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2013年3月

まえがき

まえがき

最初の教え子(1994年3月卒業)が三十代の半ばになっています。6度目の卒業生(2005年3月卒業)が大学を出始めています。教え子のなかに教職に就いた子がたくさんいます。そんな子とは誘われれば二人で逢うことにしています。すすきのの小さなBarで懐かしい話からいま現在の教師としての悩みまで話題が尽きることなく、朝方4時とか5時になってさすがにもう帰ろうと後ろ髪を引かれる思いで帰路に就くということになります。

そんな教え子たちと話していると、その子たちに自分が思いの外大きな影響を与えていることに気づかされます。それはこんな影響だと明確な言葉にできないものですが、しかし決して抽象的でない、どこまでも具体的な教師としての立ち姿のようなものです。子どもの前に立つときの立ち位置とか在り方とか言っても良いかもしれません。

彼ら彼女らはほとんどが〈出る杭〉として職場で叩かれています。それでもめげることなく、いつか叩かれることのない〈出過ぎる杭〉になろうとしているようなところがあります。血縁関係がないわけですから、2年間から3年間、同じ場を共有して空気感染したDNAのようなものなのでしょう。

同じ年頃、自分もそうだったなあと感じながら、私は叩かれない〈出過ぎる杭〉になるために必要なのはたった二つだと話します。即ち、優しさと技術である、と。優しさも技術もない若輩者が生意気なことを言うな、と。しかし、優しさも技術もない若輩者が生意気な生き方を続けていかないと優しさも技術も身につかないのが真理だ、と。人生とはそうしたパラドクスを抱えているものだ、と。         

いま、逢う度に私の教師論づくりに栄養を与えてくれている教職に就いた教え子たちに、このうえない愛惜とある種の偏愛を抱きながら本書を書き綴ったことをまずは記しておこうと思います。

森田童子/ぼくたちの失敗 を聴きながら……
2013年3月31日(日) 自宅書斎にて 堀 裕嗣

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気遣い

姑小姑 かしこくこなせ たやすいはずだ 愛すればいい……

これは、さだまさしの大ヒット曲「関白宣言」にあるフレーズです。1979年。私は中学1年生でした。このフレーズ、私はかなり本質をついたものだと感じています。

家族や恋人、自分の友達であれば気遣うことができるのに、子どもたちや保護者、同僚が相手だと気遣うことができない……そういう教師が少なくありません。あの子が嫌いだ、あの保護者はとんでもない、○○先生は何を考えているのか、そういうことを公然という教師さえいます。

ある種の人たちには信じられないことに感じられるようですが、私は他人を嫌うということがありません。「あの人は○○だ」とか「あの子はもう少し○○ができるようになると良いのだが」と、私は日常的に他人を分析するタイプではありますが、決して他人を嫌うということがありません。呑み会で同僚がある同僚を批判し出したときに、私が「いやいや、○○先生にはそういうところも確かにあるかもしれないけれど、こうこうこいう良いところもあるし、こういう経緯でこうなっているんだから仕方ない部分もある」と批判の対象となっている教師を援護する、私にとってこの呑み会の会話の構図は割と日常的です。だって全面否定されるべきほどにダメな教師なんてまずいませんから。これは子どもが対象でも保護者が対象でも同じです。

誰かを「気遣う」というとき、難しいなあと感じる人は、他人を嫌ってしまうからです。どんな人も良いところも悪いところももっています。その悪いところばかりを取り上げて、子どもを批判したり保護者を批判したり同僚を批判したりしているわけですね。「私はあの子を認めない」「あの親にしてこの子ありだ」「あの先生だけは許せなさい」となってしまいます。しかし、悪いところばかりが目につくのはその人が嫌いだからなのです。

一見、悪いところがあるから嫌っているように思いますが、多くの場合、そうではありません。嫌いになってしまったから悪いところばかりが目につくのです。けっこう、思い込みが人の目を曇らすもので、世の中にはなんとなく自明のことのように感じていることが実は順序が逆であるということが少なくありません。

「気遣い力」というとき、実は気遣い方がわからないということはまずありません。「気遣う」ということは相手の立場に立って、話を聞いてあげたり助けてあげたり何かをしてあげたりということに過ぎません。その方法がわからないという人はほとんどいないのです。では、なぜ、「気遣い」ができないのかというと、あんな子には、あんな保護者には、あんな同僚には気など遣う気がしない……という自分自身の他人に対する否定的な評価が「気遣い」をさせないのです。実はそれだけのことなのです。

まずはこの構造をしっかりと押さえることが必要です。

人間関係の距離を調整する

同僚に対する好き嫌いが激しい人の話を聞いていると、物事を市場原理で考えていると言いますか、要するに損得勘定で考えている人が多いように思います。あの人と付き合っても何の得にもならない、あの人と付き合う価値がない、だから無理をしてまで付き合う必要がない、まして自分を犠牲にしてまで気遣う必要がない、こんな論理ですね。

しかし、あなたが嫌っている人は多くの場合、他の人たちからも嫌われ、蔑ろにされていないでしょうか。少なくともそういう傾向がないでしょうか。とすれば、あなただけがその人のフォローをし、同僚がその人の悪口を言うのを援護し、「まあまあ、そう言わずに○○先生だって、こうこうこういう事情があるかもしれないじゃないですか」と優しい発言を繰り返すことによって、たとえそうした行動がその人自身に伝わらなかったとしても、周りの人たちは必ずあなたを認め、評価を上げるはずです。それがあなたにとって、仕事をしやすい環境をつくっていきます。損得勘定で考えたとしても、そういう人のフォローをすることは決してそんにはならないのです。嫌いな人との1対1関係だけを考えて損得勘定をし、狭い視野で判断してしまうことは、実は結果的に損得勘定で考えたときにさえ有益な動き方だとはいえないのです。こういう広い視野をもちたいものです。

子どもや保護者に対する好き嫌いが激しい人たちは、もっと視野の狭い人たちです。自分の教育観、人生観、主義主張に囚われすぎてしまっていて、その範囲からはずれる人たちを許すことができない、そんな人が多いような気がします。私は明確に主張しますが、その視野の狭さはこの仕事に就く限り、絶対に努力して改めるべきです。そんな狭い視野では教師という仕事はやっていけません。特に、サービス業的な視座の必要性が日ごとに高まっているこれからの時代において、その視野の狭さは致命的と言っても過言ではありません。

姑小姑 かしこくこなせ たやすいはずだ 愛すればいい……

冒頭にさだまさしのこのフレーズを挙げました。何も子どもや保護者や同僚を家族のように愛せと私も言うつもりはありません。ただ、人は愛する人には自然と気遣いをするものです。嫌いな人には気遣うという気持ちにさえならないものです。しかし、嫌いではない人に対してなら、日本人は当然のように普通の気遣いをするものなのです。この普通の気遣いができれば、子どもや保護者や同僚に対しての「気遣い」としては充分であるはずです。むちろ家族や恋人や友達への「気遣い」は、あまりにも人間関係の距離がないだけに「束縛」と裏表のところがあります。そういう「気遣いの押しつけ」のようなものを子ども・保護者・同僚に向けるのはナンセンスでしょう。

「気遣い」という言葉は「気配り」と並んで、日本人にとっては美しい言葉です。「心遣い」「心配り」という言葉も、日本人には絶対善として機能しがちです。しかし、これらを無意識のままに「束縛」にしてしまうのも日本人の悪いところなのです。これを日常的に意識したとき、①他人を好きにならないまでも嫌うことなく、普通の、自然な「気遣い」ができる状態になる、②自分の「気遣い」が「束縛」になっていないかを自己点検する視点をもつ、この二つがとても大切だと感じられるのです。

「気遣い力」とは距離感覚の調整能力に他なりません。

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3月28日(木)

1.拙著『教師力ピラミッド』(明治図書)にブログ「Kitto Hareruyo」さんから書評をいただきました。実感的な書評でとても救われた感じがしました。
http://d.hatena.ne.jp/maru2co/20130327/1364348149

2.入学式関係文書の詰め。旅行的行事の大綱。旅行的行事に至るまでの日程確認。すべて終了。これでいよいよ、明日から学活計画や集会計画に入れる。

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3月27日(水)

1.朝から入学式その他の文書づくり。午前中は新任者が引継に来ていたので、少しだけ挨拶。午後から更に文書づくり。旅行的行事の動きを学年の先生方と打ち合わせ。夕方から人事にちょっとしたトラブル。夜は小さな呑み会。結局、帰宅したのは3時。

2.新刊『エピソードで語る教師力の極意』(堀裕嗣著/明治図書)。書くのが嫌だなあという気持ちから始まった執筆。いまも出すのが嫌だなあと思う内容。でも、もう出ることが決まってしまった。なんとも複雑な気分だ。

3.『エピソードで語る教師力の極意』(堀裕嗣著/明治図書)。この本が刊行されるのが複雑なのは、第一にこの本が僕の教師生活の懺悔の本であること。第二にタイトルに「極意」という言葉が入っていること。これは極意じゃない。懺悔だ。僕は「エピソードで語る教師力」でいいじゃないかと粘ったのだが。

4.雨のクロール/森田童子
http://www.youtube.com/watch?v=dVLFPndogGs

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バランス

人間はそもそも矛盾した存在です。論理的に正しいことをしようとする自分と、情緒的に安定した生活をしたい自分とが葛藤しています。社会で起こるすべて問題は、〈論理〉の問題と〈情緒〉の問題との二つを基軸にして起こります。少なくとも、私にはそう見えます。

〈論理〉を重んじる人と〈情緒〉を重んじる人との間にはほぼ間違いなく軋轢が起こります。

日本人はもともと〈情緒〉を重んじることを習慣としてきました。何かを改革しようとしたときに、それは顕著に出てきます。みんなが感情的に受け入れられる場合にはその改革案がすんなり通ります。しかし、そうでない場合、つまりいろいろなところから反対が出て抵抗を受けた場合には、その改革がどんなに〈論理〉的に正しかったとしても、皆の〈情緒〉の安定のために「今回は見送って、取り敢えず様子をみよう」ということになります。そして多数の〈情緒〉の安定を優先する無意識的な同調圧力をこの国では「空気」と呼びます。

この構造はあまりにも強固で、多くの人々の生命にかかわる問題であってもまったく変わりません。山本七平は戦艦大和が出撃するか否かを決める、軍部エリートが集まった会議でさえ、日本人はこの構造から逃れられなかったことを詳細に報告しています(『空気の研究』新潮文庫・1977年)。

こうした構造があくまで古いタイプの日本人の意識構造であり、これからは西洋的な自己意識をしっかりもって〈論理〉で考える時代がきている、そう考える方がいらっしゃるかもしれません。しかし、まったくそうではありません。バブルの崩壊以来、日本は基本的には不景気が続いていますが、この間、社会は次第に〈情緒〉よりも〈論理〉を優先しながら運営せざるを得なくなってきています。〈情緒〉を優先していては破綻してしまうわけですから、そうせざるを得ません。政治にも企業にも家族にも、「生きて残るためには仕方ない」「食べていくためには仕方ない」と〈情緒〉の安定を捨象する判断がはびこります。そのおかげでこの国の人たちはすっかり日常的不機嫌な人たちになってしまいました。そしてせっかくお金を払っているのに充分な満足を得ることができないようなサービスしか提供されなかったとき、クレームをつけても良いという「空気」が醸成されてきました。また、いまだに安定神話のなかで生きているように見える公務員に対してはバッシングの「空気」が形成されていきます。

子どもたちもこの構造と無縁ではありません。1980年代中庸から学校内のいじめが社会問題になっていますが、いじめもまた教室の多数派の「空気」によって起こります。いじりいじられるのが楽しい、多少のからかいはコミュニケーションの潤滑油である、階層が下の者が生意気な態度をとるのは自分たちの精神的安定を脅かす悪事である、子ども集団にこうした無意識的な善悪の感覚があり、それが集団のなかにいじめを肯定する「空気」をつくります。更に集団のノリによってその空気が増幅し、深刻ないじめへと発展するわけです。

こうした多数の〈情緒〉を安定させるために「空気」としてできあがったいじめに対して、「いじめは絶対に許されない!」といった〈論理〉的な説得は無力です。「空気」に対抗できるのは「空気」だけです。いじめを肯定しない「空気」、或いはいじめよりも楽しかったり充実したりするものがあるという「空気」を醸成され形成されない限り、いじめが影を潜めることはあり得ません。

私にとっての「バランス力」とは、こうした考え方に従っての一つ一つの判断力のことを意味します。

この国の教育も同じ構造でできています。戦後の教育政策は常に、「経験主義」と呼ばれる関心・意欲・態度を重視する教育観と「系統主義」と呼ばれる学力形成を重視する教育観とが綱引きを続けています。ざっくりと言うなら、前者が〈情緒〉を優先する教育観、後者が〈論理〉を優先する教育観といえます。

例えば、戦後、授業づくりの在り方がさまざまに検討されてきましたが、なんだかんだ言っても一斉授業が主流でした。一斉授業は50人とか40人とかの子どもたちを一箇所に集めて、一人の教師が説明したり指示したり発問したりしながら、効率的に指導内容を教えていく、身につけさせていくということです。これは基本的に「系統主義的授業観」に立っています。

しかし、こうした授業の在り方が長く成立してきたのは、明治以来の立身出世とか、戦後の学歴社会とか、知識や技術を学べば社会のためになる、幸せになれるという「空気」が社会にあったからなのです。社会の「空気」が一斉授業の成立を後押ししていたのです。教師は自分の授業の技量などではなく、あくまで社会の「空気」によって授業を成立させることができていただけなのです。もちろん、教師個々の間に力量の差があったことは自明ですが、その差など一斉授業の成立の要因としては微々たるものに過ぎません。

その「空気」が急激に薄まっているのです。勉強しても、学歴が高くても幸せになれるとは限らない。大企業だってつぶれる、リストラされることもある、テストの点数は必ずしも人を幸せにするわけではない、そういう「空気」が急激に形成されてきました。その代わりに浮上してきたのが、「コミュニケーション能力」というなんとも定義のしようのない曖昧な概念です。

現在、協同学習・ファシリテーション・プロジェクトアドベンチャー・グループエンカウンターなど、コミュニケーション系の学習理念・学習方法が大流行しています。これらは基本的に「経験主義的授業観」に立った手法といえすが、これらの流行も間違いなく時代の「空気」が後押ししているからこその流行なのです。

しかし、学校教育の存在を認めるコンセンサスは、なんだかんだ言ってもまだまだ学力形成です。こうしたコミュニケーション経験主義の教育が学校教育の根幹とされる学力を本当に形成するのか否か、それはまだ未知数といわざるを得ません。今後、数十年をかけて壮大な実験が為されるというのが本当のところなのかもしれません。

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3月26日(火)

1.新年度関係の文書を次々につくる。今日は4月3日まで乗り切った。明日は生徒たちと合うところまでは行きたいなあ。それにしても、意外と僕のこれまでのやり方でやっていれば、ハイペースで仕事が進んでいくということがわかった。学級編制もほぼ終わった。特別活動のシステムもほぼ終わった。

2.新刊『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)が近刊案内に掲載されました。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-137315-3

3.ああ……もう終わったと思っていた仕事の残務整理として、3頁書かなければならなくなってしまった(泣)。

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3月25日(月)

1.修了式・離任式。職員打ち合わせ。その後、新年度の打ち合わせ。事務仕事。帰宅して本屋に行ったあと送別会。一次会・二次会・三次会。

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しょいこみ

私は仕事には常に60%の力で臨んでいます。100%の力なんて絶対に発揮しません。私は60%で充分だと思っています。

こう言うと不遜に聞こえるでしょうか。

では皆さんは、100%の力を発揮していますか? 気を抜く時間は一切ありませんか? 同僚と冗談を言い合う時間とか、疲れてボーッとする時間とか、一切なく働き続けているのでしょうか。

そもそも、そんなこと可能なのでしょうか。

もう一度言います。私は60%の力で仕事に臨んでいます。60%で充分だと思っています。

比喩的に言いますが、50の力量しかない人が100%の力を発揮しても50の仕事しかできません。しかし、100の力量をもっている人が60%の力で臨めば60の仕事ができます。120の力量をもっている人が60%の力を出せば72の仕事ができます。150の力をもっている人なら90です。

私の言っていることがおわかりでしょうか。仕事は一所懸命度のパーセンテージで測っても意味はないのです。どれだけの力量をもっているかです。

皮肉めいて聞こえると思いますが、もう少しお付き合いください。

常に100%のエネルギーで仕事をするということは、何か不測のトラブルにあたったときに、それ以上の余力をもっていないことを意味しています。それだけ不測の事態に弱いことを意味します。しかし、60%のエネルギーで日常を過ごしていると、何か不測の事態に遭遇したときには、40%分の余力を発揮することができます。それだけ余裕があるわけですから。

職員室にはいろいろな力量の教師がいます。

例えば、力量50の人が常に100%のエネルギーで仕事をしていました。しかしあるとき、ある保護者のクレームをきっかけにだんだん精神が安定しなくなってしまって、ついにはつぶれてしまいました。周りには力量40の人と力量80の人と力量100の人の3人がいます。もしもこの3人がみんな100%のエネルギーで仕事をしていたとしたら、このつふれてしまった教師のフォローはだれがするのでしょうか。だれもその余裕をもっていないではありませんか。

これが力量40の人が100%で仕事をしているけれども、力量80の人は80%で、力量100の人は60%で仕事をこなしていたとなれば話は別です。力量80の人と力量100の人の余力で、なんとか急場をしのげるのです。集団で、組織で仕事をするには、組織を束ねる人間にこうした危機管理の発想が必要なのです。

よく学年主任や生徒指導主任、教務主任が仕事をたくさん抱えてあっぷあっぷしている職員室を見ることがあります。周りの教師たちも主任クラスが仕事を抱えるのは仕方のないことだと、それを当然のことのように思っているのです。ひどい職員室になると、管理職が校内のいろんな仕事を抱えすぎて、本来の学校経営業務に支障を来しているなんていう職員室さえあります。しかし、こういう職員室は不測の事態に臨む余力をもたない教師団です。いつ決壊してもおかしくないひびの入った堤防のようなものです。

教師にとって「しょいこみ力」とは、他の先生のフォローをする力のことです。フォローするには常日頃からフォローできる体制をつくっておく必要がこあります。管理職はもちろん、主任クラスは仕事を抱えすぎてはいけないと意識すべきですし、他の人に仕事を振るということを覚えなくてはなりません。また、周りの人たちは管理職や主任クラスが仕事を抱え込み過ぎないように、ルーティンワークを分担しなければなりません。

しかし、若くて力量がないから100%の力を発揮しなければならないかというと、私はそうは思いません。やはり60%、最大でも80%程度のエネルギーで仕事に取り組むべきだと考えています。やはり不測の事態に備えるためです。

仕事には予想だにしない、想像したこともない不測の事態がつきものです。普段から100%のエネルギーを使って仕事をしていたり、毎晩23時まで学校に残って日常業務をやっとこなしているという状態では、何かあったときに絶対に対応できません。パンクしてしまいます。精神を壊してしまかねません。そんなことになってしまっては、これまでの100%の力の発揮もすべて無駄になってしまいます。

実は、誤解を怖れずに言えば、100%の力を発揮したところで、私たちは決して100点満点の仕事などできないのです。60%で仕事をしたときに62点だったものが、100%発揮すると68点の結果が出る、その程度の違いしか生まないのです。

それならば、日常的には60%の力で仕事をして、余力を力量を上げることに向けたり、いざというときのために肉体的にも精神的にもゆっくり休んだりすることに費やした方がよくないでしょうか。50の力量を60に上げただけで、60%の仕事でも30が36に上がるのです。力量50の人が日常的にゆっくり休んでいれば、いざというときに全力で50の力を発揮できるのです。そんなふうに考えてみてはいかがでしょうか。

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3月24日(日)

