« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

2012年6月

6月30日(土)

1.授業力を高めるには三つの方向性があります。一つ目に自分でコツコツと取り組むこと、二つ目に先達から学ぶこと、三つ目に仲間とともに議論を重ね、生み出すことです。この三つの場を意図的につくる……それが授業力向上への近道です。

2.私たちは研修をするために、実はとても恵まれた環境にいます。

3.自分の授業力を向上させようと思えば、毎日、ちゃんと自分の授業を受けてくれる子どもたちがいます。子ども理解を図ろうと思えば、いっしょに話し合える保護者がいます。

4.同業者の先達がこれほどまでに様々な提案を書籍として出版している業界も珍しいと言えますし、大小様々な研修会がこれほどの頻度で行われている業種も珍しいのではないでしょうか。しかも、そうした研修会への参加が仕事として認められることさえあります。

5.同業者とともに研究会を開催しよう、研究サークルをつくろうと思えば、同業者のほとんどが勤務時間や休日などが一致しています。仲間を集めやすい環境にもあるのです。

6.しかし、こういう恵まれた環境を活かしている教師は少ない、というのが現状です。多くの教師は日常の仕事の中に埋没し、恵まれているどころか、この仕事は学びの場が少ない、一人でおろおろするばかりだとさえ感じています。

7.一歩だけ、外に出てみましょう。研究会に参加したり、学生時代の仲間や同僚とともにサークルをつくってりしてみましょう。その一歩を踏み出せば、校内研修がどれだけ充実した場であるのか、同僚がどれだけいろいろな学びを提供してくれるのかがわかるはずです。

8.「つながること」が大流行しています。時代のキーワードにもなっている感さえあります。それと同時に、学校教育においても、「つなげる」ための教育実践・授業実践が数多く発表されるようになりました。

9.しかし、「つながる」とはどういうことなのでしょうか。そして、「つなげる」とはいったい何をどうすることなのでしょうか。具体的に考えてみるといまひとつイメージがつかめないものです。

10.自分が〈つながった〉経験をもつ者は、実感的に「ああ、つながった」という高揚感を抱きます。その高揚感によって直感的に〈つながった〉ことを意識できます。それに喜びを感じると同時に、その意義も実感します。

11.しかし、どうすれば〈つながる〉のか、どうすれば〈つなげる〉ことができるのか、「ワールド・カフェ」や「ホワイトボード・ミーティング」といったシステムは知っているものの、また、そうした実践も数多く行われているものの、日常実践とは切り離されている……そんな例が数多く見られるのが現実です。

12.私は「教室ファシリテーション・セミナー」と題して、全国の大都市でセミナーを開催しています。「ワールド・カフェ」(以下「WC」)や「オープン・スペース・テクノロジー」(以下「OST」)などをどのように教室に持ち込むのか、具体的に提案してまわっています。

13.そこで多く質問されるのは、「WCもOSTもよくわかりました。でも、これらは学級経営がうまくいっている学級でのみ機能するものですよね」とか、「WCもOSTもわかった。でも、いきなり教室に導入するのは難しいように思う。ここまでにどのようなステップがあるのか」とかいうものです。

14.まだまだファシリテーションというものが、①WCやOSTといった〈システム〉だと捉えられていること、②日常実践とはかけ離れたものだと捉えられていること、の証左です。そして何より、③多くの先生の日常実践が子どもたちを〈つなげる〉という意識が希薄なままに行われているのが現実だという何よりの証拠でもあります。

15.ファシリテーションは、決してWCやOSTといったダイナミックな〈システム〉を指しているのではありません。「ファシリテイト」とは「促進する」という意味です。議論や交流、会話を「促進する」こと、それがファシリテーションなのであって、その顕著な例、顕著なシステムとしてWCやOSTがあるだけなのです。

16.従って、協同的な音読活動を促進する手法があるとすれば、それはもう充分にファシリテーションです。話し合いを促して協同的なアクションプランを構築するための手法、それも紛れもないファシリテーションなのです。

17.私たち「研究集団ことのは」は、「教室ファシリテーション」という名を用いて、ファシリテーションの発想を教室に持ち込むことを提案していますが、その定義は「協同的な学びを促進することを意識して行われ、子どもたちを〈つなげる〉ことに寄与する教育実践」くらいの非常に緩いものに過ぎません。

18.「つながること」「つなげること」は日常実践でこそ大きく意識すべきである─それが私たちの基本的な発想なのです。

19.堀裕嗣編/研究集団ことのは著『教室ファシリテーションへのステップ・1 /必ず成功する国語学習 魔法の「音読ネタ」50選』(明治図書)。完成間近。今日は原稿をつなないで編集をしています。久し振りのサークル共著にわくわく感があります。結局、自分は協同作業が好きなのだなあと実感します。

20.例えば、国語科の代表的な学習活動に「音読」があります。音読というと教室で一人一人が練習する光景が思い浮かびます。せいぜい隣の人同士で「マル読み」をさせているとか、グループで古文の「暗唱」をし合うとか、その程度のことしか行われていないのが現実です。

21.ダイナミックな協同学習として「群読」の実践がありますが、これも「群読」の価値を理解し、「群読」の楽しさを子どもたちに体験させたいと強く願う教師の実践がまれに見られる程度……。ごくごく一部の教師の取り組みに過ぎません。

22.その結果、音読を得意とする子どもは先生の助言を参考にしながら、自分でどんどん工夫してどんどん上手くなっていきますが、読み間違えたり、つっかえたり、たどたどしい読み方をする子はいつまでたってもたどたどしいまま……そんな現実があります。音読が文章を読む力を身につけていくうえで重要であるとだれもが知っているのに、その授業の多くは旧態依然です。

23.しかし、音読は協同学習的な発想で授業づくりをしようとする場合にも、実はかなり可能性をもっている学習事項です。みんなで声を出し合うとか、みんなで声を揃えて読むとか、みんなでテンポを合わせるとか、みんなで呼吸を合わせるとか、みんなで間を合わせるとか、みんなで読みの工夫を考えるとか、みんなで音読しながら演じてみるとか、思いつくままに挙げてみても、子どもたちがみんなで行うことに価値を見出すことができる、そんな活動がいくらでも浮かんできます。

24.逆に、みんなでテンポをずらしてみるとか、みんなで間をずらしてみるとか、違いを際立たせることによって学習効果を生む、そんな活動も想定できそうです。グループで互いに音読を披露し合って批評し合う、なんていう学習も成立します。

25.音読活動を個人の中に封印しておかないで、みんなで交流しながらみんなで高みに向かっていく……そういう学習にできないものでしょうか。それが基本的なコンセプトです。

