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2013年1月

今月のお知らせ/2013年1月

自分で「潜伏期」と位置づけていた2年間がやっと終わりました。今年からしばらく良いことがあるだろうと信じています。今年からは少し活動的になるつもりです。新しいものに挑戦する年にしたいと考えています。久し振りにわがままに仕事をしてみようと思っています。

【書籍・出版関係】

121207cover新刊『教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』堀裕嗣著・明治図書・2013年1月

重版が決まりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。しばらく品薄状態が続きますが、ご了承下さいませ。

2006年から温めてきたコンテンツです。僕の講演では必ず触れる、僕にとってビッグコンテンツでもあります。今回は明治図書からイクタケマコトさんとのコラボです。僕の代表作になると思います。それだけの価値のあるコンテンツと自負しています。今回は読者にわかりやすく、役立つようにという配慮も僕なりに尽くしています。

まえがき/目次/あとがき

書評/きょんどう通信あこがれのベクトル

121009coverスペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』堀裕嗣著・明治図書・2012年11月/明治図書の好評シリーズ「スペシャリスト直伝」に名を連ねることになりました。今回は力量形成系の著作です。TWITTERでのつぶやき40を平均3頁で解説する構成です。異色の本でまとまり感には欠けますが、まずまず私の力量形成観を書けたのではないかなあと感じています。第三刷になりました。ありがとうございます。

まえがき/目次/あとがき

9784761919221一斉授業10の原理・100の原則~授業力向上のための110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2012年10月/シリーズ4冊目になります。早くも多くの方々から反響をいただき、嬉しく感じております。第三刷になりました。ありがとうございます。

まえがき・目次・あとがき

書評/教師のチビチビ記録横山験也先生糸井登先生桑原賢先生沼澤晴夫先生石川晋先生長瀬拓也先コマイヌさん多賀一郎先生半径3mの教育論一歩一歩。進みたい笑さん野中信行先生

111207cover_2拙著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書)の第6刷が決まりました。そろそろ次年度が視野に入ってくる頃なのでしょうか。季節ものの本ではありますが、多くの方々にお読みいただいて嬉しく感じております。

まえがき・目次・あとがき

9784761918842新刊『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ~授業への参加意欲が劇的に高まる110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2012年3月/第二刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとがき/目次

9784761918484s生徒指導10の原理・100の原則~気になる子にも指導が通る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年10月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとかぎ/目次

9784761918088学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年3月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとがき/目次

『教師力ピラミッド』(明治図書)ゲラ校正を終えました。間もなく刊行の予定です。『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)も編集作業に入っています。「研究集団ことのは」でつくっている『教室ファシリテーションへのステップ 目指せ!国語の達人!』というシリーズも「音読編」「スピーチ編」のゲラ校正を終え組ました。現在、「聞き方編」「作文編」「話し合い編」を鋭意制作中です。今後とも、よろしくお願い致します。

【研究会関係】

私に関係する1~3月の研究会をご案内させていただきます。お時間が許せばお越しください。

2013年1月12日(土)/道徳授業改革セミナーin熊本終了しました。 

2013年1月13日(日)/中学校学級経営セミナーin熊本終了しました。 

2013年1月19日(土)/「研究集団ことのは」例会/終了しました。

2013年1月20日(日)/ファシリテーターズ・ミーティング/札幌市内

2013年2月2日(土)/中学校学級づくりセミナーin東京

2013年2月3日(日)/第2回教室実践力セミナーin東京

2013年2月9日(土)/第3回教室実践力セミナーin札幌

2013年2月16日(土)/第20回国語科授業づくりセミナーin札幌

2013年2月16日(土))/「研究集団ことのは」例会/ご参加希望の方はメールをいただければ幸いです。hori-p@nifty.com

2013年3月2日(土)/「研究集団ことのは」例会/ご参加希望の方はメールをいただければ幸いです。hori-p@nifty.com

2013年3月9日(土)/横浜市内

2013年3月30日(土)/「研究集団ことのは」例会/ご参加希望の方はメールをいただければ幸いです。hori-p@nifty.com

 

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1月31日(木)

1.今日は授業が二つ。空き時間は一つが銀行で支払い。もう一つが進路事務。5校時は7組の担任が外勤で学活に入る。入試の面接指導。生徒たちのノリがよくて楽しかった。放課後は下校指導したあと推薦入試の面接練習。その後、教務部会。学級編制資料のつくり方が議論となる。17時ちょうどに退勤。

2.拙著『スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』(明治図書)の第四刷が決まりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E7%9B%B4%E4%BC%9D-%E6%95%99%E5%B8%AB%E5%8A%9B%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E6%88%90%E5%8A%9F%E3%81%AE%E6%A5%B5%E6%84%8F-%E5%A0%80-%E8%A3%95%E5%97%A3/dp/4181346234/ref=sr_1_11?s=books&ie=UTF8&qid=1351323550&sr=1-11

3.教育書系出版社は中学・高校教師の中から新たな書き手をたくさん発掘した方がいいと僕は思っている。いま、中学・高校の書き手は学習指導要領のみに基づいた行政のスポークスマンみたいな人たちと、部活動でものすごい成果を上げた指導の在り方を語るタイプの人たちだけだ。そうではない、独自の実践をしている人たちを発掘すべきだと思う。僕程度の書き手なら掃いて捨てるほどいる。

4.明治図書の及川さんの企画「スペシャリスト直伝!」シリーズが中学校に進出し始めている。中学校の教科にも進出し始めた。数学と理科が既に刊行されている。この2冊がかなり売れている。しかも是非みなさんに読んで欲しいと思うのだが、この二人の著者は決してネタやHOW TOを書いているのではない。読めば一目瞭然でわかる。こういう需要は確かにあるのだと思う。

5.今年度、勤務校が小中合併して、よくいっしょに飲むようになって気づいたけれど、小学校教師は子どもの話と教育方法の話をエピソードで語りながら飲みます。中学校教師は教育理念の話とあるべき生徒指導像について議論しながら飲みます。この違いなんですよね。もちろん、教育の話は3割くらいで、あとの7割は馬鹿話ですけど。教育の話が出たときには間違いなくそういう違いがあります。

6.ちょっとだけ自慢させてください。今日、明治図書のランキングで1位と2位が僕です。順位というのにあまりこだわりはもっていませんが、さすがにこれはちょっと嬉しいです。なんかGODIEGOか寺尾聰になったような気分です。
http://www.meijitosho.co.jp/ranking/

7.【拡散希望/いよいよ3日後/残席4】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

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業務連絡

「第2回教室実践力セミナーin東京」にご参加の皆様へ

実はお申し込みの方の中にメールアドレスのご登録がなくて、最終案内をお送りできない方がいらっしゃいます。最終案内の内容は以下ですので、ご確認ください。

【最終案内】

○○様

第2回教室実践力セミナーin東京・最終案内

このたびは,2月3日(日)開催の「第2回教室実践力セミナーin東京」への参加申し込みいただき,ありがとうございます。ご参加にあたり,以下の点について連絡いたします。

○受付について

貴方の受付番号は,○○番です。

当日,9:15~9:25を目処に受付にてこの番号をお知らせのうえ,参加料をお支払いください。なお,座席は自由となっております。

○会場について

大智学園高等学校

http://www.daichi.ed.jp/access/

169-0074
東京都新宿区北新宿1-21-10

○昼食について

昼食については,あらかじめ各自ご用意なさるか,会場周辺の飲食店,コンビニエンスストアなどをご利用ください。なお,会場での飲食は可です。

○交通機関・駐車場について

駐車場は準備しておりませんので、公の交通機関でおいでください。

では、当日、お逢いできますこと、楽しみにしております。

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本音を書く

さきほどの戸惑いを読み直してみて、言葉足らずだなあと感じたので、本音を書く。

実は僕はこの20年間、教育書業界は中学・高校教師をそうと気づかぬままに捨ててきたんだと思う。

小学校教師は中学・高校の教師と比べて教育書をよく買う。なぜなら日々の授業の中で授業を成立させるために教育書に載っている情報を必要としているからだ。ごくごく簡単に言えば、子どもたちを楽しませるネタと子どもたちに機能する方法とである。それがネタ本とHOW TO本が世にあふれる理由だ。

僕は小学校教師を批判したいのではない。小学校教師はすべての教科の授業を自分一人でやる。一度授業で使ったネタは学級が変わらない限り二度とできない。同じ授業をもう一度行うのは数年後である。しかも小学校教師は自分の専門ではない、得意ではない教科の授業もしなければならない。もっといえば苦手な教科の授業にも取り組まなければならない。だから、自分が苦手意識をもっている領域については、ネタとかHOW TOとかを欲するようになる。

これは人間の心象として必然である。ふだん教育書をほとんど読まない僕だって、美術の授業をやれと言われれば、普段の読書傾向とまったく異なった、美術教育の教育書を買うために本屋に駆け込むに違いない。

しかし、中学・高校教師は違う。みんな自分をその教科のプロパーだと思っている。それも教科の神髄はネタや方法ではなく、教科独自の教科内容だと思っている。そこから敷衍して、学級経営や生徒指導にも同じようなスタンスをもちやすくなる。

結果、中学・高校教師が他から学ぼうと考えるようになるには、まず「納得すること」、もっと言うなら「納得させられること」が前提となる。納得はネタやHOW TOでは得られない。理念であり、構造であり、自分の気づかなかった説得力ある現状分析が現れたとき、「ああ、そういうことだったのか」ということになる。

僕の本には、もちろん全員を納得させられるわけではないが、一定の人たちに納得を得られるような理念や構造や現状分析が書かれている。僕の本の読者にはおそらくこの20年間、教育書をほとんど買わなかった人たちが相当程度含まれているのだろうと思う。

実はこれに気づかせてくれたのは、先日熊本に行ったときに1年振りにお逢いした長崎県の中学校のある教頭先生である。酔っ払いながら僕の講座を褒めてくれ、「中学校教師ってのは納得しないと動きませんからねえ」とおっしゃたのを聴いて、僕は膝を打った。そうか、小学校と中学校のシステムの違いは、小学校教師と中学校教師のメンタレティの間にそうした差異をつくっていたのか、そう合点がいった。今日、『教師力アップ…』四刷の連絡を受けて、そんなことを想い出した。

この20年間、教育書業界は中学・高校教師をそうと気づかぬままに捨ててきたのだというのは、こういう意味である。小学校教師しか見向きもしない本しかつくらずに、中学・高校教師が本を買わないと愚痴をこぼす、そういう構造が各社にあったのではないかということである。偉そうなことを言って申し訳ないが、またどこまで当たっているのか自信もないが、僕はいま、こんなふうに感じている。

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戸惑っている

何度か書いてきたけれど、僕にはこの本が何故売れるのかよくわからない。みんな僕のネームバリューとお世辞まじりに言ってくれるけれど、そんなことはあり得ない。僕の新刊が出れば必ず買うという人は全国に1000人程度だ。書店で立ち読みをした人たちがぱらぱらとめくり、「よし!買って読んでみよう」と購入した……そういう人がいっぱいいるということだ。僕にはそれが不思議でならないのだ。

学事から出している「10原理・100原則シリーズ」ならまだわかる。一部から「イラストがシンプルでかわいいてとはいえ、あんな文字ばかりの本が売れるのは奇跡だ」とも言われるけれど、それでもこのシリーズは視点がある程度整理されていて、書店で立ち読みしても自分に役立ちそう、全体像を理解できそうといった感覚をもつことができる。しかし、『教師力アップ…』は違う。あれは言わばエッセイ集に過ぎない。ツイッターのつぶやきを解説するというひと工夫はなされているけれど、基本的には即役立つというタイプの本ではない。ビジュアル的な工夫も何一つない。

もしもこういう教育書にある程度の需要があるのだとしたら、多くの教育書出版社が需要を見誤っているのではないか、とさえ感じるほどだ。もちろんビジュアル的な工夫がなされている本やHOW TO本への需要は高い。しかし、そういう本がいやだという読者を教育書出版業界は掘り起こしてこなかったのかもしれない。少なくともこの10年、僕はそういう読者だった。「読みたい教育書がないよね」という会話を仲間内でしたことは、この10年間で100回は軽く超えると思う。

実は教育書がビジュアル、HOW TO重視一色に染まってしまい、多様性がなくなってきている、その隙間にはまったのかもしれない。それ以外にこの本が四刷になるなんていう理由が見当たらない。

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1月30日(水)

1.授業5発。3組に担任の代わりに一日入る。空き時間一つは妄想を膨らませることに使う。放課後は16時から18時まで2時間みっちり推薦入試の面接練習。何度何度も経験することで、自分なりに面接官とコミュニケイトするということを体感し始めている生徒が現れ始めた。ここまで来ると面接は強い。

2.【拡散希望/いよいよ4日後/残席2】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

3.この曲を聴くと、「台風クラブ」が見たくなる。
http://www.youtube.com/watch?v=n07PEjFUYEw

4.THE BOOMを聴くと想い出を処理しきれなくなる。
http://www.youtube.com/watch?v=tb_F77MgaDo

5.基本的にどうでも良いことなのに、その基本的などうでも良さがどうでも良いと感じさせないことがある。そんなとき、無理にどうでも良いことなのだと考えるよりも、どうでも良いこととどうでも良くないこととの境界がどこにあるのかを考えてみる。その境界の後ろ姿さえ見えないうちに眠りに就くことができる。
おやすみなさい。

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元気が出る教育論

内田樹を読み終わって河合隼雄を読み始めた。一冊を読み終えたら間髪を入れずに次を読み始めるのが私の知的生産のコツである。多くの人は一冊を読み終えるとその余韻に浸り、あれやこれやと考えることを常としているが、それは自分の思考回路を著者に預けることを意味しているのであって、決して自分自身の中に某かを産み出すという機能を果たし得ない。ましてや著者以上の発想に達することなど永遠にない。

その点、内田樹を読み終えた直後に河合隼雄を読み出すことは、自分自身の中に某かを産み出そうとするのに都合が良い。これは内田樹に影響された頭で河合隼雄を読むことを意味しているからだ。少なくとも人はそうした数十分から1時間程度を経験するはずである。そこから自分の中に自発的に湧き上がってきたものを分析するとき、人は内田樹も河合隼雄も触媒に過ぎなかったことに気づき、自分の深いところにある自分なりの「必然」に自覚的にならざるを得ない。

別に知的生産などしたくない、興味もないという方に無理にお勧めはしないけれど、マスコミの語法に掠め取られてどこかで聞いたことのあるようなステレオタイプに陥りたくないという「個性幻想」が、少しでも自分の中に存在すると感じている人ならばそれなりに実践する価値があると思う。慣れてくると自分自身への発見が次々に姿を現すことに喜びを感じるようになる。思いの外楽しい。

このことは実は書くことにも言える。某かの発見をしたとき、人はそれを表現したいと思う。しかし、発見の瞬間というものは往々にして何かをしている最中(さなか)であるから、その発見をすぐに書き留めるということになかなかならない。発見の興奮に包まれたまま読書を続けたり、これだけの発見だから忘れるはずがないと確信して他人との会話を続けたり、或いは早く終わらないかと念じながら雑事をこなし続けたりする。

そのまま一日経ち二日経ちしているうちに発見の興奮は醒めてしまい、いつしかそんな発見があったことさえ忘却される。ときに、そのときの身体感覚が不意に目覚め、ああ、あのときの発見は何だったろうと思い返すことがあるが、それは昨夜の夢と同じで決して取り戻すことができない。

私は発見の瞬間に必ずメモするようにしている。それも箇条書きや図解などでなく、過不足のない三文程度でである。ここで言う「過不足のない」は、今夜このメモを見直した自分を必ずいまの興奮状態に連れて行くことができる程度……それが基準である。いわば、発見の喜びの絶頂にいるとき、私は今夜の自分に三文の手紙を書いている。自らが自らに認めた手紙を書くとき、私の経験上、数時間後の自分がその手紙を受け取らないということはまずあり得ない。

発見は同じ日のうちに書き綴ってしまうのが良い。発見の触媒たちがまだ自分の身体に宿っているうちに書くことができる。触媒はただの触媒ではない。必ず我が身に取り憑いている。しかし、いつまでも取り憑いてくれているわけではない。これまた二、三日経てば何事もなかったかのように去って行く。そういうものである。

私はカミュを読むとき、自らが確信するに足る基準に従って生きることができる。ドストエフスキーを読むときは世界を踏みつけてでも守るべき実存を探す。村上春樹を読めば、社会に距離を置きながら眼前の問題を通り過ぎる主体と化し、かつての女の子を思い浮かべる。しかし、重要なのはカミュやドストエフスキーや村上春樹が自分に取り憑いているとき、そこで綴った文章にも必ず彼らが乗り移っているということである。それは彼らとまったく関係のない、例えば教育実践論を綴っているときでさえ例外ではない。その自覚が私にはなんとも心地よい。

今日、私の目に河合隼雄の「神聖化された母性」という小見出しが飛び込んできた。最近の若者は個性を尊重するから、観念的な母親像をもつ若い女性たちは、うっかり母親になどなってしまうと個性を断念しなければならないと考えているのではないか。或いは、母親の固定観念が強すぎて、子を産んでもあれが足りないこれが足りないと自責の念に苛まれ、二人目の子をつくるのに躊躇しているのではないか。それが少子化の要因であり、こうした現象をつくっているのが「神聖化された母性」なのではないか。こういう論旨である。

実はこの本には「狩りの宗教感情」とか「後悔のケア」とか「喪に服す小学生」とか「脳死患者との心の交流」とか、普段の私なら興味を抱きそうなタームがたくさんあった。「神聖化された母性」はおそらく普段の私にとってそれほど魅力的な小見出しではない。優先順位は低い。おそらく普段の私なら目を留めないであろうこの小見出しを私の目に飛び込ませたものこそが私の中の内田樹、即ち内田樹の私にとっての触媒性とも言うべきものである。

