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違いを認め合い、補い合う

生徒指導屋には生徒指導屋の役割があり、担任屋には担任屋の役割があります。研究屋には研究屋の、教務屋には教務屋の、そして行事屋には行事屋の役割があります。もちろん、管理職にも管理職の役割があります。これらを有機的に結びつけること。教員再生の道も学校再生の道も、このこと以外にはありません。

職員室には実に様々な教師がいます。

生徒指導や学級経営をそつなくこなすけれど事務仕事を苦手にしているとか、事務仕事は抜群に速くて正確だけれど生徒指導を苦手にしているとか、生徒を叱りつけるのは苦手だけれど生徒の話をじっくり聞いてあげて信頼を得ることに長けているとか、普段は目立たないけれど毎年の学校祭ステージ発表は奇抜なアイディアで全校をわかすとか、部活動がやりたくて教員になったと公言するだけあって毎年県大会の上位まで進出するとか、まだ仕事はほとんどできないけれど若さと元気さでいつも生徒たちと触れ合っているとか、いろいろな個性があるものです。

私はいま、「個性」という言葉を使いましたが、職員室の揉め事の多くはこの個性の違いを前提とせず、自分の得意な領域を教師の普遍的価値と考える者同士の間に起こります。生徒指導が得意な教師は生徒指導ができない者は教師ではないと思い、授業づくりや研究が好きな教師はもう少し学校に授業に力を入れる体制ができれば学校は変わるのに……と感じています。

こうした考え方の前提のちがう者同士の間で、職員会議に提案されたある行事の在り方をきっかけにその価値観の違いが顕在化し、次第に深刻な揉め事へと発展していく。或いは、学年運営における生徒指導上の方針においてまったく逆のベクトルの方針が示される。従来からの規範型の生徒指導方針を主張する者と、カウンセリングマインドを旨とする生徒指導方針を主張する者と……。職員室の揉め事というものはこうしたことから起こるものです。なんとなく、「あいつは甘すぎる」「あの人は時代遅れだ」といった静かな応酬が繰り返されるようになるわけですね。

しかし、私はこうした違いというものが、教師としての「質」の違いであって、「価値」の違いではないと考えています。従って、これらの個性に価値の高低があるわけではないというのが私の主張です。

人間には得手不得手があります。それは仕方のないことです。不得意なことを得意になれと言われても、それはそうそうできることではありません。

問題は価値観の違いがあったり、方針の違いがあったり、得手不得手があったりしたときに、自らの価値観だけ、自らの方針だけ、自らの得意なことだけを「唯一の正義」として主張してしまう、その主張の在り方です。この傾向は多くの学校において、「学校を動かしている」と一目置かれているタイプの、実力派教師に多く見られます。私は学校を背負っているといわれるこうした教師たちは、その功罪において「罪」の方が大きい場合が多いと感じています。

学年団の運営や職員室の運営というものは、教師に「質」の違いがあることを認め、お互いにだれが何を得意とし何を不得意としているのかを理解し合ったうえで、個々の教師が得意な領域で最大限の力を発揮しながらも、お互いに不得意な部分はカバーし合う、その結果として「チーム」として質の高い教育活動ができる、そういう姿をこそ目指すべきだと考えています。

私がかつて学年主任をやっていた頃の話です。

学年主任は年度末の校内人事の際、校長に呼ばれて新年度の人事について打診されます。ざっくばらんに言えば、学年にだれが欲しいかと尋ねられるわけですね。

こんなとき、多くの学年主任が力量の高い教師を指名します。要するに、一つの学級の担任を任せることができ、できれば弱い担任のフォロー役も務められる、更には学年全体の規律の維持にも力を発揮する、そういう教師ですね。

その結果、一般にどういうことが起こっているか。事務仕事が得意な教師とか研究好きの教師とか優しいお母さん先生とかおとなしめのおじいちゃん先生とかおたくっぽい若手とか……こうしたタイプの教師があまされたりお荷物扱いされる雰囲気がつくられてしまうのです。

しかし、私は学年主任が力量の高い先生を自分の学年に集めようとするのは、学年主任に力量がないからだと思います。生徒指導や学級経営の力量がない、と言っているのではありません。人の上に立つための力量がないのです。つまり、主任としての力量がないわけですね。

人の上に立つ者は、まず何と措いても己(おのれ)を知ることが必要です。私の場合、全体規律を維持するための「怖い教師」の役柄を担うことができます。また、学校行事や生徒会活動で生徒たちを楽しませることにも自信をもっています。しかし、いわゆる「弱い生徒」を包み込むタイプの指導を苦手としています。また、その頃には既にある程度の年齢になっていましたから、生徒たちと昼休みにサッカーをするとか、生徒たちの恋バナの相談に乗るとか、そうした生徒たちへの昇華作用を発揮するような指導には向きません。そして何より、私は四十代前半の男性教師でした。

こうした学年主任たる私の特徴をより機能させ、足りない部分をカバーしてくれるのはどういった教師だろうか。チームをつくるための発想というのは、ここから始まるのです。

私は学年の生徒指導係として、規律維持に努めなければなりません。いかつい顔をして生徒たちの前に立つことも多くなります。その意味で、私はまず、副主任には常に笑顔で生徒たちに接する、明るい女性教師が欲しいと思いました。

また、若さを発揮して、生徒たちとともに遊び、ともに悩み、ときにはぶつかることのできる、そんな若手教師が欲しいとも感じました。できれば男女各1名ずつ。

更には、いるだけで存在感を示すような好々爺的なおじいちゃん先生、生徒たちのわがまをやさしく笑顔で受け止めるおばあちゃん先生も欲しいと考えました。そうした年配教師の醸し出す雰囲気というものは、私のようないかつい顔をした教師のマイナス面を緩和し、元気で明るい女性教師とは違った包み込み方を発揮するものです。

そして、できれば、学年主任の私にとって、学年運営の相談役となるような学年主任経験者がいてくれたら最高だ。そういう人がいれば、自分にとってずいぶんと心強いはずだ。私はこういう結論に達しました。

教師の「チーム力」というものは、まず違いを認め合うことから始まります。異なった個性が集まったときに、それぞれがそれぞれの能力を発揮し、足りない部分を補い合う、この意識が必要です。こうした発想だけが「チーム」を機能させるのです。

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