること」の5つです。私はこの5つをすべての教師が身につけたら、教育問題はすべて解決するのではないかとさえ感じています。

第2章は「教師の姿勢」と題した、子どもや保護者と接するうえでの心構え集です。教育現場でよく見られるネガティヴな事象を取り上げて、その対策がどうあるべきか、どのような考え方のもとに対応していくべきかについて述べています。

第3章は「教師の職場」と題して、主に同僚との関係をどのように築きながら仕事を進めていくべきか、その勘所について述べています。また、現在の職員室に多く見られるネガティヴな構造の所以を指摘するとともに、その対策もできるだけ提示しようと心がけました。

第4章は「教師の成長」、第5章は「教師の表現」と題して、若い教師がどのように力量形成を図っていけばよいのか、どのように表現を洗練させていけばよいのか、そのコツを私が経験した実際のエピソードや資料をふんだんに用いて、私なりの見解を提示したつもりです。

本書が右も左もわからない新卒教師に、若さで乗り切ることに限界を感じ始めた中堅教師に、最近の子どもがわからなくなつたと嘆くベテラン教師に、総じて学級経営や生徒指導に悩んだり不安を感じたりしているすべての教師に、少しでもお役に立てるなら、それは望外の幸甚です。

【目次】

第1章 教師の資質 力量アップの基礎-全ての教師が目指すべき5つの資質-

1.教師には5つの資質が必要である

2.いつも上機嫌な大人として立つ

3.孤独に耐えながらいつも笑っている

4.無駄もまた楽しむ

5.無意味も継続すると意味をもつ

6.自信がないと成長できない

第2章 教師の姿勢 心構えの極意-子どもや保護者との接し方-

1.ヒドゥン・カリキュラムを意識する

2.怒鳴ることは最終手段である

3.自分のキャラクターを分析する

4.成果を挙げるには続けなければならない

5.結果を出すことに貪欲にならなければならない

6.何でもできると思ったら大間違いである

7.コントロールしきることは不可能である

8.自らの経験を絶対視しない

9.子どもに「不意に」をつくる

10.自らの「在り方」を問う

第3章 教師の職場 コミュニケーションの極意-同僚との関係づくり・仕事の進め方-

1.学級経営は相対的に評価される

2.「正しすぎる論理」は括弧に括る

3.違いを認め合い、補い合う

4.教師も生徒も肯定的に見る

5.仕事の本質は「認められること」である

6.「おまかせします」と言ってみよう

7.「適度な抵抗」を乗り越える

8.脚本を書き演技しなければ評価されない

9.指導力不足教員に必要なのは研修であって排除ではない

10.「不在」を嘆かず、「不在」に飢える

11.死ぬくらいなら逃げてください

12.複数の師をもつ

第4章 教師の成長 力量アップの極意-自らの成長を実感しよう-

1.〈システム〉を構築してこそ一人前になれる

2.「健全な野心」をもつ

3.教師の敵は「慣れ」と「過信」である

4.発展途上人にこそ学ぶべきである

5.「徹底さ」と「大胆さ」をあわせもつ

6.四つの〈シコウ〉を旨とする

7.「自らの成長を実感すること」以上の楽しみはない

第5章 教師の表現 伝え方の極意-魂の載った言葉を語ろう-

1.一人で研究授業・研究協議をする

2.定番の自己紹介ネタをもつ

3.文章に教師の成長があらわれる

4.教師は文章を書き続けなければならない

5.魂の載った、生々しい言葉を語る

あとがき

編集担当の及川さんには申し訳ないのですが、いま、本書を書き上げてみて、「この本は売れないだろうなあ……」と感じています(笑)。

それは読者が知りたいだろうなあということを想定して書くのではなく、私が書きたいことを書き散らしたという感があるからです。これまでで私という教師の「人間」が最もよく出ている本になっていることは確かですが、それが教育書としてどうなのかと著者自身も懐疑的であるというのが正直なところです。

しかし、本書は何と言いますか、見ようによっては価値のある一冊なのではないか、という感慨を抱いてしまうのも確かです。それは本書が「本音だけでできている」という特徴をもっているからです。

一般に教育書を書く場合には、若者向きの本だからとか、世の中にはいろいろな教師がいるからとか、女性教師が読んでも実践できるような内容をとか、様々な要因で大袈裟に強調したりバランスをとったりということがあるものです。本書にはそうしたことが一切ありません。その意味では、少なくとも稀(まれ)な教育書ではあるかも知れません。

依頼をいただいたときには、編集者も著者自身もこんな本が出来上がるとはまったく想定していませんでした。しかし、「スペシャリスト直伝!」のシリーズに一冊くらい、こんな異色の構成の本があっても良いのではないかと、いまは開き直っています。

次の本はかっちりとプロットを立てて書くことをお約束するので、今回だけは許してください。 

さて、本書を執筆するにあたっては、学生時代から現在に至るまで、私が教師を志してから三十年近くにわたって書き残してきた様々な記録、資料を繙くことになりました。学生時代に書いたレポートから子どもたちの作文や同僚との写真、果ては恩師に向けて書いた弔辞に至るまで、資料庫になっているロッカーを引っかき回しました。この経緯があったおかげで、本書執筆が自分の教師としての力量形成を省みる、貴重な機会となりました。

思えば、教職を志して以来、多くの方々と出逢い、多くの方々の影響を受けてここまでやってきたのだと改めて深い感慨を抱いた次第です。これまでの書と異なり、お世話になった方々のお名前はすべて本文に掲載してありますので、ここで重ねてお名前を上げることは致しません。

しかし、1986年から2001年までの15年にわたって、私という人間を導いてくれた師匠森田茂之の影響を改めて実感する機会となったことは確かです。自分はこれほどまでに幸せな大学生活を送っていたのだな、あの四年間が間違いなくいまだに私を成長させ続けているのだなという思いが、腹の底から湧き上がってきた感じが致します。

森田よ、ありがとう。来世でまた一杯やるのを楽しみにしています。肴は相も変わらずホッケの開きとイカの一夜干しで……。

教師としての在り方は、その教師がどんな人と出逢ってきたかで決まります。私は幸いにも良き人たちと出逢い、いまなお熱心で有能な人たちに囲まれています。家族や友人はもちろん、職場でも研究会でもです。

今後、いまだ見(まみ)えていない人たちとどんな出逢いをすることになるのか、どんなふうにつながって、どんなものが生み出されていくのか、そんな期待に胸を躍らせる自分を実感しながら、あとがきとさせていただきます。 

布施明/シクラメンのかほり を聴きながら…
2012年9月10日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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4月30日(火)

1.2時間目は3組。「いろは歌」の筆記テストの追試、「竹取物語」の暗唱テストの2回目、口語訳の仕方。3時間目は2組。「竹取物語」の暗唱テストの2回目。内容の解説。口語訳の視写。空き時間は校外学習の参加意思確認書の作成・印刷、学級通信の作成・印刷など。午後は白石署の生活安全教室。放課後は学年協議会。学年旗のデザイン候補を選んだり、明後日の学年集会の司会原稿をつくったり。基本的には学年の若手教師に指導を任せる。勤務時間終了とともに退勤。連休の狭間は早く帰ると決意。

2.自分が動けば止まっていた時間が動き始める。時間が止まっているように感じられるのは自分が動かなかったせいだ。そんなことに気づく瞬間が人生に幾度もある。でも、なかなか動けない現実もある。そんなことを繰り返しながら少しずつ成長していく。長い目で見ればそれでいい。自分を責めてはいけない。

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〈公共性〉と〈共同性〉のバランス

民俗学的にいえば、〈共同体〉はケガレ(=異物)を共同体の外に排除しようとする機能をもっている。宮田登は明治から大正にかけて鉄道が全国に普及していくプロセスにおいて、「狸が機関車に化けて鉄路を走り本物の汽車とぶつかって死んだ」という世間話が全国に頻出していたことを指摘した。これは当時、この国に普及していく鉄道網が人々に異物として認知され、それがケガレに転移して捉えられたことを意味している。チョコレートが輸入される過程で「チョコレートは血を固めたものだ」という噂が広まったり、税制度が導入される過程で「血税とは血を税として取ることだ」といった噂話が流布したのも同じ構造である。それまでの自分たちの生活になかった西洋文化や近代制度を異物として認識し、そこにケガレを読み取って排除しようとする心象が、こうした噂話を流布させたのである(『物語消費論』大塚英志・角川文庫・一九八九年五月)。

〈共同体〉というとあくまで鄙(ひな)の話であり、山村の田舎町の話に過ぎないと思われるかもしれない。或いはあくまで近代に移行する以前のムラ社会の話に過ぎず、自分とは無縁だと思われることもあるかもしれない。しかし、そうではない。東京・大阪・名古屋といった全国的な中心都市であっても、或いは福岡・仙台・札幌といった地方の中心都市であってもこの構造と無縁ではないし、現在という時代状況においてもこの構造は意識的・無意識的に僕らを包み込んでいる。例えば、地方は常に都市のケガレを引き受けさせられる構造がある。原発が東京から離れた地域に置かれるのは、東京に必要な、東京が利用すべきケガレを自分たちに影響のないソトに排除しようという心象の表れである。ゴミ処理場や火葬場、在日米軍基地も同じ論理でソトへソトへと追いやられる。その結果が現在のこの国の産業地図である。僕は札幌に住んでいるのだが、泊原発が放射性物質汚染を引き起こしたときに風向きによってどこまで被害が拡散するかのシミュレーション地図を見て札幌の人たちが不安感を表明したときに、「札幌も危ない」とか「札幌は安心」とか言いながら、泊と札幌の間にある多くの市町村がまるで存在しないかのような議論を展開するのを聞いて、その感覚に驚いたことがある。

おそらく、かつてのハンセン病隔離やエイズ感染者差別はもちろん、高遠さんら三人のイラク人質に対するバッシングも地方巡業をさぼってサッカーに興じた朝青龍に対するバッシングも、どれもこれもみんな現代の人々に異物として忌み嫌われ、ケガレとして認知され、それが全国的な報道となってハレーションを起こしたのである。鉄道に恐怖し、チョコレートや全国一律の税制度を忌み嫌った集団心理と何ら変わりない。そもそも、僕らはここ数十年においても、あるファーストフード店のハンバーガーが猫の肉でできているとか、あるハンバーグレストランがアフリカの大型ミミズの肉を使っているとか、ある清涼飲料水を飲み過ぎると歯がとけるとか、様々な都市伝説を流布させてきたじゃないか。どれもこれも当時者の企業にとっては社運を脅かす話だったはずだ。僕と大沢美羽は当時ともにつくった〈共同体〉へのノスタルジーに互いに涙したのであり、軽口を叩いた若者は僕の研究会がもつ〈共同性〉からケガレ(=異物)として忌み嫌われ排除されたのである。それがどうしようもない日本人の習性なのだ。

この原稿を書いているのは平成二十五年の三月二十三日(土)である。僕は次年度、つまり一週間後から勤務校で一年生の学年主任になることが決定している。学年の担任団はとても若い。僕はこの一週間、その若い担任団でどのように学年を運営していくか必死で考え、様々な準備に奔走してきた。その間、初めて担任をもつ若い女性教師には、決して孤独にはしない、僕がやれることはすべてやるから安心して欲しい旨を伝えた。経験の浅い男性教師には、お前を全力で育てるから期待しろと励ました。学年運営の核となるであろう中堅の男性教師には、お前を信じて任せるから思った通りにやってくれと告げた。責任はオレがとるからとも告げた。すべては新しい学年団に〈共同性〉をつくることを目的とした発言である。少なくともその契機にしようとする発言である。そして僕は、自分がいくら孤独に苛まれようとも、彼ら彼女らを大切にしながら一年間を送るだろう。もちろんいくらかの人間関係トラブルはあるだろうし、うまくいかないこともあるに違いない。しかしそれでもなお、彼ら彼女らを大事にするというその一点だけは崩さないだろう。それがムラ社会の村長の仕事だということを僕が熟知しているからだ。しかしこんなことは特別優秀でなくてもわかることに過ぎない。僕じゃなくても、ただ日本人でさえあれば、直感的にわかってしまえることに過ぎない。僕らは仕事をするうえで、とにかく何はともあれ、〈共同体〉をつくろうとする。それが近道であることを知っているからだ。もちろん、〈共同体〉をつくらなくても仕事はできるだろう。「お互い大人だから……」とばっさり斬ることだってできなくはない。しかし、〈共同体〉をつくれなければ、この国ではその仕事が長続きしないこともまた僕らはよく知っているのである。こうした広い視座で考え、学年を運営することこそが学年主任の最重要の仕事なのだ。学年主任に限らず、人のうえに立つ者の最重要課題なのだと言っても過言ではない。

実は、子どもたちの人間関係も同じ構造にある。子ども集団で忌み嫌われるのはまずは何を措いても「何を考えているのかわからないタイプ」である。また、「自己チュー」や「空気の読めないヤツ」も嫌われる。すべて〈共同体〉の〈共同性〉から逸脱したと目される子どもたちなのだ。転入生がいじめのターゲットにされやすいのも同じ構図である。いじめを受けた側がいじめられても笑っていることがよく問題となるが、これも〈共同体〉から排除されることがいじめられること以上に辛いことだと認識されるからだ。八方塞がりになった子が自殺してしまうのも、おそらくは〈共同性〉から排除され、村八分にされることに耐えられない自分が想像されるからという側面があるのだろうと思う。すべて異物とケガレの排除と、一度排除されたら二度と戻ることができないという深刻さという、あまりにも日本的な〈共同体〉によるあまりにも日本的な〈共同性〉の問題なのだと言える。