「神聖化された母性」はまず、私を言葉遊びに誘う。神聖化された父性、神聖化された家族性、神聖化された子ども像……。続いて「神聖化された」に次々に教育用語をつけてみる。神聖化された科学、神聖化された教養は戦後教育の負の側面を考える地平へと私を連れて行く。神聖化された意欲は新学力観からゆとり教育の時代を、神聖化された学力は昭和30年代、50年代、そして現在のひずみを想起させた。神聖化された教育運動の代表、神聖化されたある教育手法、神聖化された浅原彰晃……。神聖化された「つながり」、神聖化されたチーム力、神聖化された共同体、神聖化された西洋思想……、発想は次々に広がっていく。この辺りでやめておくが、最終的には「神聖化に至る病」という語が浮かんだ。これは検討するに値する、と。もう、私の手帳はメモだらけである。

神聖化された教育……。当然のようにこのフレーズが浮かぶ。ここ数日の間、私をとらえて離さない問題意識はこれだったのだと合点がいく。大阪の体罰問題や埼玉の駆け込み退職を出発点に私が考え始めた、この国に巣くう教育を議論するときの病理、それこそが神聖化された教育だったのである。「神聖化された教育」という言葉を受けて、私の頭は教育論議を形而下に引き下ろすことを思考し始める。できることなら形而下の更に下の下まで引き摺り下ろすことまで夢想し始める。

あれこれ考えているうちに、教育を教育と呼んでいるから見えなくなっていることがあるのではないかという発想に至った。“教育”なんてことばを使っているから、何か高尚なことを論じている気になり、次第に神聖化してしまうのである。その議論も、政策も、当事者を困惑させる方向ばかりに進んでいく。当事者とは教員ばかりではない。子どもも、保護者も、ここ十年ほどの教育改革に困惑させられてばかりではなかったか。そしてその困惑が新たな世論の動勢をつくり、教委を、行政を、政治をさえもまた困惑させる。一億総出でミイラ取りの因縁に躓き、蟻地獄に陥る。こういうのを21世紀になって負のスパイラルと呼ぶようになった。

“教育”という語を使わずに教育を論ずる。しかもできるだけ神聖化しない言葉で語る。そう考えたとき、私の頭の中に「子どもをいっちょまえにする」というフレーズが浮かんだ。そうだ。国も教師も保護者も、子どもを一人前にしようとしているのではないか。ただそれだけを求めているのではあるまいか。一人前になるには、様々な環境に晒されて右往左往し、その経験を通して自分なりの知恵を身につけていく以外にない。それだけである。誰もがみなこのことを経験的に知っている。

子どもを一人前にするには「うるせえ!自分で稼げもしねえくせにイッチョマエの口きいてんじゃねえ!」という叱責が必要だし、「いいかい?それはこういう場合もあるし、こういう場合もあるんだよ」という場合分けの理路を語ることも必要となる。時に冷たく突き放すことが必要になることを誰もが熟知しているし、ただ黙って「お前を愛している」と包み込むことだけが必要なときもある。ちょっとしたいたずらが思わぬ重大な結果を招いてしまうことが大きな人生勉強になることを誰もが経験し、子どもが子どもなりの世界をつくるためにいたずらが不可欠であることも知らぬ人はいない。

いっちょ、このガキを一人前にしてやるか。ここは一つ、このクソガキに人生ってもんを教えてやろうじゃないか。その程度の理屈でやり込められ、励まされ、一人前になっていった無数の子どもたちの歴史がこの国にもあったはずである。そしていつしか、自分でも気づかないうちに上からやり込められることも励まされることもなくなっていき、子どもは自分が一人前扱いされるようになったことに気づいていく。それは鼻が高くもあるけれど、どこか寂しく感じるものでもあり、それでももう後戻りできないという不可逆を受け入れざるを得ない。教育とは本来、その程度のものなのではないか。

子どもの周りにいる大人たちにとって必要なのは、その場その時に応じた臨機応変の判断だけなのである。そのときそのときに臨機応変に判断しながら自分に接してくる大人たちを見て、しかも一つの事柄に対して判断を違(たが)える多様な大人たちに接することによって、子どもは生きる知恵を学んでいく。臨機応変に動いている多様な大人たちが周りにいること、本来、そのことだけが子どもたちにとって必要なことなのかもしれない。臨機応変が命なのではないか。一律に決めようとするから話がややこしくなるのではないか

ここまで考えたところで、たった一つの空き時間が終わってしまった。私は入試対策問題をもって3年6組の教室に向かった。近い将来、なんとなく「元気が出る教育論」が書けるかもしれない……という予感がしていた。

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1月29日(火)

1.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)の重版が決まりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。しばらく品薄状態が続きますが、ご了承下さいませ。
http://kotonoha1966.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/40-a07d.html

2.こんなにも早い重版の知らせに正直びっくりしている。この本は決して売れ筋の本ではない。だからこそ、編集者と出版社に迷惑をかけないようにと、レイアウトを工夫したりイクタケマコトにイラストをお願いしたりと、僕なりに考えてつくったのだった。それが功を奏したという見方もできるけれど、それよりは僕の気づいていない現象が起きていると見た方が当たっているような気がする。とにかく嬉しい知らせだった。

3.拙著『一斉授業10の原理・100の原則 授業力向上のための110のメソッド』(学事出版)の第三版が決まりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。

4.逆にこの本は正直、それなりに売れるだろうという予想がついていた。何せシリーズ本である。これまでの実績もあるし、題材が授業だからこれまで以上に広く読まれる可能性があると感じていた。ただ、シリーズ本であることを意識はしていたけれど、前著3冊とは少々趣を変えていることも確かである。僕の中には、これまでのように経験則を整理するというだけではなく、この20年に様々に提案された諸理論を僕なりに咀嚼してきた、またそれらを自分の授業に採り入れてきた、その総体をそれなりに提案性のあるようにパッケージ化することに主眼を置いて書いたつもりである。それが成功しているか否かは読者の判断に委ねるしかないのがこの世界の常道だが、僕にとっては愛着のある特別な本である。

5.教育の神髄は続けること。若いうちはあれもこれもと喰いついて良いけれど、「ああ、これだな」っていう手法をみつけたら、うまくいかなくても失敗しても苦しくても、取り敢えず続けてみること。少しずつ子どもたちにもその意味と効果が実感されるようになっていきます。残念ながら、その前に諦めてやめてしまうことが多いのが現実です。

6.教師は結果を出すことにもう少し貪欲になるべきです。結果を出すためには粛々とこなさなければならない現実的な現実が当然出てきます。現実を避けて結果が出ないと悩む自分に酔っている、或い自分は正しいはずなのに周りの理解が得られない愚痴る、教師の世界には独善や責任転嫁が多く見られるます。

7.私は、人は「自分に何ができるか」ではなく「自分には何ができないか」を最初に考えるべきだと思っています。できないことをやろうとしてそれがうまくいかないと、かえってやらなかったときよりも他人を傷つけることがあります。できないことに取り組み始めないことも重要なのです。

8.教室はハプニングの起こるところです。ハプニング性にこそ本質があります。教育技術や授業技術はハプニングを極力排除しようという提案でした。しかしそれは背理なのです。そんな発想一辺倒では教室は活力を失ってしまいます。そこでどうバランスをとるかが問われます。そこに教師の個性が表れます。

9.twitterのつぶやきから生まれた本です。僕のツイートのうち、リツイートの多かった40を選んで、それぞれについて平均3頁の解説を施したものです。まとまり感には欠けますが、まずまず私の力量形成観を書けたのではないかなあと感じています。http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E7%9B%B4%E4%BC%9D-%E6%95%99%E5%B8%AB%E5%8A%9B%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E6%88%90%E5%8A%9F%E3%81%AE%E6%A5%B5%E6%84%8F-%E5%A0%80-%E8%A3%95%E5%97%A3/dp/4181346234/ref=pd_sim_b_5

10.仕事と実践は異なる。仕事は効率的に淡々とこなすものだ。積み重ねる価値をもつのは実践である。しかし実践を重ねる時間は、仕事を効率的にこなすことによってしか生み出し得ない。必然的に仕事を効率的にこなせない人間に実践は重ねられない。効率的な仕事なしに実践する者は周りに迷惑をかけている。

11.転勤した学校が変だと思うのはあたりまえです。それは前の学校に慣れていて新しい学校に慣れていない自分にバイアスがかかっているだけです。「この学校は変だ」と思うよりも「なぜ、この学校はこういうシステムを敷いているのだろう」と理解することが大切です。どんなシステムにも歴史性があります。

12.仕事は日程と時間を追ってするものである。今日の仕事はもちろん、明日の仕事や明後日の仕事をしていてはいけない。遅くとも10日後の仕事を、できれば20日後くらいの仕事をするのが良い。そうすれば、急な仕事が入ってきても対応できる。急な生徒指導にも対応できる。それが大人の仕事の仕方。

13.みんな一生懸命に生きている。教師も生徒も保護者も出入り業者も教材屋も編集者もツイッターのフォロワーもFACEBOOKの「友達」も、みーんな一生懸命に生きている。そんなことを感じたとき、一生懸命に生きていない僕はなんとなく申し訳ない気持ちになる。それでも一生懸命には生きられない。

14.仕事のできる人には気性の激しい人が多いように思う。しかし、仕事のできない人にも気性の激しい人は少なくない。そうなると、一見仕事のできるできないと気性の激しさには関係がないようにも思える。しかしそうではない。気性の激しい人がしたたかさを身につけると猛烈な仕事をするのだ。

15.先人いわく。忘れていいこと、忘れてはいけないこと、そして忘れなければいけないこと、経験は三つでできている。含蓄のある言葉だ。

16.今日の授業を今日の授業の成功を目指して考えるのと、今日の授業を3ヶ月後にここに到達させたいから今日の失敗にも意味があると考えるのとでは、今日の授業の位置づけも評価もまったく変わってしまいます。ただし、その判断が自らの逃避の心情から発していないか否かを点検することだけは必要です。

17.子どもたちに応える在り方を教えられるのは、自ら応え続ける教師だけです。決して答えてはなりません。応えるのです。子どもたちの期待に応え、希いに応え、祈りに応える。これなくして応えるその在り方を学ばせることはできません。応えずに答えてしまうと教わる側は待てなくなってしまいます。

18.一斉授業がちゃんとできる人じゃないと、協同学習とかファシリテーションも機能させられない、そういう認識をぼくはもっています。一斉授業をただ否定して協同やファシリをやっている人の授業と、一斉授業を追究し続けてきた後に協同やファシリに到達した人の授業とには、天と地ほどの違いがあります。

19.すべての授業行為には意図があります。なぜこの発問なのか。なぜこのレベルの説明がなされたのか。なぜここであくまでこの指示なのか。すべて理由があります。逆に言えば、理由のない、或いは授業者がその理由を語れない授業行為ならば、それは授業者が自らの授業行為に無自覚だということです。

20.無自覚な授業行為が偶然成功したとしても、その授業行為は授業者の力量形成にはつながりません。再び「偶然の当たり」が出るまで待つしかないからです。そんな山師的な授業をしていてはいけません。しかし学校現場には、山師的な指導言、山師的な学習活動、その日暮らし学級経営がはびこっています。

21.この国の教育はいつの間にかネガティヴリストによる運営からポジティヴリストによる運営に替わりました。前者は「やってはいけないこと」だけを禁止する運営、後者は「やった方がいいこと」をすべて求める運営。前者は自由があり、後者は多忙観だけを増幅させます。しかし、もう戻ることはありません。

22.文科省からは教育を取り巻く様々な言葉について定義が示されますが、定義が示されたら一度よく考えてみることが必要です。その場合には、定義で用いられている言葉の対義語、或いは対置される言葉を意図的に想定してみると、現場感覚とその定義との間にある齟齬を顕在化させることができます。

23.中学3年の時だったと思う。この曲を聴いて「音楽ってすごいなあ」と感じた。歌詞はこんなにも陳腐なのに、このメロディがついて、このアレンジで八神純子が歌うとものすごい名曲になってしまう。こう語る女性が目の前に浮かんで来る。僕はだれがなんと言おうとこの曲が大好きだ。http://www.youtube.com/watch?v=-Pfk2BJiu8E

24.【拡散希望/いよいよ5日後/残席3】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

25.今夜、僕のつくった炒飯が初めて妻に褒められた。味も卵のぱらぱら感もちょうど良いそうだ。11年かかった。苦節11年。小林幸子並みだ。しかし、問題はなぜ今日の炒飯が成功したのか、僕自身にわかっていないことだ。僕にはもう二度と今日の炒飯をつくることはできない。僕には「生きる力」がない。

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1月28日(月)

1.【拡散希望/いよいよ6日後/残席5】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

2.授業5時間。すべて入試対策。空き時間は進路事務。3組の担任がスキー学習のため、1日3組に入る。放課後は調査書の学年点検。進路事務も佳境。19時に帰宅すると、岩見沢の訪問看護士から電話。なんと親父が40度の熱を出し、これから夜間救急センターに搬送するという。一路岩見沢へ。

3.20時過ぎに岩見沢の夜間救急センターに着く。既に親父は解熱剤を処方され、笑顔で車椅子に座っていた。インフルエンザ検査の結果待ちであると言う。訪問看護師さんから話を聞き、付き添いを交代。結局、発熱から時間が短く、インフルエンザは陰性とのこと。明日の浅野検温待ち。今日のところは帰宅。

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「大阪の体罰問題」に寄せて

   1

竹田青嗣が人はその成長において三枚の世界像をもつと言っている。一枚目の世界像は生まれながらにして親や共同体から自然に身につけられてしまう世界像、二枚目の世界像は生まれながらの世界像に対抗するものとして「これが真実だ」との確信を伴うような世界像、三枚目の世界像は一度は確信した世界像を相対化した上で構築される自他を等価として認め合う世界像である。

かつて、この国の子どもたちは共同体の中に自己を預けざるを得なかった。どの家に生まれたか、どんな職業をもつ親のもとに生まれたか、総じてどの階級に生まれたかによってその一生は規定され、決して脱することができなかった。親は我が子を人材と捉え、幼いものには子守をさせ、ある年齢に達すれば労働力としてあてにした。そのために子をつくることが当然だった。

近代になって、親の収奪から守るために学校が生まれた。出自がどの階級であろうと、一列に並んで下層階級からの離脱を可能にする。親が勝手に労働力として子を収奪することを国家として認めない。そうした方針が採られた。

この頃の子どもにとって、一枚目の世界像はもちろん、幼少期を過ごすことになる共同体によって形成される。しかし学齢に達し学校に行くようになると、様々な共同体から集められた様々な階級の子どもたちが一列に並ばされ、競争させられることを体験し、世の中は共同体で学んだ世界像なんぞではできていないのだということを知ることになる。結果、この国の子どもたちは自分の将来に「夢」を見ることを許されるようになった。それが二枚目の世界像となる。学校はそんなふうに始まった。

もちろん、すべての子どもたちがそのように二枚目の世界像を獲得したわけではない。学校制度が開始されても数十年にわたって繁忙期に学校を休ませて労働させる親はたくさんいたし、共同体の晴の日・怪の日を学校に優先させる共同体も多かったことは間違いない。そうした親や共同体に属する子どもたちは、学校に行ってなお、一枚目の世界像に止まることを余儀なくされたであろうことは想像に難くない。

しかし、それでも総体的には、学校教育制度は親や共同体の収奪から子どもたちを守り、第二の世界像を獲得させるにたる機能をもつようになった。学校という国家プロジェクトは取り敢えず成功したのである。

ところが時が経って、親が外に働きに出てサラリーをもらって生計を立てるのが一般となる。もとろん、子どもを労働力と考えなくなる。それとともに都市へと人口が移り、人々の精神を規定していた共同体も崩壊し始める。マスコミが普及して都市的現実が地方にまで浸透する。学校はこうした経緯の影響に正面から晒されることになる。

核家族化の流れが、親に学校的現実しか世界像をもたせなくなる。もちろん、子どもはその家庭に生まれ、その家庭の空気を思い切り浴びて成長するわけであるから、第一の世界像が学校的価値観とならざるを得ない。もちろん、その世界像は学齢に達し学校に行くようになっても延命する。延命するというよりも、学校的価値観が家庭を侵食しているのであるから、むしろ学校と家庭との間に逆転現象が起こったと言った方が良いかもしれない。宮台真司は慧眼にもこの現象を「学校的日常」と呼んだ。

かくして二枚目の世界像は、例えば大学に進んで教養を身につけたとき、或いは就職して職人技を身につけたときにある種の本質に届き得たと確信するに至る、その時期まで獲得を遅らせる世の中になった。それを体現する象徴的存在は言うまでもなく団塊の世代である。学生運動もものづくり日本もそうして作られてきたのだろう。

   2

先日、五年ほど前に卒業させた二人の女子生徒から食事の誘いを受けた。五年前の卒業生であるからいまは二十歳の学生である。私はあれこれと理屈をつけて断った。自分は君たちの前に素で立っていたわけではないので、君たちの美しい想い出を補強するような「堀先生」ではなく、きっと逢ったら「遠い人」に感じるよという理屈である。彼女たちは子ども扱いされたと思ったのか、「なんだか恥ずかしい思いがする」という言葉を私に返して音信が途絶えた。