26.だれもがアンテナを高く張って、多くの有益な情報を得たいという思いを抱いています。しかし、いくら意欲をもっていたとしても、「知識がないと見えないこと」が多いのです。「アンテナ力」を考えるとき、まず何はともあれ、「自分には見えていないものがあるに違いない」と謙虚な構えをもつことです。

27.もちろん、アンテナ力の基本は意欲です。高く広くアンテナを張っている方が、低く狭く小さなアンテナの人よりも感度は高いに違いありません。しかし、いくら情報がアンテナに引っかかってきても、その情報を有益な情報として捉えられないのでは何の意味もありません。

28.明日、学校に行ったら、自分がいくつの「?」を感じたか、数えてみましょう。そしてその「?」を、他人に向けるだけでなく自分にも向けてみたか、自分を振り返ってみたか、考えてみましょう。

29.明日見つけた自分への「?」は、すべてノートにメモしておきましょう。そして明日の夜、寝る前にちょっとだけ、そのいくつかの「?」について思いを馳せてみましょう。

30.今日はちょっと事情があって、まとまった原稿の書けない一日でした。来週から研究会の嵐になりますから、今日の遅れを取り戻すのは辛そうですが、まあ、なんとかなると信じて寝ることにします。明日は明日の風が吹くでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月29日(金)

1.金曜日。今日は授業が四つ。5組の担任がお休みなので、一日5組に入る予定。今週はやることが多くて短かった印象がある。

2.拙著『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版)完全脱稿。9月の上梓予定です。

3.‎5月10日に「行事指導」を脱稿した。6月10日に「成功の極意」を脱稿した。そして6月29日に「一斉授業」の脱稿である。いったい自分はどうしてしまったんだろう……自分で驚くほどのペースで執筆を進めている。2月間、一度も遊んでいない。テレビさえ見ていない。自分でも異常な感じがする。

4.僕は周りの人から飲んでばっかりいるように思われているが、最後に飲みに出たのは5月12日(土)だ。DNAの学習会があった日である。結局、僕は職場の呑み会か研究会でもないと飲みになど出ないのだ。家にいて、しかも書斎に閉じこもって、自分一人で思考しているのが最も好きな人間なのである。

5.私が「研究集団ことのは」というサークル活動を始めてもう二十年余りになります。サークル仲間との出逢いは初任者研修でした。月に一度、同じ悩みをもつ、同じ世代の人間が集まって、ああでもないこうでもないと語り合うことを習わしとしてきました。私の提案のほぼすべてが、このサークル例会の中で思いついたことを基礎にしていると行って過言ではありません。

6.「研究集団ことのは」は、いまなお、月に一度の定例会を欠かしません。もしもこのサークルがなくなってしまったとしたら、私の実践は進歩を止めるに違いありません。

7.校内で先輩から学ぶ、各種研究会で先達から学ぶ、どちらも大切なことです。しかし、同世代の人間が喧々諤々議論する場をもつことは、それ以上に重要なことです。ときには愚痴をこぼし合ったり傷を舐め合ったりすることもあるかもしれません。しかし、多くの人間は強くはありません。愚痴を聞いてくれる人も傷を舐め合う人も人生には必要なのです。
そして月に一度くらいは、何の遠慮もなく馬鹿話に花を咲かせる時間があるべきなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月28日(木)

1.授業は二つ。どちらも人物描写の抽出しての文章構造図作成。自習監督が二つ。成績小票を作成。これで評定作業が終了。来週火曜日が締切なので、まずまずのペースか。1学期の基本的な業務がこれで終わった。いよいよ新校舎への移転作業に取りかかる。ダンボール箱詰めがいよいよ来週から始まる。

2.退勤後は岩見沢へ。母と北村温泉に行く。陽射しが強い中での露天風呂はなかなか良い。その後、母と焼き鳥ととりめんを食べに近くの居酒屋へ。ノンアルコールビールとウーロン茶で焼き鳥。

3.温泉からあがってノンアルコールビールを飲んだ。アサヒのDRYである。もちろんビールと同じというわけにはいかないが、充分DRYな感じは出ている。商品開発に凄みを感じさせられる。温泉上がりにビールを飲みたいと腹の底から感じていたが、この1本で充分とはいかないまでもまずまず満足できた。

4.「行事指導」の値段を税込みで2000円以内におさえることができた。「学級経営」よりもかなり厚く、楽譜を載せた関係でJASRACへの転載料と楽譜作成の料金がかかったため、これでも僕の印税を最低にしてなんとかここまでという感じ。教育書は高すぎる。僕の本は少しでも安くと思っている。

5.その授業のフレームが〈習得〉なのか〈活用〉なのか、新しい指導事項を扱っているのか既習事項を扱っているのか、こういう意識をもたずに授業をしている教師が多いのが現実です。一時間の授業というものは、ただその授業だけが独立してあるのではありません。

6.前の時間とどのようにつながっているのか、既習事項をどう活用させているのか、そしてこれからの授業とどうつながっていくのか、そのためにどのような状態になれば〈定着している〉と評価できるのか、そうしたことを毎時間毎時間、意識しなければなりません。

7.母と一緒に温泉と焼き鳥屋に行ったという話に高校時代の同級生から「親孝行だね」とのコメント。本当は週末を両親のために空ければ良いのだろうが、平日に4時間ほど一緒に過ごすだけで週末は原稿執筆に当てている。僕はきっと親孝行ではない。両親が亡くなったとき、後悔するだろうなとときどき思う。

8.こうしたことを意識せずに漫然と授業をやっているにもかかわらず、子どもが理解しない、勉強しない、態度が悪い、と子どものせいになする教師がたくさんいることを、私はとても残念に思います。授業で扱った、私は教えた、それは免罪符になりません。そういうのをアリバイづくりの授業と言います。それで子どもを評価する資格があるのかと一度反省すべきでしょう。

9.授業においては確かなフレームこそが確かな評価規準をつくるのです。

10.その時間の指導事項が〈知識〉なのか〈技能〉なのか、それを見極めなければなりません。〈知識〉はわかれば良い、理解すれば良いものですが、〈技能〉はできるようにならなければ意味がないのです。ということは〈技能〉の多くはペーパーテストでは測れない、ということです。

11.例えば、音読指導において、①題名は強いトーンで読む、②作者名は弱いトーンで読む、③その後、間をあけて本文を読み出す、という原則があります。しかし、このことを知っていることには何の意味もありません。この知識を知っていてもそのように読むことができない子は、この知識は知らないけれどなんとなくそのように読むことができる子よりも〈技能〉的には劣ります。例えば、理科のペーパーテストにおいて、ある実験の手順を順番通りに並べることができる子がその実験を手際よくできるかどうかはわからないのです