事実、いじめ問題の解決にはこうした〈共同性〉を解体した方が良いという議論がある。例えば、内藤朝雄は中学校・高校も学級解体し、同調圧力を解体すればいじめは解消できるとの見解を示している。学級制度のない大学には深刻ないじめ問題がないではないかと(前掲『いじめ加害者を厳罰にせよ』)。確かに僕も学級を解体すればいじめ問題のかなりの部分が解消するだろうという見解に同意する。しかし、もし政策として学級を解体することが本格的に議論され始めたとしたら、現段階では強く反対するだろう。いじめ問題を解消するためにいじめ問題以上の問題を引き起こす可能性があると直感するからだ。大学では友人がいないと思われないように、いっしょに昼食を取る友達がいないときにトイレの個室で弁当を食べる学生が話題になっている。学問の出来不出来や将来設計の問題とは無関係な、友人のいるいないが大きな問題となって退学したり、アルバイト先の人間関係を優先することによって退学したりといったことが話題にもなっている。そもそも大学生は確かに学級制度のなかで生きてはいないものの、各種サークル活動によって群れる生活を送っているではないか。制度としての〈共同体〉が存在しない分、自らの意志によるプロジェクト的な〈共同体〉を組織したり所属したりということが頻繁に行われているではないか。これはやはり、大学生たちだって群れたいと思っているという傾向を示してはいないだろうか(『「意識高い系」という病』常見陽平・ベスト新書・二○一二年一二月)。

おそらく、中学・高校において学級を解体すれば、この「群れたい傾向」は発達段階から見てもっと顕著に現れてくるに違いない。そして大学サークルなんかよりももっと濃密な群れができあがっていくに違いない。所属するも自由。しないも自由、もちろん移動も自由、そうは言うけれど、多くの中高生の人間関係において、人間関係だけで組織にさえなっていない小グループにおいてさえ、その移動はままならない現実があるのだ。いじめ問題を解消するために、いくらその主たる要因になっているからと言って、別のシステムを解体してしまうという結論を出すのは早計である。学級を解体するか否かはいじめ問題だけを考えて判断して良いことではない。その他の考えられる要素をすべて検討し、総合的に判断したうえでないと政策としては採り入れられない。学校を舞台とした問題は決していじめ問題だけではない。内藤のような議論もまたいじめ問題という別の次元の〈共同性〉に縛りつけられ閉じられていて、もっと広い教育問題を総合的に考えないと判断できないような大きな問題にまで安易に判断してしまおうとする悪弊に陥っていると言わざるを得ない。内藤の論理は、少なくとも現段階では、内田樹が〈説明過剰〉と呼ぶ「その理屈では説明できないし、説明すべきでないことまで説明してしまうことによって、説明されることによって生成した局所的秩序を上回るような無秩序がそこに増殖してしまう」(前掲『昭和のエートス』)タイプの提案である可能性が高い。

この局所的秩序の維持ではなく常にそれを超えた全体を志向するようなベクトルで物事を捉え考える視座を、ここでは〈共同性〉に対置する概念として〈公共性〉と呼ぶことにしよう。内藤はいじめ問題の〈共同性〉に閉じられた議論を展開し、「学級の解体」というもしかしたら教育の〈公共性〉を損なう可能性のある提案を施している。学年主任は学年団の〈共同性〉をつくることに心血を注ぎながらも、自らはその〈共同性〉に浸かることなく常に〈公共性〉を意識しながら運営しなければならない。僕にとって両者はこんなふうに使う言葉だ。

僕が長年敬愛し続けている須貝千里という国語教育学者が、〈共同性〉の有限性を自覚することなしに〈公共性〉の問題を展望することはできないし、〈公共性〉の問題を抜きにして〈共同性〉の有限性を自覚することもできない、と指摘している(『これからの文学教育のゆくえ』田中実・須貝千里編著・右文書院・二○○五年七月)。人は自分の所属する場が全体において部分に過ぎないと自覚するからこそ全体とは何かを考えることができるのだし、全体を考えそれを基準に部分を相対化するからこそ自分の所属する場が全体にとって部分しかなく特殊であることをも自覚できる。また、人は自らの過去の経験が有限であると自覚するこからこそ、未来を展望するときに過去への相対化の視点をもち得る。しかし、人はこんなシンプルな原理を忘れてしまうほどに自分の「いま、ここ」に拘泥してしまう。それを正義として主張しさえする。その正義に懐疑の目を向けることをしなくなる。そして至る所で軋轢が起こる。軋轢を起こすことなく議論しようすれば、互いに互いの〈共同性〉に配慮しながら〈公共性〉を模索する過程のなかに常に自らを位置づけなければならないのだ。それを深く意識しなければならないのだ。こうした態度を日常の、当然の作法として身につけなければならないのだ。おそらく平田オリザはこうした態度を「対話の作法」と呼んだのだろうと想像する(前掲『わかりあえないことから』)。

僕は〈コミュニケーション能力〉とは、日本型な摩擦回避という〈共同性〉を前提としながらもその有限性を深く認識し、アメリカ型の自己主張力によって〈公共性〉の展望を図る力のことを言うのだと考えている。しかし、アメリカ型の自己主張力による〈公共性〉の展望もまた自らの〈共同性〉のなかにすぐにも回収されてしまうから、常にもっと広くもっと深くという永久運動のなかに自分を位置づける必要が出てくる。この永久運動の渦中にあれば、新たな自己主張が生まれた瞬間にもそれをもはや有限の〈共同性〉のなかにあると意識することができるようになる。そしてそれを意識した瞬間、新たな〈公共性〉への飢餓に囚われ、その意識は新たな〈公共性〉の展望へと向かわざるを得なくなる。

ここまでの議論をまとめよう。〈共同性〉はどちらかといえば〈情緒〉の安定に親和性をもち、〈公共性〉はどちらかといえば〈論理〉の先鋭に親和性をもつ。〈コミュニケーション能力〉とは私にとって、〈論理〉と〈情緒〉にバランスを取りながら〈共同性〉の有限性を自覚して〈公共性〉を展望する力のことであり、〈論理〉と〈情緒〉にバランスを取りながら〈公共性〉の無限性を自覚して瞬時に自らの〈共同性〉を自覚することができる、こうした永久運動に自らを位置づける能力のことであり資質のことである。そう。私にとって〈コミュニケーション能力〉sは、「能力」というよりは「資質」に近い概念なのだ。

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〈論理〉と〈情緒〉のバランス

人間ってのはそもそも矛盾した存在である。論理的に正しいことをしようとする自分と、情緒的に安定した生活を送ろうとする自分とが常に葛藤する存在である。たぶん社会で起こるすべて問題は、この〈論理〉の問題と〈情緒〉の問題との二つを基軸にして起こっている。少なくとも僕にはそう見える。

〈論理〉を重んじる人と〈情緒〉を重んじる人との間にはほぼ間違いなく軋轢が起こる。両者が子どもか大人か、或いは公的な場か私的な場かなどの条件によって激しい闘いになるか静かで冷たい闘いになるかの違いはあるけれど、職場でも家庭でも教室でも常にこの両者が軋轢を繰り返している。

日本人はもともと〈情緒〉を重んじることを習慣としてきた。何か大きな改革をしようとするとき、何か大きな判断を施そうとしたとき、それが顕著が出てくる。みんなが感情的に受け入れられる場合にはその改革案なり判断なりがすんなり通るけれど、そうでない場合、つまり一部に感情的に受け入れられない層が存在する場合には、様々に抵抗されることになる。その改革や判断がどんなに〈論理〉的に正しかったとしても、みんなの〈情緒〉の安定のために「今回は見送って取り敢えず様子をみませんか」というところに落ち着く。そして、このような、多数の〈情緒〉の安定を優先する無意識的な同調圧力のことをこの国では「空気」と呼ぶ。

この同調圧力構造はあまりに強固で、多くの人々の生命にかかわる問題であってもまったく変わらない。言うまでもない有名な例で採り上げるのもはばかられるけれど、山本七平は戦艦大和の出撃を決める軍部エリートが集まった会議でさえ、日本人がこの構造から逃れられなかったことを詳細に報告している(『空気の研究』新潮文庫・一九七七年)。もしかしたら、こうした構造はあくまで古いタイプの日本人の意識構造であり、現代は西洋的な自己意識をしっかりもった個人が〈論理〉で考える時代がきている、そう考える読者がいるかもしれない。しかし、まったくそうではない。

バブルの崩壊以来、日本は基本的には不景気が続いているが、この間、社会は次第に〈情緒〉よりも〈論理〉を優先しながら運営せざるを得なくなった。パイを奪い合わなくてもパイの方がどんどん増えて行ってくれる時代が終わり、本格的にパイの配分方法を考えなければならなくなった。〈情緒〉を優先していては破綻してしまうわけだから、〈論理〉的に正当と思われる配分のルールを決めざるを得なくなったのだ。その結果、政治にも企業にも家族にも、「生き残るためには仕方ない」「食べていくためには仕方ない」と〈情緒〉の安定を放棄する〈論理〉的な判断がはびこることになる。パイの奪い合いを回避するためにどのようにフェアに分配するかではなくどのようにパイを増量するかだけを優先させてきた日本人、「パイが増えているのだから多少の配分のアンフェアくらいには目をつぶろう、自分たちも自分たちなりに去年より多くのパイがあたるのだから目くじらを立てることはない」と考えてきた日本人も、もうそういう考え方では自分も家族も守れないのだということを理解しつつある(『昭和のエートス』内田樹・文春文庫・二○○八年一一月)。「失われた二十年」とは、このことを、この国の人々が腹の底から実感するまでに要した時間だったのだという側面がある。

そのおかげでこの国の人たちはすっかり不機嫌を日常とする人たちになってしまった。その結果、せっかくお金を払っているのに充分な満足を得ることができないようなサービスしか提供されなかったとき、クレームをつけても良いのだという「空気」が醸成されてきた。自分たちの税金で喰っていながらいまだに安定神話のなかで生きているように見える公務員に対しては、いくらバッシングしても良いのだという「空気」も醸成されてきた。どちらも、既に増量のあり得ない限られたパイを支払っているのだから、満足を得るのは当然の権利だという〈情緒〉が国民的コンセンサスに至ったことを示している。〈論理〉が突出するとそれに伴って〈情緒〉のバランスは崩れてしまう。その顕著な例と考えられる。

子どもたちもこの同調圧力構造と決して無縁ではない。一九八○年代中庸から学校内のいじめが社会問題になってきたが、いじめもまた教室の多数派の「空気」によって起こる。いじりいじられるのが楽しい、多少のからかいはコミュニケーションの潤滑油である、階層が下の者が生意気な態度をとるのは自分たちの精神的安定を脅かす悪事である、子ども集団にこうした無意識的な善悪の感覚があり、それが集団のなかにいじめを肯定する「空気」をつくり出す。更に集団のノリによってその空気が増幅し、深刻ないじめへと発展する。簡単に言えば、いじめはこのような構造で起こる(『いじめの構造』内藤朝雄・講談社現代新書・二○○九年三月)。

これがいじめの基本的な構造ではあるのだが、もう少し詳しく言うなら、いじめはその規模によって二つの種類に分かれている。

一つはほぼ学級や部活動の全員に近い人数が某かの関わりを示す大規模なものだ。これはその構成員のほぼ全員が被害者・加害者・同調者・傍観者の役割のどれかを担うことになる。いじめ加害の中心は森口朗が〈残虐なリーダー〉と呼ぶ、自己主張力と同調力が高く共感力に乏しいタイプの子どもだ。この子に〈お調子者キャラ〉や〈いじられキャラ〉と呼ばれる他人に同調することをコミュニケーションの主軸として生きているタイプの子どもたちが、まさしく同調することによっていじめは集団化していく。現在、こういうタイプの子どもたちが特に男子において学級の大多数を占めているから、いじめ加害は〈残虐なリーダー〉を中心に集団化しやすい。こうしたいじめ加害集団が自己主張ができなかったり周りのノリに同調することがなかったりする子をターゲットとして、あくまで〈ノリ〉として集団的ないじめを行う。ときには、先生の言うことをよく聞き、他人への共感性も高い〈良い子キャラ〉の子さえ、学校行事等の公的な場で特に目立ってしまったことなどをきっかけにいじめのターゲットとなることもある。〈残虐なリーダー〉は学級への影響力が高く空気の支配力も高いので、いじめ加害集団の行為に批判的な眼差しを向けている子どもたちも自分が次のターゲットにされてはたまらないという思いを抱き、傍観者化せざるを得ない。こうしていじめは大規模化し、学級組織や部活組織においてもはや人間関係、上下関係が固定化して攻撃性が加速度的に高まっていく。加害集団にとってそれは〈ノリ〉に従った〈遊び〉として意識され認識されているから始末に悪い。こうした構造を森口朗は自身の学校事務職員としての観察から詳細に分析している(『いじめの構造』森口朗・新潮新書・二○○七年六月)。

こうした学級組織や部活組織における〈コミュニケーション能力〉の是非を基準とした人間関係の上下関係、階層関係を俗に〈スクール・カースト〉と呼ぶ(『教室内カースト』鈴木翔・光文社新書・二○一二年一二月)。〈スクール・カースト〉は小学校高学年以上のある種の子どもたちにとっては絶対的な権威をもつ地位・階層を決める基準であり行動の基準である。しかし、この構造が最もやっかいなのは、大人社会では考えられないような断罪の基準となってしまうことだ。カーストの低い子がカーストの高い子にいわゆるタメ口をきいただけで「名誉毀損罪」に問われたり、カーストの低い子がカーストの高い子と廊下で視線が合ったというだけで「交視線罪」に問われたりといったことが、この〈スクール・カースト〉を基準に行われる。こんなことでいじめのターゲットが選ばれるとすれば、カーストの低い子にとってみれば学校は暴力的な専制君主国家以上に暴力的な場になってしまう(『いじめ加害者を厳罰にせよ』内藤朝雄・ベスト新書・二○一二年一○月)。