中学校の3年間、私はこの二人とかなり密接に関わった。1年生のときは担任であったし、3年生のときは部活動の顧問であった。同僚の女性教師とダブルスを組み、私はほぼ毎日、この二人とバドミントンに興じていた記憶がある。その意味では、この二人といま逢えば懐かしい話に花が咲いたのかもしれない。しかし、私はなんとなく、自分がいまこの二人に逢って良いという思いがしなかったのである。

生徒たちは学校においてエロス的自己を生きている。第一の世界像が家庭から学校へと連続している以上、生徒たちが学校においてエロスを発揮するのは当然である。しかし、現在、教師の側はどうかと言われれると、私はそれを否定している自分を感じざるを得ない。私はエロス的自己として生徒たちの前に立ってはいない。あくまで教師として立っている。いわば、生徒はエロスとしてそこにいるのに、教師はミッションとして生徒に接している。

諏訪哲二の言うように、おそらく1980年代から学校は市場原理にかすめ取られるようになった。次第にその市場原理による浸食は加速し、現在は学校のほぼ全域が費用対効果で測られ、市場原理によって駆動され、サービス業として遇されるようになった。

私は1991年に教師になったが、その頃は職員室のほとんどがまだエロス的自己として生徒の前に立っていた印象がある。札幌という地域性があるにしても、もっと言うなら北海道が田舎だということを差し引いても、バブル真っ盛りのパイを奪い合わなくても放っておけばパイの方が増えてくれる時代にあって、学校教育に対しても世論はまだまだ寛容だった時代である。教師がエロス的自己でいられる余裕を社会全体がまだまだ担保してくれていたということでもあったろう。

しかし、この二十年で状況は一変した。なんだかんだ言っても学校教育を信用し、教師を信用するというコンセンサスは加速度的に崩壊し、教師の不祥事、保護者クレーム、子どもの変容が社会問題化し始める。教師の不祥事は教師がエロス的自己を発揮したときに起き、保護者クレームは教師のエロス的自己へと向けられ、子どもの変容は子どものエロスと教師のエロスとが対峙したときに顕在化し問題視される。

教師はエロス的自己を取り敢えず括弧にくくり、あくまでミッションとして生徒の前に姿を現すようになる。マクドナルドの能面的笑顔やブックオフの「いらっしゃいませ」の無機質な繰り返しのごとく、教師の表情も言葉もエロス的自己を抑制した、ミッション的自己として展開されるようになる。この構造は、私には決して小さくない問題を孕んでいるように思われる。

マクドナルドの店員が自分にいくら笑顔を振り向けてくれたとしても、この店員の笑顔が自分に対する特別な意味をもって向けられていると客は考えない。ブックオフの店員が優しい言葉をかけれてくれたとしても、その店員の言葉が自分だけに特別に向けられると普通は考えない。サービス業における表情や言葉とはそういうものである。

そもそも客自体が店員に対してエロス的自己を向けてはいない。マクドナルドにおいてもブックオフにおいても、客はエロス的自己として生きているわけではない。その証拠に、どんな明朗快活な表情も、どんなさわやかな挨拶も、客に「この店員にもう一度逢いたい」という気を起こさせないのが一般である。この一般からはずれた人々を我々はストーカーと呼んで忌み嫌う。

しかし、学校がサービス業化し、市場原理で動き出したとき、そこにはミッションとして生徒たちに最大の費用対効果を実感させようとする教師と、それを胸一杯のエロス的自己として受け止める生徒とが対峙せざるを得ない。生徒たちに良い思いをさせ、生徒に高い満足を与えられる教師ほど、生徒のエロス的自己と共鳴し合うという構造をもたざるを得ない。これは言い換えるなら、詐欺師ほど良い教師という構造に他ならない。

もちろん、私が彼女たちに関わっていたかつての3年間がすべて成功したわけではない。しかし、五年経って自分たちが酒を飲める年齢に達したときに私に逢いたいと言い出した二人の女生徒が、いまの私には重い。私は彼女たちの学年主任だった。私は担任としてよりも部活顧問としてよりも、まさに学年主任としてミッションを遂行したのてである。私の教員生活において、私が最もエロス的自己を抑制せざるを得ない存在であることに自覚的であった時期のことである。私がエロス的自己として彼女たちの前に立ちたくない理由はそこにある。

   3

憲法は親が子どもに教育を受けさせる義務を負うと規定する。子どもを酷使してはならないとも規定している。内田樹の言葉を借りれば、「子どもを市場原理にさらすな」というのがその意図である。

かつては子どもを市場原理にさらすのは親であり共同体だった。子どもを酷使し収奪する。子どもはその未熟さ故に搾取される存在だった。しかし、「学校的日常」が完成し、市場原理で動く学校が常に費用対効果を考えながら運営されるようになるに及び、子どもを市場原理にさらすA級戦犯が学校になった。

先般、大阪の高校体育科での体罰を要因として生徒が自殺するという痛ましい事件があったが、これもまた「子どもを市場原理にさらす学校」という構図が招いた事件だった。

現在、費用対効果の原理に晒された学校において、教師たちはエロス的自己を生きることができない。授業中や生徒指導中に体罰がほとんど起こらなくなっているのはそのせいである。しかし、この高校では、部活動だけがその費用対効果を旨としながらも教師がエロス的自己を発揮することができる、最後の砦として機能していた節がある。

つまりこういうことだ。

部活動は顧問も含めて〈目的集団〉である。教師のエロス的自己と生徒のエロス的自己とが両立する(少なくともそう錯覚することのできる)空間として意識されている。しかも公立高校とはいえ体育科の高校であるから、部活動が一定以上の成果を上げることは、次年度の新入生募集に直結する大事であったはずである。つまり、厳しい指導によって成果を上げることが高校側にとって費用対効果の理に適うという構造をもつ。

義務教育でもなければ普通科でもなく、運動部への入部が入学の条件とされる体育科において、そこに入ってくる生徒たちは自己責任として部の指導に従わなければならないとも、学校側にも生徒側にも意識されていたはずである。おそらく部活動顧問の体罰が黙認されたのにはそうした暗黙の了解がある。

こうした暗黙の了解を背景に、教師のエロス的自己が生徒のエロス的自己が耐えられないほどに暴走してしまった。生徒のエロス的自己は学校の期待、チームメイトの期待、親の期待に雁字搦めにされ、部活動をやめることがそのまま学校をやめることになるというシステムの中で壊れていかざるを得なかった。その結果、生徒のエロス的自己が自殺を選んでしまった。こうして教師のエロス的自己による体罰が生徒のエロス的自己に死を選ばせるという最悪の事態を招いたのである。

私の実感では、おそらく2000年前後まで、多くの教員は学校の中でもエロス的自己を生きていた。少なくとも、ほとんどの生徒に対して仕事として接していたとしたも、この生徒だけは他ならぬ私によって育てるのだ、私だからこそ育てられるのだというエロス的自己を発揮する対象としての生徒を何人かもっていた。しかし、学校を市場原理で動かす発想が次々と政策に採られるに及び、学校において教師は急速にエロス的自己を生きられなくなったのである。

教師側(全体ではなく一部ではあるが)から見て「最後の砦」として意識され、エロス的自己を発揮する場として機能していた部活動もまた、やはり市場原理による学校教育の運営の流れに逆らえるべくもなく、今回の事件で教師のエロス的自己は息の根を止められることになる。

もちろん一般的に部活動顧問が体罰を振るっているわけではない。むしろ体罰はほとんどなくなっていると言った方が現実に近いだろう。しかし、「体罰も辞さないぞ」という雰囲気を醸し出し、それを利用している顧問は少なからずいる。おそらく今後、体罰も辞さないという雰囲気を醸すこともまた禁止されるだろう。それが定着すれば、怒鳴りつける指導が禁止され、激しい言葉で生徒を鼓舞することも禁止されるかもしれない。そうやってサービス業としての部活動が完成され、サービス業としての学校が完成されていくだろうことは想像に難くない。

私はこうやって両手両足を縛られていくのも時代的必然であるから、ある程度仕方のないことだと諦めてはいる。この時代、それなりの安定した収入を得られている以上、多くの教師がそう思って政治の決定に従い、行政の指導に従っている。エロス的自己を封印し、ミッションとして仕事をしていくことに心ならずも納得した振りをする。

しかし、ミッションは必ず成功するわけではないし、成功ではないにしてもまずまずのところに着地するという帰結を見ることさえかなり難しい。失敗が続けば、必ずミッションはビジネスライクへと姿を変え、次第にルーティンと化していかざるを得ない。その帰結は、マクドナルドのバイトの学生の笑顔であり、ブックオフの機械的な「いらっしゃいませ」同様の、だれでもできる代替可能な営みに過ぎなくなっていくだろう。

私は両手両足を縛られることもやぶさかではないと言ったが、政治も世論もそうと自覚しないままに、どうもそれとは逆の方向に進んでいることに危惧を抱いている。それは学校教育を市場原理に晒し、システムとしては費用対効果を基準に改革しながら、その内実は教師のエロス的自己に期待しているように見えてならないからである。

教師が教育技術に長け、人格的にも優れていれば、生徒・保護者を満足させるような教育活動ができるはずだ、これがその論理である。私は現場教師の一人として、教師の両手両足を固く縛り、教師のエロス的自己を徹底して削ぎ落とさせたうえで、解決策のない領域に対しては教師のエロスに期待するこの論理を看過することができない。

もちろん体罰が必要だなどと言いたいわけでもないし、今回の事件のこの教師(これは既に事件である)を擁護する気も毛頭ない。自殺を選ばざるを得なかった生徒には心から冥福を祈る。ただそれでも、その後の行政の対応、政治の対応にはちぐはぐさを感じざるを得ない。学校教育における手詰まりの息苦しさを更に加速させるだけで、解決にはほど遠い政策が打ち出されようとしている。先日の「いじめ防止対策基本法案」には特にその思いを強くしている。

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体罰もいじめ 報告義務 対策法自民案

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013012790070814.html

おかしな議論だ。体罰は「いじめ」ではなく法律違反なのではないか。別問題なのではないか。「いじめ」の概念を拡大しすぎだ。むしろ、もっと「いじめ」の定義を狭くした方がいい。

「児童、生徒に対して一定の人的関係にある者が行う心理的、物理的な攻撃で、児童らが心身の苦痛を感じているもの」をいじめの定義とする。「物理的な攻撃」は果たしていじめなのだろうか。犯罪なのではないか。ネットの悪口も少なくとも不特定多数に誰のことなのかがわかる時点で犯罪なのではないか。

体罰を法的に規定するように、現在「いじめ」と呼ばれているものも、警察に任せる領域のものと学校に任せる領域のものとを峻別すべきなのではないか。結局、また、世論をごまかし、曖昧な法案で学校を困らせるだけのものになってはいないか。権力を与えずに対応だけを迫られてもできるわけがない。

また、これまで以上に学校に抱え込ませることになる、非現実的な提案である。こういう学校幻想、教育万能論を建前としたシステムを敷くのはやめて欲しいものだ。こんな法案、実効性はほとんどない。教師に捜査権を与えるとか、ネット情報を調べる部署をつくるとか、警察を常駐させるとか、懲戒権の発動の裁量を拡大するとか、何らかの権限の確保が必要になる。

これまで「いじめ」とか「体罰」とか呼んでしまったことによって、学校問題にされてしまった犯罪がどれだけあったことだろうか。闇鍋パーティじゃあるまいし、なんでもかんでも入れて煮ればいいというもんじゃない。去年の大津と今年の大阪だけ、いじめと体罰だけを考えるからこういう提案になる。

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1月27日(日)

1.「教える-学ぶ」関係が崩れている現在、教師は子どもに嫌われてはいけません。現在、生徒に嫌われないということが、すべての教育活動を推進していくうえでの前提になっています。生徒に嫌われてしまうと、「指導者」としても「評価者」としてもその資格を問われる時代になってきています。

2.「怒鳴る教師」になってはいけません。怒鳴ることに頼り始めると教師はみるみる堕落していきます。怒鳴ることなく同じ効果をあげられる手法がないかと考え続けること。それを一つ一つためすこと。そのスキルを一つ一つ整理していくこと。この3つが大切です。怒鳴ることに頼って楽をしてはいけません。

3.重要なのは、何事も適切な距離を意識して臨まなければうまくは運ばない、ということです。人間関係の悩みは、そのほとんどがそうした距離感の調整がうまくいかないが故に生じます。そういうことを、なかなか教えてもらえないのが世の中です。生徒とも、保護者とも、同僚とも、適度な距離が必要です。

121009cover4.『スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』堀裕嗣著・明治図書・2012年11月/twitterのつぶやきから生まれた本です。僕のツイートのうち、リツイートの多かった40を選んで、それぞれについて平均3頁の解説を施したものです。まとまり感には欠けますが、まずまず私の力量形成観を書けたのではないかなあと感じています。

5.今日は現実的な現実と格闘する日だ。雑誌原稿を2本書いて、新刊のゲラを校正して、別の新刊の資料を整理して送らなければならない。どれもやりたくない仕事ばかりだ。午後からにしよう、午前中はのんびり過ごそうと思っていたが、午前中もあと20分しかない。なんてことだ。

6.かつて飲み屋で同業者を見ると「ああ、この人は先生だな」と直感的にわかったものだった。最近は会話をしてみて初めて「ああ、同業者でしたか」とわかることが多い。教師にどうしようもなく付着していた、こびりついていた教師らしさみたいなものが薄れてきたのだなあ、と感じる。

7.かつてはワイシャツの襟のシミのように、どうしようもなくこびりついていた「教師らしさ」を誰もがもっていたものだったが、みんな漂白されてしまった。そういえば、僕もよく、見かけが「教師らしくない」と言われる。たまに警察官かと思われることはあるが、ほとんどは公務員だとさえ思われない。

8.教師への敬意が失われるとともにみんなが教師であることを隠すようになった結果なのか、それとも教師らしさを醸していた精神性が教師たちから失われてしまったのか、まあ、両方だろうな。そういえば最近、ださいジャージで飲んでいるとか、スーツにスニーカーとかいう人をまったく見なくなったもんな。

9.そういえば、その昔、居酒屋で男女混合の団体が飲んでいて、靴が革靴とスニーカーが混在していれば、まず間違いなく教師の団体だった。中にはサンダルもあったりしたっけ。いまは教員の呑み会なんてほとんどないもんな。僕は今年度、学年の先生方と一度しか呑んでない。呑み会自体がなくなっている。

10.「それは違うぞ!○○先生」「何言ってんですか、古いっすよ、△△先生は」「まあまあ、飲み過ぎですよ、二人とも」何の成果も上げない、べろめべろになっての議論。微笑みながらたしなめるベテラン女教師。何の意味もない議論をすることで、お互いの存在価値を確かめ合うだけの呑み会。懐かしいなあ。

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時の過ぎゆくままに

昨日の夕方、職員室でのこと。名寄へと出発する1時間ほど前のことである。職員室の自席に座りながら、僕の頭の中には沢田研二の「時の過ぎゆくままに」が流れていた。

時の過ぎゆくままにこの身をまかせ
男と女がただよいながら
墜ちていくのも幸せだよと二人冷たい躰あわせる

ふと思った。男と女がただよいながら……、これは「漂いながら」だろうか、それとも「ただ酔いながら」だろうか。僕は公務PCを立ち上げ、YAHOO!を開き、「沢田研二」「時の過ぎゆくままに」「歌詞」と検索して調べた。でも、どの歌詞サイトを見ても、「ただよいながら」は平仮名表記だった。どちらの意味か、いくら調べてもわからなかった。

僕の両隣では、話しかけるのもはばかられるような表情で、進路指導主事が進路関係の文書をつくり、教務主任が次年度行事予定をつくっていた。僕は深い深い罪意識を感じた。公務中に僕だけがこんなことをしている……。

でも、僕はこの歌詞を、今度、掛詞を教えるときの例示の一つとして使えるなと思った。この思いつきで、この3分ほどが僕の中で公務として成立した。とても安心した瞬間だった。

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一望できる瞬間

昨夜、名寄に向かう途中でのこと。

和寒インター近くに東山スキー場を一望する瞬間がある。煌々とライトアップされた美しい斜面。リフトも動いている。でも、スキーヤーが一人もいなかった。ただの一人もいなかった。一つのスキー場が世の中の無意味を表象していた。すごいものを見たと感じた。

金曜の夜7時半。スキーを練習しようとする者も、スキーデートをしようとするカップルも、子どもにスキーの練習をさせようとする親子も、ちょっと滑りに行くかという友人同士も、昨日、あの地区にはいなかったということだ。北海道のど真ん中、晴天の日にである。

なんか、哲学的な問いをたてられそうに感じた。

この瞬間のおかげで、僕はその後、たった一人の名寄までの小1時間の運転が苦にならなくなった。考えて考えて、更に考えた。熟成するにはもう少し時間が必要だ。

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1月26日(土)

1.【拡散希望/いよいよ一週間後/残席4】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

2.90年代は心理学の時代のだった。00年代は社会学の時代だった。10年代はまだ見えないね。まあ、教育の時代じゃないことだけは確かだ(笑)。それとも80~90年代が心理学の時代で、00年代からいまだに社会学の時代が続いているという認識の方が妥当性があるんだろうか。とにかく、僕には見えない。

3.編集者から『教師力ピラミッド』がamazonから大量注文を受けたという連絡。見ると順位が三桁である。こんなもんがなんで売れるんだろう。それより驚いたのは、この本が「学習指導」に分類されていたことだ。amazonの分類ってどうやって決まってるんだろう。どう考えても学習指導じゃない。

4.例えば、学習指導に興味を抱いている人がいて、amazonを開いて取り敢えず学習指導の1位の「教師力ピラミッド」を買ってみる。読んだら「騙された」と思うに違いない。僕はそういう買い方をして騙されたことが何度もあるからよくわかる。でも、そういう騙され方をしても僕のせいじゃないですよ。