1.授業づくりネットワーク」No.9/特集:「学びやすさ」を重視した説明・指示・発問の新しい一斉授業/私も寄稿しています。

2.女は変態を隠すために純情を装う
男は純情を隠すために変態を装う
いま、TWITTERに流れてきた。ある種の本質を突いた、なかなか味わい深い対比だ(笑)。

3.編集者から「あなたは自他共に認める弊社のトップライターなのだから早く原稿を上げろ」というメールが来た。「他」が何と言っているのかは知らないが、「自」にはそんな意識はない。返上するから見逃して欲しい(笑)。僕はいま、先週5日間のうち3日間も呑み会があって疲れ切っている。

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共鳴

皆さんは自分の力を最大限に発揮するにはどうしてら良いとお考えでしょうか。目の前の仕事に一所懸命に取り組むことでしょうか。それとも将来の自分はバリバリ仕事をしていると信じて、いまは力量形成を図るべく勉強を重ねているというイメージでしょうか。どちらも正論であり、ある意味では大切なことですが、私はそれではダメだと感じています。

いまという時間は、いまこの瞬間にしかありません。いまできることをいまこの瞬間にやらなければ、来年はもういまとは別の時間、別の空間が流れているのです。えっ?だからこそいま目の前の仕事に一所懸命に取り組んでいる? いいえ、ただ闇雲に取り組んだって疲れるだけです。少なくとも創造的な仕事にはなり得ません。

結論から言えば、創造的な仕事を日々為していくのは、たった一つです。それは、いまこの瞬間に隣にいる人と共鳴することです。

例えば、私の仲の良い先輩教師にK・A先生がいます。前任校で同じ学年を2年間組みました。2007年と2008年のことです。その2年間は私が学年主任、K先生が生徒指導担当という関係でした。

K先生と学年を組んだ最初の年、2007年のことです。私はこの年、校内人事で自分の学年にK先生が配属されるとわかった瞬間から、K先生の得意技と私の得意技とを融合して、何か大きな仕事をしようと決意していました。K先生は言葉は悪いのですがいわゆる「PCおたく」かつ「写真おたく」で、特に映像の編集技術に長けていました。一方の私は長く演劇部の顧問で、舞台の演出力に長けています。両者の得意技を融合すれば、きっと何かが生まれるに違いない。私にはそんな予感がありました。

結果、私とK先生はこの年、学校祭において30分間に及ぶ質の高い映像を駆使したステージ発表を作りました。生徒にも保護者にも大好評のステージ発表です。その年の私の学年の学校祭はもう大盛り上がり……。内容は割愛しますが、準備期間から本番当日まで、もう楽しくて仕方のない、そんな日々を送りました。

さて、大切なのは、例に挙げたこのステージ発表は私だけではつくることができなかったし、K先生だけでもつくることはできなかった、ということです。私とK先生の二人がたまたまこの年同じ学年に配属されたからこそ作ることのできたステージなのです。この意味がおわかりでしょうか。

私はこの年、K先生から映像の編集技術を教えてもらい、次の年からは一人で映像をつくれるようになりました。また、K先生も私から演出技術を学んだはずであり、その後は私がいなくてもそれまでより質の高いステー時を作れるようになったはずです。そして、先に述べたように私とK先生はたまたま次の年も同じ学年ではありましたが、このステージ発表をつくっている段階では、また同じ学年になれるかどうかはわからなかったのです。現在、私の実践にとって映像づくりは大変重要な位置を占めていますが、もしもこの年に私が「K先生と何かやろう」と思わずに自分自身の演劇づくりにこだわって学校祭に取り組んでいたとしたら、間違いなく現在の私はあり得ませんでした。

いかがでしょうか。私が「いまという時間は、いまこの瞬間にしかありません。いまできることをいまこの瞬間にやらなければ、来年はもういまとは別の時間、別の空間が流れているのです。」という意味をおわかりいただけたでしようか。

私の教師生活において、こうした他者との共鳴の例は枚挙に暇がないほどにたくさんあります。性別や年齢に関係なく、いま同じ学年に所属している者同士だからこそやれる、二人の得意技を融合して何かに挑戦してみる、私の教師人生はその連続なのです。

時は2年ほど遡って2005年のことです。私の学年に大学を卒業したばかりのS・D先生が配属されました。彼は大学でダンス部の部長をしていた若者でした。そのときもまだ現役でダンスの発表会などに出ていました。私はこのときも、私の演出技術と彼のダンス指導とを融合してステージ発表を作りました。私は現在、自分で踊ることこそできませんが、子どもたちにダンスを指導することを得意としています。

そもそも私の演出技術は1991年から1993年まで一緒に演劇部の顧問をしていたI・A先生と何度も共作で芝居を作ったことに始まっています。私の現在の合唱指導の在り方はかつての音楽科の同僚5人の影響をミックスして出来上がっています。国語の授業の在り方は「実践研究水輪」や「研究集団ことのは」といった私が長く所属し続けているサークルの仲間たちとの20年以上に及ぶ議論をもとに出来上がっています。

私は声を大にして確信をもって主張しますが、力量形成とは本を読んだり研究会で学んだりといった一人で行うことには限界があるのです。他者との共鳴によって力量が身に付くのです。他者から学ぶわけでも、他者から盗むわけでもありません。共鳴するのです。響き合うのです。響き合って何か一つのことを成し遂げるからこそ、知らず知らずのうちに力量が高まっているのです。知らず知らずのうちに学び盗んでいたことに気づくのです。

いかがでしょうか。職員室の隣の席に座っている同僚が明日から違う人に見えてくるはずです。隣の先生、あなたのもっていないどんな得意技をもっているでしょうか。実はあなたは知っているのではありませんか? そしてそれを学ぼうなどとは考えたこともなかったのではありませんか? そんなもったいない教師生活を送ってはいけません。来年、その先生は違う学年に言ってしまうかもしれないし、転勤してしまうかもしれないんですよ。

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3月23日(土)

1.自分の原稿が掲載された教育雑誌が2冊届く。ざっと眺めてみたが、他の原稿と比べて自分の原稿は「かたいなあ…」と思う。まあ、「文は人なり」だから仕方ないけどね。

Cover13031Cover130322.新刊『教室ファシリテーションへのステップ1 目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonで刊行されました。

3.新刊『教室ファシリテーションへのステップ2 目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonで刊行されました。

4.やはりこの時期は教育書がものすごい勢いで売れるものらしい。学級経営関係の本がどれもこれもamazonでものすごい上位にランクされている。学級経営カテゴリーの上位を占めている本が軒並み三桁になっている。すごいものだなあ。

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〈論理〉と〈情緒〉のバランス

人間ってのはそもそも矛盾した存在である。論理的に正しいことをしようとする自分と、情緒的に安定した生活を送ろうとする自分とが常に葛藤する存在である。たぶん社会で起こるすべて問題は、この〈論理〉の問題と〈情緒〉の問題との二つを基軸にして起こっている。少なくとも僕にはそう見える。

〈論理〉を重んじる人と〈情緒〉を重んじる人との間にはほぼ間違いなく軋轢が起こる。両者が子どもか大人か、或いは公的な場か私的な場かなどの条件によって激しい闘いになるか静かで冷たい闘いになるかの違いはあるけれど、職場でも家庭でも教室でも常にこの両者が軋轢を繰り返している。

日本人はもともと〈情緒〉を重んじることを習慣としてきた。何か大きな改革しようとするとき、何か大きな判断を施そうとしたとき、それが顕著が出てくる。みんなが感情的に受け入れられる場合にはその改革案なり判断なりがすんなり通るけれど、そうでない場合、つまり一部に感情的に受け入れられない層が存在する場合には、様々に抵抗されることになる。その改革や判断がどんなに〈論理〉的に正しかったとしても、みんなの〈情緒〉の安定のために「今回は見送って取り敢えず様子をみませんか」というところに落ち着く。そして、このような、多数の〈情緒〉の安定を優先する無意識的な同調圧力のことをこの国では「空気」と呼ぶ。

この同調圧力構造はあまりに強固で、多くの人々の生命にかかわる問題であってもまったく変わらない。言うまでもない有名な例で採り上げるのもはばかられるけれど、山本七平は戦艦大和の出撃を決める軍部エリートが集まった会議でさえ、日本人がこの構造から逃れられなかったことを詳細に報告している(『空気の研究』新潮文庫・一九七七年)。もしかしたら、こうした構造はあくまで古いタイプの日本人の意識構造であり、現代は西洋的な自己意識をしっかりもった個人が〈論理〉で考える時代がきている、そう考える読者がいるかもしれない。しかし、まったくそうではない。

バブルの崩壊以来、日本は基本的には不景気が続いているが、この間、社会は次第に〈情緒〉よりも〈論理〉を優先しながら運営せざるを得なくなった。パイを奪い合わなくてもパイの方がどんどん増えて行ってくれる時代が終わり、本格的にパイの配分方法を考えなければならなくなった。〈情緒〉を優先していては破綻してしまうわけだから、〈論理〉的に正当と思われる配分のルールを決めざるを得なくなったのだ。その結果、政治にも企業にも家族にも、「生き残るためには仕方ない」「食べていくためには仕方ない」と〈情緒〉の安定を放棄する〈論理〉的な判断がはびこることになる。パイの奪い合いを回避するためにどのようにフェアに分配するかではなくどのようにパイを増量するかだけを優先させてきた日本人、「パイが増えているのだから多少の配分のアンフェアくらいには目をつぶろう、自分たちも自分たちなりに去年より多くのパイがあたるのだから目くじらを立てることはない」と考えてきた日本人も、もうそういう考え方では自分も家族も守れないのだということを理解しつつある(『昭和のエートス』内田樹・文春文庫・二○○八年一一月)。「失われた二十年」とは、このことを、この国の人々が腹の底から実感するまでに要した時間だったのだという側面がある。

そのおかげでこの国の人たちはすっかり不機嫌を日常とする人たちになってしまった。その結果、せっかくお金を払っているのに充分な満足を得ることができないようなサービスしか提供されなかったとき、クレームをつけても良いのだという「空気」が醸成されてきた。自分たちの税金で喰っていながらいまだに安定神話のなかで生きているように見える公務員に対しては、いくらバッシングしても良いのだという「空気」も醸成されてきた。どちらも、既に増量のあり得ない限られたパイを支払っているのだから、満足を得るのは当然の権利だという〈情緒〉が国民的コンセンサスに至ったことを示している。〈論理〉が突出するとそれに伴って〈情緒〉のバランスは崩れてしまう。その顕著な例と考えられる。

子どもたちもこの同調圧力構造と決して無縁ではない。一九八○年代中庸から学校内のいじめが社会問題になってきたが、いじめもまた教室の多数派の「空気」によって起こる。いじりいじられるのが楽しい、多少のからかいはコミュニケーションの潤滑油である、階層が下の者が生意気な態度をとるのは自分たちの精神的安定を脅かす悪事である、子ども集団にこうした無意識的な善悪の感覚があり、それが集団のなかにいじめを肯定する「空気」をつくり出す。更に集団のノリによってその空気が増幅し、深刻ないじめへと発展する。簡単に言えば、いじめはこのような構造で起こる(『いじめの構造』内藤朝雄・講談社現代新書・二○○九年三月)。

これがいじめの基本的な構造ではあるのだが、もう少し詳しく言うなら、いじめはその規模によって二つの種類に分かれている。

一つはほぼ学級や部活動の全員に近い人数が某かの関わりを示す大規模なものだ。これはその構成員のほぼ全員が被害者・加害者・同調者・傍観者の役割のどれかを担うことになる。いじめ加害の中心は森口朗が〈残虐なリーダー〉と呼ぶ、自己主張力と同調力が高く共感力に乏しいタイプの子どもだ。この子に〈お調子者キャラ〉や〈いじられキャラ〉と呼ばれる他人に同調することをコミュニケーションの主軸として生きているタイプの子どもたちが、まさしく同調することによっていじめは集団化していく。現在、こういうタイプの子どもたちが特に男子において学級の大多数を占めているから、いじめ加害は〈残虐なリーダー〉を中心に集団化しやすい。こうしたいじめ加害集団が自己主張ができなかったり周りのノリに同調することがなかったりする子をターゲットとして、あくまで〈ノリ〉として集団的ないじめを行う。ときには、先生の言うことをよく聞き、他人への共感性も高い〈良い子キャラ〉の子さえ、学校行事等の公的な場で特に目立ってしまったことなどをきっかけにいじめのターゲットとなることもある。〈残虐なリーダー〉は学級への影響力が高く空気の支配力も高いので、いじめ加害集団の行為に批判的な眼差しを向けている子どもたちも自分が次のターゲットにされてはたまらないという思いを抱き、傍観者化せざるを得ない。こうしていじめは大規模化し、学級組織や部活組織においてもはや人間関係、上下関係が固定化して攻撃性が加速度的に高まっていく。加害集団にとってそれは〈ノリ〉に従った〈遊び〉として意識され認識されているから始末に悪い。こうした構造を森口朗は自身の学校事務職員としての観察から詳細に分析している(『いじめの構造』森口朗・新潮新書・二○○七年六月)。

こうした学級組織や部活組織における〈コミュニケーション能力〉の是非を基準とした人間関係の上下関係、階層関係を俗に〈スクール・カースト〉と呼ぶ(『教室内カースト』鈴木翔・光文社新書・二○一二年一二月)。〈スクール・カースト〉は小学校高学年以上のある種の子どもたちにとっては絶対的な権威をもつ地位・階層を決める基準であり行動の基準である。しかし、この構造が最もやっかいなのは、大人社会では考えられないような断罪の基準となってしまうことだ。カーストの低い子がカーストの高い子にいわゆるタメ口をきいただけで「名誉毀損罪」に問われたり、カーストの低い子がカーストの高い子と廊下で視線が合ったというだけで「交視線罪」に問われたりといったことが、この〈スクール・カースト〉を基準に行われる。こんなことでいじめのターゲットが選ばれるとすれば、カーストの低い子にとってみれば学校は暴力的な専制君主国家以上に暴力的な場になってしまう(『いじめ加害者を厳罰にせよ』内藤朝雄・ベスト新書・二○一二年一○月)。

もう一つは、学級や部活といった公的で大規模な集団ではなく、そのなかにある私的で小規模な集団で行われるいじめだ。要するに、学級内にたくさんある小グループの仲間集団を想定していただけると理解しやすい。昨今、学級集団や学年集団のような中間集団に対する意識が子どもたちのなかでかつてと比べて希薄になってきていることがよく指摘される。その構図は地方自治体や町内会に対する大人の意識の希薄化と位相を同じにしているので、僕にはそれほど驚くに値しない現象のように思われる。しかし、地方自治体や町内会は個人個人にそれほど強く労働や帰属を強要しないけれど、学級は全員で力を合わせて取り組めと強要される行事が年に何度も行われる。その意味では学校教育としては困った現象の一つにはなっている。

さて、この小グループ。実は〈スクール・カースト〉とは真逆の徹底した〈フラット関係〉が求められることに注目しなければならない。だれも上位にあってはならない、だれも下位にあってはならない、いじったりいじられたりといった日常的なたわいない上下関係はあるものの、それはあくまで瞬間的であり、決して固定化されたものではない。いわば上下関係が潤いのある流動化されたものであるがゆえに、結果としてその構成員の〈フラット関係〉が保障されている、そうした小さな人間関係である。こうした人間関係では、お互いに瞬間的に空気を読み合い、キャラクターを演じながらその場でより楽しい空気を醸成していくことが求められる。互いに互いを傷つけることは決して許されず、互いが互いに優しい眼差しを向け続けなければならない。その意味で〈抗空気罪〉のようなものに非常に敏感な人間関係となる(『友だち地獄─「空気を世む」世代のサバイバル』土井隆義・ちくま新書・二○○八年三月)。

よく教師が仲の良い小グループにいじめが起こって驚くことがあるが、それはこうした人間関係のなかである子がそのグループの〈フラット関係〉を乱すような発言・行動をとったことに起因する。こうした小グループは〈フラット関係〉を絶対善としているがゆえに、その関係は常に微妙である。人間、どんなに努力しても〈フラット関係〉を維持するような動きばかりをとれるわけではない。ちょっとした冗談が他人を傷つけたり、ちょっとした言い過ぎが他人に腹を立てさせたりということを完全に避けることができないことなど、考えてみれば当たり前の話だ。しかし、この小グループはその完璧性を求める。だから端から見ていてはわからないが、暴力や暴言を伴わない小さないざこざが毎日のように頻発しているのが現状なのである。こうした小グループの一人からいじめの訴えがあって教師が指導に入って事情聴取をしてみると、よく加害者とされる子があの子が先に私を傷つけたのだと〈正当防衛〉を主張することが多いのはこのせいである。お互いにお互いを傷つけることを回避しようとしている人間関係において、たまたま教師にいじめられたと訴えた子はあくまで教師への告げ口という掟破りをしたのであり、私はそういう掟破りをしなかっただけで自分もあの子に何度も傷つけられたことがある、そういう論理である。この言い分は彼ら彼女らのなかでとてつもなく強固だ。空気を読み合う息苦しさの毎日のなかで、自分だけが悪者とされたことに徹底して抵抗しているのである。

学校や企業が若者たちに〈コミュニケーション能力〉を求めるとき、それがアメリカ型の自己主張力の方向であろうと日本的な摩擦回避の方向であろうと、こうした日常を過ごす若者たちにその能力を求めているのだということは大きく意識した方が良い。言わば彼ら彼女らは〈コミュニケーション能力〉という言葉を使わないだけで、〈コミュニケーション能力〉の評価し合いに疲弊しきっているのだ。そんな若者たちに「自己主張力をもて」とか「摩擦回避に気を遣え」とか言っても、「またか……」と溜息が聞こえてきそうである。〈論理〉と〈情緒〉のバランスを取りながら生きることに子どもの頃から疲弊しているというのが、この国の人たちの真の姿なのではないか。日常的に中学生に接している僕にはそう思えてならない。

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3月22日(金)

1.朝から新年度準備の事務仕事。小中学校合同の避難訓練。指導要録の一斉点検。送別会の準備。学年の呑み会。午前様。

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3月21日(木)

1.1時間目は若手英語教師の授業参観。かなり厳しいことも書いたが、本人にとっては大いなる一歩になるだろう。2~4時間目は新年度の年度当初に必要な文書を作成。午後も次々に新年度の文書をつくっていく。勤務時間が終わるとともに取材が一つ。その後、一度帰宅し、亀八に飲みに出る。

2.帰宅後、メールにて編集者と打ち合わせ。

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振る舞い

かつて社会は〈役割〉で動いていました。父という役割、母という役割、子供という役割、学生という役割、教師という役割……。上司という役割、部下という役割、医者という役割、お巡りさんという役割、八百屋のおじさんという役割、大工さんという役割……。

このあたりでやめておきますが、社会が〈役割〉で動いていた時代には、それぞれの役割さえ果たしてさえいれば責任を果たしていると認められ、それぞれの振る舞いがそれほど問題視されることはありませんでした。実際、明るく優しい父親であろうと頑固で無口な父親であろうと、父親の役割と責任を果たしてさえいれば、その違いは小さなものとされ個性の範囲内とされて認められていたのです。そんな時代ですから、当然、教師にも同じ眼差しが向けられていました。教師それぞれのキャラクターや手法が多少異なっていたとしても、子どもたちを愛し、子どもたちを導いてさえいれば、それは教師の個性の範囲内とされて認められていたのです。

かつての〈役割〉の時代には「アイデンティティの獲得」ということが盛んに言われました。青年期にはモラトリアムに陥るけれど、就職をして自分の役割ができるとともに自身の自己認識と他者からの評価とが統合され、「職業的アイデンティティ」を獲得するとともに精神的な安定を得て自らの人生を歩み始める、意識するしないはともかくとして世の中の人たちはそんなふうに大人になっていきました。教師も子どもたちを愛し導くことで自分の役割を自覚することができ、日々の自分らしい教育活動を展開するなかで自己実現を図ることができたのです。

