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6月9日(土)

1.【拡散希望/定員50/残席40】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は藤原くんにかわって山田洋一さんとの行脚です。

2.【拡散希望/定員50/残席23/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)

3.kayaDVD/第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都/堀 裕嗣・藤原友和

4.修学旅行中は朝ご飯を毎日ちゃんと食べていたものだから、なんか腹が減ってきた。

5.修学旅行から帰ってきてそのまま飲みに行って日本酒まで飲んで、次の日はちゃんと朝から起きて原稿を書いている。以外と体力あるなあ、オレ……。我ながらちょっとびっくりしている。でも、ちゃんと頭が働いているかと言うと、ちょっとあやしい。

6.研究会のQ&Aコーナーにおいて、「実際に仕事をしていくうえで教師に必要な力は何ですか」と訪ねられたり、「若い教師にこういう力をつけると良いよというメッセージをお願いします」と求められたりすることがあります。私はいつも、冗談めかして次の三つだと応えることにしています。

7.第一に「サボる力」です。「サボる力」などというと不謹慎に聞こえるかもしれません。しかし、世の中には、朝早くから来てその日の授業の準備をし、放課後に部活動を指導した後も遅くまで事務仕事をしているという教師が多すぎるように感じています。一日に14~15時間くらい働いているわけですね。そういう先生を見ていると、もう少し仕事を効率化できないのだろうか、効率化することを覚えればずいぶんと楽になるのに……と思わずにいられません。

8.教師の仕事において、「効率化」という言葉使うと、どうしても違和感をもつ方が多いだろうと思います。教師の仕事を効率主義で運営するのはいかがなものか、というわけてず。もちろん、部活動とか行事指導とか生徒指導とか、要するに生徒と関わる仕事は効率化することはできません。

9.しかし、そういう先生はいわゆる事務仕事をとても非効率にやっていることが多いのです。例えば、1枚のプリントをつくるのに何時間もかかる、「時候の挨拶はどんなのにしようかなあ」なんて考えているうちにネットや事典で調べ始めるとか、ちょっとしたひと言にこだわってなかなか完成しないとか、そんな仕事の仕方ですね。また、行事の反省アンケートを係の先生に請求されてから慌てて書き始める、もう行事が終わって1週間も経っているのでどんなことを感じたかも忘れてしまっている、結果、アンケート1枚書くのにずいぶんと時間がかかってしまう……こんなこともあります。

10.私の言う「サボる力」というのは、こんな現状を「サボる時間」を生み出すにはどうしたら良いかと考え続けることによって、仕事の仕方を工夫し効率化することによって、時間を生み出すとともに効率的な事務仕事の在り方を身につけよう、という意味合いです。

11.現在の私は職員室で珈琲を飲んでいる時間とか、ちょっとした調べものをする時間とか、放課後に生徒たちとコミュニケーションを図る時間とか、そうした余剰時間がたくさんあります。しかも残業は生徒指導関係以外にはまったくと言って良いほどありません。それは私が保護者向けなら1枚つくるのに15分程度しかかかりませんし、定期テストをつくるのでさえ2時間程度しかかからないからです。ちなみに授業用のワークシートなら10分程度ですし、校務分掌の提案文書もどんなに複雑なものでも30分まではかかりません。

12.こうした仕事の仕方ができるようになるまで、私は自分自身をずいぶんと鍛えてきました。そしてその出発点が「サボる時間」を生み出すにはどうしたら良いか……という発想だったわけです。

13.効率化というのはいかに時間を生み出すかということです。時間を生み出す必要性がないと、人間、なかなか時間を生み出そうなどとは考えないものです。私はちょっと珈琲ブレイクとかちょっとおしゃべりとかが大好きなので、そういう時間を生み出そうと考えるわけですね(笑)。そうした私の性質が意図的・意識的な仕事の効率化へと私の発想を向けさせたわげです。

14.第二に、「いじりいじられる力」です。生徒との関係にしても保護者との関係にしても同僚との関係にしても、「いじれていじられることができる」という双方向が成立している状態が、まず間違いなく信頼関係が築けている状態と言えます。基本的にはこういう人間関係を目指すのです。