5.1年振りに逢った石川晋は過激になっていた。もともと過激な人間なのに、もっと過激になっていた。本人は現場から離れて「思想が純化してくる」と表現していたが、休職したり退職すると当然そうなる。僕も休職した1年はそうなった。退職して講演活動をしている人や、大学教員になった人たちもそうなる。要するに、自分の考えていることに「原理主義化」していくわけだ。

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弱者の論理

これまで「強者の論理」ばかりを展開してきた。でも、弱者をも想定範囲として考えたとき、一つだけ方法がある。

それは国民全体が幸福の概念を下方修正することだ。「Wiiを一緒に楽しめる恋人か友人がいること」や「休日に友人達と一緒に郊外にバーベキューに行くこと」を幸福の最高峰として意識する在り方(古市憲寿)に改めることだ。

方丈の草庵を結び、庭に生えたトマトと胡瓜を囓り、琴を弾じ、詩を吟じ、友と数合の酒を酌み交わして清談することに深い喜びを見出す(内田樹)様な幸福感に改めることだ。そうすれば、僕らは再び幸せになれる。

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「駆け込み退職問題」の意味

駆け込み退職。結局、本来、費用対効果、市場原理で考えてはいけない教育の領域について、ずーっと費用対効果ばかりで考えてきたから、教師が費用対効果で考えることをも批判できなくなったという構造がある。

数年前、未履修問題のときにも強く感じたことだが、教育への費用対効果の考え方の導入は馴染まない。あのとき証明されたのは、教師もまた受験のために規定教科の未履修さえ厭わないという費用対効果による学校運営を是認していたという事実だった。大きな違和感を抱いた記憶がある。

これから教員の給料も退職金もまだまだ減っていくはずである。そろそろ公務員の身分自体を考え直して、思い切って4割くらいカットして、兼業を認めてはどうだろうか。そうすれば優秀な人材の流出も防げるだろう。そして費用対効果の考え方も完全にな馴染ませることができるようになるだろう。

守秘義務さえ厳しい規定を設ければ、公務員である必要は実はあまりないのが教員である。しかも、特殊技能をもっている教員もぱらぱらいるから、他でそれなりに稼げる教員もいる。稼げない教員は我慢を強いられることになる。そもそも他の場で収入を得ることを禁止し、両手両足を縛っておいて、優秀な教員も安月給にあまんじろというのはいただけない。教員評価制度の雀の涙の増収で意欲など喚起されるはずもない。それで聖職だからという理屈までつけられるのでは割に合わないと思う人間が出ても当然だろう。

本を書くような教師は本を書かない教師よりも、多くの場合、学校現場においても現実分析力に圧倒的に優れている。学校マネジメント論のフィールドワークとして学校に残り続ける者や学校コンサルティングの起業も視野に入ってくるようになるだろう。学校を市場原理で考えるならそこまで行った方がいい。

水泳やスキーのインストラクター資格をもつ教師がそれに兼業として取り組めば、間違いなく水泳授業やスキー授業に新しい、革命的な、効果的な指導法を考え出し、実践する者が出てくるはずである。塾講師を兼業とする者は試験学力向上のリーダーシップをとるようになるかもしれない。

要するに学校教育を市場原理で考えるということはそういうことなのだ。優秀でない教師を淘汰したいならば、そうした手法の方がずっと効果がある。即効性もある。間違いない。しかし、校長はとてつもなく大変になる。こんな教師たちを束ねられる校長は現場には皆無である。もう現場から試験を受けて昇進というシステム自体を壊さなければならなくなるだろう。

その方向性に僕は賛成でもないし反対でもない。というかどちらでもいい。僕は本来のコミューン的な学校の方が学校教育にはなじむと思っている。立法・行政・司法の三権を教師がすべてもち、何か事件があっても警察を入れない、治外法権としての学校……それがこの国の学校だった。

でも、バブルが崩壊して、エコノミストたちの未来予想は、そうした学校教育が続かないことを僕らに予見させた。だから、二十代の頃から教育行政だけに頼らない生き方の準備をしてきた。だから現在(いま)がある。

でも、政治も行政も90年代からそれを見通しとして語るべきだった。失われた二十年の前半、みーんな「いまにまた景気はよくなるかもしれない」と甘え続けていた。そのつけを公務員が払わされることになるのは必然といえば必然だ。

学校間競争による規制緩和なんて言ってないで、末端を自由化しろ。締め付けと減収とにともに甘んじろは通用しないぞ。

こういう議論を上げている途中にも、「この多忙が解消されないのに、どうやって兼業などできるのですか」という質問を受けた。こうした政策がとられたとしたら、現在を多忙だと感じるような教師は4割カットに甘んじるしかないのだという答えになる。優秀な教員はいまでも多忙観など抱いてはいない。むしろこの乱世を楽しんでいるところがある。そういうのが「優秀な教員」「優秀な人材」なのだ。

僕はなんとか「学校コミューン」「職員室共同体」が維持されるような、なんとか「学校的メンタリティ」「学校文化」がいまでも維持できるような方策はないかと考え、提案してきた。これからもそういう提案をし続けるだろうと思う。だって僕は学校が好きだし、職員室の鍋ぶた文化も好きだから。しかし、いよいよ本格的に大幅な給与カットが視野に入ってきて、今回の「駆け込み退職」のような問題も出て来たとなると、「学校コミューン」や「職員室共同体」、「学校的メンタリティ」や「学校文化」を維持できない可能性についても考えなければならないし、言及しなければならなくなってくる。

そして時代は安倍内閣である。今日発表された35人学級の断念も経済的な問題である。今回の「駆け込み退職」も経済的な問題である。経済の問題がいよいよ本格的に、目に見える形で学校教育にも入ってきたということなのだ。視野を広げなくてはならない。

駆け込み退職問題は、僕にはこういう時代への幕開けの意味をもっているように見える。

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1月25日(金)

1.昨夜、名寄まで3時間かけて移動。1年振りに晋と飲んだ。桑原やDNAもいて、楽しい宴だった。晋と桑原といっしょに結局、3時過ぎまで飲む。情報交換。そして議論、議論、議論……。時間さえあれば、まだ5時間でも10時間でも続いただろう。最後まで酔わなかった。いい時間だった。

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1月24日(木)

1.今日は授業が2時間。どちらも入試対策。空き時間は2時間が調査書関係の事務処理。1時間が土曜日に入試のある生徒たちに面接練習。放課後は私立高校の願書点検。進路事務も一つ一つ終わっていく。あとは来週の個人調査書で終わりだ。今日は卒業式の役割分担の確定版が出ていた。終わりが見えてきた。

2.【拡散希望/いよいよ9日後/残席4】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

3.【拡散希望】第3回教室実践力セミナーin札幌/堀裕嗣・山下幸/2013年2月9日(土)/札幌白石区民センター/定員20/若い教師のための学級開き・90日間システム/授業づくりのステップ/教室ファシリテーションへのステップetc…
http://kokucheese.com/event/index/68001/

4.【拡散希望】第20回国語科授業づくりセミナーin札幌/堀裕嗣・山下幸/2013年2月16日(土)/札幌白石区民センター/定員20/国語科授業づくりの原理・原則
http://kokucheese.com/event/index/68016/

5.年が明けてから、「ためによむ本」ではなく、「読みたい本」を読むように心がけている。今週、おそらく人生の書になるであろう一冊の本と出逢った。しかも自分から積極的に働きかけてこの本と出逢った。こういう躍動感が読書の醍醐味である。

6.19世紀末、神の時代、要するに宗教の時代が終わったことをニーチェが宣言したけれど、彼が目指し、彼が確信したであろう哲学の時代も、いま終わろうとしているのかもしれない。そもそも、形而上に何を置くべきかという議論自体を最近見ることがない。

7.そういや、「全体性が失われたという感覚をみんながもつことがポストモダンの前提である」という意味合いのことを、大塚英志が書いていたな。

8.大阪の体罰問題。愛知の薬品飲用の強要問題。教員の駆け込み退職問題。ここ半月ほどで教育界がとことん荒れている。安倍晋三が総理大臣になると教育界が荒れる。今回は何の因果関係もないけれど、運命だな。ただし、教育再生会議で学校教育をひからびさせたことが遠因にはなっていると思う。

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「教員の駆け込み退職/下村文科相発言」に寄せて

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130124-00000081-jij-pol

どう指導するんだろう。これを禁止したら、国の根幹が揺らいでしまう。責任ある立場の文科大臣としては安易な発言だ。ここは情に訴えるしかないという認識をもつべきだ。それとも処分でもする気なのだろうか。そんな全体主義こそ、決して許されないだろう。

「子どもたちのために職を全うすべきだ」という意志と同じように「子どもより自分の収入だ」という意志も尊重しなければならない。意見が違っても、相手が反対意見を主張する権利だけは守る。これは国是ではないのか。むしろこの情けない行動をとる、ひからびた教員を輩出した責任を認識せよ。

基本的に早期退職教員は一切の法律違反を犯していないということを、まず議論の前提にしなければならない。むしろ雇用側の契約違反に抵抗しているのである。しかもおそらくは意にそぐわない抵抗をである。ただの人なら、百歩譲ってただの政治家なら何を言っても構わないが、文科相が言ってはいけない。

ただし、心情的には僕は早期退職者の味方ではない。彼らは教職に就いている人間だし、教員ではあるかもしれないが、教師ではなくなった。「師」の一字は重い。彼らはこの三十数年の自分の人生の意義をたった150万円で否定したのだ。これから早期退職したことへの疑問が心中に蛆のようにわいてくるに違いない。田舎町の教員の一人として、彼らがそうなっていくであろうことを信じたい。

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1月23日(水)

1.【拡散希望/いよいよ10日後/残席4】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

2.【拡散希望】第3回教室実践力セミナーin東京/堀裕嗣・山下幸/2013年2月9日(土)/札幌白石区民センター/定員20/若い教師のための学級開き・90日間システム/授業づくりのステップ/教室ファシリテーションへのステップetc…
http://kokucheese.com/event/index/68001/

3.【拡散希望】第20回国語科授業づくりセミナーin札幌/堀裕嗣・山下幸/2013年2月16日(土)/札幌白石区民センター/定員20/国語科授業づくりの原理・原則
http://kokucheese.com/event/index/68016/

4.経験を重ねることによって、感情を蓄積していく人と言葉を蓄積していく人とがいる。現実の壁にぶつかったとき、前者はシニシズムに陥りやすく、後者はニヒリズムに陥りやすい。

5.「人間、綺麗事を言っても、結局は色と金だよ」こうした一般に人々の本音と目される安易な抽象化を、太宰は民衆の酒場から蛆がわくようにわいて出た言葉だと看破した。言い得て妙だと思う。しかし、床屋談義や居酒屋談義なくして生きられないのも人間だ。まさに「愛せない場合は、通り過ぎよ」だ。

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1月22日(火)

1.amazonで「教師力ピラミッド」がなぜか再び、「予約受付中」に戻っている。どういうこっちゃ?発売日が延びたのか?著者なのに聞いてないぞ。

2.【拡散希望/残席5】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

3.7人の死亡確認か……。なんてこった。冷戦時代の方が平和だったじゃないかとか、核抑止はやっぱり必要じゃないかとか、ついつぶやきたくもなっちまう。

4.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)に対して、ブログ「きょんどう通信」さんから書評をいただきました。
http://d.hatena.ne.jp/tomy1215/searchdiary?word=%2A%5B%C6%C9%BD%F1%5D

5.ずいぶん教員も発想がビジネスライクになってきたっていうことだね。政治も行政も、教員が「子どものために」っていう良心だけをモチベーションにして、求められている以上の仕事をし、それに疑問を抱くことなく頑張るのが普通だったという現実を知らずに、それを解体する方向の政策ばかりとってきたわけだからね。いまはもう、こういうビジネスライクな考え方をする教員がたくさん現れても不思議はないし、仕方ないよね。昇級も出世も求めず、すべてを犠牲にできるのが教員…っていう美学が、かつて学校現場には確かにあったんだけどね。
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20130121-01674/1.htm

6.確かに考えさせられるなあ。
http://www.j-cast.com/tv/2013/01/22162146.html?p=all

7.「婚期が遅れた」は実証できないけれど、確かにこれも考えさせられる視点だなあ。でも、後戻りの議論はすべきじゃないなあ。結局、数十年後のための政策だから、だれも実感できないんだよなあ。
http://www.j-cast.com/kaisha/2012/06/08135021.html?p=all

8.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)に対して、ブログ「あこがれのベクトル」さんから書評をいただきました。
http://d.hatena.ne.jp/lotus14/20130114/p1

9.「教師力ピラミッド」の書評をブログにアップしてくれたお二方は、ともに新潟県の方です。新潟にはこの3年間で5回呼んでいただいていますが、ありがたいなあと思います。いま手もとにあるということは、明治図書サイトから入庫と同時に直接注文して読んでいただいたということですから、けっこうすごいことに感じます。ありがとうございました。

10.最近、私と同世代の教師が書く教育書がずいぶんと売れているようです。青山新吾、赤坂真二、池田修、石川晋、岩瀬直樹、菊池省三、佐藤幸司、俵原正仁、土作彰、中村健一、桃崎剛寿、山田洋一、渡邉尚久……私はこの現象を見ながら、「ああ、やっと『法則化後』がやってきたのだなあ」と感じています。

11.これらの四十代から五十歳前後の実践家たちはみな、「教育技術の法則化運動」に本格的に参加することのなかった人たちです。言ってみれば、「遅れてきた世代」です。まったく見向きもしなかった人から少しは囓った人まで様々ではありますが、私も含めて、みな、少なくとも本気で「法則化」の看板を担ぐことはなかった人たちなのです。そういう人たちがスタンスは様々であるにせよ、自分の立ち位置から有益な提案をする時代になった、しかもそれが広く受け入れられるようになってきた、そういう実感があります。

12.それと同時に、私たちよりもひと世代上ながら...「法則化運動」を担ぐことのなかった糸井登、多賀一郎、野中信行、横藤雅人といった人たちもそれぞれがと独自の提案を進めています。更には、飯村友和、大前暁政、金大竜、長瀬拓也、藤原友和といった若手教師が台頭し始めています。西川純の『学び合い』も運動体として急激な広がりを見せています。実は私のまわり、つまり北海道にも、まだ名前こそ売れていませんが間違いなく今後全国的な提案を始めるであろう人材がたくさんいます。再び、民間教育がおもしろい時代を迎え始めているのだなと実感します。

13.私はよく、「発展途上人にこそ学ばなければならない」と言います。80年代後半から90年代前半がそうであったように、発展途上人が提案し合う時代はその世界が活性化している証拠です。こうした渦の中で、私もまたその渦中の一人として提案できることに喜びを感じています。

14.なぜか今日、かつて書いた文章がずいぶんと読まれているようなので、再度アップしました。このときはコピペしたときに、何故か一部が抜けてしまっていたので、正式版をアップしました。

15.「我々は自分に敬服してくれる人を必ず愛する。しかし、自分が敬服する人を必ず愛するとは限らない。」おそらく大阪のバスケット部顧問は自殺した主将を心から愛していたのだろうと思う。しかし、主将は顧問に敬服するが故に自己を見失ったのに違いない。ナルシシズムをフレームにこの構造を想像してみると、ロシュフコーのこの言葉が重い。

16.人間の原動力は承認欲求である。教師が子どもを愛するのは、その承認欲求を子どもに求め、それを子どもが返してくれるからだ。いかなる良心的な教師もこの構造から自由ではいられない。「自分は違う」と主張する教師は自己を掘り下げられていないのだ。

17.大阪の高校生自殺問題について考え、アルジェリアの邦人人質死亡について考え、暗い気持ちになっていた。もう寝よう。そう思ってメールを確認したら、「えみはFカップ♪」という人から「私、脱いだらこんなに巨乳なんですっ☆」というタイトルでメールが届いていた。この国はまだまだ平和なのかもしれない。

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1月21日(月)

1.授業5時間。入試直前対策問題を開始。今日も3組の担任。成績小票の点検や入試関係の電話連絡、こまごまとした事務仕事に追われる。とはいえ、決して忙しい一日ではなかった。退勤後は岩見沢へ。親父とお袋と3人で回転寿司へ。その後、スーパーで食材その他を買い出し。ゆったりとした時間。

2.【拡散希望/残席6】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

3.二、三日前から同僚に紹介してもらった哲学通史の概説書を読んでいるのだが、こんな簡単な概説書でさえ、どうしてもヘーゲルの世界観だけは理解できない。原典を読んでいないせいもあるけれど、それだけではない気がする。自己世界の分析や他者理解の構造をあれだけ綿密に語るヘーゲルが、どうしてそれを統括する世界観に「絶対」だの「神」だのをもってきてしまうのか。それがどうしても理解できない。何か根幹のところが僕にはわからないようにできているのだろうと思う。僕は「精神現象学」を読み始めて挫折した経験を15回くらいもっている(笑)。

4.加藤嘉一と古市憲寿の対談本を読んだが、これまたフラストレーションのたまる本だった。おもしろいといえばおもしろいのかもしれないが、学びが少ないという印象。名前が売れるとこういう本づくりが横行する。あさはかな本……というか、うかつな本といった趣

5.良心、道徳、倫理……。なんか道徳教育を研究している人たちが「道徳」を絶対視して提案しているように見える。もちろんプレゼン上のレトリックとしての意味合いもあるのかもしれないけれど、僕は道徳教育はこの三つの違いをよく認識するところから始まると考えている。特に道徳と倫理の違いは大切だ。