もう一つは、学級や部活といった公的で大規模な集団ではなく、そのなかにある私的で小規模な集団で行われるいじめだ。要するに、学級内にたくさんある小グループの仲間集団を想定していただけると理解しやすい。昨今、学級集団や学年集団のような中間集団に対する意識が子どもたちのなかでかつてと比べて希薄になってきていることがよく指摘される。その構図は地方自治体や町内会に対する大人の意識の希薄化と位相を同じにしているので、僕にはそれほど驚くに値しない現象のように思われる。しかし、地方自治体や町内会は個人個人にそれほど強く労働や帰属を強要しないけれど、学級は全員で力を合わせて取り組めと強要される行事が年に何度も行われる。その意味では学校教育としては困った現象の一つにはなっている。

さて、この小グループ。実は〈スクール・カースト〉とは真逆の徹底した〈フラット関係〉が求められることに注目しなければならない。だれも上位にあってはならない、だれも下位にあってはならない、いじったりいじられたりといった日常的なたわいない上下関係はあるものの、それはあくまで瞬間的であり、決して固定化されたものではない。いわば上下関係が潤いのある流動化されたものであるがゆえに、結果としてその構成員の〈フラット関係〉が保障されている、そうした小さな人間関係である。こうした人間関係では、お互いに瞬間的に空気を読み合い、キャラクターを演じながらその場でより楽しい空気を醸成していくことが求められる。互いに互いを傷つけることは決して許されず、互いが互いに優しい眼差しを向け続けなければならない。その意味で〈抗空気罪〉のようなものに非常に敏感な人間関係となる(『友だち地獄─「空気を世む」世代のサバイバル』土井隆義・ちくま新書・二○○八年三月)。

よく教師が仲の良い小グループにいじめが起こって驚くことがあるが、それはこうした人間関係のなかである子がそのグループの〈フラット関係〉を乱すような発言・行動をとったことに起因する。こうした小グループは〈フラット関係〉を絶対善としているがゆえに、その関係は常に微妙である。人間、どんなに努力しても〈フラット関係〉を維持するような動きばかりをとれるわけではない。ちょっとした冗談が他人を傷つけたり、ちょっとした言い過ぎが他人に腹を立てさせたりということを完全に避けることができないことなど、考えてみれば当たり前の話だ。しかし、この小グループはその完璧性を求める。だから端から見ていてはわからないが、暴力や暴言を伴わない小さないざこざが毎日のように頻発しているのが現状なのである。こうした小グループの一人からいじめの訴えがあって教師が指導に入って事情聴取をしてみると、よく加害者とされる子があの子が先に私を傷つけたのだと〈正当防衛〉を主張することが多いのはこのせいである。お互いにお互いを傷つけることを回避しようとしている人間関係において、たまたま教師にいじめられたと訴えた子はあくまで教師への告げ口という掟破りをしたのであり、私はそういう掟破りをしなかっただけで自分もあの子に何度も傷つけられたことがある、そういう論理である。この言い分は彼ら彼女らのなかでとてつもなく強固だ。空気を読み合う息苦しさの毎日のなかで、自分だけが悪者とされたことに徹底して抵抗しているのである。

学校や企業が若者たちに〈コミュニケーション能力〉を求めるとき、それがアメリカ型の自己主張力の方向であろうと日本的な摩擦回避の方向であろうと、こうした日常を過ごす若者たちにその能力を求めているのだということは大きく意識した方が良い。言わば彼ら彼女らは〈コミュニケーション能力〉という言葉を使わないだけで、〈コミュニケーション能力〉の評価し合いに疲弊しきっているのだ。そんな若者たちに「自己主張力をもて」とか「摩擦回避に気を遣え」とか言っても、「またか……」と溜息が聞こえてきそうである。〈論理〉と〈情緒〉のバランスを取りながら生きることに子どもの頃から疲弊しているというのが、この国の人たちの真の姿なのではないか。日常的に中学生に接している僕にはそう思えてならない。

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ベクトルの異なる〈コミュニケーション〉

実態のない言葉に囚われ、踊らされてはいけない。その最たるものが〈コミュニケーション能力〉という言葉だ。これほど実態を伴わないのに世の中を闊歩している言葉もない。僕は正直、そう感じている。そもそも、だれもがこんなにもこれからの時代に必要だと喧伝する能力だというのに、だれも〈コミュニケーション能力〉という語を定義してくれないなんておかしいじゃないか。「シンボルを創造しそのシンボルを介して意味を共有するプロセス」(『コミュニケーション学 その展望と視点』末田清子・福田浩子・松柏社・二○○三年四月)なんていう学術的な定義はあるけれど、世の中を闊歩しているこの語の用いられ方は、こんな学術的な定義からは遙か遠くにあると言わざるを得ない。それが現在(いま)を生きる僕らの実感である。

いったい〈コミュニケーション能力〉って何なんだ? 巷では「自分の能力、自分の良さをはっきりと主張できる力だ」とか「自分の意思を強く持って突き進んでいくことだ」とかいった方向性で捉えている人が多いような気がする。でも反対に、「人の気持ちを察しながら行動できることだ」とか「周りとのホウレンソウを大切にしながら協調していくことだ」とかいった方向性で捉えている人も決して少なくない。要するに、アメリカ型の自己主張力のベクトルで考える人と、日本型の摩擦回避のベクトルで考える人とがいるわけだ。世の中には〈コミュニケーション能力〉について、ベクトルの異なる二つの主張が相半ばして混濁し、僕らを混乱させているというのが現状なのではないか。

最近、平田オリザが両者を止揚する形で〈コミュニケーション〉を「対話の成立」と捉え、互いにわかりあえないことを前提に〈対話〉の作法を身につけることを提唱している(『わかりあえないことから』講談社現代新書・二○一二年一○月)。でも、これとて理屈としてはよくわかるけれど僕たちの感情が、どこか深いところから湧き出る感情がいま一つ納得させてくれない。おそらく僕たちはわかりあいたいのだ。そして、識者が何と言おうと、無意識のうちにわかり合えると思ってしまうのだ。そしてそれは僕らの親世代を見ていても毎日接している中学生を見ていても寸分の違(たが)いもない、世代を超えた現実なのだ。この現実をどうするかという臨床を抜きにして作法が大事などと言われても、理屈で頷きながらも感情が拒んでしまう。頭の理解と心の理解とに引き裂かれてしまう。それが日本人の性(さが)なのだからどうしようもない。

例えば、つい先日のことである。僕は勤務校の新校舎落成式典の打ち上げで、同僚やPTA役員、地元の市会議員らとともにホテルの宴会に出席していた。宴会も終わり、さあ、二次会と思った矢先、ホール係の女の子が僕に話しかけてきた。

「堀先生、覚えてますか?私、上篠路中でお世話になった大沢です。将太郎の妹で……」

顔をよく見ると、化粧をしてはいるけれど確かに四年前に僕が担任していた大沢美羽(みう)だった。僕は「美羽か!」と言って、瞬間的にその女の子を抱きしめていた。愛おしくて仕方なかったのである。美羽は涙を流しながら、「堀先生…」と何度も呟いていた。

実は僕は中学一年生の一年間だけこの子たちを担任して、現任校に転勤したのだった。卒業まで面倒をみなかったということが、どこかこの子たちを捨てたのではないかという贖罪の心理を抱かせる、そんな生徒たちの一人だったのである。その彼女が、僕が彼女自身を覚えていないとでも思ったのか、「将太郎の妹で……」とその前年まで僕が担任していた兄の名を出して想い出させようとしたのである。美羽と将太郎をセットで捉えているというイメージを彼女に与えている自分が情けなくさえ感じられた。

美羽は「堀先生…」としか言わなかった。僕は「美羽か!」としか言わなかった。言葉はそれだけだったけれど、間違いなく彼女は僕に「いまもあなたは私にとって大事な先生です」と言っていたのであり、僕は彼女に「いまでもお前をあの頃と変わらず愛している」と告げていたのである。そこには同僚やPTAもいたから、その後、髭面のおっさんが女子高生を抱きしめるなんていやらしい……と冗談半分にからかわれたが、僕は「何とでも言え」と開き直っていた。

日本的なコミュニケーション、わかりあえたという実感は、例えばこんなふうに僕らのもとに突然やってくる。こんな濃密なコミュニケーションを、互いを包み込むコンテクストと連動したノンバーバルコミュニケーションを実感として生きている僕らが、国際化社会だからわかりあえないことを前提に「対話の作法」を身につけなさいなどと言われても戸惑ってしまう。そう簡単に日本的な〈察しの文化〉は捨てられないよと感じてしまう。だって、わかりあえたという実感はあまりにも心地よいんだもの。

逆もある。こちらは数年前の話だ。僕が代表を務めるある研究会の若手男性メンバーが、この研究会に所属しているという理由によって勤務校で「いい気」になっているという話が僕の耳に入ってきた。ちなみに僕と近い、かなり信用できる筋からの話だった。更に聞くと、その若者は「オレは堀先生や○○先生と懇意にさせてもらってるんだぞ」と、お前とは格が違うとでも言うように自分より若い同僚に対して生意気な態度を取っているとも言う。更には管理職に同僚のミスを告げ口までしているという。僕はこういう「虎の威を借る狐」が大嫌いである。しかも、ある研究会に所属していることと実力があることとはまったく関係のない話だ。

しかし、噂はあくまで噂。僕はすぐにその若者に電話をかけ真偽のほどを確かめた。いろいろ言い訳をしていたが、どうやら本当のことらしいことが本人の弁でわかってきた。実力もないくせに虎の威を借るとは何事か。しかも、研究会の中心メンバーの個人名を出して、権威づけを施すなど以ての外だ。更に言えば、個人的には僕自身の名が出されていることも甚だ腹立たしい。

僕はその日のうちにこの若者を研究会から除名した。冗談じゃない。研究会にとってまったくプラスにならない。プラスにならないどころか、大きなマイナスだ。それもとてつもないマイナスだ。こんな人間とは付き合いたくない。誤解されないように言い添えておくと、僕の人生において、僕が自分の研究会から除名するなどという暴挙に出たのは後にも先にもこの若者しかいない。数ヶ月後にこの若者が僕らの主催する研究会に姿を見せ、謝罪とともにもう一度復帰させて欲しいと頭を下げに来たことがあったが、僕は「ここはお前の来るところじゃない」と追い返した。それほどに僕の怒りは激しかったのだ。

おそらく彼は自分の職場での軽口がこんなにも大きなことになってしまうとは、予想だにしなかっただろう。しかしこんなふうに、ちょっとした軽口が、しかも当の本人には見えない場所での軽口が、当人も驚くほどの致命的な結果をもたらしてしまうのも、いかにも日本的なコミュニケーションの在り方といえる。彼は僕らとの何年にもわたる付き合いのなかで、僕らの研究会がこうした「虎の威を借る狐」的行為を何よりも嫌い、公務との軋轢を避けながら自分たちの研究活動にできるだけ批判が集まらないようにするという基本姿勢をもっていることを察することができなかったのである。この件の裏にも、深いところにやはり〈察しの文化〉がある。言わば僕は、この若者に自分と同質の〈察しの文化〉がないことを感じ取り、彼とわかりあうことを拒否したのである。あまり良い話ではないことを承知で言うのだが、これもまた濃密なコミュニケーションの一例ではある。

先に、この国の〈コミュニケーション能力〉という語が、アメリカ型の自己主張力のベクトルと日本型の摩擦回避のベクトルとに引き裂かれていると述べた。僕は明らかに前者に主眼を置いて日常生活を送っている。事実、この原稿を書くうえでも、どのように伝えれば自分の主張が読者に理解されるだろうかと様々な手立てを考えながら書いている。そこに決して少なくない時間をかけて書いている。文章を書くうえでのルール違反を承知で裏話をすれば、大沢美羽と除名した若者のエピソードだって、幾つかの候補の中からこれが伝わりやすいだろうとかなり念入りに吟味して選んだものだ。手前味噌だが、僕は一般的な教師よりも自己主張力に優れていると自負している。しかし、そんな僕でも、ときにこんなふうに日本的な濃密なコミュニケーションに取り込まれてしまうのだ。

この国で〈コミュニケーション能力〉を考えるときには、この二つの異なったベクトルに引き裂かれるという独特の構造を抜きには考えられない。この認識に立たないことには、〈コミュニケーション能力〉を考えるスタート地点にも立てない。僕はそう思う。

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チューニングを合わせる力

だれもがこれからの時代に必要とされるのは〈コミュニケーション能力〉だと主張します。しかし、〈コミュニケーション能力〉の内実はあまりにも複雑で、しかもその人の性格や人間性と切り離して考えられないものです。「はい、そうですか」と簡単に身につけられるものではありません。

ただし、すべての教師が身につけなければならない〈コミュニケーション能力〉があります。これが身についていないと仕事にならない、これが身についていないと教師失格である、それが「チューニングを合わせる力」です。  子どもがFM電波で発信してきているのに、教師がAM電波で受信しているのでは、コミュニケーションは断絶してしまいます。あの子はFM電波、この子はAM電波という違いがあるのが子どもたちです。しかもそれぞれの子どもたちが何Hzで発信しようと教師はその電波にチューニングを合わせられる必要があります。

また、いまこの瞬間がAM電波で空気が醸成されようとしているのに、教師がFM電波で解釈しようとしているのではその空気が読めません。こういうときにもチューニング力が大切なのです。

よく職員会議において、いま議論されているステージの枠外から意見を言う先生がいますよね。この人、何言ってるんだろう……と場をぽかんとさせてしまう、そんな先生です。そういう先生がチューニング力をもたない人の代表と言えます。この先生は職員会議をぽかんとさせるだけでなく、子どもたちに対してもピントのはずれた、独り善がりの指導をして、生徒指導を混乱させているはずです。保護者に対応するときにも同じで、無用のトラブルを引き起こします。要するに、力量の低い教師、仕事のできない教師とは、「チューニングを合わせる力」に欠けているのです。

