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「大阪の体罰問題」に寄せて

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竹田青嗣が人はその成長において三枚の世界像をもつと言っている。一枚目の世界像は生まれながらにして親や共同体から自然に身につけられてしまう世界像、二枚目の世界像は生まれながらの世界像に対抗するものとして「これが真実だ」との確信を伴うような世界像、三枚目の世界像は一度は確信した世界像を相対化した上で構築される自他を等価として認め合う世界像である。

かつて、この国の子どもたちは共同体の中に自己を預けざるを得なかった。どの家に生まれたか、どんな職業をもつ親のもとに生まれたか、総じてどの階級に生まれたかによってその一生は規定され、決して脱することができなかった。親は我が子を人材と捉え、幼いものには子守をさせ、ある年齢に達すれば労働力としてあてにした。そのために子をつくることが当然だった。

近代になって、親の収奪から守るために学校が生まれた。出自がどの階級であろうと、一列に並んで下層階級からの離脱を可能にする。親が勝手に労働力として子を収奪することを国家として認めない。そうした方針が採られた。

この頃の子どもにとって、一枚目の世界像はもちろん、幼少期を過ごすことになる共同体によって形成される。しかし学齢に達し学校に行くようになると、様々な共同体から集められた様々な階級の子どもたちが一列に並ばされ、競争させられることを体験し、世の中は共同体で学んだ世界像なんぞではできていないのだということを知ることになる。結果、この国の子どもたちは自分の将来に「夢」を見ることを許されるようになった。それが二枚目の世界像となる。学校はそんなふうに始まった。

もちろん、すべての子どもたちがそのように二枚目の世界像を獲得したわけではない。学校制度が開始されても数十年にわたって繁忙期に学校を休ませて労働させる親はたくさんいたし、共同体の晴の日・怪の日を学校に優先させる共同体も多かったことは間違いない。そうした親や共同体に属する子どもたちは、学校に行ってなお、一枚目の世界像に止まることを余儀なくされたであろうことは想像に難くない。

しかし、それでも総体的には、学校教育制度は親や共同体の収奪から子どもたちを守り、第二の世界像を獲得させるにたる機能をもつようになった。学校という国家プロジェクトは取り敢えず成功したのである。

ところが時が経って、親が外に働きに出てサラリーをもらって生計を立てるのが一般となる。もとろん、子どもを労働力と考えなくなる。それとともに都市へと人口が移り、人々の精神を規定していた共同体も崩壊し始める。マスコミが普及して都市的現実が地方にまで浸透する。学校はこうした経緯の影響に正面から晒されることになる。

核家族化の流れが、親に学校的現実しか世界像をもたせなくなる。もちろん、子どもはその家庭に生まれ、その家庭の空気を思い切り浴びて成長するわけであるから、第一の世界像が学校的価値観とならざるを得ない。もちろん、その世界像は学齢に達し学校に行くようになっても延命する。延命するというよりも、学校的価値観が家庭を侵食しているのであるから、むしろ学校と家庭との間に逆転現象が起こったと言った方が良いかもしれない。宮台真司は慧眼にもこの現象を「学校的日常」と呼んだ。

かくして二枚目の世界像は、例えば大学に進んで教養を身につけたとき、或いは就職して職人技を身につけたときにある種の本質に届き得たと確信するに至る、その時期まで獲得を遅らせる世の中になった。それを体現する象徴的存在は言うまでもなく団塊の世代である。学生運動もものづくり日本もそうして作られてきたのだろう。

   2

先日、五年ほど前に卒業させた二人の女子生徒から食事の誘いを受けた。五年前の卒業生であるからいまは二十歳の学生である。私はあれこれと理屈をつけて断った。自分は君たちの前に素で立っていたわけではないので、君たちの美しい想い出を補強するような「堀先生」ではなく、きっと逢ったら「遠い人」に感じるよという理屈である。彼女たちは子ども扱いされたと思ったのか、「なんだか恥ずかしい思いがする」という言葉を私に返して音信が途絶えた。

中学校の3年間、私はこの二人とかなり密接に関わった。1年生のときは担任であったし、3年生のときは部活動の顧問であった。同僚の女性教師とダブルスを組み、私はほぼ毎日、この二人とバドミントンに興じていた記憶がある。その意味では、この二人といま逢えば懐かしい話に花が咲いたのかもしれない。しかし、私はなんとなく、自分がいまこの二人に逢って良いという思いがしなかったのである。

生徒たちは学校においてエロス的自己を生きている。第一の世界像が家庭から学校へと連続している以上、生徒たちが学校においてエロスを発揮するのは当然である。しかし、現在、教師の側はどうかと言われれると、私はそれを否定している自分を感じざるを得ない。私はエロス的自己として生徒たちの前に立ってはいない。あくまで教師として立っている。いわば、生徒はエロスとしてそこにいるのに、教師はミッションとして生徒に接している。

