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盛り上げ

3人の新卒さんが先輩教師たちとカラオケに行ったとしましょう。次第に場も盛り上がり、場の中心となっている先輩教師が「よーし!新卒、1曲ずつ歌え」と言ったとましょう。それを受けて、3人の新卒教師が次のような対応を示したとしましょう。

① 新卒Aは「私は歌いません。歌は苦手なんです。」と頑なに拒否しました。

② 新卒Bはビブラートを効かせてとても上手にバラードを歌いました。

③ 新卒Cは「僕、筋金入りの音痴なんですよ~」と笑いながら、それはもうひどい歌を披露しました。

さて、この後、先輩教師たちに一番可愛がられるのは、3人のうちだれでしょうか。そうですね。言うまでもなく、Cくんです。いくら理屈に合わなくても、それが人間関係というものの本質なのです。もしかしたら、「人間関係の本質」は言い過ぎかもしれません。まあ、「日本型人間関係の本質」とでも言ったら良いでしょうか(笑)。

企業も、マスコミも、大学の先生も、みんなこれからの人間に必要なのは〈コミュニケーション能力〉だと言います。皆さんも学生時代、就職活動にあたって耳にたこができるくらいに聞かされたことだろうと思います。

しかし、〈コミュニケーション能力〉とはいったいなんなのか、それを明確に規定してくれる人はなかなかいません。たとえいたとしても、例えば、「自分の力をはっきりと主張できる力だ」という人もいれば、「人の気持ちを察しながら行動できることだ」という人もいます。また、「自分の意思を強く持って突き進んでいくことだ」という人もいれば、「周りとのホウレンソウを大切にしながら協調していくことだ」という人もいます。世の中には〈コミュニケーション能力〉について、ベクトルの異なる主張が相半ばして私たちを混乱させているというのが現状のように思います。要するに、アメリカ型の自己主張力の方向性で考える人と、日本型の摩擦回避の方向性で考える人とがいるわけですね。

しかし、ここでまず第一に考えなければならないのは、人間関係において「自己を主張すること」と「摩擦を回避すること」とはどちらが難しいか、ということです。これはある程度の以上の年齢に達している人ならだれもが賛同してくれると思いますが、圧倒的に後者なのです。

実社会において前者を主に考えると「自己主張するために摩擦を回避する」という発想になります。そうすると、自分の自己主張を通すために仕方なく摩擦を回避するという在り方になります。そういうなかで、自分の主張を認めてくれない人に出逢うと、「オレはこんなに努力してるのに……」と思ってしまいがちです。

ところが、後者を主に考えますと、「摩擦回避をするなかで自分の主張を通すにはどうすべきか」という発想になります。摩擦回避がすべての前提ですから、周りの人たちがどういうことを考え、何を大切に思って仕事をしているのかということを常に気に留めながら仕事をしていく姿勢が身につきます。自然に人との会話の量も増えていきます。要するに、コミュニケーションの機会が増えるわけですね。その結果、摩擦を回避できるとか自己主張を通すことができるとかいうだけに止まらず、周りの人たちの発想や仕事術を自然に学んでいくという副産物も出てくるわけです。

第二に考えなければならないのは、あくまでも私たちは学校の先生ですから、学校の先生にとってどんな〈コミュニケーション能力〉が必要なのかをよく考え、その能力の優先順位を高く考える必要があるということです。

〈コミュニケーション能力〉を「自己主張力」を主に考える人たちの多くは、基本的にビジネスの世界の人たちです。プレゼン能力とかディベート力とか交渉力とか、そういう能力ですね。また、「これからの国際社会において……」云々という発想のもとに、日本人以外の人たちと対等に渡り合うために、という発想がその裏に潜在しています。しかし、私たちの仕事には、成果を強調するプレゼン能力も、議論に打ち勝つディベート力も、互いの利害を計算して意見交換する交渉力も、あまり必要とされません。もちろん、まったく必要ないわけではありませんが、優先順位は低いのです。

私たちのコミュニケーションの主たる相手は、子どもたちとその保護者です。子どもたちは教師が自己主張すべき相手ではありませんし、保護者の多くは一般的な、ごく普通の日本人です。日本的な摩擦の回避とか、日本的な察しの文化とか、落としどころを探ろうとする日本的なコミュニケーションにどっぷりと浸かって日々を過ごしている、ごくごく普通の人たちなのです。

私はやはり、教師に必要な〈コミュニケーション能力〉の代表は摩擦回避であり、日常的に「摩擦回避をするなかで自分の主張を通すにはどうすべきか」と考えながら仕事をしていくのが良いと考えています。

さて、冒頭のカラオケの話に戻ります。

この例に見られる構造は、「自分をオトす」という発想です。みんなを楽しませるために自分をオトす……、皆さんのためなら私は少しくらいの恥をかくことくらいなんでもないですよ……、そういうことです。要するにサービス精神なんですね。

例えば、忘年会の席上、余興にちょっと恥ずかしい罰ゲームがあったとしても、職員室の仲が良ければ、ちょっとくらい恥ずかしくてもみんなで楽しむことの方を選ぶじゃないですか。行事、呑み会、職員旅行、余興、盛り上がるか否かはその行事や呑み会の質にあるのではないのです。チームが成立しているか否かにあるのです。〈コミュニケーション能力〉の有無などというものは、実は、一緒にいて楽しいとか一緒にいて安心できるとか、その程度のことに過ぎません。

子どもや保護者の前で恥をかくなんて真っ平だ。同僚に笑われるなんて真っ平だ。いじられるから呑み会はいやだ。そういう人は教師としての〈コミュニケーション能力〉には基本的に欠けているのではないか。私はそう感じています。

もちろん、そういう人が世の中にいてもまったく構いません。あくまでも、教師に向いていないのではないか、と言っているのです。他の職業の方が合っているんじゃないか、そう言っているのです。

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