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2012年9月

学力形成派と人間形成派

教師は一般にふた通りに分かれます。教育の目的を「学力形成」にあると考えているタイプと、「人間形成」にあると考えているタイプとにです。もちろん、どちらかにはっきり分かれるわけではありませんが、どちらかというと「学力形成」、どちらかというと「人間形成」という、いずれを重視するかによってタイプが分かれるのです。

まず第一に、「学力形成」派は授業や研究、教育課程に関わることを好む傾向があり、「人間形成」派は学級づくりや行事指導、部活指導を好む傾向があります。おそらく自分が育ってきた過程において、前者は自分自身で勉強して学力を身につけたり、自分で試行錯誤しながらいろいろなことを発見したり、仲間と議論することから何かを生み出したりといったことに喜びを得てきた人に多いのだろうと思います。また、後者にはお祭り事が好きだったり、仲間と旅行することをを好んだり、部活動に一生懸命取り組みチームワークを学んだことが自分の人生の基盤だと感じている人が多いのだろうと想像します。要するに、前者はまずは勉強をして世界観を広げること、人間形成は自分でするものという人間観を抱く傾向をもち、後者は勉強なんて二の次、人との関わり合いの中でこそ人間は成長するという人間観を抱く傾向をもっています。

第二に、「学力形成」派は校務分掌で教務部や研究部、文化部などを渡り歩くことが多く、「人間形成」派は生徒指導部や生徒会指導部、保健体育部といった分掌を好む傾向があります。前者は政治の動向や世論の動向に敏感で、文教政策にも精通していることが多く、後者はそうした政策的なことよりも、アスリートや文化知識人、歴史上の人物などの成功譚や成長譚を好む傾向もあります。ともにこうした傾向に基づいて仕事をしているものですから、「学力形成」派は学校運営を司る校務分掌を学級経営や生徒指導以上に大切なものだと感じる傾向があり、「人間形成」派は学級経営や生徒指導、部活動こそが生徒を育てるのであって、校務分掌は雑務だと考える傾向があります。

第三に、「学力形成」派は生徒指導を苦手としていることが多く、事務仕事を得意としている傾向があり、「人間形成」派は生徒指導を得意としていることが多く、事務仕事を不得意としている傾向があります。前者が教職を知的な専門職と捉えているのに対し、後者は教職を子どもたちを導く聖職のイメージで捉える傾向がありますから、生徒指導や事務仕事に対するスタンスが異なるのも当然といえば当然でしょう。

第四に、「学力形成」派は教師である自分の人間としての個性を生徒たちに押しつけてはいけないと自制する傾向をもち、「人間形成」派は自らの個性、自らの経験と同質の体験を生徒たちにさせたいと願う傾向をもっています。生徒指導を得意とするか否かは、私には、自分の経験を活かしながら生徒たちに熱く語ることを潔しとするか否かに出発点があるように見えます。

第五に、「学力形成」派は教育活動を系統主義的学力観・教育観で捉える傾向があり、「人間形成」派は教育活動を経験主義的学力観・教育観で捉える傾向があります。例えば、両者が「総合的な学習の時間」のカリキュラムを立てますと、前者は単元1から単元5まで難易度を上げていったり、最後にこれまでの単元を総合した単元を設定したりということにこだわりをもちますが、後者はおもしろそうな単元、意義のありそうな単元を五つほど並列させるだけ、ということになりがちです。顕著な例を挙げれば、両者の仕事振りにはこのような違いが出るわけです。

さて、ここまで、便宜上教師のタイプを「学力形成」派と「人間形成」派との二つに分け、それぞれを純化して両者の違いを大袈裟に表してきました。現実には、どちらかに一方的の視点しかもっていないなどということはなく、両者の中間的な位置にいる教師が圧倒的多数です。

しかし、両者の視点をバランスよく五分五分でもっているという教師もまたいないのが現実です。すべての教師が必ずどちらかに偏っているということができます。六:四とか四・五:五・五とかであればかなりバランス感覚をもった優秀な教師であるといえますが、多くの教師は七:三とか二:八とか、どちらか一方に大きく偏っているというのが現実なのです。

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エピソードで語る教師力(抄)・3

1.最近、研究サークルの活動や各種セミナー、教育系NPO法人によるイベントや学生団体によるイベントなど、全国的に様々な活動が行われるようになりました。最近の若い人たちは意欲があるなあ、私のようにそれなりに活動してきたという自負のある者でさえ思います。

2.しかし、原稿や論文を書く機会となると、私たちの世代と比べてずいぶんと少なくなってきているのではないでしょうか。二○○○年前後から数々の教育雑誌が廃刊してり休刊したりしました。同人誌で発信しようという動きもほとんど見られなくなりました。

3.若い世代もブログやツイッターをはじめとしたパーソナルメディアで発信しているではないか、そう思う向きもあるかもしれません。しかし、仲間内に読まれることを想定するのではなく、自分よりも質の高い実践者を読者として想定しながら、フォーマットの決まった、構成意識をしっかりともって書かなければならない文章を書くという経験は、ほとんどなくなっているのが現状です。商業雑誌や同人誌の原稿とブログとでは、そのプレッシャーが全然違うのです

4.若い読者の皆さんには、これからの教師生活において「書き続けること」を固く決意して欲しいなと思います。

5.浴びるほど読み、脂汗をかくほどに書くのです。そこにこそ思考が生まれ成長が生まれます。摘み食いするように聞き、垂れ流すように話す経験をいくら積んでも、幻想の思考と幻想の成長しかありません。そんな幻想が若者たちの中で同世代のみに通じる共同幻想になりつつあります。それではいけません。

6.書くことは、成長のために採り入れるべきか採り入れないべきかと迷う対象ではありません。書くことは成長の前提なのです。書かない者に思考はありません。思考のない者に成長はありません。書くことが成長の前提である所以です。

7.文章を書かない人に有能な人はいません。「書けない人」ではなく、「書かない人」です。書けなくても書く人、書くことと格闘する人はいます。そういう人の中には有能な人がたくさんいます。しかし、「書かない人」は須く無能です。それが「書くこと」と「成長すること」との関係なのです。

8.書くことがない?冗談じゃない。それは書かないからです。自分の考えているすべてを書いてみたいと思ったことがないからです。すべてを書こうとしてご覧なさい。どんなに言葉を尽くしても、「書き切れた」と思える瞬間など永久にやってはきません。でも書けば書くほど書くべきことは増えていくのです。

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エピソードで語る教師力(抄)・2

1.走ったわ。ただひたすら走った。もう後戻りはできないと思って。でも、でもね、私の頭の中には赤い靴のことしかなかったの。これから街に出て、バレリーナになって、赤い靴をはくことだけを考えていたの。そう。赤い靴しか見えなかったの。その他のものは何も見えなかったのよ。何も聞こえなかったのよ。大きな汽笛をならして、近付いてくる列車の音さえ聞こえなかったのよ。/「赤い靴」堀裕嗣作・1992年より

2.私が演劇部顧問として初めて中文連大会での公演を成功させたのは、「赤い靴」という作品でした。アンデルセン童話の「赤い靴」をモチーフに、池田悦子原作・あしべゆうほ作画の漫画「悪魔の花嫁」の一編と映画「サマーストーリー」(監督ピアス・ハガード/1988年)から着眼点をもらって書いた脚本です。

3.1995年、『君をのせて』という脚本を書きました。ある日、雑誌「アエラ」(朝日新聞社)を読んでいると、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の色彩を復元できたという記事が載っていました。そこに着想を得て、タイムスリップによる恋愛、武田泰淳のユダに対する解釈などを盛り込みながらつくった五十分ほどの脚本です。宮崎駿作詞/久石譲作曲の「君をのせて」に感動したことが脚本を書く原動力にもなっています。この年の中学校文化連盟演劇発表会(以下「中文連」)で上演した作品でもあります。

4.主人公が画家を目指す武田優、その祖父母として武田泰淳・百合子、そして主人公優がタイムスリップした1951年で恋に落ちる、後に画家として成功する少女中山愛子、更に「最後の晩餐」の模写を自由に行き来することのできるキリストと、ユダをはじめとする十三人の徒弟たち……。そんな物語です。

5.教師が素の人間として生徒を愛すことは善か悪か。私はあれだけこの子を愛し、一生懸命に指導してきた三年間が実は罪だったのではないか、そんな思いに駆られました。私はこの件で、この問いが、教師は生徒たちの人生にどこまで責任をもつことができるのか、そういう質の問いであることに気がつきました。

6.私はいま思うのです。若い頃に教師が自分の思いを実現しようとするときには、かなり多くの生徒たちを犠牲にする傾向がある。それを自覚しなければならない。この自覚を胸に自分に厳しい目を向けなければならない。そんなふうに思うのです。

7.いいえ、実はかなり年配になった教師の中にも、そうと気づかないままに自分の思いを具現化することだけを中心に部活動指導や学級経営にあたっている教師が多く見られます。そんなエゴイスティックな教師がたくさんいます。それが良い方向に進む事例も確かにあります。しかし、そうでない事例に目をふさいでいる事例もたくさんあるのではないか、実はそちらの方が多いのではないか、私はそう感じるのです。教師は大学を出ると同時に「先生」と呼ばれ、本人がそうと気づかないままに「強大な権力」をもちます。その意味で、このエゴイスティックな構造に陥る危険性が非常に高い職業なのです。

8.「鍛国研・札幌支部」は野口先生が道教大函館校にいる間の四年間だけという、最初から期間限定で始めた活動でした。二○○一年一月の三○○人近い参加者を集めた大会の後、二月に「野口・授業道場 ファイナル」を開催して、私たちは「鍛国研・札幌支部」を解散しました。「研究集団ことのは」は再び、ただの中学校国語科教育の研究サークルに戻ったのです。

9.この四年間に関わった人たちは「こんな成果を挙げたのに、なぜ、やめるのか」といぶかしげに質問してきました。しかし、私たちにとって「鍛える国語教室研究会」は仮の姿であって、あくまで自分たちが「研究集団ことのは」であり続けることを選んだのでした。

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エピソードで語る教師力(抄)

1.新卒の年、十三歳の生徒たちに実存主義を語り、無頼派や耽美派の文学を語り、フォークミュージックの歴史を語り、授業をつぶして映画を見せ、一年間で数百枚の作文を書かせる、私はそんな教師でした。

2.私の教師生活のスタートは「綴り方教師」でした。学生時代は「生活綴り方」(特に寒川道夫)の本を読みあさり、一九五○年代以来の日文協の文学教育(荒木繁・大河原忠蔵・太田正夫)を読みあさり、何より壺井栄の『二十四の瞳』が大好きな学生でした。

3.私の新卒時代の問題意識は、竹内好(長く教科書に掲載されている魯迅『故郷』の訳者)の「文学と教育の背馳」、大河原忠蔵の「状況認識の文学教育」(生徒達の実生活上の悪徳まで文学的認識として作文させることに文学教育の本質があるとする実践群)という文学教育理論に強く影響を受けてのものです。

4.私は確かに「綴り方教師」であり「文学教育」の推進論者ではありましたが、決して左翼思想の持ち主ではありません。むしろ思想的には学生時代から右寄りの傾向を持っていました。卒業論文は三島由紀夫論です。従って、「生活綴り方教育」に影響を受けていたり「文学教育」に影響を受けたりというのはあくまで手法的な影響であって、決して思想的な影響ではないのです。

5.私の中では、官製に近い研究団体に参加することと、「生活綴り方教育」や「日文教の文学教育」といった民間教育団体の手法を採り入れることとがまったく矛盾していなかったのです。国語教育の通史的に見れば、そういうところが、私という人間が80年代以降の新世代であったとはいえるかもしれません。

6.私はいまでも、1年2組という学級だけは、全生徒を出席番号順に言うことができます。1年2組の生徒たちと初めて逢ったときに、誰がどこに座っていたのか、その表情も含めて目に浮かべることができます。「少年の日の思い出」の研究授業のときにだれがどんな意見をどういう順番で言ったのかを思い浮かべることができます。録音テープがあるわけではないのに、「貝のファンタジー」を歌う彼ら彼女らのハーモニーを耳に響かせることができます。新卒で担任した1年2組とは、いまなお、私にとってそういう学級なのです

7.師匠森田茂之が永眠した日のことを生々しく覚えています。2001年12月30日。年も押し迫り、冬休みに入ったばかり、2学期の疲れを癒している折、昼過ぎに電話が鳴ったのでした。私は朝方まで高倉健の「ホタル」を借りてきたDVDで見ていましたから、まだ床に入っていました。

8.「なんという安らかな死に顔なのだろう……」
最初に抱いたのはそんな思いでした。まるで実感が湧かず、悲しまなければならないのに悲しむことができない、悲しみをあらわす振る舞いってどんなだっただろうか、そんなことを考えている自分が不謹慎に思えていました。自分の脳味噌が自分のものではなく、自分の感情も自分のものではない、自分が何か得体の知れないものに支配されている……そんな感覚でした。

9.現代文学ゼミ(以下「木ゼミ」)は、20人前後の木ゼミ所属学生が一編の戦後文学作品に関して議論し、共通の解釈を見出すことを旨としていました。毎週、ゼミ生は毎週、一冊の文庫本を読んでゼミに臨み、一人のレポーターが書いてきたレジュメに沿って解釈議論を行うというものです。水ゼミのような連続性のある研究ではなく、解釈論争を行うことを旨とした読書会のようなものでした。しかし、4年間、毎週をこれを続けるということの効果は計り知れません。

10.よく文学作品の読みは人それぞれであると言われます。しかし、二十数人の人間が一つの作品に関して数時間の激論を交わすと、その場にいる誰もが納得する共通解釈が得られるものだということを、私は信じて疑いません。もちろん、日を改めて再び同じことをすれば、更なる高次の見解を得られるでしょうし、別の解釈理論を採用して分析することによってまったく別の作品世界が生まれうることを否定もしません。しかし、激論を通しての共通世界観への到達という経験を一度も経ていない者に、「解釈は人それぞれ」などとは言って欲しくない。そんなことを言う資格がない。私はいまでもそんなふうに感じています。

11.私は4年間、一度も木ゼミを欠席しませんでしたから、四年間で実に九十一作品について、一回平均5時間にも及ぶ20人による解釈論争を経験したのです。このことの意味、このことの意義が読者のみなさんには想像できるでしょうか。師匠森田茂之は教員養成大学の教官として国語教師を育てるというときに、この指導の在り方を選んだのです。私はいまなお、この森田の指導に、私の青年期にこの体験を与えてくれたことに心の底から深く感謝しています。

