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エピソードで語る教師力(抄)

1.新卒の年、十三歳の生徒たちに実存主義を語り、無頼派や耽美派の文学を語り、フォークミュージックの歴史を語り、授業をつぶして映画を見せ、一年間で数百枚の作文を書かせる、私はそんな教師でした。

2.私の教師生活のスタートは「綴り方教師」でした。学生時代は「生活綴り方」(特に寒川道夫)の本を読みあさり、一九五○年代以来の日文協の文学教育(荒木繁・大河原忠蔵・太田正夫)を読みあさり、何より壺井栄の『二十四の瞳』が大好きな学生でした。

3.私の新卒時代の問題意識は、竹内好(長く教科書に掲載されている魯迅『故郷』の訳者)の「文学と教育の背馳」、大河原忠蔵の「状況認識の文学教育」(生徒達の実生活上の悪徳まで文学的認識として作文させることに文学教育の本質があるとする実践群)という文学教育理論に強く影響を受けてのものです。

4.私は確かに「綴り方教師」であり「文学教育」の推進論者ではありましたが、決して左翼思想の持ち主ではありません。むしろ思想的には学生時代から右寄りの傾向を持っていました。卒業論文は三島由紀夫論です。従って、「生活綴り方教育」に影響を受けていたり「文学教育」に影響を受けたりというのはあくまで手法的な影響であって、決して思想的な影響ではないのです。

5.私の中では、官製に近い研究団体に参加することと、「生活綴り方教育」や「日文教の文学教育」といった民間教育団体の手法を採り入れることとがまったく矛盾していなかったのです。国語教育の通史的に見れば、そういうところが、私という人間が80年代以降の新世代であったとはいえるかもしれません。

6.私はいまでも、1年2組という学級だけは、全生徒を出席番号順に言うことができます。1年2組の生徒たちと初めて逢ったときに、誰がどこに座っていたのか、その表情も含めて目に浮かべることができます。「少年の日の思い出」の研究授業のときにだれがどんな意見をどういう順番で言ったのかを思い浮かべることができます。録音テープがあるわけではないのに、「貝のファンタジー」を歌う彼ら彼女らのハーモニーを耳に響かせることができます。新卒で担任した1年2組とは、いまなお、私にとってそういう学級なのです

7.師匠森田茂之が永眠した日のことを生々しく覚えています。2001年12月30日。年も押し迫り、冬休みに入ったばかり、2学期の疲れを癒している折、昼過ぎに電話が鳴ったのでした。私は朝方まで高倉健の「ホタル」を借りてきたDVDで見ていましたから、まだ床に入っていました。

8.「なんという安らかな死に顔なのだろう……」
最初に抱いたのはそんな思いでした。まるで実感が湧かず、悲しまなければならないのに悲しむことができない、悲しみをあらわす振る舞いってどんなだっただろうか、そんなことを考えている自分が不謹慎に思えていました。自分の脳味噌が自分のものではなく、自分の感情も自分のものではない、自分が何か得体の知れないものに支配されている……そんな感覚でした。

9.現代文学ゼミ(以下「木ゼミ」)は、20人前後の木ゼミ所属学生が一編の戦後文学作品に関して議論し、共通の解釈を見出すことを旨としていました。毎週、ゼミ生は毎週、一冊の文庫本を読んでゼミに臨み、一人のレポーターが書いてきたレジュメに沿って解釈議論を行うというものです。水ゼミのような連続性のある研究ではなく、解釈論争を行うことを旨とした読書会のようなものでした。しかし、4年間、毎週をこれを続けるということの効果は計り知れません。

10.よく文学作品の読みは人それぞれであると言われます。しかし、二十数人の人間が一つの作品に関して数時間の激論を交わすと、その場にいる誰もが納得する共通解釈が得られるものだということを、私は信じて疑いません。もちろん、日を改めて再び同じことをすれば、更なる高次の見解を得られるでしょうし、別の解釈理論を採用して分析することによってまったく別の作品世界が生まれうることを否定もしません。しかし、激論を通しての共通世界観への到達という経験を一度も経ていない者に、「解釈は人それぞれ」などとは言って欲しくない。そんなことを言う資格がない。私はいまでもそんなふうに感じています。

