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環境調整型権力と大きな物語

私はもう、学校教育が〈環境調整型権力〉の発動を基軸にしていくしかないと考えています。それも、ディズニーランドのように、徹底して独立した人工的な環境設定をしていくしかないと考えているのです。もう、教師自身がああやりたい、こうやりたいと自己実現の在り方を求めるのではなく、学校という単位で、或いは大規模校であれば学年とかいう単位で、生徒たちを取り囲む環境自体を調整しながら運営していくのです。

私は先般、『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間シスムテム』(明治図書)を上梓しました。その要諦は、担任教師の人間性やキャラクターのみを頼りに子どもたちにあたるのは既に不可能になっている、これからは学級経営のシステムをしっかり敷いて、そのフレームワークによって学級経営をしていこう、ということでした。

また、私は先般、『教師力ピラミッド~毎日の仕事が劇的に変わる40の鉄則』(明治図書)を上梓しました。これも一人でできることなんて限られているのだから、多様な人材でチームを組んで生徒たちを取り囲む環境として教師集団を位置づけよう、という提案でした。

私たちはプロデューサーでもなければゲームマスターでもない、コスチュームを着たキャストなのだと自己認識しよう、という提案です。そして最低限の集団ルールを設けたり、学級組織を整えたり、教室環境を整備したり、教師の役割分担を明確にしたりしながら、〈環境調整型権力〉によって学級も学校も運営していこう、ということなのです。

その裏には、〈規律訓練型権力〉を発動しながら、生徒たちの内面に踏み込むのはやめようという、冷たい提案が含まれています。べたべたする「教師-生徒関係」からの脱却という意味合いを内包しています。

ただし、暴力行為やいじめなど、教師にはどうしても〈規律訓練型権力〉を発動しなければならない場面があります。しかし、これまでどおりに、ただ〈規律訓練型権力〉を行使していたのでは、生徒たちは受け付けてくれません。「それは先生個人の正しさでしょ?」と、オレはそう思わない、私はそう感じられないと言われてしまうだけです。

そのためには、ディズニーランドのように、〈環境調整型権力〉で運営しながらも、学校という外界から遮断された空間のなかで、ある種の〈大きな物語〉を生徒たちに見せてけあげる必要があるのです。これまでのように、教師一人ひとりが、担任個人が自分なりの〈大きな物語〉を語るのではなく、学校にいる教師全員がチームとして〈大きな物語〉を体現している、そういう空間をつくることを迫られているのです。

生徒たちが私たち個人個人の教師の背景に学校としての〈大きな物語〉を見ていれば、何か問題が生じたとき、いざというときにも私達の言葉が生徒たちにも届くことでしょう。

かつて、地域や社会は、私達を「共同幻想」によって支えてくれました。

「学校に行ったら先生の言うことをよく聞きなさい」

「先生がそんなに怒ったんならあんたが悪い」

そう言って、学校を、教師を支えてくれていました。学校に追い風が吹いていたという言い方をしても良いかもしれません。その風に載って、教師は〈規律訓練型権力〉を発動しながら生徒たちを導くことができたのです。決して昔の教師が優秀だったわけでもなければ、一人一人の教師の力量が高かったわけでもありません。

いまはその追い風がなくなったのです。正しいことを言うだけでなく、その正しさの説得力を高めるところまで、教師の仕事の範疇になったのです。つまり、指導するだけでなく、その指導に追い風をつくるところまでが教師の仕事になった、ということです。力量の高い教師たちはいま、それが個人の力でできるからこそ、力量の高い教師と呼ばれているのです。

しかし、力量の高い教師は、自分の言葉、自分の指導の説得力を高めることはできても、隣の力量の低い教師の説得力を高めてはくれくません。むしろ、力量の低い教師は、隣のその力量の高い教師がいるが故に相対的に低く見られ、生徒や保護者に対する言葉が機能しづらくなることさえあります。なんとしても、この構造は打開しなければなりません。それができなければ、学校教育は破綻していくでしょう。その打開のためには、テーマパークならぬテーマスクールとして、生徒たちに「学校という〈大きな物語〉」を見せてあげなければならないのです。

レイ・ブラッドベリ流にいえば、現在、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(以下「SNS」)が映画やRPGに近い在り方で、直接体験できない〈環境調整型権力〉を発動して生徒たちの心を捕らえています。人々とつながることができ、個人的に楽しむことのできるアプリを無限に用意しと、直接体験以外は、生徒たちのほぼすべての欲求を満たしていると言っても過言ではありません。

しかし、学校はいまだに演劇です。稀に教師と生徒たちとの一体感が生まれることがありますが、それは偶然性に支配されています。うまくはまれば大きな成果を上げることもありますが、ほとんどは満足のいかない課題ばかりの運営が続いていきます。それが生徒たちの心を、教師から、学校から次第に遠ざけていくのです。

この悪循環をなんとしても断ち切らなくてはなりません。そのためには、学校教育をディズニーランドのように〈大きな物語〉を見せてあげる〈環境調整型権力〉の発動の場としなければならないのです。教師個人ではなく、学校職員全員で窓のない壁に美しく豊かな田園風景をエクスタシス描いて見せてあげなくてはならないのです。その〈大きな物語〉が機能すれば機能するほど、ときに発動しなければならない〈規律訓練型権力〉さえもがそこそこ機能する状態になっていきます。

では、その〈大きな物語〉をどのように生徒たちに見られば良いのでしょうか。次節では、大塚英志の「物語消費論」を題材にして考えていきます。

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