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学級づくりの〈縦糸〉 その出発点

生徒たちとの間に〈縦糸〉を張ると言うと、多くの中学校教師は「生徒たちになめられないこと」と思うようです。

生徒を威圧し、細かいことに至るまで教師の言に従わせる。ときには生徒を怒鳴りつけてでも、教師の指導したとおりに行動させる。それが「教師-生徒関係」の基本である、というわけです。私も長い中学校現場生活で、そういう教師をたくさん見てきました。

しかし、そうした教師を観察していると、中学1年生の1年間はなんとかなるのですが、2年、3年と生徒たちが肉体的にも精神的にも成長してくるに従って、生徒たちに対する抑えが効かなくなり、教師の立場が後退していくことが多いようです。或いは、2年生になっても3年生になっても、同じように威圧したり怒鳴りつけたりして、確かに生徒をその場で指導に従わせることはできるのですが、生徒たちと心情的に離れてしまい、その時々に指導が通ってはいるのですが、生徒たちの心には響かない、落ちないという状態に陥る、そんな例も多々見られます。いいえ、最近は、このような教師の威圧が中学1年生の1年間さえもたせることができず、1年生の2学期後半あたりになると、生徒たちが崩れ始める例も少なくありません。

私はこのような教師たちは、現在の時代状況を把握していない教師たちだと感じています。自分が教師になった頃、つまり、まだ牧歌的な学校教育が行われ、教師が従来型の指導でやっていられた頃の感覚で生徒たちに接している、そんな教師たちに見えるのです。

現在は、学校教育が相対化される時代です。教師が相対的に見られる時代なのです。つまり、かつてのように、教師という存在が「良きこと」「正しいこと」を代表するとは見られていない、そういう時代になっているのです。 かつて、教師は社会を映す鏡のような、代表的なメディアでした。生徒たちは教師以外のメディアから社会の在り方を学ぶことができなかったのです。それがラジオができ、テレビが生まれ、インターネットが普及し、いまや携帯端末がパーソナル・メディアとして生徒たちとともに移動している時代です。社会の至る所にある素人の撮影した画像や映像が、全国どこでも、いつでも見られる時代です。

国名を挙げるのは避けますが、日本の周りには、いまだに国民に対して情報統制を行おうとしている国が複数あります。私たちは日々、そのニュースを見ながら、その政府の努力を「無駄な努力」だと、どこか嘲笑している雰囲気がないでしょうか。ネット情報を完全に統制することなど不可能だよ、と。また、ネット情報を得た者から口伝えに伝えられる情報の拡散を止めることなど不可能だよ、と。そして何より、そういう国々において、インターネットを通じて、そうした国々の国民に情報が行き渡ることを良いことだと感じているのではないでしょうか。

しかし、いま学校がしていることは、そのアジアの強権的な国々と同じことなのではないでしょうか。携帯電話の学校への持ち込みを禁止し、ネットやゲームに接する時間を極力少なくすることを奨励し、ホームページやブログの開設、SNSへの参加をできるだけ生徒たちから遠ざけようとする、そんな「無駄な努力」を積み重ねて、うまくいかないと嘆いている……それが学校の現実なのではないでしょうか。

私は何も、ネットにおける受信・発信を奨励せよと言っているわけではありません。時代はこういう時代なのだから、禁止しようという「無駄な努力」をするのではなく、この現実を認めたうえで有効な対抗措置を考える……そういう発想をもつ方が現実的だと言っているのです。教師というメディアがいくら学校的な正しさだけを主張しても、テレビやネットといったメディアによって浴びせられる情報に対抗できるわけがない、と主張しているのです。

もう一度、言います。いまや、学校教育は相対化され、教師の指導も相対的に捉えられてしまう時代なのです。私たちはまずこのことを、しっかりと肝に銘じなければなりません。ここから出発しなければ、現在の教職員の多忙感、学級経営・生徒指導の徒労感から抜け出すことはできないのです。

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