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ベクトルの異なる〈コミュニケーション能力〉

実態のない言葉に囚われ、踊らされてはいけない。その最たるものが〈コミュニケーション能力〉という言葉だ。これほど実態を伴わないのに世の中を闊歩している言葉もない。僕は正直、そう感じている。そもそも、だれもがこんなにもこれからの時代に必要だと喧伝する能力だというのに、だれも〈コミュニケーション能力〉という語を定義してくれないなんておかしいじゃないか。「シンボルを創造しそのシンボルを介して意味を共有するプロセス」(『コミュニケーション学 その展望と視点』末田清子・福田浩子・松柏社・二○○三年四月)なんていう学術的な定義はあるけれど、世の中を闊歩しているこの語の用いられ方は、こんな学術的な定義からは遙か遠くにあると言わざるを得ない。それが現在(いま)を生きる僕らの実感である。

いったい〈コミュニケーション能力〉って何なんだ? 巷では「自分の能力、自分の良さをはっきりと主張できる力だ」とか「自分の意思を強く持って突き進んでいくことだ」とかいった方向性で捉えている人が多いような気がする。でも反対に、「人の気持ちを察しながら行動できることだ」とか「周りとのホウレンソウを大切にしながら協調していくことだ」とかいった方向性で捉えている人も決して少なくない。要するに、アメリカ型の自己主張力のベクトルで考える人と、日本型の摩擦回避のベクトルで考える人とがいるわけだ。世の中には〈コミュニケーション能力〉について、ベクトルの異なる二つの主張が相半ばして混濁し、僕らを混乱させているというのが現状なのではないか。

最近、平田オリザが両者を止揚する形で〈コミュニケーション〉を「対話の成立」と捉え、互いにわかりあえないことを前提に〈対話〉の作法を身につけることを提唱している(『わかりあえないことから』講談社現代新書・二○一二年一○月)。でも、これとて理屈としてはよくわかるけれど僕たちの感情が、どこか深いところから湧き出る感情がいま一つ納得させてくれない。おそらく僕たちはわかりあいたいのだ。そして、識者が何と言おうと、無意識のうちにわかり合えると思ってしまうのだ。そしてそれは僕らの親世代を見ていても毎日接している中学生を見ていても寸分の違いもない、世代を超えた現実なのだ。この現実をどうするかという臨床を抜きにして作法が大事などと言われても、理屈で頷きながらも感情が拒んでしまう。頭の理解と心の理解とに引き裂かれてしまう。それが日本人の性(さが)なのだからどうしようもない。

例えば、つい先日のことである。僕は勤務校の新校舎落成式典の打ち上げで、同僚やPTA役員、地元の市会議員らとともにホテルの宴会に出席していた。宴会も終わり、さあ、二次会と思った矢先、ホール係の女の子が僕に話しかけてきた。
「堀先生、覚えてますか?私、上篠路中でお世話になったOです。S太郎の妹で……」

顔をよく見ると、化粧をしてはいるけれど確かに四年前に僕が担任していたO・Mだった。僕は「Mか!」と言って、瞬間的にその女の子を抱きしめていた。愛おしくて仕方なかったのである。美羽は涙を流しながら、「堀先生…」と何度も呟いていた。

実は僕は中学一年生の一年間だけこの子たちを担任して、現任校に転勤したのだった。卒業まで面倒をみなかったということが、どこかこの子たちを捨てたのではないかという贖罪の心理を抱かされる、そんな生徒たちの一人だったのである。その彼女が、僕が彼女自身を覚えていないとでも思ったのか、「S太郎の妹で……」とその前年まで僕が担任していた兄の名を出して想い出させようとしたのである。MとS太郎をセットで捉えているというイメージを彼女に与えている自分が情けなくさえ感じられた。

Mは「堀先生…」としか言わなかった。僕は「Mか!」としか言わなかった。言葉はそれだけだったけれど、間違いなく彼女は僕に「いまもあなたは私にとって大事な先生です」と言っていたのであり、僕は彼女に「いまでもお前をあの頃と変わらず愛している」と告げていたのである。そこには同僚やPTAもいたから、その後、髭面のおっさんが女子高生を抱きしめるなんていやらしい……と冗談半分にからかわれたが、僕は「何とでも言え」と開き直っていた。

