自らの「在り方」を問う
支援を要する子と関わっていて思うのは、教師の「教え方」以上に「在り方」のほうを圧倒的に問われているということ。この認識に立つと、支援を要しない子にとっても「在り方」のほうが重要だとわかってきます。ここまで来ると、支援を要する子と要しない子という境界のナンセンス性に気づくようになります。
現在、どんな中学校にも、いわゆる二次障害があらわれているような支援を要する子がいるものです。中学校のみならず、小学校高学年にも数名はいるというのが現状かもしれません。
しかし、多くの場合、小学校においては年度当初、学級結成当初にはそうした子どもたちがパニック症状を起こすことが多かったとしても、それが次第におさまっていくことが多いようです。これに比して、中学校ではそうしたおさまりが見られにくく、パニック症状が1年間を通して見られ、問題傾向生徒として扱われることが多いように思います。
これはどうしたことでしょうか。発達段階によるものなのでしょうか。
おそらく私はそうではないだろうと感じています。
中学校においてこうした子どもがパニック症状を起こす場面を観察していると、指導場面でA先生が対応した場合にはおさまるのに、B先生が対応した場合には更に問題が大きくなっていく、ということが見られます。また、C先生の授業のときにそうした状態になることが多い、というようなことも見られます。つまり、支援を要する子にパニック症状を起こさせやすい教師と起こさせにくい教師がいる、ということなのです。
教師の多くは、この違いをラポートの有無の違いだと認識していたり、或いはその子がいわゆる「人を見ての対応」をしているせいだと認識していたりするようです。職員室では、「私はあの子に嫌われている」とか「あの先生はあいつになめられているんだ」とかいう言葉を耳にすることもあります。しかし、私はそうではないと感じています。
こうした子にうまく対応できているように見える先生と、うまく対応できていないように見える先生との決定的な違いは、指導の発想がその子の認知や認識、その時々の精神状態に応じて対応しているか、学校規範に基づいて「悪いものは悪い」という一面的・一方的な指導をしているかにあります。おそらく小学校は学級担任制なので、学級担任がその子と過ごす時間が中学校教師と比べて格段に長く、その子をよく理解し、その子に個別に対応することに慣れてくることによって、現象的には問題がおさまっているように見えてくるのです。
もちろん中学校でも、学級担任がいち早くその子の特性に気がつき、その子への個別対応に慣れてくることが多いのですが、残念ながら中学校では、そうした担任の対応が「あまやかしている」とか「特別扱いしている」とか批判されがちなので、学級担任が板挟みになるということが少なくありません。特別支援教育において〈情報の共有〉と〈教師のチーム力〉が強調される所以です。
ではなぜ、中学校では、このように学級担任が批判されることが多いのでしょうか。そこに流れている空気はどのようなものなのでしょうか。
おそらく私は、中学校がいまだに80年代の校内暴力時代の亡霊の中で運営されているからだと感じています。生徒指導担当の怖い先生を中心に、生徒になめられないことによって、生徒に教師をなめさせないことによって校内暴力を鎮圧した……という意識が、中学校の職員室に意識的・無意識的に巣くっているのです。それが職員室の空気となっていまだに中学校を取り巻き続けているのです。この空気が中学校に特別支援教育の思想とそうした発想での指導・対応を根付かせない要因となっています。
しかし、ちょっと考えてみましょう。
確かに校内暴力の時代には、必ず学校に何人か、生徒指導担当の怖い先生がいたものです。どんなワルも言うことを聞く怖い先生……そうしたイメージの教師です。私は校内暴力世代ですから、実感としてよくわかりますし、現実に自分が中学生時代に学校中の生徒たちから怖がられていたS先生とかN先生とかをよく覚えてもいます。
しかし、校内暴力時代の生徒指導担当の先生たちだって、決して怖いだけの先生ではなかったのです。生徒が何か悪いことをしたときには、どういう経緯でそういうことをしたのか、なぜそんなことをする気になってしまったのか、そしていま自分のしてしまったことをどう考えているのかと、生徒の立場に立ったうえでよく話を聞いてくれ、低い声で静かに語って聞かせてくれたのです。しかも、こうした先生たちは決して、最初から「お前が悪い!」という決めつけをしなかったものです。私にはそういう記憶がありす。
そうです。あの校内暴力時代にさえ、生徒から信頼を置かれている先生、一目置かれている先生は個別に対応していたのです。一つ一つの事案には個別に対応し、全体を指導する場面、即ち体育館での指導や廊下の指導では規範意識に基づいた指導を徹底する、それがわかっていたからこそ当時のワルたちもこうした先生方の指導に従っていたのです。
教師に最後に必要なのは〈教育技術〉などではなく〈人間性〉だとよく言われます。これは教師が〈教え方〉以上に〈在り方〉が問われる職業であるということを意味しています。
若い読者のみなさんが困ったときに何かうまく行く方法はないかと考えるのもわかります。しかし、長くこの職業でやっていこうと考えているのなら、自らの〈在り方〉を顧みながら子どもたちの前に立ち続けることこそが必要なのだと考えなくてはならないでしょう。
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