1.授業は二つ。どちらも人物描写の抽出しての文章構造図作成。自習監督が二つ。成績小票を作成。これで評定作業が終了。来週火曜日が締切なので、まずまずのペースか。1学期の基本的な業務がこれで終わった。いよいよ新校舎への移転作業に取りかかる。ダンボール箱詰めがいよいよ来週から始まる。
2.退勤後は岩見沢へ。母と北村温泉に行く。陽射しが強い中での露天風呂はなかなか良い。その後、母と焼き鳥ととりめんを食べに近くの居酒屋へ。ノンアルコールビールとウーロン茶で焼き鳥。
3.温泉からあがってノンアルコールビールを飲んだ。アサヒのDRYである。もちろんビールと同じというわけにはいかないが、充分DRYな感じは出ている。商品開発に凄みを感じさせられる。温泉上がりにビールを飲みたいと腹の底から感じていたが、この1本で充分とはいかないまでもまずまず満足できた。
4.「行事指導」の値段を税込みで2000円以内におさえることができた。「学級経営」よりもかなり厚く、楽譜を載せた関係でJASRACへの転載料と楽譜作成の料金がかかったため、これでも僕の印税を最低にしてなんとかここまでという感じ。教育書は高すぎる。僕の本は少しでも安くと思っている。
5.その授業のフレームが〈習得〉なのか〈活用〉なのか、新しい指導事項を扱っているのか既習事項を扱っているのか、こういう意識をもたずに授業をしている教師が多いのが現実です。一時間の授業というものは、ただその授業だけが独立してあるのではありません。
6.前の時間とどのようにつながっているのか、既習事項をどう活用させているのか、そしてこれからの授業とどうつながっていくのか、そのためにどのような状態になれば〈定着している〉と評価できるのか、そうしたことを毎時間毎時間、意識しなければなりません。
7.母と一緒に温泉と焼き鳥屋に行ったという話に高校時代の同級生から「親孝行だね」とのコメント。本当は週末を両親のために空ければ良いのだろうが、平日に4時間ほど一緒に過ごすだけで週末は原稿執筆に当てている。僕はきっと親孝行ではない。両親が亡くなったとき、後悔するだろうなとときどき思う。
8.こうしたことを意識せずに漫然と授業をやっているにもかかわらず、子どもが理解しない、勉強しない、態度が悪い、と子どものせいになする教師がたくさんいることを、私はとても残念に思います。授業で扱った、私は教えた、それは免罪符になりません。そういうのをアリバイづくりの授業と言います。それで子どもを評価する資格があるのかと一度反省すべきでしょう。
9.授業においては確かなフレームこそが確かな評価規準をつくるのです。
10.その時間の指導事項が〈知識〉なのか〈技能〉なのか、それを見極めなければなりません。〈知識〉はわかれば良い、理解すれば良いものですが、〈技能〉はできるようにならなければ意味がないのです。ということは〈技能〉の多くはペーパーテストでは測れない、ということです。
11.例えば、音読指導において、①題名は強いトーンで読む、②作者名は弱いトーンで読む、③その後、間をあけて本文を読み出す、という原則があります。しかし、このことを知っていることには何の意味もありません。この知識を知っていてもそのように読むことができない子は、この知識は知らないけれどなんとなくそのように読むことができる子よりも〈技能〉的には劣ります。例えば、理科のペーパーテストにおいて、ある実験の手順を順番通りに並べることができる子がその実験を手際よくできるかどうかはわからないのです。
12.その一時間の指導事項が〈知識〉なのか〈技能〉なのか、それによって評価規準も評価基準も評価の手立ても変えなければならないのです。教師はテストで測れないものをたくさんテストで測っている現実があります。
13.多くの教師が「教材=指導事項」であると勘違いしています。しかし、すべての指導事項は基本的には教材の外にあります。
例えば、中学校に合唱コンクールという行事がありますね。あの時期、音楽科は学級によって合唱曲が別々であるにもかかわらず、その教材で合唱を指導し評価していないでしょうか。教材が指導事項とイコールではないという顕著な例です。
14.実は、教科書と指導事項にも同様の関係があります。かつて「教科書を教えるのか、教科書で教えるのか」という比喩的な言い方で、教材と指導事項の関係をわかりやすく説明する向きもありましたが、授業というものは、須く「教科書や教材で某かの指導事項を教えたり扱ったりしている」のです。
15.そうでないとしたら、国語の説明文では文章の読み方ではなく、動物の生態や花の生態を教えていることになってしまいます。そんなはずがないではありませんか。
16.例えば、算数・数学では教科書の問題ができるようになれば、その指導事項を理解できたように思えるかもしれません。しかし、問題が解けることとその原理がわかることとは似て非なるものなのです。
17.例えば、音楽科や美術科で鑑賞指導をしたとします。その評価を鑑賞文として提出させ、それを評価資料とはしていないでしょうか。そのとき、評価基準の中に、音楽や美術の鑑賞の力ではなく、作文力・文章力が紛れ込んではいないでしょうか。作文力はないけれど、話し言葉で表現すれば音楽や美術の鑑賞力としては秀でたものをもっている……、そういう子はいないのでしょうか。鑑賞文という評価資料の媒体が評価をゆがめてはいないのでしょうか。
18.例えば、国語科である説明文の内容をイラスト入りの文図でまとめさせたとします。一本一本の線を定規を使って引き、カラフルな色のペンを使ってとても丁寧に仕上げた子、イラストがうまかったり、イラストのセンスがとてもよかった子の作品を、雑に書いてはいるけれどしっかりと文章構成をおさえて書いた子の作品よりも高く評価してはいないでしょうか。それは国語科の評価として適切でしょうか。
19.評価資料をとるときには、その媒体の特性を考えて、様々な配慮が必要なのです。
20.CAN'T SLOW DOWN/LIONEL RICHIE/1983
「ALL NIGHT LONG」「RUNNING WITH THE NIGHT」「HELLO」「PENNY LOVER」「STUCK ON YOU」と5曲のNo.1ヒットを出したお化けアルバム。この頃のLIONEL RICHIEはほんとうにすごかった。
21.評定資料を取ろうと決めた学習活動においては、必ず事前に評価基準を予告する必要があります。「必ず事前に」です。目標準拠評価が導入された頃には盛んに言われていたことですが、最近は蔑ろにされている傾向があります。
22.事前に評価基準が示されていたならば、子どもたちが意図的で具体的な努力をすることができます。「なんとかこれができれるようになれば良いんだ、頑張ろう……」と思うことができます。「いまひとつ、よく理解できないんだけれど、どういうことなのかなぁ?」と友達に訊くことができます。「こういうふうにしてみたいんだけれど、どんなアイディアがあるかなあ」と友人と話し合うことができます。目標が明確だから、こういう具体的な努力も可能なのです。
23.取り敢えず活動をさせてみる。活動の様子を見て、或いは出来上がった作品を見て、三段階に分類してみる。あなたはそんな評価をしていないでしようか。もしも心当たりがあるとしたら、即刻改めるべきでしょう。それは順番が違うのです。
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