6.同僚のある二人の女性教師のやりとりを聞いていると、マノン・レスコー(プレヴォ)とオリガ(チエホフ)を想い出す。一人ひとりは教師としてのキャラクターに問題なしとは言えないが、二人がともにいると、意外にも、怖ろしいほどの教育効果をもたらしているという感慨を抱く。人間は関係存在である。

7.道徳は時空に支配され、時空によって変容する。日本の道徳と中国の道徳は異なる。江戸時代の道徳と平成の道徳も異なる。道徳教育を推進する者は、いま自分が扱っているテーマが普遍でないかもしれないという可能性に自覚的である必要がある。道徳教育推進者にそのメッセージが感じられない。

8.一方、倫理は時空が変わっても変化せず、あくまで個に帰属する。たとえ周りがすべて敵になっても、場合によってはそれを主張すれば殺されるとしても、それでも自ら貫くもの、それを倫理と言う。僕は道徳規範に敏感な人間よりも、自らの倫理に生きている人が好きだ。ちょっと文学的かもしれないが……。

9.真善美でいえば、道徳は「善」に帰属し、倫理は「美」に帰属する。そして、道徳に照らしたにせよ、倫理に照らしたにせよ、自らの判断を懐疑すること、これを良心と言う。そこに「真」が志向される。

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1月20日(日)

1.20日(日)。岡山洋一さんや松田剛史さんらと一緒に「ファシリテーター・ミーティング」というイベントに参加。会場は札幌駅北口の札幌カフェ。なごやかでとても良い会だった。終了後の懇親会。次の日が仕事だというのに痛飲。まあ、楽しかったからいいか。青木さんや鈴木さん、準くんと話し込む。

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1月19日(土)

1.愛用のフラッシュメモリーが壊れて以来、なんとなく仕事が滞っていたが、今日は意を決してすべてのファイルを整理して、新たにフラッシュメモリーをつくった。ほとんど丸一日かかった。21世紀になってから書いた文書をすべて1本にまとめた。これで仕事になる。これから「研究集団ことのは」の例会。

2.拙著『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版)に野中信行先生から書評をいただきました。ありがとうございます。
http://nonobu.way-nifty.com/blog/2013/01/post-96cf.html

3.自分で言うのも何だが、新刊『教師力ピラミッド』は自信作である。間違いなく僕の代表作である。でも、間違いなくこの本は売れない。タイトルが悪い。「教師力ピラミッド」と言われてもなんのことやらわからない。それでも僕は「タイトルを変えるなら出さない」と言い張った。それでいいと思っている。

4.この事案にどんな処分が出るのか、注目したい。僕はこれは懲戒免職にすべきだと思う。
「中学教諭、生徒に塩酸入り水飲ませる…失敗の罰」
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20130119-00881/1.htm

5.誤解を怖れずに言えば、これは体罰より悪い。体罰ならまだまだ肯定派がいて議論も起こる。今回が良い例だ。でも、生徒に罰として薬品を飲ませることを肯定する人はおそらく一人もいないはずだ。これは猟奇殺人の領域だ。ものはいくら薄めても塩酸である。青汁飲ませるとかの罰ゲームとは質が違う。

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1月18日(金)

1.テストの一斉返却日。今日中にテストを返却しなければならない日。テストの得点は既にPCに入力してあったので、返し終わった学級から採点ミスの微調整をして、次々に評定を出していく。成績小票にも次々と記入していく。隙間時間はすべて評定作業。なんとか勤務時間内にすべて終わる。疲れた。今日は一日中、秒単位で動いた。たぶん教員になって以来、二十数年で最も忙しい日だった。

2.業者からの電話。要件はわかっていたので、こちらの意向をすぐに言って2秒で切った。同僚からの声かけに、「どうしても今じゃなきゃダメか?今日は秒単位で動いている。」とバッサリ。徹底して「話しかけるなオーラ」を出し続けて仕事に集中した。笑っていたのは授業中と給食時間くらいだった。

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1月17日(木)

1.学年末テスト2日目。英語・理科・数学。その後、学活で私立高校の願書書き。今日も3組の担任がスキー学習なので、3組の分を点検。午後からは公立高校願書の学年点検。推薦入試の推薦書をかなり直す。結局、担任にPCを開かせ、口述筆記で直していく。学年点検が終わったのが18時過ぎ。ふぅ。

121207cover新刊『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)がamazonで予約できるようになりました。「教師力」の全体像を語るとともに、チーム力の大切さを説いた著作です。

3.口述筆記で文書を直させるというのは、最悪の手段であり、最終手段である。担任の文章ではなく、僕の文章になってしまうからだ。これでは担任の力量が上がらない。でも、今年の進路日程にはまったく余裕がない。なぜだろう。いつもなら、こうこうこういう観点で直してごらんと、何度かやりとりをする余裕があるのだが……。

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4.拙著『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版)の重版が決まりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。今回は初版部数が多く、「大丈夫なのかなあ」と感じていたので、素直に嬉しいです。

5.評価評定もそうだ。昨日今日と学年末テスト。明日が一斉返却。月曜日は仮評定の締切である。要するに、月曜日の朝までに仮とはいえ、評定を出さなければならないのだ。さすがに明日は仕事の早い僕でも残業である。土日はもう予定が入ってるからね。昨日採点を終わらせたのもそのせいである。

111207cover6.拙著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書)の第6刷が決まりました。季節ものの本ではありますが、多くの方々にお読みいただいて嬉しく感じております。

7.東京の井上くん、見つかったらしい。何よりである。

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1月16日(水)

1.3年生は学年末テスト。1時間目が国語。その後、試験監督を二つ。3組の担任がスキー学習だったので、3組の公立高校願書を点検。生徒が帰ったあと、ひたすら採点。6クラスもっているので、約230枚。すべて終わらせる。冬休みの休暇処理簿を整理して、今日の仕事は終わり。肩と腰と右腕が痛い。

2.新刊『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)がamazonで予約できるようになりました。「教師力」の全体像を語るとともに、チーム力の大切さを説いた著作です。

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実験

昨日から今日にかけて、新刊『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』(明治図書)を割と時間をかけてじっくりと読みました。自分の新刊をじっくりと読んだのは、おそらく初めてのような気がします。

僕は教育書をビジネス書のつもりで書いていますが、今回の著作は本当にレイアウトもビジネス書的になっています。

とにかく、視点をたくさん出すことを優先順位の第一に考えて書いた本なので、ここから派生していろいろなコンテンツがつくれそうだなという印象を抱きました。例えば、「FMCチームワーク指導」「教師の事務力を高める仕事術」「教師の力量形成の在り方」「学習指導要領と学術研究のあいだ」「学級経営の相対評価」といったものです。特に「FMCチームワーク指導」と「学級経営の相対評価」は、現場の先生方に意外と知られていない指導のキモのような気がしています。

さて、今回刊行された「教師力ピラミッド」は、私の本としては珍しく、「教師力」の全体像を割と過不足なく展開できたのではないかと感じています。

私の本は不足を指摘されることはあまりないのですが、過足を指摘されることが多々あります。読んでいるうちにお腹一杯になってしまって、とても自分にはできない……という印象を抱いてしまうらしいのです。村岡さんをはじめとして、よくこの指摘を受けます。

特に『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書)の書評はほとんどがそういった指摘でした。私としては正直、このくらいのことはやらなくちゃいけないだろう……と思っていますが、具体的な担任の動きから学年団の動かし方、年度当初の授業の枠組みづくりまで書いた著作でしたので、私は親切心のつもりで全部書き込んだのですが、読む側にとっては辛かったという側面があったようです。

しかし、おそらく、今回の著作にはそういうことはないでしょう。手前味噌ながら、自分で読んでいても、大変読みやすい本だという印象をもちました。するすると頭に入ってくるとでも言うのでしょうか。それでいて、若手教師へのメッセージと中堅・ベテラン教師へのメッセージが、40の鉄則すべてについて語られているので、若手は「ベテランになったらこんなことを考えなければならないのか」と感じることができ、中堅・ベテランは「そうそう。若いときはこういうことに気をつけなくちゃならないんだよね」と懐かしむことができる、そんな構成になっています。

そういう意味では、僕の著作の作り方において、一つの形ができたかな……という感慨を抱いています。

しかし、次の著作『エピソードで語る教師力の極意』(明治図書)は、これとは真逆の書き方を敢えてしました。これはもう『魔法の…』などとは比べものにならないほど、お腹一杯になって消化しきれない書き方をしています。こんなものをだれが読むのだろうか、と自分でも思うほどです。

ただ、どちらが僕らしいかと言えば、間違いなく、『エピソード…』の方が僕らしいのです。そういう意味では、次の著作こそ、自分自身が心から愛着をもてる著作になるだろうと感じています。

今年は他にも、エンターテインメント性を意識してみたり、チェックリスト型の学級経営マニュアルをつくってみたり、国語学力の体系を提案してみたりと、実験的な著作に取り組んでみようと考えています。

こうした意味での第一弾が『教師力ピラミッド』です。

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1月15日(火)

1.始業式。部活動表彰。学活。その後、3年生は公立高校の願書。1・2年生は冬休み明け小テスト。給食なしで下校。下校指導。学年の同僚4人で定食屋へ。午後からは生徒指導関係の研修会。その後、学年会。更に進路事務。忙しいと言えば忙しいし、余裕があると言えば余裕がある、よくわからない一日。

2.校長にも教頭にも、「堀さんは飛行機が飛ばなくて、今日は出勤できないだろうと思っていた」と言われた。そうか、その手があったか。さぼりゃ良かった(笑)。

121207cover3.新刊『教師力ピラミッド』(堀裕嗣・明治図書)。いよいよ刊行されました。力を入れて書いたので、ちょっとした感慨があります。イクタケマコトさんのコラボです。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-049416-3

4.そういえば、考えてみると、『教師力アップ 成功の極意』(明治図書)もかなり実験的な著作ではあったな。割と売れたようだから、忘れてたけど……。前にも書いたけど、これ、僕は絶対に売れないと思ってた。いまでも、なぜ売れたのかが不思議でならない。

5.【拡散希望/残席6】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

6.大手新聞。成人の日の社説。例年と異なり、一方的な若者批判が見られなかった。古市寿憲が名指しで去年の社説を批判したことが要因だろうか。朝日の社説などは明らかに古市の批判を意識しているような書きぶりだった。まあ、いずれにしても大手新聞が若者を一方的に批判する悪弊は打開すべきだ。

7.二日連続で酒を呑んで早めに寝ようとしたら、夜中に目が覚めてしまう。さきほども日本酒を1合ほど飲んで20:30に寝たら、23:30に目が覚めてしまって、いまもうだうだしている。このリズムはよくない。そういや、師匠の森田茂之もこういう生活を数年間していて、急死したんだったな。そんなことを思い返したりもする。

8.拙著『教師力ピラミッド』に「若手からベテランまですべての教師に贈る、成長への羅針盤!」とある。編集者がつくったのか営業担当者がつくったのか知らないが、うまいキャッチコピーだなと感心させられる。

9.他の著作のキャッチコピーも調べてみると、『学級開き』が「学級経営は最初の1ヶ月で8割が決まる!成功の秘訣を伝授」、『行事指導』が「合唱コンは選曲で5割が決まる?行事指導の秘訣が満載!」、『教師力アップ』が「教師力アップの40の極意を、人気教師がガッツリ直伝!」。うーん。『教師力ピラミッド』が一番いいかな……。4冊の編集者の顔を浮かべながら、営業じゃなくて編集者がつけたんだなと感じる(笑)。

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1月14日(月)

1.熊本の疲れもあって、一日だらだらと過ごした。昼に起床。PCには一応向かったけれど、仕事をする気にはならずに、熊本紀行をつれづれに綴り、ブログにアップ。その後、夕食を食べて出レビを見ているうちにソファで寝てしまう。これだけ寝てもまだ眠い。そろそろ寝ようと思う。明日は始業式だ。

2.【拡散希望/残席6】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

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熊本紀行

Mevius1Mevius2_2今回の熊本紀行。まず第一に印象的だったのは、新千歳空港に着いて喫煙所で見たMEVIUS(=マイルドセブン)のポスターだった。「誰もが、しばしば自分の視野の限界を世界の限界だと思い込んでしまうものだ。(思想家/ドイツ)」とあった。僕が『教師力アップ 成功の極意』(明治図書)で強調し、様々な講座でもよく語る「明後日の思想」と同じ理念だ。

帰宅して調べてみると、ショーペンハウアーの言葉であるらしい。しかも、このあとに「しかし、幾人かの人は決してそうではない。彼らの仲間になりなさい。」と続くらしい。いま流行の「対話」という概念も、この心構えをみんながもてるようになることを目指しているに違いない。

手帳にドイツ思想の名言をメモし、ポスターの写真を撮ったところで、喫煙所でPCを開き、「相棒」SEASON 4の第7話を見始める。

Img_107352_8591104_1実はいま、『「相棒」に学ぶ教育論』という本を書いている。そのために年末からずーっと「相棒」を見続けている。杉下右京の教育に活かせそうな台詞、活かせそうな発想を収集するためだ。そのためにはまず、何はともあれ全話を見直さなければならない。暇な時間、隙間時間のほとんどをこの作業に当てている。約1ヶ月でSEASON 4までは完了しそうなので、あと1ヶ月半といったところか。

41atuyc31nl__sl500_aa300_飛行機に搭乗するとともに、大塚英志『物語消費論改』(アスキー新書/2012.12)を読み始める。「物語消費論」は「スクールカースト」や「マクドナルド化」とともに、この構造を知らずに教壇に立ってはいけないと考えているほど、僕にとっては重要概念である。20年以上の時を隔て、大塚がどのように「物語消費論」を発展させたのか、興味津々である。

61fgdymhgzl__sl500_aa300_ちなみに、1989年に刊行された「物語消費論」のオリジナルはこちら。当時もいまも、僕にとっては衝撃的な本である。

シートベルト着用サインが消え、PCが使えるようになるとともに、「相棒」の続きを見る。本当は「物語消費論改」を読み続けたいのだが、それは避ける。

Photo_2僕にとって「物語消費論改」は隙間時間がなくても絶対に読む本である。しかし、「相棒」は一度妥協して見なくても良いかという発想になってしまうと、きっとさぼり癖がついてしまう。そうするとこの本は出ないかもしれない。結果、編集者に迷惑をかけることになる。僕はそういう自分の性向をよく知っている。だから、こういうときにはやりたくなくても、「相棒」モードに自分を強引に戻すのだ。こういう自分をよく理解しての仕事の仕方をしなければならない。

羽田乗り換え。搭乗口の移動が1300メートル。合間は30分弱。遠い。1本煙草も吸いたい。参った。しかもキャリーバッグにPCバッグをもち、更にコートは北海道の冬用である。汗が噴き出すほどに急いで歩いた。

乗り換えのために急いでいる途中、向こうから僕をまじまじと見ている70歳前後のおじさんがいた。おじさんはどんどん僕に近寄ってくる。僕とおじさんの間が10メートルを切った頃、おじさつんは明らかに僕に話しかけようとしていることに気がつく。でも、そのおじさんに見覚えはない。かつての研究会の参加者だろうか。僕が失念しているだけか。でも、こんなに年配の参加者なんているだろうか。そもそもこんな年配の参加者なら忘れないのではないか。そんなことを考えていたら、おじさんが言った。

Enn1204251130008p1「ああ、びっくりした。尾崎紀世彦かと思った。」

馬鹿を言うな。去年死んだじゃないか。びっくりしたのはこっちだ。そんなことで他人を惑わすんじゃない!

