学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ
今日、学校に晋の新刊『学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ』(学事出版)が送られてきた。ちょうど5時間目が空き時間だったので読んだ。僕は既に晋の学級通信講座を10回は聞いているので、特に新しい情報はない。しかし、今回の本はそれを差し引いても「うーん…」だ。
この本の内容は「10のコツと50のネタ」というタイトルだが、簡単にいえば学級通信を書くための原理原則だ。しかもタイトルが示すように「発行し続ける」ための原理原則である。つまり、学級通信を発行し続けたいと思っている人には、「こうすれば出し続けられるんですよ」という提案になっている。
要するに、学級通信を絶対善として、それを発行し続けるためのマニュアル本である。学級通信に価値を置いていない、それほどの興味もない、そういう教師に「よし!自分も学級通信を毎日出してみよう」と思わせる魅力はない。
この本は読者に開かれていない。ブロットも書き方も、ほんとうに晋が書いたのかと思われるほどに、原理原則に終始し、その「機能性」と「可能性」を語っていない。前著に比べて、私には、内容的にはもちろん(もう知っている情報だから)、その構成の仕方、表現の仕方についてもまったくおもしろくない。
この本には学級通信をどのように書くか(10のコツ)と、学級通信に何を書くか(50のネタ)としかない。「どのように書くか」と「何を書くか」だけがあって、「なぜ書くか」がない。それがこの本を安っぽいHOW TO本に貶めているのだ。
晋は「価値のインストラクション」について語っているではないかと言うかもしれない。ならなぜ、その「価値のインストラクション」がどう機能したかを書かなかったのか。書きようはいくらでもあっはずだ。教師の働きかけによって子どもとのやりとりが始まった実践とか、行事のあとの子どもの作文を掲載してリフレクションがこんなふうに高まったとか、誕生日のオリコン1位曲を掲載するとともに聞かせることで子どもからこんなリアクションがあったとか、同様に保護者からこんな反応があって後の教育活動にこんなふうに生きたとか、学級ポートフォリオとして機能させることによってこんな効果があったとか、その「機能性」と「可能性」を語ることはできたはずなのだ。
なのに晋はそれをしない。おそらく晋にとって学級通信があまりにも当然のものであり、晋にとってあまりにも自分の実践の核であり、そして晋があまりにも通信という形にこだわりをもっているからだ。誕生日に曲を聞かせることとか、その通信のリアクションとか、そういうところまでが通信であるという「機能性」の感覚に乏しいのである。学級通信の概念を狭くさせていると言っても良い。晋がピアノを弾いたり、ビデオレターをつくったり、写真集をつくったといったところまでを「学級通信と考える」というような概念破壊ができていない。だからおもしくない。だから、HOW TOに堕してしまうのだ。
言わば、この本は晋の書き方ではなく、僕の書き方に近い。しかし、僕の場合、原理・原則を書くときは「学級経営」とか「生徒指導」とか「一斉授業」とか、コンテンツがでかいのだ。要するに、常に考えておくべき全体像を与えて、「学級経営」や「生徒指導」や「一斉授業」を考えるときには、これだけの要素を頭に入れて、そのときどきにプライオリティを判断しながら動かなければならないのが私たちの仕事なんですよ、ということ自体を提案しているのである。しかも、これはシリーズ化して教師の仕事の全領域を網羅しようとの野心もある。それぞれのコンテンツの〈あいだ〉から次のコンテンツを醸し出そうとの試みであり、通して読んでもらえば様々な領域を貫き通す基本原理もまた浮かび上がるように設計されている。こういう大規模なことを考え、実行してしまうところが僕の「個性」なのだ。
しかし、学級通信は違う。コンテンツとしては小さい。実践の全体像でもない。とすれば、HOW TOだけでは提案性に乏しい。HOW TOが提案性をもつのは、かつてだれもHOW TOを書けないような領域で、初めてHOW TOを書いた場合だけだ。しかし、内容が学級通信では、これまで数限りなくHOW TOは出ている。それを前提に新たに提案するのだとすれば、そこには晋独自の視点、晋が新たに付け加えた視点、それが必要になる。
晋の意識の中では、おそらくそれは「価値のインストラクション」だ。学級通信と読み聞かせとを「価値のインストラクション」の両輪と表現し、その一方を語ろうという位置づけなのである。しかし、「両輪」という言葉を文字通り「両側の車輪」という意味だけで捉えてはならない。「方法のインストラクション」や「意図のインストラクション」は確かにステアリングで方向性を定めようとする、文字通りの「両輪」だろう。だが、「価値のインストラクション」というのは、「インストラクション」の中でも「駆動輪」なのである。この「駆動させる両輪」の片方を語ろうとする者が、HOW TOでそれを語って何の意味があるのか。〈駆動させる構造〉を語らなくて何の意味があるのか。そして晋は、意識してか意識せずにか、その〈駆動させる構造〉を書かずにこの本を構成してしまったのである。
申し訳ないが、この本は僕から見ると駄作である。思いはわかる。必要性もわかる。しかし、私から見ると、晋が書くべき本じゃない。少なくとも、「価値のインストラクション」の車輪としては機能していない。それが私の評価である。
ただし、この本は商業的には成功するかもしれない。学級通信を書きたいのに書けない、書き続けたいのに書き続けられない、そういうレベルの低い教師には必要な本だろう。しかし、「価値のインストラクション」と駆動の構造を1章書き足せば、それも10頁程度書き足せば、一気に学級通信の機能性と可能性とを訴える本にできたのである。かつての「見たこと作文」実践に見られるような、駆動輪としての学級通信が提案できたのである。晋の学級通信というコンテンツがこんな中途半端な形で世に出てしまった。私はそれがとても惜しいと思う。
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コメント
久々に厳しい評をありがとう。
まあ、今回はこういう書き方をしたということなんだよね。
学級通信のノウハウ本というのは、概括的概略的な解説本を除くと、実は具体的実際的なものはまとまった形ではありそうで、ほとんどないんだ。正寿さんの本くらいしか見当たらないんだよ。
ということで、批判のポイントは、うーん、そうなのかなあとも思いつつ、という感じです。
とにかく学級通信を出しつづけたい人に(出しつづけなくちゃなアと思ってる人に)、たくさん読んでほしいと思う。
投稿: 石川晋 | 2012年7月11日 (水) 08時03分
まあ、そういうことがあるのはよくわかる。でも、学級通信と読み聞かせだけは、それをしちゃいけないと思うな。まあ、学級通信の駆動構造の本はいずれ書くべきだと思うよ。もちろん、読み聞かせもね。
投稿: 堀裕嗣 | 2012年7月12日 (木) 20時50分