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スクールカーストの視点から子ども社会のリーダーを考える

1 教師の矜持・生徒の矜持

諏訪哲二の新著『生徒たちには言えないこと~教師の矜持とは何か?』(1)を読んだ。久し振りに諏訪節を堪能した思いがした。諏訪哲二といえば、埼玉教育塾(所謂「プロ教師の会」)の代表であり、90年代から2000年前後にかけて河上亮一とともに、「生徒の変容」とそこから見える「社会の変容」を見据え、学校教育において教師がどのように生徒たちに対すべきかを現場教師の実感によって提案してきた論客である。私は1966年生まれであるが、私たちの世代は彼等の論述に随分と刺激を受けてきたものである。

しかし、私は今回の著作を読み通して、諏訪の論述が古いという思いを禁じ得なかった。副題ともなっている「教師の矜持」、つまり教師が本来矛盾した要求の中でアクロバティックな位置で動かなければならない構造があるという点に対してではない。私が古いとの思いを抱かざるを得なかったのは生徒たちの分析であり、生徒たちと学校との対峙の構造であり、総じて学校教育が置かれている立ち位置についての現状認識である。諏訪は2001年に退職している。この十年の生徒たちの変容を実感として見据える位置にない。一時代を築き、私たちがある種の憧憬の念さえ抱いた諏訪哲二という教師の類い希なる頭脳が、運命(さだめ)とはいえ、いまや過去のものになろうとしていることに愛惜の念を禁じ得ない。

諏訪は80年代に入って、生徒たちに学校文化が通用しなくなったと述べる。市場の論理が生徒に自分は一人前の主体であると認識させ、教師の権威性を子どもたちの内部で否定させるとともに、教師と生徒の関係を五分と五分と捉えさせるようになった、と。ここまでは従来からの諏訪の論理である。おそらくここまでは間違ってはいない。私は諏訪の言う80年代の生徒であったが、私たちの世代の実感と照らしても齟齬はない。

しかし、諏訪の問題は、諏訪が世に出て二十年間、生徒たちに対する分析がこの80年代的生徒のまま一歩も進んでいないところにある。80年代の生徒たちは確かに当時の教師たちを驚愕させるに足る変化を示しただろう。しかし、90年代から00年代にかけては、80年代を凌駕する変化を生徒たちが示したというのが私の実感である。そしてそこには、諏訪の言うような市場の論理が生徒たちを主体としたというだけでは説明しきれない時代背景がある。

市場の論理が生徒たちに「自分は一人前の主体である」と認識させた。それが教師の権威性を失わせ、学校文化を崩壊させた。諏訪に限らず、教師の側に視点を置く論者の多くは、学校文化の崩壊をこのベクトルで構図化する。しかし、ひとたび生徒たちの側に視点を据えるならば、別の世界が見えては来ないか。「お前は一人前の主体である」と突きつけられた生徒たちは、教師の権威性を認めず学校文化に従わなくても良くなったかわりに、「一人前の主体なのだから、うまくいかないことはすべてお前の責任だ」と言い渡されていたのである。

諏訪哲二は教師が生徒たちに「ほんとうのこと」ではなく「建前」を教えよと言う。本来、子どもが大人へと成長する過程においては、個人個人の「真実」よりも万人に通ずる「建前」が教えられることこそが大切な時期があるのだ、と。それが80年代的な「生徒の変容」によって成り立たなくなった、と。しかし、生徒たちが学校文化において教師の「建前」を受け入れなくなったことは、生徒たちの生きる社会が「建前」で動かなくなったことを意味しない。市場の論理は「努力した者が報われる」「学生時代にオール1でも、やる気が出たら頑張れる」「みんな仲良くつながるべき」といった「建前」のとおりに成功した者を崇め続けてきたのである。

90年代、「自分探し」という概念が流行した。その概念はバブル崩壊、就職難とともに「フリーター」の増大へ、更には00年代に「ニート」論へと展開されていった。「癒やし」という概念も流行した。「ひきこもり」という概念も流行した。00年代に入ってからは、「バトルロワイヤル」「デス・ノート」「リアル鬼ごっこ」といったバトル系の流行もあった。その一方では、向上を目指さなくなった若者たちの登場、所謂「下流志向」も話題となった。一見ばらばらに見えるこれらの流行概念は、私の言う「一人前の主体なのだから、うまくいかないことはすべてお前の責任だ」と言い渡された若者という補助線を引けば、一つの図としての姿を表す。

諏訪哲二は言う。

「よくポストモダンになって近代の大きな物語が消失したと語られる。一人ひとりの思ったり考えたりすることを社会的に統合する大きな幻想が消失したというのである。そうなると、みんなが小さな物語をそれぞれ持つようになったと考えられ易いが、実はそれぞれの思うこと、考えることが、大きな物語と見なされるようになったのである。」(69頁)

様々に主張し消費する主体の意識としてはこの分析は正しいかもしれない。しかし、主体の裏側、主張し消費しない部分において、生徒たち、若者たちの間では「一人前の主体なのだから、うまくいかないことはすべてお前の責任だ」という圧力こそが大きな物語として機能していたのではなかったか。そしておそらく、この大きな物語は若者たちばかりでなく、大人をも無意識のうちに包括していたのである。しかし、本稿の主眼はそこにないのでこれ以上は触れないこととする。

