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意図的・計画的な営みとしての〈縦糸〉

教師が社会の在り方を伝えるメディアとして、他のメディアに比して一つだけ優位に立てる要素があるとすれば、それはおそらく、生徒たちに直接にかかわることができるということでしょう。それも家庭環境や交友関係、学習成績や生活状況など、かなり広く深い情報を把握しながら、直接的に相互コミュニケーションを図ることのできる、数少ないメディアの一つということができます。

ただし、この点に関しても「そうだそうだ」と手放しに喜ぶわけにはいきません。教師の生徒たちへの直接的なかかわりは生徒にとって、保護者はもちろん、友人や部活の先輩などよりも圧倒的に密度が低いということを自覚しなくてはなりません。おわかりかと思いますが、ここでも教師が相対化されるという宿命からは逃れられないのです。

しかし、すべてに対して教師がもつアドバンテージが一つだけあります。様々なメディアや生徒の日常的な人間関係にはない、教師だけが生徒たちに接するうえでもっている特徴が一つだけあります。それは教師だけが生徒たちに接するうえで、意図的・計画的な営みを施しているということです。この学校教育がもつ本質を侮ってはなりません。

学級づくりにおける〈横糸〉張りは本質的に偶然性に支配されます。もちろん、〈横糸〉を張ろうとする手立ては教師が意図的・計画的に施すわけですが、その営みがどの程度功を奏すか、どの程度の意図したとおりに計画したとおりに成果を上げるかについて、教師がコントロールすることはできません。そこに本質があります。従って、〈横糸〉張りは手を換え品を換えて、様々なコミュニケーション活動に取り組ませることによって、それらの活動の総和として少しずつ〈横糸〉が張られることが期待される……そうした営みです。

しかし、〈縦糸〉張りは違います。教師が自分が生徒や保護者に相対的に捉えられていることを熟知したうえで、一つずつ手を打っていくのです。また、それは「怖がられる教師」や「威圧する教師」ではなく、「信頼される教師」を目指して行われなければなりません。常に学級全体を見ながら、同時に学級の生徒たち一人ひとりとも意図を結んでいく、そんなイメージの営みです。

しかも、〈縦糸〉あっての〈横糸〉ですから、学級づくりに〈縦糸〉は、年度当初、できるだけ早い時期に張ってしまうことが求められます。威圧するのでなく、口うるさく細かなことを指摘し続けるのでもなく、生徒たちの信頼を勝ち得るのです。いま、教師にはこうした高度な力量が求められていると言って間違いありません。

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