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完全性と臨場感

能登路雅子によれば、ディズニーランドが開設されたとき、アメリカのSF作家レイ・ブラッドベリが次のようなコメントを寄せたといいます。

ディズニーランドは映画と演劇とを融合させた新しい娯楽形態である。1本の映画制作にあたって、プロデューサーは脚本家、監督、カメラマン、俳優に細かく指示を出し、納得が行くまでやり直しを命じることができる。その結果、映画はプロデューサーの意図を完璧に反映した作品をつくることができる。しかし、映画は完璧な作品であるが故に、その映画作品と観客との間には距離感が残る。一方、演劇は観客の前で繰り広げられる生の演技によって、芝居と観客との間に一体感が生まれる。しかし、芝居の出来・不出来は偶然性に支配されるため常に不完全であり、プロデューサーの意図が完璧に反映されることは稀である。映画のもつ完全性と芝居のもつ臨場感とをともに併せ持つのがディズニーランドである。

なかなかよくできた論理であると私は思います。このように考えると、RPGのプレイヤーが一度か二度でその世界観に飽きてしまうのに対し、ディズニーランドが何度も何度も足を運ぶリピーターに支えられているのも肯ける気がします。映画やRPGは完成品だけれど臨場感がない、演劇は未完成だけれど臨場感がある、そして臨場感のある完成品をウォルト・ディズニーがつくったのだ、レイ・ブラッドベリはそう指摘しているわけですね。

学校教育もまた、映画や演劇ばかりを上映しているところがあります。授業ではこれは完成品である、覚えなければならない完璧な知識である、できるようにならなければならない完璧な技能である、そう教えられます。学級経営や学校行事では、おまえたちがつくり出すんだ、みんなで一つのことをやり遂げることに意味があるんだ、みんなで一つのものを創り出すことに意義があるんだ、と臨場感だけが求められ完成度が二の次になる傾向があります。その結果、前者はおもしろくない、後者はおもしろいんだけど結果が出ない、そんな展開に陥ることが少なくありません。

実はディズニーランドは〈環境調整型権力〉で運営している施設の最たるものです。ディズニーランドは入場者に対して「ああしろ、こうしろ」とは絶対に言いません。ただ環境を管理し調整することによって、入場者がプロデューサーの意図通りにしたくなるように仕向けるのです。

例えば、ディズニーランドには中央部にセントラルプラザ(「ハブ」と呼ばれている)という施設があります。それも入場してメインストリートを進むとそこにこの施設があるという動線の真正面に位置しています。ここから放射線状に「ファンタジーランド」や「アドベンチャーランド」など、すべての国にほぼ等距離で繋がっています。

しかも、それらの国で行われていることが風景として、少しだけ垣間見ることができます。向こうの国からは賑やかな太鼓が聞こえ、反対の国からは綺麗な木馬が見え、あっちの国には真っ白な蒸気船が見える。そんなふうにそれぞれの国に好奇心をそそろられるような設計になっているわけですね。要するに、セントラルプラザは入場者の動線の要の位置にあるわけです。

これはウォルト・ディズニーがディズニーランド建設のために様々な遊園地を視察した際、園の中央には人が集まるのに、周辺に行けば行くほど人通りが少なくなるという遊園地共通の傾向に気づき、それを打開するために考案したものだといいます。これが「あちらへどうぞ」「こちらへどうぞ」と従業員に促されたのでは、観客が自らの物語を生きることが出来ません。洋服を買おうと見ているときに、店員が近づいてくると面倒になって逃げたくなる、それと同じ現象が起きるだけです。

また、ディズニーランドはメッセージを投げかける場合にも、そのメッセージを説明するということがありません。眠れる森の美女は100年の眠りから覚めます。白雪姫は王子の手によって毒りんごの魔法を解かれます。不思議の国のアリスは首をはねられそうになりそうながらも様々な妖精たちによって助けられます。すべて邪悪な者たちに危機に陥れられた主人公が、様々な善なるものによって助けられ、永遠に幸せに暮らしていく、それがディズニーランドを構成するアトラクションの基本的な物語構造です。

これを受けて、ディズニーランドが、「どんなに恐ろしいものでも、我々を滅ぼすことはない。」「我々の肉体は老いも衰弱も死も超えて、永遠に若く美しい。」という二つのメッセージを投げかけているのだと能登路は指摘しています。この二つのメッセージが言葉として私たちに投げかけられていたとしたら、興ざめなのではないでしょうか。

学校教育において長く発動されてきた〈規律訓練型権力〉とは、こうしたメッセージを子どもたちに言葉によって直接的に投げかける、そういう権力の在り方だったのです。

胸に手を当てて考えてみましょう。思いやりが大切だ、協力することが大切だ、責任感をもて、公正な態度をとれ、公平こそが集団生活で最も大切なのだ、努力する者は報われる、話せばきっとわかるもらえる、他人は決して裏切らない、必ずだれかが見ていてくれる、一人はみんなのために、みんなは一人のために……すべてが教師の〈規律訓練型権力〉の発動として行われてきたのではないでしょうか。

そして、こうした権力の発動の仕方が外の世界の〈マクドナルド化〉を一身に浴びている子どもたちに通じなくなってきた、現在、教師を悩ませている問題の多くが、学校教育を悩ませている問題の多くの根っこがここにあると私は感じています。

人には「正しい道」があり、将来、そうした道を歩んでいけるように子どもたちを教育する、そういう時代の終焉です。私たちの郷愁を誘う、どこかノスタルジーに浸らせる、そうした学校観の終焉です。私たちが慣れ親しんだ先生のと子どもたちとの牧歌的な物語世界が終わったのです。

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