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〈物語消費〉としての法則化運動・1

「教育技術の法則化運動」とは何だったのか。私は昭和41年生まれだが、我々の世代の教師人生は「法則化」以後の教師人生である。教師になった頃には、教育雑誌には「法則化」支持者が目白押し、既に学校に来る研究会案内の何割かは「法則化」がらみのものであった。

思えば、「教育技術の法則化運動」は、向山洋一率いる「法則化運動」と、その後の「TOSS」のみで語ることはできない。例えば、「授業づくりネットワーク」「でき学セミナー」「道徳教育改革集団」「日本教育再興連盟」などなど、「法則化運動」がなければ生まれていないであろう教育運動は数多い。

この3月まで私が代表を務めていた「教師力BRUSH-UPセミナー」も、決してその流れから自由ではない。80年代から90年代にかけての「法則化運動」による教育界の席巻がなければ、まず間違いなく生まれていない運動体の一つである。その意味では、これら後発の教育運動は、巨視的に見れば「法則化運動」の分派に過ぎない。

もちろん、「教授学研究の会」や「文芸研」「全生研」といった運動がなければ、「法則化運動」もまた生まれていなかったという物言いはあり得る。その意味で、教育運動が通時的な連続性をもつことなど当たり前ではないか、と。しかしそれは、半分当たっているが半分は間違っている、そう私には思える。

「法則化運動」は通時的に見ても明らかなエポックなのである。それは、その実現性がどのくらいあったかはともかくとして、運動参加者に「自分も向山になれるかもしれない」という夢を見させたことである。少なくともそれまで、教育運動に参加する者は、自分も「齋藤喜博になれる」とか「西郷竹彦になれる」とか「大西忠治になれる」とか考えて教育運動に参加したのではなかったのである。

数年前のことである。函館市において、ある学習会が開かれた折、その学習会の中に興味深い企画があった。函館学習会の事務局メンバーが「ミニネタ」と題した教育技術シート(A4判1枚)を作成し、それを2~3分で提案、それを参加者の討議で検討するというものである。

興味深かったのは、彼らがこれを、「教育技術の収集」であり、「書くこと(研究記録を綴ること)の訓練」である、と捉えていたことだった。しかも、力量のない教師たちが参加しやすいようにと、ハードルを極端に低くしてA4判1枚に規模を設定したのだと言うのである。

私は「ああ、この試みは、かつての法則化運動の骨格だけでできているな」と感じた。厳しい物言いになるが、「法則化運動の立ち上げを知らない新世代の、良心的ではあるが機能性のない、従って現実性のない、自己満足だけがここにあるな」と。

‎50歳以上の世代には自明のことなのだが、若い読者も多いと思われるので、まずはここに、「法則化運動」のかつての運動方針を挙げておこう。

1 この運動は、20世紀教育技術・方法の集大成を目的とする。
「集める」「検討する」「追試する」「修正する」「広める」(以上まとめて法則化とよぶ)ための諸活動を行う。
2 運動の基本理念は次の四つである。 
①教育技術はさまざまである。できるだけ多くの方法をとりあげる。(多様性の原則)
②完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原則)
③主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)
④多くの技術から、自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)
3 目的・理念に賛成する人は、事務局に連絡して支部・サークルを結成できる。支部・サークルは定期的な研究会などの活動を行う
4 事務局は、支部・サークルに対して「定期的な情報」「企画の優先案内」「資料等の斡旋」等の活動をする。活動資金は、事務局の諸活動の中からつくり出す。当分の間、京浜教育サークルが事務局を担当する。
5 事務局と支部とは対等の関係にある。支部はその責任においていかなる企画を実施することもできる。また諸活動に対する賛成・反対・拒否・無視は何人も自由である。
6 この運動は次のとき解散する。
①目的を達成したとき。(日本教育技術・方法体系の完成、コンピュータ検索システムの完成、追加・修正システムの完成等)
②事務局を担当する支部・サークルがなくなったとき。
③21世紀になったとき。
実は、函館学習会の「ミニネタシート」は、ここで言う運動基本理念の③「実証性の原則」が希薄であった。ちょっとしたアイディアを集積することによって、自分たちの日常の仕事が楽になり、ちょっとだけ機能的になるのでは、そんな〈癒し〉の思想にささえられているように私には見えたのである。
私は「法則化運動」の運動理念ほど素晴らしい運動方針を見たことがない。それはもはや美しくさえある。このとおりに運動が行われていればどれだけ日本の教育に貢献しただろうかと夢想する。
しかし、「法則化運動」を意固地にさせ、この理念の実現に向けて運動を展開させなかったのは、この素晴らしさを理解せず、イメージだけで差別し、「法則化運動」を抹殺せんとしたかつての民教と地域の行政によるノイズであったことも記しておかなければならない。
そういう時代だったのである。「法則化運動」だけが悪いのでもないし、民教や地域行政だけが悪いのではない。私は「遅れた来た青年教師」だったので、一度も「法則化運動」に与したことはない。しかし、やはりこの運動理念は美しいと思う。

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