ところが、社会が豊かになり情報が豊かになるとともに、社会は〈役割〉で動く時代から〈振る舞い〉で動く時代へとシフトしていきました。自分がどんな〈役割〉をもっているかに拘わらず、場に相応しい〈振る舞い〉というものがある、世の中の中心にそんな眼差しが浮上してきたのです。おそらく社会の豊かさが判断・評価の権限を供給側から需要側へと委譲させ、情報の豊かさがすべての人々にに対して「あるべき〈振る舞い〉」のイメージを普及させてしまったのです。どんな〈役割〉をもつ人々もその「場に応じたあるべき〈振る舞い〉イメージ」から逸脱することは許されなくなってしまつたのです。

例えば、政治に大きな動きが出て来たときによくテレビで流れる街頭インタビューを見ていると、この度の政策に賛成の反対の人も知ったか振りの評論的な意見を述べています。どの意見も紋切り型で、インタビューを受ける人たちはいくらでも入れ替え可能に見えます。だれもがマイクを向けられた瞬間に、こういうときにはどう応えるべきかということをテレビで見た自分のなかのデータベースに照らして演じているわけですね。場に応じてデータベースと照らし合わせて、相応しい振る舞いを演じるということです。

同じように、教室ではこういうときにはこういうキャラを演じなければとか、高級レストランでは彼女にこういうことを言わなければとか、上司にはさわやかな印象をもつある有名俳優のように対応しようとか、要するにテレビで見たドラマやお笑い番組をモデルにして、その場に相応しいイメージを振る舞う世の中になっているわけです。

これに拍車をかけているのが、携帯電話を初めとするパーソナルメディアです。メールの内容よりも素早いレスポンスという〈振る舞い〉が重視されるとか、「私は正しい」「私は義憤に駆られている」という〈振る舞い〉を示すためにみんなが一斉に問題発言らしきものを攻撃することによっていわゆる「炎上」が起こるとか、そうした現象があちこちで見られます。

こうした時代になると、需要側の人たち(=消費者)は供給側の人たち(=サービス提供者)に、需要者個人のなかにあるデータベースから恣意的に引っ張り出してきた、あくまで自分のなかの「あるべきイメージ通りの〈振る舞い〉」を供給者側に要求し始めます。情報化社会故に理屈づけのデータベースもいくらでもありますから、あれこれと恣意的な理屈を並べ立て、とにかく供給者側に自分のイメージ通りの〈振る舞い〉をせよと迫るようになります。需要側(=消費者)にはその権利があるのだ、と言い張るようになります。ごくごく簡単に言えば、クレーム社会はこうして生まれたのです。

教師に対する保護者クレームやマスコミによる教師批判(最近は教育委員会批判も多い)も、おそらく同じ構造で起こっています。要するに、東浩紀の言うような「データベース社会」の到来です(『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社現代新書・2007年3月)。

ときに保護者が「先生のくせにそんなことを言って良いんですか」と言ったり、子どもが「教師のくせにそんなことして良いのか」と言ったりすることがあります。そして当の教師もその言葉に尻込みをしてしまうことも少なくないわけですが、それは社会が〈役割モデル〉の時代から〈振る舞いモデル〉の時代へと大きくシフトしているのに、当の学校側・教師側がまだまだ〈役割モデル〉による自己認識で動いていることに起因します。

身も蓋もないことを言ってしまえば、もう教師は「教師然」とした〈振る舞い〉を基軸にして仕事をしていくしかないのです。それも自分のなかの教師らしさではいけません。あくまでも社会のなかにある「最大公約数としての教師らしさ」を意識する必要があります。しかも社会でコンセンサスを得ている教師らしさは一つの教育問題がセンセーショナルにマスコミに取り上げられることによって日々変わっていきますから、その〈空気〉というか〈雰囲気〉というか〈イメージ〉というか、曖昧で流動的なデータベースの中心を担う「教師らしさ」を敏感に察知しながら対応しなければなりません。そういう時代がやって来たのです。

その「教師らしさ」から逸脱した自分のなかの教師をモデルに生きようとすれば、かなり大きなリスクを覚悟しなければなりません。その覚悟をもてる人だけが個性的な教師になることができる、そういう時代なのです。

いかがでしょうか。絶望的な気分になった読者も少なくないかもしれません。紙幅が尽きました。この時代への教師の対応として、私は学年団や職員室がそれぞれの教師の個性を活かしたチームとしてその能力を発揮することを提案しています。詳細は拙著『教師力ピラミッド』(明治図書・2013年1月)を御参照ください。

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3月20日(水)

1.妹から借りてきたSUGARのセカンドアルバムを録音したカセットテープを聴いている。たぶん25年振りくらい。家の押し入れにカセットテープを聴けるCDラジカセがあったのだ。スイッチを入れた途端に聞こえるスーッというノイズが懐かしい。人生で最も聞いたノイズに違いない。このノイズ、大袈裟に言えば人生のノイズだ。

422962962.COFFEEBREAK/SUGAR/1982
★★★★★
「Bobby soxer物語-夏の少女Anna」が素晴らしい。この物語性には当時やられてしまった。SUGARは決してB級ではない。ベーシストのモーリは1990年の僕の誕生日4月7日に亡くなった。

SIDE A
  1.Misty Night
...  2.キラキラSummerメモリー
3.女は色よ
4.Who are you
  5.Lindy
  6.熱い夢
SIDE B
  1.私〇にほりか人
2.ギャルズ・パワー
3.Bobby soxer物語-夏の少女Anna
  Early Summer  Mid Summer  Late Summer
  4.ウェディングベルその後
5.オーラーメン
もっと見る

3.A面が終わり、早送りして引っ繰り返すというこの感触。ああ、何十年ぶりだろうか。それにしても特に劣化している様子もない。すごいものだ。SONYのTYPEⅡ(CrO2)POSITION「UCX-S60」。インデックスには僕の小さな文字で「DATE:57.10.23」とある。高校1年の10月かあ……。

602690_429573160468478_632953994_n4.ROYCE'
いくらなんでもこれはないだろう(笑)。まあ、買ってくる方も買ってくる方だけど……。

5.完全な二日酔いで目が覚め、原稿書いて昼寝して、原稿書いて昼寝して、原稿書いてプロット立てて昼寝して、飯喰って原稿書いて音楽を聴いて23時30分。雪がしんしんと降り積もり、静かな夜。 煙草を買いに行って帰った来たら、煙草を買いに行ったときの足跡が消えているくらいの雪である。

6.ここ数日、いろいろ悩んでいたが腹が決まった。まずまず構想もできてきた。来年度のシステムが見えてきたということだ。明日からはそろそろ重い腰を上げて本格的に新年度準備をしなければならないようだ。一つ一つ形にしていく作業をはじめなければならないようだ。思いの外楽しい作業になりそうだ。

7.明日の1時間目は、ほんとうは一昨日行うはずだったのに小学校の卒業出席で延期になってしまった若手英語教師の授業参観。あとは新年度準備の文書づくり。午後は学級編制会議。夕方から取材が1本入っている。忙しいと言えば忙しい一日だが、なんとなく過ぎて行くに違いない。なんとなくが良いのだ。

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ベクトルの異なる〈コミュニケーション能力〉

実態のない言葉に囚われ、踊らされてはいけない。その最たるものが〈コミュニケーション能力〉という言葉だ。これほど実態を伴わないのに世の中を闊歩している言葉もない。僕は正直、そう感じている。そもそも、だれもがこんなにもこれからの時代に必要だと喧伝する能力だというのに、だれも〈コミュニケーション能力〉という語を定義してくれないなんておかしいじゃないか。「シンボルを創造しそのシンボルを介して意味を共有するプロセス」(『コミュニケーション学 その展望と視点』末田清子・福田浩子・松柏社・二○○三年四月)なんていう学術的な定義はあるけれど、世の中を闊歩しているこの語の用いられ方は、こんな学術的な定義からは遙か遠くにあると言わざるを得ない。それが現在(いま)を生きる僕らの実感である。

いったい〈コミュニケーション能力〉って何なんだ? 巷では「自分の能力、自分の良さをはっきりと主張できる力だ」とか「自分の意思を強く持って突き進んでいくことだ」とかいった方向性で捉えている人が多いような気がする。でも反対に、「人の気持ちを察しながら行動できることだ」とか「周りとのホウレンソウを大切にしながら協調していくことだ」とかいった方向性で捉えている人も決して少なくない。要するに、アメリカ型の自己主張力のベクトルで考える人と、日本型の摩擦回避のベクトルで考える人とがいるわけだ。世の中には〈コミュニケーション能力〉について、ベクトルの異なる二つの主張が相半ばして混濁し、僕らを混乱させているというのが現状なのではないか。

最近、平田オリザが両者を止揚する形で〈コミュニケーション〉を「対話の成立」と捉え、互いにわかりあえないことを前提に〈対話〉の作法を身につけることを提唱している(『わかりあえないことから』講談社現代新書・二○一二年一○月)。でも、これとて理屈としてはよくわかるけれど僕たちの感情が、どこか深いところから湧き出る感情がいま一つ納得させてくれない。おそらく僕たちはわかりあいたいのだ。そして、識者が何と言おうと、無意識のうちにわかり合えると思ってしまうのだ。そしてそれは僕らの親世代を見ていても毎日接している中学生を見ていても寸分の違いもない、世代を超えた現実なのだ。この現実をどうするかという臨床を抜きにして作法が大事などと言われても、理屈で頷きながらも感情が拒んでしまう。頭の理解と心の理解とに引き裂かれてしまう。それが日本人の性(さが)なのだからどうしようもない。

例えば、つい先日のことである。僕は勤務校の新校舎落成式典の打ち上げで、同僚やPTA役員、地元の市会議員らとともにホテルの宴会に出席していた。宴会も終わり、さあ、二次会と思った矢先、ホール係の女の子が僕に話しかけてきた。
「堀先生、覚えてますか?私、上篠路中でお世話になったOです。S太郎の妹で……」

顔をよく見ると、化粧をしてはいるけれど確かに四年前に僕が担任していたO・Mだった。僕は「Mか!」と言って、瞬間的にその女の子を抱きしめていた。愛おしくて仕方なかったのである。美羽は涙を流しながら、「堀先生…」と何度も呟いていた。

実は僕は中学一年生の一年間だけこの子たちを担任して、現任校に転勤したのだった。卒業まで面倒をみなかったということが、どこかこの子たちを捨てたのではないかという贖罪の心理を抱かされる、そんな生徒たちの一人だったのである。その彼女が、僕が彼女自身を覚えていないとでも思ったのか、「S太郎の妹で……」とその前年まで僕が担任していた兄の名を出して想い出させようとしたのである。MとS太郎をセットで捉えているというイメージを彼女に与えている自分が情けなくさえ感じられた。

Mは「堀先生…」としか言わなかった。僕は「Mか!」としか言わなかった。言葉はそれだけだったけれど、間違いなく彼女は僕に「いまもあなたは私にとって大事な先生です」と言っていたのであり、僕は彼女に「いまでもお前をあの頃と変わらず愛している」と告げていたのである。そこには同僚やPTAもいたから、その後、髭面のおっさんが女子高生を抱きしめるなんていやらしい……と冗談半分にからかわれたが、僕は「何とでも言え」と開き直っていた。

日本的なコミュニケーション、わかりあえたという実感は、例えばこんなふうに僕らのもとに突然やってくる。こんな濃密なコミュニケーションを、互いを包み込むコンテクストと連動したノンバーバルコミュニケーションを実感として生きている僕らが、国際化社会だからわかりあえないことを前提に「対話の作法」を身につけなさいなどと言われても戸惑ってしまう。そう簡単に日本的な〈察しの文化〉は捨てられないよと感じてしまう。だって、わかりあえたという実感はあまりにも心地よいんだもの。

逆もある。こちらは数年前の話だ。僕が代表を務めるある研究会の若手男性メンバーが、この研究会に所属しているという理由によって勤務校で「いい気」になっているという話が僕の耳に入ってきた。ちなみに僕と近い、かなり信用できる筋からの話だった。更に聞くと、その若者は「オレは堀先生や○○先生と懇意にさせてもらってるんだぞ」と、お前とは格が違うとでも言うように自分より若い同僚に対して生意気な態度を取っているとも言う。更には管理職に同僚のミスを告げ口までしているという。僕はこういう「虎の威を借る狐」が大嫌いである。しかも、ある研究会に所属していることと実力があることとはまったく関係のない話である。

しかし、噂はあくまで噂である。僕はすぐにその若者に電話をかけ真偽のほどを確かめることにした。いろいろ言い訳をしていたが、どうやら本当のことらしいことが本人の弁でわかってきくた。実力もないくせに虎の威を借るとは何事か。しかも、研究会の中心メンバーの個人名を出して、権威づけを施すなど以ての外だ。更に言えば、個人的には僕自身の名が出されていることも甚だ腹立たしい。

僕はその日のうちにこの若者を研究会から除名した。冗談じゃない。研究会にとってまったくプラスにならない。プラスにならないどころか、大きなマイナスだ。それもとてつもないマイナスだ。こんな人間とは付き合いたくない。誤解されないように言い添えておくと、僕の人生において、僕が自分の研究会から除名するなどという暴挙に出たのは後にも先にもこの若者しかいない。数ヶ月後にこの若者が僕らの主催する研究会に姿を見せ、謝罪とともにもう一度復帰させて欲しいと頭を下げに来たことがあったが、僕は「ここはお前の来るところじゃない」と追い返した。それほどに僕の怒りは激しかったのである。

おそらく彼は自分の職場での軽口がこんなにも大きなことになってしまうとは、予想だにしなかっただろう。しかしこんなふうに、ちょっとした軽口が、しかも当の本人には見えない場所での軽口が、当人も驚くほどの致命的な結果をもたらしてしまうのも、いかにも日本的なコミュニケーションの在り方といえる。彼は僕らとの何年にもわたる付き合いのなかで、僕らの研究会がこうした「虎の威を借る狐」的行為を何よりも嫌い、公務との軋轢を避けながら自分たちの研究活動にできるだけ批判が集まらないようにするという基本姿勢をもっていることを察することができなかったのである。この件の裏にも、深いところにやはり〈察しの文化〉がある。言わば僕は、この若者に自分と同質の〈察しの文化〉がないことを感じ取り、彼とわかりあうことを拒否したのである。あまり良い話ではないことを承知で言うのだが、これもまた濃密なコミュニケーションの一例ではある。

先に、この国の〈コミュニケーション能力〉という語が、アメリカ型の自己主張力のベクトルと日本型の摩擦回避のベクトルとに引き裂かれていると述べた。僕は明らかに前者に主眼を置いて日常生活を送っている。事実、この原稿を書くうえでも、どのように伝えれば自分の主張が読者に理解されるだろうかと様々な手立てを考えながら書いている。そこに決して少なくない時間をかけて書いている。文章を書くうえでのルール違反を承知で裏話をすれば、O・Mと除名した若者のエピソードだって、幾つかの候補の中からこれが伝わりやすいだろうとかなり念入りに吟味して選んだものだ。手前味噌だが、僕は一般的な教師よりも自己主張力に優れていると自負している。しかし、そんな僕でも、ときにこんなふうに日本的な濃密なコミュニケーションに取り込まれてしまうのだ。

この国で〈コミュニケーション能力〉を考えるときには、この二つの異なったベクトルに引き裂かれるという独特の構造を抜きには考えられない。この認識に立たないことには、〈コミュニケーション能力〉を考えるスタート地点にも立てない。僕はそう思う。

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3月19日(火)

1.出勤すると教頭が出席できなくなったので、急遽川北小学校の卒業式に出席して欲しいと言う。自宅に戻り、スーツに着替え、川北小学校へ。来賓として小学校の卒業式に出るのは3回目。小学校の卒業式も中学校の卒業式と内容的にほとんど変わらなくなってきている。服装が華やかだということくらい。

2.午後からは新年度人事の仮発表。その後、学級編制会議。短時間で抽出生徒の確認だけして終える。あとは並べ替えるだけだ。年度内には出来上がるだろう。夜は日本酒好き6人が集まっての呑み会。いつものようにたらふく呑んで、学校の話をする。新年度人事の大枠が見えた日だったこともあり盛り上がる。

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教師に必要な資質

拙著『教師力アップ 成功の極意』(明治図書/2012.10)において、私は教師に必要な資質として5点挙げました。第一にいつも笑顔でいること、第二に孤独に耐える力をもつこと、第三に無駄とわかっていることに取り組めること、第四に子どもといっしょに馬鹿げたことを一所懸命にやるのを楽しめること、第五にいつでも変われること、の五つです。少なくとも私にとって、教師とはこういう職業です。

私の同僚にWという体育教師がいます。年齢は三十代の半ば。大学の教育学部を出て、一度小さな出版社に編集者として勤め、その後教職に就いたという変わり種です。私が出逢った頃には細かいことを気にせず、すべてを心の在り方の問題として捉え、大雑把に指導する教師でした。本人自身がかなりユニークで魅力的な男ですから、それでやってこられたのだろうと思います。いいえ、そのままの感覚で教職を続けベテランになっていったとしても、かなり良い教師、力量の高い教師になっただろうとも思います。

私はW先生と同僚になって2年目、W学級の副担任を務めました。その年にはその学年にK先生というかなり厳しく同僚を指導する大ベテランも配属されました。W先生はK先生と私に「だらしない」「提出が遅れるとは何事か」「社会人としてやるべきことはやらねばならない」と四六時中言われる1年間を送ります。それから2年が経ちました。現在、W先生は学級経営にも生徒指導にも事務仕事にもかなり力量を発揮する教師になっています。W先生が今後、どういう教師人生を歩んでいくのかは私には知る由もありませんが、おそらく彼は偉大な教師になっていくはずです。そのくらいW先生のこの2年間の成長振りには著しいものがあるのです。

私は私やK先生の指導の成果がW先生を成長させたと言いたいわけではありません。W先生は私が出逢ったときには、私が冒頭に挙げた五つの資質のうち、第一から第四までを既に資質としてもっている教師でした。しかし、彼の凄みは私やK先生の指導の内容を自分の頭で考え、それを取捨選択しながらも基本的には受け入れたことにあります。つまり、第五の資質「いつでも変われること」、言い換えるなら「今の自分を壊し、新しい自分になることを怖れないこと」を構えとしてもっていたのです。

口うるさい先輩教師の指導を聞き流し、自分は自分だと態度を貫くことはできたはずです。むしろそういう人の方が世の中には多いのが現実です。しかし、W先生はそれを潔しとせず、自分のマイナス面に目を向け、それが生徒たちにどういう悪影響を及ぼしているのかを真剣に考えたのです。人を成長させるのは実は何を措いても第五の資質、つまり「いつでも変われること」なのです。

教師は子どもたちに対して「変われ」と言い続ける職業です。知識を持たない子どもに知識を持つことを強い、技能を持たない子どもに技能をもつことを強い、もっと思いやりを、もっと責任感を、もっとリーダーシップをと際限なく「変われ」と強い続ける、それが教師という職業です。しかし、このことに自覚的な教師はなかなかいません。子どもたちには「変われ」と命じ続けているのにその自覚をもたず、自分はいつまでもたいして根拠のない「自分」に留まり続けようとする、それが多くの教師たちの姿です。そのスタンスが職員室でもはびこり、他人に変わることを要求するのに自分は変わろうとしない、その構図によって起こる軋轢のなんと多いことでしょう。

人間が大きく変われるのは三十代までです。教師に限りませんが、職業人としては二十代・三十代が往路、四十代・五十代は復路にあたります。往路で「いつでも変われること」が資質として身につけば四十代・五十代も成長し続けられますが、そうでない場合は往路の貯金を切り崩す復路を過ごさねばなりません。往路において大転換はあるものだということを学べば、復路においてもその構えをもって仕事に対することができるのです。

私は現在四十代の半ばですが、二十数年間の教師生活、職業人生活において、そんな結論に至っています。そして大転換はいつでも起こるものなのだから、この結論にも大転換が起こる日が来るかもしれないという構えを忘れていません。むしろ、次の大転換を楽しみにし、心待ちにしている、そんな実感があります。