11.私は4年間、一度も木ゼミを欠席しませんでしたから、四年間で実に九十一作品について、一回平均5時間にも及ぶ20人による解釈論争を経験したのです。このことの意味、このことの意義が読者のみなさんには想像できるでしょうか。師匠森田茂之は教員養成大学の教官として国語教師を育てるというときに、この指導の在り方を選んだのです。私はいまなお、この森田の指導に、私の青年期にこの体験を与えてくれたことに心の底から深く感謝しています。

12.私の直属の師匠は森田茂之なのですが、もう一人、私の大学時代において欠かせない師匠がいます。教育心理学者の鹿内信善先生です。鹿内先生の講義は一年次に教職課程の必須の講義として、前期に「青年心理学」を、後期に「教育心理学」を受講しました。また、四年間を通して本来は心理学専攻の学生しか受講することのできない心理学研究室の実験や演習にも無理を言って参加させてもらいました。

13.心理学という学問が若者にとって魅力的に映るのは今も昔もそれほど変わりはないでしょう。しかし、私にとって、高校はもちろん、予備校でも体験することのなかった、鹿内先生の講義形態の工夫に魅了されたのです。スモールステップ、バズセッション、創造的読み、行動主義による学習理論と認知主義による学習理論の違いに至るまで、鹿内先生は自分がその日の講義で扱う理論に基づいて講義を展開するのでした。これができる大学教官はいったい全国に何人いるのでしょうか。おそらくその裏にはストイックなまでに理論と実践とを一致させようとの思想が流れているに違いありません。少なくとも当時の私はそう感じていました。

14.当時、鹿内先生は毎年夏に鹿内ゼミ所属の学生や卒業生といっしょに研究合宿を開いていました。私は大学に入って一年目から、鹿内ゼミ生でもないのに頼み込んでこの合宿に参加させてもらっていました。大学一年のときの合宿は、森田療法を学ぶと同時に、『健康な人格』(D・シュルツ著・上田吉一監訳・川島書店・一九八二年)をテキストに様々な論者が主張する「自己実現」の概念について学ぶという内容でした。私はこの合宿で私の人生にとって大切な二人の論者と出会います。一人はV・E・フランクルであり、一人はC・ロジャースです。

15.大学二年の合宿では、私は自らの発想を決定づける一冊の書物と出逢います。いえ、鹿内先生に出逢わせていただくことになります。それは米須興文著『ミメシスとエクスタシス─文学と批評の原点』(勁草書房・一九八四年)という、文学批評理論を通史的に紹介しながら、大胆にも文学を「作者→作品→読者」という三段階の過程であると規定した書です。

16.当時はW・イザーの『行為としての読書』が普及して数年が経過し、国語教育の最先端は「読者論」であるという空気に包まれた時代でした。イザーは特に臨教審以来の個性化教育を目指す行政に親和性の高い研究者や現場人を魅了していたように思います。しかし、いま考えると、イザーに心酔していた人たちに共通してみられた傾向は、イザー以外の西洋の文学受容理論をほとんど読んでいない、ということにあったように思います。

17.「ミメシス」と「エクスタシス」という概念は、ごく簡潔に言うなら文学作品の受容における「認識」的な営みと「体験」的な営みのことです。わかりやすく言うなら「理性」的な受容と「感性」的な受容と言っても良いでしょうし、もっとわかりやすく言うなら「わかる」ことと「感じる」ことと言っても良いでしょう。漱石のように「焦点的印象または観念」と「これに付着する情緒」という言い方もできます(『文学論』一九○七年)。長く国語教育界に君臨してきた言葉を借りれば、「理会」的な側面と「形象」的な側面ということもできるかもしれません(『形象と理会』垣内松三・一九三三年)。