15.いじるだけではダメです。それは自分がツッコミばかり入れて、上下関係が固定化されている状態です。そうなると、相手がどのようなことを考えていて、どのよなことを感じているのか、相手の真意に気づきにくくなっている状態です。

16.また、いじられるだけもダメです。それは自分が下に見られている人間関係が固定化している危険性があるからです。その時々の話題に従って、その時々の空気に従って、どちらもいじりいじられる上限関係の流動性が担保されている、それが理想的な人間関係であると私は思います。

17.ちなみに「いじめ」と「いじり」の違いを皆さんはご存知でしようか。「いじめ」は相手に対する悪意、ネガティヴな感情から行われるものであり、「いじり」は相手に対する好意、ポジティヴな感情から行われるものです。従って、「いじりいじられる」ということは双方の双方に対する好意が双方によって認識されている状態を担保します。そうした潤いこそを目指そう、そんな意味合いです。

18.ただし、最初からそういう状態を目指していじったりいじられたりすべきと言っているのではありません。私はここまでかなり「理想状態」という言葉を用いてきましたが、それはあくまで人間関係ができた末に出来上がる状態です。当初は誠実な対応をし、楽しいことに取り組んでともに笑う機会を重ねる、そうした営みの末にこそこの「いじりいじられる関係」は成立するのです。

19.どんなに好意をもっていたとしても、いきなり生徒をいじると傷つけてしまうことがありますし、いきなり保護者をいじると引かれてしまうことがありますし、いきなり校長をいじったら怒られるかもしれません。そんなことはあり得ないのです。

20.私は「いじり」というものが相手に対する好意から生まれると言いました。つまり、「いじりいじられる力」をもてというのは、だれ一人嫌ってはならない、全員に好意をもつのだということを前提思想としているのにお気づきでしょうか。教師の資質として、他人を嫌わないということはとても重要なことです。「いじりいじられる力」とは、そのような資質を求めた、教師の力量の根幹を提示しているつもりです。

21.それにしても奥入瀬は何度行っても良いものだ。あそこに流れている涼やかな空気。木漏れ陽と滝のしぶきとの何とも言いようのない調和。修学旅行に行くたびに感動が増していく気がする。

22.第三に、「流される力」です。自分の考え方や仕事の作法をただ主張するだけではなく、必要なときには周りに流されてみる、そういう力です。

23.「周りに流されてみる」などというと、そんなことが力量なのかと思われるかもしれません。一般に、周りに流されることはネガティヴな捉え方をされていますからね。しかし、私の言う「流される力」は、ポジティヴに流されてみることを指しています。

24.皆さんにはこんな経験がないでしょうか。

25.新しい学校に転勤したときの話です。転勤先の学校のやり方に違和感を抱きます。一つ一つがシステマティックに動いておらず、どうも無駄が多い感じがする。第一義に考えるべきことが蔑ろにされている感じがあり、どうも職員室の先生方の仕事の優先順位が違うような気がする。もう少し生徒たちに高い要求をすれば良いのに、生徒指導上大切な点がなあなあになっている気がする。職員会議で議論が交わされることがなく、提案された原案がすべて通っていく。違和感の質は様々ですが、転勤したてのときというのは、だれもが違和感の塊になるものです。

26.こうした違和感から、力量の高い先生ほど「この学校はおかしい!」と思い、改革しようと考えます。私はそれがいけないと思っています。

27.実は新しい学校に対して抱く違和感には、かなり大きなバイアスがかかっているものです。長年にわたって慣れ親しんできた前任校の仕事の優先順位や仕事の作法が、転任先の学校の在り方に必要以上の違和感を抱かせるのです。もちろん、郷には入ったからといって必ずしも郷に従う必要もありませんが、学校改革は前任校のイメージを先行させながら改革しようとすると必要以上に揉めるのが関の山、まずうまく行くことはありません。

28.しかもあなたはその学校の職員室から見れば新参者です。古くからその学校にいる先生方にとって、新参者の改革など受け入れられるはずもありません。「おもしろくない」と思われるのが普通です。

29.その学校がそのような状態になっているのには、大袈裟にそうなるだけの歴史があるのです。あなたはその歴史に参加してきた人間ではありません。ですから、転勤先の学校において新任者がまず何より優先させて行うべきはその学校の歴史を知ることです。なぜ仕事上そのような優先順位になっているのか、なぜそのような仕事の作法が生まれ維持され続けているのか、そのような歴史を理解するのです。この歴史を理解しないままに行われる学校改革など、所詮「机上の空論」的な改革に過ぎないのです。