12.その一時間の指導事項が〈知識〉なのか〈技能〉なのか、それによって評価規準も評価基準も評価の手立ても変えなければならないのです。教師はテストで測れないものをたくさんテストで測っている現実があります。

13.多くの教師が「教材=指導事項」であると勘違いしています。しかし、すべての指導事項は基本的には教材の外にあります。
例えば、中学校に合唱コンクールという行事がありますね。あの時期、音楽科は学級によって合唱曲が別々であるにもかかわらず、その教材で合唱を指導し評価していないでしょうか。教材が指導事項とイコールではないという顕著な例です。

14.実は、教科書と指導事項にも同様の関係があります。かつて「教科書を教えるのか、教科書で教えるのか」という比喩的な言い方で、教材と指導事項の関係をわかりやすく説明する向きもありましたが、授業というものは、須く「教科書や教材で某かの指導事項を教えたり扱ったりしている」のです。

15.そうでないとしたら、国語の説明文では文章の読み方ではなく、動物の生態や花の生態を教えていることになってしまいます。そんなはずがないではありませんか。

16.例えば、算数・数学では教科書の問題ができるようになれば、その指導事項を理解できたように思えるかもしれません。しかし、問題が解けることとその原理がわかることとは似て非なるものなのです

17.例えば、音楽科や美術科で鑑賞指導をしたとします。その評価を鑑賞文として提出させ、それを評価資料とはしていないでしょうか。そのとき、評価基準の中に、音楽や美術の鑑賞の力ではなく、作文力・文章力が紛れ込んではいないでしょうか。作文力はないけれど、話し言葉で表現すれば音楽や美術の鑑賞力としては秀でたものをもっている……、そういう子はいないのでしょうか。鑑賞文という評価資料の媒体が評価をゆがめてはいないのでしょうか。

18.例えば、国語科である説明文の内容をイラスト入りの文図でまとめさせたとします。一本一本の線を定規を使って引き、カラフルな色のペンを使ってとても丁寧に仕上げた子、イラストがうまかったり、イラストのセンスがとてもよかった子の作品を、雑に書いてはいるけれどしっかりと文章構成をおさえて書いた子の作品よりも高く評価してはいないでしょうか。それは国語科の評価として適切でしょうか。

19.評価資料をとるときには、その媒体の特性を考えて、様々な配慮が必要なのです。

415jppnhvrl__sl500_aa300_20.CAN'T SLOW DOWN/LIONEL RICHIE/1983

「ALL NIGHT LONG」「RUNNING WITH THE NIGHT」「HELLO」「PENNY LOVER」「STUCK ON YOU」と5曲のNo.1ヒットを出したお化けアルバム。この頃のLIONEL RICHIEはほんとうにすごかった。

21.評定資料を取ろうと決めた学習活動においては、必ず事前に評価基準を予告する必要があります。「必ず事前に」です。目標準拠評価が導入された頃には盛んに言われていたことですが、最近は蔑ろにされている傾向があります。

22.事前に評価基準が示されていたならば、子どもたちが意図的で具体的な努力をすることができます。「なんとかこれができれるようになれば良いんだ、頑張ろう……」と思うことができます。「いまひとつ、よく理解できないんだけれど、どういうことなのかなぁ?」と友達に訊くことができます。「こういうふうにしてみたいんだけれど、どんなアイディアがあるかなあ」と友人と話し合うことができます。目標が明確だから、こういう具体的な努力も可能なのです

23.取り敢えず活動をさせてみる。活動の様子を見て、或いは出来上がった作品を見て、三段階に分類してみる。あなたはそんな評価をしていないでしようか。もしも心当たりがあるとしたら、即刻改めるべきでしょう。それは順番が違うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月27日(水)

1.授業は五つ。人物描写の抽出しての文章構造図作成が四つ。聞き取りテストが一つ。空き時間は評定資料作成。データの打ち込みが完了。これでボタンを押せばいつでも評定が出せる状態になった。通知表が刷り上がってきたので、各担任に配付。勤務時間終了と同時に退勤。

2.昨日はビールを飲んでさぼってしまったので、今日は原稿を書くことにしよう。熱さにも閉口するが、終わらせなくちゃならない原稿があるのも閉口する。さっさと仕上げてしまった方がいい。どうせやらなければならないことなのだから。

3.原則として、ノートはフォーマットを決めるのが良いといえます。手帳を考えてみるとわかりやすいのですが、何をどこに書くのかが決まったいるということは、使う者にとって安心感を与えるとともに機能的に活用できるものです。

4.学習活動は指導事項に基づいて行われます。或いは学習活動を通じて指導事項がまとめられるという場合もあります。いずれにしても、指導事項と学習活動とは、授業に置いて〈目的〉と〈方法〉の違いであったり、〈目的〉と〈具体例〉 の違いであったりします。

5.私は原則として毎時間、少なくとも指導事項のひとまとまりが終了した時点で二百字の短作文を書かせることにしています。毎回、それを提出させ、点検して返却します。

6.返却された作文やプリントが散逸してしまったのでは、その後  の学習に支障を来しますので、私はすべての  作文やワークシートをノートに貼らせること  にしています。

7.ノートに記録される情報には〈レベルの違い〉があるものです。上位・下位の関係であったり、含む・含まれるの関係であったりしますが、こうした上のレベル、広いレベルの情報と下のレベル、狭いレベルの情報が尾など高さで記録されるのは、その関係性を表すうえで好ましくありません。

8.学級全体での話合いや小集団交流において、他者から学んだ情報や考え方、なるほどなあと感じた参考意見などは、自分で思いついたことや考えたことと分けて、色分けさせると機能的です。私は赤ペンで書かせることにしています。

9.三つの意義があります。第一に、あとで見返したときに、自分はこのことは思いつかなかったのだなあ、他の人から学んだのだなあ、と振り返ることができます。第二に、赤ペンによる記述が多ければ多いほど、話し合いが交流が自分にとって有意義であったのだと自己評価することができます。第三に、ノートを点検すれば、小集団交流がどの子にとってどの程度機能しているのかを教師がひと目で評価できます。

10.小集団交流では、メモをとらせることが大切です。メモは自分で見返して理解できれば良いものですから、丁寧に書いたりきれいに書いたりする必要はありません。「速記性」「簡潔性」「構造性」などに気をつけながら、「再現性」を旨 とします。

11.丁寧に、きれいに書こうとする女子などにはメモの取り方の授業を行って、きれいに記録を取らねばならないという概念を砕いてやらねばなりません。見かけの美しさではなく、過不足ないメモという「機能美」の概念を教えてあげると良いでしょう。