では、この世の中にはいったい何種類の電波があり、それぞれ何Hzの電波が飛び交っているのでしょうか。それは勉強すればするほどわかってくるものなのです。だれもが勉強を大切だと言うのはそういう意味なのです。

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打たれないほどの出過ぎる杭になる力

この力はすべての教師に必要とされるものではありません。人の上に立とうなどとは思わず、誠実に、小さくまとまりながら生きていく道というものも断固としてあります。そういう生き方が向いている人たちが一定数いるものです。私もそのことを否定しません。しかし、あなたはまだ若いはずです。「健全な野心」をもつことは正しいことです。

野心には「健全な野心」と「不健全な野心」とがあります。後者が〈位置エネルギー〉を志向するのに対し、前者は〈運動エネルギー〉を志向します。つまり「不健全な野心」とは、出世したいとか人を意のままに動かしたいとか、要するに自分の地位の高さ、立場の高さを志向するタイプの野心です。これを「〈位置エネルギー〉をもつ」と言います。これに対し、「健全な野心」とは、いつかあの人の見ているものを自分も見てみたいとか、いつかいま見えていない世界を見られる自分になりたいとか、常に「いまの自分」を〈過程〉のなかに位置づけているタイプの野心のことです。自分を動的な存在として位置づけるタイプの野心ですね。これを私は「〈運動エネルギー〉をもつ」と言っています。

〈運動エネルギー〉で動くと、様々な思いつきを具現化しようとしたり、様々な引っかかりにこだわってみたりということが日常になります。学校というところは〈位置エネルギー〉で動く人も決して少なくありませんから、周りの〈位置エネルギー〉派からは「出る杭」と見られます。〈位置エネルギー〉派の多くは、自分が〈位置エネルギー〉をもつために自分を殺し、自分を抑えてきた経験をもっていますから、基本的に「出る杭」を嫌います。

〈運動エネルギー〉で生きていこうと決めたら、これを跳ね返さなければなりません。しかも「出過ぎる杭」として十年程度は戦い続けなければなりません。「打たれないほどの出過ぎた杭」になれるのはそこに到達したときなのです。正直に言えば、長く辛い闘いを経なければ、「出過ぎた杭」にはなれないというのが、この国の普遍原理なのです。

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足許をすくわれる力

他人の足許をすくうことを「いじる」と言います。他人に足許をすくわれることを「いじられる」と言います。他人をいじる人は、適切にいじられる術を身につけていなければなりません。一方的にいじるだけでは、或いは一方的にいじられるだけでは、「いじりいじられる関係」が潤滑油として機能しません。そういう状態は「いじられる」側が我慢していることを意味しています。もはや「いじめ」です。

他人をいじる人は、須く適切にいじられなければなりません。足許をすくわれても笑っていられる度量をもたなければなりません。足許をすくわれても笑っていられることは、その足許をすくってきた相手の立場を理解できる人間だけです。その人にとって自分がどう見えているかを理解できている人間だけです。言わば、足許をすくわれても笑っていられる度量とは、自分を〈メタ認知〉できていることを意味するのです。

子どもが相手でも同僚が相手でも、適切にいじりいじられることは人間関係の潤滑油です。常にトップダウンで物事が動いている強権主義集団や、ボトムアップの名のもとに基準なく物事が決まっていく烏合の衆は、瞬間的にはある程度の成果を出すことができたとしても、必ず組織として崩壊していきます。1年間を安定的に過ごすことはできません。

人間関係が安定しているということは、実は常にフラットであることを意味しません。ときにAが上位でBが下位ということもあれば、何かをきっかけに次の瞬間にはBが上位でAが下位になる、そういう流動性が担保されている人間関係のことです。

世のなかには常に自分が上位にいたいという人が少なくありません。子ども相手だと、ほとんどの教師がそうなってしまいます。しかし、そういう人間関係は息苦しいのです。瞬間的な上位下位の人間関係を遊べる、そうした流動的な人間関係で笑える、そうした状態こそがフラットなのです。

繰り返しますが、そのキモとなるのは〈メタ認知〉の能力なのです。

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4月24日(水)

1.1組で「竹取物語」の暗唱テスト。5組・6組で小学校5年生の漢字。6時間目の学活は身体測定の事前指導&学力テストの得点通知表配付&進路指導。生徒たちは真剣に聞いていたが、どの程度わかっているのやら。

2.泣きたいときには泣くのがいい。それが精神衛生上、最もよろしい。浄化されるから。感動する映画を見たときには思い切り泣くのが健康にいい。これと構造的には同じ。ペルソナが染みついちまったら、それ以上のマイナスに苛まれるようになる。これ大事。とても大事。

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4月23日(火)

1.7組で「いろは歌」の筆記テスト&「竹取物語」の視写・音読・暗唱。3組で「竹取物語」の暗唱テスト。1組で「竹取物語」の解説。2組で「いろは歌」の視写&「竹取物語」の音読。空き時間は1時間。学年PTAの資料を印刷。17時に退勤。ところが学年Pの帳合がうまくいかないと若手から電話……。学校に戻る。

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流される力

他人に流されてはいけない。自分をしっかりもたなければならない。雰囲気に流されるのは恥である。あなたはそんなふうに感じていませんか?

例えば、よくあるのは、新卒として赴任したばかりの学校に「理想の教育とかけ離れている!」と感じたり、転勤したばかりの学校に対して「この学校は変だ!」と感じたりすることです。

私はこういう人に対して思います。

馬鹿を言うな。お前は何様のつもりだ。

あなたの「理想の教育」はほんとうに教育の不偏相なのでしょうか。あなたの「理想の学校」は前任校を基準とした、ただ自分にとって心地よいバイアスだらけの学校像なのではありませんか。

その学校がそういう学校であるのは、その学校がそうなるだけの「歴史」があるのです。その「歴史」を理解することなく、「この学校は変だ」とか「この学校を変えてやる」とか思うのはおこがましい。まさに「馬鹿を言うな。お前は何様のつもりだ。」と言われても仕方の無い態度なのです。

取り敢えず6ヶ月間、その学校の仕組みに従って流されてご覧なさい。そうすれば、その学校の現状にとってその仕組みが割とよくできた仕組みであることがあなたにもわかってくるはずです。「歴史」的につくられた仕組みとはそういうものです。6ヶ月経ってもそれがわからないとすれば、あなたにはそれを理解するだけの実力がないのです。黙って周りの先生に従うのが採るべき道です。なにせ、あなたには実力がないのですから。

その学校がなぜそういう仕組みを採用しているのか、それがわかれば、もっと機能させるにはどうしたら良いか、こうすれば少し前進させられるのではないか、そういうアイディアが生まれてきます。学校を改革することに着手して良いのは、そこまで到達した人だけです。

組織を改革できるのは、その組織を熟知している人だけです。狭い視野で判断せず、総合的に判断して改革案をつくることができる人だけなのです。

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4月22日(月)

1.1時間目は1組で、3時間目は3組で「いろは歌」の筆記テスト&「竹取物語」の暗唱。4時間目は2組で「いろは歌」の暗唱&「竹取物語」の暗唱。空き時間はTSUTAYAで学年のテーマソング候補のCDを借りに行ったり学年協議会の準備をしたり学力テストの点数入力をしたり。放課後は学年協議会。

2.学年協議会では学年スローガンを決め、第1回学年集会の企画を立てて分担を決め、更に学年協議会プロモーションビデオの撮影をし……と盛りだくさん。学年集会までの時間がなくて、今年はあまり凝ったものをつくれない感じ。生徒が帰った後、学年協議会関係の提案を教師用の提案プリントに作り替える。18:30退勤。今週は早く帰るぞ。

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サボる力

オススメの力として、第一に「サボる力」などというものを挙げるのは不謹慎だと感じられるかもしれません。しかし、「サボる力」はとても大切なのです。

こんなふうに考えてみましょう。

あなたは勤務時間内にうまくサボることができますか?

サボるためには仕事の在り方に余裕がなければなりません。いまサボったが故に、その分を取り返すために夕方から一気呵成に仕事をし、遅くまで残業しなければならないのではサボったことになりません。ましてやその分を休日出勤で賄うのでは本末転倒です。サボる時間を産み出すためには、実は目の前の仕事を効率的に片付けることが必要なのです。

もう一度、訊きます。あなたはうまくサボることができますか?

サボるためには実力が必要なのです。教師にはこのことを理解していない人が多すぎます。朝早く出勤し、夜遅くまで残り、土日も部活が終わったにもかかわらずなんとなく学校に残ってだらだらしている。それでいて「忙しい忙しい」と愚痴る。時間がなくて遊びにも行けない。出逢いの場がないから結婚もできない(笑)。あなたはそんなふうに思っていませんか?

私はよく、「それはあなたに実力がないからだよ」と一蹴します。くだらないこと言ってないで、勉強して実力を身につけろよと言いたいというのが本音です。

サボることを前提として自分の生活を見直してご覧なさい。金曜の夜は合コンに行き、土曜の午後はデートの時間と決める。日曜日はゆっくり休みながら、少しだけ趣味を楽しむ時間にする。ほら、そう決めるだけで、平日のすべての時間の有限性が見えてきます。時間が無限でないことが見えてきます。仕事にとって効率性が大切であることが見えてきます。

時間は産み出すもの、創り出すものなのです。この感覚を身につければ、勤務時間内にさえ余裕が生まれ、サボることができるようになります(笑)。

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4月21日(日)

1.なんだかなあ~という例会。でも、とてもリフレッシュ。新しい情報も多々。今後の展開も方向性もそれなりに決まる。こういう感覚が例会の醍醐味でもある。活きている時間。

Cover13042.新刊『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)のamazonでの予約販売が始まりました。本音、それもかなり深いところにある本音が書かれていて、読者の皆さんは驚かれると思います。僕の発想法もかなり紙幅をとって綴っています。

3.第21回国語科授業づくりセミナーin札幌/国語科授業づくりの原理・原則&教室ファシリテーションへのステップ/5月11日(土)/札幌市白石区民センター/3000円/堀 裕嗣・山下 幸他
http://kokucheese.com/event/index/83765/

4.いま十数年振りに「神田川」をリピートで聴いている。なんていい曲なんだろう。

5.昨日の例会の話題。メンバーの髙橋和寛くんは堀と石川の「エピソードで語る教師力の極意」を買い、山田洋一くんのは財布の中身が心許ないので来月回しということにしたそうだ。来月も更に3冊出るんだぞと言ったら驚いていた。明日買いますと言っていた。まあ、別に買わなくてもいいのだけれど。

Cover1304_26.【ある方の感想/「エピソードで語る教師力の極意」堀裕嗣著・明治図書】
予約し、楽しみにしていた本。堀先生のこれまでの教師人生と支えになる学生時代がギュッと詰まった本。若い時のエピソードには驚いたり笑ったり。学生時代やサークル活動を通じての、国語研究の深さには驚愕。難しい言葉がいくつも…。これが「本物」「専門」ということなのだろう。自分のタイプを認知し、意図的に逆へ行ってみたことも堀先生の魅力の一つではないだろうか。印象に残る言葉「書くことは成長の前提」「学びはできるだけ異質なものを対象に」「「教師人生の往路と復路」個人的には、あとがきにもぐっときた。

7.新刊「エピソードで語る教師力の極意」。おそらく僕の本のなかで最も提案性のある本だと思う。でも、最も読者にその提案性が伝わらないであろう本でもある。どうせ伝わらないんだから、難しいことも書いちゃえという執筆態度だったから、よけいに難しくなってしまっている。この本、僕は正直、「○○は読まなくていい!」と思っています。「○○」はさすがに具体的には書けませんが(笑)。

8.石川本と山田本を読んでみて感じたことは、二人ともちゃんとわかりやすいエピソードを抽出して書いているなということ。僕はやはりエピソードを書く表現者としては失格なのかもしれない。向いていないのかもしれない。かなり深くそう感じた。でも、文学系の読書家にだけは深い所まで伝わると思う。

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人間力

自分の「人間力」に自信をもってる人ほどやっかいな人はいません。

激しい人と言いますか、勢いのある人と言いますか、短気な人と言いますか、そういうタイプの人たちには割とそういう人を見かけません。こうした人たちは多くの場合、自分がエゴイスティックに動いていることを自覚しています。

やっかいなのは、自分が自分を犠牲にしながら他人のために尽くしていると考えているタイプの人たちです。或いは、優しさや思いやり、協力といったことがすべてに優先されると考えているタイプの人たちです。彼ら彼女らは自分だけでなく、周りの人たちにも自己犠牲を強いるようなやっかいな同調圧力を醸していることに気づきません。

「悪人がいかに害悪を及ぼすとしても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない」とはニーチェの言葉ですが、私はこの言葉に深く頷きます(『ツァラトゥストラかく語りき』)。偽善的な笑顔で「僕はこう思うなあ……」などと語りかけ、同調圧力で押しつけてこられるくらいなら、「これだけは守ってくれないと困る」「これを蔑ろにしたら許さない」とはっきり申告された方がわかりやすくてすっきりします。

もちろん、偽善がすべて悪いと言うほど私も子どもではありませんから、世の中に偽善が必要な場面がたくさんあることを私も知っています。優しい言葉やつくり笑顔の妥協は、それがたとえ偽善であったとしても人の心を安定させることというのが確かにあります。しかし、それは日常のなかにある種の厳しさがあり、基本的には張り詰めた空気のなかで過ごしているからこそ時宜を得た偽善が人を救うのであって、常に偽善に包まれた世界は窮屈すぎて人を萎縮させます。いいものはいい、ダメなものはダメ、それでも失敗してしまった場合にはその人を責めない、追い込まない、それが多くの人々にとって生きやすい世界です。