30.転勤したときにまず私たちが考えなければならないことは、その学校の歴史を知ることです。前任校の作法を基準としてではなく、あくまでもこの学校の歴史を基準として改革案を考えられるようになる、その状態になって初めて転勤先の学校改革に参画する資格が得られるのです。このように考える謙虚さをもつことが、新しい学校でうまくやっていくコツ、新しい学校でも仕事を楽しくやっていくコツなのです。

31.もう一つは、自分に与えられた担任学級、校務分掌で目に見える成果を上げることです。安定的な学級経営を行うこと、これまでとは違った分掌運営をすること、それも職員室の先生方が「良くなった」と感じられるような先生方に配慮した分掌運営を行うことです。それが職員室で「認められる」ことにつながります。

32.この国の会議は、「何が正しいか」ではなく「だれが言ったか」で決まります。良い悪いはともかく、そういうものなのです。それが現実なのです。職員室で認められていない教師が何を提案してもダメです。提案が通るのは「現状維持提案」だけです。もしも本気で学校を改革しようと思うならば、まずは職員室で「認められること」なのです。「認められること」なく為される提案は、多くの先生方にとって「わがまま」にしか映りません。この原理は教員に限らず、この国で職業人として生きていくうえで、大切な大切な原理です。

33.私の言う「流される力」とはこういう意味です。ポジティヴに流されてみる力のことです。流されながらも問題の本質を見極めていく力のことです。究極的ではありますが、本質的な仕事術であると私は考えています。

34.学年主任だった頃の話です。私の学年には1年のときに二人、2年のときに一人、3年のときに一人、と四人の新卒が配属されました。

35.私は新卒さんが学年に配属されると、最初は生徒指導をさせないことにしています。生徒指導のイロハを知らないうちに指導しますと、無用のトラブルを引き起こすことが多く、生徒も保護者も、そしてその教師自身もいやな思いをすることになるからです。

36.その代わり、私が生徒指導する場面には必ず付き添わせます。そして、指導の後には、「オレはなぜああいう言い方をしたと思う?」とか「あのときの生徒の言はどういう気持ちで発せられたと思う?」と問いかけながら、事実確認の仕方や指導の言葉がけの在り方などを具体的にレクチャーしていきます。オン・ザ・ジョブ・トレーニングの初期指導ですね。

37.その後、その教師の持ち味によってそれぞれではありますが、早い者で3ヶ月目くらいから、遅くとも半年後くらいから新卒さんが指導して私が付き添うという体制を組み、更にそれに慣れてくると一人で生徒指導にあたる許可を出します。

38.「よし!まかせるからやってみろ」と私が初めて言ったときの彼らの笑顔をよく覚えています。「ああ、堀先生がまかせると言ってくれた」という、なんとも照れくさそうな、それでいて使命感を感じさせるような、なんとも形容しがたい複雑な笑顔です。

39.これも学年主任だったときの話です。ある学年をまたいでの生徒指導事案のときに、加害生徒の保護者と被害生徒の保護者とがともに相手の生徒の対応に納得ができないと言って、加害生徒をもつ学年の学年主任の意見と、被害生徒をもつ学年の学年主任である私の意見とが対立したことがありました。

40.校長室で学校長や生徒指導主事を交えて喧々諤々が始まって10分くらいが経った頃でしょうか、私はこのままでは埒があかないと感じ、学校長に言いました。

41.「校長先生、この問題を校長先生があずかってはいただけませんか?このまま対等の立場である学年主任同士が自らの正しさを主張し合って対立しても、決して良い方向には進まないと思うんです。校長先生のご判断にお任せしたいと思うのですが、いかがでしょうか。それでどうですか、○○さん(相手の学年主任の名前)。」

42.生徒指導事案なので具体的には書けませんが、このときの校長先生の対応はそれは見事なものでした。どちらの学年主任にも花を持たせながら、双方の保護者には自分が出ていって解決する、そういう対応でした。