12.「授業づくりで最も大切なことは何ですか?」と若い教師に訊かれることがあります。どうも授業の雰囲気が停滞している……というのです。どれどれと見せてもらいますと、授業内容が構造化されていないと言いますか、要するにごちゃごちゃ、ぐちゃぐちゃしていることが多いのが現実です。

13.そうしたときに、私が助言することはたった一つのことです。「子どもたちにノートをつくらせるという意識で授業をしてみるといい。それも、教師が美しい板書をしてそれを写させるというのではなく、基本的に音声を中心としてノートをつくらせるんです。」

14.音声言語だけで子どもたちにノートをつくらせるということになると、かなり教師の言葉が精査されます。余計なことを言い過ぎると子どもたちは書き取れませんし、「ここで一行空けて」とか「AからBまで赤で矢印」とか「いまの部分を青ペンで枠囲みします」とか、こういう注釈的な言葉を話さなければならなくなります。これが実は、授業を構造化し、システマティックにすることに役立つのです。

15.こうした授業をしますと、子どもたちが授業の全体像を理解したかどうかは、ノートを見ればひと目でわかります。そして伝わらなかったところについては、自分の指導言のどういったところが良くなかったのかということもわかるようになります。

16.教師は丁寧で美しく、構造的な板書が好きです。しかし、実はそれが子どもたちを伸ばさないということに多くの教師が気づいていません。美しい板書を自身で構成して、自己満足しているのです。しかし、学習するのは教師ではありません。子どもたちなのです。子どもたちにこそ思考を伴ったノート作業をさせなければならないのです。

17.拙著『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版)。ノート指導を機能させる10の原則の執筆が終わり、残り36頁となりました。いよいよ終わりが見えてきました。遅くても週末までには終わります。一気に書き上げる本になるので、ある種の熱気のある文体になっています。面白いなあと思います。

18.一般論で書けば所詮一般論。具体的に書けば守秘義務に反する。事例をいじれば一番伝えたいリアリティが消える。たぶんそういうことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月26日(火)

1.【拡散希望/定員50/残席17/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定) ttp://kokucheese.com/event/index/31411/

2.【拡散希望/定員50/残席34】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は山田洋一さんとの行脚です。http://kokucheese.com/event/index/34401/

3.kayaDVDシリーズⅢ
第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都
  堀 裕嗣・藤原友和
http://sogogakushu.gr.jp/kayaDVD/main.htm
DVDをご購入の皆様へ。私にメールをいただければ、このセミナーで用いている教材を添付メールにてお送りします。ファイルは一太郎です。

4.今日は授業が5時間、教科会が一つ。満杯の一日です。放課後は評定作業をします。忙しい一日になりそうです。

5.授業は五つ。聞き取りテストが二つ。人物描写の抽出しての文章構造図作成が三つ。空き時間は評定作業。放課後は同僚と談笑。退勤後、近くの市場へ。天然物の本マグロとたこわさを買う。今日は暑かったのでビールだな。

6.小集団交流において絶対に蔑ろにしてはいけないのが、子どもたち全員に意見をもたせてから交流に入る、ということです。一人残らず、全員にです。しかも、頭の中にもたせるだけではいけません。ノートに書かせたり、ワークシートに書かせたり、或いは付箋に書かせたり、書かせる媒体はいろいろ考えられますが、書かせるということだけは決して揺るがしてはなりません。

7.二つの理由があります。第一に、コミュニケーションが苦手、交流が苦手という子が「言うべきことがない」という状態になって、交流の傍観者になることを避けるためです。いきなり交流に入りますと、いかに小集団とはいえ、2~3割程度の傍観者が出てしまうものです。この状態に陥るのを避けるのです。

8.第二に、子どもたちに当事者意識をもって交流に参加してもらうためです。人は自分の意見が書かれていると、その意見に責任をもたなくちゃ……という意識が働きます。また、自分が明確に意見をもつと、他の人の意見がどんな意見をもったのかと気になるようになります。この二つが融合して、初めて当事者意識を抱いての交流になるのです。

9.基本的な授業技術、授業構成、指導言、机間指導、発言指導、小集団交流指導と、6つの節の執筆を終えた。今日はノート指導と板書の連動について書く予定である。放課後、その辺にいた子のノートを借りてきた。明日返さなくちゃならないから、やっぱり今日中に書かなくちゃだめだよな……。

10.ビールを我慢して原稿を書こうかなとも思ったけれど、飲み始めてしまった。サッポロビールクラシックである。よく冷えてる。それにしても、こんなにうまいビールが北海道限定で、他県の人が飲めないなんて、サッポロビールの意地悪としか思えない。つまみは小岩井農場のチーズスティック。オニオン味。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月25日(月)

1.授業は三つ。すべて聞き取りテスト。合間を縫って、全教科・全学級分の成績小票をつくり、全教科・全学年分の成績小票の封筒をつくり、全学級分の成績一覧表の封筒をつくる。放課後は小中合築委員会、評定委員会と二つの会議。更に成績小票の名箋シール貼り。現実的な現実と現実的に格闘した一日。

2.やっと北海道にも温かい一日がやってきた。これまでエアコンも扇風機も無縁。それどころか昼間に窓を開けてさえいられない。そんな毎日が続いていた。いくら北海道でもこんな6月は珍しい。暑いのは決して好きではないけれど、これだけ寒いともう少し暑くてもいいかなと思う。気持ちのいい一日だった。

3.glicoの「80Kcalラムレーズン」というカップアイスがおいしい。僕の中で久々のヒットアイスだ。

51nsgcgp4l__sl500_aa300_4.RANT N' RAVE with the STRAY CATS/STRAY CATS/1983
今日は学校で雑務(こう言ってはいけないのだが……。しかし、生産的でない仕事であるのは確か)ばかりやっていたので、なかなか頭が原稿モードになってくれない。自分を奮い立たせるためにSTRAY CATSだ。

5.小集団交流のみならず何事にも言えることですが、年度当初から高度な要求をしてはいけません。もう高学年だからとかもう中学生なのだからとか、そうした教師の発達段階に対する思い込みも厳禁です。高学年であろうと中学生であろうと、他人とのコミュニケーションが苦手な子というのはいるものです。

6.まずは話しやすい環境をつくることから始めて、子どもたちの様子をよく観察し実態を見極めてから、少しずつステップアップしていくのです。

7.小集団交流は学年を問わず、二人組、即ち〈ペア交流〉から始めるのが常道です。また、自分の意見をノートやワークシートにしっかりと書かせ、話すべき内容を全員にもたせてから行います。

