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6月10日(日)

1.3時に寝たのに、7時半に目覚めた。もう少し寝た方が良いような気もするけれど、まあせっかく目覚めたのだから仕事を始めよう。それにしても、いつからこんなに勤勉になったのだろう。やることがあり過ぎると、人は勤勉にならざるを得ないらしい。

2.2000年前後から学力低下と学級崩壊がマスコミが賑わし、それに伴って教師の指導力不足が指摘されるようになりました。「指導力不足教員」「不適格教員」という語がマスコミを闊歩しました。「指導力不足教員」を排除せよ、「不適格教員」を排除せよ、その後、マスコミも教育再生会議もそうした論調でした。

3.しかし、私は「不適格教員」は確かに排除するべきでしょうが、「指導力不足教員」は排除するのではなく、研修に取り組ませるべきだと考えています。「指導力不足」という概念が、あくまで他の教師との比較による相対的なものに過ぎないからです。

4.学級経営は相対的に評価されるものです。それは、指導力というものが相対的に評価されるものであることをあらわしています。学級を崩壊させた教師が転勤先で普通に学級を運営しているとか、授業崩壊した教師が学年をかわれば安定的に授業を展開したというよな事例はたくさんあります。もちろんすべてがそうだとは言えませんが、学級崩壊や授業崩壊の多くは、生徒たちや学年教師と相性が合わなかったり、ちょっとした言葉の行き違いから歯車が狂ってしまって負のスパイラルに陥ってしまったりといった、一回性のものなのです。

5.マスコミは「指導力不足教員」の例として、指導事項を理解していない教員とか生徒たちとコミュニケーションをとれない教員とかを挙げていました。要するに、当然解けなければならないような問題を解く学力がなかったり、生徒たちに話しかけることも話しかけられることもなかったり、そうした教員ですね。

6.しかし、これらの例は「指導力不足」ではなく、「不適格」なのではないでしょうか。教師として教壇に立つ資格をもたない教員なのではないでしょうか。世論は「指導力不足教員」と「不適格教員」という言葉を曖昧に用いています。決して犯罪を犯したり体罰を繰り返したりという教員だけが「不適格」なのではないのです。

7.ただし、「指導力不足教員」はこれとはまったく概念の異なる言葉です。もしも「指導力」が不足していることによって排除される要因となるというのなら、新卒教師の98%は排除しなければならないことになってしまいます。しかし、新卒教師は経験がなく可能性があるから基準を甘くして良い、おそらくそういうことなのでしょう。

8.だとしたら、中堅・ベテランにも同じ基準でチャンスを与えるべきです。彼らの多くは新卒時代、周りに教えてもらうこともなく、実用的な研修を受けることもなく、モデルとなる先輩教師ももたないままに、ただなんとなく教師を続けてきた、そういう教師たちです。新卒時代の経験もなく、可能性だけがあるという時期に、自らを力量形成へと向かわせる出逢いをもたなかった教師たちに過ぎないのです。そのうちに世の中の教師を見る目がどんどん厳しくなり、数十年前なら退職までやっていけていたのにいまとなっては「指導力不足教員」の烙印を押されている、そういう教師なのです。

9.彼らに必要なのは研修であって、免職ではありません。研修成果が出るまで給料を下げるというのは妥当な在り方かもしれませんが、排除しようというのはやり過ぎです。

10.仮に、ここに「指導力不足教員」と認定された教師がいて、研修を受けさせることになったとします。その教師に職場復帰したいという意欲さえあれば、私はその教師の「指導力不足」状態を3ヶ月から半年程度で改善できる自信があります。集団を統率しながら一斉授業や学級経営をくずさない程度に行える技術など、決して難しいものではありません。身につけるのにそれほど時間がかかるものでもないのです。基本的に、私が『学級経営10の原理・100の原則』『生徒指導10の原理・100の原則』(ともに学事出版)の二著で書いた事柄について、ロールプレイで研修を繰り返せばまず間違いなく「指導力不足」状態は改善します。