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3月18日(月)

1.公立高校合格発表日。札幌工業高校、大通高校、東高校と3校に合格者名簿をもらいに行く。11時15分に学校に戻り、ちょっとゆっくり。4校時、11:55~12:45には若手英語教師の授業を参観。細かく指導メモをとる。育ててみたい逸材。午後は不合格生徒が登校する。表情を見ているのが辛い。

2.退勤後、岩見沢へ。両親ともに元気。もってきて欲しいものをリストアップ。次までにもって行くことを約束する。実家に行き、土日で妹がまとめたゴミを出す。グッピーも元気。高速を飛ばして帰宅。岩見沢行きの時間が短くなってきている。面会時間の関係で長居もできないので仕方ない。

Cover13031Cover130323.新刊『教室ファシリテーションへのステップ1 目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonでの予約が始まりました。

4.新刊『教室ファシリテーションへのステップ2 目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonでの予約が始まりました。

5.明日も別の英語科若手教師の授業を参観する予定。その後、学級編制会議が長く続きそう。夜は北白石中学校「黒の会」の呑み会。日本酒好きの腹黒い男性教諭6人でたらふく日本酒を飲む会である。

6.「コミュニケーション能力を育てる」第1章第1節を書いて編集者に送る。文体の確認と書き出しがこれで良いかどうかを確認するため。最初の数頁を書いた時点で編集者とじっくり打ち合わせるのが堀流。ここが定まれば、それなりに進んでいく。あとはちょっと頭を使った肉体労働に過ぎない。

7.前に一色紗英がこういう書かれ方をしたときにも言ったが、女性の容姿に限らず、人に対して「劣化」という言葉を使うのはどうかと思う。言語感覚を疑うのみならず、神経を疑う。
http://news.nifty.com/cs/topics/detail/130318648205/1.htm

Image0118.幼少の頃から、もう抵抗のしようがないほどにケロヨンが大好きだ。いつ、どこで、どのように好きになったのか、まったくわからない。でも、なぜ好きになったのかはわかる。いまもケロヨンを見ると、幼少の頃と同じ気持ちになるからだ。

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初志貫徹

私は正直なところ、人生においてただの一度も「初志貫徹」したことがないような気がしています。心ならずも初志を貫徹できなかったのではなく、「初志」というものを抱いた記憶がないのです。

私の人生には基本的に計画性というものがありません。人生の岐路に立ったことは幾度かありますが、そのときそのときに一番良いかなと考えた道を進んできただけというのが実感です。未来にこうやってああやってという計画がない以上、何かを始めるときに「志」をもつこともありません。私はいまだに、来年のことはわからないなあ、来年の今頃はもっと成長していたら良いなあ、いま見えていないものが見える自分になっていたら良いなあ、そんな感覚だけで生きています。

そもそも人間は、計画を立ててしまうと計画通りに生きたくなってしまいます。目標を持って一歩一歩努力していく、目的をもって一つ一つ進めていく、ともに一般的に美徳だと思われていますが、私はまったくそう思いません。自分の立てた計画にこだわって、何かトラブルが起こったときに対処できなかったり、何かチャンスが巡ってきたときにつかみ損ねたりすることが多い。私にとって、計画性とはそうしたネガティヴなものです。

わざわざ自分で計画など立てなくても、1年を通じて学級経営でやらなければならないことは決まっていますし、授業で扱わなければならない教材も決まっています。学校というところは1日の時程が完全に決まっています。その通りに動いていれば、職員会議で決まった計画的な日々が送れます。

私は教師の仕事における計画性など、その程度で良いと思っています。自分が立てた計画に囚われて、その通りに物事が進まないことにイライラしてストレスを溜める。そんなことになるくらいなら、学校の計画に流されていた方がずっと楽です。

むしろ私は自分で計画を立て、自分自身を律しながら生きていくことよりも、自分の勤務校がより良い計画を立てて、私自身をより成長させてくれるような方向性で仕事をしています。つまり、自分の昼間の生活は学校の在り方に依存しているわけですから、その学校自体が私を高めてくれる環境になれば私自身が間違いなく高まる、こういう考え方ですね。ですから、会議では様々な改革案を提示しますし、会議で決めるようなことではないこと(慣習とか空気とかですね)については根回しや調整も積極的にします。

もちろん、自分だけが成長できれば良いというエゴイスティックな考え方で動いているわけではありません。だいたいそんな提案は職員会議で徹りようがありません。子どもたちが成長し、職員の負担を減らし、それでいてある程度の楽しさを保障できる、そういうシステムはないかといつも考えています。

考えながら行動し、行動しながら考えるタイプですから、「初志」などもてるはずはないし、「貫徹」とも無縁なのです。自分をできるだけフラットな状態にしておかないと、子どもたちの問題点にしても職員室の問題点にしても、「あれども見えず」の状態に陥りやすいですから。

これが私の日常的な意識です。

私に「初志」らしきものがあるとすれば、教員採用試験に合格したときに決めた「校畜にならない」ということくらいでしょうか。

私が教員になったのは1991年ですが、当時は戦後民主主義がつくった「会社に人生を捧げ、会社に人生を守ってもらう」という意味合いの「社畜」という言葉が流行していました。それと同時に、そうした生き方を批判的に見る雰囲気も蔓延していました。

この時代の機運を一身に浴びて育った私は、「札幌市の教育のため」とか「勤務校のため」とか「子どもたちのため」とか、そういう抽象的なものに自分の人生を取り込まれないようにするということを徹底しています。私の仕事の対象は目の前にいる名前をもった具体的な子どもたちと具体的な保護者たち、具体的な同僚たちであって、「札幌市の教育」や「○○中学校」や「一般的な子ども概念」のためではありません。ですから、目の前の子ども・同僚と「札幌市の教育」や「○○中学校」との間に利害の対立が生まれたときには、迷うことなく前者の利益を優先します。まあ、言うなれば、私は〈利益誘導型教員〉です(笑)。

もう一つは、基本的に時間外勤務をしないということです。朝早く学校に来てひと仕事するとか、夜遅くまで遺って仕事をするとか、そういう習慣は新卒時代から一切ありません。もちろん、生徒指導が入ったり保護者が来校したりということがあれば残りますし土日でも対応しますが、基本的に勤務時間外に事務仕事をするということが私にはありません。

勤務時間外に会議を設定しようとする人がいた場合には文句を言いますし、それでも改まらなければ出席しません。逆に、会議開始時間に遅れてくる人にも文句を言いますし、自分がセッティングしている会議であれば全員が集まらなくても時間通りに会議を始めてしまいます。職場にこういう人間が一人でもいると、会議は勤務時間内に行われるようになっていきます。そしてそれが当然の姿なのです。

私の本を読んで、読者は私のことをいろいろなことに精通し、ものすごく仕事をしている教師だというイメージで見ているようです。しかし、実際はそうではありません。私の提案の多くは、勤務時間にしか働かないために仕事を効率化するにはどうしたら良いかという発想で生まれたものです。特に事務仕事系の提案はこの傾向を強く持っています。私は長年、時間外勤務をしないために徹底的に効率化とスピードアップを図り、例えば評定なら3時間で出しますし、通知表所見なら40人分を2時間で書く技能を身につけました。職員会議の提案文書なら1枚につき15分、授業のワークシートなら1枚5分、定期テストの問題なら100点分を1時間かからずに作ります。

仕事術というものは時間の有限性を意識したときに初めて生まれるものです。夜遅くまで学校に残っている人たちの仕事振りを見ていると、私はその無駄の多さにイライラします。そういう人に限って、「志」や「計画」の名のもとに無駄なこだわりをもっているように思えてならないのです。

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3月17日(日)

1.教師は子どもたちに対して「変われ」と言い続ける職業です。知識を持たない子どもに知識を持つことを強い、技能を持たない子どもに技能をもつことを強い、もっと思いやりを、もっと責任感を、もっとリーダーシップをと際限なく「変われ」と強い続ける、それが教師という職業です。しかし、このことに自覚的な教師はなかなかいません。

2.子どもたちには「変われ」と命じ続けているのにその自覚をもたず、自分はいつまでもたいして根拠のない「自分」に留まり続けようとする、それが多くの教師たちの姿です。そのスタンスが職員室でもはびこり、他人に変わることを要求するのに自分は変わろうとしない、その構図によって起こる軋轢のなんと多いことでしょう。

3.人間が大きく変われるのは三十代までです。教師に限りませんが、職業人としては二十代・三十代が往路、四十代・五十代は復路にあたります。往路で「いつでも変われること」が資質として身につけば四十代・五十代も成長し続けられますが、そうでない場合は往路の貯金を切り崩す復路を過ごさねばなりません。往路において大転換はあるものだということを学べば、復路においてもその構えをもって仕事に対することができるのです。

4.一般に学校組織において、若手教師に求められるのはうまくやることではありません。そつなくこなして安定することでもありません。言わば、ぐんぐん成長することです。教師というものは、基本的に人が成長するのを見るのが好きなのです。力量の高い若者よりも、失敗してもいいから前向きな若者が好まれます。それが、どうしようもない教師の性(さが)です。あなたが若手教師であるなら、成長を拒まないことが大切です。

5.人は成長するとき、言わば「勝手に成長していく」ものです。自分自身の頭で考え、自分自身の嗜好に沿って、様々なものから様々に学んでいく、そういう成長の在り方こそが「成長」の名に値します

6.しかし、その「勝手に成長していく」ための前段階として、「成長のための基礎体力」というようなものが必要なのです。大学で本格的に研究に取り組み、自力でものを考える習慣がついているというのなら別ですが、多くの若者たちはそういう習慣を身につけてはいないものです。ですから、すべての上司はオン・ザ・ジョブ・トレーニング(以下「OJT」)でその「成長のための基礎体力」をつけてあげなければなりません。それが若者を部下にもったときに第一に取り組まなければならないことなのです。私はそう考えています。

7.先輩教師や管理職の言うことをよく理解することは、先輩教師や管理職の言うことにただ従うことを意味しているのではありません。そんなことなら、成長していない教師にも簡単にできることです。上司にただ従うことは、自分の行動の責任を上司に押しつけることであって、自分の責任を回避することでしかありません。すべてがそうとは言えませんが、少なくともそうした側面があります。

8.私が言っているのはそういうことではなく、先輩教師や管理職がなぜそういうことをあなたに言うのか、その指導の裏にある「思想」を理解せよということです。そしてその「思想」を理解し、現実的な仕事の仕方について、その「思想」と「手立て」とをセットで考えられるようになったとき、初めて「成長のための基礎体力」が身についたと言えるのだと主張しているのです。ここを勘違いしないでください。

9.いま、TWITTERでこういう質問を受けました。
「その上司が「成長していない教師」である場合には、その「思想」を理解すべきですか?」
私は次のように答えました。
「すべきです。その思想と手立ての関係を反面教師にすれば良いだけです。ダメな上司をキャンセルする人間はそのダメな上司と同じことになります。そういう質問をすること自体、その危険性があるので気をつけてください。すべては成長の糧になります。」
こういう人が最もダメなのです。上司をただキャンセルしてるんですね。しかも自分がその上司とは違うと思っている。自分を安全地帯に置いて物事を発想している。こういう人間を僕は否定しているのです。私に言わせれば、こういう発想が思い浮かんでしまうこと自体、この方には「成長のための基礎体力」がないのです。

10.山田洋一くんとの共著で若手教師への成長の指針を書いています。その第1章と第2章を完成させました。あとは第3章として10頁ほどを書くだけです。今日中に完成しそうです。山田洋一くんはプレッシャーを感じてください(笑)。

11.いえ~い!共著原稿完成今日はこれからゆっくりするぞい。
  山田くん、プレッシャーを感じてください(笑)。
  美南ちゃん、やっぱり頼りになるのは山田じゃなくて、堀なんだよ。はっはっは……。

12.ここ半年ほど、学事出版に対してあまりにも不義理を働いているので、これから2~3ヶ月かけて学事の本を2冊書きます。明治図書の編集者の皆様、あしからずご了承ください。ここしばらくは「THE 教師力」シリーズと「研究集団ことのは」の共著だけで勘弁してください。夏からはまた頑張りますから。

13.さあて。「相棒」の続きを見なくちゃな。ここ1ヶ月ほどサボッてたから、やっと続きを見てもいいかなという気分になってきた。好きなドラマもあまりにも連続して見過ぎるといやになるということを腹の底から実感させられた。

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『堀裕嗣・エピソードで語る教師力の極意』

まえがき

ここ数年、幾冊もの書籍を上梓させていただきました。内容はどれもこれも私一人では決して到達できなかった、多くの方々との共同作業で形づくられてきたものばかりです。また、これまで関わってきた生徒たちを抜きにしては考えられなかったものばかりでもあります。「エピソードで語る教師力」として一書をまとめよということは、そうした人とのつながりを綴れということなのだと感じています。

確かに私は二十年余りの教師生活において、幾多の先達と出逢い、数多の影響を受けてきたという自負があります。また、多くの若手教師たちとも日々関わり続けています。職場だけでなく、サークルや研究会など、一般の教師が経験できないような多くの出逢いを経験してきました。既に鬼籍に入られた方から現役の教員養成系大学の学生に至るまで、多くの出逢いと学びとを経験してきました。その出逢いと学びから私の得たものを綴れということなのだとも感じています。

本書は「新卒時代」「学生時代」「演劇部顧問」「研究集団ことのは」「振り子論者」「メタ認知論者」「学年主任時代」という七つの章からなりますが、すべての章に当時のエピソードを綴った私の文章を冒頭に掲載し、それを解説していく形で語り進めていきます。また、私の当時の問題意識が読者の皆さんに伝わるように、できるだけ具体的に出来事を語っていくことに努めました。加えて、その時々の教育活動に使った曲、或いはその時代に私がよく聴いていた曲を紹介し、当時に私と付き合いのあった方々には「ああ、あのときの曲だ」とわかる、そんな趣向も凝らしています。

そうした私のこだわりが成功しているか否かは読者の判断に委ねるしかありませんが、私としては精一杯、書けることについては書いたつもりです。どうぞ御笑覧いただき、御批正いただければ幸いです。

序章 エピソードで語る教師力

皆さんは「戦場のメリークリスマス」という映画を御存知でしょうか。一九八三年公開、大島渚監督の大ヒット作です。デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし、トム・コンティらの出演した、私たちの世代にとっては想い出深い映画です。私がこの映画をロードショーで見たのは高校二年のときでした。

この映画に印象深いシーンがあります。

日本軍の捕虜となった英国軍人のデビッド・ボウイが軍律会議にかけられます。軍律会議にかけられても反抗的な態度を崩さないデビット・ボウイに対して、内藤剛志演じる審判官がその人物像を把握しようと問い詰めます。

Yo​u must tell us your pass history.

しかし、デビット・ボウイは即座に、吐き捨てるようにこう言います。

My past is my business.

「お前はこれまでの生育歴を語るべきだ」と言った審判官に対して、「過去は私だけのものだ」とデビット・ボウイが返した……といったような意味合いですね。もしかしたら、あくまで私にとって印象深いシーンであって、一般的には、この映画の根幹をなすシーンとはみなされていないのかもしれません。しかし、私はかなり重いシーンだと感じています。私が高校時代からこのシーンを印象深く感じているのは、おそらくここに日本人と西洋人との一番の違いがあるように感じたからなのではないか、自分ではそう考えています。

「エピソードで語る教師力」という企画が持ち上がったとき、実はちょっと引いてしまっている自分を感じていました。山田洋一先生の発案でした。私と山田洋一先生に編集者が三人、五人で飲んでいたときのことです。確か西新宿の魚と日本酒のおいしい小さな居酒屋でした。いろいろな先生方に、どのようにいまの自分が形成されてきたのかをエピソードを中心に語ってもらおう、それがこれから教師人生を充実させていこうとする若い読者のヒントになるのではないか、そうした発想での提案だったように思います。

私は「それはいいね」と応じました。その提案の時点で、私の頭の中には、自分がそれを書き綴るメンバーにされるという頭がなぜかなかったのでした。山田洋一先生の提案だったものですから、なんとなくこの企画は小学校の先生の企画だと感じていたのです。しかし、話が進んでいくと、執筆者は十人、小学校教師が七、八人に中学校教師が二、三人、そういう話になってきました。どうやら小学校教師の企画なのだろうと考えていたのは私だけで、その場にいた私以外の人たちは、みんな私も書くものだと考えていたようです。

それから数ヶ月、自分には何が書けるのだろうかとなんとなく頭の片隅に意識されている、そんな毎日が続きました。どうも自分には若い教師に「こういうふうに教師生活を送るといいよ」というようなエピソードがないのです。

確かに、授業力を高めるためにどんな授業技術をどんなふうに学んできたかということなら書けます。自分の話し言葉を鍛えるためにどんな取り組みをしてきたかということも書けます。そのような目的的に取り組んできたこと、自分で意識的に取り組んできたことならば、若い教師に役立つようにといくらでも書き記すことができます。しかしそれは、「○○という目的ならば○○するといいよ」という一点集中型の提案であって、私という教師の力量がどのように形成されてきたのかということとは距離があるのです。

私はこれまで幾つかの書籍を上梓させていただきました。しかし、それらは私の教師生活の一部を目的的に切り取り、まさに「○○という目的ならば○○するといいよ」という提案に過ぎないのです。決して、「私はこうしてきた」「こういう努力があっていまの私がある」というような報告的な提案ではないのです。むしろ私は、そういう提案の仕方を避けてきたところがあります。

本を書くということは、一般には「テーマ先にありき」です。テーマが先にあって、そのテーマに対応するような事例を自分の経験から引っ張り出してくる。そうした経験の中には、書いて良いものもあれば悪いものもある。読者に伝わりやすいものもあれば伝わりにくいものもある。そうした中から、書いて良いもので読者に伝わりやすいものだけが具体例やエピソードとして用いられる。そういうふうに出来上がっていくものなのです。決して、学級経営の本に著者の学級経営がまるごと書かれているわけではありませんし、生徒指導の本に著者の生徒指導がまるごと書かれているわけでもありません。そういうものなのです。

しかし、「エピソードで語る教師力」となると、そうはいきません。いまの自分の実践力がどのように形成されてきたのかを語る、しかもそれをエピソードを中心に語るということになると、書いていけないことは同じように書けないにしても、読者に伝わりにくい部分についてはなんとかして少しでもわかりやすく書くことをしなければ、表層的なものになってしまいます。しかも、私にはデビッド・ボウイの科白のように「過去は自分だけのものだ」という感覚がありますから、どうもそういうエピソードをわざわざ他人に読んでもらう必要はないのではないかと思えてしまうのです。

しかし、今回はせっかくの御依頼ですし、また、酔った上とはいえ一度書くと約束したことでもありますので、書いてみようと思います。しかも、「戦場のメリークリスマス」で私が感じたように、日本人の提案はその人の歴史といっしょに提示された方が、読者にとって心情的なわかりやすさが得られるということもわからないではありません。ですから、今回は思い切って書いてみようと思うのです。

ただし、最初に読者の皆さんにご了承いただきたいことがあります。

セミナーのQ&Aのコーナーで参加者から「堀先生はどんなふうに力量形成を図ってきたのか」と尋ねられることがあります。或いはここ数年流行している「ライフヒストリー・アプローチ」の手法を使って力量形成の歴史を語るということを経験したこともあります。いつもこういうセミナーで話をしての率直な感想は「どうも自分の教師としての成長の根幹をはずしているな」という思いでした。理由は幾つかありますが、ごくごく簡単にいえば、まずは、私自身がそうした自分史のようなものを語ることに意味を見出せていないこと、短時間で語ることは無理だと最初から感じてしまって端折って話をすること、という二つの理由を挙げることができます。そして実は、こういう場で私が自分史を語れない最も大きな理由は、国語教育の話と学級経営・生徒指導の話とを結びつけて話をしないと自分の意図が伝わらないという想いがあるものですから、国語教育のセミナーにおいても、学級経営・生徒指導のセミナーにおいても、その参加者の傾向からその両方を結びつけて語ることを避けてしまうという事情があるのです。