12.私の直属の師匠は森田茂之なのですが、もう一人、私の大学時代において欠かせない師匠がいます。教育心理学者の鹿内信善先生です。鹿内先生の講義は一年次に教職課程の必須の講義として、前期に「青年心理学」を、後期に「教育心理学」を受講しました。また、四年間を通して本来は心理学専攻の学生しか受講することのできない心理学研究室の実験や演習にも無理を言って参加させてもらいました。

13.心理学という学問が若者にとって魅力的に映るのは今も昔もそれほど変わりはないでしょう。しかし、私にとって、高校はもちろん、予備校でも体験することのなかった、鹿内先生の講義形態の工夫に魅了されたのです。スモールステップ、バズセッション、創造的読み、行動主義による学習理論と認知主義による学習理論の違いに至るまで、鹿内先生は自分がその日の講義で扱う理論に基づいて講義を展開するのでした。これができる大学教官はいったい全国に何人いるのでしょうか。おそらくその裏にはストイックなまでに理論と実践とを一致させようとの思想が流れているに違いありません。少なくとも当時の私はそう感じていました。

14.当時、鹿内先生は毎年夏に鹿内ゼミ所属の学生や卒業生といっしょに研究合宿を開いていました。私は大学に入って一年目から、鹿内ゼミ生でもないのに頼み込んでこの合宿に参加させてもらっていました。大学一年のときの合宿は、森田療法を学ぶと同時に、『健康な人格』(D・シュルツ著・上田吉一監訳・川島書店・一九八二年)をテキストに様々な論者が主張する「自己実現」の概念について学ぶという内容でした。私はこの合宿で私の人生にとって大切な二人の論者と出会います。一人はV・E・フランクルであり、一人はC・ロジャースです。

15.大学二年の合宿では、私は自らの発想を決定づける一冊の書物と出逢います。いえ、鹿内先生に出逢わせていただくことになります。それは米須興文著『ミメシスとエクスタシス─文学と批評の原点』(勁草書房・一九八四年)という、文学批評理論を通史的に紹介しながら、大胆にも文学を「作者→作品→読者」という三段階の過程であると規定した書です。

16.当時はW・イザーの『行為としての読書』が普及して数年が経過し、国語教育の最先端は「読者論」であるという空気に包まれた時代でした。イザーは特に臨教審以来の個性化教育を目指す行政に親和性の高い研究者や現場人を魅了していたように思います。しかし、いま考えると、イザーに心酔していた人たちに共通してみられた傾向は、イザー以外の西洋の文学受容理論をほとんど読んでいない、ということにあったように思います。

17.「ミメシス」と「エクスタシス」という概念は、ごく簡潔に言うなら文学作品の受容における「認識」的な営みと「体験」的な営みのことです。わかりやすく言うなら「理性」的な受容と「感性」的な受容と言っても良いでしょうし、もっとわかりやすく言うなら「わかる」ことと「感じる」ことと言っても良いでしょう。漱石のように「焦点的印象または観念」と「これに付着する情緒」という言い方もできます(『文学論』一九○七年)。長く国語教育界に君臨してきた言葉を借りれば、「理会」的な側面と「形象」的な側面ということもできるかもしれません(『形象と理会』垣内松三・一九三三年)。

18.戦後の国語世教育界で交わされてきた論争は、古くは「言語教育・文学教育論争」「主観主義・客観主義論争」から新しくは「冬景色論争」「文芸研・法則化論争」に至るまで、この「ミメシスとエクスタシス」の対立を軸に行われてきたという側面があります。文学作品の受容に「ミメシス」(認識・理性・わかるといった側面)があることは誰もが認めるところですから、それは文学のもう一方の機能である「カタルシス」の機能にどのような意義を見出すかという見解の違いが巻き起こすのだと言えば、まあ遠くない解釈を導き出せるでしょう。

19.「ミメシス」と「エクスタシス」の対立軸を核に据えて、「作者中心主義」「作品中心主義」「読者中心主義」に文学受容理論を分類してみます。また、この三者を文学の確定性信仰の理論と不確定性信仰の理論に類別していくとします。確定性信仰では、①純粋に作品を分析しようとした「ニュークリティシズム(=新批評)」をはじめとした「作品中心主義」、②確定性を帯びた作者の意図を作品解釈の基準とするE・D・ハーシュの理論とそれに大きな影響を与えたディルタイの解釈学を「作者中心主義」、③確定性の根拠を文化的な背景や構造に置く「神話批評」や「構造主義」を原型論的な「読者中心主義」と分類することができます。また、不確定性信仰では、①ディルタイの解釈学を実存主義的に発展させたM・ハイデガーやH=G・ガーダマー、②文学受容理論を現象学的に発展させたR・インガーデンやW・イザー、そして③脱構築の哲学者J・デリダを「読者中心主義」がその代表格と言えるでしょう。

20.もしかしたら読者である若い教師の皆さんは、或いは現役大学生の読者の皆さんは、私の学生時代の思い出話を読みながら、「すごいなあ」とか「堀先生は学生時代から違ったのだなあ」などと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。当時の大学生はみんな多かれ少なかれこんなものだったのです。時は「ポストモダン」をキーワードとしたニューアカデミズム(以下「ニューアカ」)が大ブームとなっていました。折しも筒井康隆の『文学部唯野教授』(岩波書店)が刊行されたのは一九九○年のことです。浅田彰が『構造と力』(勁草書房)を刊行し、中沢新一が『チベットのモーツァルト』(せりか書房)を刊行したのが一九八三年です。バブル前夜、ちょうどこの時期は、近代の次に来る「新しい大きな物語」が必ず現れるということを誰もが信じていた時代でした。当時の大学生はニューアカにかぶれながら、自分たちの時代の「大きな物語」を探し求めていたのでした。思えば、自分たちの生活実感とズレのない「大きな物語」が必ず現れると誰もが信じることのできた最後の時代だったのかもしれません。

21.しかし、若い皆さんは私たちの世代が気づかなかった、私たちの世代には見えなかった新しい機運をつくり出し始めています。その萌芽が胎動し始めているのを感じます。それが何なのか、私にはわかりません。ただ一つ言えるのは、私たちの世代はそれをいま脅威に感じているということです。

22.裏話をもう一つだけ。私が教師になった時代は、「教育技術の法則化運動」のまさに全盛期でした。私の周りにも「法則化運動」に影響を受けたり、中には運動に参加したりしている教師がたくさんいました。しかし、私は最後まで「法則化運動」には与しませんでした。特別大きな批判意識を感じていたわけではありません。運動の代表である向山洋一が「大学で学んだことは役に立たなかった。現場教師による現場教師のための学びを成立させなければならない」という意味の運動の前提となっている趣旨に、どうしても賛同できなかったのです。私は大学で現場に活きる学びを与えてもらったという実感があります。その実感と「教育技術の法則化運動」の前提とが、私の中でいかんともしがたい齟齬を形成していたのでした。まあ、いまとなっては、何かの運動に与することなくこれまで生きて来られたことが結果的には良かったなと思いますけれど……。

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9月19日(水)

1.学生時代のエピソードを綴っているうちに、この本は世に出ないなという確信めいたものが浮かんで来る。編集者もこの本にはGOサインを出さないだろう。たぶん最終的にはボツになる原稿である。でも、この原稿は他ならぬ僕自身にとって、絶対に書かなければならない原稿だと思えるようになってきた。 一日一節ずつ、夢中になって書き進めている。

2.読者にとって必要なものと著者にとって必要なものとは異なる。どちらが大切かと問われれば、著者にとっては明らかに後者である。だから刊行されなくても、自分という人間を確かめるために綴る。これを書き終わったら新たな指標が生まれて来そうな予感がある。そういう思いに駆られたら、たとえ現実的でなくても取り組む方が良い。

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目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50

教室ファシリテーションへのステップ・1
目指せ!国語の達人 魔法の「音読ネタ」50

堀裕嗣・山下幸編・「研究集団ことのは」著/明治図書

まえがき

拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版)をお読みいただいた方の何人もから同じ質問を受けました。

「教室ファシリテーションの理念はよくわかりました。手法もよくわかりました。でも、いきなり導入してうまく行くのでしょうか……。」

なるほど、その不安はよくわかります。

「本当にうまくいくのか不安で、最初の一歩が踏み出せません。」とか、或いは「実際にやってみたけれど、なんとなくしっくり来ないんです。他に何かコツがあるんじゃないでしょうか。」とかいった声もありました。

こうした声に触れて、私は気がつきました。そういや、子どもたちをつなげるこの手の活動は、ダイナミックな教室ファシリテーションの手法に取り組む以前に、日常的に小さな活動をたくさんしている、と……。教室ファシリテーションで提案したダイナミックな手法は、そうした日常的な取り組みを前提としていたのだ、と……。

今回、「教室ファシリテーションへのステップ」と題して、国語科の授業の在り方について、音読・スピーチ・聞き方・作文・話し合いの五つについて、ネタを含めてシリーズで上梓させていただくことになりました。本書はその1冊目「音読編」です。

国語科の授業で行われる音読には一般に、二つの方向性があります。

一つは文章の理解を促すための活動としての音読、もう一つは文章を理解した後に自分の読みを表現する活動としての音読です。教材の学習の最初に行われる範読や一斉音読、句点読み(通称「まる読み」)などは前者ですし、学習の最後に行われる朗読や群読、表現読みや劇化などは後者です。本書はこの理解としての音読と表現としての音読の両者をバランス良く配置したつもりです。

また、本書の特徴は、すべての実践ネタが「音読をうまくなる」「上手に音読として表現する」ということだけでなく、学習活動として子どもたちを〈つなげる〉ということに大きく配慮した点です。50のネタのうち、教材の読み方を教師に教えてもらい、個人で音読練習をするというタイプのものは一つもありません。そのすべてが、子どもたちが心を一つにして読み合うとか、子どもたちが「ああでもないこうでもない」と交流し合いながら一つの読みを創り上げていくとか、そうした方向性を明確に抱いての実践ネタになっているのです。

国語科に限らず、いま、子どもたちは一人で学習に取り組むことに対して意欲を維持できない傾向があります。また、「勉強になるんだよ」「うまくなれるんだよ」といった目的意識だけでは授業への集中力が続かないという傾向も見て取れます。更には、学習活動に楽しさのしかけがないと、なかなか取り組もうとしない実態さえあります。

しかし、逆に言うと、学習の意義を理解し、みんなで取り組む学習活動があり、そこに楽しさのしかけさえあれば、学びはものすごい勢いで成立するということなのです。その勢いはかつての学習、かつての授業とは異なり、子どもたち相互の相乗効果でノリにノッての学習へと向かいます。そこには長く一斉授業にのみ慣れてきた私たち教師が驚くほどの学びが成立することさえ珍しくはありません。

本書はそんな子どもたちの姿を音読の授業で見てみたい、そんな強い願いを抱く教師たちによって作られました。本書が現場の国語授業の活性化に少しでもお役に立てるなら、それは望外の幸甚です。

あとがき

本書は「研究集団ことのは」にとって、2年振り、12冊目の共著となります。国語科授業の本ということになると10年振りです。

サークルも10年の時を隔てますと、いろいろなことが起こります。メンバーも離脱や加入を繰り返してずいぶんと入れ替わりました。それでも2010年代になったのを機に新たな再スタートということで、本書を企画させていただきました。

「研究集団ことのは」は現在、かねてから研究対象としてきた①深い教材研究を通してより高度で系統的な一斉授業を目指すこと、②国語科の授業づくりをプラグマティックにとらえた言語技術教育を目指すこと、③語り手の自己表出と物語との関係を読者論的に読み解く文学教育を目指すことという三つを捨てることなく、第四の研究領域として④教室ファシリテーションにおける系統的な学習活動を開発することを選びました。本書はその第一弾ということになります。 

思えば、「研究集団ことのは」はファシリテーションのごとき多様性を内部に触発させようとし続けてきたサークルです。

日文協の文学教育・法則化運動・国語学・認知心理学というそれぞれ専門領域の異なる国語教師が4人集まって、異質な者が集って互いが互いから学び合おうというのが結成の動機でした。その後も古典文学を専攻する者、漢文学を専攻する者、教育社会学を専攻する者、授業づくりネットワークの中心的な活動家、北海道の教室ディベートの第一人者などなど、常に異質な者をメンバーに加えてきました。長くいっしょに研究活動をしていると、当初は異質であった者たちもだんだんと発想が近づいてきます。井の中の蛙化していきます。私たちが最も怖れるのは、学び合う異質な者同士が響き合いすぎてしまうと、次第に似た者同士になってしまい、しかもそれを自分たちが自覚できなくなってしまうのだということでした。私たちはだれよりそのことを熟知している集団であると自負しています。

ファシリテーションを私たちなりにごくごく簡単に定義づければ、「異質で多様な者たちが集まって交流することによって、互いに触発し合い、最終的には学びのブレイクスルーが起こる、その過程を促進すること」とでもなりましょうか。私たちはずーっとそれを心から求め、常に学びのブレイクスルーに飢え続けている、そういうサークルだという自己認識をもっています。思えば、私たちはファシリテーションと出逢うべくして出逢ったのではないかとさえ思われるほどです。

こうした活動を長く続けてきたおかげで、いまや「研究集団ことのは」には、いわば「ピン芸人」とでも言うべき、一人で独自の提案をしているメンバーがたくさんいる、そんな集団になりました。指導主事になった者も一人や二人ではありません。若くして管理職になった者も一人や二人ではありません。おそらく我々が常に異質な者を取り込んできたことによつて、広い視野からものを見たり、多様な視点から物事を分析したり、異なる領域や分野の理論・実践を融合したりということを、ごく自然の日常としているせいなのだと思います。

「研究集団ことのは」はこれからもまだまだ成長し続けるでしょう。本書もまだまだ一つの過程に過ぎません。その自覚を腹の底から抱いている……実はそれこそが我々の強みなのだと感じています。

このたびは企画から出版に至るまで、編集の及川誠さんには並々ならぬご助力をいただきました。特に、謙虚な姿勢、謙虚な言葉遣いで強く原稿を督促する……というモデルを示していただきました。私たちも子どもたちへの接し方の一つとして参考にさせていただきたいと思います(笑)。ありがとうございました。

瀬木貴将/MOON ROAD を聴きながら…
2012年9月30日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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エピソードで語る教師力

皆さんは「戦場のメリークリスマス」という映画を御存知でしょうか。一九八三年公開、大島渚監督の大ヒット作です。デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし、トム・コンティらの出演した、私たちの世代にとっては想い出深い映画でもあります。私がこの映画をロードショーで見たのは高校二年生のときでした。

この映画に印象深いシーンがあります。

日本軍の捕虜となった英国軍人のデビッド・ボウイが軍律会議にかけられます。軍律会議にかけられても反抗的な態度を崩さないデビット・ボウイに対して、内藤剛志演じる審判官がその人物像を把握しようと問い詰めます。

Yo​u must tell us your pass history.