8.しかも、交流の目的は何なのか、どちらが先にしゃべり出すのか、質問はいつするのか、二人が正反対の意見だったらどうするのか、こうしたことを丁寧に確認します。

9.私の場合、①ペアインタビューから始めて、②エピソードを聞き合う、③二人の共通点と相違点を明らかにする、④合意形成を図る、⑤議論する、という段階で交流を発展させていきます。

41rrd6tlcl__sl500_aa300_10.AN INNOCENT MAN/BILLY JOEL/1983
僕らの世代は、だれもが理屈抜きにとにかく大好きだったアルバムである。既に大スターだったBILLY JOELが自らのオリジンとノスタルジーと遊び心を融合させたような、そんな素晴らしいアルバムである。いま聴いていても、1曲も「飽きたな」という曲がない。

11.小集団交流はふだんの座席を使うのが一般的です。四人、六人のグループであれば、毎回の交流内容もバラエティに富んだものになります。しかし、ペア交流の場合はペアが固定すると、少しずつ沈滞していくものです。どうしても、相手の発想がわかってしまう気がするのですね。

12.そこで、ペア交流学習では、頻繁にペアを入れ替えることをお勧めします。まずは隣同士。次に前後同士。更には斜めに座っている者同士。また、教室の座席の列をまるごと入れ替えてしまう、というのもお勧めです。廊下側から数えて二列目と四列、六列目と八列目がまるごと入れ替わるわけですね。

13.或いは、廊下側から数えて偶数列の人たちが一つずつズレていくという手法もあります。偶数列の一番前の人が一つ下がって前から二番目の席に行く、二番目の人が三番目へというようにズレていき、一番後ろの人が一番前にくるわけです。

14.同じテーマでも、相手が変われば交流の内容がまったく変わってしまうという体験をすることができます。そうした体験が他者と交流することが有益であるという実感につながります。

15.小集団交流においては、もちろん交流する内容が最も大切なのですが、交流の仕方に対する意識をもつことも内容と同じくらい大切です。人間は自分が一生懸命に話しているとき、自分が一生懸命に聞いているときには、その話し方や聞き方が良いのかどうかなどということには気持ちが向かないものです。他人の活動を外から眺めているときにはいろいろなことが目につくのに、自分のこととなると同じような目で、客観的に見ることができないのです。

16.そこで私は、ペア交流活動の中で話し方・聞き方について考えて欲しいという場合には、そのペア以外に「観察者」を置いて、交流のあとに振り返りをさせることにしています。

17.①三人ひと組で二人がペア交流をする、一人が観察するというパターンと、②四人ひと組で二人がペア交流、二人が観察者というパターンと、ふた通りを採用しています。もちろん、A・B・Cの三人組の場合には、①A・Bがペア交流、Cが観察者、②B・Cがペア交流、Aが観察者、③C・Aがペア交流、Bが観察者というように、全員がすべての役割を担うようにします。

41gxydpfgbl__sl500_aa300_18.TIFFANY/1988
しばらく1980年代のヒットアルバムを聴いていこう……そう思ってCDラックを眺めていたら、おもしろいというか、懐かしいというか、なんでこんなものがウチにあるんだろう……というものが見つかった。楽しい。そして聴いてみると、悪くない。確かこの年、ティファニーは15歳だったはず。同時期に流行ったデビー・ギブソンよりはずっといい(笑)。

19.いま、「やりっ放しの小集団交流はたいていの場合、最初こそ盛り上がるものの、次第に目的意識が薄れて焦点ぼけしていくものです」と打とうとしたら、「目的意識が薄れて笑点ボケしていくものです」と出て大笑いした。わかる人にしかわからない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月24日(日)

1.一斉授業において大切なのは、子どもたち一人ひとりにいかに思考させるか、活動させるかということです。何か一つ発問をしたら、必ず自分の意見を短くノートに書かせる、三点以上ノートに箇条書きさせるなど、ノート作業を課すことが大切です。自分の意見をもつからこそ、子どもたちはその自分の意見が正しいのか、妥当なのかという意識を抱いて、その後の授業の展開に集中していくのです。

2.このノート作業を課したときに必ず行うのが机間巡視・机間指導ということになります。教師が一時間の中で何回机間指導をすることになるかということは、一時間の授業において子どもたちに何回思考させたかを表すと言って過言ではありません。

3.机間巡視コースというものは、個別指導を頻繁に行わなければならない子を最初と最後に見られるコースをつくるのが常道です。最初に「やり方わかる?」などと訊いて、最後に「一つくらいは書けたかい?」などと声をかけられる座席ですね。

4.私の場合、課題を与えて箇条書きをさせたあと、四人グループの話し合いをさせることが多いのですが、ノート上では、自分で考えたものについては鉛筆で、他人の意見を聞いて「なるほどな」と思って箇条書きに書き加える場合には赤ペンで書く、というルールを敷いています。

5. 「この主人公はこの場面で戸惑っています。戸惑っていることがわかる箇所を本文から書き抜いて箇条書きにします。五つ以上は見つけてくださいね。」
などと言ってノート作業をさせた後、四人グループでそれぞれが上げた理由を交流するわけですね。この際、机間巡視で各グループをまわりながら、どの程度、赤ペンによる記述が増えているかを確認するわけです。

6.赤が多ければこの色分け指導が定着していること、他人の意見から子どもたちが多くのことを学んでいることがわかります。赤が少なければ、色分け指導が定着していないか、個人で課題が解決できるほどに課題が簡単であった可能性があることを表しています。

7.子どもたちにアイディアを出すタイプのノート作業を課すことがあります。「~の理由として考えられることは何ですか?五つ以上挙げてみましょう」とか「~をよりよくするにはどんなアイディアがあるでしょうか。一人八つ以上挙げてみましょう。ちょっとくだらないな、こんなんでいいのか、と思うようなものも挙げてしまうのがコツです」とかいう場合です。私はこうした個人作業のあとに、グループで〈ブレイン・ストーミング〉するという授業形態をよくとります。

8.こうしたとき、書けない子というのは、こだわりをもってしまうがために、最初の一つが書けないということが多いのです。この場合、机間巡視をしながら、書けている子の内容からわざと馬鹿げたもの、くだらないもの、発送の突飛なものを取り上げます。「おお、敏夫は○○○って書いてる。おもしろいなあ」「ははは…亜希子は○○○だって。この発想はオレにはない」などとつぶやきながら、書けない子にモデルを示すわけです。こうしたモデルが示されることによって、書けなかった子が書けるようになっていくのです。