私は次章から、私が教師を志した学生時代からこれまでにどんな問題意識を抱き、どんな意識でどんなふうに生徒たちに接し、どんな意識でどんなふうに研究会に参加し、どんな意識でどんなふうに実践研究に取り組んできたのかを語ります。しかし、そこには、ある程度の国語教育の専門用語や先行研究などを掲載することが避けられないのです。しかもその中には、若い読者が知らないような、戦前に刊行された本とか戦後間もなくに流行した実践手法なども出て来ます。そこのところをご了承いただきたいのです。ただし、これから語られるエピソードの本筋に深くは関係しないという部分については、思い切って端折ります。言い訳にしかなりませんが、国語教育の専門家でなくても文意が理解できるように書いたつもりではあります。

私がこれから書くことは、おそらく教師としてはかなり異色だと思います。これまで様々な人たちに異色であるという指摘を受けたことがあります。もちろん、私は教員養成カレッジから公立中学校の国語教師になっただけの人間ですから、教師としての経歴はまったく異色ではありません。おそらく問題意識の立て方が異色なのでしょう。しかもこれほど振り子の振れる教師人生、それも自分で意識的に振り子を振るという教師としての在り方も異色なのだろうと思います。

仲の良いサークル仲間とか、呑んで話をした研究仲間とか、そういう人たちにさえ、あまり私の問題意識は理解されたことがありません。ですから、これから語る、私が教師を志して以来二十五年あまりエピソードが、読者の皆さんに役に立つのかどうか甚(はなは)だ心許(こころもと)ないというのが正直なところなのです。そしておそらく、読み物としてもそれほどおもしろいものではありません。

また、せっかく私にこの本を書くように薦めてくれた山田洋一先生や編集者の皆さんの期待を裏切ってしまうのではないかという不安も抱きます。「私が書いて欲しかったのはこんな本ではない」と。もしかしたら「こんな本は出版できない」と言われるのではないかという不安さえ抱きます。

この本はおそらく、私の実践にではなく、私という教師に、私という人間に興味を抱いてくれている数少ない読者にしか興味をもって読み進められないものでしょうし、私という教師に興味を抱いた人にしか役立つこともないものでしょう。それでも、学生時代以来の様々な資料を繙きながら、正直には書いていきます。学生時代や新卒時代のエピソードには、著者も気づいていないような過去の美化が若干はあるのかもしれませんが、私はいまでもその頃の想いを生々しく覚えているつもりです。少なくとも、いま現在、私の頭の中にある学生時代や新卒時代はこういうものであるということだけは確かです。

では、まずは思うところがあって、学生時代を後まわしにして、新卒時代のエピソードから語り始めたいと思います。はじまりはじまり……(笑)。

坂本龍一/Merry Christmas Mr. Lawrence  を聴きながら

あとがき

二○一一年八月三○日、父が脳梗塞で倒れました。入退院を繰り返し、いまも病院にいます。同じ年の一二月七日には義父が肺癌で亡くなりました。学生時代以来の紆余曲折を綴ってきましたが、こうして好き勝手なことを書いていられるのも、自分が若く健康でいられるからなのだと実感します。

一九六六年四月七日。この世に生を受けて以来、様々な方々の影響を受けてきました。特に、両親から受けた影響は計り知れません。もちろん良い影響もあれば悪い影響もあるのでしょうが、この年になると、悪い影響があったとしてもそれを両親のせいだとはまったく思わなくなります。それなりにものを考えられる頭と健康な躰を授かっただけで満足。あとは自分の責任である。そんな気持ちがします。

先日、両親と妹と四人で、本当に久し振りに一泊二日の温泉旅行に行ってきました。父が入院中ですから、外泊許可をもらっての旅行です。そう遠くへは行けません。札幌市内の定山渓温泉と近場の旅行でしたが、おそらく四人で泊を伴う旅行に行ったことは、ここ三十年はなかったのではないか、記憶が定かではありませんが、そんなことを思いました。もうそんなに長い時間をいっしょに過ごせるわけでもないはずです。これからは年に一、二回はこういう機会をもとうと決意しました。思えば、既に家を出て独立してからの時間が、両親と過ごした時間を大きく超えてしまっています。時が経つのは早いものだと実感します。

ふと気づくと、教職に就いて二十年余りが経っています。本書では学生時代以降のエピソードを語ってきましたが、実は私の教育実践には小学校時代、中学校時代、高校時代のそれぞれの恩師から受けた影響を無視できません。特に小学校四年のときの担任大塚充健先生、同じく五・六年のときの担任高橋純先生、中学一年生のときの担任関義彦先生、高校二・三年のときの担任佐藤捷夫先生の影響が色濃く反映されています。十年ほど前だったでしょうか、著書をもって大塚先生を訪ねようと連絡した折、大塚先生は既に鬼籍に入っておられました。悔やんでも悔やみきれない経験でした。

私の教職人生は北海道にいたからこそ経験することのできた、北海道ならではの出逢いや北海道ならではの実践に彩られています。両親や恩師からいただいた恩恵を、あくまでこの北海道の地で若手教師たちに恩送りしていけたらと考えています。不景気が続き、学力調査でも最下位に近い北海道ではありますが、この地に再び「教育王国」の名が冠せられる日を今日も夢見ています。

最後になりましたが、この度も編集の及川誠さん、杉浦美南さんにお世話になりました。深謝致します。

松山千春/大空と大地の中で を聴きながら……
二○一二年一○月一九日 長麻美と呑んだ夜に 堀 裕嗣

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3月16日(土)

1.石川晋・山田洋一・堀裕嗣の『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)が近々3冊同時刊行されます。以下、7人が刊行し、全10冊のシリーズとなります。教師の力量形成にとってこれほど参考になるシリーズはかつてなかったのではないかと自負しています。4月中には間違いなく刊行の予定です。

2.近刊『エピソードで語る教師力の極意』(堀裕嗣・明治図書・2013.04)は難しいです。先日、ゲラ校正でも感じましたが、生半可な気持ちでは読めない本になっています。しかも頁数が多く、それなりの厚さがあるので、値段もそれなりになることが予想されます。更には国語教育理論や文学理論がたくさん出てくるので、他教科の先生方にはかなり読みづらい本にもなっています。買っても積ん読状態になりやすい本ですから、ご無理をされないようにお願いします。本は買ってもらうために書くのではなく、読んでもらうために書くものですから。

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売り込み

教師が自分を売り込む対象はたった二つです。一つは子どもたち、もう一つは保護者。これ以外に自分を売り込む対象はありません。

もしもあなたが校長に対して自分を売り込みたいとか、指導主事に対して自分を売り込みたいとかいう感覚を抱いているのならば、ぜひ私に連絡をください。私はあなたにこの本を読んで欲しくありません。私が定価で買い取ります。メールアドレスは巻末の著者紹介に書いてありますので、どうぞご遠慮なさらずにご連絡ください。

さて、「盛り上げ力」の項で詳しく述べましたが、教師にとって「売り込み力」にあたるような自己主張の力は、それほど優先順位の高いものではありません。そもそも「売り込み」というのは、日常的に逢う頻度の高くない相手に対して、短い時間で良い印象をもってもらうという概念です。

教師と子どもたちとは毎日いやでも接し続けるわけですから、何も教師が改まって子どもたちに自分を印象づける必要などありません。黙っていても子どもたちはあなたの一挙手一投足を観察し続けます。ひと月もしないうちに、あなた姿からちゃんとあなたの本質を見抜きます。保護者は毎日、自分の子どもからあなたの話を聞いて、ほんとうは知って欲しくないことまで知ってしまいます。学級担任と子ども、保護者の関係とはそういうものです。

良い印象を与えるために「売り込み」を図らなければならないのは、強いて挙げるなら学級開きや授業開きです。或いは保護者相手なら、年度最初の保護者懇談会です。子どもたちも保護者も今度の先生に慣れていない時期ですし、今年の先生はどんな先生だろうと興味津々で様子を窺っているわけですから、4月の出逢いの場だけは「売り込み力」が必要かもしれません。

しかし、4月にあまりに売り込みすぎると、要するに強烈な良い印象を抱かせてしまうと、その後、ちょっとでもその印象に反したことをする度に必要以上に印象が悪くなってしまう、という現象が起こります。子どもにも保護者にも「裏切られた」という印象をもたれてしまうわけですね。

例えば、年度当初に「先生はいじめは絶対に許さない!ちょっとでも何か傷つけられたということがあれば、どんな小さなことでも先生に相談しなさい。先生はちゃんと話を聞いて対応します。」と宣言したとします。5月になって、ある女の子がか細い声で「先生……」と声をかけてきたとします。ところが、そのとき、あなたはたまたま急ぎの用事がありました。「ちょっと待ってね。いま、とても急いでるんだ。あとでね。」と用事を優先させてしまったとしましょう。

教師側からみれば些細なことですが、こんな小さなことが4月の宣言を「嘘」にしてしまい、子どもの「裏切られた」につながります。この場合、用事を済ませたあとにほんとうにすぐに戻ってきてその子に対応すればまだ間に合いますが、それを忘れてしまったとしたら、その子との人間関係は致命的な破綻を迎える可能性さえあります。この子にしてみれば「どんな小さなことでも先生に相談しなさい。」という教師の言葉を信じたのに裏切られたわけですから当然です。

いじめを絶対に許さないとか、毎日学級通信を出すとか、きみたちのことを一番に考えるとか、常にみんなと話し合いながら物事を決めるとか、楽しいクラス行事をいっぱいやるとか……4月は教師が張り切っているものですから、なんでもできるような気がしてしまいます。しかし、1年の長丁場、これまでやっていなかったことをやり続けるということは、無理とは言わないまでもかなり難しいことなのです。

私は4月、確実にできることしか言わないようにしています。密かに今年度はこれに取り組もうと思っていることはありますが、それはできない可能性もある。だってやったことがないんですから。その思いが私にそれを言葉にさせません。私の新年度の取り組みは、子どもたちも保護者も「ああ、この先生はこんなこともやってくれるんだ……」と感じるような、あくまで〈+α〉の取り組みとして見てもらう。そういうことにしています。

若いうちは、ついつい調子に乗ってできないことまでやると言ってしまったり、「絶対に○○するから」と安易に「絶対」などという言葉を口にしてしまったり、そういうことが少なからずあるものです。ほんとうにやり続ける自信があるのならば良いのですが、そうでない場合には、私は正直、私のような〈+α政策〉として取り組んでおいて方が無難だと思います。

人は立派な存在意義で生きるのではなく、むしろ日々の小さな可能性に生きている(キルケゴール)。教師も人間ですから、自分の可能性を信じたくなります。自分を売り込もうとするときには、ついつい大きなことを言ってしまいます。別に嘘をついているわけではありません。自分でできそうな気がしてしまうのです。

しかし、です。それをしなくなった人を、実は社会は「大人」と呼ぶのです。言ったことは必ずやらなければならない。できるかどうかわからないことは、敢えて言わずに取り組む。それがこの国において「大人」と呼ばれる人たちの姿なのです。

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3月15日(金)

1.卒業式。卒業生の態度もよく、合唱もよく、いい卒業式だった。夕方から北広島クラッセで学年の打ち上げ。楽しい宴。久保田萬寿。まんさくの花格別大吟醸。日本酒を飲み過ぎ、明日のチェックアウト時間ではどうせ車で帰れないだろうと判断し、夜中の4時に代行タクシーで帰ってくる。良い判断だったと思う。

121207cover2.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書/2008.01)が4刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。

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あらため

竹田青嗣という哲学者・文芸批評家が人間は三枚の世界像を作り替えながら成長していくと述べています(『愚か者の哲学』主婦の友社・2004年)。

1枚目の世界像は、幼少の頃から家庭で培われてきた世界像です。

かつてはすべての人がムラ社会、地域共同体のなかに生まれ、親の職業をそのまま引き継ぐというのが一枚目の世界像でした。農家の子は農民としてどう生きていくべきかという世界像をもち、大工の子は大工としてどのように成長するのが良いのかという世界像をもち、一生涯その世界像から脱することができませんでした。明らかな階層社会・格差社会でした。

しかし、明治から大正、昭和前期にかけて学校教育制度が次第に普及していきます。国民のほとんどが学校教育を受けるという制度がある程度完成を見たのは戦後のことです。若い先生方には信じられないことでしょうが、特別支援関係の学校が整備されたのは、ほんの数十年前のことに過ぎません。

しかし、学校教育は、子どもたちに自分の所属するムラ社会、共同体社会の掟が決して普遍でないことを学ばせました。だって、学校では様々な共同体出身者、様々な階層出身者が一つところで集団生活を送るわけですから。

そこで子どもたちは、努力すれば自分のムラ社会、共同体社会、自分たちの階層から抜け出せる可能性があることを学びます。それが二枚目の世界像として子どもたちを包み込みました。そこで生まれたのが勉学に励み、立身出世をというような、この国に巣くう暗黙の了解です。

その学校教育制度は高度経済成長とともにほぼ完成されていきます。そうしたなかで、人々は都市に流出し核家族化が進みます。その結果、1980年頃を境に各家庭にはかつてムラや共同体がもっていた一枚目の世界像をもたなくなります。核家族化は基本的に、親の職業を継ぐことを強制する家族形態ではありませんから、子どもの生き方は両親と子どもで決めればよくなったわけです。

もちろん、各家庭にオリジナリティ溢れる世界像などあるはずもありません。そこで各家庭は、なんとなく学校教育で教えられていることを自分の子どもたちに教えるようになりました。親の世代も学校教育をしっかり受け、サラリーマンとして生活するようになったわけですから当然の帰結といえます。宮台真司は現象を「社会の学校化」と呼びました(『終わりなき日常を生きろ』筑摩書房・1995年)。

さて、こうした経済成長と核家族化が完成された社会では、かつての一枚目の世界像と二枚目の世界像とが融合してしまいます。それが新たな〈一枚目の世界像〉となります。
 この新たな〈一枚目の世界像〉は多くの場合、「頑張って皆に評価される立派な人間になれ」という文言に集約されるような世界像になっていきます。ほぼ例外なく、親も教師も自然にそういう世界像を子どもたちに与えるのです。それが二十歳前後まで続きます。もちろん中学生くらいからその世界像に反抗する子も現れますが、それはこの世界像に包み込まれているからこそ出てくる反抗に過ぎません。その意味では、やはりこの世界像は生きているのです。

現在、〈二枚目の世界像〉は、独自に某かを学び、何か普遍的な世界観を得たときになっています。例えば、大学に進んでマルクス主義に心酔したとか、科学や心理学や社会学に心酔したとかいう場合ですね。或いは職人や技術者として仕事に打ち込み、その技術や技能が自分の染み込んだというような場合ですね。かつては10歳以前に得ていた〈二枚目の世界像〉の獲得の時期が、現在は10年以上遅れて現れるというのが特徴です。

しかも、この〈二枚目の世界像〉は、学問や修業を通じて独自に発見したり獲得したりしたものとして意識されますから、「この世の中の本質をみんなは知らないけれど、自分だけは知っている」という、少々エゴイスティックな構造をもって立ち現れてきます。こうした〈二枚目の世界像〉は本人にとって世界の普遍的な構造だと意識されますから、人はしばらく、この世界像とともに生きることになります。

しかし、しばらくすると、人はそれを超える〈三枚目の世界像〉を獲得せざるを得ません。就職して社会に揉まれ、自分一人では解決できない問題を経験したとき。結婚し、子どもができて、こんなに身近な人間さえ自分の思い通りにはならないのだと自覚したとき。自分にはやりたいことがたくさんあるのに、親を介護しなければならない状況に直面したとき。契機は様々ですが、そういう経験とともに〈三枚目の世界像〉が立ち上がってきます。

〈三枚目の世界像〉とは、自分が〈二枚目の世界像〉として「これは普遍的だ」と感じたような世界観は、だれもがそれぞれにもち、それそれがその世界像のうちを生きているのだということを認めることです。また、それぞれの世界観をもった人間同士が様々に関係を結び合っているのが社会なのだという感覚をもつことです。人生の晩年、肉体的には弱々しく見えるにもかかわらず威厳をもっている人々は須く、この〈三枚目の世界像〉のなかを生きているのです。

以上、竹田青嗣の言う三枚の世界像に関する私なりの解釈を述べてきました。これを受けて、私が言いたいのは次のようなことです。

教師がものの見方や考え方、行動の仕方を改めるという場合、その改め方にはいろいろあります。しかし、日常生活のなかで、自分が「これを改めよう」と考えたとき、その改め方は〈二枚目の世界像〉から〈三枚目の世界像〉へという方向性に進んでいるか、それを評価規準とすればおそらく間違った方向には進みません。

ただし、一つだけ気がかりなことがあります。それは最近、若い教師のなかに、〈一枚目の世界像〉しかもたないままに教師になっている人が多いように見えることです。或いは、〈二枚目の世界像〉を経験することなく、言葉だけは〈三枚目の世界像〉と同じようなことを言う人が多くなっているような見えることです。

誤解しないで欲しいのですが、〈三枚目の世界像〉は〈二枚目の世界像〉を経験することなく到達できるような生半可な世界像ではありません。〈二枚目の世界像〉を経験せずに語られる〈三枚目の世界像〉的な言葉は、子どもたちにも保護者にも同僚にも薄っぺらい言葉としか思われないのです。

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3月14日(木)

1.歌練習のあと、卒業式の総練習。生徒たちが下校したあと、送辞・答辞生徒の指導。その後、学年の先生方でいつも呑みに行く亀八のランチに行く。安くてうまい。しばらく職員室で談笑した後、職員打ち合わせ。更に学年会。退勤後は岩見沢へ。3日振りの両親は元気そう。実家に行き、燃えないゴミを出す。

2.【拡散希望/残席10】堀裕嗣×石川晋「ふたり会」/2013年5月18日(土)/札幌市内/3000円/定員30名/五つのテーマで堀と石川が対話。参加者に一切の気を遣いません。/教師と文学/教師と音楽/教師と芝居/教師と実践研究/教師と人脈http://kokucheese.com/event/index/80633/

Cover13031Cover130323.新刊『教室ファシリテーションへのステップ1 目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonでの予約が始まりました。

4.新刊『教室ファシリテーションへのステップ2 目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonでの予約が始まりました。

5.子育てに自信満々の親がいないのと同じように、学級経営や生徒指導に自信満々の教師もまたいません。子育てに自信満々の親がすべて勘違いしているように、学級経営や生徒指導に自信満々の教師も勘違いに過ぎません。

6.堀裕嗣×石川晋「ふたり会」の定員を10名増員しましたが、これ以上は増やさないつもりです。ご希望の方はお早めにお申し込みください。この企画はいくら僕らと懇意にしている人でも、申し込みなくご参加いただくことはできません。ある出版企画と連動しているため、あまり参加者を多くできない事情があります。悪しからずご了承ください。

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3月13日(水)

1.1時間目は3学年で式練習。2時間目は3学年で歌練習。3時間目は合同練習。4時間目は学級で写真撮影会。給食を食べて帰宅。午後から北白石小学校に行って6年生にオリエンテーション。僕の担当は6年2組。たくさん質問を受けてどんどん答えていく。真剣な眼差しとメリハリのきいた笑いが心地よい。

Cover13031Cover130322.新刊『教室ファシリテーションへのステップ1 目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonでの予約が始まりました。

3.新刊『教室ファシリテーションへのステップ2 目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonでの予約が始まりました。

4.【拡散希望】堀裕嗣×石川晋「ふたり会」/2013年5月18日(土)/札幌市内/3000円/定員20名/五つのテーマで堀と石川が対話。参加者に一切の気を遣いません。/教師と文学/教師と音楽/教師と芝居/教師と実践研究/教師と人脈http://kokucheese.com/event/index/80633/

121009cover5.スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』堀裕嗣著・明治図書 教師に必要な5つの資質とは? 教師としての心構えから、学級経営、コミュニケーションの方法から伝え方の極意まで、力量アップの秘訣が満載。学級経営や生徒指導に悩む教師への応援歌。