しかし、デビット・ボウイは即座に、吐き捨てるようにこう言います。

My past is my business.

「お前はこれまでの生育歴を話すべきだ」と言った審判官に対して、「過去は私だけのものだ」とデビット・ボウイが返した……といったような意味合いですね。もしかしたら、あくまで私にとって印象深いシーンであって、一般的には、この映画の根幹をなすシーンとはみなされていないのかもしれません。しかし、私はかなり重いシーンだと感じています。私が高校時代からこのシーンを印象深く感じたのは、おそらくここに日本人と西洋人との一番の違いがあるように感じたからなのではないか、自分ではそう感じています。

「エピソードで語る教師力」という企画が持ち上がったとき、実はちょっと引いてしまっている自分を感じていました。山田洋一先生の発案でした。私と山田洋一先生に編集者が三人、五人で飲んでいたときのことです。確か新宿の魚と日本酒のおいしい小さな居酒屋でした。いろいろな先生方に、どのようにいまの自分が形成されてきたのかをエピソードを中心に語ってもらおう、それがこれから教師人生を充実させていく若い読者のヒントになるのではないか、そういう発想での提案だったように思います。

私は「それはいいね」と応じました。その提案の時点で、私の頭の中には、自分がそれを書き綴るメンバーにされるという頭がなぜかなかったのでした。山田洋一先生の提案だったものですから、なんとなくこの企画は小学校の先生の企画だと感じていたのです。しかし、話が進んでいくと、執筆者は十人、小学校教師が七、八人に中学校教師が二、三人、そういう話になってきました。どうやら小学校教師の企画なのだろうと考えていたのは私だけで、その場にいた私以外の人たちは、みんな私も書くものだと考えていたようです。

それから数ヶ月、自分には何が書けるのだろうかとなんとなく頭の片隅に意識されている、そんな毎日が続きました。どうも自分には若い教師に「こういうふうに教師生活を送るといいよ」というようなエピソードがないのです。

確かに、授業力を高めるためにどんな授業技術をどんなふうに学んできたかということなら書けます。自分の話し言葉を鍛えるためにどんな取り組みをしてきたかということも書けます。そのような目的的に取り組んできたこと、自分で意識的に取り組んできたことならば、若い教師に役立つようにといくらでも書き記すことができます。しかしそれは、「○○という目的ならば○○するといいよ」という一点集中型の提案であって、私という教師の力量がどのように形成されてきたのかということとは距離があるのです。

私はこれまで幾つかの書籍を上梓させていただきました。しかし、それらは私の教師生活の一部を目的的に切り取り、まさに「○○という目的ならば○○するといいよ」という提案の集積なのです。決して、「私はこうしてきた」「こういう努力があっていまの私がある」というような報告的な提案ではないのです。むしろ私は、そういう提案の仕方を避けてきたところがあります。

本を書くということは、一般には「テーマ先にありき」です。テーマが先にあって、そのテーマに対応するような事例を自分の経験から引っ張り出してくる。そうした経験の中には、書いて良いものもあれば悪いものもある。読者に伝わりやすいものもあれば伝わりにくいものもある。そうした中から、書いて良いもので読者に伝わりやすいものだけが具体例やエピソードとして用いられる。そういうふうに出来上がっていくものなのです。決して、学級経営の本には著者の学級経営がまるごと書かれているわけではありませんし、生徒指導の本に著者の生徒指導がまるごと書かれているわけでもありません。そういうものなのです。

しかし、「エピソードで語る教師力」となると、そうはいきません。いまの自分の実践力がどのように形成されてきたのかを語る、しかもそれをエピソードを中心に語るということになると、書いていけないことは同じように書けないにしても、読者に伝わりにくい部分についてはなんとかして少しでもわかりやすく書くことをしなければ、表層的なものになってしまいます。しかも、私にはデビッド・ボウイの科白のように「過去は自分だけのものだ」という感覚がありますから、どうもそういうエピソードをわざわざ他人に読んでもらう必要はないのではないかと思えてしまうのです。

しかし、今回はせっかくの御依頼ですし、また、酔った上とはいえ一度書くと約束したことでもありますので、書いてみようと思います。しかも、「戦場のメリークリスマス」で私が感じたように、日本人にはその人の歴史といっしょに提案が提示された方が、心情的なわかりやすさが出るということもわからないではありません。ですから、今回は思い切って書いてみようと思うのです。

ただし、最初に読者の皆さんにご了承いただきたいことがあります。

セミナーのQ&Aのコーナーで参加者から「堀先生はどんなふうに力量形成を図ってきたのか」と尋ねられることがあります。或いはここ数年流行している「ライフヒストリー・アプローチ」の手法を使って力量形成の歴史を語るということを経験したこともあります。いつもこういうセミナーで話をしての率直な感想は「どうも自分の教師としての成長の根幹をはずしているな」という思いでした。理由は幾つかありますが、ごくごく簡単にいえば、まずは、私自身がそうした自分史のようなものを語ることに意味を見出せていないこと、短時間で語ることは無理だと最初から感じてしまって端折って話をすること、という二つの理由を挙げることができます。そして実は、こういう場で私が自分史を語れない最も大きな理由は、国語教育の話と学級経営・生徒指導の話とを結びつけて話をしないと自分の意図が伝わらないものですから、国語教育のセミナーにおいても、学級経営・生徒指導のセミナーにおいても、その参加者の傾向からその両方を結びつけて語ることを避けてしまうという事情があるのです。

私は次章から、私が教師を志した学生時代からこれまでにどんな問題意識を抱き、どんな意識でどんなふうに生徒たちに接し、どんな意識でどんなふうに研究会に参加し、どんな意識でどんなふうに実践研究に取り組んできたのかを語ります。しかし、そこには、ある程度の国語教育の専門用語や先行研究などを掲載することが避けられないのです。しかもその中には、若い読者が知らないような、戦前に刊行された本とか戦後間もなくに流行した実践手法なども出て来ます。それだけをご了承いただきたいのです。ただし、これから語られるエピソードの本筋に深くは関係しないという部分については、思い切って端折ります。言い訳にしかなりませんが、国語教育の専門家でなくても文意が理解できるように書いたつもりではあります。

私がこれから書くことは、おそらく教師としてはかなり異色だと思います。これまで様々な人たちに異色であるという指摘を受けたことがあります。もちろん、私は教員養成カレッジから公立中学校の国語教師になっただけの人間ですから、教師としての経歴はまったく異色ではありません。おそらく問題意識の立て方が異色なのだと思います。しかもこれほど振り子の振れる教師人生、それも自分で意識的に振り子を振るという教師としての在り方も異色だろうと思います。

仲の良いサークル仲間とか、呑んで話をした研究仲間とか、そういう人たちにさえ、あまり私の問題意識は理解されたことがありません。ですから、これから語る私が教師を志して以来二十五年あまりエピソードが、読者の皆さんに役に立つのかどうか甚(はなは)だ心許(こころもと)ないというのが正直なところなのです。そしておそらく、読み物としてもそれほどおもしろいものではありません。

また、せっかく私にこの本を書くように薦めてくれた山田洋一先生や編集者の皆さんの期待を裏切ってしまうのではないかという不安も抱きます。「私が書いて欲しかったのはこんな本ではない」と。もしかしたら「こんな本は出版できない」と言われるのではないかという不安さえ抱きます。

この本はおそらく、私の実践にではなく、私という教師に、私という人間に興味を抱いてくれている数少ない読者にしか興味をもって読めないものでしょうし、私という教師に興味を抱いた人にしか役立つこともないものでしょう。それでも、学生時代以来の様々な資料を繙きながら、正直には書いていきます。学生時代や新卒時代のエピソードには、著者も気づいていないような過去の美化が若干はあるのかもしれませんが、私はいまでもその頃の思いを生々しく覚えているつもりです。少なくとも、いま現在、私の頭の中にある学生時代や新卒時代はこういうものであるということだけは確かです。

では、まずは思うところがあって、学生時代を後まわしにして、新卒時代のエピソードから語り始めたいと思います。はじまりはじまり……(笑)。

THE MAMAS & THE PAPAS/CALIFORNIA DREAMIN'を聴きながら

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『スペシャリスト直伝!教師力アップの極意』

『スペシャリスト直伝!教師力アップの極意』

まえがき

TWITTERを始めたのは2011年の春のことです。

学級経営や生徒指導など、教師としての仕事の在り方を140字以内にまとめて軽い気持ちでアップすると、思いの外多くの反応が返ってきました。一つツイートを上げる度にコメントが寄せられたり、お気に入りに登録されたり、リツイートされたり……。

最初はそうした反応がただおもしろくて、どんどんツイートを重ねていたのですが、次第に疑問を抱くようになっていきました。それは教師にとって耳ざわりの良いツイートについてはずいぶん多くの反応があるのですが、教師を批判するツイートについては明らかに反応がにぶいのです。

「ああ、この人たちは自分のツイートを癒やしに使っている……」

そんなことを感じたものです。

実は私のツイートには、無条件に教師を応援するものなど一つもありません。むしろ、一般的な教師の在り方に批判的なものばかりで構成しているというのが他ならぬ私自身の実感です。しかし、140字という限定された表現の在り方が、そしてひと目見ては流れていく情報としての処理のされ方が、私の意図を超えて耳ざわりの良いものに見え、口当たりの良いものとして機能してしまう……そういう現実がありました。

本書は、私がTWITTERでつぶやいたもののうち、リツイートの多かったものを40ツイート抽出して、それぞれに解説を施したものです。どれも学級経営や教師としての在り方の心構えを提示しています。その意味では教育技術の極意というよりは、教師としての構えの極意になっています。

私は既に、学級経営の技術については『学級経営10の原理・100の原則』を、生徒指導の技術については『生徒指導10の原理・100の原則』(ともに学事出版)を上梓しています。本書はそれらの教育技術がどのような理念・思想に支えられているのか、その基盤についてできるだけわかりやすくということを念頭に書きました。どうぞ両著とともにお読みいただければ幸いです。

本書は5つの章で構成しました。

第1章は「教師の資質」と題して、すべての教師が共通して目指すべき5つの資質について私の考えを述べました。「いつも笑顔でいること」「孤独に耐える力をもつこと」「無駄とわかっていることに取り組めること」「子どもといっしょに馬鹿げたことを一生懸命にやるのを楽しめること」「いつでも変われること」の5つです。私はこの5つをすべての教師が身につけたら、教育問題はすべて解決するのではないかとさえ感じています。

第2章は「教師の姿勢」と題した、子どもや保護者と接するうえでの心構え集です。教育現場でよく見られるネガティヴな事象を取り上げて、その対策がどうあるべきか、どのような考え方のもとに対応していくべきかについて述べています。

第3章は「教師の職場」と題して、主に同僚との関係をどのように築きながら仕事を進めていくべきか、その勘所について述べています。また、現在の職員室に多く見られるネガティヴな構造の所以を指摘するとともに、その対策もできるだけ提示しようと心がけました。

第4章は「教師の成長」、第5章は「教師の表現」と題して、若い教師がどのように力量形成を図っていけばよいのか、どのように表現を洗練させていけばよいのか、そのコツを私が経験した実際のエピソードや資料をふんだんに用いて、私なりの見解を提示したつもりです。

本書が右も左もわからない新卒教師に、若さで乗り切ることに限界を感じ始めた中堅教師に、最近の子どもがわからなくなつたと嘆くベテラン教師に、総じて学級経営や生徒指導に悩んだり不安を感じたりしているすべての教師に、少しでもお役に立てるなら、それは望外の幸甚です。

【目次】

第1章 教師の資質 力量アップの基礎-全ての教師が目指すべき5つの資質-

1.教師には5つの資質が必要である

2.いつも上機嫌な大人として立つ

3.孤独に耐えながらいつも笑っている

4.無駄もまた楽しむ

5.無意味も継続すると意味をもつ

6.自信がないと成長できない

第2章 教師の姿勢 心構えの極意-子どもや保護者との接し方-

1.ヒドゥン・カリキュラムを意識する

2.怒鳴ることは最終手段である

3.自分のキャラクターを分析する

4.成果を挙げるには続けなければならない

5.結果を出すことに貪欲にならなければならない

6.何でもできると思ったら大間違いである

7.コントロールしきることは不可能である

8.自らの経験を絶対視しない

9.子どもに「不意に」をつくる

10.自らの「在り方」を問う

第3章 教師の職場 コミュニケーションの極意-同僚との関係づくり・仕事の進め方-

1.学級経営は相対的に評価される

2.「正しすぎる論理」は括弧に括る

3.違いを認め合い、補い合う

4.教師も生徒も肯定的に見る

5.仕事の本質は「認められること」である

6.「おまかせします」と言ってみよう

7.「適度な抵抗」を乗り越える

8.脚本を書き演技しなければ評価されない

9.指導力不足教員に必要なのは研修であって排除ではない

10.「不在」を嘆かず、「不在」に飢える

11.死ぬくらいなら逃げてください

12.複数の師をもつ

第4章 教師の成長 力量アップの極意-自らの成長を実感しよう-

1.〈システム〉を構築してこそ一人前になれる

2.「健全な野心」をもつ

3.教師の敵は「慣れ」と「過信」である

4.発展途上人にこそ学ぶべきである

5.「徹底さ」と「大胆さ」をあわせもつ

6.四つの〈シコウ〉を旨とする

7.「自らの成長を実感すること」以上の楽しみはない

第5章 教師の表現 伝え方の極意-魂の載った言葉を語ろう-

1.一人で研究授業・研究協議をする

2.定番の自己紹介ネタをもつ

3.文章に教師の成長があらわれる

4.教師は文章を書き続けなければならない

5.魂の載った、生々しい言葉を語る

あとがき

編集担当の及川さんには申し訳ないのですが、いま、本書を書き上げてみて、「この本は売れないだろうなあ……」と感じています(笑)。

それは読者が知りたいだろうなあということを想定して書くのではなく、私が書きたいことを書き散らしたという感があるからです。これまでで私という教師の「人間」が最もよく出ている本になっていることは確かですが、それが教育書としてどうなのかと著者自身も懐疑的であるというのが正直なところです。