9.子どもたちの異なる反応を取り上げたい場合があります。要するに、子どもたちの反応を教材として、授業を進めたいという場合ですね。例えば、国語科で指示語の問題に取り組ませるとしましょう。「『それ』の指し示す内容を二十五字以内で書きなさい」というような問題です。まずは問題に一斉に取り組ませます。三分程度がたったあたりで机間巡視を始めます。

10.たいていの場合、こうした問題の反応は、誤答例も含めて八~十二種類くらいに分かれます。私の場合、それを見て回りながら、異なった反応を示している八人程度の子の肩を軽く叩くことにしています。その後、七~八割り程度の子ができたのを見計らって、「それじゃあ、先生に肩を叩かれた人、黒板に出て答えを書いてください。みんなの勉強になるように、違った答えを書いている人を指名していますから、もしも間違いに気づいたとしても書き換えないで、ノートに書いたとおりに書いてくださいね。みんなで成長するための板書ですから」と告げます。

11.こんなふうに「みんなで学習するのだ」という意識をもたせながら進めるのがコツです。

12.「~はなぜですか?『……だから』という一文でノートに書いてください」  教師が発問をします。すべての発問において、まずはノートに書かせます。ノートに書かせている1分間程度は常に机間巡視です。問題はその間、教師が何を見て何を考えるのかです。

13.この授業の中で無数にある机間巡視において、教師のやるべきことはたった一つです。それは子どもたちの反応を把握して、指名計画を立てることです。だれがどんな反応をしているのか、最初にだれを指名して、だれの意見をかけ合わせたら子どもたちの思考が深まっていくか、だれとだれを対立させたら授業が盛り上がるか、こういうことに頭をフル回転させるのです。

14.指名計画を立てるうえでは、①正答に遠い意見から近い意見へ指名していく、②対立する意見を最初に言わせて対立構図を敷いてしまう、③子どもたちの思考を活性化するような意見を後半の指名にとっておく、④ふだん活躍しない子が正答を書いている場合には必ず最後に指名して、大きく褒める機会とする、という四つくらいを意識しておけば良いでしょう。

61be18dtikl__sl500_aa300_15.絹の道/久嶋美さち/2007

この女性シンガーは素晴らしい。伸びやかなパンチのある声に魅せられている。なぜもっと売れないのか、不思議でならない。

16.これまで机間巡視、机間指導をするうえで教師が心得ておくべき幾つかの機能について述べてきましたが、こうした機能を発揮させるためには、子どもたちの反応がすべて①短く書かれていること、②構造的に書かれていることという二つの前提が必要になります。

17.机間指導をしやすくするノート指導の在り方として、最も大切なのは「短く書かせる」ということです。「○か×かで書いてください」「A・B・Cで書いてください」「+・0・-で書いてください」「名詞一語で書いてください」「一文で書いてください」「A~Cから選んで、その下に理由を『……だから』の形で一文で書いてください」などなど、短く書くこと、形式を整えて書くことを徹底するのです。机間指導ではこうした指示が命だと言っても良いくらいです。

18.こうした指示が曖昧だと、机間指導で反応を取り上げようとしても指名計画を立てようとしても、子どもたちの反応を読むことに時間をとられてしまって機能しなくなります。

19.長いものを書かせる場合、複数の要素を書かせる場合には、必ず箇条書きさせて〈数〉を見れば良い状態に落とし込むことが必要です。多くの子どもたちがたくさん書けるということは、その課題が子どもたちに機能していることを表しています。反面、個数を書けない子が多い場合には、その課題の難易度に問題がある場合が多いのです。

20.また、それぞれの箇条書きに〈質〉の違いがある場合には、頭に「A・B・C」とか「○・△・□」などを書かせて、子どもたちに分類意識をもたせるとともに、教師がひと目見てわかる状態にする工夫が必要になります。

21.更には、自分で考えたものと他人から学んだもの、他人との交流の中で更に思いついたものなどを色分けさせることも重要です。私の場合は、前にも述べたように、自分で思いついたものは鉛筆で、他人から学んだものは赤ペンで書くというルールを採用していますが、これは教師が見やすいということだけでなく、子どもたちにとっても他者との交流活動の効果を実感することになります。〈見える化〉は教師・子ども双方に有益なのです。

22.2000年前後の学級崩壊論議以降、教師の問題意識の在処が授業づくりから学級づくりへと急激にシフトしたのを感じています。悪いことではありませんが、教育理念同様、振り子が振れすぎているのを感じます。80~90年代の授業技術開発の成果が伝承されなくなってきていることに危機感を抱きます。

23.机間指導はいつでもどこでも必要なのかと問われれば、「そんなことはない」と答えなければなりません。机間指導はあくまで何かを新しいことを教える、何かを教師の意図するフレームの中で考えさせる、そうした場合に有効な手法に過ぎません。

24.授業においては、教えるべきことを教えたうえで、答えのない課題を与えて大胆に子どもたち同士の交流に任せてしまうということがあります。また、用意周到にフレームを固めたうえで、そのフレームの中で自由に発想することを求めることもあります。このような場合には、教師が机間をまわることがかえって監視されているような雰囲気を醸してしまい、マイナスに機能する場合があるのです。ここは子どもたちに任せる、あとで発表してもらえば良い、そうしたファシリテーション系の交流活動においては気をつけたいことです。

25.ファシリテーターは交流活動が始まったら存在を消す、これが原則です。詳細は拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版)を御参照いただければ幸いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自らの「在り方」を問う

支援を要する子と関わっていて思うのは、教師の「教え方」以上に「在り方」のほうを圧倒的に問われているということ。この認識に立つと、支援を要しない子にとっても「在り方」のほうが重要だとわかってきます。ここまで来ると、支援を要する子と要しない子という境界のナンセンス性に気づくようになります。

現在、どんな中学校にも、いわゆる二次障害があらわれているような支援を要する子がいるものです。中学校のみならず、小学校高学年にも数名はいるというのが現状かもしれません。

しかし、多くの場合、小学校においては年度当初、学級結成当初にはそうした子どもたちがパニック症状を起こすことが多かったとしても、それが次第におさまっていくことが多いようです。これに比して、中学校ではそうしたおさまりが見られにくく、パニック症状が1年間を通して見られ、問題傾向生徒として扱われることが多いように思います。

これはどうしたことでしょうか。発達段階によるものなのでしょうか。

おそらく私はそうではないだろうと感じています。

中学校においてこうした子どもがパニック症状を起こす場面を観察していると、指導場面でA先生が対応した場合にはおさまるのに、B先生が対応した場合には更に問題が大きくなっていく、ということが見られます。また、C先生の授業のときにそうした状態になることが多い、というようなことも見られます。つまり、支援を要する子にパニック症状を起こさせやすい教師と起こさせにくい教師がいる、ということなのです。

