学力形成派と人間形成派
教師は一般にふた通りに分かれます。教育の目的を「学力形成」にあると考えているタイプと、「人間形成」にあると考えているタイプとにです。もちろん、どちらかにはっきり分かれるわけではありませんが、どちらかというと「学力形成」、どちらかというと「人間形成」という、いずれを重視するかによってタイプが分かれるのです。
まず第一に、「学力形成」派は授業や研究、教育課程に関わることを好む傾向があり、「人間形成」派は学級づくりや行事指導、部活指導を好む傾向があります。おそらく自分が育ってきた過程において、前者は自分自身で勉強して学力を身につけたり、自分で試行錯誤しながらいろいろなことを発見したり、仲間と議論することから何かを生み出したりといったことに喜びを得てきた人に多いのだろうと思います。また、後者にはお祭り事が好きだったり、仲間と旅行することをを好んだり、部活動に一生懸命取り組みチームワークを学んだことが自分の人生の基盤だと感じている人が多いのだろうと想像します。要するに、前者はまずは勉強をして世界観を広げること、人間形成は自分でするものという人間観を抱く傾向をもち、後者は勉強なんて二の次、人との関わり合いの中でこそ人間は成長するという人間観を抱く傾向をもっています。
第二に、「学力形成」派は校務分掌で教務部や研究部、文化部などを渡り歩くことが多く、「人間形成」派は生徒指導部や生徒会指導部、保健体育部といった分掌を好む傾向があります。前者は政治の動向や世論の動向に敏感で、文教政策にも精通していることが多く、後者はそうした政策的なことよりも、アスリートや文化知識人、歴史上の人物などの成功譚や成長譚を好む傾向もあります。ともにこうした傾向に基づいて仕事をしているものですから、「学力形成」派は学校運営を司る校務分掌を学級経営や生徒指導以上に大切なものだと感じる傾向があり、「人間形成」派は学級経営や生徒指導、部活動こそが生徒を育てるのであって、校務分掌は雑務だと考える傾向があります。
第三に、「学力形成」派は生徒指導を苦手としていることが多く、事務仕事を得意としている傾向があり、「人間形成」派は生徒指導を得意としていることが多く、事務仕事を不得意としている傾向があります。前者が教職を知的な専門職と捉えているのに対し、後者は教職を子どもたちを導く聖職のイメージで捉える傾向がありますから、生徒指導や事務仕事に対するスタンスが異なるのも当然といえば当然でしょう。
第四に、「学力形成」派は教師である自分の人間としての個性を生徒たちに押しつけてはいけないと自制する傾向をもち、「人間形成」派は自らの個性、自らの経験と同質の体験を生徒たちにさせたいと願う傾向をもっています。生徒指導を得意とするか否かは、私には、自分の経験を活かしながら生徒たちに熱く語ることを潔しとするか否かに出発点があるように見えます。
第五に、「学力形成」派は教育活動を系統主義的学力観・教育観で捉える傾向があり、「人間形成」派は教育活動を経験主義的学力観・教育観で捉える傾向があります。例えば、両者が「総合的な学習の時間」のカリキュラムを立てますと、前者は単元1から単元5まで難易度を上げていったり、最後にこれまでの単元を総合した単元を設定したりということにこだわりをもちますが、後者はおもしろそうな単元、意義のありそうな単元を五つほど並列させるだけ、ということになりがちです。顕著な例を挙げれば、両者の仕事振りにはこのような違いが出るわけです。
さて、ここまで、便宜上教師のタイプを「学力形成」派と「人間形成」派との二つに分け、それぞれを純化して両者の違いを大袈裟に表してきました。現実には、どちらかに一方的の視点しかもっていないなどということはなく、両者の中間的な位置にいる教師が圧倒的多数です。
しかし、両者の視点をバランスよく五分五分でもっているという教師もまたいないのが現実です。すべての教師が必ずどちらかに偏っているということができます。六:四とか四・五:五・五とかであればかなりバランス感覚をもった優秀な教師であるといえますが、多くの教師は七:三とか二:八とか、どちらか一方に大きく偏っているというのが現実なのです。
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