しかし、本書は何と言いますか、見ようによっては価値のある一冊なのではないか、という感慨を抱いてしまうのも確かです。それは本書が「本音だけでできている」という特徴をもっているからです。

一般に教育書を書く場合には、若者向きの本だからとか、世の中にはいろいろな教師がいるからとか、女性教師が読んでも実践できるような内容をとか、様々な要因で大袈裟に強調したりバランスをとったりということがあるものです。本書にはそうしたことが一切ありません。その意味では、少なくとも稀(まれ)な教育書ではあるかも知れません。

依頼をいただいたときには、編集者も著者自身もこんな本が出来上がるとはまったく想定していませんでした。しかし、「スペシャリスト直伝!」のシリーズに一冊くらい、こんな異色の構成の本があっても良いのではないかと、いまは開き直っています。

次の本はかっちりとプロットを立てて書くことをお約束するので、今回だけは許してください。 

さて、本書を執筆するにあたっては、学生時代から現在に至るまで、私が教師を志してから三十年近くにわたって書き残してきた様々な記録、資料を繙くことになりました。学生時代に書いたレポートから子どもたちの作文や同僚との写真、果ては恩師に向けて書いた弔辞に至るまで、資料庫になっているロッカーを引っかき回しました。この経緯があったおかげで、本書執筆が自分の教師としての力量形成を省みる、貴重な機会となりました。

思えば、教職を志して以来、多くの方々と出逢い、多くの方々の影響を受けてここまでやってきたのだと改めて深い感慨を抱いた次第です。これまでの書と異なり、お世話になった方々のお名前はすべて本文に掲載してありますので、ここで重ねてお名前を上げることは致しません。

しかし、1986年から2001年までの15年にわたって、私という人間を導いてくれた師匠森田茂之の影響を改めて実感する機会となったことは確かです。自分はこれほどまでに幸せな大学生活を送っていたのだな、あの四年間が間違いなくいまだに私を成長させ続けているのだなという思いが、腹の底から湧き上がってきた感じが致します。

森田よ、ありがとう。来世でまた一杯やるのを楽しみにしています。肴は相も変わらずホッケの開きとイカの一夜干しで……。

教師としての在り方は、その教師がどんな人と出逢ってきたかで決まります。私は幸いにも良き人たちと出逢い、いまなお熱心で有能な人たちに囲まれています。家族や友人はもちろん、職場でも研究会でもです。

今後、いまだ見(まみ)えていない人たちとどんな出逢いをすることになるのか、どんなふうにつながって、どんなものが生み出されていくのか、そんな期待に胸を躍らせる自分を実感しながら、あとがきとさせていただきます。 

布施明/シクラメンのかほり を聴きながら…
2012年9月10日 自宅書斎にて 堀  裕 嗣

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情報は無料(ただ)じゃない

「情報は無料(ただ)じゃない」

若い頃、先輩教師によく言われた言葉である。大学時代の師匠も、国語教育関連の先達も、地元の官製研究会の先輩教師も、民間教育研究団体の先達も、みんな同じことを言っていた。ただ一つ無料(ただ)なのは勤務校の心ある先輩教師の教えである、と。ありがたいことなのだ、と。そうやって「恩送り」をして行くものなのだ、と。

現在(いま)の若者にこんなことを言ってもまったく通じないのだろうな。

でも、僕はいまなお、この構造は活きていると感じている。ネット上の情報から何かを目を見開かれるようなものを学んだという経験がいまだに一つもない。目を見開かれるような情報は雑多で些末な小さな情報の集積にあるのではない。発信者の発想法、構え、在り方、要するにインストールすべきソフトにあるのではなく、OSの方にある。ネット情報の一番の難点は、このOSの在り方を学べないことだ。

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9月9日(日)

1.ちょっと経験したことのないような激しい雨が降り続けている。昨夜12時過ぎに降り始め、ずーっと降り続けている。 こんな日はどこに出かけることもなく、じっと家に籠もっているのがいい。

2.養護教諭や栄養士さんと日常的にコミュニケーションをとっていると、体調管理や栄養管理、衛生管理などについて、教師の知らないことがたくさん学べます。用務員さんや業務員さんなど、子どもたちが直接的に接しない人たちがどう感じているかを知ることも、子どもたちに語るべきネタとして大きく機能します。こうした人たちとたくさん話をしましょう。

3.【残席8】累積科学国語教育研究会in東京。10月6日(土)/上智大学。参加費3000円。あの親塾・教師塾の多賀一郎先生、東京学芸大学の千田洋幸先生をお迎えして。FGの藤原、教室ファシリテーションの堀、そして多賀先生が模擬授業で提案します。
累積科学国語教育研究会は主張の異なる実践者・研究者の様々な主張を取り上げその共通点と相違点を明らかにするという学習会を多数開催し、小さな成果を積み重ねることによって国語教育を「累積科学」にしていこうという取り組みです。これまで30回の学習会と4回の研究大会を開催しています。
http://kokucheese.com/event/index/46174/

4.【残席7】第2回学級づくりプログレッシヴセミナーin札幌/テーマは道徳の授業づくり・学級づくり/2012年10月13日(土)・14日(日)/札幌市内/6000円/佐藤幸司・桃崎剛寿・山田洋一・堀裕嗣/とっておきの道徳授業小・中編者揃い踏み
この機会を逃したら、佐藤幸司・桃崎剛寿両先生のお話をまとめて聞く機会はないかもしれません。少なくとも北海道ではこれが最初で最後になるのではないでしょうか。主催者としては、そのくらい貴重な機会だと思っています。 お誘い合わせのうえ是非ご参加くださいませ。
http://kokucheese.com/event/index/46043/

5.〈チーム力〉は貢献し合うことであって依存し合うことではありません。しかし、依存を拒否するような構えがあるのでは崩壊します。言葉でいうのは簡単ですが、いざ実現しようとなると、高い壁が立ち塞がっているのも現実です。成功するか否かはリーダーの度量、懐の深さが決めるところがあります。

6.あらゆる業界でカンファランスの必要性が叫ばれています。教師もチームで動く時代です。生徒指導もチームを行うことを旨としなければなかなか機能しなくなりました。父性型教師もチームビルディングを勉強すべきです。

51qhs5v9o6l__sl500_aa300_7.BEST SONGS/原田真二/1998
★★★★

全曲リメイク。録り直し。懐かしい曲から知らなかった曲まで。1978年から20年間、原田真二がどんなふうに成長したのか、何にこだわりを持ち続けてきたのか、そんなことが感じられるベスト盤になっている。

8.朝からゲラ校正。飽きたので、拡販のための雑誌原稿を1頁書く。なんか本を書くための雑務に追われている……という感じ。座無なんて言っては編集者に悪いけれど、早く終わらせて本筋の方の仕事がしたい。それが本音だ。もう2時近いじゃないか。ちょっと焦るなあ。せっかくの雨の日曜日なのに。

31r3x5b0ppl__sl500_aa300_9.MR.70'S YOU SET ME FREE/CHAR/2003
★★★★★

1978年にCHARと原田真二と世良公則がBIG THREEなんて言われてた。たぶんそんなふうに言われていたのは年明けから春までの数ヶ月に過ぎなかったように思う。でも、小学生だった僕らに与えた衝撃にはすごいものがあった。このアルバムもとにかくかっこいい。

41yxrzwqgbl__sl500_aa300_10.TIME/仲井戸“CHABO”麗市/2002
★★★★★

麗蘭名でクレジットされている曲が多く収録されている。ライヴの音源も3曲収録されている。「時代は変わる」というライヴ音源はチャボ特有の語りの真骨頂。素晴らしい。

11.いかに広い視野で適切な判断ができるかは、どれだけの生徒指導事例を知っているかということが決めます。生徒指導や教育相談に事例研究が多いのはそのためです。日常的に様々な場で事例を集めることを心掛けましょう。

12.服装や礼儀など、形にこだわることは大切ですが、形だけにこだわって判断してはなりません。いろいろと問題があるのに行事への取り組みは素晴らしいとか、学ぶ意欲は高くもっているといった「新しい子どもたち」が現れ始めています。バランス感覚をもって子どもたちを評価しましょう。

13.考えることと考えすぎることとは紙一重である。だから考える人は、考えすぎてしまったときに自己を保つ仕方と、考えすぎてしまったことを大事だと思いすぎない自重の在り方とを、ともに身につけなければ世の中と折り合いがつかなくなる。特にどこまで表現して良いのかという線引きに難しさを感じる。

14.まったく意識になかったのだが、メールを見ると、どうやら10月末までにこれまで計画になかった本を1冊書かなければならないらしい。いまメールを確認していて気がついた。そう簡単に書ける本じゃない。あと40日か。無理だな、と思うけど書かなくちゃな。俺が言い出しっぺだったような気がする。

15.約束していた仕事を忘れるようになったら、もう社会人として終わりだな(苦笑)。

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縦糸

「織物モデル」の縦糸は、「教師-生徒関係」の比喩です。「縦糸」ですから、ごくごく簡単に言えば、教師と生徒とは立場か異なるのだ、決してフラットな関係ではないのだ、教師の指示を生徒はきかなければならないのだ、そんな両者の関係を指しています。

こういう言い方をすると、教師と生徒は同じ一人の人間として、フラットな関係を構築するのが良いのではないか、或いは逆にそんなことはわざわざ強調するまでもないあたりまえのことではないか、そんな声が聞こえてきそうです。

しかし、それはいけません。私たちは2011年春、いわゆる「3.11」を経験しました。かつて阪神・淡路大震災のときには地震が早朝だったこともあって学校教育が話題に上ることはありませんでしたが、東日本大震災はまさに学校で授業が行われている真っ最中の出来事でした。既に下校していて帰宅途中という小学校低学年の子どもたちがたくさんいる時間帯でもありました。私には気仙沼市に非常に親しい小学校教師の友人がいるのですが、話を聞くと、子どもたちを導いてのそれはもう壮絶な避難が行われたようです。

東日本大震災が私たち教師に与えた教訓は、私たちの仕事がいざというときには子どもたちを安全に避難誘導する、そういう立場にあるのだということです。もちろん、東日本大震災のごときはそうそう起こることではないでしょう。しかし、年に数回行われる避難訓練を消化行事的に行ってる、少なくとも東日本大震災のごときを想定した高い緊張感の中で行っているという学校はそうそうないのではないでしょうか。

教師も子どもも避難しなければならないと慌てている。恐怖感がすぐそこの目の前にある。そんなとき、人は「友達のようなフラットな関係の人」の言うことがきけるのでしょうか。低学年より中学年、中学年より高学年、高学年より中学生、中学生より高校生と、学年が上がるに従って、自分で判断したいと感じてしまう、それが現実なのではないでしょうか。事実、被災地の大人たちが津波を見に行ったり家に私物を取りに行ったりして、多くの方々が命を落としたという報道がなされたのです。

私は言うまでもなく中学校の教師ですが、3.11以来、勤務校の若手にも研究会に参加する若手にも、教師と生徒との縦糸(縦関係を成立させること)の重要性を強く主張するようになりました。東日本大震災には学校教育において、教師がどういう存在であるのかを改めて考える機会となった……そういう側面があります。

学校教育は基本的に「平時」に行われる案件ばかりで検討されがちです。教師は「平時のリーダー」であり、子どもたちの人間関係の調整や楽しい行事の運営、学力を向上させる授業の在り方などを中心に日常を過ごしています。しかし、教師は「有事」においてもそのリーダー性を発揮しなければならないのです。東日本大震災はもちろんですが、附属池田小学校や大津のいじめ事件など、危機管理の在り方が問われた様々な事件の教訓を忘れてはなりません。

話が大袈裟だなどと思ってはなりません。教師は「平時のリーダー性」とともに「有事のリーダー性」について常に意識しながら日常を過ごさなければならないのです。これは重大なテーゼです。学級経営における「縦糸」(=教師-生徒関係)の在り方を軽視してはならないのです。

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9月8日(土)

1.【残席9】累積科学国語教育研究会in東京。10月6日(土)上智大学。参加費3000円。あの親塾・教師塾の多賀一郎先生、東京学芸大学の千田洋幸先生をお迎えして。FGの藤原、教室ファシリテーションの堀、そして多賀先生が模擬授業で提案します。http://kokucheese.com/event/index/46174/

2.10/6(土)累積国研の参加者がじわりじわりと増えてきています。「研究集団ことのは」が最も力を入れてつくっている研究会なので嬉しいです。今回の講師多賀一郎先生は雰囲気はソフトですが、かなり熱い提案をする方です。ぜひお誘い合わせのうえご参加下さいませ。お待ちしております。

3.今回は初の東京開催。「心をゆさぶる国語授業」を提唱する多賀一郎先生、ファシリテーショングラフィック入門の藤原友和先生をお迎えして、物語の模擬授業でそれぞれの主張を展開していただきます。私堀も「物語の語り手の人物像」を読み取る模擬授業をします。どうぞお誘い合わせの上ご参加下さい。

4.累積科学国語教育研究会は主張の異なる実践者・研究者の様々な主張を取り上げその共通点と相違点を明らかにするという学習会を多数開催し、小さな成果を積み重ねることによって国語教育を「累積科学」にしていこうという取り組みです。これまで30回の学習会と4回の研究大会を開催しています。

5.【残席7】第2回学級づくりプログレッシヴセミナーin札幌/テーマは道徳の授業づくり・学級づくり/2012年10月13日(土)・14日(日)/札幌市内/6000円/佐藤幸司・桃崎剛寿・山田洋一・堀裕嗣/とっておきの道徳授業小・中編者揃い踏みhttp://kokucheese.com/event/index/46043/

6.この機会を逃したら、佐藤幸司・桃崎剛寿両先生のお話をまとめて聞く機会はないかもしれません。少なくとも北海道ではこれが最初で最後になるのではないでしょうか。主催者としては、そのくらい貴重な機会だと思っています。 お誘い合わせのうえ是非ご参加くださいませ。

7.「オープン・クエスチョン」という語をご存知ですか。「どんな感じ?」「何が印象に残ってる?」などのように、YES-NOでは答えられない問いを発することで、相手にたくさんしゃべってもらうための質問技術です。母性型教師は聞き上手である必要があります。こうした技法を学ぶことが大切です。