4番搭乗口から熊本行きに乗り、「物語消費論改」、シートベルト着用サインが消えて「相棒」、再びサインがついて「物語消費論改」を繰り返し、熊本空港に着く。気温12度。雪なし。札幌を出たときにはマイナス8度。積雪3メートル近く。この差はなんだ。ほんとに同じ国か。

リムジンバスでホテルへ。その後、がらかぶ(かさご)の刺身と辛子レンコンで地元の「れいざん」を一杯。去年の熊本に来たときに一人で入ったBarに行ってカナディアンクラブ。Barのママは「来年も来るからね」と言った僕の言葉をちゃんと覚えていて、店に入った途端に「ああ、札幌の……」の言葉。なんと嬉しい。

20時過ぎに桃崎さんと合流。熊本の銘酒を飲みながら、楽しく会話。白石さん合流。辻川さん合流。大塚夫妻とすずけんさん合流。佐藤幸司さんも合流。すずけんさんにからんだような気がするし、幸司さんにCDをもらったような気がするけれど、たぶん10時過ぎくらいからは記憶がない。記憶が飛んだのは数年ぶりか。

それでも、ちゃんとモーニングコールはセットしたようで、8:15に起こされる。完全な二日酔い。今日の講座が午後からで良かった。

10時に会場に着く。白石さんの講座があり、その後、熊本大学の齋藤靖先生の講座。フーコーを引きながら僕らが体感している認識の枠組みの話。そしてそこにな言語が果たす役割の話。ちょうど前日にショーペンハウアーの言葉に出逢っていたので、ちょっと運命的なものを感じる。

齋藤先生の講座が終わり、さすがに具合の悪さを我慢しきれなくなってきた。なにせ会場は80人以上の熱気で熱い。二日酔いには耐えられない。それでカメラをもって散歩に出た。

Hodoukyou1Hodoukyou2会場近くに歩道橋があった。こんな歩道橋だ。

前日の夜に乗ったタクシーの運転手さんの話によると、熊本市では熊本城近くにあり、文化的・歴史的な場所と繁華街とを結ぶ象徴的な歩道橋であるらしい。確かに昇ってみると、四方の熊本の町並みを見渡せる。

Hodoukyou4_2Hodoukyou3_16しかし、下を見るとけっこうゴミが落ちている。

まさに「あ~あ」という気持ちになる。おそらく繁華街へと向かう人たちが悪気なく、当然のことのように捨ててしまったのに違いない。

Hodoukyou5きわめつけはこれだ。これでは意味をなさない。

「道徳的実践力」と言うけれど、実践力の前には認識力がある。問題がそこに存在するということに気付けなければ、行動のしようがない。認識力は実践力の前提なのである。まさに、「誰もが、しばしば自分の視野の限界を世界の限界だと思い込んでしまうものだ。」だろう。

ところが、人間は余裕がないと認識の視野が狭くなる。例えば、30分で1300メートルを移動しなければならない、おじさんとの余計な会話に興じている暇はない、そくんな状況の中でたとえ羽田空港の点字ブロックがずれていたとしても、絶対に気づくことなどできない。人の気持ちに余裕がなければならない、社会に余裕がなければならない、世の中に余裕がなければならないというのは、要するにこういうことなのだ。せかせかした社会、みんなが余裕のない社会は、絶対にマイノリティに優しくなれない。家族や恋人、友人といった狭い価値観に閉じこもりがちになる。そういうものなのだ。

政治も行政もマスコミも教育も、こういう視点に立って考えた方がいい。特に教師は、子どもたちから心の余裕を奪ってはいないか、ということにもっと自覚的であるべきだ。

というわけで、午後の講座は、新千歳空港のMEVIUSのポスターと熊本の歩道橋の写真とを枕にすることにした。僕には珍しい道徳の講座である。

前に立って参加者を見てみると、女性が6割をゆうに超えている。「マクドナルド化」と「昭和から平成の若者の性意識」の変遷の個訓点津を用意していたが、女性が多かったので後者はやめた。「マクドナルド化」と「環境調整型権力」の話に切り替えた。多くの女性には僕の「性意識の変遷」の話は刺激的すぎる。この御時世、あらぬ誤解を与えてもいけない。ただし、道徳はもちろん、現在の学校教育を考えるうえでは、インターネットと性刺激の問題は避けて通れない問題だということは意識した方が良い。

夜はセミナーが終わり次第、宴会が始まるまでの時間、17時過ぎから辻川さんやすずけんさんといっしょに一杯。特に福岡から平河力さんが来ていたので話し込む。18時半からは宴会。ここからは名前を出さないが、長崎の教頭先生や期限付き採用の女の子、地元の熱心な若い女の子、そして橋本先生とも1年振りにまたじっくりと会話を楽しみました。

二次会(三次会?)は恒例の「ビアホールMAN」。佐藤幸司さんと高田保彦さんがタイガーマスクのマスク(レプリカではなく本物です)をかぶってはしゃいでいました。個人情報保護法があるので名前は書きませんが、長崎県のある女性教師(中学校体育)が去年に引き続きものすごいパワーでした。

23:30頃お開きとなったので、再び、一人で、昨日行ったBarに行き、カナディアンクラブを飲みました。タカ&トシのトシにものすごく似ている客と、ジッタリン・ジンの春川玲子にものすごく似ている客と、ママとバイトのアヤちゃんとプロレスや落語の話で盛り上がり、1時過ぎにホテルに戻りました。メールを確認し、30分ほど講座の準備をして2時半頃寝ました。

熊本3日目。ALL堀裕嗣講座は50名以上の参加者。これまた女性が7割を超えていました。またまた「性意識の変遷」の話は封印。僕がよくやっている、例の「失恋」のワールド・カフェを体験してもらって、「環境管理型権力」によるコミュニケーション能力の醸成について補強しました。また、国語の模擬授業で僕の授業づくりの考え方を体験してもらって、3時間ほどの講座を終えました。

その後、桃崎さんと高田さんといっしょに熊本ラーメンの黒亭へ。30分行列に並んだ甲斐ありの、にんにくの効いたうまいトンコツでした。面は細麺ストレート。ちょっと山頭火のラーメンの雰囲気にコクをたしたような、そんな趣でした。

その後、熊本空港から羽田、羽田から新千歳と、また「物語消費論改」と「相棒」をお伴に帰ってきました。いろいろな意味で密度の高い熊本紀行でした。

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大阪の体罰問題

大阪の体罰問題。まずは自殺した男子生徒の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

そのうえでこの問題。体罰問題はとは別に部活動の在り方が議論になれば良いなと思う。

授業中や生徒指導中の体罰と、部活動中での体罰では、一般に教員の意識が異なる。部活は自己実現のために行っている顧問が多い現実がある。それは部活動というものの半端な位置づけと決して無縁ではない。

僕は数年前に、遠征先で落雷に遭った生徒への刑事責任を教員に求める判決が出たのを機に、部活動顧問から手を引いた。そんな不可抗力の責任をとらされてまで、部活動の顧問なんかやってられるか、と思ったことによる。それまではバドミントン部の顧問だった。

多くの教員は部活動顧問をボランティアだと思っている。だから、怒鳴りつける指導も、体罰も、他の場面よりも起こりやすいという構造がある。その指導の在り方(体罰という意味ではない。その顧問なりの部活指導の在り方という意味)に保護者からクレームが出たときにも、教員が強く出る可能性が高い。オレは生徒のためを思って、時間と労力を割いてやっているんだ、という理屈である。この構造が部活動での体罰が他の場面よりも多くなる、という根本的な原因である。なにせ「顧問は偉い」と自己認識されているのだから。

しかし、部活動を公務に位置づけるなると、勤務時間終了の17時で活動をやめることを批判できなくなる。もちろん、17時でやめては活動時間が30分程度になってしまい、部活動として機能し得ない。時間外勤務を強いれば特殊勤務扱いにしなければならなくて、特殊勤務手当を出さなければならなくなる。要するに、金がかかる。金のないこの国では採り得ない方策だ。もしこの方策を採ったとしたら、とてつもない金額になる。おそらく、宅間守の事件の影響ですべての学校につけられたインターフォン、自動解錠システムにかかった金額の数百倍から数千倍の金額が毎月かかることになるだろう。

結果、部活動はやる気のある教員による、ボランティア活動的な意味合いを帯びる。それが顧問の一部(熱心な教員が多いというのも事実である)が、自己実現と部活動の指導(部活動の成果)を同一視して更に熱くなり、体罰が生まれやすくなる。そういう構造がある。

今回も、体罰の対象は、活動をさぼっていたというタイプの生徒ではない。キャプテンへの体罰である。おそらく顧問本人の意識としては、自分の方針を浸透させて部活を強くするための「善きこと」として意識されていたに違いない。その「部活のため」が客観的には「自分のため」であったとしてもである。

この問題を、授業中や生徒指導中の体罰と同様に扱って、形だけの解決を図っても、きっと問題は解決しない。ほとぼりが冷めた頃、また同じ問題が起こることになる。それだけは、教師としての実感から間違いなく言える。

ただし、偉そうに言っているが、私は事、部活動に関しては数年前から「外野」の立場に過ぎない。これだけはもう一度、内省を込めて付記しておく。

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1月10日(木)

1.【拡散希望/残席11】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

2.【拡散希望】第3回教室実践力セミナーin札幌/堀裕嗣・山下幸/2013年2月9日(土)/札幌白石区民センター/定員20/若い教師のための学級開き・90日間システム/授業づくりのステップ/教室ファシリテーションへのステップetc…
http://kokucheese.com/event/index/68001/

3.【拡散希望】第20回国語科授業づくりセミナーin札幌/堀裕嗣・山下幸/2013年2月16日(土)/札幌白石区民センター/定員20/国語科授業づくりの原理・原則
http://kokucheese.com/event/index/68016/

4.出勤するも、ずーっと進路指導室に籠もって事務仕事。同僚とほとんど会話もしない一日だった。おかげで仕事はずいぶんと進んだ。退勤後、岩見沢へ。親父もお袋も割と元気だった。お袋とスーパーに行って、数日分の買い出し。これで熊本に行ける。明日から熊本に行くということが信じられない気分だ。

5.PC用にヘッドフォンを購入。これで飛行機の中でもDVDを見たりビデオを編集したりすることちができる。少しずつ、自分の生活スタイルにあったグッズが揃っていく。

6.原稿の請求が来た。はいはい。さぼっていた私がわるうござんした。しゃーないからやるか。

7.新刊『教師力ピラミッド』(堀裕嗣・明治図書)。いよいよ刊行されました。力を入れて書いたので、ちょっとした感慨があります。イクタケマコトさんのコラボです。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-049416-3

8.【ブログ更新】教師力ピラミッド~毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則
http://kotonoha1966.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/40-a07d.html

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1月9日(水)

1.【拡散希望/残席11】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

2.【拡散希望】第3回教室実践力セミナーin東京/堀裕嗣・山下幸/2013年2月9日(土)/札幌白石区民センター/定員20/若い教師のための学級開き・90日間システム/授業づくりのステップ/教室ファシリテーションへのステップetc…
http://kokucheese.com/event/index/68001/

3.【拡散希望】第20回国語科授業づくりセミナーin札幌/堀裕嗣・山下幸/2013年2月16日(土)/札幌白石区民センター/定員20/国語科授業づくりの原理・原則
http://kokucheese.com/event/index/68016/

4.今日は模擬試験。採点をし、副担任クラスの願書下書きの二次点検をしたり。同僚にちょっと効率的でない仕事の仕方があって、怒ったりもした。帰宅後は酒を呑んで眠り、いま起きた。これから少し原稿を書くことにしようと思う。

5.拙著『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版)に対して、ブログ「一歩一歩。進みたい笑」さんから書評をいただきました。http://blog.livedoor.jp/rika_nao/archives/22019277.html

6.目的が手段を正当化することはあり得ません。しかし、目的も定めずに手段ばかり考えている輩に、それを言う資格はありません。

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1月8日(火)

1.今日は特別、何もない一日だった。今年初めて会った同僚がちらほらいた程度。同僚に紹介された本がおもしろそうだったので、買いに行ったが在庫がなかった。最初からamazonにすれば良かったとつ後悔していたところに、僕の好きな著者の新刊が……。やっぱり本屋には行くもんだ。今日もこれから夏田冬蔵を呑もう。

2.自ら物語を構築することは主体的な行為に見えるが、構築した瞬間にその物語に呪縛される構造をもつが故に受動的でもある。そして自らの構築した物語に拘泥すればするほど、その受動性は増大していく。web上にそうした受動性が溢れていることに危機感を覚えるが、自分とてその構造から自由ではない。

121207cover3.新刊『教師力ピラミッド』(堀裕嗣・明治図書)。いよいよ刊行されました。力を入れて書いたので、ちょっとした感慨があります。イクタケマコトさんのコラボです。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-049416-3

4.だれかを攻撃することで自らの主張を正当化する手法だけはとるまい。何かを否定することで自らの主張の妥当性を担保する手法もとりたくない。攻撃しても否定しても、この世にある者も物も断固としてあるのだ。必要とする人がたとえ少数であったとしても、必要とする人がいる以上は融和策を考えたい。

5.橋下知事の体罰容認発言さえ僕は攻撃したくない。対峙したところで問題は解決しない。体罰を必要と考える人がいる、その事実を認める。では、なぜ、それを必要と考える人がいるのか。それがわかればメタレベルの解決策が、改善策が、偉大なる妥協策が見つかるかもしれない。僕はそんなふうに発想する。

6.僕にとって、知性とはそういうものだ。

7.他人を攻撃することも、理念を否定することも、僕は35歳までにもう一生分してしまったように感じている。そうして失ったものの大きさに唖然とすることがある。

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効率性と計算可能性と予測可能性

ジョージ・リッツァによれば、〈マクドナルド化〉の観点は三つです。

第一に〈効率性〉。マクドナルドでは、注文を受けてからハンバーガーが1個つくられるまで何十秒……というライン化が行われています。このような効率化が徹底して行われているために、私たちは注文してからどのくらいで食事にありつけるのかということがわかる、そういう仕組みになっているわけですね。しかし、それだけならばさして珍しいことではありません。多くの外食産業が食事をつくるところまではライン化しているはずです。

おそらく、マクドナルドの斬新さは、本来サービスを提供する側が行うべき労働を客に分担し、客の行為までをもラインに組み込んだところにあります。食事をつくることから食べること、そして片付けることに至るまで、時間が短縮されるように徹底的にライン化されているところに、マクドナルドの最大の特徴があるわけです。

第二に、〈計算可能性〉。前にも述べましたが、マクドナルドでは店に入ったときに十人程度の人たちがカウンターに行列をつくっていたとしても、安心して並ぶことになります。それはマクドナルドの高度な効率性によって、十人程度ならどのくらいの時間で自分の番がまわってくるかを計算することができるからです。ここが店の混み具合によって、自分の番がいつ来るのかわからない、他のレストランや喫茶店等との最大の違いです。

もちろん、ハンバーガーという商品の性質上、食事自体の時間もそれほどかかりませんから、何時までに食事が終わるという時間の計算もできます。私たちが昼休みを半分しか使わずに食事ができると確信できる外食産業の代表格、それがマクドナルドであるわけです。

一般に、外食産業はメニューを増やし、お客さんに選択幅を広く与えることを考えます。ロイヤルホストにしてもびっくりドンキーにしてもガストにしても、席に座り、メニューを見ながらどれにしようかとあれこれ考えることが一つの楽しみです。しかし、マクドナルドは違います。一定のメニュー数から決して増やさないわけですね。せいぜい季節ものの限定メニューがある程度。私たちはメニュー選びに迷う必要がありません。

また、メニューが限定されているということは、単品とセットもののメニューの違いによるお得度の計算も、客にとって容易であるという機能をもちます。ハンバーガーとドリンクだけじゃなくて、少しだけポテトも食べたいな……というときに、ハンバーガーとドリンクを単品で頼むのと、ポテトもついたセットで頼むのと、どの程度金額が異なるのかということが一目瞭然です。考える余地なく、「今日は我慢しよう」とか「じゃあセットで!」と言わせてしまう構造になっているわけです。

このように、マクドナルドは限定的なメニューによって、客に様々な〈計算可能性〉を保障しているのです。同じことは牛丼の吉野屋や一部のラーメンチェーン店などにもいえます。待つことやわずらわしいことが嫌いな客層には、とても重宝されるわけです。

第三に〈予測可能性〉。マクドナルドは全国一律同じ味です。北海道に旅行に行っても沖縄に旅行に行っても、蟹が入っていたりゴーヤが入っていることはありません。あの特別においしくはないけれど、それほどまずいというわけでもないあの味が、全国津々浦々、どこでも食べられます。それはつまり、マクドナルドに行こうと思うと同時に、あの味を楽しめるという見通しがもてることを意味します。また、店舗の構造においても、北海道から沖縄まで、どの店舗もそれほどの違いがありません。安心して入店することができるわけですね。

更に大事なことは、マクドナルドではいやな思いをすることがない、という見通しをもてることです。どの店舗に行っても、必ず一律の笑顔で「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりですか?お持ち帰りですか?」から始まる無機質な会話しかなされないことが保障されています。

コンビニの店員のように、人によってだらだらとした態度が見られたり、レジの会計に時間がかかってイライラするというようなこともありません。店員の完全な均質化が保障されていて、嫌な思いをしないような笑顔の接客と決してこちら側に入り込まれない無機質さとが共存しているわけです。これも見通しがもてることの大切な要素といえます。

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1月7日(月)

1.芝居を観に行って、すぐに寝て、4時間後に起きて、夜中に仕事をしている。今日は出勤日だから朝から学校に行くけれど、まだ4、5時間は仕事ができる。寒くはあるけれど、静かでいい時間だ。こういう時間は仕事がはかどる。

2.夏のバカンスを胸に秘め 普通に結婚してゆくの…… こんなフレーズがよくユーミンから出てくるなあと感心させられる

3.教育技術や授業ネタを紹介して垂れ流す提案の在り方は、そろそろ改めなければならない。一つ一つの教育技術の意味を書ける書き手がたくさん現れなければならい。そのとき、経験は語っても良いが、伝聞は語ってはいけない。東浩紀は出してもデリダは出してはいけない。ジョージ・リッツァは出しても、フーコーは出さない。それは優しさであり誠意であり、書き手としてのある種の倫理だと思う。

4.暗い廊下を歩いていたら、犬のおもちゃを蹴飛ばしてしまった。寝室で寝ていたはずの犬が2匹とも飛んできた。犬はほんとうに寝ているのだろうか。少なくとも、僕たちと同じ意味では寝ていないはずだ。

5.学生時代、カラオケで「マイ・ウェイ」とか「昴」とか歌ってしんみりしていてたおじさんをよく見かけたけど、あれって気持ちいいのかな。そういや、バイトしてたとき、「夢一夜」をこうせつ以上にうまく歌うおじさんを見て、びっくりしたことがあったなあ。あのおじさん、まだ生きてるかなあ。

6.カラオケBarでバイトしてた頃、よくリクエストされて歌っていた「完全無欠のロックンローラー」に相の手入れてくれてたハウスマヌカンのお姉ちゃんたちも、もう五十過ぎてるだろうなあ。みんな元気かなあ。毎日愚痴ってるんだろうなあ。あんなに綺麗なお姉ちゃんたちだったけど……。

7.女子学生のプリクラの変顔の意味を分析してたら、自分が学生時代のことを想い出した。そこからまだBOXじゃなかった頃のカラオケを想い出した。この想い出は今回の原稿には無駄だから、頭の中の引き出しにしまっておこう。いつか取り出して使うこともあるかもしれない。