教師の多くは、この違いをラポートの有無の違いだと認識していたり、或いはその子がいわゆる「人を見ての対応」をしているせいだと認識していたりするようです。職員室では、「私はあの子に嫌われている」とか「あの先生はあいつになめられているんだ」とかいう言葉を耳にすることもあります。しかし、私はそうではないと感じています。

こうした子にうまく対応できているように見える先生と、うまく対応できていないように見える先生との決定的な違いは、指導の発想がその子の認知や認識、その時々の精神状態に応じて対応しているか、学校規範に基づいて「悪いものは悪い」という一面的・一方的な指導をしているかにあります。おそらく小学校は学級担任制なので、学級担任がその子と過ごす時間が中学校教師と比べて格段に長く、その子をよく理解し、その子に個別に対応することに慣れてくることによって、現象的には問題がおさまっているように見えてくるのです。

もちろん中学校でも、学級担任がいち早くその子の特性に気がつき、その子への個別対応に慣れてくることが多いのですが、残念ながら中学校では、そうした担任の対応が「あまやかしている」とか「特別扱いしている」とか批判されがちなので、学級担任が板挟みになるということが少なくありません。特別支援教育において〈情報の共有〉と〈教師のチーム力〉が強調される所以です。

ではなぜ、中学校では、このように学級担任が批判されることが多いのでしょうか。そこに流れている空気はどのようなものなのでしょうか。

おそらく私は、中学校がいまだに80年代の校内暴力時代の亡霊の中で運営されているからだと感じています。生徒指導担当の怖い先生を中心に、生徒になめられないことによって、生徒に教師をなめさせないことによって校内暴力を鎮圧した……という意識が、中学校の職員室に意識的・無意識的に巣くっているのです。それが職員室の空気となっていまだに中学校を取り巻き続けているのです。この空気が中学校に特別支援教育の思想とそうした発想での指導・対応を根付かせない要因となっています。

しかし、ちょっと考えてみましょう。

確かに校内暴力の時代には、必ず学校に何人か、生徒指導担当の怖い先生がいたものです。どんなワルも言うことを聞く怖い先生……そうしたイメージの教師です。私は校内暴力世代ですから、実感としてよくわかりますし、現実に自分が中学生時代に学校中の生徒たちから怖がられていたS先生とかN先生とかをよく覚えてもいます。

しかし、校内暴力時代の生徒指導担当の先生たちだって、決して怖いだけの先生ではなかったのです。生徒が何か悪いことをしたときには、どういう経緯でそういうことをしたのか、なぜそんなことをする気になってしまったのか、そしていま自分のしてしまったことをどう考えているのかと、生徒の立場に立ったうえでよく話を聞いてくれ、低い声で静かに語って聞かせてくれたのです。しかも、こうした先生たちは決して、最初から「お前が悪い!」という決めつけをしなかったものです。私にはそういう記憶がありす。

そうです。あの校内暴力時代にさえ、生徒から信頼を置かれている先生、一目置かれている先生は個別に対応していたのです。一つ一つの事案には個別に対応し、全体を指導する場面、即ち体育館での指導や廊下の指導では規範意識に基づいた指導を徹底する、それがわかっていたからこそ当時のワルたちもこうした先生方の指導に従っていたのです。

教師に最後に必要なのは〈教育技術〉などではなく〈人間性〉だとよく言われます。これは教師が〈教え方〉以上に〈在り方〉が問われる職業であるということを意味しています。

若い読者のみなさんが困ったときに何かうまく行く方法はないかと考えるのもわかります。しかし、長くこの職業でやっていこうと考えているのなら、自らの〈在り方〉を顧みながら子どもたちの前に立ち続けることこそが必要なのだと考えなくてはならないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月23日(土)

51jcv0g65nl__sl500_aa300_1.BOOKENDS/SIMON & GARFUNKEL/1968

たぶんS&Gのアルバムではこれが一番好き。どれも甲乙つけがたいのだけれど、このアルバムを一番回数多く聴いているような気がする。Time it was, and what a time it was, it was… この「ため」が好き。じんわり来る。そして「a time of innocence, a time of confidences」と続く。たまらない。「AMERICA」もS&Gの曲の中で大好きな曲の一つ。

2.【拡散希望/定員50/残席17/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)
http://kokucheese.com/event/index/31411/

3.【学級経営の原則】男女の配置は席替えにおいて意外と大切です。私は男子の列、女子の列をつくることを潔しとしません。男女がジグザグになるように配置します。通事用のスクール形式でも、班をつくっても、小集団で活動しても、真向かいと両隣には異性がいる。そういう座席配置です。

4.【学級経営の原則】斜め前の同性と話をしようとすると、自然に異性もその会話に加わるようになる、そういう座席配置です。私の言う「環境調整型権力」とは、こうした自然さをどうつくり出すかということです。「男女仲良くしなさい」という言葉を使わずに、どうやって担任の意図を実現するか、ですね。

5.【教室ファシリテーション】手を換え品を換え〈マジックフレーズ〉を多用させます。〈マジック・フレーズ〉とは①挨拶の言葉、②感謝の言葉、③お詫びの言葉、④思いやりの言葉、⑤返事の五つを指します。これに〈傾聴三動作〉、①相槌、②うなずき、③驚嘆・賞賛が加わると、自然に温まっていきます。

6.【教室ファシリテーション】一つの活動が終わると、〈シェアリング〉や〈リフレクション〉が行われますが、学びを共有化したり振り返ったりしたあとは、「互いの成果をたたえ合う」というちょっとした時間をもつことが大切です。1~2分で良いのです。それが10回行われたとき大きな効果が顕れます。

7.【生徒指導の原則】生徒たちを観察しようとするとき、ただ漠然と観察してはいけません。良いことなど、よほどの良いことでないと目につかないものです。漠然と観察すると、自分の意にそぐわない生徒の行動ばかりが目につきます。それは自分にとっても生徒たちにとっても不幸なことです。

8.【生徒指導の原則】観点を決めて観察しましょう。今日は男子生徒を見る日。今日は女子生徒を見る日。今日は生徒達の良いところを見る日。今日は普段気づかないよくないところを見る日。今日は休み時間の過ごし方を見る日。今日は朝読書で何を読んでいるのかをメモする日。今日は他教科の授業を見る日。

9.昨夜、『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』の二校を仕上げて発送しました。自分の書いた文章をもう一度読んでみて、書き直したいところ、書き足したいところがたくさん出て来ました。でも、そのままの形を出すのが良いのでしょう。1ヶ月半前の自分はこれで良いと判断したのですから。