8.共感的理解というとカウンセリングの先輩特許のようなイメージがありますが、最近は特別支援教育の領域に体制づくり、システムづくりまで視野に入れた有効な提案が多く見られます。

9.読者のみなさんは「織物モデル」をご存知でしょうか。私も懇意にさせていただいている北海道の横藤雅人先生が提唱されました。“学級経営の理想像”を提示したモデルです(『必ずクラスがまとまる教師の成功術~学級を安定させる縦糸・横糸の関係づくり』野中信行・横藤雅人著・学陽書房・2011.03)。

10.「織物モデル」は学級経営の心構えをもつうえで、学級担任にとって大変に役立つ、有意義なモデルです。私の教師人生において、これほどまでに学級経営の本質をシンプルかつ的確にとらえたモデルに出逢ったことがありません。それほど、私はこのモデルを学級担任が知っていることは大切なことだと感じています。

11.その意義はおおまかに言えば二つです。一つは、学級担任が学級づくりをしていくうえで確かな方向性をもてること、いま一つは、学級担任が自分の学級づくりがうまくいっているか否かの点検の観点となることです。

12.しかもこの二点において、「織物モデル」を指標とすればまず間違いない、それほどまでにこのモデルの完成度は高い、私はそう感じています。このモデルが長く教育界で議論されてきた二つの方向性、二つの主義をバランスよく配置しているからです。いわば「織物モデル」は戦後70年の議論を踏まえ、それをシンプルに構造化することに成功したのだといえます。

13.ただし、現在、「織物モデル」は俗に〈縦糸・横糸論〉と呼ばれ、様々な教育実践者に研究会やセミナーで取り上げられるようになってきています。それらは微妙なところでニュアンスが異なっているようです。私が高く評価しているのはあくまで横藤先生の提唱した「織物モデル」(=縦糸・横糸論)であって、その他の論者が独自に修正を加えたものについてはすべて改悪だと捉えています。まずはこのことを確認したいと思います。

14.教師の職務には「仕事」と呼ばれるものと「実践」と呼ばれるものとがあります。「仕事」はやらなければならないこと、「実践」は他ならぬ自分だからこそこの子を伸ばすことができたというタイプの子どもとのかかわりを言います。「仕事」をこなしつつ、「実践」を積み上げるのです。

15.かつては自分も子どもであり、自分の親も保護者だったのです。教師としての自分の対応を自己評価するときは、自分の親だったらどう思うかな、と考えてみると進むべき道が見えてくることが多いように感じています。

16.織物は強靱な縦糸と美しく彩られた横糸とでできています。縦糸がなければ織物はほつれてしまいます。しかし、横糸の彩りが様々なコントラストを構成することによってこそ織物の美しさは成り立っています。

17.「織物モデル」は、この縦糸と横糸を、それぞれ「教師-生徒関係」「生徒-生徒関係」に比喩的に置き換えることによって、学級経営の理想像を提示するものです。一部に縦糸・横糸ともに「教師-生徒関係」の比喩としてとらえる向きがありますが、そういう意味ではありません。少なくとも私はそうとらえています。おそらく横藤先生の提案の意図も私のとらえと同様だろうと思います。

18.つまり、「織物モデル」は、教師と生徒とがどのような関係を結ぶべきなのか、生徒同士にどのような関係を結ばせるべきなのか、更には二つを総合して「教師-生徒関係」と「生徒-生徒関係」とがどのような関係性をつくるべきなのか、この3点を一つのモデルとして同時に提案しているのです。しかも、しつこいようですが、シンプルかつ的確にです。私か驚いたというのもこの点においてです

19.「信じて待つ」という姿勢に必要なのは耐性ではありません。本当に信頼することです。それができない場合には、安易に行うべきではありません。

20.自分の得意分野は徹底して伸ばしましょう。決して自分のためだけなのではなく、子どもため、同僚のため、学校のために伸ばすべきなのです。

519mj9zwnal__sl500_aa300_21.音楽殺人 MURDERD BY THE MUSIC/高橋幸宏/1980
★★★★★

中学時代から数え切れないほどに聴いたアルバム。CDラックにふと見つけた。いつCDに買い換えたのかももう忘れてしまった。1曲目から当時の幸宏の世界を堪能できる。

22.誰もが父性型教師になれるわけではありません。実は活躍する父性型教師の中にも、本当はやりたくないと思っている人も少なくないのです。教師は年齢を重ねるにつれて、自らのキャラクターによって幾つかのタイプに必然的に分かれていくものです。自分に合った教師像こそが自分の理想の教師像なのだと考えられるようになりたいものです。

23.優先順位の判断というのは実は学級担任をやっていてもかなり多く経験することです。その一つ一つを事例としてまとめておくことをお勧めします。

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9月7日(金)

1.今日は授業は少ないが、落成式典関係の打ち合わせ、学年会など会議が目白押しの予定。ちょっと憂鬱な朝。

2.【残席11】累積科学国語教育研究会in東京。10月6日(土)上智大学。参加費3000円。あの親塾・教師塾の多賀一郎先生、東京学芸大学の千田洋幸先生をお迎えして。FGの藤原、教室ファシリテーションの堀、そして多賀先生が模擬授業で提案します。http://kokucheese.com/event/index/46174/

3.【残席7】第2回学級づくりプログレッシヴセミナーin札幌/テーマは道徳の授業づくり・学級づくり/2012年10月13日(土)・14日(日)/札幌市内/6000円/佐藤幸司・桃崎剛寿・山田洋一・堀裕嗣/とっておきの道徳授業小・中編者揃い踏みhttp://kokucheese.com/event/index/46043/

4.授業は2時間。ともに「月の起源を探る」の読解。空き時間は事務仕事。放課後の会議の打ち合わせ。放課後は新校舎落成式典関係の会議。両校の教頭をはじめ、5人でかなり細かいところまで打ち合わせ。今月末に小中合同会議をもつことで合意。いよいよ忙しくなりそうな雲行き。まあ仕方ないけれど。

5.地域には様々な職種の人が集まるコミュニティがたくさんあります。月に一度くらいが一番良いのですが、そうしたコミュニティに定期的に参加して、教師とか学校とかを相対化する目をもちたいものです。ちなみに私は、ファシリテーション系の市民交流イベントによく参加します。

6.看護・介護関係の本を読むことをお勧めします。教育と看護や介護との間には、相違点もたくさんありますが、それ以上に共通点がいっぱいあります。とても勉強になります。私は『ためらいの看護-臨床日誌から』(西川勝・岩波書店・2007.10)という本を読んで、教育観が変わるほどの衝撃を受けたことがあります。

41smtgbvksl__sl500_aa300_7.『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一・講談社新書・1996.07
★★★★

書店で平積みされていたので、新刊だと思って買ったのですが、既に読んでいた本でした。どうせ読み始めたのだからと思って最後まで再読しました。昔読んだときには感じなかった新たな事柄がずいぶんと浮かんできました。特に「いじめ」について考えさせられました。別にいじめの本ではありませんが……。

8.周りの人から学べるか否かは、実は自分の興味関心の広さが決めています。木工の技術に興味を抱いていれば用務員さんは尊敬の対象になりますし、料理に興味を抱いていれば栄養士さんに訊きたいことがいっぱい出て来ます。学びも人間関係も、視野の広さと密接に関係しているのです。

9.子どもにしても保護者にしても、人を楽しませるのは大がかりで個性的な話術ではありません。芸人の真似や駄洒落はかえって品位を落とします。日常生活の中でだれでも経験するようなちょっとした不満、恥ずかしさ、照れくささなどを普段から収集するようにしましょう。

10.若い先生もいつまでも友人型教師でいられるわけではありません。様々な指導場面に立ち会いながら「自分はこういう指導の仕方に向いてるかも」というモデルとなる先輩教師を見つけることがこの時期にはとても大切です。

11.ウマが合う子であろうとなかろうと、お説教するだけでは子どもはついてきません。楽しませることも大切なのです。あなたと接していて楽しさがお説教を上回っていれば、子どもとの関係が壊れることは絶対にありません。

12.学級経営においてはまずフレームを固めることが必要です。つまりシステムが必要なのです。職員室ですべて自由だ、その代わりすべて自分で責任を取ってくださいと言われたら、とたんに不安にならないでしょうか。フレームがしっかりしていることが、子どもたちに安心感を与える面もあるのです。

41n66wja7vl__sl500_aa300_13.HALCALI BACON/HALCALI/2003
★★★★★

この二人がどの程度のステイタスがあるのか、かつてどの程度のヒットを記録したのか、僕はまったく知らないのだけれど、ふとしたことでこの二人組を知って以来、虜に近い状態になっている。ただ何枚か聴いたけれど、すごいなと思うのはこのアルバムだけである。とにかく、これは名盤だ。

14.大きな失敗を経験すると周りの人たちの優しさが見えてきます。そんな経験も長い教師生活では必要な経験なのです。そういう経験をした教師は中堅・ベテランと呼ばれる年齢になったとき、若い教師に優しくなれるものです。

15.蕾には蕾の、花には花の、実には実の教育があります。新緑には新緑の、真緑には真緑の、紅葉には紅葉の教育があるものです。蕾が実を真似てもうまくいきませんし、紅葉は様々に色づきますが、新緑時代の色だけは決してもち得ません。

16.若い頃、毎日昼休みに子どもたちとバスケットボールに興じていました。サッカーをすることもありました。いつの頃からでしたか、給食直後に運動をすると、脇腹が苦しくなってきました。こりゃ年だな……と感じ、昼休みは校舎内で過ごすようになりました。

17.その後も年齢を重ね、私は様々な教育技術を身につけ、生徒指導の勘所のようなものも心得るようになってきました。生徒たちに語る言葉も、学級や学年の運営も少しずつ洗練させていきました。

18.しかし、いまでも思うことがあります。あの頃、子どもたちとバスケットボールに興じながら、躰をぶつけ合いながら築いた人間関係、あの時代に得られた子どもたちとのつながりだけは、もう決して経験できる日はこないのだ……と。

19.ノスタルジーではありません。若いからこそ、体当たりだからこそできる教育というものが確かにあるのです。まさに「蕾の教育」であり、「新緑の教育」です。

51txplfo4el__sl500_aa300_20.AROUND THE WORLD IN A DAY/PRINCE AND THE REVOLUTION/1985
★★★★★

PRINCEの最高傑作だと思う。何度聴いたか知れない。

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9月6日(木)

1.授業5つ。「月の起源を探る」の読解が二つ。ワークシート記入が二つ。グループ交流が一つ。空き時間一つは落成式典見関係の仕事。放課後は生徒指導案件が一つ。札幌市内の中学1年生の自殺の問題の話題で職員室はもちきり。いま推測でものを言うべきではない。まずは成り行きを見守ることだ。

41blccicycl__bo2204203200_pisitbsti2.『小さな人生論4』藤尾秀昭/致知出版社/2009.09
★★★★

雑誌「致知」編集長による巻頭エッセイ集の4冊目。相変わらず味わい深い文章が並んでいる。

3.【残席12】累積科学国語教育研究会in東京。10月6日(土)上智大学。参加費3000円。あの親塾・教師塾の多賀一郎先生、東京学芸大学の千田洋幸先生をお迎えして。FGの藤原、教室ファシリテーションの堀、そして多賀先生が模擬授業で提案します。http://kokucheese.com/event/index/46174/

4.【残席1/今回は定員は増えません。お申込はお早めに】第6回教室ファシリテーションセミナーin東京。10月7日(日)に新宿で。参加費は3000円。堀裕嗣・山下幸・藤原友和。今回はファシリ導入へのステップをワークショップで提案します。http://kokucheese.com/event/index/46040/

5.【残席8】第2回学級づくりプログレッシヴセミナーin札幌/テーマは道徳の授業づくり・学級づくり/2012年10月13日(土)・14日(日)/札幌市内/6000円/佐藤幸司・桃崎剛寿・山田洋一・堀裕嗣/とっておきの道徳授業小・中編者揃い踏みhttp://kokucheese.com/event/index/46043/

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9月5日(水)

1.授業は3時間。すべて「月の起源を探る」という説明文。1時間は内容読解。1時間はワークシート記入。1時間はグループ討議。空き時間は銀行に行ったり談笑したり。放課後は校務部会。特に何があったということのない一日。寝不足がたたってか、元気の出ない一日だった。

41h8gnjdyl__sl500_aa300_2.『「お客様」がやかましい』森真一/ちくまプリマー新書/2010.02
★★

森真一にしては分析があまいというか雑というか、あまり参考になるということがなかった。まあ、プリマー新書だということもあるのだろう。

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9月4日(火)

1.授業は午前中4連発。すべて「月の起源を探る」という説明文の構成。給食を食べ、昼休み巡視を終えたあと、進路関係の外勤。更に知人と会って飲む。といってもアルコールはなし。帰宅は24時過ぎ。

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9月3日(月)

1.午前中に授業4時間。その後、1時間年休をいただいて帰宅。犬の調子が悪くて心配だったので様子を見に来る。意外と元気で安心する。その後、進路関係の外勤でホテルライフォートへ。高校名は敢えてあげないけれど、説明が簡潔かつ丁寧、システムも練られていて、とても良い入試説明会だった。

2.美空ひばりの「日和下駄」って曲。すげえ曲だなあ。美空ひばりって若い頃から、ほんっとにすごいボーカリストだったんだなあ。「お祭りマンボ」もすごいけれど、「日和下駄」はもっとすごい。

3.【公開謝罪】
杉浦美南様
たったいま、脱稿して送りました。このたびは脱稿が遅れて大変ご迷惑をおかけ致しました。ここに伏してお詫び申し上げます。すいませんでした。ごめんなさい。すまん。だって残暑が厳しくて、やる気出ないんだもん……。

4.どうもすべての仕事が予定より4日ずつ遅れてしまっている。今後の日程を見ると、どう考えても中旬の3連休まで取り返す機会がない。困ったなあ。すべて謝りながら送信するというのは、とってもストレスだなあ。睡眠時間を削る以外に、なにか方策がないかなあ。

514liamfsvl__sl500_aa300_5.NO BETTER THAN THIS/JOHN MELLENCAMP/2010
★★★★★
本を一冊書き上げて、編集者に送信して、スッキリして、聴き惚れている。ほんとうに良いアルバムだ。残暑が気にならなくなる。