11.問題なのは、多くの現場も地域の教育行政も、こうした「指導力不足」改善への実効的なプログラムをもたないことなのではないでしょうか。新卒教師さえ育成できない職員室、教育委員会が多すぎるのです。職員室は日常の忙しさにかまけて、教育委員会はその時々の文教政策に沿った口当たりの良い講座ばかりを設けて、実効的な研修を行いません。それでいて指導力を身につけていないのは自己責任だとバッサリと斬ってしまうのでは、現場も教委も責任を果たしているとは言えません。

12.繰り返します。「指導力不足教員」に必要なのはあくまで「研修」であって、「排除」ではないのです。

13.世の中に完璧な人間などいません。しかし、可能性のない人間もまたいないのです。生徒にも保護者にも同僚にも、そして自分にもこの視線を向けることができたら、人は優しくなれます。教師としての度量が生まれます。

14.しかし、言うは易く行うは難し、人はこんな当たり前のことさえ時に忘れてしまいます。目の前のことばかりに囚われて、視野狭窄に陥ります。

15.人の人生に潤いをもたせるのは「不在」です。自分が完璧じゃないと認めることは、自分が自分が求めているものをもっていないこと、つまり、「不在」を認めることです。自分に可能性があると期待することは、自分が自分が求めているものを将来はもつことができるかもしれないと期待すること、つまり、「不在」への期待です。この一見逆方向のベクトルに見える二つの「不在」をともに抱き続けること、それが人生の潤いなのだと思います。

16.「不在」を嘆かず、「不在」に飢える。教師にもこの両方が必要です。

17.生徒にも保護者にも同僚にも、あるべきものがないと嘆く視線を投げかけているうちは人間関係はうまくいきません。もつべきものをもっていないと嘆く視線を投げかけているうちは人間関係はうまくいきません。逆に、同じようにあるべきものがない、もつべきものをもっていないと嘆く視線を投げ返されるだけです。胸に手を当てて考えてみましょう。自分だってその視線に耐えられないのではないでしょうか。

18.逆に、どんな自分になりたいのか、どんな子育てがしたいのか、どんな教育が理想なのか、そんな「不在」を共有していっしょに飢えてみる。そんな関係を築けたら、人間関係は知らぬ間にうまく行くものなのです。

19.教師を志して30年近くが経ちますが、私はこの中で片手に余る「自ら命を絶つ教師」を身近に見てきました。学生時代の先輩から高校時代の友人、職場の同僚に至るまで、片手に余る人数の自殺をです。

20.私はかつて「明後日(あさつて)の思想」を紹介しました。その要諦は、いま自分が置かれている状況が苦しくても、5年後の自分はそれを成長の糧としているはずだから、未来を信じてもう少し頑張ってみましょう、そう考えましょうということです。

21.しかし、いま現在の自分が置かれている状況が、死を考えるほどに深刻だとすれば、それは迷うことなく逃げることです。休職したって構わないではありませんか。退職したって構わないではありませんか。

22.同僚に迷惑をかけるとか、生徒たちに申し訳ないとか、親に顔向けできないとか、そんなことはどうでもいいことなのです。確かに、教職は尊い仕事ですし、この安定した職業に就いたことをあなたの両親は喜んでくれたかもしれません。しかし、命を賭けるほどの仕事ではありません。命を賭けてはいけません。

23.死ぬくらいなら、逃げてください。それがよりよい選択なのです。

24.拙著『スペシャリスト直伝!中学校・学級経営の極意』(明治図書)をいま完全脱稿し、編集者に送信しました。いやあ、スッキリ!/14:42

25.さあ、今日は仕事はおしまいだ。うまいもん喰って、うまい酒呑んで、溜まったビデオ見て、寝ることにしよう。ウッシッシ……。

26.常に5冊を同時進行で書くことにしています。昔から5冊を同時進行で読むことにしていたのに倣った形です。1冊仕上がったので、どれに着手するかを迷っています。依頼を受けた純に着手するのが礼儀に適うのですが、なかなかそうも行きません。次に着手すべき企画の中に気持ちの乗るものがないのです。

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