子どもに「不意に」をつくる
言葉が不意にしたたり落ちる。カウンセリングが目指すのがこれです。言葉が不意にあふれ出る。ファシリテーションが目指すのがこれです。「したたり落ちる」「あふれ出る」に惹きつけられてはいけません。肝心なのは「不意に」なのです。「不意に」をいかにつくるかに焦点を合わせましょう。
教師には待つ姿勢が必要だといわれます。子どもの発言を待ち、子どもの変化を待ち、子どもの成長を待つ教師こそが価値ある教師であるともいわれます。しかし、ここで考えてみましょう。教師はいったい子どもがどのような状態になることを待つのでしょうか。
1980年代から90年代にかけて、カール・ロジャースの来談者中心療法、そしてその理論に基づいた非指示的カウンセリングが大流行しました。カウンセラーが主導権を握りながら対話するのではなく、クライエントが自ら気づいていくようなカウンセリングを……ということで、教育界にも教育相談活動の大流行をもたらしました。当時、私もずいぶんと影響を受け、本を読んだり映像を見たり、実際に研究会に足を運んだりしたものです。
実践報告を聞いたり、実際にカウンセリングの映像を見たりしたときに、必ずといってエポックとなる場面があります。それまではクライエントの言葉がしたたり落ちるようにぽつりぽつりと語ることによってカウンセリングが進んでいたというのに、また、カウンセラーがまるでオウム返しのように「なるほど…。あなたは~なのですね。」とうなずきや相槌とともにクライエントの言を繰り返すだけだったというのに、ある瞬間、不意に、クライエントが自己の内面の構造に気づき、まるで堰を切ったように言葉があふれ始めるのです。
また、2010年前後から、ファシリテーションが教育界で大流行しています。最近では、校内研修やセミナーばかりでなく、学級活動や教科の授業にも本格的に取り入れられるようになってきました。かくいう私もファシリテーションが学校教育においても有効な手法であるとの認識のもと、「教室ファシリテーション」の提案して、公務ではもちろん、様々な研究会でもその手法を活かすよう心掛けています(拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』学事出版・2012年2月を参照)。
ファシリテーションはごくごく簡単に言えば、アイスブレイキングによって場を温め、インストラクションによってモチベーションを高め、小集団の交流によって活発な意見交換が行われることほ目指すわけですが、こうした営みにおいても、それまで悩みながら「こうじゃないか」「ああじゃないか」とぽつりぽつりと語り合っていた参加者たちが、ある瞬間、それまでに話題に上った要素が結びつき、不意に、堰を切ったように参加者の言葉があふれ出す……そういう瞬間を目の当たりにしてきました。
一般にこうした話をすると、教師は「言葉がしたたり落ちる」「言葉があふれ出す」といった現象に目を向けがちです。ぽつりぽつりとでも本音がこぼれ落ちるような教育相談活動をしたいものだとか、子どもたちが次々に言葉をあふれ出させるような授業がしたいものだとか、そのように考えます。しかし、子どもたちと接するときの勘所は、実は「言葉がしたたり落ちる」とか「言葉があふれ出す」とかいった現象をつくることにあるのではありません。その本質は、実は「不意に」にあります。「不意に」をいかにつくり出すか。そこにこそ焦点を合わせるべきなのです。
「言葉がしたたり落ちる」とか「言葉があふれ出す」とか、現象面に焦点を合わせていると、教師の思考は「どうやって本音を言わせようか」「どうやって話し合いを活性化させようか」という、HOW-TOに向いてしまいがちです。しかし、何か現象を起こそうとしてHOW-TOに目が向いてしまうと、どうしてもその手立ては薄っぺらいものにしかなりません。
ところが、どうやって「不意に」をつくり出そうかというところに焦点を合わせますと、教師の思考は「この問いに対して、子どもたちはどう考えるだろうか」「この手の意見とこの手の意見が掛け合わさると何が生まれるだろうか」と、子どもの認知や思考、葛藤へと向いていきます。そこがミソなのです。
「不意に言葉がしたたり落ちる」とか「不意に言葉があふれ出る」とかいうとき、子どもを外から見ていると現象的には「不意に」に見えますが、実はそこには何かの葛藤が解消されたり、開き直りが見られたり、或いは納得が得られたり、自分自身も気づかなかった自身のこだわりが見えてきたり、某かの発見があったり、創造する喜びを感じたり、人とつながることを喜びを知ったり……いずれにせよ、子どもにとってはちゃんと「思考の文脈」ともいうべきものが存在しているのです。教師はこれを勘違いしてはなりません。人が、何の理由もなく語り出すなどということはあり得ないのです。
カウンセリングにおいて必要なのは「待つこと」です。言葉がしたたり、場合によってはあふれ出すまで、ひたすら待つことです。教師は生徒指導や教育相談において、となかく自分の言いたいことをしゃべりがちです。ためしに同僚教師の生徒指導場面において、一度、教師と子どものしゃべっている量の違いを観察してみることをお勧めします。その多くはまず例外なく、子どもの側は全体の1割もしゃべっていないはずです。その9割以上を教師がしゃべっているはずです。
しかし、教師が最初から傾聴の姿勢を示し、「何があったの?最初から話してごらん…」と始め、一つ一つにうなずき、一つ一つに相槌を打ちながら子ども自身にしゃべらせるならば、教師が2割、子どもが8割くらいの比率ににすることはそれほど難しいことではないのです。読者の皆さんも生徒指導では、教師の言葉対子どもの言葉を2:8にすることを目指してみてはいかがでしょうか。見違えるほどに子どもの考えていることが見えてくるものです。ちなみに私はこれを「ニッパチの生徒指導」と呼んでいます。
ファシリテーションも同様です。何か難しい課題を与えて、子どもたちに交流させる。或いは、多様な見方をいくつかにまとめてみるという体験を子どもたちにさせてみる。こうしたとき、子どもたちの話し合いは「ああでもない、こうでもない」となかなか実りあるものになりません。
しかし、あるとき、一人の子が「これ、こうなんじゃない」と叫び出した瞬間、それまで話題に上がった様々な要素たちが化学反応を起こし始めるのです。教師はこの瞬間を待てなくてはなりません。こんなに時間がかかるなら教えた方が早いのではないか……そうした焦りと苛立ちとを抑えなければなりません。いいえ、ほんとうは焦りや苛立ちを感じなくなるくらいにまで、「待ちの姿勢」を身につけなければならないのです。その姿勢を身につけると、むしろ子どもたちの交流の中に後の発火要素になる視点が少しずつ、しかし確実にあらわれてきているのを楽しめるようになってきます。
このような境地に立つためにも、教師に必要なのは「不意に」に焦点を合わせるという覚悟なのだと私は感じています。
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