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堀裕嗣×石川晋「ふたり会」

堀裕嗣×石川晋「ふたり会」

2013年5月18日(土)9:15~16:45

札幌市白石区民センター(予定)

参加費:3000円

定員:20名

一日中、次の五つのテーマに沿って堀と石川が対話します。たったそれだけの研究会です。参加者に意見を求めたり、ファシリテーションで参加型の学習会にしたりといったことは一切致しません。

【テーマ/予定】

1.自分を理解するということ~教師と文学

2.共感が生まれるということ~教師と音楽

3.コミュニケーション力を高めるということ~教師と芝居

4.実践を磨くということ~教師と実践研究

5.仲間をつくるということ~教師と人脈


【堀裕嗣/ほり・ひろつぐ/札幌市内中学校教諭】
著書:『学級経営10の原理・100の原則』『生徒指導10の原理・100の原則』『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』『一斉授業10の原理・100の原則』(以上学事出版)『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』『スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』『教師力ピラミッド』『堀裕嗣・エピソードで語る教師力の極意』(以上明治図書)など、単著・編著多数。

『石川晋/いしかわ・しん/十勝管内中学校教諭』
著書:『「対話」がクラスにあふれる!国語授業・言語活動アイディア42』『学び合うクラスをつくる!「教室読み聞かせ」読書活動アイディア38』『石川晋・エピソードで語る教師力の極意』(以上明治図書)『学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ』『協同学習でどの子も輝く学級をつつくる』『中1ギャップ~中学校生活になじむ指導のポイント』(以上学事出版)など、単著・編著多数。

【お申し込み】http://kokucheese.com/event/index/80633/

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盛り上げ

3人の新卒さんが先輩教師たちとカラオケに行ったとしましょう。次第に場も盛り上がり、場の中心となっている先輩教師が「よーし!新卒、1曲ずつ歌え」と言ったとましょう。それを受けて、3人の新卒教師が次のような対応を示したとしましょう。

① 新卒Aは「私は歌いません。歌は苦手なんです。」と頑なに拒否しました。

② 新卒Bはビブラートを効かせてとても上手にバラードを歌いました。

③ 新卒Cは「僕、筋金入りの音痴なんですよ~」と笑いながら、それはもうひどい歌を披露しました。

さて、この後、先輩教師たちに一番可愛がられるのは、3人のうちだれでしょうか。そうですね。言うまでもなく、Cくんです。いくら理屈に合わなくても、それが人間関係というものの本質なのです。もしかしたら、「人間関係の本質」は言い過ぎかもしれません。まあ、「日本型人間関係の本質」とでも言ったら良いでしょうか(笑)。

企業も、マスコミも、大学の先生も、みんなこれからの人間に必要なのは〈コミュニケーション能力〉だと言います。皆さんも学生時代、就職活動にあたって耳にたこができるくらいに聞かされたことだろうと思います。

しかし、〈コミュニケーション能力〉とはいったいなんなのか、それを明確に規定してくれる人はなかなかいません。たとえいたとしても、例えば、「自分の力をはっきりと主張できる力だ」という人もいれば、「人の気持ちを察しながら行動できることだ」という人もいます。また、「自分の意思を強く持って突き進んでいくことだ」という人もいれば、「周りとのホウレンソウを大切にしながら協調していくことだ」という人もいます。世の中には〈コミュニケーション能力〉について、ベクトルの異なる主張が相半ばして私たちを混乱させているというのが現状のように思います。要するに、アメリカ型の自己主張力の方向性で考える人と、日本型の摩擦回避の方向性で考える人とがいるわけですね。

しかし、ここでまず第一に考えなければならないのは、人間関係において「自己を主張すること」と「摩擦を回避すること」とはどちらが難しいか、ということです。これはある程度の以上の年齢に達している人ならだれもが賛同してくれると思いますが、圧倒的に後者なのです。

実社会において前者を主に考えると「自己主張するために摩擦を回避する」という発想になります。そうすると、自分の自己主張を通すために仕方なく摩擦を回避するという在り方になります。そういうなかで、自分の主張を認めてくれない人に出逢うと、「オレはこんなに努力してるのに……」と思ってしまいがちです。

ところが、後者を主に考えますと、「摩擦回避をするなかで自分の主張を通すにはどうすべきか」という発想になります。摩擦回避がすべての前提ですから、周りの人たちがどういうことを考え、何を大切に思って仕事をしているのかということを常に気に留めながら仕事をしていく姿勢が身につきます。自然に人との会話の量も増えていきます。要するに、コミュニケーションの機会が増えるわけですね。その結果、摩擦を回避できるとか自己主張を通すことができるとかいうだけに止まらず、周りの人たちの発想や仕事術を自然に学んでいくという副産物も出てくるわけです。

第二に考えなければならないのは、あくまでも私たちは学校の先生ですから、学校の先生にとってどんな〈コミュニケーション能力〉が必要なのかをよく考え、その能力の優先順位を高く考える必要があるということです。

〈コミュニケーション能力〉を「自己主張力」を主に考える人たちの多くは、基本的にビジネスの世界の人たちです。プレゼン能力とかディベート力とか交渉力とか、そういう能力ですね。また、「これからの国際社会において……」云々という発想のもとに、日本人以外の人たちと対等に渡り合うために、という発想がその裏に潜在しています。しかし、私たちの仕事には、成果を強調するプレゼン能力も、議論に打ち勝つディベート力も、互いの利害を計算して意見交換する交渉力も、あまり必要とされません。もちろん、まったく必要ないわけではありませんが、優先順位は低いのです。

私たちのコミュニケーションの主たる相手は、子どもたちとその保護者です。子どもたちは教師が自己主張すべき相手ではありませんし、保護者の多くは一般的な、ごく普通の日本人です。日本的な摩擦の回避とか、日本的な察しの文化とか、落としどころを探ろうとする日本的なコミュニケーションにどっぷりと浸かって日々を過ごしている、ごくごく普通の人たちなのです。

私はやはり、教師に必要な〈コミュニケーション能力〉の代表は摩擦回避であり、日常的に「摩擦回避をするなかで自分の主張を通すにはどうすべきか」と考えながら仕事をしていくのが良いと考えています。

さて、冒頭のカラオケの話に戻ります。

この例に見られる構造は、「自分をオトす」という発想です。みんなを楽しませるために自分をオトす……、皆さんのためなら私は少しくらいの恥をかくことくらいなんでもないですよ……、そういうことです。要するにサービス精神なんですね。

例えば、忘年会の席上、余興にちょっと恥ずかしい罰ゲームがあったとしても、職員室の仲が良ければ、ちょっとくらい恥ずかしくてもみんなで楽しむことの方を選ぶじゃないですか。行事、呑み会、職員旅行、余興、盛り上がるか否かはその行事や呑み会の質にあるのではないのです。チームが成立しているか否かにあるのです。〈コミュニケーション能力〉の有無などというものは、実は、一緒にいて楽しいとか一緒にいて安心できるとか、その程度のことに過ぎません。

子どもや保護者の前で恥をかくなんて真っ平だ。同僚に笑われるなんて真っ平だ。いじられるから呑み会はいやだ。そういう人は教師としての〈コミュニケーション能力〉には基本的に欠けているのではないか。私はそう感じています。

もちろん、そういう人が世の中にいてもまったく構いません。あくまでも、教師に向いていないのではないか、と言っているのです。他の職業の方が合っているんじゃないか、そう言っているのです。

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3月12日(火)

1.1時間目は銀行。2時間目は歌練習。3時間目は式練習。4時間目は別室指導。5・6時間目は送別集会。放課後は送辞・答辞生徒の指導。校長と新年度人事打ち合わせ。学年会。朝から晩までなんとなくせかせかした一日。3組に入って生徒と談笑しながら給食時間の10分間ほどだけが憩いの時間だった。

2.堀裕嗣×石川晋「ふたり会」/2013年5月18日(土)9:15~16:45/札幌市内/定員20名/五つのテーマで堀と石川が対話。参加者に一切の気を遣いません。/教師と文学/教師と音楽/教師と芝居/教師と実践研究/教師と人脈  参加希望の方は日程を空けておいてください。近日告知。

Cover13031Cover130323.新刊『教室ファシリテーションへのステップ1 目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonでの予約が始まりました。

4.新刊『教室ファシリテーションへのステップ2 目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50』(堀裕嗣・山下幸編・明治図書)のamazonでの予約が始まりました。

5.校内人事の季節。人事の駆け引きが嫌いだ。人は活かすものであって選ぶものじゃない。若者は育てるものであって評価するものじゃない。活かせば応えてくれる。育てれば応えてくれる。人とはそういうものだ。活かしも育てもしないのならば、上司などというものの存在する意味がないではないか。

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先回り

今日の〈TO DOリスト〉を見てみましょう。PC画面に出ているものでも良いですし、手帳でも構いません。えっ? 付箋で処理して終わったものから捨てているから用意できない? あなたには教師としての計画性がありません。えっ? 〈TO DOリスト〉がない? つくったこともない? あなたは教師である以前に、社会人失格です。こんな本を読む前に、日常の仕事の仕方を見直して下さい。あなたは周りの先生方に、特に教務部の先生方にとてつもない迷惑をかけ続けているはずですから。

さて、〈TO DOリスト〉を御用意した皆さんへ。

今日の仕事を今日やっていませんか? 今日の仕事としてリストアップされているのは、ほんとうに今日じゃないとできない仕事でしたか? 昨日やっておけば今日はずいぶん楽ができたのではありませんか? まずは、今日の〈TO DOリスト〉に載っている仕事を、今日でなければ絶対にできない仕事と昨日でもできた仕事とに分けてみましょう。

いかがでしょうか。その昨日でもできた仕事をもしも昨日のうちに仕上げていたとしたら、今日という日は時間的にも精神的にもずいぶんと余裕のある一日になっていたのではありませんか? 仕事をしなければならない日と締め切りの日は違うのです。締め切りとはその日にする仕事ではなく、それ以前にする仕事を表しているわけですね。

さて、次です。いまリストアップした昨日でもできた仕事を、昨日でなければできなかった仕事と一昨日でもできた仕事に分けてみましょう。それが終わったら、一昨日でなければできなかった仕事と1週間前でもできた仕事とに分けてみましょう。もっともっと、以前へ以前へと進んでみましょう。 実は学年会議や職員会議で提案された時点で、すぐにでもできた仕事というのがいくつかあるはずです。そうです。仕事というのは、実は様々な会議で提案されているわけですね。

また、授業準備系の仕事もいくつかあるはずてす。教材研究やワークシートづくり、それってもしかしたら長期休業中にできたことなのではありませんか? 授業は生き物だから直前じゃないと準備できない? 馬鹿を言っちゃあいけません。それは十年以上のベテランが言うべき言葉なのです。あなたのような今日明日の授業にあっぷあっぷしている教師が言うべき台詞ではないのです。そもそも長期休業中に作っておけば、直前になったときの微修正・微調整だけで済んだのではありませんか?

前節を嫌みと皮肉で構成しました(笑)。

要するに、私の言いたいことは、授業づくりにおける大きな準備は長期休業中にする、毎日の細かな事務仕事はだいたい1週間後の仕事を目処に取り組む、こういうスタンスで仕事をしていれば突然入ってきた生徒指導やトラブルにも対応できますよ、ということです。

突然降って湧いてくるのは仕事ばかりではありません。急に先輩教師に飲みに誘われる。自分の身内や友人の身内に不幸があって、通夜に出席しなければならなくなった。社会人にはこういうことが少なくありません。こうしたときに次の日の仕事が滞るのはまずいでしょう。

長期休業中に授業準備がほぼ終わっている、1週間後の仕事に取り組む癖がついている、日々をこうした状況で過ごしていれば、自分の親が亡くなって1週間の忌引きをとるというのでない限り対応できます。こういうふうに1週間後の日程を見ながら仕事をするのが「先回り」のコツなのです。

では、こうした仕事の仕方はどうしたらできるようになるのでしょうか。それは会議への参加の仕方で決まります。その会議に参加するのと同時並行で、仕事内容をリストアップしてしまうのです。

例えば、職員会議では次の月の行事予定が必ず提案されるはずです。教務主任のその提案を聞きながら、同時に手帳に自分が参加しなければならない会議、自分が参加しなければならない行事はもちろん、そうした会議や行事に伴う準備日程まで書き込んでしまうのです。また、職員会議では各部から様々な提出文書の期限やその行事の時間を追っての動きなどが提案されるはずです。それも次に次にメモします。

学年会や校務分掌会議などにおいては、自分の担当についてもっともっと細かい動きが提案されるはずですから、それも逐一メモします。子どもや保護者との約束はもちろん、友人との約束でさえ、その場でメモします。業者や出先に電話連絡をしなければならない場合には、その予定がわかった瞬間に電話番号やFAX番号とともにメモします。

こうした仕事の仕方をしていれば、できることからどんどん仕事を片付けていこうとする習慣を自分自身につけていくことができます。要するに、仕事を〈日程〉と〈時間〉でするようになれるのです。仕事に〈追いかけられる〉のではなく、仕事を〈追いかける〉ようになれるのです。

若いうちにこの感覚をつかむことは、一生の宝となります。時間に追われることなく、時間を生み出せるようにさえなっていくものです。

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3月11日(月)

1.午前授業。1時間目は校長と面談。次年度人事について。2時間目は他学年の授業のある担任の代わりに3組で学活。3時間目は卒業式の学年練習。4時間目は合同練習。送辞・答辞生徒の指導。その後、次年度から導入の校務支援システムの研修会。退勤後、岩見沢へ。4日振りに両親に会って嬉しかった。

2.校務支援システム。使えるものをつくるのはなかなか難しいようだ。利便性の問題もさることながら、日本語への対応が全くできていない。ジャストシステムに20年前からできることが、なぜ他のメーカーにはいまだにできないのか。なめてるとしか思えない。日本で商売するならちゃんと日本語に対応しろ。

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見破り

職員会議で提案に猛反対する先生を見ることがあります。先生方の多忙を増幅させる、子どもたちのためにならない、あれこれと理屈をつけ、とにかくその提案をなきものにしようと批判します。

なぜ、そんなにもその提案に反対するのか。よく考えてみると、その提案が通るとその日の部活動ができなくなる提案であるなどということがあります。更によくよく考えてみると、その部活動ができなくなる日の週末に、その先生がもっている部活の大会がある、そんなことに気がつくこともがあります。結局、その先生がそんなにも反対するのは、その提案が問題なのではなく、部活動の練習日程の問題であったわけです。

ある子どもがどうしても指導に従わないということがあります。従わないどころか、その指導事案があったということさえ認めないのです。例えば、煙草の目撃情報があったから問い詰めてみたが、頑として認めない、そんな事例ですね。

いつもなら「ご免なさい」と素直に認める生徒なのに……。今日はどうしてこんなに頑張るんだろう……。ひょっとしたら、今回はほんとうにやっていないのかもしれない。良心的な教師ほどそう感じます。しかし、あとでわかったことですが、その子には母親が病気になっていて、いまは学校からの連絡で母親に心配をかけてしまうことをどうしても避けたかったという事情があったのです。

二つの事例を挙げました。長く教師をしていると、こんなことが多々あるものです。こうしたとき、その先生、その子が裏で何を考えているのかがわかれば、対処の仕方はいろいろあるものです。大会5日前までの部活動に関しては活動を認めるという付帯事項をつけたり、お母さんの病気に目処がついてから先生から話をすることにするよと言って安心させたりすれば良いわけですから。そのくらいの猶予をもたずして、学校教育は成り立ちません。

逆に、もしもこの裏の構造を見破ることができなかったとしたら、反対する先生にただ腹を立てたり、頑として認めなかった子を信用してしまって、かえってその子に負い目をいだかせてしまったり、そんな状態に陥ります。その方が教育活動はずっと滞ってしまいます。しかし、学校にはそういう例がたくさんあります。しかも、多くの場合、教師がそうと気づかぬままに。 こうして職員室の人間関係が険悪になってしまったり、教師と子どもとの関係がなんとなくぎくしゃくしてしまったりするのです。考えてみると、怖ろしいことです。

教師に限らず、人間は事実ばかり、現象ばかりに目を向けがちです。

When、Where、Who、What、How……いつ、どこで、だれが、何を、どのようにしたか。それだけを見て、自分の感覚で断罪してしまいます。あの先生は結局、めんどうなことはいやなんだ! あの子があんなに頑張るんだから、きっと今回は目撃情報の方が間違っているんだ! そういう判断ですね。それがネガティヴな方向に物事を進めてしまうわけです。
 しかし、様々な現象の裏には必ずWhy(=なぜ)があるのです。なぜ、そういう行動に出るのか、なぜ、そうした現象が起こるのか、その理由があるものなのです。しかし、人はなかなかそこに目を向けません。

Why(=なぜ)がわかれば、どうにでも対処のしようがあるというのに、それがわからない、それに目を向けないがために問題がこじれてしまう、そういう事例の何と多いことでしょう。

しかし、それにはそれ相応の理由があります。それはWhen、Where、Who、What、Howの五つは私たちの目の前に現象として顕在化しているのに、Whyだけが目に見えないところに潜在化しているからです。多くの人が目の前にみえている現象、事実だけを見て、それが真実なのだと簡単に判断してしまう、多くのネガティヴ事象にはそうした構造があります。

「見破り力」とは、Why(=なぜ)に目を向けることによってのみ培われます。

ある子の授業中の立ち歩きがおさまらない。どうすればこの子が落ち着くんだろう。ある子の音読がたどたどしい。何かこの子がスラスラ読めるようになる指導法はないかしら。この子の問題行動がおさまらない。もう、他の子たちと引き離して反省を促すしかないんじゃないか。教師はいつもこんなことばかり考えています。これらはすべて、「どうすれば良いのか」という〈HOW思考〉です。

しかし、この子はなぜ授業中に立ち歩くのだろう。この子はなんでたどたどしい読み方しかできないのだろう。この子はどうして問題行動を繰り返すのだろう。そう発想を変えた途端に、この子とじっくり話してみようとか、保護者と一回じっくり相談してみようとか、この子の読み方をじっくり観察してみようとか、そうした手立てがみえてくるはずです。理由を知ろうとすれば、理由を解釈しようとしてみれば、それに従って様々な手立てが浮かんで来るものなのです。HOW(=どのように)という指導の手立ては、WHY(=なぜ)に対応することによって、はじめて生まれてくるものなのです。

〈HOW思考〉から〈WHY思考〉へ。それが「見破り力」を高めていく、たった一つの道なのです。

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3月8日(金)

1.卒業式関係の準備をしたあと、3年生の式練習を1時間仕切る。証書授与の動きがぎこちないが、初めてだからまあ仕方ない。生徒たちが口々に緊張すると言う。そういうものなのだろうか。2時間で年休をいただいて、岩見沢に寄ったあと、夕方に千歳空港へ。横浜中華街で若い起業家と食事。ホテルに戻る。

2.30分ほど前にホテルに着いたが、部屋があまりにも暑い。東京の人には信じられないだろうが、窓をあけている。これでは眠れない。北海道の気温が恋しい。最高気温21度…。ふざけるな。札幌は氷点下、積雪が2mだというのに。1週間前には地吹雪で9人が亡くなったというのに。別世界である。

3.これまでの反省に従って、1日目に酒を控えた。酔ってない。具合も悪くない。眠くもない。素晴らしい。この調子であと二日間過ごすか。たぶん無理だろうな。

4.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事が劇的に変わる40の鉄則』(明治図書)に対する「すぷりんぐぶろぐ」さんの書評、第三弾です。
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/783acb00e685da473221983f366a018d

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思い入れ

好きこそものの上手なれ……とは言いますが、好きなことばかりやっていては成長がありません。かと言って、あれもこれもと欲張りすぎるとどれも中途半端になってしまいます。人間は一度に三つも四つもということに熱中して取り組むことは不可能です。