8.みんなそろそろ起き出してきたなあ。全国的には今日始業式だもんな。年休取ろうと思えば気軽に取れる北国とは違うもんな。

9.トリ系の顔かあ……。分析枠組みとして面白いかもしれない。

10.なんか眠くなってきたなあ。4時間しか寝てないもんな。年休とって寝るかなあ。今日中にやらなきゃならない仕事も別にないしなあ。強いてあげれば学年末テストの作成だけど、やり始めりゃすぐだからな。でも、今日年休とったら明日も取るなあ。そういうのって癖になるからなあ。この1週間は北国に生まれて良かったっていう1週間だなあ。まあ、夏休みには反対の1週間があるから当然なんだけど。

11.今日は本当に久し振りに、自分の成長の糧になりそうな読書家と出逢うことができた。ここ7、8年、僕が興味を抱くような読書家と出逢っていなかったので、こういう喜びを忘れていた自分に気がついた。出逢っていなかったというよりも、僕が驕っていて求めなかったのかもしれないなともちょっと思った。学年末テストをつくり、同僚に点検してもらい、印刷も終えた。帰省していた同僚から地元の銘酒をお土産にもらった。いろんな意味で、いい一日だった。

12.夏田冬蔵
同僚の買ってきてくれた酒。すごかった。半端じゃなかった。ふわり香り。喉越し。コク。4割にして吟醸の中の吟醸だった。また横手だ。横手に住みたい。生まれ変わるときは必ず横手に生まれたい。

13.寝不足のうえに酒呑んで寝たのに、また4時間で目が覚めてしまった。もう出勤モードに入らなければならないから、普通に寝たいんだけどな。さすがに今日は朝まで起きていようとは思わないな。

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ニコニコ巡視とカウンセリング・マインド

実はこうした〈マクドナルド化〉の原理は、昨今、学校教育にも意識的・無意識的に導入されています。

例えば、みなさんは休み時間に、ニコニコしながら、或いは生徒たちと半分遊びのような会話を楽しみながら廊下巡視をしてはいないでしょうか。しかもそれは、生徒指導部や学年の方針として、「いかにも監視という雰囲気の巡視は避ける」というように取り決められた結果として行ってはいないでしょうか。

私は1966年生まれですが、私の中学生時代は校内暴力の真っ只中の時代で、廊下には竹刀をもった生徒指導の先生がいたものでした。何か悪いことをしたときにも、自分の話などはほとんど聞いてもらえず、とにかく怒鳴られる……そういう指導を受けてきたものです。

実はこのことは、私たちの受けてきた教育からいま私たちが行っているような教育へと、時代がシフトしてきたことを示しています。つまり、「中学生らしい生活態度」や「あるべき学生の姿」のような理念を前面に押し出しながら、「そうあるべきである」といった指導から、生徒たちに嫌な思いや疑問を抱かすことなく、周りに迷惑をかけたり周りから非難されるような生活態度を改めさせていく指導へ、というシフトです。教師の指導姿勢として考えれば、要するに「これが正しい」というメッセージをひたすら投げかける指導姿勢から、マクドナルドのようにそうとは気づかせないままに目的を達成する指導姿勢へと変化してきているわけです。

また、生徒指導研修会では、いわゆる指導事案のが起こったときにも「カウンセリング・マインド」が奨励され、当該生徒によく事情を聞き、生徒の立場を理解たうえで説諭するように、といったことが基本方針として示されてはいないでしょうか。

これも〈マクドナルド化〉の一種です。「カウンセリング・マインド」は一般に「共感的理解」とも呼ばれますが、いくら共感的に接したとしても、最終的な落としどころはもともと決まっているのです。上からガン!と指導するのではなく、生徒の立場に寄り添い、待つ姿勢を旨に過程を重視しながら教師の想定する学校や社会との調和に少しずつ近づけていく、そういう指導・援助の在り方に過ぎません。

ためしに「僕はどうしても人を殺したいんです」と言った生徒と相談活動をすることを考えてみると良いでしょう。だれもが「きみの気持ちはわかるよ」とは言えないはずです。誤解を怖れずに言えば、「カウンセリング・マインド」とは、生徒たちに共感的な姿勢を示しながら予定調和に誘っていく営みのことなのです。

マクドナルドが顧客にネガティヴな感情を抱かせずに目的を達成するタイプのサービスにシフトさせたように、学校教育もまた多くの場面で、生徒にネガティヴな感情を抱かせずに指導目的を達成するタイプの手法が奨励されてきています。この30年の教育改革の動向は、学校教育の〈マクドナルド化〉へのシフトであったという側面があるのです。

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1月6日(日)

1.先月21日・22日と名古屋で死ぬほど呑んで以来、酒が呑みたくなくなっていたが、やっと少し酒が呑みたいなと思うようになってきた。而今のうまさと「なんでも話そう会」のノリについつい呑んでしまった。特に楠本ってヤツがくせ者だった(笑)。でもまあ、きっと店が良かったんだな。また行きたいと思う店だった。

111207cover2.僕の学級開きの本がamazonで急に売れ始めて在庫切れになった。そろそろ学級開きについて考え始める時期なのだろうか。まだちょっと早い気がするのだが……。読むのはあとだけど、一応手に入れておこうということなのかな。

3.20年近く、亀田一美をカメダカズミだと思っていた。今日、かつての演劇部の子とメールのやりとりをしていて、カメダヒトミだということを知った。カメ、ごめん。

51ihj3yhdl__sl500_aa300_4.HIGH COUNTRY SNOW/DAN FOGELBERG/1985
★★★★★
やっと「REQUIEM」から脱した。でも、このアルバムを聴き始めた途端に楽しくなってしまって、原稿がちっとも進まない。

5.明治図書のシリーズ本、糸井登・青山新吾・中村健一に続いて、金大竜・赤坂真二が脱稿した模様。既に僕と石川晋と山田洋一も脱稿している。何より何より……。

6.【拡散希望/残席12】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

7. 【拡散希望】ファシリテーターズ・ミーティング/2013年1月20日(日)/札幌市内/2000円/定員30名/堀裕嗣・宮本奏・松田剛史・木村めめ・岡山深雪・岡山洋一
http://eseminadou.s105.coreserver.jp/myimg/event/2013012001.pdf

8.教師にとって最も必要な資質……。それは「いつも笑っていること」です。これを基準に自分の教師生活を振り返ってみることが必要です。そうするとすべきことが見えてきて、すべきでないことも見えてきます。やらなければならないことが見えてきて、やりたいことの優先順位も見えてくるようになります。

9.教師に必要な資質。 孤独に耐える力をもつこと。教師の仕事の第一は生徒と良好な関係を築くことではありません。彼らを正しい道へと導くことです。そして第二に、自分の判断した正しさが本当に正しいかを常に疑い続けることです。それが結果として、生徒との良好な関係を築くことにつながるのです。

10.教師に必要な資質。無駄とわかっていることに取り組めること。教師は人間相手の商売ですから、常に成果が上がるわけではありません。すぐに効果があらわれることなど皆無です。しかし、それを続けるということでしか、成果が上がることはないのです。「それでもやる…」 教師の仕事はその連続です。

11.教師に必要な資質。子どもといっしょに馬鹿げたことに一生懸命取り組めること。そしてそれを楽しめること。人はいっしょに笑った分だけ人間関係を築くことができます。子どもたちとの関係も同じです。行事やレクだけでなく日常会話でも子どもたちとともに楽しむ姿勢が必要です。できれば、PTAとも。

12.教師は何より変化を恐れます。変化しないことが最も楽で、安全で、安心だからです。でも、〈変化からの逃避〉は、実は〈成長から遁走〉を意味しています。変化のないところに成長などあり得ないからです。変化しないこと、成長しないことは子どもたちの前に立つ資格を問われるほどの重大事なのです。

121009cover13.新刊はtwitterのつぶやきから生まれた本です。僕のツイートのうち、リツイートの多かった40を選んで、それぞれについて平均3頁の解説を施したものです。まとまり感には欠けますが、まずまず私の力量形成観を書けたのではないかなあと感じています。

14.結局、元旦に少し酒を飲んだだけで、2日から一滴も酒を呑んでいない。家の珈琲も切れて、買いに行くのも面倒で、ここ2日は珈琲も飲んでいない。紅茶を飲んでいるけれど、なんとなくしっくり来ない。でも、珈琲を買いに行くのはやはり面倒だ。

51jthw5dxl15.REIMY BRAND COMPLETE/麗美
★★★
麗美の「青春のリグレット」は本当にいい。この程度のシンガーで終わってしまったのはとても惜しいと思う。もっともっと聴きたかった。

16.【拡散希望/残席11】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

17.さて。そろそろシャワーを浴びて、教え子の芝居を見に行く準備でもするか。けっこう特殊な芝居のようだから、心して観なくちゃな

18.帰ってきました。楽しいお芝居でした。さて、現実に戻って原稿執筆です。

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マクドナルド化する社会

では、いったい、どうすればそのような〈縦糸〉が張れるのでしょうか。ここでは、『マクドナルド化する社会』(ジョージ・リッツァ著・早稲田大学出版会・1999年)をヒントに考えてみることにしましょう。

マクドナルドに行ったことのない読者は、おそらくいないでしょう。月に一、二回食べるとという方さえいらっしゃるかもしれません。それほどマクドナルドは今日、私たちの生活に密着したファーストフード店になっていることは間違いありません。

少し遠回りになりますが、ここではまず、マクドナルドに代表されるファーストフード店の構造について考えてみます。

夏休み中のある日、同僚と二人で、昼休みにマクドナルドに行こうと考えたとします。店をちょっと覗いてみると、カウンターには十人ちょっとの行列。うん、これならそれほど時間はかからない。1時には学校に戻れそうだ。よし!昼食はマック(関西はマクドですね・笑)にしよう!こう発想するのではないでしょうか。

しかし、これがロイヤルホストやびっくりドンキーならどうでしょうか。店に入った瞬間に目に飛び込んでくる十人以上の行列……。その時点で、こんなに待つのはいやだな、他をあたろうか……そう考えて、他の店にすることを検討するのではないでしょうか。

さて、話をマクドナルドに戻します。列に並ぶとほどなく自分の順番。このセットでドリンクはホットコーヒー、ポテトはM、というふうにすぐに決まります。数百円を支払い、トレーにすべてが並んだところで席へ。いつもの味、いつもの量で、ちょっとだけおしゃべりに花を咲かすとごちそうさま。カラになったカップやハンバーガーの包み紙をくずかごへ、トレーを所定の場所に片付けて……。さて、お腹もふくらんだし、仕事に戻るか……となります。

しかし、ここで考えてみましょう。もしもこれがロイヤルホストやびっくりドンキーだったら、と。ウェイターさんやウェイトレスさんに「お客様、商品をご自身でお席までお運びください」と言われたら、納得できますか?「コーヒーカップや手ふきのペーパーを自分で所定のくずかごに分別して捨ててからお帰りください」と言われたらどう感じるでしょうか。怒り出さないでしょうか。そうです。ロイヤルホストやびっくりドンキーならば、どれもこれもウェイターさんやウェイトレスさんがしてくれることを、マクドナルドでは私たちは何の疑問も抱かずに自分でやってしまっているのです。

ついでに言うなら、実はマクドナルドでは、椅子を硬い素材でつくり、長く座っていることができないようにして客の回転をよくする、という工夫がなされているそうです。更に言えば、店が込んでくると、客が会話しづらいようにBGMのボリュームを上げるということもマニュアル化されているとも聞きます。

しかし、私たちは一般的に、そんなことにはまったく気づかずに楽しく食事をし、満足してマクドナルドをあとにしているのではないでしょうか。これはいったいどうしたことなのでしょう。

このように、顧客に嫌な思いや疑問を抱かせることなく、本来サービスを提供する側がすべき労働を顧客の側に分担させたり、対立や障壁を避けながら目的を達成したり、徹底した効率化によって全国どこでも均一化したサービスを提供したりする社会を、ジョージ・リッツァは〈マクドナルド化〉と呼びました。

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1月5日(土)

1.REQUIEM/MOZART/KARAJAN/BERLINER PHILHARMONIKER ★★★★★ けっこう原稿が進む。

2.ひと晩中、「REQUIEM」で原稿執筆。国府さんに「くらい」と言われたが、原稿が進むんだから仕方ない。

3.【拡散希望/残席13】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

4.1月20日(日)に札幌市内でおもしろそうなファシリテーションイベントが行われることになりました。私も参加します。他には岡山さんや松田さんなど、お馴染みのファシリテーターが集います。市内の各種NPOからもファシリテーターが集うようです。いまから楽しみです。

5.3月に神奈川県、6月に東京都、8月に新潟県、埼玉県、東京都、11月に熊本県に伺うことになりそうです。

6.今日は晴れています。高速も通行止めになっていないようなので、これから岩見沢の実家に向かいます。今夜も夜中から天気が荒れるようです。函館イベントの最終日の夜はいつも荒れます。私は帰りに死にそうになった人を一人知っています。

7.岩見沢から戻ってきました。親父とお袋を連れて温泉に行ってきました。高速は凍結で50キロ規制。岩見沢の国道は既に中央分離帯に除雪した雪が2メートル。対向車線が見えない状態でした。しかし、去年の教訓を生かしてか、除雪が行き届いています。ひどいのは札幌です。除排雪が間に合っていません。

8.「第九」を生で聴いてみたいと思ったことはないが、「Dies irae」は生で聴いてみたいなあ。きっとものすごい迫力なのだろうな。

9.明日の夜は久し振りに教え子の芝居を観に行く予定。この子の芝居を観るのはたぶん、10年振りくらい。どのくらい成長しているのか、年齢を重ねてどのくらい持ち味をつくりあげているのか、楽しみである。聞くと、会場は僕の妹の店だと言う。こんな偶然があるのだなと驚いた。

10.知れば知るほど知らないことが増えていく。知ることは知らないことを新たに知ることに他ならない。学べば学ぶほど学びたいことが増えていく。学ぶことは学ぶべきことを学ぶことに他ならない。人の師と呼ばれる人たちに、このことを体感せぬ人が多すぎる。

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意図的・計画的な営みとしての〈縦糸〉

教師が社会の在り方を伝えるメディアとして、他のメディアに比して一つだけ優位に立てる要素があるとすれば、それはおそらく、生徒たちに直接にかかわることができるということでしょう。それも家庭環境や交友関係、学習成績や生活状況など、かなり広く深い情報を把握しながら、直接的に相互コミュニケーションを図ることのできる、数少ないメディアの一つということができます。

ただし、この点に関しても「そうだそうだ」と手放しに喜ぶわけにはいきません。教師の生徒たちへの直接的なかかわりは生徒にとって、保護者はもちろん、友人や部活の先輩などよりも圧倒的に密度が低いということを自覚しなくてはなりません。おわかりかと思いますが、ここでも教師が相対化されるという宿命からは逃れられないのです。

しかし、すべてに対して教師がもつアドバンテージが一つだけあります。様々なメディアや生徒の日常的な人間関係にはない、教師だけが生徒たちに接するうえでもっている特徴が一つだけあります。それは教師だけが生徒たちに接するうえで、意図的・計画的な営みを施しているということです。この学校教育がもつ本質を侮ってはなりません。

学級づくりにおける〈横糸〉張りは本質的に偶然性に支配されます。もちろん、〈横糸〉を張ろうとする手立ては教師が意図的・計画的に施すわけですが、その営みがどの程度功を奏すか、どの程度の意図したとおりに計画したとおりに成果を上げるかについて、教師がコントロールすることはできません。そこに本質があります。従って、〈横糸〉張りは手を換え品を換えて、様々なコミュニケーション活動に取り組ませることによって、それらの活動の総和として少しずつ〈横糸〉が張られることが期待される……そうした営みです。

しかし、〈縦糸〉張りは違います。教師が自分が生徒や保護者に相対的に捉えられていることを熟知したうえで、一つずつ手を打っていくのです。また、それは「怖がられる教師」や「威圧する教師」ではなく、「信頼される教師」を目指して行われなければなりません。常に学級全体を見ながら、同時に学級の生徒たち一人ひとりとも意図を結んでいく、そんなイメージの営みです。

しかも、〈縦糸〉あっての〈横糸〉ですから、学級づくりに〈縦糸〉は、年度当初、できるだけ早い時期に張ってしまうことが求められます。威圧するのでなく、口うるさく細かなことを指摘し続けるのでもなく、生徒たちの信頼を勝ち得るのです。いま、教師にはこうした高度な力量が求められていると言って間違いありません。

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1月4日(金)

1.【拡散希望/残席14】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

2.昼間は出勤。何ということもなく一日が過ぎる。いただいた年賀状に返信する。と言っても、今年は祖母が亡くなったので喪中葉書。「ことのは」で書いたスピーチ本ゲラの二校。自分の執筆分だけなので、短時間で終わる。岩見沢に行こうと思ったが、高速が通行止め。国道も視界なし。あえなく引き返す。

E0051174_21053263.右京:しかし、不思議でなりません。僕がこの庭を拝見したいと言ったとき、なぜあなたは、拒否なさらなかったのでしょう。我々に犯行現場を案内するなど、大胆すぎたのではありませんか。/龍ヶ崎:自分でもよくわかりません。どうしてあなたたちをここに連れてきてしまったのか……。もしかしたら、少しだけ、あなたが父に似ていたからかもしれません。/右京:(頭を下げて)恐縮です。/昨夜、「相棒」SEASON 3 の第14話を見て以来、涼風真世に恋してる。調べてみると、僕より年上で驚いた。品格のある役がよく似合う女優である。この写真が気に入った。

4.今日は朝から何も食べていない。珈琲をたぶん5杯飲んだだけ。腹減ったなあ。でも一度書斎に上がってしまうと、階下の居間に行くのさえ面倒である。書斎にあるカロリーメイトと缶珈琲で我慢するか……。僕は四十路も半ば過ぎだというのに、いまだにこういう不規則な生活から脱することができない。