自分に自分の自然体を許す、他人に他人の自然体を許す、そしてあなたの自然体を私は許すから私の自然体もどうか受け入れてください、おそらく人間関係のキモはこういうところにあります。それ以外の人間関係はすべてどこかに無理があり、いつしかほころびが出て、最後に崩壊します。

恋愛に「この人を好きなっちゃいけないと思ったら恋の始まり、この人を好きでい続けなければならないと思ったら恋の終わり。」という言葉がありますが、人の好き嫌いなどというものは自然発生的に湧いてくるものであって、意志の力でどうにかできるようなものではありません。

私は子どもたちも同僚もほとんど嫌うということのない人間ですが、例えば私が学年主任になったとき、まず行うことは徹底的に学年所属の若者を指導することです。授業を1時間参観して細かな指導メモを取って渡す、数週間後にまた参観する。前回からの成長点を認め、克服されていない課題を指摘する。これを数ヶ月間続けます。たいていの場合、若い教師たちはみるみる私の指導を受けて入れて成長していきますから、彼らも次第に成長実感を抱いていきます。何より授業の機能度が目に見えて上がるとともに、私の指摘もだんだん減っていきますから、彼らも私の言うことを素直に聞くようになっていきます。そして、数ヶ月が経つと、もう私の力が授業を参観しなくても良い状態になり、あとは自分で成長していくしかないという段階にまで至ります。こういう状態になった頃には、若手は私を信頼するようになり、私もその若手を愛するようになります。それも自然にそうなっていきます。 学級経営も同じです。自分の学年に始めて担任をもつという若手がいる場合、私は毎日毎日、細かすぎるくらいに打ち合わせをし、その日の出来事をチェックします。その若手のためにというよりも、自分の学年運営がくずれてしまっては、私自身が学年主任としての責任を果たせないからです。しかし、これも1年を過ぎた頃には、私が細かく指摘する必要もなくなっていきます。そしてその頃には、私はやはり自然にその若者を愛しているのです。 私の言っていることがおわかりでしょうか。これが自分の学級を愛するのと同じ構造であることに、お気付きでしょうか。意志の力で愛そうとすることなど無理なのです。自然を待つのです。私はこのことを夏目漱石から学びました。

口はばったく、しかも照れもあるのでなかなか口には出しませんが、子どもたちが相手でも同僚が相手でも、リーダーに必要な資質はその人たちを愛することです。弱いところがあっても、できないことがあっても、不得意なことがあっても、それも含めて愛することです。それも自然に愛することです。それができない人間は人のうえに立ってはいけないのです。

偽善が偽善であるのは、愛していないのに愛している振りしているからです。だから「偽」なのです。答えは簡単です。「偽善」から「偽」を取ってしまえば良いのです。そういう状態になろうと無理するのではなく、自然にそうなるのを待てば良いのです。そのためには、あくまで仕事のうえで助けられる部分を助け続ければ良いのです。それ以外に道はありません。

最後に若い人たちへ。

中堅・ベテランから見て、一番困るのは、どうしようもなくなって八方塞がりになってからHELPを出されることです。八方塞がりになってからではどんなに優秀な教師も、どんなに優秀な管理職もなかなかその状態を修復できません。

私はよく、研究会のQ&Aのコーナーで「若手教師がまず身につけなければならないのはどんな力ですか?」と訊かれます。私は間髪を入れずに答えます。「それはHELPを出す力である」と。責任感を感じ過ぎず、意地を張らず、周りに迷惑をかけたくないなどと思わず、何か困ったなと感じたら即座にHELPを出す、そんな「甘える力」です。誤解を怖れずに言えば、日本的な「人間力」とは、「甘え上手になること」なのではないでしょうか。

若い頃に周りに甘えることのできた人は、中堅・ベテランになったとき、必ず周りを甘えさせる人になっていきます。甘えて良いのです。遠慮せずにHELPを出して良いのです。わからないことをわからないままにただ一所懸命に取り組んでみる。そこに何が生まれるというのでしょう。わからないことはまずわかることが先決なのです。わからない人にはまずわからせるために指導しなければならないのです。簡単な原理に過ぎません。

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4月20日(土)

1.やはり疲れていたのだろう。一日中寝てしまった。これから「研究集団ことのは」の4月例会です。長い一週間が終わって、疲れも癒されて、気持ちの良い土曜日の夕方です。

2.第21回国語科授業づくりセミナーin札幌/国語科授業づくりの原理・原則&教室ファシリテーションへのステップ/5月11日(土)/札幌市白石区民センター/3000円/堀 裕嗣・山下 幸他
http://kokucheese.com/event/index/83765/

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4月19日(金)

1.授業は2時間。1組がいろは歌の暗唱&学力テスト返却。4組が小学校4年生の漢字。空き時間は学級通信をつくったり野外学習関係の事務仕事をしたり。5校時は学年道徳。ガイダンスとして242名に対して「幸福の条件」。放課後は小中合同研修会でファシリテーター。更に野外学習の学年会……。

2.午後から学年道徳の授業、小中合同研修会のカフェホスト、勤務時間終了後に野外学習の係細案の学年会が2時間ほど、と3連発のフル回転。さすがに疲れた。4月5日に19日(金)にそういう日程が組まれて以来、この日を乗り切ることを取り敢えずの目標にしてきた。夜は小中合同の呑み会。アサヒビール園。やたら働いている

3.正直に言うと、5校時の学年道徳は準備なしで行う。枠組みだけのワークシートを1枚つくっただけ。小中合同研修会のカフェホストも準備なし。その場でテーマを決め、その場で判断してラウンドを一つ増やすなど流動的な運営。学年主任としては野外学習の学年会準備に時間と労力を注がざるを得なかった。

4.それでも道徳も小中合同研修会もそれなりに機能した実感がある。我ながら、自分には力がついているのだなあ……という感慨を得ることのできた一日だった。午後から自分が仕切る場が3連発、それも学年や学校を動かすものばかりというのはちょっと尋常ではない。僕の教員生活で最も忙しい一日だった。

5.「エピソードで語る教師力の極意っ」という本を出して、過去の教え子と楽しいひとときを過ごすことが多くなって、学級担任に復帰して毎日生徒たちと自分のペースで具体的な日常を過ごすようになって、学年の教師団と毎日笑い合いながらどうするかを考え合うようになって……。自分のなかに何かが回帰してくるのを感じている。何か確かなものが回帰してくるのを感じている。

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4月18日(木)

1.授業は3時間。2時間が「竹取物語」の冒頭を視写させながらノート指導。1時間が4年生の漢字。その他に学活で班ポスターづくり。空き時間は明日の学年会議題、野外学習関連の提案文書、学年PTA文書、明日の道徳のワークシート等を作成。放課後は野外学習の打ち合わせ。帰宅は20時。今日は早い。

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4月17日(水)

1.授業3時間。2時間がいろは歌の暗唱テストと学力テストの返却。1時間が4年生の漢字。小学校時代の漢字テストでレディネスを把握しようとの試み。午後からは新入生歓迎会。部活動紹介など。放課後は学年協議会。学級カラーの決定。その後、岩見沢へ。両親の顔を見て学校に戻り、野外学習の予算立て。

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4月16日(火)

1.朝から学級写真撮影。職員写真に職員が集まらず担当者が憤る。2組でいろは歌の暗唱テスト。空き時間が2時間。買い物や事務仕事、印刷など。7組で授業開きっ。午後は1組で授業参観、学級懇談会、PTA総会。更に学年の若手教師と打ち合わせ。その後、学年の若手教師二人と打ち合わせを兼ねて夕食。学校に戻り、副主任と打ち合わせ。帰宅は21時過ぎ。学年運営としてはかなり今後の目処の立った一日。
若手教師三人との打ち合わせ内容はたった一つ。この2週間で学年運営で腹が立ったこと、戸惑ったこと、自分には見えなくて困ったこと、そういうことがなかったか。直ちに修正するからオレを信じて伝えて欲しい、ということ。三人の戸惑いはすべて同じ。これを今週末の学年会で修正することを提案し、共通理解を図る。各々の提案の仕方、仕事の進め方の違いから生まれるズレを共通理解して修正する。これがとても大事。特に若者たちの「わからなさ」に配慮していないことっを中堅・ベテラン陣が自覚することがとても大事。これを修正できなかったら、学年メンバーの気持ちは次第次第にばらけていく。6月に危機が訪れ、11月頃に崩壊する。僕の経験上そういうもの……。
この時期のこの動きがとても大事。いくら疲れていてもここを蔑ろにしないことがとても大事。
大事。大事。とても大事……。

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4月15日(月)

1.本格的に授業が始まる。3組・1組・2組。いろは歌の暗唱&竹取物語の視写。5校時は学活。班ポスターのデザイン。6校時は全校集会。放課後は学力テストの採点。金曜日に忌引きをとった。本来なら金曜日に終わっている仕事だが、事情が事情なので仕方ない。採点終了後はダイソーで学級グッズの購入。これで明日から学級が昨日するだろう。一日休んだおかげですべてが一日ずつ遅れている感じ。今日で半日くらいは取り戻したかな?

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4月14日(日)

1.振り返ってみると、僕の人生は「綴ること」との格闘だった。学生時代の研究同人誌、教職に就いて以来の学級文集、演劇部顧問として創作した脚本、「研究集団ことのは」発行の研究同人誌、大学の紀要論文、学術誌掲載論文、商業誌の原稿、そして34冊の書籍……。
堀先生はなぜそんなに書けるのか、自分にはなぜ書けないのか、そういう質問をよく受ける。僕はこう答える。
「書けない理由はたった一つ。それは書かないからだ。」

2.採用を決定する教委や校長の評価をしっかりすること、そして実地指導する教師の力量をがっちり評価し指導すること、人間同士のやることだから相性の問題をしっかりと考えること。最低でもこの三つはやって欲しい。生半可な教師にはできないことだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130414-00000014-mai-life&1365904953

3.学事の担当編集者から3月期の売り上げデータが送られてきた。学事から上梓している5冊ともに驚くほどの好調な売れ行きを示している。ありがたいことである。

4.5月から月に一度、「教育新聞」に連載することになった。こういう仕事も悪くない。読者の反応もそれなりにあるだろうし。学級開き時期が終わり、授業関連の本が売れ始めている。「研究集団ことのは」の共著「音読」と「スピーチ」も動き始めている。3冊目の「聞き方」も初校を終えた。

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甘え

日本人は甘えられると断れない人が多いって知ってますか? 日本人は甘えられると断れないだけでなく、意外と頑張っちゃうって知ってますか?

異性でうーんと年上の先生。甘えちゃいましょう。

異性でうーんと年下の先生。甘えちゃいましょう。あっ、「若手教師編」だからそんな人いないか……(笑)。

同性でうーんと年上の先生。甘えちゃいましよう。それも「頼りにしてますオーラ」をばりばりに出して(もちろん、見透かされないようにためらいがちに出している演技は必要ですよ)、甘えちゃいましょう。

2、3年先輩の先生。異性でも同性でも甘えちゃいましょう。「先生なら若手の気持ちわかりますよね」って感じを出して、甘えちゃいましょう。

と調子に乗り過ぎた感もありますが、「甘えられる」ということはとても大切なことです。それは「ヘルプ」を出すことを意味するからです。後に「人間力」の項で詳しく述べますが、「ヘルプ」を出すことはとても大切なことなのです。

この原稿を書いているのは2013年3月26日(火)です。昨日が平成24年度の修了式でした。私は現段階で4月1日(月)から1学年主任になることが決定しています。現在、入学受付や入学式の準備、学級編制や年度計画、生徒指導の先生方の動きをつくったりと大忙しです。それでもついさっき、私はTWITTERで次のようにつぶやきました。

「新年度関係の文書を次々につくる。今日は4月3日まで乗り切った。明日は生徒たちと逢うところまでは行きたいなあ。それにしても、意外と僕のこれまでのやり方でやっていれば、ハイペースで仕事が進んでいくということがわかった。学級編制もほぼ終わった。特別活動のシステムもほぼ終わった。」

この文面を見ますと、すべてを私がつくっているように見えますが、そうではありません。学級編制は私の学年の男性若手教師二人がつくったのであり、特別活動のシステムは副主任の女性教師がつくっているのです。私は双方ともに打ち合わせには参加していますが、こうこうこういう方針でと言っただけで「あとは任せる」と言いました。この日私がつくったのはあくまで4月3日までの学年の先生方の動きと学年会提案文書だけなのです。まあ、それでもA4判(1枚あたり50字×55行/私はすべての提案文書を9ポイントでこの様式でつくります)15枚ですから、決して少なくはないですけれど。

10日ほど前でしょうか、私は新年度の体制がある程度見えてきたところで、若手男性教師二人には「学級編制を頼む」、副主任の女性教師には「全学級一致して取り組める学級組織・日直・当番活動・学級日誌等のシステムを作って欲しい」とお願いしました。「自分が一人でやっていては首がまわらない。かと言って、4月1日から始めたのでは間に合わない。」と説明しました。「ここは助けてください。お願いします。」というわけです。もちろん、どちらもその人ができると思ったからお願いしたわけですし、これまでこの3人の学級経営を見ていて、得意としている分野についてお願いしたわけです。だからこそ、ちょっとした打ち合わせで「任せる」とも言えるわけですね。

その結果、3人はそれらの仕事をこれ以上ないというほどにしっかりとやってくれました。4月1日(月)で充分に間に合う学級編制は3月26日(火)時点でほぼ完成しているわけですし、4月8日(月)で充分に間に合う特別活動のシステムは3月25日(月)にはほぼ完璧な形(当番表や点検表、学級日誌の様式等を含む二十数枚の文書)でできあがっていました。まだ学年組織も結成していないというのに、私はもうこの人たちといっしょに頑張ろうという気になっています。絶対にこの先生方と「いい思いをしよう」と。