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教室に笑顔があふれる中村健一の安心感のある学級づくり

1106074529_2『教室に笑顔があふれる中村健一の安心感のある学級づくり』中村健一/黎明書房/2011.08

健ちゃんと初めて逢ったのは去年の1月のことだったと思う。千歳で行われた授業づくりネットワークの北海道大会である。それまで存在は知っていたものの、彼の本を読んだこともなく、実践もよく知らなかった。もっと正直に言うと、ミニネタで有名な、私の中で「お笑い芸人」とカテゴリー化される忌むべき存在だった(笑)。別にミニネタが嫌いなわけではない。講座を受ければ、その場では楽しめる。しかし、あとに何も残らない。真似しようとも思わない。ミニネタを開発しようとも思わない。まあ、そんな存在の一人だったわけである。

またまた正直に言うと、その初めて逢ったときにも、それほど話をすることもなく別れた。確かに3時くらいまでいっしょに呑んでいた記憶はあるが、教育実践の話をするのではなく、馬鹿話だけをして過ごした、そんな記憶がある。ついでに言うと、私は出逢った教師に興味を抱くと、しつこいくらいに教育実践についての考え方を聴き出そうとする。健ちゃんはそういう対象ではなかったわけだ。

だから、この本が健ちゃんから送られてきたあとも、正直に言うと、開きもせずに放っておいた。私は教育実践者の著作をあまり読まない。教育書をたくさん出している私が言うのも変な話だが、教育実践者の著作の多くには「こうしたらこうなった。だからこうしよう。」という報告がなされているだけで、分析がない。報告の常で、過去だけがあって未来がない。それがおもしろくないのだ。

今年の3月、松江で健ちゃんと1年2ヶ月振りに呑んだ。この呑み会で、健ちゃんの教育界に対する分析に興味を抱くことになる。私にとって彼の話は一気に聴くに値する位置に上昇した。「ああ、この男はただのお笑い芸人ではない」と。先月も札幌でも呑んだ。印象は変わらなかった。最近、多賀さんとネタものの共著を出したことも、私の中で健ちゃんのステイタスを上げた(笑)。多賀さんはいま、私が最も興味を抱いている実践家だからだ。

さて、前置きが長くなった。

本書は中村健一という実践家が「自分はミニネタだけではない!」と主張している本に私には思える。「ミニネタだけではない!」というよりも、「ミニネタはこれだけのことをして機能するようになるのだ」という本と言えば良いだろうか。健ちゃんが初めて実践の全体像を志向して書いた本である。私は小学校担任の構えとして、かなり広く目配せの利いた良書だと思っている。

確かに論述は荒い。もっと書き込むべき箇所もたくさんある。しかし、彼の全体像、目配せを利かせたステージの設定の仕方は確かである。読者の皆さんには、ネタやエビソートの部分ではなく(もちろん、そこも読まなければならないのだが)、各節の最初、或いは最後に数行で語られる彼の理屈の部分を抽出しながら読んで欲しいと思う。キーワードは「厳しさ」と「フォロー」である。あくまでこの土台の上に彼の具体的な実践が行われていることがよくわかってくるはずだ。

健ちゃんのネタの追試しようとする若者たちには、ネタものの本だけでなく、この本をじっくりと読んで欲しい。

もう一つ。健ちゃんについて重要な情報がある。彼は山口の人間である。実は、健ちゃんはあの銘酒「獺祭」の蔵元のすぐ近くに住んでいる。健ちゃん、正月には「獺祭」の二割三分が呑みたいのだが……(笑)。

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必ずクラスを立て直す教師の回復術!

51u8y9iceql__sl500_aa300__2『必ずクラスを立て直す教師の回復術!』野中信行著/学陽書房/2012.08

ほころびの見えかけた学級を立て直し回復する。着眼点が良い。かつて向山洋一が『学級崩壊からの生還』というエピソード集を編集したことがあるが、野中さんの新著は野中さんの考える学級経営スキル、授業運営スキルのレベルで語られている。これも良い。

面白いなと感じたのは三つ。

一つは基本が見開き2頁で構成されていること。それも見開き2頁で完結させるのではなく、必ず次の2頁につながりをもたせていること。野中さんとしては普通に文章として書き進めることはむろん可能だったのだろうが、敢えてそれをせずに読みやすさを追究したのだろうと思う。或いは編集者の方針なのかもしれない。いずれにせよ、教育書もこういうレイアウトの時代に入ったのだな、と思う。

二つ目は、野中さんがいよいよ授業について本格的に語り始めていること。見開き完結というレイアウトであり、しかも本書自体の主眼ではないこともあり、まだ簡潔に、悪く言えば荒く書かれている段階ではあるけれど、数年来の「味噌汁・ご飯授業」のエッセンスは充分に詰まっている。次著はおそらく本格的に「味噌汁・ご飯授業」に真正面から取り組んだ著作になるのではないか。そんな期待感を抱かせる。

三つ目は、最終章にQ&Aを配置したこと。現場教師の提案というものはどうしても、その教師の指導スキルだけでは済まないところがある。その教師自身の「在り方」とセットで語らなければ伝わりにくいという特徴をもつ。その意味では、最終章にQ&Aを配して間接的に著者の教師としての「在り方」に触れてもらうという手法はうまいと感じた。

全国的に明日から2学期が始まる。本書は若い教師たちの糧となるだろう。できれば、野中方式を試みた折に、うまくいったこと、うまくいかなかったことをブログやSNSなどに発信し、野中さんにフィードバックされると良いなと思う。教育現場の提案はそうしたネット上の双方向性によって深化拡充させていく時代だと認識している。

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リーダーのいなくなった最近の学級

1.教師の視点

「リーダー生徒がいなくなった」という声をよく聞く。多くの教師が実感的にそう語る。

最もその声を多く聞くのは3月下旬、学級編制会議の場である。一般に、学級編制をするときに、各学級に男女各1名のリーダーA生徒(高いリーダー性をもち、学年リーダー或いは生徒会を担当するような学校リーダーレベル)、男女各1名のリーダーB生徒(リーダーAには及ばないが、学級をまとめる程度のリーダー性をもつレベル)の計4名を配する必要があるとされる。つまり、リーダー生徒は学級数×4の人数が必要とされるわけである。しかし、そのリーダーA・B生徒のリストアップが学級数分に遠く及ばない。

反対に、問題傾向に数えられる生徒たちはかつてと比べて格段に増えている。80年代に見られた教師に反抗的な、いわゆる「校内暴力」へとつながるような問題傾向生徒、多くの方々が問題傾向の典型として意識しているような、いわゆる「〈反〉社会生徒」と呼ばれる問題傾向生徒はむしろ減っている。増えているのは、一つは「〈非〉社会生徒」と呼ばれる、人間関係を紡げないタイプの生徒、小さな人間関係トラブルがすぐに決定的な不登校傾向への要因となってしまうようなタイプの生徒たちであり、もう一つは「〈脱〉社会生徒」と呼ばれる、社会的な物語を共有できないタイプの生徒、時間意識をもって学校生活を送ることが難しかったり、分担された当番活動に取り組めなかったり、授業や行事にごく普通に参加することさえ困難だったりといったタイプの生徒たちである。総じていえば、「学校システムから遁走する生徒」が増えているのである。

結果、学級編制会議はたいへん重たい雰囲気で終わらざるを得ない。担任教師にとって自分の学級にリーダー生徒がいないということは、普通ならリーダー生徒のリーダーシップに期待できる仕事まで学級担任がしなければならないことを意味する。学級集団というものは、「教師─生徒」という縦関係と「生徒─生徒」という横関係とがうまくバランスがとれたときに機能するという特徴をもつ。多くの教師はリーダー生徒に対して、学級担任が縦関係において強権発動した場合にも、リーダー生徒が横関係において調整してくれることを期待する。学級担任に対して反感を抱いた生徒に、「まあ、そう言わないで先生の立場もわかってやろうよ」というようなリーダーイメージである。こうした調整力はあくまで、縦関係と横関係という「軸の異なる関係」がバランス的にうまく機能したときに発揮される調整力という特質をもつ。リーダー生徒のいない学級を担任することは、学級担任にとって、縦関係のみにおいて規範維持と学級のストレス調整との両方を担わなければならないことを意味するのである。

これは学級担任にとってかなりきつい。教員以外の方々から見れば、規範維持と人間関係調整を同時にすることがくらいできなくてどうする、それが学級担任の仕事ではないか、との反論も聞こえてきそうである。もちろん、学級経営・学級運営を巨視的に見ればその通りである。しかし、もう少し日常的に、微視的に見たとき、リーダーがいない学級というものは、学級担任がこうしたベクトルの異なる二軸の営みをどんな些細なことに対しても配慮しなければならないということを意味するのである。

しかも、学級では「〈非〉社会生徒」「〈脱〉社会生徒」がかなりいて(私の実感では、現在、一般的な学級で4割程度を占める)、学級担任は毎日毎時間、こうした生徒たちへの対応に追われ続ける。更には、時代は消費資本主義社会、Aの正義はBの正義に反し、Cの利益がDの不利益になるという多様化への対応が現在の学級担任には常に突きつけられている。もちろんこうした生徒たちの背後には保護者がいる。その中には一定数のクレーマー予備軍が潜在している。いま学級担任が立っているのはこうした地点なのである。

自分の学級にリーダー生徒がいることは、このストレスフルな状況をかなり緩和させる。「〈反〉社会生徒」をフォローし、「〈脱〉社会生徒」を巻き込む空気を醸成し、ときに発動せざるを得ない学級担任の強権を側面からフォローしてくれる。管理職や学年主任のフォローといった背後からの「追い風」なんかよりもずっと心強い「横風」、それが「リーダー」と呼ばれる生徒たちの機能なのである。

小学校に引き継ぎに行くと、6年生の担任の先生が「リーダー生徒がいないんですよ。すいません。」と言うことが多い。おそらく小学校高学年にも同じような構造があるのだろう。生徒会事務局を担当したり、学年協議会(学年の学級代表委員会)を担当したりする教師たちの心象にも同じような構造がある。残念ながら、これが「学校のいま」である。

2.生徒の視点

昨今、「リーダー生徒」が不登校に陥る事例が増えている。学校行事でリーダーとなり、中心的に学級をまとめようとした末に学級の生徒たちの軋轢が生じ、俗に言う「浮く」という状態になる。そうした人間関係トラブルに耐え切れずに不登校傾向を示す、そうした事例である。こうした現象が「リーダー生徒がいなくなった」「リーダー生徒が弱くなった」という教師の実感を後押ししている現実がある。

学級集団を構成する子どもたちが、時代とともに変容してきているのは確かであろう。現代の子どもたちは、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力としての「コミュニケーション能力」の高低を互いに評価し合いながら、自らの「スクール・カースト」の調整に腐心していると見て良い。「スクール・カースト」は別名「学級内ステイタス」とも呼ばれ、学級への影響力・いじめ被害者リスクを決定し、子どもたちを無意識の階級闘争へと追い込んでいる、重要な概念である。ここでは、森口朗(1)の提案を軸に「スクール・カースト」概念を見ていくことにしよう。

21世紀に入って、教育界から政財界に至るまで、これからの人間に必要なのは「コミュニケーション能力」であると声高に主張している。しかし、この「コミュニケーション能力」の具体が何であるのかという説得力ある論述はなかなか見られない。森口朗は、これを子ども達が〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力と捉えていると分析した。〈自己主張力〉とは自分の意見を強く主張する力、〈共感力〉とは他人を思いやる力、〈同調力〉とは周りのノリに合わせる力である。更に詳しく言うなら、次のようになろうか。

自己主張力…自分の意見をしっかりと主張することができ、他人のネガティヴな言動、ネガティヴな態度に対してしっかりと戒めることのできる力。80年代以降、世論によって大切だと喧伝されてきた能力であり、臨教審以来の教育政策の根幹として位置づけられてきた能力でもある。

共感力…他人に対して思いやりをもち、他人の立場や状況に応じて考えることのできる力。従来から学校教育で大切と考えられ、リーダー性にとっても絶対的に必要とされ重要視されてきた能力。多くの教師が「いい子」「力のある子」と評価する要素にもなっている。

同調力…バラエティ番組に代表されるような「場の空気」に応じてボケたりツッコミを入れて盛り上げたりしながら、常に明るい雰囲気を形成する能力。子どもたちによって現代的なリーダーシップには不可欠と考えられている、現実的には最も人間関係を調整し得る能力。

この三つの総合力を「コミュニケーション能力」と呼ぶ。毒舌タイプの級友にツッコミを入れて逆にオトしたり、大人しい子やボケ役の子をイジじって盛り上げたりしながら、「場の空気」によって人間関係を調整していく、そうした高度な能力である。

この三つの力の総合力を子どもたちが「スクール・カースト」(=学級内ステイタス)を測る基準としている、というのである。森口はこれをマトリクスとしてまとめ(『いじめの構造』新潮新書・45頁)、三つの力といじめ被害者リスクとの関係を示した。そこで分析されているのは、現代の学級が以下の八つのキャラクターによって構成されている、ということである。

①スーパーリーダー(自己主張力・共感力・同調力のすべてをもっている)
②残虐なリーダー(自・同をもつ)
③栄光ある孤立(自・共をもつ)
④人望あるサブリーダー(共・同をもつ)
⑤お調子者・いじられキャラ(同をもつ)
⑥いいヤツ(共をもつ)
⑦自己中心(自をもつ)
⑧何を考えているかわからない(自・共・同のどれももたない)

これをもとに「スクール・カースト」の高低を図示するなら、次頁の図(略)のようになる。しかも、ここで言う「スーパーリーダー」は、現在の学級にはほとんどいない。それに対して、「お調子者」「いい奴」「自己中心」はかなりの数がいる。また、「残虐なリーダー」も一定程度いる。この集団構成が現在の学級集団の統率を著しく難しくしているのである。

さて、ここで教師の立場として考えておかなければならないことは、実はこの「スクール・カースト」が、決して子どもたちだけが対象になっているわけではない、ということである。実はこうした階級闘争のまなざしは、担任教師にも向けられているのである。もしも、担任教師が「自己主張力」と「共感力」しかもたず、「同調力」をもっていないとすれば、それは「スーパーリーダー」以下、「残虐なリーダー」と同等程度のカーストと見なされる。「共感力」「同調力」はあるが、「自己主張力」が弱いという場合には、「残虐なリーダー」以下の「人望あるサブリーダー的な教師」と見なされている。「自己主張力」だけなら「自己チュー教師」、「共感力」だけなら「いい奴だけど、いじめのターゲットになり得る教師」とさえなるのである。

