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振る舞い

かつて社会は〈役割〉で動いていました。父という役割、母という役割、子供という役割、学生という役割、教師という役割……。上司という役割、部下という役割、医者という役割、お巡りさんという役割、八百屋のおじさんという役割、大工さんという役割……。

このあたりでやめておきますが、社会が〈役割〉で動いていた時代には、それぞれの役割さえ果たしてさえいれば責任を果たしていると認められ、それぞれの振る舞いがそれほど問題視されることはありませんでした。実際、明るく優しい父親であろうと頑固で無口な父親であろうと、父親の役割と責任を果たしてさえいれば、その違いは小さなものとされ個性の範囲内とされて認められていたのです。そんな時代ですから、当然、教師にも同じ眼差しが向けられていました。教師それぞれのキャラクターや手法が多少異なっていたとしても、子どもたちを愛し、子どもたちを導いてさえいれば、それは教師の個性の範囲内とされて認められていたのです。

かつての〈役割〉の時代には「アイデンティティの獲得」ということが盛んに言われました。青年期にはモラトリアムに陥るけれど、就職をして自分の役割ができるとともに自身の自己認識と他者からの評価とが統合され、「職業的アイデンティティ」を獲得するとともに精神的な安定を得て自らの人生を歩み始める、意識するしないはともかくとして世の中の人たちはそんなふうに大人になっていきました。教師も子どもたちを愛し導くことで自分の役割を自覚することができ、日々の自分らしい教育活動を展開するなかで自己実現を図ることができたのです。

ところが、社会が豊かになり情報が豊かになるとともに、社会は〈役割〉で動く時代から〈振る舞い〉で動く時代へとシフトしていきました。自分がどんな〈役割〉をもっているかに拘わらず、場に相応しい〈振る舞い〉というものがある、世の中の中心にそんな眼差しが浮上してきたのです。おそらく社会の豊かさが判断・評価の権限を供給側から需要側へと委譲させ、情報の豊かさがすべての人々にに対して「あるべき〈振る舞い〉」のイメージを普及させてしまったのです。どんな〈役割〉をもつ人々もその「場に応じたあるべき〈振る舞い〉イメージ」から逸脱することは許されなくなってしまつたのです。

例えば、政治に大きな動きが出て来たときによくテレビで流れる街頭インタビューを見ていると、この度の政策に賛成の反対の人も知ったか振りの評論的な意見を述べています。どの意見も紋切り型で、インタビューを受ける人たちはいくらでも入れ替え可能に見えます。だれもがマイクを向けられた瞬間に、こういうときにはどう応えるべきかということをテレビで見た自分のなかのデータベースに照らして演じているわけですね。場に応じてデータベースと照らし合わせて、相応しい振る舞いを演じるということです。

同じように、教室ではこういうときにはこういうキャラを演じなければとか、高級レストランでは彼女にこういうことを言わなければとか、上司にはさわやかな印象をもつある有名俳優のように対応しようとか、要するにテレビで見たドラマやお笑い番組をモデルにして、その場に相応しいイメージを振る舞う世の中になっているわけです。

これに拍車をかけているのが、携帯電話を初めとするパーソナルメディアです。メールの内容よりも素早いレスポンスという〈振る舞い〉が重視されるとか、「私は正しい」「私は義憤に駆られている」という〈振る舞い〉を示すためにみんなが一斉に問題発言らしきものを攻撃することによっていわゆる「炎上」が起こるとか、そうした現象があちこちで見られます。

こうした時代になると、需要側の人たち(=消費者)は供給側の人たち(=サービス提供者)に、需要者個人のなかにあるデータベースから恣意的に引っ張り出してきた、あくまで自分のなかの「あるべきイメージ通りの〈振る舞い〉」を供給者側に要求し始めます。情報化社会故に理屈づけのデータベースもいくらでもありますから、あれこれと恣意的な理屈を並べ立て、とにかく供給者側に自分のイメージ通りの〈振る舞い〉をせよと迫るようになります。需要側(=消費者)にはその権利があるのだ、と言い張るようになります。ごくごく簡単に言えば、クレーム社会はこうして生まれたのです。

教師に対する保護者クレームやマスコミによる教師批判(最近は教育委員会批判も多い)も、おそらく同じ構造で起こっています。要するに、東浩紀の言うような「データベース社会」の到来です(『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社現代新書・2007年3月)。

ときに保護者が「先生のくせにそんなことを言って良いんですか」と言ったり、子どもが「教師のくせにそんなことして良いのか」と言ったりすることがあります。そして当の教師もその言葉に尻込みをしてしまうことも少なくないわけですが、それは社会が〈役割モデル〉の時代から〈振る舞いモデル〉の時代へと大きくシフトしているのに、当の学校側・教師側がまだまだ〈役割モデル〉による自己認識で動いていることに起因します。

身も蓋もないことを言ってしまえば、もう教師は「教師然」とした〈振る舞い〉を基軸にして仕事をしていくしかないのです。それも自分のなかの教師らしさではいけません。あくまでも社会のなかにある「最大公約数としての教師らしさ」を意識する必要があります。しかも社会でコンセンサスを得ている教師らしさは一つの教育問題がセンセーショナルにマスコミに取り上げられることによって日々変わっていきますから、その〈空気〉というか〈雰囲気〉というか〈イメージ〉というか、曖昧で流動的なデータベースの中心を担う「教師らしさ」を敏感に察知しながら対応しなければなりません。そういう時代がやって来たのです。

その「教師らしさ」から逸脱した自分のなかの教師をモデルに生きようとすれば、かなり大きなリスクを覚悟しなければなりません。その覚悟をもてる人だけが個性的な教師になることができる、そういう時代なのです。

いかがでしょうか。絶望的な気分になった読者も少なくないかもしれません。紙幅が尽きました。この時代への教師の対応として、私は学年団や職員室がそれぞれの教師の個性を活かしたチームとしてその能力を発揮することを提案しています。詳細は拙著『教師力ピラミッド』(明治図書・2013年1月)を御参照ください。

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