5.今日は「フィガロの結婚」。いま、第3幕です。軽快な優雅さが好きです。

6.月並みだが、カロリーメイトはフルーツ味が抜群にうまい。オリジナルのチーズ味には懐かしさはあるが、うまみはない。

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学級づくりの〈縦糸〉 その出発点

生徒たちとの間に〈縦糸〉を張ると言うと、多くの中学校教師は「生徒たちになめられないこと」と思うようです。

生徒を威圧し、細かいことに至るまで教師の言に従わせる。ときには生徒を怒鳴りつけてでも、教師の指導したとおりに行動させる。それが「教師-生徒関係」の基本である、というわけです。私も長い中学校現場生活で、そういう教師をたくさん見てきました。

しかし、そうした教師を観察していると、中学1年生の1年間はなんとかなるのですが、2年、3年と生徒たちが肉体的にも精神的にも成長してくるに従って、生徒たちに対する抑えが効かなくなり、教師の立場が後退していくことが多いようです。或いは、2年生になっても3年生になっても、同じように威圧したり怒鳴りつけたりして、確かに生徒をその場で指導に従わせることはできるのですが、生徒たちと心情的に離れてしまい、その時々に指導が通ってはいるのですが、生徒たちの心には響かない、落ちないという状態に陥る、そんな例も多々見られます。いいえ、最近は、このような教師の威圧が中学1年生の1年間さえもたせることができず、1年生の2学期後半あたりになると、生徒たちが崩れ始める例も少なくありません。

私はこのような教師たちは、現在の時代状況を把握していない教師たちだと感じています。自分が教師になった頃、つまり、まだ牧歌的な学校教育が行われ、教師が従来型の指導でやっていられた頃の感覚で生徒たちに接している、そんな教師たちに見えるのです。

現在は、学校教育が相対化される時代です。教師が相対的に見られる時代なのです。つまり、かつてのように、教師という存在が「良きこと」「正しいこと」を代表するとは見られていない、そういう時代になっているのです。 かつて、教師は社会を映す鏡のような、代表的なメディアでした。生徒たちは教師以外のメディアから社会の在り方を学ぶことができなかったのです。それがラジオができ、テレビが生まれ、インターネットが普及し、いまや携帯端末がパーソナル・メディアとして生徒たちとともに移動している時代です。社会の至る所にある素人の撮影した画像や映像が、全国どこでも、いつでも見られる時代です。

国名を挙げるのは避けますが、日本の周りには、いまだに国民に対して情報統制を行おうとしている国が複数あります。私たちは日々、そのニュースを見ながら、その政府の努力を「無駄な努力」だと、どこか嘲笑している雰囲気がないでしょうか。ネット情報を完全に統制することなど不可能だよ、と。また、ネット情報を得た者から口伝えに伝えられる情報の拡散を止めることなど不可能だよ、と。そして何より、そういう国々において、インターネットを通じて、そうした国々の国民に情報が行き渡ることを良いことだと感じているのではないでしょうか。

しかし、いま学校がしていることは、そのアジアの強権的な国々と同じことなのではないでしょうか。携帯電話の学校への持ち込みを禁止し、ネットやゲームに接する時間を極力少なくすることを奨励し、ホームページやブログの開設、SNSへの参加をできるだけ生徒たちから遠ざけようとする、そんな「無駄な努力」を積み重ねて、うまくいかないと嘆いている……それが学校の現実なのではないでしょうか。

私は何も、ネットにおける受信・発信を奨励せよと言っているわけではありません。時代はこういう時代なのだから、禁止しようという「無駄な努力」をするのではなく、この現実を認めたうえで有効な対抗措置を考える……そういう発想をもつ方が現実的だと言っているのです。教師というメディアがいくら学校的な正しさだけを主張しても、テレビやネットといったメディアによって浴びせられる情報に対抗できるわけがない、と主張しているのです。

もう一度、言います。いまや、学校教育は相対化され、教師の指導も相対的に捉えられてしまう時代なのです。私たちはまずこのことを、しっかりと肝に銘じなければなりません。ここから出発しなければ、現在の教職員の多忙感、学級経営・生徒指導の徒労感から抜け出すことはできないのです。

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1月3日(木)

1.【拡散希望/残席17】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

2.わけあって、年末からずーっと「相棒」を見続けている。DVDを借りてきて、PRE-SEASONからすべて見続けている。現在、SEASON 3の第9話。SEASON 2~3には傑作が多い。バディ物としての完成度も高い。やっぱり相棒は亀山薫の頃が一番良かったのだなと改めて思う。

3.【参加ご希望の方はお急ぎを。既に別のアナログ申し込みで定員近くまで達しているそうです。】
第68回道徳授業改革in熊本/2013年1月12日(土)・13日(日)/熊本市国際交流会館/鈴木健二・佐藤幸司・堀裕嗣他/3000円
http://kokucheese.com/event/index/55408/

4.W.A.モーツァルト「交響曲 第25番 ト短調より 第1楽章」 様々な映画、様々なドラマでよく印象的に用いられることが多い。確か映画「アマデウス」でも冒頭に用いられていた記憶がある。僕も自分のつくる舞台で何度も使ったことがある。

5.「相棒」新春スペシャルを見終わった。謎めいた布石をたくさん打ち、それが後半になってどんどん解決していく。最後の最後まで謎解きで展開される。脚本の構造としては見事である。でも、構造だけでできていて、ディテールの描き方があまりに寂しい。有能な脚本家が陥りがちな展開だと感じた。

6.一昨年の南果歩をゲストに招いた「聖戦」は素晴らしかった。あの回想シーンの連続は視聴者を南果歩に感情移入させるのに十二分な描き方だった。脚本は古沢良太である。なぜ彼を使わないのだろうか。そういえばかつて評判の良かった「バベルの塔」も彼の脚本だった。今作にはまだ一度も登場していない。

7.立場や地位によって、まったく話が通じない、発想の仕方がまるで違っていて、相手が異星人のごとく見えることがある。それは言葉自体が異なるのではなく、コンテクストが異なるからだ。コンテクストとは置かれた状況のことではない。それぞれが心情的に深い思い入れをもっている対象が異なるのだ。それが理解できれば、意外と解決策はあるものである。こんな言葉では実感がわかないかもしれないが、この構造によって、保護者と致命的な対立関係に陥った教員を数多く見てきた。

8.【拡散希望/残席16】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

9.「相棒」SEASON 3の視聴。第17話まで進んだ。18話と19話は明日にしよう。明日、またTSUTAYAに行って、SEASON 4を借りてくることしよう。好きなドラマも仕事で見るとなると突かれるものだということを初めて知った。でも、良い経験になっている。おやすみなさい……。

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『今どきの子どもはこう受け止めるんやで! 親と先生へ伝えたいこと』

『今どきの子どもはこう受け止めるんやで! 親と先生へ伝えたいこと』

多賀一郎

黎明書房/2012.11

★★★★

61yzkfviil__sl500_aa300_多賀さんのものの見方がよくよくわかる一冊だ。こうした教育エッセイみたいなものが教育書の主軸からはずれて、技術ばかりを喧伝するような出版状況になって久しいけれど、教育書っていうのはこんなふうに、優しく、そして易しく伝えるべきなんだと思う。

冒頭に紹介されている絵本『ねえママ』を読んでみたくなった。

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1月2日(水)

1.【拡散希望/残席23】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

2.【拡散希望】第3回教室実践力セミナーin東京/堀裕嗣・山下幸/2013年2月9日(土)/札幌白石区民センター/定員20/若い教師のための学級開き・90日間システム/授業づくりのステップ/教室ファシリテーションへのステップetc…
http://kokucheese.com/event/index/68001/

3.【拡散希望】第20回国語科授業づくりセミナーin札幌/堀裕嗣・山下幸/2013年2月16日(土)/札幌白石区民センター/定員20/国語科授業づくりの原理・原則
http://kokucheese.com/event/index/68016/

41suu70s1l__sl500_aa300_4.高速道路を走りながら、今年最初に聴いた曲は松山千春の「大空と大地の中で」だった。ホルンの前奏が流れ始めた途端、夜の高速道路にさえこの曲ははまるのだなあ…と感じた。その場が北海道である限り、いつでも、どこにでも似合う曲なのだろう。僕の中ではもう30年以上、北海道のテーマソングである。

5.今年、amazonからメールで最初に届いたお勧めの本が自分の本だった。なんだか複雑な気分だ。

6.人それぞれ、どうしても譲れないもの、どうしても譲れないことをもっている。この、どうしても譲れないもの・こと以外は大胆に譲ることができる、そういう人を世間は「大人」と呼ぶ。どうしても譲れないもの・ことが意識されていない、まだ意識できていない、そういう人を世間は「子ども」と呼ぶ。

7.「相棒」新春スペシャル
酒井和歌子の使い方が気に入らない。事件の契機をつくる老婆として、冒頭に死なせてしまうなんて……。ひどいじゃないか。
こんな使い方をするにはまだまだ美しすぎるだろ。63歳か……。ほんとうに子どもの頃から、大ファンである。この国で最も美しい女性だと思っている。

8.【参加ご希望の方はお急ぎを。既に別のアナログ申し込みで定員近くまで達しているそうです。】 第68回道徳授業改革in熊本/2013年1月12日(土)・13日(日)/熊本市国際交流会館/鈴木健二・佐藤幸司・堀裕嗣他/3000円http://kokucheese.com/event/index/55408/

9.お茶漬けが食べたい。豪華な食事にも、普段は飲めない旨い酒にも飽きました。今年はお茶漬けを食べたくなるのが早いなあ……という気もしますが。お茶漬けと漬け物。なんだかんだ言って、これが一番です。永谷園万歳!あとは熱い味噌汁でしょうか……。味噌汁だけは永谷園ではいただけませんね(笑)。

41mgkphkfl__sl500_aa300_0.SOMEDAY/SUSANNA HOFFS/2012.07
★★★★★
素晴らしいアルバム。一瞬、SUSANNE VEGAか……と思うようなサウンドに、SUSANNA HOFFSのあの甘ったるい声が見事に自己主張し、完全に調和している。THE BANGLESの大ヒットから二十年近く。良い年の取り方をしているなあ、という趣。お勧め。

11.同僚のせいで正月2日から川の捜索させられるのは腹立たしいだろうなあ。気の毒でならない。富山県警、ご苦労様です。
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-02X827/1.htm

12.教育書を読んで読書したつもりになってはいけない。教育書は読書の2割くらいに抑えるのがいい。教育書を含めて、実用書は4割くらいに抑えるのがいい。教師は新書をたくさん読むといい。でも、新書ばかり読んで満足してはいけない。気になった新書は巻末の参考文献を次々に読んでいくのがいい。

13.そろそろ重い腰を上げて新しい本の執筆にでも取りかかろう。やっと新しいものを書こうという気になってきつつある。何から書き始めようか。今から書いても、もう春には間に合わないわけだから、依頼されているどれを書いても良いわけだ。今年は刊行日程ではなく、書きたい順に書いていくことにしよう。

14.教育の特殊性の一つは、供給する側と需要する側とが未分化であるところだ。

15.ちなみに、僕の読書の教育書率は1%を切ると思う。学術書や教養書ばかりでなく、小説やビジネス書ばかりでもなく、一見「くだらない」と思われるようなマイナーなエッセイに、新たなものの見方を与えてくれるものがたくさんある。

121009cover16.教師に必要な資質。1. いつも笑顔でいること。2 .孤独に耐える力をもつこと。3. 無駄とわかっていることに取り組めること。4 .子どもといっしょに馬鹿げたことを一生懸命にやるのを楽しめること。5 .いつでも変われること。今を壊し、新しい自分になることを怖れないこと。……新刊はtwitterのつぶやきから生まれた本です。僕のツイートのうち、リツイートの多かった40を選んで、それぞれについて平均3頁の解説を施したものです。まとまり感には欠けますが、まずまず私の力量形成観を書けたのではないかなあと感じています。

17.拙著『教師力ピラミッド 毎日の仕事を劇的に変える40の鉄則』明治図書。いよいよ近日刊行です。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-049416-3

18.名古屋・東京と一緒に旅した百円ライターが元気をなくしている。今日が命日になるかもしれない。

31dbv0dgy0l__sl500_aa300_19.空も飛べるはず~白線流しオリジナル・サウンドトラック/1996
★★★★★
「白線流し」に描かれている高校生たちは、僕の最初の教え子たちと同い年である。それで、ちょっと思い入れがある。このアルバムは岩代太郎のつくるメロディの美しさが印象的。

20.【拡散希望/残席17】第2回教室実践力セミナーin東京・ALL堀裕嗣/2013年2月3日(日)/新宿大智学園/定員30/若い教師のための学級開き・90日間システム/若い教師のための授業づくりのステップ
http://kokucheese.com/event/index/67997/

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『学級経営・授業に生かす!教師のための「マネジメント」』

『学級経営・授業に生かす!教師のための「マネジメント」』

長瀬拓也・岡田広示・杉本直樹・山田将由編著・西日本教育実践ネットワーク著

明治図書・2013.01

★★★

51uvkw4eol__sl500_aa300_石川晋はマネジメントが嫌いだと書いているが、僕はこの志を買う。30そこそこの若者たちがこうした全体像志向から教育実践を見てみようという試みは尊い。一つ一つのコンテンツの記述に甘さが残るとしても、この試みの意味はそうしたディテールにあるわけではない。あくまで全体像をメタ的に捉えてみようという志にこそある。彼等が10年後に有益な提案をしていくためには必要なステップだと思う。

ただ一つ一つのコンテンツの提案が少々雑すぎる嫌いはある。頁数を倍にするか、視点をもっと整理して40くらいに抑えるかして、もう少し書き加えると提案性があったかもしれない。まあ、前者を採用すれば売れなくなるし、後者を採用すれば全体像志向が甘くなるから、このあたりを落としどころにした心象はわからないでもないけれど。

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1月1日(火)

1.正しいことは基本的に良いことです。正しい振る舞いのみで生きていけるなら、それは尊敬に値します。しかし、正しい振る舞いが必ずしも人を幸せにするわけではありません。教師には正しい振る舞いが求められますが、正しすぎる振る舞いになっていないか、常に自己点検する必要があります。良いお年を。

2.まったく好きでもなんでもないaiko、中島美嘉、Perfumeなんかが出て来たとき、「ああ、知っている」と安心感があった。そのくらい出場者を知らなかった。10年前ならこんなことはなかったな、と思った。時代の風を胸一杯吸い込みながら生きているのは35歳くらいまでなのかもしれない。

17afa1909fa0284bb802e110_l3.夜明けのスキャット/由紀さおり/1969
★★★★★
2008年に紙ジャケットで再発売されたファーストアルバム。アルバム「1969」とはまったくキーの異なる二十歳の「夜明けのスキャット」。声に甘ったるさの残る……ラジオに流れるスキャットだけで日本中を虜にした声である。静かな夜には最高の声だと思う。

96958a96889de6ebe4e2e4e5e1e2e3e7e3e4.『デジタルネイティブの時代 なぜメールをせずに「つぶやく」のか』木村忠正/平凡社新書/2012.11 ★★★
自分がTWITTERをTWITTER的に、FACEBOOKをFACEBOOK的に使っていないということがよくわかった。

5.バブル崩壊から20年。失われた10年の後、見失われた10年が続いた。漂流はいまなお続いている。数十メートルと思しき瞬間風速が吹くこともあったが、全ての瞬間風速が更に進路を見失わせただけだ。小泉構造改革も民主政権交代も数ヶ月間の暴風を起こしたに過ぎなかった。長く続くそよ風が欲しい。

418kd5lqedl__sl500_aa300_6.『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか 絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想』荻上チキ/幻冬舎新書/2012.11 ★★★
この提案には僕は明確に反対だ。「ダメ出し社会」への批判は的を射ているものの、「ポジ出し社会」は現実的に小さなポジの同調圧力による息苦しさと、小さなポジの政策実現圧力による多忙観を増幅を招き寄せるだけだ。教育界はこの10年、ポジティヴリストによる教育改革でボロボロにされてしまった実感がある。

7.もう「やると良いな…」という小さな良きことをリストアップして制作を立案する悪弊をやめよう。小さな良きことAと小さな良きことBを同時達成しようとすると、大きな悪Cが生まれることがある。大きな悪X・Y・Zだけは絶対にやってはいけない、あとは各自が工夫してくれ、そういう社会が良い。

8.最新刊として『教師力アップ 成功の極意』なんてのを書いている僕には言う資格がないのかもしれないが、世の中に「成長圧力」が溢れすぎてはいないか。動き続けろ、変わり続けろ、変化せよ、成長せよ、大きくなれ、そんな言説が多すぎないか。いまのままでいいんだよ、みんなそう言って欲しいのに…。

9.疲れたとき、最初にすべきは休むことであるはずだ。ドリンク剤を飲んだり、マッサージに通ったり、ましてや疲れを押して動き続けることなんかじゃない。ひと山越えたらひと休みする。ひと泳ぎしたらゆったりとぷかぷか浮いていられる。そんな当たり前のことが当たり前にできる世の中でありたい。

10.確かに、学ぶべきは「何を学ぶか」ではない。しかし、「どのように学ぶか」でもない。学ぶべきは「なぜ学ぶか」だ。しかも、実感ベース、体感ベースで学ばなければ身に付かない。

11.when・where・who・what・how……4W1Hはすべてが具体に顕在している。whyだけが人の中に抽象として潜在する。しかし、4W1Hを現象させるのは、常に人の中に巣くう抽象的なwhyである。それを他人に解釈させるのも、その他人たちそれぞれの中に巣くうwhyである。

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