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学級経営は相対的に評価される

例えば力量のある教師がものすごい学級経営をしているとします。でも多くの場合、その学級の隣にはその教師と比較されることによって苦しんでいる担任がいるものです。力量のある教師は隣の学級担任が苦しまないように、隣の学級の子どもたちが損したと思わないように配慮する必要があります。

どの学校にも「ものすごい力量をもっている」と周りから評価されている教師がいるものです。その教師が担任すると、学級経営が安定する。その教師が指導すると、学校祭・文化祭での発表の質が上がる。その教師が指導すると、合唱コンクールで必ず優勝する。そんな教師です。

若い教師はそんな教師に憧れます。そして少しでもその先生に近づきたいと考えます。そして努力が始まります。それはとても良いことです。

しかし、そうした「ものすごい力量をもつ教師」は、総じて自分本位に教育活動を進めている傾向があります。自分勝手だとか協調性がないとか、要するにそういう教師がわがままだと言っているのではありません。そういう先生が人間的にどうこうということでもありません。そうではなく、本人にはまったくそんなつもりはないのに、本人も気づかないままに自分本位の教育活動になってしまっていて、周りに迷惑をかけているということが少なくないのです。しかも、迷惑をかけられている側も、迷惑をかけられていることに気づかない構造があるので、これまた始末が悪い……そんな状況があるのです。

1980年代から1990年代にかけて、教師の間で、教育技術や授業技術を学び、力量を高めていこうという発想が大流行しました。こうした取り組みは「教師修業」と呼ばれ、かなり大きな運動として流布しました。「全生研」「教育技術の法則化」「授業づりネットワーク」など、様々な新たな民間教育団体が現れたり、かつて隆盛を極めた教育運動が息を吹き返したりしました。

こうした教育団体で学んできた教師に共通する傾向として、必ずあるのが「個人の力量を高める」という発想です。職員室の力量を高めようとか、学校としての力量を高めようなどという発想で、こうした運動体に参加するということはまずありません。運動体自体がそうした構造にはなっていませんから、当然といえば当然のことです。学校全体である教育運動に参加するということは考えにくいですからね。

教師個人が教師としての力量を上げるということは、実はその教師が力量上げれば上げるほど、他の一般教員との力量の差が開いていくことを意味します。その教師の評判は上がり、生徒にも保護者にも信頼され、喜ばれる教師になっていきます。それ自体はとても素晴らしいことです。

ただ、これがプロのスポーツ選手であるとか、企業の営業部門の社員であるとかであれば良いのですが、学校の先生というのはこれをただ手放しで喜ぶわけにはいかない職業なのです。

皆さんもご存知の通り、学校というところはすべての教師が同じ力量をもっているということを前提にシステムが構築されています。ですから、生徒にも保護者にも先生を選ぶ権利がないわけですね。

もちろん、すべての教師が同じ力量をもっているなんて、国民のだれ一人として信じていませんし、そんな夢みたいなことはあり得ないのですが、システムがこの思想によって構築されていることによって、様々な問題が生じてしまうのが学校というところです。教師同士の力量の差が許容範囲内であれば、「それは個性の差である」と言い訳もききますし納得もできますが、力量の差が許容範囲を超え出すと、様々な弊害を生んでしまうのです。それは、学級経営が相対的に評価されるという特徴をもっているからです。

新年度、生徒たちも保護者たちも、担任が発表されたり教科担任が発表されたりすると同時に、「今年は当たりだ」とか「今年ははずれだ」とか言っています。私も学校に通っている頃はそう感じていましたし、私の母も、仲の良い友達のお母さんもそういう言い方をしていました。だれもが経験していることであるはずです。つまり、生徒や保護者は学級担任や教科担任を当たりはずれで評価している、ということです。

しかし、ここでよく考えてみましょう。生徒や保護者は何を基準にして当たりだ、はずれだと判断しているのでしょうか。

確かに年度当初であれば、「女の先生はダメだ」とか「若い先生は頼りない」とか「年寄り先生はいやだ」とか、そういう何の根拠もない差別的な判断もあるかもしれません。また、「あの先生は評判が悪いようだ」とか「かつて学級崩壊をしたことがあるようだ」といったような伝聞情報による評価もあるかもしれません。しかしこうした差別的な評価、評判に基づく評価ならば、多くの場合、その後に、普通に学級経営・教科経営をしていれば立ち消えていきます。

問題は普通に学級経営や教科経営をしても立ち消えていかない評価です。生徒や保護者は常に、自分の担任が隣の担任と比べてどうか、お兄ちゃん、お姉ちゃんのときの担任と比べてどうか、という視点で評価しています。しかも「隣の芝生は青い」の諺通り、自分の担任と隣の担任が同程度の力量なら「隣の担任の方が良い」、自分の担任が隣の担任よりも少しだけ力量が落ちるとなれば「隣の担任は自分の担任と違ってものすごく力量が高い」になりがちです。私たち教師は、学級担任としてこのような評価に常に晒されていると見なければなりません。

こうした構造の中に、一人だけ、「ものすごい力量をもつ教師」が入ってきたとします。力量の高い、その教師自身は何も困ることはありません。また、その教師に担任されている生徒たち、そしてその保護者たちも、自分たちが幸せだと感じることはあれ、困ることはありません。

問題はその隣の学級の担任教師、或いはその力量ある教師といっしょに学年を組んでいる担任教師たちなのです。彼らはその力量ある教師が近くにいるがために、常にその教師と比較されることによる評価に晒されるのです。生徒や保護者から見て、その力量ある教師の学級経営が評価基準となってしまう、と言い換えても良いかもしれません。

しかし、誤解しないでいただきたいのは、私は何も力量ある教師が力利用ない教師に合わせるべきだ、と主張しているわけではありません。むしろ、力量ある教師は、生徒たちの成長のためにその力量を遺憾なく発揮すべきです。ただ、力量ある教師がそうした力量を発揮するときには、周りにいる教師たちが困らないように、周りに配慮するところまで責任の範囲なのだ、と言っているのです。

具体的に言うなら、例えば、周りの教師たちがそれぞれの得意分野を発揮できるような場を意図的に設けて、生徒たちからそれぞれの教師の良さを見えるようにする。保護者にもそれを大きく宣伝する。例えば、そういうことです。

一番良いのは、周りの教師たちを巻き込んで研修の場をつくったり、学年で歩調を合わせたりしながら、周りの教師をも自らの力量に近づけていくことです。それも、当の周りの教師にその気がなく、いやがられたとしてもです。教師が力量を高めるのは職員室のためではなく、生徒たちのためです。自分の学級の生徒たちに良い思いをさせることによって、他学級の生徒たちの不満を招いたり成長にひずみを招いたりするのだとすれば、それは「力量が高い」とは言えないのではないか、そこまでが「力量の高い教師」の責任の範囲なのではないか、私はそう主張しているのです。

もちろんこれは「言うは易く行うは難し」です。しかし、こうした志向性を抱いているのと抱いていないのとでは、大きな違いがあります。世の中には、この志向性を抱くことなく、自分本位に教育活動を進めている自称「力量の高い教師」が多すぎるのです。

この姿勢のない「力量の高い教師」は、やはり「自分本位」であり、「自己満足」を目的とした力量形成でしかない、と言わざるを得ません。学校教育は教師の「自己実現」の場としてあるのではないのです。自分の学級だけではなく、勤務校の生徒たちすべてを対象としてより良い教育を考えてこそ教師なのです。

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