私は毎年、この1年間で絶対に結果を出すという強い決意で臨む研究テーマを一つだけ決め、なにがなんでもそれに取り組むことにしています。

例えばここ数年で言うと、次のようなことに取り組んできました。

【2008年度】学級経営の機能的なシステムづくり

【2009年度】生徒たちの良い雰囲気づくりに寄与する特別活動

【2010年度】国語科授業のノート指導

【2011年度】特別な支援を要する生徒の対応

【2012年度】ファシリテーション型授業の課題の分類

2008年度の研究テーマは既に拙著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書・2012年1月)としてまとめました。あとの4つももう少し成果を整理したうえで提案させていただこうと考えています。

教師という仕事は、子どもあっての仕事です。子どもたちは常に教師の思ったとおりに活動したり成長したりしてくれるわけではありませんから、毎日細かいことが起き、何かに取り組もうと思っても、なかなか計画通りに進むものではありません。ですから、この1週間で何かに取り組もうとか、月ごとに何か成果を出そうとか、短いスパンで考えたのではほとんど意図したとおりに達成することはできません。短いスパンで計画を立てると、それができないことがかえってストレスになります。

しかし、1年でこのテーマについてそれなりの成果を出そうといったゆるい計画を立て、それを意識しながら仕事をしていると、多少の遅れも余裕ができた時期に取り返せますから、それほどストレスがたまりません。また、一つの研究テーマを常に意識しながら1年を過ごすことによって、つまり1年の長きにわたって一つのことを意識し続けることによって、某かの発見が自然に生まれてくるものです。

一つの研究テーマについて「絶対に結果を出す」と考えていると、そのことだけは揺るがせにせずに1年を過ごすことができます。例えば、わかりやすい例で言うと、私は2010年度、他のことは譲っても授業のノートづくりだけは生徒たちに徹底的に要求し続けました。その結果、私がこの年に得たノートの指導原理の成果にはかなり大きなものがありました。

あれもこれもと欲張らず、年に一つの研究テーマを設定して1年間を過ごせば、それなりの成果が必ず得られるものです。

「思い入れ力」という言葉を聞くと、一般的には好きなこと、やりたいことに対する思い入れと考えるのが一般的でしょう。要するに、学級通信に対する思い入れとか、ある具体的な授業方法に対する思い入れとか、部活動の指導に対する思い入れとかですね。

もちろん、学級通信だけは力を入れて発行した教員人生だった、○○方式一筋35年、生徒たちと一緒に全国大会に進めたことを誇りに思う、そうした教師生活は尊いものです。しかし、こうした一つのことだけに取り組む教師人生は、次第次第に、本人も気づかぬままにマニアックになっていくものです。そのマニアックさを私は潔しとしないのです。

一つのことを深めることは尊いことです。でも、教師に必要なのは、少なくとも義務教育の教師に必要なのは、深さ以上に「広さ」なのです。私はその「広く身につける」ということ自体に深い思い入れをもっています。

ただ、「広さ」と言っても、闇雲にあれもこれもではすべてが中途半端になってしまいます。私は若い頃、そういう教師でした。そして、何年もその中途半端さから抜け出ることができない教師でした。年度に一つの研究テーマを設定するという在り方は、そうした経験から編み出した私の生活スタイルなのです。

実は、一つの研究テーマを決め、思い入れをもってそれに取り組んでいると、思わぬ副産物が生まれることがあります。

例えば、私は2008年度、学級経営の機能的なシステムを研究テーマに掲げていました。私はこの年、中学1年生の学年主任だったのですが、4月に学年の先生方と一緒に話し合い、4つの学級が同じ学級組織、同じ当番活動の仕方、同じショートホームルームのメニューで運営しました。

そうすると、同じシステムを敷いているというのに、学級によって機能度に差が生まれていることに気がつきました。こういうことを言うと、一般的に、よく機能している学級の担任は力量が高く、機能させ切れていない学級の担任は力量が低い、と感じられる読者が多いかと思います。しかし、そうではないのです。あるシステムはこの担任がよく機能させているけれど、別のあるシステムはこっちの学級の方が機能度が高い、そういう差が生まれるのです。

すべてのシステムについて、学級Aが学級Bよりもよく機能しているというのであれば、学級Aの担任が学級Bの担任よりも力量が高いと結論づけてまず間違いないでしょう。しかし、実態はそうではないのです。各担任によって機能しやすいシステムと機能しづらいシステムがあったのです。

私は「これがなぜなのか」と監察し続けました。そこから生まれたのが、担任のキャラクターによって教育活動の機能度に差が生まれるのだという、現在の私の核になっている考え方です。ここから生まれたのが拙著『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書・2013年1月)です。この年の研究テーマは、そのテーマの直接的な成果である『必ず成功する「学級開き」…』の他に、私にもう一つの別の著作のテーマを開発させたのです。

1年間、思い入れをもって一つの研究テーマに取り組む。「思い入れ力」はこのように成果を広げる力さえもっているものなのです。

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3月7日(木)

1.公立高校入試も終わり、いよいよ卒業週間に突入。1時間目は他学年の授業が入っている担任の代わりに、3組で今後の受験の反省を記入させ、今後の進路日程を説明する。4時間目は卒業式の学年練習。空き時間は事務仕事。銀行に支払いに行った後、校務部会。既に議題は新年度。4月の動きが見えてきた。

2.退勤とともに高速を飛ばして岩見沢へ。昨日買ったグッズを父と母に届ける。二人とも新しい施設に慣れてきた様子が見てとれる。小一時間ほどいただけで、実家の様子を見に行く。かつて僕の部屋だったところのロッカーの中に僕のアルバム3冊を見つける。幼少の頃から高校生までの写真をしばし眺める。

3.風来坊/ふきのとう/1977
★★★★★…∞
たぶん、人生で聴いたアルバムの中で最も好きなアルバムだと思う。レコード時代に2枚買い換え、CDも3枚買い換えている。http://www.amazon.co.jp/%E9%A2%A8%E6%9D%A5%E5%9D%8A-%E3%81%B5%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%86/dp/B00005G3E0/ref=sr_1_23?s=music&ie=UTF8&qid=1362660355&sr=1-23

4.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事が劇的に変わる40の鉄則』(明治図書)に「すぷりんぐぶろぐ」さんから書評をいただきました。
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/85a1518fe59d1c89f8efc19ba1fb232b

5.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事が劇的に変わる40の鉄則』(明治図書)に対する「すぷりんぐぶろぐ」さんの書評、第二弾です。http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/e55390e830ac9ddce70bffacc824d94a

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目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50

Cover13032教室ファシリテーションへのステップ・2
目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50

堀裕嗣・山下幸編・「研究集団ことのは」著/明治図書

まえがき

拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版)をお読みいただいた方の何人もから同じ質問を受けました。

「教室ファシリテーションの理念はよくわかりました。手法もよくわかりました。でも、いきなり導入してうまく行くのでしょうか……。」

なるほど、その不安はよくわかります。

「本当にうまくいくのか不安で、最初の一歩が踏み出せません。」とか、或いは「実際にやってみたけれど、なんとなくしっくり来ないんです。他に何かコツがあるんじゃないでしょうか。」とかいった声もありました。

こうした声に触れて、私は気がつきました。そういや、子どもたちをつなげるこの手の活動は、ダイナミックな教室ファシリテーションの手法に取り組む以前に、日常的に小さな活動をたくさんしている、と……。教室ファシリテーションで提案したダイナミックな手法は、そうした日常的な取り組みを前提としていたのだ、と……。

今回、「教室ファシリテーションへのステップ」と題して、国語科の授業の在り方について、音読・スピーチ・聞き方・作文・話し合いの五つについて、ネタを含めてシリーズで上梓させていただくことになりました。本書はその2冊目「スピーチ編」です。

もとより、音声言語活動には三つの活動形態があります。

一つ目に「独話」。これは1対多の一方的なコミュニケーションです。

私たちはよく、大学の先生の講演を聴いたり、現場の先生の研究発表を聴いたりという機会をもちますが、こうした場合、その場の話し手は一人、その他の大勢は聞き手ということになります。つまり、「1対多」でコミュニケーションが行われているわけです。

また、聞き手は原則として、話し手が話している途中に口をはさむということが許されません。一般に、独話の最中に聞き手が口をはさむことは失礼とされます。これが「一方的コミュニケーション」という意味です。

「独話」の例としては、「講演」「講話」「演説」「スピーチ」「プレゼンテーション」などがありますが、国語教室で展開される具体的な学習活動としては、一般的に「スピーチ」になります。

二つ目に「対話」。これは1対1の相互的コミュニケーションです。

日常生活において、1対1でのかけあいは意外と多いものです。例えば、「挨拶」「質疑応答」「問答」「面接」などは、原則として1対1で行われます。これらをまったく経験せずに生きていくことは難しいでしょう。また、「総合的な学習の時間」の導入以来、その必須の活動とされてきた「インタビュー」なども、一般的には1対1の対話形態で行われるものです。更に、電話のように、コミュニケーションツール自体が「対話」の成立を求めているというようなものさえあるほどです。これらは、言うまでもなく、双方のかけあいによって進むコミュニケーションです。「対話」が「相互的コミュニケーション」とされる所以です。

三つ目に「会話」。これは1対少数の相互的コミュニケーションです。

これは、いわゆる「日常会話」をはじめとして、「話し合い」「座談会」「討議」「討論」「会議」「ディベート」「シンポジウム」「パネルディスカッション」などなど、その種類が実に様々にあります。特に、「話し合い」や「討論」、「ディベート」「シンポジウム」「パネルディスカッション」などは、21世紀になってから随分と流行してきました。おそらく、「総合的な学習の時間」を機能させるための必須のアイテムとされてきたからでしょう。

私は「独話」は音声言語の技術の習得に、「対話」は意欲の喚起に、「会話」は思考の促進に向いていると考えています。1対多の一方的コミュニケーションでは話し手がその場のすべての責任をもつことになりますから、その責任を全うするために技術意識が高まります。また、1対1で和気藹々に相互コミュニケーションを図ることは話すことの抵抗感を和らげます。更に、1対少数で当事者意識をもって交流や議論に参加することは、だれもが傍観者とならずに思考が促されます。

私はこれを原則として、長く「話すこと・聞くこと」領域の授業づくりに取り組んできました。

スピーチは「独話」の代表的な言語活動といえます。その意味では、1対多の一方的なコミュニケーションにあたります。しかし、なんとかこの「独話」の学習においても、「対話」や「会話」の良さを導入できないか、いつの頃からか、そう考えるようになりました。

そして到達したのが、結果としての活動形態が「独話」だったとしても、そのプランニングの段階で「対話」や「会話」を導入するこどてした。プランニングの段階には様々な思考活動があります。一人で取り組むのは難しいと思われるような、多様な視点で検討しなければならないこともたくさんあります。そこに協同的な活動を導入することを常としてはどうだろうか。

私はかつて、『教室プレゼンテーションの20の技術』(明治図書)を上梓しまた。また、最近、『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版)も上梓しまた。本書は前者の言語技術的な発想と、後者の協同学習的な発想とを融合したものです。

本書が現場の国語授業の活性化に少しでもお役に立てるなら、それは望外の幸甚です。

あとがき

本書は「研究集団ことのは」にとって、13冊目の共著となります。国語科授業の本としては8冊目です。「教室ファシリテーションへのステップ」というシリーズ5巻本としては、2巻目にあたります。

シリーズ本として幾つかの本をつくろうという場合、私の経験から言って心情的に最も苦しいのが2冊目です。1冊目がある種の狂気的な盛り上がりの中で難産とはいえ形になってしまうのに対し、2冊目は1冊目にあったある種の狂気が覚め、自分たちの力量のなさとか、読者にとって何が有益なのかとか、こんな実践に本当に価値があるのかとか、こうしたことを深く考え始めてしまうものなのです。そうした迷いがなんとなく筆を止めてしまう、次第に原稿執筆の苦しみから逃避させてしまう……そんなことが多いように思います。本書は共著ですから、原稿提出の遅れる者が現れるのも2冊目であることが多いのが現実です。

しかし、本書は割とスムーズに出来上がりました。おそらく、理由はたった一つです。1冊目の「音読本」が「研究集団ことのは」の中心メンバーでつくったのに対し、この2冊目の「スピーチ本」は割と最近になって入会したメンバーが多数書いているのです。中心メンバーが若手メンバーや新しく入会してきたメンバーに、つまり本の原稿を初めて書くというメンバーにああでもないこうでもないと教えているうちに、なんとなく執筆環境が整い、執筆意欲も活性化して……と、良い回転にはまったのです。

いつの時代も、組織を活性化するのは若者であり、新しいメンバーです。

メンバーが完全固定するのではなく、新しい人が少しずつ入ってくるという状態が続いていること、それもまた「研究集団ことのは」の一つの強みなのだと改めて感じた次第です。

思えば、「研究集団ことのは」は1992年に結成され、ちょうどその10年後、2002年に一度目の隆盛期を迎えました。2002~2005年の4年間に10冊の共著を上梓させていただきました。当時は「研究集団ことのは」の結成に参加した者たちが、「この10年の成果を発信しよう」の思いを胸に抱いて迎えた隆盛期であったように感じます。そして再び、ちょうど10年後、2012年になってこうして二度目の隆盛期を迎えていることに、代表として10年前とは違った感慨を抱いています。

実は、現在、「研究集団ことのは」の第1期ともいうべき、立ち上げ当時の、たった7人で活動していた頃のメンバーは3人しか残っていません。それでも、若い人たちが参加したり、僕らに価値を見出してくれた関東や東海の先生方をメンバーに加えたりしながら、いまがあります。現在は東京都名古屋に支部をもつまでになりました。

90年代は若さにまかせて、月例会が15時間の長丁場なんていうことを常としていました。北海道内では「あのサークルは狂ってる」「あのサークルは怖いらしい」「あのサークルはまるで虎の穴のようだ」と揶揄されたりもしました(笑)。それほど異常な集団だったのです。土曜日の13時から始めた例会が議論をしているうちに夜が明けてしまうなどということが幾度もありました。

現在、月例会は17~21時の4時間を基本としています。たまに遅くなることもありますが、23時をまわることは皆無になりました。もう狂ってもいないし、怖くもないですし、虎の穴でもありません。とても人間的なサークルになりました(笑)。そういう中で第二の隆盛期を迎えつつあることが、私にはなぜかとても嬉しいのです。

今回も編集の及川誠さんには、企画から出版に至るまで並々ならぬご助力をいただきました。ありがとうございました。

元ちとせ/コトノハ を聴きながら…
2012年10月31日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50

Cover13031目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50

堀裕嗣・山下幸編/研究集団ことのは・著/明治図書

まえがき

拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版)をお読みいただいた方の何人もから同じ質問を受けました。

「教室ファシリテーションの理念はよくわかりました。手法もよくわかりました。でも、いきなり導入してうまく行くのでしょうか……。」

なるほど、その不安はよくわかります。

「本当にうまくいくのか不安で、最初の一歩が踏み出せません。」とか、或いは「実際にやってみたけれど、なんとなくしっくり来ないんです。他に何かコツがあるんじゃないでしょうか。」とかいった声もありました。

こうした声に触れて、私は気がつきました。そういや、子どもたちをつなげるこの手の活動は、ダイナミックな教室ファシリテーションの手法に取り組む以前に、日常的に小さな活動をたくさんしている、と……。教室ファシリテーションで提案したダイナミックな手法は、そうした日常的な取り組みを前提としていたのだ、と……。

今回、「教室ファシリテーションへのステップ」と題して、国語科の授業の在り方について、音読・スピーチ・聞き方・作文・話し合いの五つについて、ネタを含めてシリーズで上梓させていただくことになりました。本書はその1冊目「音読編」です。

国語科の授業で行われる音読には一般に、二つの方向性があります。

一つは文章の理解を促すための活動としての音読、もう一つは文章を理解した後に自分の読みを表現する活動としての音読です。教材の学習の最初に行われる範読や一斉音読、句点読み(通称「まる読み」)などは前者ですし、学習の最後に行われる朗読や群読、表現読みや劇化などは後者です。本書はこの理解としての音読と表現としての音読の両者をバランス良く配置したつもりです。

また、本書の特徴は、すべての実践ネタが「音読をうまくなる」「上手に音読として表現する」ということだけでなく、学習活動として子どもたちを〈つなげる〉ということに大きく配慮した点です。50のネタのうち、教材の読み方を教師に教えてもらい、個人で音読練習をするというタイプのものは一つもありません。そのすべてが、子どもたちが心を一つにして読み合うとか、子どもたちが「ああでもないこうでもない」と交流し合いながら一つの読みを創り上げていくとか、そうした方向性を明確に抱いての実践ネタになっているのです。

国語科に限らず、いま、子どもたちは一人で学習に取り組むことに対して意欲を維持できない傾向があります。また、「勉強になるんだよ」「うまくなれるんだよ」といった目的意識だけでは授業への集中力が続かないという傾向も見て取れます。更には、学習活動に楽しさのしかけがないと、なかなか取り組もうとしない実態さえあります。

しかし、逆に言うと、学習の意義を理解し、みんなで取り組む学習活動があり、そこに楽しさのしかけさえあれば、学びはものすごい勢いで成立するということなのです。その勢いはかつての学習、かつての授業とは異なり、子どもたち相互の相乗効果でノリにノッての学習へと向かいます。そこには長く一斉授業にのみ慣れてきた私たち教師が驚くほどの学びが成立することさえ珍しくはありません。

本書はそんな子どもたちの姿を音読の授業で見てみたい、そんな強い願いを抱く教師たちによって作られました。本書が現場の国語授業の活性化に少しでもお役に立てるなら、それは望外の幸甚です。

あとがき

本書は「研究集団ことのは」にとって、2年振り、12冊目の共著となります。国語科授業の本ということになると10年振りです。

サークルも10年の時を隔てますと、いろいろなことが起こります。メンバーも離脱や加入を繰り返してずいぶんと入れ替わりました。それでも2010年代になったのを機に新たな再スタートということで、本書を企画させていただきました。「研究集団ことのは」は現在、かねてから研究対象としてきた①深い教材研究を通してより高度で系統的な一斉授業を目指すこと、②国語科の授業づくりをプラグマティックにとらえた言語技術教育を目指すこと、③語り手の自己表出と物語との関係を読者論的に読み解く文学教育を目指すことという三つを捨てることなく、第四の研究領域として④教室ファシリテーションにおける系統的な学習活動を開発することを選びました。本書はその第一弾ということになります。

思えば、「研究集団ことのは」はファシリテーションのごとき多様性を内部に触発させようとし続けてきたサークルです。

日文協の文学教育・法則化運動・国語学・認知心理学というそれぞれ専門領域の異なる国語教師が4人集まって、異質な者が集って互いが互いから学び合おうというのが結成の同期でした。その後も古典文学を専攻する者、漢文学を専攻する者、教育社会学を専攻する者、授業づくりネットワークの中心的な活動家、北海道の教室ディベートの第一人者などなど、常に異質な者をメンバーに加えてきました。長くいっしょに研究活動をしていると、当初は異質であった者たちもだんだんと発想が近づいてきます。井の中の蛙化していきます。私たちが最も怖れるのは、学び合う異質な者同士が響き合いすぎてしまうと、次第に似た者同士になってしまい、しかもそれを自分たちが自覚できなくなってしまうのだということでした。私たちはだれよりそのことを熟知している集団であると自負しています。

ファシリテーションを私たちなりにごくごく簡単に定義づければ、「異質で多様な者たちが集まって交流することによって、互いに触発し合い、最終的には学びのブレイクスルーが起こる、その過程を促進すること」とでもなりましょうか。私たちはずーっとそれを心から求め、常に学びのブレイクスルーに飢え続けている、そういうサークルだという自己認識をもっています。思えば、私たちはファシリテーションと出逢うべくして出逢ったのではないかとさえ思われるほどです。

こうした活動を長く続けてきたおかげで、いまや「研究集団ことのは」には、いわば「ピン芸人」とでも言うべき、一人で独自の提案をしているメンバーがたくさんいる、そんな集団になりました。指導主事になった者も一人や二人ではありません。若くして管理職になった者も一人や二人ではありません。おそらく我々が常に異質な者を取り込んできたことによつて、広い視野からものを見たり、多様な視点から物事を分析したり、異なる領域や分野の理論・実践を融合したりということを、ごく自然の日常としているせいなのだと思います。

「研究集団ことのは」はこれからもまだまだ成長し続けるでしょう。本書もまだまだ一つの過程に過ぎません。その自覚を腹の底から抱いている……実はそれこそが我々の強みなのだと感じています。

このたびは企画から出版に至るまで、編集の及川誠さんには並々ならぬご助力をいただきました。特に、謙虚な姿勢、謙虚な言葉遣いで強く原稿を督促する……というモデルを示していただきました。私たちも子どもたちへの接し方の一つとして参考らさせていただきたいと思います(笑)。ありがとうございました。

瀬木貴将/MOON ROAD を聴きながら…
2012年11月30日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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ヒラメキ

そうか!そういうことか!

