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気遣い

姑小姑 かしこくこなせ たやすいはずだ 愛すればいい……

これは、さだまさしの大ヒット曲「関白宣言」にあるフレーズです。1979年。私は中学1年生でした。このフレーズ、私はかなり本質をついたものだと感じています。

家族や恋人、自分の友達であれば気遣うことができるのに、子どもたちや保護者、同僚が相手だと気遣うことができない……そういう教師が少なくありません。あの子が嫌いだ、あの保護者はとんでもない、○○先生は何を考えているのか、そういうことを公然という教師さえいます。

ある種の人たちには信じられないことに感じられるようですが、私は他人を嫌うということがありません。「あの人は○○だ」とか「あの子はもう少し○○ができるようになると良いのだが」と、私は日常的に他人を分析するタイプではありますが、決して他人を嫌うということがありません。呑み会で同僚がある同僚を批判し出したときに、私が「いやいや、○○先生にはそういうところも確かにあるかもしれないけれど、こうこうこいう良いところもあるし、こういう経緯でこうなっているんだから仕方ない部分もある」と批判の対象となっている教師を援護する、私にとってこの呑み会の会話の構図は割と日常的です。だって全面否定されるべきほどにダメな教師なんてまずいませんから。これは子どもが対象でも保護者が対象でも同じです。

誰かを「気遣う」というとき、難しいなあと感じる人は、他人を嫌ってしまうからです。どんな人も良いところも悪いところももっています。その悪いところばかりを取り上げて、子どもを批判したり保護者を批判したり同僚を批判したりしているわけですね。「私はあの子を認めない」「あの親にしてこの子ありだ」「あの先生だけは許せなさい」となってしまいます。しかし、悪いところばかりが目につくのはその人が嫌いだからなのです。

一見、悪いところがあるから嫌っているように思いますが、多くの場合、そうではありません。嫌いになってしまったから悪いところばかりが目につくのです。けっこう、思い込みが人の目を曇らすもので、世の中にはなんとなく自明のことのように感じていることが実は順序が逆であるということが少なくありません。

「気遣い力」というとき、実は気遣い方がわからないということはまずありません。「気遣う」ということは相手の立場に立って、話を聞いてあげたり助けてあげたり何かをしてあげたりということに過ぎません。その方法がわからないという人はほとんどいないのです。では、なぜ、「気遣い」ができないのかというと、あんな子には、あんな保護者には、あんな同僚には気など遣う気がしない……という自分自身の他人に対する否定的な評価が「気遣い」をさせないのです。実はそれだけのことなのです。

まずはこの構造をしっかりと押さえることが必要です。

人間関係の距離を調整する

同僚に対する好き嫌いが激しい人の話を聞いていると、物事を市場原理で考えていると言いますか、要するに損得勘定で考えている人が多いように思います。あの人と付き合っても何の得にもならない、あの人と付き合う価値がない、だから無理をしてまで付き合う必要がない、まして自分を犠牲にしてまで気遣う必要がない、こんな論理ですね。

しかし、あなたが嫌っている人は多くの場合、他の人たちからも嫌われ、蔑ろにされていないでしょうか。少なくともそういう傾向がないでしょうか。とすれば、あなただけがその人のフォローをし、同僚がその人の悪口を言うのを援護し、「まあまあ、そう言わずに○○先生だって、こうこうこういう事情があるかもしれないじゃないですか」と優しい発言を繰り返すことによって、たとえそうした行動がその人自身に伝わらなかったとしても、周りの人たちは必ずあなたを認め、評価を上げるはずです。それがあなたにとって、仕事をしやすい環境をつくっていきます。損得勘定で考えたとしても、そういう人のフォローをすることは決してそんにはならないのです。嫌いな人との1対1関係だけを考えて損得勘定をし、狭い視野で判断してしまうことは、実は結果的に損得勘定で考えたときにさえ有益な動き方だとはいえないのです。こういう広い視野をもちたいものです。

子どもや保護者に対する好き嫌いが激しい人たちは、もっと視野の狭い人たちです。自分の教育観、人生観、主義主張に囚われすぎてしまっていて、その範囲からはずれる人たちを許すことができない、そんな人が多いような気がします。私は明確に主張しますが、その視野の狭さはこの仕事に就く限り、絶対に努力して改めるべきです。そんな狭い視野では教師という仕事はやっていけません。特に、サービス業的な視座の必要性が日ごとに高まっているこれからの時代において、その視野の狭さは致命的と言っても過言ではありません。

姑小姑 かしこくこなせ たやすいはずだ 愛すればいい……

冒頭にさだまさしのこのフレーズを挙げました。何も子どもや保護者や同僚を家族のように愛せと私も言うつもりはありません。ただ、人は愛する人には自然と気遣いをするものです。嫌いな人には気遣うという気持ちにさえならないものです。しかし、嫌いではない人に対してなら、日本人は当然のように普通の気遣いをするものなのです。この普通の気遣いができれば、子どもや保護者や同僚に対しての「気遣い」としては充分であるはずです。むちろ家族や恋人や友達への「気遣い」は、あまりにも人間関係の距離がないだけに「束縛」と裏表のところがあります。そういう「気遣いの押しつけ」のようなものを子ども・保護者・同僚に向けるのはナンセンスでしょう。

「気遣い」という言葉は「気配り」と並んで、日本人にとっては美しい言葉です。「心遣い」「心配り」という言葉も、日本人には絶対善として機能しがちです。しかし、これらを無意識のままに「束縛」にしてしまうのも日本人の悪いところなのです。これを日常的に意識したとき、①他人を好きにならないまでも嫌うことなく、普通の、自然な「気遣い」ができる状態になる、②自分の「気遣い」が「束縛」になっていないかを自己点検する視点をもつ、この二つがとても大切だと感じられるのです。

「気遣い力」とは距離感覚の調整能力に他なりません。

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