諏訪哲二の言うように、おそらく1980年代から学校は市場原理にかすめ取られるようになった。次第にその市場原理による浸食は加速し、現在は学校のほぼ全域が費用対効果で測られ、市場原理によって駆動され、サービス業として遇されるようになった。

私は1991年に教師になったが、その頃は職員室のほとんどがまだエロス的自己として生徒の前に立っていた印象がある。札幌という地域性があるにしても、もっと言うなら北海道が田舎だということを差し引いても、バブル真っ盛りのパイを奪い合わなくても放っておけばパイの方が増えてくれる時代にあって、学校教育に対しても世論はまだまだ寛容だった時代である。教師がエロス的自己でいられる余裕を社会全体がまだまだ担保してくれていたということでもあったろう。

しかし、この二十年で状況は一変した。なんだかんだ言っても学校教育を信用し、教師を信用するというコンセンサスは加速度的に崩壊し、教師の不祥事、保護者クレーム、子どもの変容が社会問題化し始める。教師の不祥事は教師がエロス的自己を発揮したときに起き、保護者クレームは教師のエロス的自己へと向けられ、子どもの変容は子どものエロスと教師のエロスとが対峙したときに顕在化し問題視される。

教師はエロス的自己を取り敢えず括弧にくくり、あくまでミッションとして生徒の前に姿を現すようになる。マクドナルドの能面的笑顔やブックオフの「いらっしゃいませ」の無機質な繰り返しのごとく、教師の表情も言葉もエロス的自己を抑制した、ミッション的自己として展開されるようになる。この構造は、私には決して小さくない問題を孕んでいるように思われる。

マクドナルドの店員が自分にいくら笑顔を振り向けてくれたとしても、この店員の笑顔が自分に対する特別な意味をもって向けられていると客は考えない。ブックオフの店員が優しい言葉をかけれてくれたとしても、その店員の言葉が自分だけに特別に向けられると普通は考えない。サービス業における表情や言葉とはそういうものである。

そもそも客自体が店員に対してエロス的自己を向けてはいない。マクドナルドにおいてもブックオフにおいても、客はエロス的自己として生きているわけではない。その証拠に、どんな明朗快活な表情も、どんなさわやかな挨拶も、客に「この店員にもう一度逢いたい」という気を起こさせないのが一般である。この一般からはずれた人々を我々はストーカーと呼んで忌み嫌う。

しかし、学校がサービス業化し、市場原理で動き出したとき、そこにはミッションとして生徒たちに最大の費用対効果を実感させようとする教師と、それを胸一杯のエロス的自己として受け止める生徒とが対峙せざるを得ない。生徒たちに良い思いをさせ、生徒に高い満足を与えられる教師ほど、生徒のエロス的自己と共鳴し合うという構造をもたざるを得ない。これは言い換えるなら、詐欺師ほど良い教師という構造に他ならない。

もちろん、私が彼女たちに関わっていたかつての3年間がすべて成功したわけではない。しかし、五年経って自分たちが酒を飲める年齢に達したときに私に逢いたいと言い出した二人の女生徒が、いまの私には重い。私は彼女たちの学年主任だった。私は担任としてよりも部活顧問としてよりも、まさに学年主任としてミッションを遂行したのてである。私の教員生活において、私が最もエロス的自己を抑制せざるを得ない存在であることに自覚的であった時期のことである。私がエロス的自己として彼女たちの前に立ちたくない理由はそこにある。

   3

憲法は親が子どもに教育を受けさせる義務を負うと規定する。子どもを酷使してはならないとも規定している。内田樹の言葉を借りれば、「子どもを市場原理にさらすな」というのがその意図である。

かつては子どもを市場原理にさらすのは親であり共同体だった。子どもを酷使し収奪する。子どもはその未熟さ故に搾取される存在だった。しかし、「学校的日常」が完成し、市場原理で動く学校が常に費用対効果を考えながら運営されるようになるに及び、子どもを市場原理にさらすA級戦犯が学校になった。

先般、大阪の高校体育科での体罰を要因として生徒が自殺するという痛ましい事件があったが、これもまた「子どもを市場原理にさらす学校」という構図が招いた事件だった。

現在、費用対効果の原理に晒された学校において、教師たちはエロス的自己を生きることができない。授業中や生徒指導中に体罰がほとんど起こらなくなっているのはそのせいである。しかし、この高校では、部活動だけがその費用対効果を旨としながらも教師がエロス的自己を発揮することができる、最後の砦として機能していた節がある。