まだあります。実は新年度の私の学年には、今年副担任で務めていて次年度初めて担任をもつ若手女性教師がいるのですが、今日、この先生にもお願い事をしました。

「実は、きみには初担任だから心の準備もあるだろうと思って新年度準備で雑務をさせないように配慮したかったんだけど、いろいろ新年度準備期間をシミュレートしているうちに、どうしても当てにしなければ回らないってことがわかってきた。いろいろお願いしたいことがあるんだけど、いい?」

彼女は笑顔で「はいっ」と答えてくれました。いろいろお願いをした後、「この件、完全に任せてしまってもいいかなぁ? わからないことがあったら、いつでも訊いていいから。」と確認しました。私が彼女に頼んだのは、他人にお願いするのが申し訳ないような雑務です。しかし、彼女は私がお願いしたことについて、その1時間後には段取りをつけてしまっていました。

私は教職23年目です。23年目でも、「困った」「自分だけでは回らない」と思ったら即座に「ヘルプ」を出すのです。できることはやってもらう。できないことはやってあげる。できればそれぞれの得意技を発揮してもらう。私にはそんな意識を強くもっています。こういうのが私にとって、「甘える」ということです。

若い読者の皆さんは驚くかもしれませんが、私は生徒にも甘えます。授業や学級活動で生徒たちと約束することがありますよね。授業なら「次の時間までにこれこれを用意しておくよ」とか「次の時間までに調べておくよ」とかいうこと、学級なら朝学活で「帰り学活ではこれこれをしなくちゃならないよ」とかいえ場合ですね。こんなとき、私は「オレ、忘れそうだから、授業の冒頭ですぐ言ってね」と学級全体にお願いしておきます。学級全体にお願いするだけでなく、「全員忘れたら困るから、亜希子、責任者ね」などと、しっかりめの生徒を指名して頼んでしまいます。「そろそろ、先生はその準備をした方がいいなあ……という時間帯になったら、例えば昼休みとかね、オレをつかまえて『先生、例の件、そろそろ準備始めないと間に合いませんよ』とか言ってくれると、もっと嬉しいなあ……」などと果てしなく甘えます。私が嘘つきにならずに済むのは生徒たちのおかげなのだと言っても過言ではありません(笑)。

読者の皆さんは既におわかりのことと思います。先生だって忘れないように保険をかける……。これは結果的に一つの指導となっています。そのうえ、コミュニケーションの一つの形、一つの潤いにもなっているのです。

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4月13日(土)

1.金・土と叔父の葬儀。従兄弟と話しながら、叔母と話しながら幼い頃のことを想い出す。初めて逢った従兄弟の娘がこの春から神奈川で教職に就いたと知る。身内から教員が出るのはなんとなく嬉しく感じるものだということを知る。父や母をこんなふうに送る日もそう遠くはないのだろうと感じる。

Cover13042.新刊『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)。とうとう刊行されました。僕が何を考えて教職を続けてきたか、若い頃にどんな悩みを抱いていたか、そんなことを書き綴りました。生徒、同僚とのエピソードもたくさん綴りました。

3.若い頃から「自分史」を語るようになったら実践人としては終わりだと感じてきた。今回、自分史らしきものを書いてみて、その不安がよぎる。今年は再び学年主任となり、それも上篠路時代と同じように若手教師ばかりを率いている。これまでの実践手法を大胆に壊そうと思っている。また破壊と再構築だ。

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4月11日(木)

1.1時間目学活。学級組織づくり。生活班ができあがる。2時間目は1年2組で国語の授業開き。「竹取物語」の視写・範読。3・4時間目は空き時間。今年度初の空き時間。学力テストの仕分け作業、事務仕事。5校時は学活。学級目標決定。奉仕班ができ、仕事分担も決まる。放課後は自己紹介カードの掲示。

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4月10日(水)

1.5時間授業。3時間目が学年集会であった他は4時間とも学活。1時間目は出会いのエンカウンター。2時間目は校舎巡り&簡単な中学校ガイダンス。3時間目は学年所属教師の自己紹介&生活・学習のガイダンス。4時間目は保健室&給食配膳要領。5時間目は学級委員選出&尿検査要領。くたくた。

2.放課後は若手教師と生徒指導の相談。新入生ガイダンスに関する昨日今日の内容の不備について担当者と次年度方針を打ち合わせる。健康留意生徒・アレルギー生徒などの個別対応の打ち合わせ。野外学習の大綱案打ち合わせ。野外学習大綱完成。帰宅は23時過ぎ。年度当初、学年主任は「いる」のが仕事。

3.リーダーはそこに「いる」ことが仕事。いつもそばにいること自体が仕事。僕のような人間には向かない仕事。でも、仕方がないことだし、いまのところ嫌ではない。仕事だからで嫌でないのではなく、そこに僕がいることを求めている人がいるのだから、いるのが当然なだけだ。求められているからいるのだ。

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California Dreamin'

かつて開拓者たちは東海岸に上陸し、西へ西へと目指した。その意味でカリフォルニアは庶民の夢の象徴である。その証拠にハリウッドもディズニーランドもカリフォルニアにある。西部劇も西を目指す。高みを目指す人を見ると、いつもこの曲が浮かぶ。僕の生まれ年の大ヒット曲だ。

California Dreamin'  /堀裕嗣・訳

All the leaves are brown and the sky is gray
 枯れ葉舞う空は鉛色

I've been for a walk on a winter's day
  こんな冬の日に散歩に出る
I'd be safe and warm if I was in L.A.
     L.A.は暖かいだろうか
California dreamin' on such a winter's day
 こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る

Stopped into a church I passed along the way
 教会に立ち寄って
Well I got down on my knees and I pretend to pray
 跪いて祈ってみるけれど
You know the preacher likes the cold
 牧師は寒いのも悪くないというけれど
He knows I'm gonna stay
 ここに残れともいうけれど
California dreamin' on such a winter's day
 こんな冬の日はカリフォルニアを夢見てしまう

All the leaves are brown and the sky is gray
 枯れ葉舞う空は鉛色
I've been for a walk on a winter's day
 こんな冬の日に散歩に出る
If I didn't tell her I could leave today
 今日にでも発ちたいのにそれもできない
California dreamin' on such a winter's day
 こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る
California dreamin' on such a winter's day
 こんな冬の日はカリフォルニアを夢見る
California dreamin' on such a winter's day
 こんな冬の日はカリフォルニアを夢見てしまう

http://www.youtube.com/watch?v=jnPFk4WvtKU

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TSUNAMI No.1

TSUNAMI

札幌市立北白石中学校1年1組 No.1
2013.04.09 学級担任 堀 裕嗣

西暦2000年度。きみたちの生まれた年です。2000年4月から2001年3月までの1年間、これを2000年度と呼びます。20世紀から21世紀へと至る、記念の年度でした。

全国的には、時の総理大臣小渕恵三(おぶち・けいぞう)氏が亡くなったり、佐賀の西鉄バスジャック事件が起こったり、北海道では雪印の集団食中毒事件があったりと暗いニュースもたくさんありましたが、この年のシドニーオリンピックで柔道の田村亮子(たむら・りょうこ)選手がやっと念願の金メダルを獲ったり、マラソンの高橋尚子(たかはし・なおこ)選手が金メダルを獲って一躍人気者になるなど、みんなに元気を与えるスポーツ選手の活躍が目立った年でもありました。そうそう。巨人の長嶋茂雄(ながしま・しげお)監督(当時)の背番号が「3」に戻り、皆さんのおじいちゃん世代が懐かしさに涙したのもこの年です。

この年のミュージックシーンはバラードの流行が特徴でした。福山雅治の「桜坂」、浜崎あゆみの「SEASONS」、MISIAの「Everything」、小柳ゆきの「あなたのキスを数えましょう~You were mine」、SMAPの「らいおんハート」、倉木麻衣の「Secret of My Heart」など、後世に遺る数々の名曲を輩出した年なのです。きっと、皆さんのお父さん、お母さんもこれらの歌を口ずさみながら、皆さんが生まれてくるのを心待ちにした時間を過ごしたに違いない……そんなふうに想像します。これまた余談ですが、皆さんのおばあちゃん世代が大好きな演歌歌手の氷川きよしがデビューしたのもこの年です(「箱根八里の半次郎」2000年2月2日)。

ちなみに堀先生はこの年、市内の円山地区にあるとある中学校で2年生を担任した1年間でした。いまはもう、既に27歳になっている子どもたちです。もちろん全員が社会人。全国のあちらこちらで活躍しています。皆さんの14年後ですね。想像できますか?

さて、この年の最大のヒット曲。それがこの学級通信のタイトルとして選んだ、サザンオールスターズの「TSUNAMI」でした。サビはこんな歌詞です。

      見つめ合うと素直にお喋り出来ない
      津波のような侘びしさに I Know…怯えてる Woo
      身も心も愛しい女性(ひと)しか見えない
      張り裂けそうな胸の奥で悲しみに耐えるのは何故?

きっと皆さんのお父さん、お母さんのだれもが口ずさむことのできる、そのくらいの大ヒット曲です。何せこの曲はこの年だけでCDの売り上げが300万枚を超えました。この数字は歴代でも第1位。要するにこの曲以上に売れたCDは歴史上ないのです。皆さんはそんな曲の生まれた年に誕生したわけです。学級通信のタイトルを「TSUNAMI」とした理由の一つ はそういうことです。

もう一つは、皆さんも含めて、私たちが決して忘れてはならない出来事を心に留めながら生きていって欲しい……という堀先生の願いを込めています。そうです。2011年3月11日(金)の私たちにとって忘れられないあの日のことです。皆さんも既に小学校4年生を終えようとしている時期でしたからはっきりと記憶しているはずです。

過去は心を豊かにもしてくれますし、悲しみとともに新たな決意を呼び起こしてくれるものでもあります。これからの1年を、過去になったときに心を豊かにしてくれるような、そして決意を新たにする糧となるような、そんな1年にしていけたら……そんなふうに思っています。

将来、想い出すに値する1年をいっしょに創っていきましょう。

【学級担任】
堀 裕嗣(ほり・ひろつぐ/国語科)
昭和41年4月7日生/47歳/出身:北海道湧別町
帯広柏葉高校卒。北海道教育大学札幌・岩見沢校修士課程国語教育専修修了。
セ・リーグは中日、パ・リーグは千葉ロッテ。日ハムは嫌いではありませんが、バリバリのアンチ巨人です。小学校3年生からの岩崎宏美ファン。趣味は読書と音楽と寝ること。好きな作家は武田泰淳・三島由紀夫・村上春樹、音楽はSTINGとBRUCESPRINGSTEEN。好きなドラマは「相棒」。
妻と2匹のミニチュアダックス(♂&♀)と暮らしています。北白石中学校に赴任して5年目を迎えます。1学年の学年主任。担当する仕事は生徒指導。授業は1~3・7組を担当。

【データ・ファイル】

2000年
4月 小渕恵三首相脳梗塞緊急入院(2日)
   森喜朗内閣発足(5日)
5月 佐賀17歳・西鉄バスジャック事件(3日)
   ウラジーミル・プーチン大統領就任(7日)
   小渕元首相死去(14日)
   森首相「神の国」発言(15日)
6月 雪印集団食中毒発覚(29日)
7月 そごう民事再生手続き(12日)
   新紙幣2000円札発行(19日)
8月 新500円硬貨発行(1日)
9月 ディズニーランド
    「プーさんのハニーハント」オープン(1日)
   シドニーオリンピック開幕(15日)
   女子マラソン高橋尚子金メダル獲得(24日)
10月 白川英樹ノーベル化学賞受賞(10日)
   巨人、ダイエーを下し日本シリーズ優勝。
    ON対決、Nに軍配(28日)
11月 ペルーフジモリ政権崩壊(19日)
12月 BSデジタル放送開始(1日)
      20世紀最終日(31日)

2001年
1月 21世紀初日(1日)
   中央省庁再編(6日)
   ジョージ・ブッシュ大統領就任(20日)
      インド西部地震2万人犠牲(26日)
2月 宇和島水産高校実習船「えひめ丸」事故(9日)
3月 ユニバーサルスタジオジャパン開園(31日)

その他
①年間ヒットチャート(2000年)
  1位 TSUNAMI/サザンオールスターズ
  2位 らいおんハート/SMAP
  3位 Love, Day after Tomorrow/倉木麻衣
  4位 夏の王様/Kinki Kids
  5位 桜坂/福山雅治
  6位 あなたのキスを数えましょう
           ~You were mine/小柳ゆき
  7位 サウダージ/ポルノグラフィティ
  8位 慎吾ママのおはロック/慎吾ママ
  9位 SEASONS/浜崎あゆみ
  10位 孫/大泉逸郎
②流行語大賞(2000年)
   大賞 おっはー/IT革命
  特別賞 最高でも金、最低でも金
  その他 官対民/Qちゃん/17歳 etc
③ファッション
   腰パンの流行/ユニクロの流行
④ベストセラー
    ハリーポッターと秘密の部屋
⑤ゲーム
    プレイステーション2発売
    ファイナルファンタジーⅨ
    ドラゴンクエストⅦ
⑥テレビ
    大河ドラマ 葵 徳川三代
    「相棒」放映始まる
    SPEED解散/倖田來未デビュー etc

【保護者の皆様へ】
・大切なお子様。確かにおあずかり致しました。1年間、よろしくお願い致します。
・明日から給食があります。ランチマット、エプロン、三角巾(大きめのハンカチ)、マスクの御用意をお願い致します。
・できましたら、BOXティッシュのご寄付(1家庭1箱)をお願いできないでしょうか。25箱くらいあれば1年間が過ごせるのですが……。強制ではありません。よろしくお願い致します。

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4月9日(火)

