教師の姿勢 心構えの極意
子どもや保護者との接し方
極意7
「教える-学ぶ」関係が崩れている現在、教師は子どもに嫌われてはいけません。現在、生徒に嫌われないということが、すべての教育活動を推進していくうえでの前提になっています。生徒に嫌われてしまうと、「指導者」としても「評価者」としてもその資格を問われる時代になってきています。
極意8
「怒鳴る教師」になってはいけません。怒鳴ることに頼り始めると教師はみるみる堕落していきます。怒鳴ることなく同じ効果をあげられる手法がないかと考え続けること。それを一つ一つためすこと。そのスキルを一つ一つ整理していくこと。この3つが大切です。怒鳴ることに頼って楽をしてはいけません。
極意9
重要なのは、何事も適切な距離を意識して臨まなければうまくは運ばない、ということです。人間関係の悩みは、そのほとんどがそうした距離感の調整がうまくいかないが故に生じます。そういうことを、なかなか教えてもらえないのが世の中です。生徒とも、保護者とも、同僚とも、適度な距離が必要です。
極意10
教育の神髄は続けること。若いうちはあれもこれもと喰いついて良
極意11
教師は結果を出すことにもう少し貪欲になるべきです。結果を出すためには粛々とこなさなければならない現実的な現実が当然出てきます。現実を避けて結果が出ないと悩む自分に酔っている、或い自分は正しいはずなのに周りの理解が得られない愚痴る、教師の世界には独善や責任転嫁が多く見られるます。
極意12
私は、人は「自分に何ができるか」ではなく「自分には何ができないか」を最初に考えるべきだと思っています。できないことをやろうとしてそれがうまくいかないと、かえってやらなかったときよりも他人を傷つけることがあります。できないことに取り組み始めないことも重要なのです。
極意13
教室はハプニングの起こるところです。ハプニング性にこそ本質があります。教育技術や授業技術はハプニングを極力排除しようという提案でした。しかしそれは背理なのです。そんな発想一辺倒では教室は活力を失ってしまいます。そこでどうバランスをとるかが問われます。そこに教師の個性が表れます。
極意14
一斉授業の教師の言葉はすべてが〈迎えに行く言葉〉でした。おいで、こっちにおいで、そういう言葉です。〈迎えに行く言葉〉ではなく、子どもに〈したたり落ちる言葉〉や〈あふれ出る言葉〉を求めると授業も生徒指導も変わります。そのときに教師に必要になるのは〈待つ言葉〉と〈戯れる言葉〉です。
極意15
言葉が不意にしたたり落ちる。カウンセリングが目指すのがこれです。言葉が不意にあふれ出る。ファシリテーションが目指すのがこれです。「したたり落ちる」「あふれ出る」に惹きつけられてはいけません。肝心なのは「不意に」なのです。「不意に」をいかにつくるかに焦点を合わせましょう。
極意16
支援を要する子と関わっていて思うのは、教師の「教え方」以上に「在り方」のほうを圧倒的に問われていること。この認識に立つと、支援を要しない子にとっても「在り方」のほうが重要だとわかってきます。ここまで来ると、支援を要する子と要しない子という境界のナンセンス性に気づくようになります。
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