日本的なコミュニケーション、わかりあえたという実感は、例えばこんなふうに僕らのもとに突然やってくる。こんな濃密なコミュニケーションを、互いを包み込むコンテクストと連動したノンバーバルコミュニケーションを実感として生きている僕らが、国際化社会だからわかりあえないことを前提に「対話の作法」を身につけなさいなどと言われても戸惑ってしまう。そう簡単に日本的な〈察しの文化〉は捨てられないよと感じてしまう。だって、わかりあえたという実感はあまりにも心地よいんだもの。

逆もある。こちらは数年前の話だ。僕が代表を務めるある研究会の若手男性メンバーが、この研究会に所属しているという理由によって勤務校で「いい気」になっているという話が僕の耳に入ってきた。ちなみに僕と近い、かなり信用できる筋からの話だった。更に聞くと、その若者は「オレは堀先生や○○先生と懇意にさせてもらってるんだぞ」と、お前とは格が違うとでも言うように自分より若い同僚に対して生意気な態度を取っているとも言う。更には管理職に同僚のミスを告げ口までしているという。僕はこういう「虎の威を借る狐」が大嫌いである。しかも、ある研究会に所属していることと実力があることとはまったく関係のない話である。

しかし、噂はあくまで噂である。僕はすぐにその若者に電話をかけ真偽のほどを確かめることにした。いろいろ言い訳をしていたが、どうやら本当のことらしいことが本人の弁でわかってきくた。実力もないくせに虎の威を借るとは何事か。しかも、研究会の中心メンバーの個人名を出して、権威づけを施すなど以ての外だ。更に言えば、個人的には僕自身の名が出されていることも甚だ腹立たしい。

僕はその日のうちにこの若者を研究会から除名した。冗談じゃない。研究会にとってまったくプラスにならない。プラスにならないどころか、大きなマイナスだ。それもとてつもないマイナスだ。こんな人間とは付き合いたくない。誤解されないように言い添えておくと、僕の人生において、僕が自分の研究会から除名するなどという暴挙に出たのは後にも先にもこの若者しかいない。数ヶ月後にこの若者が僕らの主催する研究会に姿を見せ、謝罪とともにもう一度復帰させて欲しいと頭を下げに来たことがあったが、僕は「ここはお前の来るところじゃない」と追い返した。それほどに僕の怒りは激しかったのである。

おそらく彼は自分の職場での軽口がこんなにも大きなことになってしまうとは、予想だにしなかっただろう。しかしこんなふうに、ちょっとした軽口が、しかも当の本人には見えない場所での軽口が、当人も驚くほどの致命的な結果をもたらしてしまうのも、いかにも日本的なコミュニケーションの在り方といえる。彼は僕らとの何年にもわたる付き合いのなかで、僕らの研究会がこうした「虎の威を借る狐」的行為を何よりも嫌い、公務との軋轢を避けながら自分たちの研究活動にできるだけ批判が集まらないようにするという基本姿勢をもっていることを察することができなかったのである。この件の裏にも、深いところにやはり〈察しの文化〉がある。言わば僕は、この若者に自分と同質の〈察しの文化〉がないことを感じ取り、彼とわかりあうことを拒否したのである。あまり良い話ではないことを承知で言うのだが、これもまた濃密なコミュニケーションの一例ではある。

先に、この国の〈コミュニケーション能力〉という語が、アメリカ型の自己主張力のベクトルと日本型の摩擦回避のベクトルとに引き裂かれていると述べた。僕は明らかに前者に主眼を置いて日常生活を送っている。事実、この原稿を書くうえでも、どのように伝えれば自分の主張が読者に理解されるだろうかと様々な手立てを考えながら書いている。そこに決して少なくない時間をかけて書いている。文章を書くうえでのルール違反を承知で裏話をすれば、O・Mと除名した若者のエピソードだって、幾つかの候補の中からこれが伝わりやすいだろうとかなり念入りに吟味して選んだものだ。手前味噌だが、僕は一般的な教師よりも自己主張力に優れていると自負している。しかし、そんな僕でも、ときにこんなふうに日本的な濃密なコミュニケーションに取り込まれてしまうのだ。

この国で〈コミュニケーション能力〉を考えるときには、この二つの異なったベクトルに引き裂かれるという独特の構造を抜きには考えられない。この認識に立たないことには、〈コミュニケーション能力〉を考えるスタート地点にも立てない。僕はそう思う。

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