1.70分に及ぶ学活。その後、60分程度の入学式。更に30分程度の学級保護者懇談会。久し振りに担任として動く半日。ああ、この1年間、いっしょに過ごす子どもたちなのだなあ……と感慨深いものがある。ラーメンを食べに行った後、60分ほどの学年会。その後、様々な事務仕事。保護者連絡など。

2.マーガレット・サッチャーが亡くなったらしい。「鉄の女」と呼ばれたが、僕にはむしろ「鉄の意志」が印象的な女性だった。御冥福をお祈りしたい。

Cover130313.拙編著『教室ファシリテーションへのステップ1 目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・研究集団ことのは著・明治図書)が第2刷となりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。

Cover130324.拙編著『教室ファシリテーションへのステップ2 目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・研究集団ことのは著・明治図書)が第2刷となりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。

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4月8日(月)

1.着任式。始業式。学年会。教室整備。学年会。教室清掃・整備。教室のグッズを揃える。4年振りの担任。1学年。そして学年主任。他の6人の担任陣は若い。7人の担任の平均年齢が32.1歳。私が47歳になったのだからに、他の担任がいかに若いかがおわかりかと思う。腕の見せどころである。明日は入学式。

2.これまでの準備。

昨年度6月に今年度の1学年主任を打診される。それ以降、今年度の1学期の登壇オファーをすべて断る。
3月11日(月)
新学年団のメンバーがほぼ決まる。
3月13日(水)
学年の副主任(女性)に特別活動関係のシステムづくりを依頼。また、学年の生徒指導の核となる教師2名(ともに男性教師)に学級編成を依頼。
3月14日(木)
学年に担任として所属することになる他学年の若手教師に授業を見せてもらうことを依頼。一人(女性)が18日(月)に、もう一人(男性)が21日(木)に決定。
3月15日(金)
卒業式後に副主任と新学年の方針の摺り合わせ。
3月18日(月)
... 若手女性担任の授業を1時間参観して指導。副主任・学級編成担当の2名とともに4人で学級編成方針を打ち合わせる。
3月19日(火)
校長から新年度人事仮発表。学年運営方針(裏文書)をつくり始める。
3月20日(水/春分の日)
自宅で学年運営方針(一次案)を完成させる。
3月21日(木)
若手男性担任の授業を1時間参観して指導。新年度担任5名(未着任の1名を除く)に『必ず成功する「学級開き」』を配付。学年運営方針(一次案)を配付。
3月22日(金)
旧3学年の呑み会があったので、学級編成担当2名と本音ベースで運営方針を摺り合わせる。
3月25日(月)
修了式。新年度人事正式発表。副担任も含めて新学年メンバーに『教師力ピラミッド』を配付。副主任から特別活動システム一次案が上がってきたので打ち合わせ。また、学年運営方針一次案についても打ち合わせ。直ちに修正して完成。
3月26日(火)
新年度準備のこまごまとした仕事を若手担任2人(男女各1名/授業の指導をした二人)に依頼。二人ともすぐに取りかかってくれる。入学受付要領を完成させる。
3月27日(水)
新任者打ち合わせ。学年に配属される教師陣と打ち合わせ。学年運営方針を渡して説明、『教師力ピラミッド』を渡す。担任となる1名には『必ず成功する「学級開き」』も渡す。学年運営のために無理をお願いすることが多くなるので、教務主任と二人で飲みに行って根回し。これで学年独自のルール違反がルール違反にならないようになる。
3月28日(木)
学年一致の学級組織、学活計画、学年集会計画などを作成。
3月29日(金)
副主任と特別活動第二案を検討。学級編成担当の二人と学級編成の検討。新学年の職員室の座席配置、年度当初の仕事分担などを決定
4月1日(月)
学年会1回目。新入生受付準備。昼食に出られないので弁当を頼み、私が払う。学年団は特別支援学級担当や退職後の再任用教員、養護教諭等を含み、7学級としては超異例の総勢19名。16時過ぎから担任7人で学級編成の決定。
4月2日(火)
年度当初の学年会2回目。その後、生徒氏名を覚えるために担任陣で名札の仕分け作業。
4月3日(水)
年度当初の学年会3回目。その後、生徒氏名を覚えるために担任陣でゴム印の仕分け作業。
4月4日(木)
年度当初の学年会4回目。その後、生徒氏名を覚えるために担任陣で保健関係文書の仕分け作業。全担任が自学級の生徒氏名を覚える
4月5日(金)
職員会議後、名箋・座席表等の準備。第1回学年懇親会。屯田屋敷。19名全員が参加しての4時間の大宴会。その後、23時過ぎから9名で二次会。帰宅は2時過ぎ。
4月8日(月)
着任式・始業式。学年会で今週の動きを確認。生徒指導のラインを確認。すべての学活の動きを細かく確認。教室装飾・清掃・整備。学級編成の発表掲示物。学級グッズを配付。スタート準備完了。明日は入学式。

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見透かし

「見透かし力」も大切ですが、それ以上に大切なのは「見透かされ力」です。自分にやる気がないことを、自分がサボりたいと思っていることを、自分が待つことに耐えられずイライラすることを、自分が面倒なことにかかわりたくないことを周りに見透かされ、しかもその指摘を聞き流すことができるようになると、自分が楽をできるのみならず、仕事が滞ることもなくなっていくます。

「まったく、堀先生はこんなことにもイライラしちゃうんだもんねえ。仕方ないわねえ(笑)。」と、僕の代わりに笑ってその仕事をやってくれる女性教師の存在は、間違いなく私の仕事と精神を充実させます。「じゃあ、甘えちゃうね。今度、おごるからね。なんか食べたいもの、考えといて。」とでも言えば、社会は充分にまわるのです。

「いやあ、ダメだ。もうダメだ。この単純作業に耐えられない。手伝ってよ~」と向かいに座っている男性同僚に大きな声で言ってみる。すると、周りにいた先生方が寄ってきて、「堀さん、何さ。どしたのさ。」と手伝ってくれるものです。

私は職員室で、そんな日常を過ごしています。人に頼ってはいけない、人に見透かされるのはプライドが許さない、そんな完璧主義で、いったいどれだけの仕事ができるというのでしょうか。そういう完璧主義では実は何もできないのです。一人でできることなんてたかがしれてるのですから。

人に見透かされて笑っていられる人は、人を見透かしても笑ってもらえます。人を見透かして何かを指摘しても、喧嘩にならないのです。「そうなんだよなあ。なんか良い方法ない?」などと、逆にヘルプを出されてしまうほどです。こんな人間関係ができてしまえば、たいていのことはうまく行きます。むしろこういう人間関係がないために、職員室で多くの軋轢が起こるのではないでしょうか。

さて、「見透かし力」です。

私は他人に対してわざわざ見透かそうとしなくても、見透かせるものだと思っています。見透かされないように頑張ろうとすること自体、どだい無理な話なのです。そして見透かされないことではなく、見透かされるのが当然であり、見透かせることが当然であるという発想に立てば、世界は変わります。簡単に言えば、弱さを認める、苦手な分野を認めることができるようになるのです。

人の多くの悩みは〈見る自分〉と〈見られる自分〉との矛盾によって起こります。要するに、自分ではこういう人間だと思っている自己認識と、周りの人たちにこういう人であると他者からの評価との間にズレが生じている状態ですね。この状態に陥りますと、「自分は自分だ」と我が儘になるか、周りの評価に合わせて窮屈な感覚で毎日を過ごすことになるかのどちらかです。社会生活を送るうえでの自分の陰に、「ほんとうの自分」がいるという感覚に陥るのもこの構造によってもたらされます。

ところが弱い部分は弱い、できないことはできない、苦手な領域はこれとこれだということが自分と周りとの間に共有され、お互いにネガティヴな部分をフォローし合う関係が築けるようになると、人間関係は安定していきます。お互いの得意・不得意を理解し合っている関係、つくるべきはそういう人間関係なのです。詳しくは拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)を御参照いただければ幸いです。

もう一つ、教師の「見透かし力」で大切なのは、子どもを対象としたものでしょう。この子はこう見えるけれど実はこういう子、という子どもを評価する視点ですね。

これを考えるとき、多くの教師は子どもの見取りに必要な観点は何か、つまりどんな風に子どもたちを観察すれば適切な評価ができるか、そういう発想で考えます。しかし、私はこの発想が既にダメだと感じてます。まず、自分の目を疑う。すべてはそこから始まります。どんなに力量を高めたところで、一人の人間の見る目などというものはたかだか知れているのです。私が大切にしているのは「複数の目で見る」ということだけです。

私が「いい子」だと思っている子が、他の教師から見ると「裏のある子」と評価されていることがあります。そのズレは私に様々な認識をもたらしてくれます。例えば、私がその子を「いい子」と感じていたのは、私とその子との関係があまりにも良いために、その子自身が私の前では「いい子」のお芝居をしているのかもしれません。例えば、その子が生徒指導担当の私を怖れているために、私の前ではテキパキと物事をこなしているのかもしれません。例えば、その子が私の指導したことを具現しようとするあまり、他の子たちにもそれをさせようとして自己中心的に他の子のミスを指摘し続けているのかもしれません。いずれにしても、人が人を評価する場合、両者の間にある人間関係のコンテクスト(ここでは「状況」くらいの意味と捉えてください)と切り離せないものなのです。

小学校教師には少々きつい言い方になりますが、一人の教師の目など所詮その程度のものなのです。この構えをもっているか否かによってこそ、実は子どもたちへの評価の観点というものが広がったり深まったりするのです。教師は職員室で具体的な子どもの話をたくさんすべきとよく言われますが、それはそういうことなのです。自分の目を過信しない、自分の正しさを過信しない、見透かせるなんて思わない、教師としての基本のキです。

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4月5日(金)

1.朝、担任陣を中心に4Fに昇り、清掃指導のシュミレーションをしながらいっしょに教室清掃をしてみる。その後、出逢いのエンカウンターのワーク。これも実際に流してみながらシミュレーション。10時半から職員会議。議題はいつもの量の3倍。昼休みをはさんで4時間半びっちり。夜は学年の年度当初の懇親会。19時から19人全員が集まっての大宴会。二次会が終わったのが2時半。この一週間の疲れもあって、さすがにどっと疲れたけれど、良い一日だった。学年としてはこれ以上ないスタートを切った感じだ。

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4月4日(木)

1.午前中は校務部会。午後は学年会。その後、生徒指導の対応について若手教師たちと打ち合わせ。今日は19時に退勤。明日は一日中職員会議の後、呑み会。

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4月3日(水)

1.午前中は校務部会。小中合同の昼食会。小中連携委員会。午後は学年会。その後、仕分け作業。学活計画の細かな詰め。帰宅は22時過ぎ。実に久し振りの超残業。しかし、同僚と議論、議論、議論……。活きている時間を目一杯過ごした残業。こういう時間は何より楽しいし有意義である。

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かかわり

いま、この原稿を東京のホテルの部屋で書いています。昨夜は日江井雄大くんという名古屋在住の新卒の高校教師と杉山史哲くんという若き起業家と3人で、横浜中華街で中華料理に舌鼓を打ちました。

日江井くんとの付き合いは2年ほど前、愛知教育大学で行われた学級経営のセミナーに招かれた折、彼がそのセミナーの事務局を担っていた一人で、それ以来の付き合いです。当時、彼はまだ学生でした。その彼が教職希望の学生を集めて各地で開催されている教育フェスタという催しの創始者で、私に是非逢わせたいというので、3人で呑んだわけです。4時間ほどの間、話はあちらこちらへと弾み続け、とても楽しい夜になりました。今後、何かが生まれそうな予感さえ抱きました。

私はなぜ、杉山くんと出逢うことができたのでしょうか。それは私が愛知のセミナーで逢っただけの日江井くんを大事にしたからです。別に「こいつはだれかと出逢わせてくれるヤツだ」という打算があったわけでもありませんし、そのセミナー自体では「何か見所のある学生だ」と感じたわけでもありません。強いて言うなら、出逢ったから大事にしたのです。それだけのことです。しかし、それだけのことが新たな出逢いを呼び寄せるのです。

私の行きつけの店に「いづ屋」という小料理屋があります。新卒で担任した田口陽子という教え子が旦那さんといっしょにやっている店です。カウンターが十席程度の小さなお店です。私はたまたま偶然に人に連れられてこの店に行き、陽子と再会し、それ以来、行きつけの店になったのです。陽子に二人目の子どもが生まれ、陽子自身は店に出なくなっていますが、旦那さんだけのこの店に私は通い続けています。いまでは陽子以上に旦那さんの方が親しいくらいです。

いづ屋の3軒隣に、「ともえ屋」という小さな居酒屋があります。これまたカウンターが十席程度の小さな店です。いづ屋と同じビルの同じ階、私より一つ年上のママさんが一人でやっている店です。このママさん、実は私が2003~2004年度に担任したある女子生徒の保護者です。この女子生徒とのメールのやりとりのなかで、母親が店を始めたから行ってみてと言われたので実際に足を運びました。それ以来、なんとなく常連になっています。

すすきのにJOE'S BARというBARがあります。いづ屋やともえ屋の入っているビルから徒歩3分くらいのビルの地下にあります。このBARも私は常連なのですが、ここの経営者は私の新卒から2年目・3年目の教え子水尻健太郎が経営しているBARです。同窓会で二十数年ぶりに再会し、名刺交換をするとBARをやっているというので足を運び、そのまま常連になりました。

いまの私にとって、少人数で人と逢うときには、だいたいいづ屋で夕食を済ませ、二次会はともえ屋かJOE'S BARに行くというのが定番になっています。だって、どうせ飲食代に金を払うのなら、知らない人に払うよりも知っている人に払う方が良いではありませんか。わざわざ知らない人にお金を払う必要などありません。ついでに言えば、私の家の近くにある私のよく行く居酒屋「亀八」は私の勤務校の保護者の店です。セミナーの打ち上げもそこでやることにしています。