なるほど…。こうすればいいんだ。

だれしも自分のヒラメキに大きな喜びを感じた経験があるものです。それが重要なものであればあるほど、喜びは大きくなります。そしてそのヒラメキが自分の教師人生を豊かにしていきます。

では、重要なヒラメキとはどういったときに得られるのでしょうか。もしもそれがわかれば、私たちの人生は教師人生はもっともっと豊かになるのではないでしょうか。そうは思いませんか?

さて、私の経験から言うと、ヒラメキとは二つのこと、或いは二つ以上のことが結びつくことです。例えば、全く関係がないと思っていたAとBという二つの事柄の間に同じ構造があったと気がついた。例えば、いま目の前にいるCくんにどう対応しようかと考えあぐねているうちに、3年前のDくんへの対応と同じようにしてみてはどうかと思いついた。例えば、Eさんがなぜこんなことをするのかどうしてもわからないと思っていたのが、自分がEさんの立場だったらどう考えるだろうかと視点を変えてみたら、「もしかしたらEさんは……」と合点がいった。ヒラメキとはこんなふうに瞬間的にわき起こるものです。

とするならば、常に二つのことを同時並行的に進めていくことを意識しながら日常生活を送れば、ヒラメキが得られるチャンスはそれだけ生まれやすくなる、ということです。

実は私は、毎日、三回から五回くらいヒラメキを得ているという実感があります。毎日毎日、心の中で「おっ!」とか「なるほど!」と思うことが何度もあるのです。また、月に二度くらいは、「おおっ!」と思わず声に出してしまうようなヒラメキを得ています。こういう言い方ではわかりにくいでしょうからたとえ話でいうと、毎日、三つから五つくらいは4頁程度の雑誌原稿くらいにはなりそうな発見をし、毎月、二つから三つくらいは本1冊くらいは書けそうな発見をしています。要するに、私はヒラメキの毎日を送っているわけですね。

なぜ、私がそんなにもひらめくことができるのかというと、日常的に二つ(以上)のことを同時並行的に進めていくということを習慣とし、生活そのものとしているからです。

例えば、私は読書好きで、日常的に本を読んでいますが、常に5冊の本を同時に読んでいます。具体的には、①書斎で読む本、②家のトイレで読む本、③ベッドで寝る前に読む本、④常に鞄に入れて持ち歩いている本、⑤学校に置きっ放しにして朝読書の時間やちょっとした隙間時間に読む本、と5種類の本を常にシステマティックに読んでいるのです。しかも①は学術書、②は苦手な分野(理数系)の新書、③は小説、④は文庫、⑤は教育に活かせそうな新書、と本のジャンルまで意識しています(もちろん、明確に分かれているわけではありません)。

こうした生活を送っていると、トイレで読んだ理数系の原理と人と待ち合わせしていたときに読んだ文庫本の内容が重なって見えてくるとか、学校で読んだ教育に活かせそうな原理とベッドで読んだ小説のエピソードが同じ構造だったとか、そういうことに気づく機会がたくさん生まれてきます。ある本で読んだ内容とある本で読んだ内容とが、ちょうど正反対のことを言っているなんていう事例に出逢うこともできます。そうした気づきは、あなた独自のヒラメキとして、必ずあなたの教師人生を豊かにしてくれます。

そうしたヒラメキを得られたら、前に「アンテナ力」で述べたように、そこで得た視点で、子どもたちや学校の一つ一つの仕事を見直してみるのです。きっと更なる発見があるはずです。

また、例えば、私は刑事物のドラマがとても好きなのですが、「相棒」を見た次の日は、学校で見聞きする一つひとつの事柄を「杉下右京だったらこれをどう捉えるか」という風に意図的に考えるようにしています。時代劇を見た次の日には、「もしもこの出来事が江戸時代だったら、何がどう変わるだろうか」なんてことを考えながら一日を過ごします。

私の言いたいことが、もうおわかりかと思います。日常生活を過ごしながらも日常にどっぷりとは浸からない。常に視点を変えて見てみる。或いは、常に相互に関係のない情報に触れてみる。意識的に自分をそういう状態に置く。それが私のヒラメキ力アップのコツであるわけです。

ヒラメキとは、二つのこと、或いは二つ以上のことが結びつくこと。私の言う意味をご理解いただけたでしょうか。こうした「視点を変える」というものの見方、それに伴う思考は、数ヶ月から1年程度続けると、もうそういう見方、考え方が癖になるものです。そうなればしめたものです。発想が豊かになり、おもしろいほどにアイディアが浮かんでくるようになります。信じられないかもしれませんが、そういうものなのです。

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3月6日(水)

1.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)が第4刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

2.公立高校入試二日目。ビデオ。1組に入るが生徒は十数人。生徒下校後、北白石小学校の6年生を相手にオリエンテーション。ファシリで中学校への質問を班ごとに練り上げる。次々に質問が出て次々に答える。90分間びっしり。退勤時間とともに岩見沢へ。テレビを買い、ゴミ箱を買い、洗濯ばさみを買い。

3.『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)の最終校正を終えて発送した。これでこのシリーズの堀裕嗣・石川晋・山田洋一の3冊が同時刊行される。おそらく4月下旬か5月上旬だろうと思う。難しいとか、理解できないとか、評判の悪い本になるかもしれないが、僕としてはまずまず満足の本になった。

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環境調整型権力と大きな物語

私はもう、学校教育が〈環境調整型権力〉の発動を基軸にしていくしかないと考えています。それも、ディズニーランドのように、徹底して独立した人工的な環境設定をしていくしかないと考えているのです。もう、教師自身がああやりたい、こうやりたいと自己実現の在り方を求めるのではなく、学校という単位で、或いは大規模校であれば学年とかいう単位で、生徒たちを取り囲む環境自体を調整しながら運営していくのです。

私は先般、『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間シスムテム』(明治図書)を上梓しました。その要諦は、担任教師の人間性やキャラクターのみを頼りに子どもたちにあたるのは既に不可能になっている、これからは学級経営のシステムをしっかり敷いて、そのフレームワークによって学級経営をしていこう、ということでした。

また、私は先般、『教師力ピラミッド~毎日の仕事が劇的に変わる40の鉄則』(明治図書)を上梓しました。これも一人でできることなんて限られているのだから、多様な人材でチームを組んで生徒たちを取り囲む環境として教師集団を位置づけよう、という提案でした。

私たちはプロデューサーでもなければゲームマスターでもない、コスチュームを着たキャストなのだと自己認識しよう、という提案です。そして最低限の集団ルールを設けたり、学級組織を整えたり、教室環境を整備したり、教師の役割分担を明確にしたりしながら、〈環境調整型権力〉によって学級も学校も運営していこう、ということなのです。

その裏には、〈規律訓練型権力〉を発動しながら、生徒たちの内面に踏み込むのはやめようという、冷たい提案が含まれています。べたべたする「教師-生徒関係」からの脱却という意味合いを内包しています。

ただし、暴力行為やいじめなど、教師にはどうしても〈規律訓練型権力〉を発動しなければならない場面があります。しかし、これまでどおりに、ただ〈規律訓練型権力〉を行使していたのでは、生徒たちは受け付けてくれません。「それは先生個人の正しさでしょ?」と、オレはそう思わない、私はそう感じられないと言われてしまうだけです。

そのためには、ディズニーランドのように、〈環境調整型権力〉で運営しながらも、学校という外界から遮断された空間のなかで、ある種の〈大きな物語〉を生徒たちに見せてけあげる必要があるのです。これまでのように、教師一人ひとりが、担任個人が自分なりの〈大きな物語〉を語るのではなく、学校にいる教師全員がチームとして〈大きな物語〉を体現している、そういう空間をつくることを迫られているのです。

生徒たちが私たち個人個人の教師の背景に学校としての〈大きな物語〉を見ていれば、何か問題が生じたとき、いざというときにも私達の言葉が生徒たちにも届くことでしょう。

かつて、地域や社会は、私達を「共同幻想」によって支えてくれました。

「学校に行ったら先生の言うことをよく聞きなさい」

「先生がそんなに怒ったんならあんたが悪い」

そう言って、学校を、教師を支えてくれていました。学校に追い風が吹いていたという言い方をしても良いかもしれません。その風に載って、教師は〈規律訓練型権力〉を発動しながら生徒たちを導くことができたのです。決して昔の教師が優秀だったわけでもなければ、一人一人の教師の力量が高かったわけでもありません。

いまはその追い風がなくなったのです。正しいことを言うだけでなく、その正しさの説得力を高めるところまで、教師の仕事の範疇になったのです。つまり、指導するだけでなく、その指導に追い風をつくるところまでが教師の仕事になった、ということです。力量の高い教師たちはいま、それが個人の力でできるからこそ、力量の高い教師と呼ばれているのです。

しかし、力量の高い教師は、自分の言葉、自分の指導の説得力を高めることはできても、隣の力量の低い教師の説得力を高めてはくれくません。むしろ、力量の低い教師は、隣のその力量の高い教師がいるが故に相対的に低く見られ、生徒や保護者に対する言葉が機能しづらくなることさえあります。なんとしても、この構造は打開しなければなりません。それができなければ、学校教育は破綻していくでしょう。その打開のためには、テーマパークならぬテーマスクールとして、生徒たちに「学校という〈大きな物語〉」を見せてあげなければならないのです。

レイ・ブラッドベリ流にいえば、現在、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(以下「SNS」)が映画やRPGに近い在り方で、直接体験できない〈環境調整型権力〉を発動して生徒たちの心を捕らえています。人々とつながることができ、個人的に楽しむことのできるアプリを無限に用意しと、直接体験以外は、生徒たちのほぼすべての欲求を満たしていると言っても過言ではありません。

しかし、学校はいまだに演劇です。稀に教師と生徒たちとの一体感が生まれることがありますが、それは偶然性に支配されています。うまくはまれば大きな成果を上げることもありますが、ほとんどは満足のいかない課題ばかりの運営が続いていきます。それが生徒たちの心を、教師から、学校から次第に遠ざけていくのです。

この悪循環をなんとしても断ち切らなくてはなりません。そのためには、学校教育をディズニーランドのように〈大きな物語〉を見せてあげる〈環境調整型権力〉の発動の場としなければならないのです。教師個人ではなく、学校職員全員で窓のない壁に美しく豊かな田園風景をエクスタシス描いて見せてあげなくてはならないのです。その〈大きな物語〉が機能すれば機能するほど、ときに発動しなければならない〈規律訓練型権力〉さえもがそこそこ機能する状態になっていきます。

では、その〈大きな物語〉をどのように生徒たちに見られば良いのでしょうか。次節では、大塚英志の「物語消費論」を題材にして考えていきます。

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3月5日(火)

1.公立高校入試日。2割程度の生徒しか登校しない日。授業も3時間。それもみんなでビデオを見るだけ。生徒の下校後は会議や事務仕事。15時で介護休暇をいただいて岩見沢へ。実家に寄り、親父とお袋のいない空間に切ない違和感を覚えながら、両親が飼っていた3羽のインコを車に積み、自宅に持ち帰る。

2.親父とお袋の元気そうな顔を見たあと、介護施設と打ち合わせ。ケアプランの説明を受け、次に来るときまでに用意すべきリストをもらい、診療の結果を聞く。今日から薬も変わったそうだ。施設で夕食をご馳走になる。その場でみんなでつくっているそうで、キャベツはお袋が千切りしたとのこと。

3.お袋にCDラジカセとCDを見繕って持ってきてくれと言われたので、CDを入れてある引き出しを開けたら、数百枚のCDがあった。クラシックの全集とか、美空ひばりとか、石原裕次郎とか、その他もろもろ。何枚かを持って行こうと袋に入れているうちに、石原裕次郎の「昭和たずねびと」の入っているCDを見つける。1978年の発売。当時、親父とお袋がよく歌っていた曲だ。僕は小学校6年生だった。懐かしくて車で聴きながら帰ってきた。
http://www.youtube.com/watch?v=NIhFYK0H9wg

4.娘を風雪から守って亡くなったという父親は、僕の生まれ故郷湧別町の人だった。僕の従兄弟も湧別町で漁師をしている。間違いなく面識があるだろう。痛ましい。本当に痛ましい。これを題材にテレビ番組や道徳授業などをつくって欲しくない。これは断じて美談などではない。ただただ痛ましい事故なのだ。しかし、そういう輩が出るのだろうな。神経を疑う。

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規律訓練型権力と共依存型セラピー

〈規律訓練型権力〉とちょうど裏表にあるものとして、私が〈共依存型セラピー〉と呼んでいる教師の在り方があります。泉谷閑示が指摘している、精神療法やカウンセリングの現場でよく見られる、セラピスト側の病理現象です(『「普通がいい」という病』泉谷閑示・講談社新書・2006年10月)。

多くのセラピストは精神療法やカウンセリングの場面において、ついついクライアントの悩み・苦しみをどうにかしてあげようと、自分の考える答えを教えたくなってしまうものだと泉谷は言います。そしてそうしたセラピストの行為を、クライアント自身の葛藤を持ちこたえる力を育てず、自分自身で答えを見つけ出す力を退化させてしまう、セラピー依存を作ってしまう在り方だと批判しています。

例えば、リハビリすれば十分歩けるようになるクライアントに、「脚が痛い」と言っているからとすぐに車椅子を提供する、そうした治療やカウンセリングを批判しているわけです。このような治療者の在り方は、治療者にとって「すごく治療してあげているような自己満足」を感じさせます。クライアントの方もこの治療者に感謝しますから、両者はともに満足感を得るわけですね。

しかし、これが大きな罠であると泉谷は指摘します。

「治療熱心な治療者ほどこの失敗に陥りやすいのですが、治療者自身が患者さんに『治療依存症』を作る元凶になっていることに気付かない。ドラマの『赤ひげ』よろしく、私生活をほとんど犠牲にして、それで自分はたくさんの患者さんの役に立っていると密かに満足をしている。でも患者さんはなかなか治らないものだから、患者数だけがどんどん増えて、どんどん頼りにされて、忙しくなる。その治療者はこれまた密かに、自分の腕が良いので繁盛していると錯覚する。こういう困った悪循環もよく見られます。」

多くの読者が思い当たると節があるのではないでしょうか。いま、学校には泉谷閑示が指摘するような〈共依存型セラピー〉の状況に陥っている、そんな現象がたくさんあるはずです。私の学校もこの構図で溢れかえっています。教師たちは身動きがとれず首がまわらないほどに走り回っていますが、子どもたちにも保護者にも、一つやって上げるとそれ以上の要求が突きつけられ、本音では「つけあがってんじゃねえぞ」と「こんなにやってあげる自分はいい人」という矛盾した思いを錯綜させながら、やはり過保護を繰り返して自分の首を絞めていく……そういう現象です。

さて、こうしたやり方はいつまで続けられるでしょうか。早晩、学校教育はパンクしてしまうはずです。いいえ、もう既にパンクは始まっていて、心の病で休職する教師があとを絶たない状況があります。まじめな教師、理想の高い教師ほど心の糸が切れやすい、そうした傾向も見られます。

もう、このあたりが限界なのではないでしょうか。

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今月のお知らせ/2013年3月

Cover13031Cover13032今月は「研究集団ことのは」にとって10年振りとなる国語科授業の著作『目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50』『目指せ!国語の達人 魔法の「スピーチネタ」50』(明治図書)の2冊が刊行されます。ともに「教室ファシリテーションへのステップ」というシリーズの1冊目と2冊目です。これから続々刊行される予定です。

3月から1学期の間、研究会については年度末・新年度ということで控えています。ほとんど遠出の予定を入れていません。地元で小さな研究会は開催する予定です。

2月7日(木)に拙著『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)の記事が掲載されました。その反応です。

MOZART・HISTORY・PEACE水持先生の顧問日記寝ても覚めても学校のこと。統一教会合同ニュースブログ学校から新しい風を!万葉といで湯の郷から出た男の

【書籍・出版関係】

121207cover新刊『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』堀裕嗣著・明治図書・2013年1月

第4刷が決まりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。しばらく品薄状態が続きますが、ご容赦下さいませ。

2006年から温めてきたコンテンツです。僕の講演では必ず触れる、僕にとってビッグコンテンツでもあります。今回は明治図書からイクタケマコトさんとのコラボです。僕の代表作になると思います。それだけの価値のあるコンテンツと自負しています。今回は読者にわかりやすく、役立つようにという配慮も僕なりに尽くしています。

まえがき/目次/あとがき

書評/きょんどう通信あこがれのベクトル天日干し思考えでゅぴりか水持先生の顧問日誌佐藤玄輝のブログすまいる☆まじっく教師の本棚教師力を高めるすぷりんぐぶろぐ(1)すぷりんぐぶろぐ(2)すぷりんぐぶろぐ(3)Kitto Hareruyo

121009coverスペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』堀裕嗣著・明治図書・2012年11月/明治図書の好評シリーズ「スペシャリスト直伝」に名を連ねることになりました。今回は力量形成系の著作です。TWITTERでのつぶやき40を平均3頁で解説する構成です。異色の本でまとまり感には欠けますが、まずまず私の力量形成観を書けたのではないかなあと感じています。第四刷になりました。ありがとうございます。

まえがき/目次/あとがき

9784761919221一斉授業10の原理・100の原則~授業力向上のための110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2012年10月/シリーズ4冊目になります。早くも多くの方々から反響をいただき、嬉しく感じております。第三刷になりました。ありがとうございます。

まえがき・目次・あとがき

書評/教師のチビチビ記録横山験也先生糸井登先生桑原賢先生沼澤晴夫先生石川晋先生長瀬拓也先コマイヌさん多賀一郎先生半径3mの教育論一歩一歩。進みたい笑さん野中信行先生

111207cover_2拙著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書)の第6刷が決まりました。そろそろ次年度が視野に入ってくる頃なのでしょうか。季節ものの本ではありますが、多くの方々にお読みいただいて嬉しく感じております。

まえがき・目次・あとがき

9784761918842新刊『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ~授業への参加意欲が劇的に高まる110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2012年3月/第二刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとがき/目次

9784761918484s生徒指導10の原理・100の原則~気になる子にも指導が通る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年10月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとかぎ/目次

9784761918088学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年3月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとがき/目次

『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)もゲラ校正を終えました。『教室ファシリテーションへのステップ 目指せ!国語の達人!』というシリーズも、現在、「聞き方編」を脱稿し、「作文編」「話し合い編」が完成間近となっています。今後とも、よろしくお願い致します。

【研究会関係】

私に関係する3月の研究会をご案内させていただきます。お時間が許せばお越しください。

2013年3月2日(土)/「研究集団ことのは」例会/終了しました。

2013年3月10日(日)/第4回教室実践力セミナーin東京/教師力アップ 成功の極意/教師のための元気が出る仕事術/ALL堀裕嗣セミナー/終了しました。

2013年3月30日(土)/「研究集団ことのは」例会/ご参加希望の方はメールをいただければ幸いです。hori-p@nifty.com

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