43.「おまかします」という言葉は、「あなたを信頼しています」ということと同義です。新卒さんには、要するに「お前を信じるからやってみろ。責任はちゃんとオレがとるから」と言っているわけですし、学校長には「校長先生間の対応の結果、何か自分に不利益があつたとしても文句は言いません」と言っているわけですね。世の中にこういうあずけ方をされて意気に感じない人はいません。特にこの国にはそういう言い方をされてテキトーな対応しかしない、頑張らないという人を私は見たことがありません。様々な問題の本質は、私たちが「おまかせします」と言えない、同僚を信頼できないことなのではないか、私はそう感じています。

44.生徒たちを楽しませる教師は生徒たちを成長させます。保護者を楽しませる教師は保護者の信頼を得られます。同僚との関係も研究会での若手の育成も同じです。

45.人の上に立ったら、まずはみんなを楽しませることを考えるのです。何をすれば楽しいか、どうすればみんなで楽しめるか、それだけを考えていれば、みんな勝手に仕事をし、みんな勝手に成長していきます。

46.このとき、心しなければならないことは、決して自分の思い通りの仕事をやってほしいとか、自分の思ったとおりに成長して欲しいとかと思わないことです。他人は自分の思い通りになりません。また、その人の人生のすべてに自分が責任をとれるわけではありません。彼らは彼らの思い通りに仕事をし、成長すべきであって、決して自分の思ったとおりの仕事の在り方をしなければならないのではありません。これも人の上に立ったときのに重要なテーゼです。

47.ただし、ここでは「楽しませる」の意味合いが大切です。ここで言う「楽しさ」は決してただ大笑いができるという類の「楽しさ」を言っているのではありません。もちろんそういうことはあって良いですし、必要でもありますが、それ以上に大切なのはいまの自分よりもちょっとだけ上の仕事に挑戦させる、ちょっと頑張れば届きそうな適度な抵抗をもたせる、それを乗り越える体験を連続的に保障する、それが次第に「楽しさ」になっていく、こうした類の「楽しさ」なのです。

48.私は年に10~15回くらいの研究会を主催します。その企画は私が立てます。研究会企画において私が大切にしているのは、お客さんを集めることではありません。自分の主宰する研究会の先生方が成長することです。

49.そのために、必ずそれぞれの先生方の研究テーマに沿った講座をもってもらいます。しかもその講座タイトルは、その先生の現状よりも少しだけ上を行く、要するにその先生の研究の現状を一歩進めたり、少し視野を広めたりするような講座タイトルにするのです。講座をもつ先生にとって、その講座をもつことが経験としてだけでなく、研究を充実させるうえでもプラスになる……そういう企画を考えるわけですね。

50.登壇する先生方は、自分が不得意とするような内容の講座をもつことはありません。自分がもっているコンテンツを一歩進める講座だけをもつわけです。それでいて自分の現状からかけ離れた無理な講座内容をもつこともありません。要するに、少しだけ頑張れば到達できそうな、頑張り甲斐があって見通しのもてる、それでいて成長を実感できる、そういう企画が提示されるわけです。

51.私の研究会の若手たちは、こういう講座に何度も何度も挑戦するたびに、ヒーヒー言いながら研究会を楽しんでくれています。本書でも何度も何度も繰り返し言っていますが、人に心の底から「楽しい」と思わせるのは、自らの成長の実感なのです。そのためには「適度な抵抗」を与えること、そしてそれを確実に乗り越えさせること、しかしその乗り越えること自体には一切手を貸さないこと、この三つなのです。これは生徒であろうと教師であろうと、同じ構図です。

52.最近、「子どもが変わった」「若者が変わった」と、なんでも親切に環境をつくりすぎてしまう、そういう教育実践や研究会運営が目立つような気がします。しかし、それは背理なのです。準備万端に整えて「さあ、やってみろ」と言われても、自分の力で乗り越えたという感覚は持てません。それでは「やらされてる感」が残るだけです。

53.こうした成長実感に伴う「楽しさ」を与えることにも、「まかせる」部分を大胆につくることが必要なのです。人のすべての成長は「自立」に向かわなければなりません。「自立」に向かっての変化をこそ「成長」と言うのです。そして「自立」に向かっていると実感できるからこそ、自らの「成長」を楽しむことができるのです。