学生時代、私の師匠は森田茂之という40歳そこそこの研究者でした。教官のなかに潟沼誠二先生という幸田露伴と民俗学を専門とする五十代の強面の先生がいました。私は4年間、なんとなく潟沼先生を避けていました。なにせ口うるさくて怖そうでしたから(笑)。

その後、十数年が経って森田が若くして亡くなり、私は大学院に進学する機会を得ました。ここで私は潟沼先生と親しくお付き合い、というかお世話になることになります。私は潟沼先生が親しみやすい先生であったことに、卒業から十数年経って気づかされます。また、研究的にも私が学びたいと思っていたものをたくさんもっていたことに気づかされます。私はただただ、なんで学生時代に潟沼先生からもっと多くを学ばなかったのかと後悔しても後悔しきれない思いを抱きました。若いということは馬鹿なことにこだわって機会を逃してしまうものだ、そう強く感じました。

私の言いたいことがおわかりでしょうか。

若いときには、なんとなく年配の先達に近寄りがたさを感じて、学ぶチャンスがあるにもかかわらずそのチャンスを逃してしまう、ということになりがちです。若手教師の時代には、職員室にいる怖そうな先生との交流を避けてしまうということもよくあることです。

逆に、自分がある程度の年齢になってくると、若い人をなめてしまい、学びの対象とはしない傾向に陥ります。しかし、私は昨夜、日江井くんから新卒教師独特の悩みを聞き、杉山くんからフェスタの立ち上げの経緯や起業の苦労話を聞かせてもらい、たいへんな学びを得ました。いづ屋では教え子夫婦から世代特有の感受性や商売をやっていくうえでの構えを聞き、ともえ屋では同世代特有の共通感覚に気づき、JOE'S BARではバイトの若い女の子との会話も含め、すすきので働く人たちがどんな人生を送り、何をプライドに生きているのかを学ばせてもらっています。

店主をよく知っているということは、その店の常連客と親しく話をする機会も増えるということを意味します。もう二度と会うことのないお客さんであったとしても、人と話をすることが何の学びももたらさないということはあり得ません。私は田口陽子夫婦だったから、ともえさんだったから、水尻健太郎だったから通っているわけではないのです。知っている人が店をやっているから、ただ通ったのです。それが結果として、私に学びをもたらしたのです。日江井くんだったから大事にしたのではなく、出逢ったから大事にしたのだというのと、まったく同じ論理です。

最近、私の両親が介護施設に入所しました。私はその施設に通いながら、施設長や併設されている病院のお医者さん、たくさんの介護士さんたち、入所しているおじいちゃん、おばあちゃんたちと出逢いました。そして、私はいま、彼らを大事にしようと思い始めている自分を感じいます。

生徒であろうと保護者であろうと同僚であろうと、良い人だから、気が合うから大事にするのではありません。出逢ったから大事にするのです。こういうシンプルな思いこそが「かかわり力」なのだと感じます。

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4月2日(火)

97847619180881.拙著『学級経営10の原理・100の原則』(学事出版)の第6刷が決まりました。刊行から2年超。ロングセラーになりつつあります。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。

2.朝から校内人事の変更で奔走。それでも9時かに始まって10時には形になる。校務部会。学年教師団で亀八にて昼食会。一つの学年団が総勢19名。これはさすがに初体験。それにしても多い。午後は学年会。更に学年内の打ち合わせと細かな作業。運営委員会。特別支援教育関係の打ち合わせ。激疲(笑)。

9784761918484s3.拙著『生徒指導10の原理・100の原則』(学事出版)が第6刷になりました。こちらも刊行から2年近く。ロングセラーになりつつあります。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。

4.今日は4月2日。全国の先生方に言いたいこと。今日という一日。「今年はどんな学級にしようか」と技術を中心に仕事を考えましたか?それとも、「どうしたらみんなのためになるかな」「どうしたらみんなが困らないかな」とチームを中心に仕事を考えましたか?僕はこのあたりにその教師の1年間の分岐点があるように感じています。

5.前者は2ヶ月間くらいを乗り切れますが、6月くらいに疲れ始め、11月くらいに同僚に対する不満が心の中に溢れ始めます。後者は最初は同僚との考えのすり合わせにあたふたしますが、6月くらいにチーム意識が形づくられ、10月、11月くらいの苦しい時期もみんなで頑張れる体制になっていきます。

6.この岐路において進むべき道を決めるのは、管理職の、或いは主任クラスのリーダーシップと、覚悟をもってのチームビルディングの思想です。「思想」とは私にとって理念と人間性とを併せた概念です。

7.今日は新年度2日目。そもそもこんな日に学級のことを考えられるということは、全体を動かすような校務分掌が当たっていないことを意味する。とすれば、それは管理職や同僚に全体を動かすような仕事を与えて良い人材であると評価されていないことをも意味する。そういう側面がある。これがすべてではないけれど、こういうことは意識した方がいい。

8.そういう立場が許されるのは新卒と転任者だけだと思った方がいい。新卒2年目なら、まともな教員であればフル回転させられるはずだ。

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ふんばり

世の中にはふた通りの人間がいます。

第一のタイプは、何かを始める人間です。無から有を産み出す人間と言っても良いかもしれません。何かに興味をもつとある種の狂気に取り憑かれ、苦労を苦労とも思わずに突き進み、何かを創ってしまう……そういうタイプの人たちです。(もちろん、人間は歴史的な営みの中で生きていますから、いかなる人間も無から有をつくっているわけではありません。しかし、ここでは、取り敢えずそういう哲学的な問題は括弧に括って読み進めていただくことを前提としています。それが「……と言っても良いかもしれません」の意味です。言葉を使うと言うことはこういうことなのだということを、教師という職業に就く人間は日常的に意識すべきでしょう。)

第二のタイプは、何かを続ける人間です。第一のタイプが立ち上げた企画を長く続けられるように、しかもその有効性を損なわすことなく続けられるように、機能させ続ける人間です。慎重を旨としながら、コツコツと物事を進めて確実性を担保していく……そういうタイプの人たちです。

実は、「ふんばり力」という概念は、この二つのタイプのうち、後者のタイプにとって必要となる力です。前者がふんばっていないわけではないのですが、前者の人たちは自分がふんばっていてもふんばっていることにさえ気づかないほどに狂気に取り憑かれているのです。食欲も睡眠欲も忘れて、バランス感覚も気遣いも投げ出して狂気の世界に生きるわけですから、もともと「いまがふんばりどころだ」「ふんばってこの状況を打開しよう」などという感覚自体をもつことがないわけですね。

私は明らかに第一のタイプです。何かを思いついたら、それが完成するまで、少なくともある程度の形になるまで狂気のなかに生きるタイプです。ですから、何かを立ち上げてはだれかに預け、何かを思いついてはそれを形にするために奔走し……と、そういう生活を送っているタイプです。周りには私と同じような第一のタイプが何人かいて(山田洋一くんもその一人ですね。畏友石川晋もそういうタイプです。)、地元で一緒に活動している「研究集団ことのは」のメンバーには第二のタイプが多い、だから私はこういう人たちに支えられて自分の思いつくままに好き勝手に仕事をしていられる、そういう構造があります。

勤務校でも同様です。私の周りには私を支えてくれる実務に長けた人たちがたくさんいて、私のアイディアを採用してそれを形にしてくれる優秀な方々がたくさんいます。そして私には出世欲がありませんから、その成果はその仕事を実務として仕上げた先生方の功績にしてしまいます。私はそこから様々なことを学び、私の活躍の場(本を書いたり論文を書いたり研究会で提案したり学会で発表したりですね。)で考えたことを提案することができる、そういうWIN-WINの関係を築いているわけです。

ですから、正直なところ、私は「ふんばり力」というものと無縁に仕事をしている、それが実感です。

とまあ、勝手なことを書いてきましたが、すべての人たちが私のような生き方ができるわけではありません。ふんばらなくてはならない時もあるでしょう。その場合、ふんばりどころを見極める必要があります。すべてに対してふんばってしまっては、自分が壊れてしまいます。それだけは避けなくてはならないでしょう。人は仕事のためだけに生きているわけではありませんから。いまは若手教師のあなたも、いつかは結婚して子どももできるかもしれません。いまは元気な両親も、いつか介護が必要になっていきます。そういう時期が来たとき、自分が壊れてしまっていては、何のために生まれてきたのかわからないではありませんか。

「ふんばる」ということは、その仕事と真正面から対峙することを意味します。対象が子どもの問題行動や保護者のクレームであった場合にも、「ここがふんばりどころだ」「ここが正念場だ」と感じるということは、間違いなくその子や保護者と真正面から対峙していることを意味します。

まず、ふんばりの対象が人ではなく、仕事であった場合を想定してみましょう。最初に考えなければならないことは、その仕事が本当に自分が時間と労力をかけてやり遂げなければならない仕事なのかどうか、それをちゃんと考えてみなくてはなりません。

だれかの思惑に載せられて、たいして重要ではない仕事をやらされてはいないでしょうか。「流す」とか「流される」とか「サボタージュする」とかいう余地は本当にないのでしょうか。つまり、「はいはい」と聞き流していれば時が解決してくれるような仕事であったり、自分の力量や立場では解決しきれないような仕事で上司の判断で動くのが一番良い選択であるという仕事であったり、さぼっていれば「こいつはこの仕事をやる気がないんだな」と上司が諦めてくれそうな仕事であったり、そういう余地はないのかということです。「ふんばり力」を発揮するには、その仕事と真正面から対峙し、自分を犠牲にしなければなりません。その仕事にそれだけの価値がないのなら、自分にはふんばる必要などないのです。そこには冷静な判断が必要です。

しかし、人は、一度ふんばり構造に入ってしまうと、目に見える成果が出るか、もうどうしようもないほどに失敗して諦めざるを得なくなるか、そのどちらかに行き着くまでふんばり続けることになります。そうした自分が真正面から対峙しなければならない事案など、実はそうそうないというのが私の実感です。学年主任とか、生徒指導主事とか、教務主任とか、管理職とか、そういう立場になれば自分がふんばらなくちゃどうにも回らないという地点に立つことがありますが、若い読者の皆さんにとってはそういう場面はほとんどないのではないかと思います。

子どもの問題行動や保護者のクレームなど、相手が自分に対して真正面から挑んできた場合には、ふんばること、つまり自分も真正面から対峙することは多くの場合、マイナスに作用します。そういう場面で有効性を発揮するのは、「聞き流す」とか「ズラす」とか「煙に巻く」とか「ユーモアで包み込む」とか、「ふんばり力」よりも、むしろ「はぐらかし力」です。力むことよりも脱力することであることの方が多いのが現実なのです。

そのモデルは勤務校のベテラン教師のなかにたくさんいるはずです。その先生方は実は力量が高いのです。あなたが気づいていないだけです。

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4月1日(月)

Cover13041.新刊『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)が近刊案内に掲載されました。4月10日の刊行です。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-137315-3

2.昨夜逢った教え子の女の子(23歳/高校教師)は会話の中で「○○くん、蒸発したんですよ」というべきところを「○○くん、発情したんですよ」と言っていた。僕がその間違いを指摘すると、赤面することもなく「間違いは誰にでもある」と平然と言ってのけた。うーん、強い。僕ならその言い間違いには耐えられない。

3.明日から新年度。何より大切なのは張り切りすぎないこと。年度当初こそやるべきことを粛々とこなしていくべき。主任や管理職になったのなら、何より大切なのはうろたえないこと。上がうろたえると下の者が浮き足立つ。これは子どもたちに向き合う学級担任にもいえること。ドーンと構えて粛々と。

4.山田洋一ってヤツはたいしたもんだな。今日が共著本の締切だったのだが、あんなに遅れていた原稿を間に合わせやがった。たいしたもんだ。締切に間に合わなかったといじり倒してやるつもりだったのに、非常に残念でもある。

5.ここ2年間、膨大な量の原稿を書いてきて、自分でもなんとなくエッセイを書く能力が高まってきているなあ……と感じている。自分の文章力が高まっていると自覚するのは十数年ぶりのような気がする。これをこうしてこんなふうに書いてやろうと計算しなくても、すーっと綴れる感じが出てきている。

6.堀裕嗣×山田洋一の共著本。ざっと原稿を斜め読みしてみた。手前味噌ながら良い本になったなあという印象がある。これはそれなりに売れるかもしれない。少なくとも、僕の『教師力アップ 成功の極意』よりは良い本になっている。肩の力が抜けている印象がある。刊行されるのは6月くらいだろうか。

7.これも手前味噌だが、今回の共著本、僕は一切手を抜かずに書いた。ちゃんと僕特有の「質」を担保して書いた。もしかしたら質が上がっているかもしれないくらいだ。多くの教育書著者は量産すると明らかに質が下がってくる。そして読んでもらえなくなっていく。そうならないようにとの思いがある。

8.書き手としてではなく読者として感じるのは、文章における「質」ってのは「この人はこの文章の裏にどれだけの知識と経験をもっているのだろう。ここに書かれていることは決してこの人のすべてではない。」と読者に直感させることだと感じている。たぶんそういうのを昔は「教養」って呼んだんだと思う。

9.いま、コミュニケーション教育論を書いている。たぶん教養とか読者への配慮とかについてはこれまでで最も質が高いと思う。難しいことを難しくなく語ることに僕なりの時間と労力を使って配慮している。もう一つは石川晋との対談本が出る予定だ。これはかなり濃い内容が話し言葉と注でまとめられることになるだろう。

10.新年度。学校運営計画の説明。校内人事正式発表。職員会議。入学式係代表者会。学年会。新入生受付準備。午後から新入生受付。教科会。職員室引っ越し。校務ネットワークの確認。学年会。学級編成の確定。様々な仕分け作業。何とも辛い一日。

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