おそらく最近の小学校高学年において頻出している学級崩壊は、担任教師のカーストが低く、それ以上のカーストとして認められている子どもたちの影響力の大きさによって引き起こされている。こうした現状に鑑れば、現在、学級担任が「残虐なリーダー」タイプや「お調子者」タイプと対立しながら学級を統率していくことは至難の業なのである。その意味でも、子どもたちのノリ、時代的なノリに対する、教師の「同調力」が重要になる。他人を思いやりましょう、規律を守ることが大事だ、といった真面目一辺倒の路線では立ちゆかないのが現代的学級の特徴なのである。

教師はいま、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉という三つの力の総合力としての「コミュニケーション能力」をもたねばならない立場に置かれている。ベテラン教師、お母さん教師、優しいお兄さん・お姉さん教師が、学級を統率することができずに崩壊させる要因がここにある。

私が本節冒頭に挙げた「行事を機に不登校傾向を示すリーダー生徒」は、もともと学級担任によって「いい子」と目されるような生徒たちだった。こうした生徒たちはスクール・カーストでいえば、「人望あるサブリーダー」か「いいヤツ」キャラの生徒だった。こうしたカーストの生徒たちが、行事で学級集団をまとめ、リーダーシップを発揮しなければならない立場に追い込まれ、学校システムに対応した動きをしようとしたとき、「残虐なリーダー」の抵抗とそれに同調する「お調子者キャラ」たちの圧力に屈し、自分の居場所を失ってしまったということなのである(2)

学級担任はいま、学級にスーパーリーダーがいない場合、学級運営や行事運営のリーダーとして「残虐なリーダー」を指名し、「残虐なリーダー」との関係を維持しながら運営しなければならない立場にある。それができない教師の学級が学級崩壊へと向かっていく。そうした現状にある。

このような学級集団の構成にどのように対応していくかについては、別の機会を待ちたい。

【注】

(1)森口朗『いじめの構造』新潮新書・2007
(2)土井隆義『友だち地獄』ちくま新書・2008

『児童心理』2010年8月臨時増刊号より

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9月2日(日)

1.【残席12】累積科学国語教育研究会in東京。10月6日(土)上智大学。参加費3000円。あの親塾・教師塾の多賀一郎先生、東京学芸大学の千田洋幸先生をお迎えして。FGの藤原、教室ファシリテーションの堀、そして多賀先生が模擬授業で提案します。http://kokucheese.com/event/index/46174/

2.【残席4/今回は定員は増えません。お申込はお早めに】第6回教室ファシリテーションセミナーin東京。10月7日(日)に新宿で。参加費は3000円。堀裕嗣・山下幸・藤原友和。今回はファシリ導入へのステップをワークショップで提案します。http://kokucheese.com/event/index/46040/

3.【残席8】第2回学級づくりプログレッシヴセミナーin札幌/テーマは道徳の授業づくり・学級づくり/2012年10月13日(土)・14日(日)/札幌市内/6000円/佐藤幸司・桃崎剛寿・山田洋一・堀裕嗣/とっておきの道徳授業小・中編者揃い踏みhttp://kokucheese.com/event/index/46043/

4.昨日から取り組んできた雑誌原稿2本が終わった。ちょっと疲れたので今日はゆっくりしよう。本当は共著の原稿20頁ほどを書かなければならないのだが、どうも気乗りしない。こういう日もあっていい。雑誌原稿2本を終えられたのは、「太陽にほえろ」のサントラのおかげだと思う。いまもかかっている。

41meopukfll__sl500_aa300_5.『さよならビートルズ』中山康樹・双葉新書・2012.07
★★★

僕らの世代が知らない時代、そして知っている時代、共通点もあれば相違点もあるけれど、著者の郷愁が伝わってくる心地よい内容だった。

6.原稿を仕上げて、「よろしくお願いします」とひと言だけ書いて、ファイルを添付する。その度にちゃんと最終稿を保存したかと気になる。一度、ファイルの添付を解き、保存し直す。再度添付。送信ボタンを押すときにホッとする。「ああ、終わった」と。そして正直、「もう二度と書きたくない」と思う。

7.「研究集団ことのは」のメンバーが今日は原稿を書いているらしい。そういや今日はある原稿の締め切り日に設定されていたっけ。代表にその気力はございません。ごめんなさい。

8.今年度は町内会の班長なので、昨日の夕方、町内会費と秋祭りの寄付を集めてまわった。同じ町内会のおじいさん、おばあさんに「ご苦労様」とねぎらわれながら集金してまわる。しかし、私はそのおじいさん、おばあさんの顔をだれ一人として知らなかった。これが町内会の現実なのだなあと改めて感じた。

9.「のんある気分」というノンアルコールカクテルを飲んでいる。「ソルティドッグテイスト」と書いてある。果汁1%だそうだ。でもこれ、ただのグレープフルーツジュースなんじゃないだろうか。微炭酸なだけの。うーん……。

10.何かを為し得ようとすればスピードが必要である。何かを成し得ようとすれば狂気が必要である。

11.明日はまた午前中4時間授業をしたあと、午後からは進路関係の外勤だな。午後はちょっとのんびりできるだろう。おやすみなさい。

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活きている時間

〈多忙〉と〈多忙感〉とは異なる─あなたは仕事にとって最も大切なこの原理を自覚しているだろうか。言うまでもなく、〈多忙〉とは「忙しいこと」であり、〈多忙感〉とは「忙しいと感じること」である。〈多忙〉であるから〈多忙感〉をもつのだと、多くの人が単純に考えてしまうのだが、実は〈多忙〉と〈多忙感〉との間にあるのはそんな単純な因果関係ではない。周りが感嘆するような〈多忙〉な生活を送りながら〈多忙感〉を抱かない人がいる一方で、周りからは暇そうな仕事ぶりに見えるのに〈多忙感〉に苛まれている人もいる。この違いはいったい何なのだろうか。

例えば、「総合的な学習の時間」の導入によって教師の仕事が多忙を極めるようになったとの声を聞くことがある。しかし、「総合」の計画立案に目を輝かせ、周りが不思議に感じるくらいに生き生きと「総合」の授業に取り組んでいる、そんな教師があなたの周りにも一人くらいはいないだろうか。その教師は「総合」の導入によって、あなたに比べてはるかに大きな〈多忙〉に見舞われているはずだ。にもかかわらず、その教師はおそらく、「総合」に対してあなたが感じているような〈多忙感〉を抱いてはいない。

例えば、教育課程の改訂によって、放課後の時間に余裕がなくなったとの声をよく聞く。生徒達とのコミュニケーションの時間が不足し、よりよい教育活動を行ううえで支障を来している、というわけだ。確かに6時間授業が増えたことが、行事指導や部活動指導、会議の時間を圧迫している。これは事実だろう。

しかし、あなたの周りにこの少ない時間で効率的に行事の準備を行い、みなが驚くほどに大きな成果を挙げている教師はいないだろうか。その教師が指導すると、生徒達のステージ上の演技が躍動して見える。その教師が指導すると、生徒達が自らのブレスにまで気を遣いながら美しいハーモニーを奏でる。そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りに、この少ない時間のほとんどを部活動に費やし、生き生きと部活指導に取り組んでいる教師はいないだろうか。会議が終わるとすぐに、一杯のお茶を飲む間さえ惜しんで部活の指導へと向かっていく、そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りにいるこんな教師達も、実はあなたが感じているようには〈多忙感〉を抱いていない。行事指導に熱心な教師は、行事指導のスキルをもっているから簡単に成果を挙げられるのだと思ったら大間違いである。行事の指導というものは、不得手とするあなたがやっても、得意とするその教師がやっても、やらなければならない仕事量にそれほどの違いがあるわけではない。しかし、行事指導を得意とする教師は、行事で成果を挙げることにやり甲斐を感じているから、その〈多忙〉が苦にならないのである。

部活動に熱心な教師も、その競技が好きだからという理由で、趣味で指導しているなどと思っては大間違いである。毎日毎日生徒達に指導を重ね、生徒達が少しずつ力をつけていくことにやり甲斐を見出しているからこそその指導にも熱が入るのである。

彼らが物理的には〈多忙〉であるにもかかわらず〈多忙感〉を抱かない所以がここにある。いや、彼らだって実は〈多忙感〉を抱かないわけではない。ただ、彼らの〈多忙感〉はあなたとは異なり、心地よい〈多忙感〉なのであり、ポジティヴな〈多忙感〉なのである

ここまでを読んだあなたは、私が、〈多忙感〉などというものは気の持ちようで何とでもなりますよ、やり甲斐をもって仕事をしましょうよ、そう主張しているように思われるかもしれない。しかし、私の意図はそうではない。私がここで強調したいのは、あなたの抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、実は「〈多忙〉であること」が原因なのではない、ということである。では、あなたの感じている〈多忙感〉の原因は果たして何なのか。現在、私達教師をこれほどまでに圧迫している要因は、いったい何なのだろうか。

それは結論から言えば、〈徒労感〉に他ならない。

考えてみて欲しい。私達は本当に〈多忙〉が嫌いなのだろうか。かつて、残業手当も出ないのに、生徒のためにと夜遅くまで学年の先生方といっしょに仕事をした、そんな経験があなたにもあるはずだ。かつて、学年の先生方と酒を酌み交わしながら、今度は生徒達に何をやらせてみようか、こんなことをしたら生徒達が一段と成長するのではないか、イメージがイメージを呼び、アイディアがアイディアを呼ぶ、そんな宴会をあなたも経験したことがあるはずである。そんなとき、あなたもいまとは違い、充実した時間を過ごしていたのではなかったか。そして何より大切なのは、あの頃だって、あなたは忙しかったはずなのだ。そう、あの頃だって、決して暇ではなかったはずなのだ。なのにあの頃は、現在のようなネガティヴな〈多忙感〉を抱くことなどなかったのである。いま考えれば、あの頃はそんな〈多忙感〉さえ、どこか心地よいものだった。いったいこの違いは何なのだ。

そう。あの頃の仕事は、どんなに忙しくても、〈徒労感〉がなかったのである。頑張れば頑張った分だけ、生徒の目が輝いた。頑張れば頑張った分だけ、同僚が認めてくれた。生徒にとって、同僚にとって、自分は必要な人間である、そう実感することができた。自分は生徒達とつながっている、同僚達とつながっている、その実感があったからこそ、〈多忙〉ごときはものともせずに頑張ることができたのである。

なのにいま、私達には生徒とつながっているという実感がない。自分なりに頑張っても、生徒はこちらに振り向いてくれない。懸命に教材研究を重ねて臨んだ授業なのに手応えがない。生徒のためと思って施した指導に対して、保護者からクレームが来る。次第に生徒指導における優先順位が、「生徒達の成長を促すこと」から「保護者からクレームが来ないこと」に移っていく。こんな指導をしたって、生徒に伝わるはずもない。そんな思いが〈徒労感〉を生んでいく。

生徒だけではない。いま、私達には同僚とつながっているという実感さえない。校務分掌の役割分担が明確化され、行政から求められたアリバイづくりの無意味な調査、無意味な文書の作成に追われている。みんな自分の仕事をこなすことで精一杯。そういえば、職員室に笑い声が響かなくなって何年たつだろうか。各々が黙々とPCに向かっているだけの職員室。音をたてることさえはばかられる。職場の宴会は年に三度、歓迎会と忘年会と送別会だけである。それも一次会が終わると、潮が引くようにみな帰って行く。自分の仕事は自分でやるしかない。成果などまったく見えない。そこに仕事があるから片付ける。仕事がルーティン化していく。そしてそれが〈徒労感〉を生んでいく。

いまあなたが抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、このような負のスパイラルに取り込まれていることに起因しているのである。もしもあなたが現在の〈多忙感〉を打開したいのなら、まずはこの構図をしっかりと見据えることだ。行事指導に熱心な教師は、いまなお、生徒の目の輝きを実感しているのである。部活指導に熱心な教師は、いまなお、自分が生徒に力をつけていることを実感しているのである。「総合」に熱心な教師も、自らの「総合」の指導が、生徒達にとって良い方向に機能しているという実感を抱いているからこそ頑張れるのである。喩えて言うなら、あなたの時間が死んでいるのに対し、これらの教師達の時間は活きているのだ。死んでしまっているあなたの時間を再び活き返らせること、それ以外に、あなたの〈多忙感〉を打開する手立てはない。

死んでしまっているあなたの時間を活き返らせるためには、二つのことに取り組む必要がある。

一つは、あなたが自分の得意分野で成果を出すということである。あなたが得意としているのは、授業だろうか生徒指導だろうか部活指導だろうか、それとも行事や生徒会活動といった特別活動だろうか。何でもいい。勤務校において自分が成果を挙げていると、自分自身が実感できるような分野をもつことである。これだけ〈徒労感〉を感じさせる学校教育の現状である。自分の取り組む仕事のすべてに成果を挙げ、すべてに満足感を得ることなど夢想してはいけない。たった一つでいい。自分の得意分野にもう一度、精一杯に取り組んでみることだ。その時間が次第に、あなたにとって〈活きている時間〉となっていく。

そしてその〈活きている時間〉を大切な時間だと思い始めたとき、その他のルーティンワークにかける時間が惜しくなっていくはずだ。その気持ちがあなたを、「なんとかこのルーティンワークを効率的に進める手立てはないか」という思考に誘っていく。こうなればしめたものである。ここまで来れば、ルーティンワークにかける時間が、仕事の効率性について考える機会となっていく。どれだけ単純作業を効率的に行えるのか、その効率の度合いが成果として意識されるようになる。次第次第に、ルーティンがルーティンでなくなっていくのだ。それは取りも直さず、ルーティワークの時間が〈活きている時間〉になっていることを意味するのである。

いま一つは、職員室に共同性を回復することである。もちろんこれは一筋縄ではいかない。あなたがかつて経験したように、生徒のためにみんなで残業しようと投げかけたり、宴会でよりよい教育について語り合おうなどと誘ったとしても、同僚から鬱陶しがられるだけである。