つまりこういうことだ。

部活動は顧問も含めて〈目的集団〉である。教師のエロス的自己と生徒のエロス的自己とが両立する(少なくともそう錯覚することのできる)空間として意識されている。しかも公立高校とはいえ体育科の高校であるから、部活動が一定以上の成果を上げることは、次年度の新入生募集に直結する大事であったはずである。つまり、厳しい指導によって成果を上げることが高校側にとって費用対効果の理に適うという構造をもつ。

義務教育でもなければ普通科でもなく、運動部への入部が入学の条件とされる体育科において、そこに入ってくる生徒たちは自己責任として部の指導に従わなければならないとも、学校側にも生徒側にも意識されていたはずである。おそらく部活動顧問の体罰が黙認されたのにはそうした暗黙の了解がある。

こうした暗黙の了解を背景に、教師のエロス的自己が生徒のエロス的自己が耐えられないほどに暴走してしまった。生徒のエロス的自己は学校の期待、チームメイトの期待、親の期待に雁字搦めにされ、部活動をやめることがそのまま学校をやめることになるというシステムの中で壊れていかざるを得なかった。その結果、生徒のエロス的自己が自殺を選んでしまった。こうして教師のエロス的自己による体罰が生徒のエロス的自己に死を選ばせるという最悪の事態を招いたのである。

私の実感では、おそらく2000年前後まで、多くの教員は学校の中でもエロス的自己を生きていた。少なくとも、ほとんどの生徒に対して仕事として接していたとしたも、この生徒だけは他ならぬ私によって育てるのだ、私だからこそ育てられるのだというエロス的自己を発揮する対象としての生徒を何人かもっていた。しかし、学校を市場原理で動かす発想が次々と政策に採られるに及び、学校において教師は急速にエロス的自己を生きられなくなったのである。

教師側(全体ではなく一部ではあるが)から見て「最後の砦」として意識され、エロス的自己を発揮する場として機能していた部活動もまた、やはり市場原理による学校教育の運営の流れに逆らえるべくもなく、今回の事件で教師のエロス的自己は息の根を止められることになる。

もちろん一般的に部活動顧問が体罰を振るっているわけではない。むしろ体罰はほとんどなくなっていると言った方が現実に近いだろう。しかし、「体罰も辞さないぞ」という雰囲気を醸し出し、それを利用している顧問は少なからずいる。おそらく今後、体罰も辞さないという雰囲気を醸すこともまた禁止されるだろう。それが定着すれば、怒鳴りつける指導が禁止され、激しい言葉で生徒を鼓舞することも禁止されるかもしれない。そうやってサービス業としての部活動が完成され、サービス業としての学校が完成されていくだろうことは想像に難くない。

私はこうやって両手両足を縛られていくのも時代的必然であるから、ある程度仕方のないことだと諦めてはいる。この時代、それなりの安定した収入を得られている以上、多くの教師がそう思って政治の決定に従い、行政の指導に従っている。エロス的自己を封印し、ミッションとして仕事をしていくことに心ならずも納得した振りをする。

しかし、ミッションは必ず成功するわけではないし、成功ではないにしてもまずまずのところに着地するという帰結を見ることさえかなり難しい。失敗が続けば、必ずミッションはビジネスライクへと姿を変え、次第にルーティンと化していかざるを得ない。その帰結は、マクドナルドのバイトの学生の笑顔であり、ブックオフの機械的な「いらっしゃいませ」同様の、だれでもできる代替可能な営みに過ぎなくなっていくだろう。

私は両手両足を縛られることもやぶさかではないと言ったが、政治も世論もそうと自覚しないままに、どうもそれとは逆の方向に進んでいることに危惧を抱いている。それは学校教育を市場原理に晒し、システムとしては費用対効果を基準に改革しながら、その内実は教師のエロス的自己に期待しているように見えてならないからである。

教師が教育技術に長け、人格的にも優れていれば、生徒・保護者を満足させるような教育活動ができるはずだ、これがその論理である。私は現場教師の一人として、教師の両手両足を固く縛り、教師のエロス的自己を徹底して削ぎ落とさせたうえで、解決策のない領域に対しては教師のエロスに期待するこの論理を看過することができない。

もちろん体罰が必要だなどと言いたいわけでもないし、今回の事件のこの教師(これは既に事件である)を擁護する気も毛頭ない。自殺を選ばざるを得なかった生徒には心から冥福を祈る。ただそれでも、その後の行政の対応、政治の対応にはちぐはぐさを感じざるを得ない。学校教育における手詰まりの息苦しさを更に加速させるだけで、解決にはほど遠い政策が打ち出されようとしている。先日の「いじめ防止対策基本法案」には特にその思いを強くしている。

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