54.野村克也がこんなことを言っています。「ピッチャーというのは「おれがおれが」でいくもの。その気持ちになれば強い。逆にキャッチャーは「おかげおかげ」でバランスをとる。」( 『考える野球』野村克也・角川SSC新書・2011年4月)

55.教師にも両方のタイプがいるな……、どっちも必要だな……と感じます。しかし、大きく成長し、後に周りの者が目を見張るような提案をする教師は間違いなくピッチャータイプです。要するに、「おれがおれが」タイプですね。若いうちはピッチャータイプが良い─これは私の経験から言って、まず間違いないと感じています。

56.人間には謙虚さが必要と言われます。それはその通りであり、言うまでもないことです。しかし、「謙虚」であることと「妥協」することとは紙一重です。若いうちから「謙虚」を旨としてのみ人と付き合っていると、いつしか「妥協」に慣れてしまい、自らが「妥協」していることにさえ気づかなくなっていきます。それではいけません。

57.これに対して、若いうちに「自己主張」が強く、その「自己主張」の強さ故に様々な失敗を繰り返してきたという人間は、その失敗の構造を省みるようになっていきます。そこから自分の主張を曲げぬままにうまくやっていくにはどうするか……という視点を学んでいきます。要するに、「自己主張」と「謙虚さ」の両立を身につけていくわけですね。

58.大きな提案にはこの「自己主張」と「謙虚さ」とのせめぎ合いが必要なのです。これを実感として抱いている者は、様々な場面で現実的でありながら理想を追う、そういう対応を心がけるようになります。心がけるようになるというよりも、されげなくそういう対応ができるようになると言った方が良いかもしれません。大きな提案をするにはそういう姿勢が必要なのです。

59.教師の提案の難しさは、いくら壮大な教育理念を掲げても評価されないところにあります。その理念をその教師自らが具現化しなければならない、もう少し簡単にいえばやって見せなければならない、そういう難しさがあるわけです。要するに、脚本を書くだけではダメで、役者としてその脚本を演技しなければならない、ということですね。しかも、その結果評価されるのはあくまでも演技であって、脚本ではないというところも特徴的です。

60.若いうちから謙虚な人間というのは、敢えて簡単に言うなら、若いうちから演技を中心に考えている人が多いのです。演技が上手くなることによって観客との調整を図る……そういう仕事の仕方です。これに対して、「自己主張」の強い人間というのは、脚本を書くのが好きなのです。ただし、演技力がその脚本の具現化に追いついていかない……だから、周りから見ると、自己主張の強さが鼻につく、そういう構図です。

61.言うまでもないことですが、提案というものはあくまで脚本ですから、脚本家がその脚本に見合った演技ができるようになったとき、提案する教師として初めて評価されるようになるわけです。演技ができないうちは、周りはその教師の書いている脚本を理解することができないわけですから、当然と言えば当然のことです

62.実は私も、若い頃は演技が下手くそでした。演技が下手ですから、研究会その他で提案しても、考えていることがなかなか理解されない。それが腹立たしくて、先輩教師と喧嘩になる。そんなことが頻繁にありました。

63.教師同士だけではありません。演技が下手だということは、生徒たちにも私の意図が伝わりにくく、授業では発問や指示が通らなくて立ち往生することがよくありました。

64.私はその後、自分の教育理念に実質を伴わせるにはどうしたら良いか、自分の教育理念を機能させるにはどうしたら良いかと真剣に考え、授業技術やプレゼンテーション技術を10年ほどかけてじっくりと学ぶことによってある程度克服した感があります。しかし、時に、演技力を身につける以前に壮大な脚本だけを声高に主張していた時期を思い返すと、ただただ赤面せざるを得ません。

65.少々難解な言葉が並んでいますが、この三島由紀夫の言は、それほど難しいことを言っているわけではありません。しかし、実際にこれを実現しようと思えばとてつもなく難しい、そういう類の言葉です。これまでの文脈を用いて私なりに言い直すなら、演技力を伴わない脚本家は次第にその脚本自体も腐らせていくものだ……とでもなりましょうか。

66.私の教師としての在り方は、自分が描いたすべての脚本を演技しようということであり、演技できない脚本はないのと同じなのだという強い覚悟をもとうということでもあります。自らができないことを声高に主張するのは、演劇において脚本を朗読するがごとき背理なのだと思っています。

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