しかし、同僚に対して、「あなたが必要なのだ」「あなたがいなければ仕事が成り立たないのだ」というメッセージを発信し続けることはできるはずだ。あなたが管理職なら、あなたは自分の学校の先生方に「あなたの功績は大きい」と言ってあげるといい。 あなたが学年主任なら、あなたは自分の学年の若手に「きみの仕事がこの学年の安定に大きく貢献している」と言ってあげるといい。あなたが新卒数年の若手教師なら、先輩教師に「先生のここを真似したらうまくいきました」と伝えてあげるといい。 こうした何気ないやりとりが、実は職員室を少しずつ、しかし確実に活性化させていくのである。

あなたが職員室の雰囲気に閉塞感を抱いているのなら、まずはあなたがこうしたメッセージを発信し始めてはいかがだろうか。 管理職や先輩から自分の存在を認められる、後輩から自分が頼りにされる、それを意気に感じない人間などいないのである。互いに互いの存在感を認め合うこうした人間関係こそが、実は〈活きている時間〉を大きく補強していくのである。

……とっぴんぱらりのぷぅ

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今月のお知らせ/2012年9月

9月は執筆に集中するため、登壇を控えます。10月は6日(土)・7日(日)に東京で、13日(土)・14日(日)に札幌で研究会を予定しています。どちらもゲストを迎えての有意義な会になると思います。皆様、お時間がございましたらどうぞご参加くださいませ。

【書籍・出版関係】

Cover最新刊『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』堀裕嗣著・明治図書・2012年8月。刊行されました。合唱コンクール・ステージ発表の指導法、指導技術を具体的に語りました。

まえがきと目次

教育zine明治図書・著者インタビュー/書評・糸井登先生長瀬拓也先生石川晋先生

120504dvdDVD「第3回教室ファシリテーションセミナーin京都」堀裕嗣/藤原友和

教室にワールド・カフェを導入する/ファシリテーション・グラフィックで議論を見える化する/教室にオープン・スペース・テクノロジーを導入する/2000円/有限会社kaya/お申し込みはこちらプロモーションビデオ

【お知らせ】 DVDをご購入の皆様へ。私にメールをいただければ、このセミナ​ーで用いている教材を添付メールにてお送りします。ファイルは一​太郎です。hori-p@nifty.com

9784761918842新刊『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ~授業への参加意欲が劇的に高まる110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2012年3月/第二刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとがき/目次

教室ファシリテーションセミナーでお逢いできればと思います。

9784761918484s生徒指導10の原理・100の原則~気になる子にも指導が通る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年10月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとかぎ/目次

生徒指導関係の講演や講座を依頼されることが多くなりました。有り難いことです。今後ともよろしくお願いいたします。

9784761918088学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年3月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

まえがきとあとがき/目次

次年度、再び、中学校学級経営の連続講座を開催する予定です。

『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版)、『スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』(明治図書)を脱稿しました。どちらも秋の上梓になりそうです。『教師力ピラミッド』(明治図書)も脱稿しました。現在、イラストや図解の作業に入っています。こちらは冬の上梓になりそうです。

【研究会関係】

私に関係する9~10月の研究会をご案内させていただきます。お時間が許せばお越しください。

2012年9月15日(土)/「研究集団ことのは」9月例会/堀自宅/入会希望の方はご連絡下さい。ただし、中学校国語教師に限ります。

2012年10月6日(土)/累積科学国語教育研究会in東京/多賀一郎・人見誠・堀裕嗣・山下幸・藤原友和/残席6

2012年10月7日(日)/第6回教室ファシリテーションセミナーin東京/堀裕嗣・山下幸・藤原友和/満員御礼

2012年10月13日(土)~14日(日)/第2回学級づくりプログレッシヴセミナーin札幌/講師:佐藤幸司・堀裕嗣・「とっておきの道徳授業」中学校版編著者・山田洋一・大野睦仁・太田充紀・山寺潤/札幌市内/残席3

その後の予定はこちら

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生徒たちには言えないこと

41auw68lcll__sl500_aa300_諏訪哲二の新著『生徒たちには言えないこと~教師の矜持とは何か?』を読んだ。久し振りに諏訪節を堪能した思いがした。諏訪哲二といえば、埼玉教育塾(所謂「プロ教師の会」)の代表であり、90年代から2000年前後にかけて河上亮一とともに、「生徒の変容」とそこから見える「社会の変容」を見据え、学校教育において教師がどのように生徒たちに対すべきかを現場教師の実感によって提案してきた論客である。私は1966年生まれであるが、私たちの世代は彼等の論述に随分と刺激を受けてきたものである。

しかし、私は今回の著作を読み通して、諏訪の論述が古いという思いを禁じ得なかった。副題ともなっている「教師の矜持」、つまり教師が本来矛盾した要求の中でアクロバティックな位置で動かなければならない構造があるという点に対してではない。私が古いとの思いを抱かざるを得なかったのは生徒たちの分析であり、生徒たちと学校との対峙の構造であり、総じて学校教育が置かれている立ち位置についての現状認識である。諏訪は2001年に退職している。この十年の生徒たちの変容を実感として見据える位置にない。一時代を築き、私たちがある種の憧憬の念さえ抱いた諏訪哲二という教師の類い希なる頭脳が、運命(さだめ)とはいえ、いまや過去のものになろうとしていることに愛惜の念を禁じ得ない。

諏訪は80年代に入って、生徒たちに学校文化が通用しなくなったと述べる。市場の論理が生徒に自分は一人前の主体であると認識させ、教師の権威性を子どもたちの内部で否定させるとともに、教師と生徒の関係を五分と五分と捉えさせるようになった、と。ここまでは従来からの諏訪の論理である。おそらくここまでは間違ってはいない。私は諏訪の言う80年代の生徒であったが、私たちの世代の実感と照らしても齟齬はない。

しかし、諏訪の問題は、諏訪が世に出て二十年間、生徒たちに対する分析がこの80年代的生徒のまま一歩も進んでいないところにある。80年代の生徒たちは確かに当時の教師たちを驚愕させるに足る変化を示しただろう。しかし、90年代から00年代にかけては、80年代を凌駕する変化を生徒たちが示したというのが私の実感である。そしてそこには、諏訪の言うような市場の論理が生徒たちを主体としたというだけでは説明しきれない状況認識がある。

市場の論理が生徒たちに「自分は一人前の主体である」と認識させた。それが教師の権威性を失わせ、学校文化を崩壊させた。諏訪に限らず、教師の側に視点を置く論者の多くは、学校文化の崩壊をこのベクトルで構図化する。しかし、ひとたび生徒たちの側に視点を据えるならば、別の世界が見えては来ないか。「お前は一人前の主体である」と突きつけられた生徒たちは、教師の権威性を認めず学校文化に従わなくても良くなったかわりに、「一人前の主体なのだから、うまくいかないことはすべてはお前の責任だ」と言い渡されていたのである。

諏訪哲二は教師が生徒たちに「ほんとうのこと」ではなく「建前」を教えよと言う。本来、子どもが大人へと成長する過程においては、個人個人の「真実」よりも万人に通ずる「建前」が教えられることこそが大切な時期があるのだ、と。それが80年代的な「生徒の変容」によって成り立たなくなった、と。しかし、生徒たちが学校文化において教師の「建前」を受け入れなくなったことは、生徒たちの生きる社会が「建前」で動かなくなったことを意味しない。市場の論理は「努力した者が報われる」「学生時代にオール1でも、やる気が出たら頑張れる」「みんな仲良くつながるべき」といった「建前」のとおりに成功した者を崇め続けてきたのである。

90年代、「自分探し」という概念が流行した。その概念はバブル崩壊、就職難とともに「フリーター」の増大へ、更には00年代に「ニート」論へと展開されていった。「癒やし」という概念も流行した。「ひきこもり」という概念も流行した。00年代に入ってからは、「バトルロワイヤル」「デス・ノート」「リアル鬼ごっこ」といったバトル系の流行もあった。その一方では、向上を目指さなくなった若者たちの登場、所謂「下流志向」も話題となった。一見ばらばらに見えるこれらの流行概念は、私の言う「一人前の主体なのだから、うまくいかないことはすべてはお前の責任だ」と言い渡された若者という補助線を引けば、一つの図としての姿を表す。

諏訪哲二は言う。
  「よくポストモダンになって近代の大きな物語が消失したと語られる。一人ひとりの思ったり考えたりすることを社会的に統合する大きな幻想が消失したというのである。そうなると、みんなが小さな物語をそれぞれ持つようになったと考えられ易いが、実はそれぞれの思うこと、考えることが、大きな物語と見なされるようになったのである。」(69頁)
  様々に主張し消費する主体の意識としてはこの分析は正しいかもしれない。しかし、主体の裏側、主張し消費しない部分において、生徒たち、若者たちの間では「一人前の主体なのだから、うまくいかないことはすべてはお前の責任だ」という圧力が大きな物語として機能していたのではなかったか。そしておそらく、この大きな物語は若者たちばかりでなく、大人をも無意識のうちに包括していたのである。しかし、本稿の主眼はそこにないのでこれ以上は触れないこととする。

なぜ、他ならぬ「自分」を探さねばならないのか。それは失敗したら自分のせいなのだから、失敗しない在り方を探さねばならないという強迫観念故だろう。そのためには普通に就職して「組織と個」の軋轢の中に身を置くよりも、「フリーター」や責任を持たされることのない「派遣社員」として自らを「失敗しない位置」に置くのが望ましいと考えるのは道理である。そうした柔軟性を持たぬ者が「ひきこもり」と呼ばれる生き方を選ばざるを得ない。その中の一部は「ニート」などという本人が全く望まない称号を与えられる。

21世紀に入ると景気回復幻想も消え、闘って勝利した者だけが生き残れるという機運が生まれる。00年代になると同時に教室であちらこちらで『バトルロワイヤル』を読む生徒たちの姿を見かけたが、その多くは男子生徒であった。しかし、00年代中庸には、教師から見れば真面目でおとなしいと思われる女子生徒までが、朝読書で「リアル鬼ごっこ」を食い入るように読むまでになっていた(『ゼロ年代の想像力』宇野常寛)。これはちょうど、ヤンキー予備軍と目される女子生徒たちがケータイ小説の恋愛格闘に夢中になっていた時期と重なる(『ケータイ小説的。』速水健朗)。当然、世の中が勝利者たれと闘いの機運に包まれれば、そこから「降りる者」も現れる。上昇志向を持たない若者、所謂「下流志向」(内田樹)が話題となるのも時代的必然であったのだ。

90年代から00年代にかけて、一貫して衰えないのが「癒やし」の流行である。老若男女に拘わらず求める「癒やし」という名の自己逃避は、私には自己責任意識から一瞬でも逃れたいという叫びのように思える。スポーツイベントでの集団的熱狂やネットでの炎上など、名も無き者たちの集団による「カーニヴァル」(『カーニヴァル化する社会』鈴木謙介)にも同様の構図が見て取れる。

私は諏訪に言いたい。学校教育において確かに生徒たちに「建前」は通じなくなった。しかし、生徒たちはかつての生徒たち以上に「建前」に搾取され、陵辱され、精神を掠め取られているのだと。事は学校教育を守る方向で考えれば良いほど単純ではないのだと。

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9月1日(土)

1.また、今日は現実的な現実と格闘する日になりそうだ。雑誌原稿や共著原稿など、8月末締切のものが三つある。三つとも今日中に仕上げてしまわなければ。ふう。

2.9月は戦争になりそうだ。校務も研修関係と式典関係、進路関係でかなり忙しくなりそう。雑誌原稿が目白押し。本の締切が単著が2冊に共著が4冊。登壇がないとはいえ、また連休が多いとはいえ、怒濤の1ヶ月になりそうだ。

3.こういうときはこれまでの経験から言って、あまりごちゃごちゃ考えず、淡々と仕事をこなし、粛々と毎日を過ごすのが良いということを僕は知っている。

4.取り敢えず、今日の現実的なお仕事の第一弾が完了。ある企画の全体計画の提示と依頼である。この動きはこれから1ヶ月かけて少しずつ進めていくことになるだろう。どうなっていくのか、そしてどんなものが出来上がるのか、とても楽しみである。今後、協同作業でブレイクスルーが起こると確信している。

417swjewg6l__sl500_aa300_5.太陽にほえろ!ORIGINAL SOUNDTRACK COLLECTION 1972-1983 vol.2/大野克夫/1992
★★★★★
なんというか、どうしようもない現実と現実的に格闘するときには、なんとも元気の出るメロディの連続である。さあ、闘うぞ!という気分になる(笑)。みなさんも是非。

6.『児童心理』11月号/金子書房の原稿と格闘中。なかなか発信の核が決まらない。

7.【残席4/今回は定員は増えません。お申込はお早めに】第6回教室ファシリテーションセミナーin東京。10月7日(日)に新宿で。参加費は3000円。堀裕嗣・山下幸・藤原友和。今回はファシリ導入へのステップをワークショップで提案します。http://kokucheese.com/event/index/46040/

8.年齢を重ねることは敬愛する先達のアナクロ化を目の当たりにしながら愛惜の念を禁じ得ず、それに堪えるか引導を渡すかの選択に迫られる、まことに辛苦のさだめである。

9.amazonの上位に「学級崩壊への対応」本がちらほら見えてきた。そういう時期なのだろうか。

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8月31日(金)

1.授業を2時間。その後30分ほどの学活。簡易給食を食べ、バス乗車。劇団四季の「ライオンキング」を全校生徒で見る。終演が16:30。学校着17:00。生徒たちには良い経験になったことだろう。帰宅後は少しを仮眠をと思っていたのだが、朝まで寝てしまった。

2.【残席12】累積科学国語教育研究会in東京。10月6日(土)上智大学。参加費3000円。あの親塾・教師塾の多賀一郎先生、東京学芸大学の千田洋幸先生をお迎えして。FGの藤原、教室ファシリテーションの堀、そして多賀先生が模擬授業で提案します。http://kokucheese.com/event/index/46174/

3.【残席5/今回は定員は増えません。お申込はお早めに】第6回教室ファシリテーションセミナーin東京。10月7日(日)に新宿で。参加費は3000円。堀裕嗣・山下幸・藤原友和。今回はファシリ導入へのステップをワークショップで提案します。http://kokucheese.com/event/index/46040/

4.【残席8】第2回学級づくりプログレッシヴセミナーin札幌/テーマは道徳の授業づくり・学級づくり/2012年10月13日(土)・14日(日)/札幌市内/6000円/佐藤幸司・桃崎剛寿・山田洋一・堀裕嗣/とっておきの道徳授業小・中編者揃い踏みhttp://kokucheese.com/event/index/46043/

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