18.戦後の国語世教育界で交わされてきた論争は、古くは「言語教育・文学教育論争」「主観主義・客観主義論争」から新しくは「冬景色論争」「文芸研・法則化論争」に至るまで、この「ミメシスとエクスタシス」の対立を軸に行われてきたという側面があります。文学作品の受容に「ミメシス」(認識・理性・わかるといった側面)があることは誰もが認めるところですから、それは文学のもう一方の機能である「カタルシス」の機能にどのような意義を見出すかという見解の違いが巻き起こすのだと言えば、まあ遠くない解釈を導き出せるでしょう。

19.「ミメシス」と「エクスタシス」の対立軸を核に据えて、「作者中心主義」「作品中心主義」「読者中心主義」に文学受容理論を分類してみます。また、この三者を文学の確定性信仰の理論と不確定性信仰の理論に類別していくとします。確定性信仰では、①純粋に作品を分析しようとした「ニュークリティシズム(=新批評)」をはじめとした「作品中心主義」、②確定性を帯びた作者の意図を作品解釈の基準とするE・D・ハーシュの理論とそれに大きな影響を与えたディルタイの解釈学を「作者中心主義」、③確定性の根拠を文化的な背景や構造に置く「神話批評」や「構造主義」を原型論的な「読者中心主義」と分類することができます。また、不確定性信仰では、①ディルタイの解釈学を実存主義的に発展させたM・ハイデガーやH=G・ガーダマー、②文学受容理論を現象学的に発展させたR・インガーデンやW・イザー、そして③脱構築の哲学者J・デリダを「読者中心主義」がその代表格と言えるでしょう。

20.もしかしたら読者である若い教師の皆さんは、或いは現役大学生の読者の皆さんは、私の学生時代の思い出話を読みながら、「すごいなあ」とか「堀先生は学生時代から違ったのだなあ」などと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。当時の大学生はみんな多かれ少なかれこんなものだったのです。時は「ポストモダン」をキーワードとしたニューアカデミズム(以下「ニューアカ」)が大ブームとなっていました。折しも筒井康隆の『文学部唯野教授』(岩波書店)が刊行されたのは一九九○年のことです。浅田彰が『構造と力』(勁草書房)を刊行し、中沢新一が『チベットのモーツァルト』(せりか書房)を刊行したのが一九八三年です。バブル前夜、ちょうどこの時期は、近代の次に来る「新しい大きな物語」が必ず現れるということを誰もが信じていた時代でした。当時の大学生はニューアカにかぶれながら、自分たちの時代の「大きな物語」を探し求めていたのでした。思えば、自分たちの生活実感とズレのない「大きな物語」が必ず現れると誰もが信じることのできた最後の時代だったのかもしれません。

21.しかし、若い皆さんは私たちの世代が気づかなかった、私たちの世代には見えなかった新しい機運をつくり出し始めています。その萌芽が胎動し始めているのを感じます。それが何なのか、私にはわかりません。ただ一つ言えるのは、私たちの世代はそれをいま脅威に感じているということです。

22.裏話をもう一つだけ。私が教師になった時代は、「教育技術の法則化運動」のまさに全盛期でした。私の周りにも「法則化運動」に影響を受けたり、中には運動に参加したりしている教師がたくさんいました。しかし、私は最後まで「法則化運動」には与しませんでした。特別大きな批判意識を感じていたわけではありません。運動の代表である向山洋一が「大学で学んだことは役に立たなかった。現場教師による現場教師のための学びを成立させなければならない」という意味の運動の前提となっている趣旨に、どうしても賛同できなかったのです。私は大学で現場に活きる学びを与えてもらったという実感があります。その実感と「教育技術の法則化運動」の前提とが、私の中でいかんともしがたい齟齬を形成していたのでした。まあ、いまとなっては、何かの運動に与することなくこれまで生きて来られたことが結果的には良かったなと思いますけれど……。

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