予兆
かつて佐世保で小学校6年生の女子児童が、給食準備時間に同級生の女子児童に校舎内で刺殺されるという事件が起きました。衝撃的な事件だったので覚えておいでの読者も多いだろうと思います。大手の新聞社は次の日の社説において、揃って「学校は何をしていたのか。予兆は捉えられなかったのか」と学校を批判しました。私はこの大手新聞社の論調に対して、複雑な思いを抱きました。
もちろん学校に問題がなかったとは言いません。適切な対応(というものが正直、どういうものなのかいまだにわかりませんが)をとっていれば、或いは最悪の事態は避けられたのかもしれません。その意味で、学校が批判されること自体には私は疑問を抱きませんでした。しかし、「予兆が捉えられなかったのか」という批判に対しては、私は複雑な思いを抱かざるを得ません。小学校6年生の女子児童が同級生の女子児童を校内で、それも教育課程内の時間に刺殺する……その予兆とはいかなる予兆なのでしょうか。
それまで小学生女子児童が同級生を刺殺する可能性がある……そんな事件を我々は知りませんでした。ということは、学校側は頭の片隅にさえないのです。頭の片隅にさえないことについて、予兆を捉えることは不可能ではないでしょうか。
1990年代の半ば、栃木県の黒磯で、中学1年生の男子生徒が女性教員を刺殺するという事件が起きました。それ以来、中学校の教員は女性教師が一人で男子生徒の生徒指導にあたることを避けるようになっています。私たちもこうした前例があれば、頭の片隅に常にそうした可能性を置いて対処することができます。しかし、佐世保の小学生の事件は、少なくとも当時はあまりにも想定外の事件だったのです。
私はここで、だから仕方がなかったのだと言いたいわけではありません。教師という仕事は、こうした想定外中の想定外の事件であっても、「予兆が捉えられなかったのか」と批判される、そういう職業なのだということを我々自身が意識する必要がある、そう申し上げたいのです。
こう考えてくると、私たち教師が日常的にどれだけ子どもたちに目配りをし、心配りをしなければならないかということが、身に沁みて実感されてくるのではないでしょうか。少しでも様子がおかしいなと感じたら、すぐに言葉がけをするとともに保護者に連絡して相談する、そうした動きが必要な時代にとうの昔に入っているのです。
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