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規律訓練型権力と大きな物語

これまで、〈規律訓練型教師〉の行動と言葉を背景で支えるものを、「時代の機運」「コンテクスト」「社会的コンセンサス」などといった語で言い換えてきました。しかし、この国では一般に、これらを〈大きな物語〉と呼んでいます。〈大きな物語〉というと、「マルクス主義」や「戦後近代主義」「戦後民主主義」のことを指すように思うかもしれませんが、基本的にはその時代時代を包み込んでいる〈共同幻想〉(『共同幻想論』吉本隆明・角川文庫・1968年)のことです。

先に内田樹が『二十四の瞳』を例に挙げて、「制度の惰性」の重要性を指摘したと述べました。その論理はもう一度再録すれば、「現場にいる人間の個人的資質とはとりあえず無関係に破綻なく機能するように構築された制度のことを『うまくできた制度』と呼ぶのであり、そうした惰性の効いた制度をこそ目指さなければならない」ということでした。

しかし、私は『二十四の瞳』が刊行された時代に大石先生が支持されたのは、学校教育という制度が惰性の効いた「うまくできた制度」だったのではなく、国民的な〈共同幻想〉がしっかりしていたからなのだと思います。

なぜ大石先生が貧しくて学業を断念しなければならない子に感じるシンパシーを、映画の観客たちもまた共有することができたのか。それは国民のだれもが「立身出世」という〈共同幻想〉、即ち〈大きな物語〉を共有していたからに他なりません。なぜ大石先生が「綴り方」の文集を廃棄させられることの悲しみを、映画の観客たちも共有することができたのか。それは国民のだれもが「綴り方教育」というものが戦前にどういう位置づけにあったのかを知っていることに支えられています。

こうした〈大きな物語〉が高度経済成長の時代において、学園ドラマとしては「スポ根」に象徴されるようになり、次第に国民の個人個人が豊かになる過程と並行して、それが「友情」になり「恋愛」になりと移り変わっていったのです。

しかし、「立身出世」にしても「スポ根」にしても「友情」にしても「恋愛」にしても、それらが意識の中に前景化し「共同幻想」とまでなるためには、それらの達成を邪魔する圧倒的な壁が必要です。戦争であったり、貧しさであったり、地位であったり、家制度であったりですね。

しかし、勉強するのも自由・しないのも自由、部活をやるのも自由・帰宅部になるのも自由、地位や貧しさが友情に亀裂を入れることも、家や身分が恋愛を成就させないこともほとんど見られなくなったとき、そうした〈大きな物語〉たちは意識の外に後退していかざるを得ません。たまにバロディが作られて想い返される程度になってしまいます。ましてや、もう生理的欲求を新たに満たすような文明の利器が開発されるということもありません。

そのとき、「終わりなき日常」の中で、古市憲寿のように「Wiiが一緒にできる恋人や友達のいる生活」を幸福概念とするような、完全なる個人主義とでもいうべき新たな感覚が生まれるのです。私たち教師は〈大きな物語〉の後ろ盾を失い、もう既に「これが正しい」と子どもたちに語るべき言葉をもたない、たとえもったとしても「それは先生の個人的な正しさでしょ?」と即座に相対化されてしまう、そういう時代を迎えたのです。

こうした時代を迎え、教師にできることは何なのか、私たちはそれを考えなければならない時代に入っています。意外と簡単に出てくる答えは、学校教育を解体することです。これだけ個人主義が浸透し、これだけ多様化された社会において、新しい教育の枠組みをつくることができるならば、それはそれで良いことなのかもしれません。ただし、私たち現役教師は失業するかもしれませんが……(笑)。

しかし、そうした新たな枠組みが自分たちが現役世代のうちにでき上がるとはどうも思えません。他国を見ても、様々な工夫をしたりシステムを改変したりしている国はありますが、学校教育自体を解体してしまったという話は聞きません。私たちはこの苦しさの中で、少なくともこれから20年くらいは、この苦しさがどんどん進んでいくなかで教師を続けるしかないのではないでしょうか。とすれば、私たちには、いったいどういう道が選択肢として用意されているのでしょうか。

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