大学時代に習ったことが現場では役に立たないという主張をよく耳にします。そういうビジネスライクでプラグマティックな発想が大学教育を取り巻き、教員養成系の大学がほとんど専門学校化している現実も目にします。しかし、私は大学時代に学んだことが役に立たないと言っている人は大学時代に学ぶことを怠った人間だと思っていますし、教員養成系大学が専門学校化していくことを苦々しく感じています。
そもそも大学とは、学問を通して教養を身につける場であったはずです。教養とは生き方を考える基礎力であって仕事の仕方を考える基礎力ではありません。生き方を考えれば必然的に「世のため人のため」と自分が社会に貢献する方向へと向かっていきますが、仕事の仕方をいくら考えてもそこには労働力と対価との交換という市場原理が紛れ込んできます。そんなものを大学で学ぶことに何の価値があるのでしょうか。
生き方は他者理解を深め、他者に貢献することによる自己の喜びへと向かっていきますが、仕事の仕方はあくまで実利へと向かいやすい傾向があります。生き方を追究せずに実利を求めていては、師匠は得られません。実利はあくまで自分自身のベクトルで考えることですから、師をもつことも師となることも対価がある場合にのみ成り立つという発想を無意識的に抱いてしまうからです。この発想が教職とどれだけ離れた発想であるか、ちょっと考えればわかることです。
師をもちましょう。師をもつことは、人間に自分を師の視点から常に点検し続けるという機能をもたらします。学生時代に師を得られなかったから遅いなどということはありません。師は大学でも職場でも研究会でもコミュニティサークルでも、どこでも得られるのです。
そしてできれば、複数の師をもちましょう。それも視点の異なった、研究領域の異なった、発想の異なった複数の師を。「それは師といえないのではないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。「一人の師から学んでこそ師弟である」と。学術研究の場に身を置くなら確かにそういう面があるかもしれません。しかし、私たちは教師なのです。深さも大切ですが、それ以上に広さが大切なのです。
教育界において「私からのみ学びなさい」という関係は親分子分の関係であって、実践研究の世界においては師弟関係とは言えません。一人の人間が到達できることなどたかが知れている、それを知らぬ人間にこの世界で人を導くことなどできないのですから。
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