なぜ、他ならぬ「自分」を探さねばならないのか。それは失敗したら自分のせいなのだから、失敗しない在り方を探さねばならないという強迫観念故だろう。そのためには普通に就職して「組織と個」の軋轢の中に身を置くよりも、「フリーター」や責任を持たされることのない「派遣社員」として自らを「失敗しない位置」に置くのが望ましいと考えるのは道理である。そうした柔軟性を持たぬ者が「ひきこもり」と呼ばれる生き方を選ばざるを得ない。その中の一部は「ニート」などという本人が全く望まない称号を与えられる。

21世紀に入ると景気回復幻想も消え、闘って勝利した者だけが生き残れるという機運が生まれる。00年代になると同時に教室であちらこちらで『バトルロワイヤル』を読む生徒たちの姿を見かけたが、その多くは男子生徒であった。しかし、00年代中庸には、教師から見れば真面目でおとなしいと思われる女子生徒までが、朝読書で「リアル鬼ごっこ」を食い入るように読むまでになっていた(2)。これはちょうど、ヤンキー予備軍と目される女子生徒たちがケータイ小説の恋愛格闘に夢中になっていた時期と重なる(3)。当然、世の中が勝利者たれと闘いの機運に包まれれば、そこから「降りる者」も現れる。上昇志向を持たない若者、所謂「下流志向」(4)が話題となるのも時代的必然であったのだ。

90年代から00年代にかけて、一貫して衰えないのが「癒やし」の流行である。老若男女に拘わらず求める「癒やし」という名の自己逃避は、私には自己責任意識から一瞬でも逃れたいという叫びのように思える。スポーツイベントでの集団的熱狂やネットでの炎上など、名も無き者たちの集団による「カーニヴァル」(5)にも同様の構図が見て取れる。

私は諏訪に言いたい。学校教育において確かに生徒たちに「建前」は通じなくなった。しかし、生徒たちはかつての生徒たち以上に「建前」に搾取され、陵辱され、精神を掠め取られているのだと。事は学校教育を守る方向で考えれば良いほど単純ではないのだと。

ただし、諏訪哲二の言うような生徒たちも、現在、いないわけではない。既に対教師の暴言・暴力を伴うような二次障害が表れている支援を要する子が、諏訪の言う論理を展開しながら、教師に五分の闘いを挑んでくることがある。私はそのような後先を考えない、わかりやす​い昭和的論理が愛おしいと思うことがある。

2 スクールカーストとリーダー不在

「スクールカースト」は別名「学級内ステイタス」とも呼ばれ、生徒たちが「コミュニケーション力」(自己主張力・共感力・同調力の総合力)の高低を基準として互いに無意識の階級闘争を強いられているとする概念である(6)。既に本誌においても二度、「スクールカースト」を紹介しているので、ここで詳しくは触れない。

学級リーダー・学校リーダーには①自己主張力を発揮しての企画力、②共感力を発揮しての人間関係調整力、③同調力を発揮してのエンターテインメント性の三つをすべて兼ね備えていなければならない……一般生徒たちからはそういう視線が向けられる。学級・学校リーダーは、少なくともそうした〈振る舞い〉が求められる。ほんの少しの失敗も、「スクールカースト」を大幅に下降させる要因となり得る。企画がうまくいかなかった、個人的な事情で企画会議に出席できなかった、些細なことで級友に腹を立ててしまった、学級の多様な意見を調整できなかった、企画したイベントが笑えないとの評判を受けた……などなど、これらすべてが「スクールカースト」を下げる大きな危険性を伴う。しかも、大失敗(と周りが思うようなこと)をすれば、カーストは奈落近くまで落ちる可能性さえある。非常にリスクの高い仕事なのである。

しかも、リーダーとなったということ自体に「自己責任である」とする断罪の眼差しが向けられる。もともと学級・学校リーダーになるような生徒たちは、カーストの高い位置にある生徒が多い。わざわざ公的な場に出て私的関係で築いたカーストを下げる危険性を引き受ける必要などない、多くの生徒たちはそう考える。

よく合唱コンクールの指揮者やパートリーダーが、練習の最中(さなか)に不登校傾向を示すことがある。学校祭や修学旅行と異なり、合唱コンクールは多くの生徒が楽しみにするというタイプの行事ではない。学級の中には少なからぬ合唱を不得意とする生徒たちがいるからだ。得意とする者と不得意とする者、一生懸命取り組みたい者とそうでない者との間で、最も軋轢を生じやすいのがこの行事なのである。しかも諏訪の指摘のごとく、生徒たち一人ひとりは得意とするのも主体、得意としないのも主体である。一生懸命取り組むか否かを判断するのも主体である。とすれば、教師でさえ不可能性を覚えるそれらの調整に対して、いかにカーストが高いからといって生徒がその役割を担うのは容易ではない。しかも周りからは常に、「一人前の主体なのだから、うまくいかないことはすべてお前の責任だ」という無意識の眼差しが向けられるのである。

おそらくリーダーの不在にはこうした構造がある。

【注】

(1)諏訪哲二・中公新書ラクレ
(2)『ゼロ年代の想像力』宇野常寛・早川書房・2008
(3)『ケータイ小説的。』速水健朗・原書房・2008
(4)『下流志向』内田樹・講談社・2007
(5)『カーニヴァル化する社会』鈴木謙介・講談社・2005
(6)『いじめの構造』森口朗・新潮社・2007/『生徒指導10の原理・100の原則』堀裕嗣・学事出版・2011

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