10.自分にとって本を書くということが、凝縮ポートフォリオなんだな……と感じることがあります。10年に1回、立て続けに本を出す時期があるのはそのためなのだろう、と。だから、切り取り方を変えて同じことをいろんな形で出すという発想が僕にはないのだな、と。あくまで次へのステップなんだな、と。

11.〈縦の授業構成〉と〈横の授業構成〉と、二つの授業構成を意識しなくてはなりません。

12.〈縦の授業構成〉とは、その一時間をどう組み立てるのかという授業構成のことです。最初に前時を想起させるとか、中心発問はどこで提示するとか、どのような手立てで課題に向かわせるかとか、まとめはどのようにするとか、そういう一時間一時間の授業を構成する様々な要素をどういう順番で提示するかを考えることです。〈授業構成〉と言うときに、一般的にはこの〈縦の授業構成〉を指します。

13.これに対して、〈横の授業構成〉とは、教材や単元、学期のカリキュラムや一年間のカリキュラムをどのように組み立てていくかというタイプの、一時間の授業の組み立てではなく複数の授業の組み立てを構想する授業構成のことです。

14.一時間一時間の授業の在り方は、その一時間で独立しているのではありません。必ず単元構成やカリキュラム構成の中でどのような役割を果たすのかという位置づけが為されているものです。この〈横の授業構成〉を優先させることによって〈縦の授業構成〉に「ちょっと無理をしてでも入れる活動」が入ってくることさえあるのです。

15.指導事項には、①〈教える〉ことによって理解したりできるようになったりするタイプのものと、②〈繰り返し体験する〉ことによって自然と身についていくタイプのものと、二つの〈質〉の違いがあります。例えば国語科であれば、読み取りの技術や作文の技術、国語に関する知識などは前者ですが、音読や辞書の引き方、聞く姿勢や話し合いなどは後者になります。社会科なら織田信長の功績は前者ですが、地図帳の使い方や年表の読み方は後者です。私は前者を〈知識・技能型指導事項〉、後者を〈体験・体感型指導事項〉と呼んで区別しています。

16.〈知識・技能型指導事項〉の多くは、〈縦の授業構成〉をよく考えて、どのように子どもたちに理解させ身につけさせるかということを意識します。それに対して、〈体験・体感型指導事項〉の多くは、〈横の授業構成〉を考えて、毎日少しずつ取り組ませて、慣れさせることによって日常的に使えるものにしていく、そういう指導事項です。ユニット型授業の一項目としたり、モジュール型授業で取り組ませたりするのに適した指導事項になるわけです。また、漢字学習のように、ある体系を少しずつ教えていくことも〈横の授業構成〉で考えることに適しています。

17.指導事項には、〈知識・技能型指導事項〉と〈体験・体感型指導事項〉があります。ただし、これはその指導事項を「初めて教える」とき、「初めて扱う」ときの原則に過ぎません。

18.〈知識・技能型指導事項〉も一度教え、扱ってしまえば、その後は「定着させるべき指導事項」になっていきます。ということは、繰り返し繰り返しその技術を使わせて体験させる、繰り返し繰り返しその知識を既習事項として扱ってその知識の位置づけを考えさせる、そうした〈体験・体感型指導事項〉に質が変わっていくのです。

19.〈体型・体感型指導事項〉にも同じことが言えます。音読の仕方であろうと辞書の引き方であろうと話し合いの仕方であろうと、その「仕方」「在り方」「技術」を教える最初の一時間というものはあるわけです。あまりにも当然のことになっているために、そういう最初の一時間が多くの教師に意識されていないだけです。

20.例えば、音読はよりよい音読を知識として与えたり、その一時間を音読指導の一時間として徹底して音読の仕方を教えたりということに、それほどの効果は期待できません。それよりも、毎日毎日の授業の中に、少しずつでも良いから音読練習の時間を取り入れる、できれば自分の成長を実感できるような機会を設ける、更にはお互いに評価し合う、そういう授業形態に向いているのです。

61xormue1l21.TWIST BEST 16 HITS
「あんたのバラード」の前奏、あのピアノが流れてくると、なんだか時間が止まったようにしびれてしまう。世良公則の声は良いなあ。僕は「SOPPO」という曲をカラオケの十八番にしている(笑)。たぶん僕がノリノリで「SOPPO」を歌う姿を目にした人は世の中に1000人くらいいるはずだ。なにせカラオケスナックでバイトしてた時期からだから。もう30年近い歴史がある(笑)。

22.〈知識・技能型指導事項〉の多くは、〈縦の授業構成〉をよく考えてどのように子どもたちに理解させ身につけさせるかということを意識します。その際、技術・技能系の指導事項の場合には活動させることが大切です。それも、①モデルを見る→②やってみる→③やり合ってみる→④お互いに評価する→⑤もう一度やり合ってみる→⑥振り返る→⑦意味・意義をまとめる、という七段階を意識しなくてはなりません。

23.それにしても一斉授業ってのは、考えるべき視点がたくさんあるなあ。とても「100の原則」なんかにはおさまらない。それをおさめようというのだから、さっきからずいぶんと苦しい思いをしている。この本はかなり「エイヤーッ!」という割り切りで欠かざるを得ない本になる。まあ、それも良い。他の本でカバーすればいいんだから。本筋だけで構成しよう。

24.来年度は少し、一斉授業に関するコンテンツものを書かなくちゃだめだな。「基本的な授業技術」「授業構成法」「指導言構成法」「机間指導法」「評価評定法」「ノート指導法」「板書構成法」「発言指導法」「小集団交流指導法」「授業力向上のステップ」「年度当初の授業づくり」……。いっぱいある。

25.割と意識されていないことですが、授業構成には〈帰納型〉と〈演繹型〉とがあります。〈帰納型の授業構成〉とは、ある指導事項があるときに、まずはその指導事項をよく使う場面を設定して活動させてみる、その活動の中からよりよい活動の仕方を抽出することによって指導事項を提示する、そういう授業構成です。〈演繹型の授業構成〉とは、まずその指導事項の良さを教える、そしてその指導事項を使って活動させてみる、という授業構成です。

26.例えば、人の話を聞くときに必要な〈傾聴三動作〉という指導事項があります。〈相槌・頷き・賞賛〉の三つです。これを指導するときに、まず聞く体験をさせてみて何が必要かと考えさせるのが〈帰納型授業構成〉、まず〈傾聴三動作〉を教えてからそれを使って聞く体験をさせてみるというのが〈演繹型授業構成〉です。

27.前者は試行錯誤を経験させることによって、その指導事項を実感的に捉えることに重きがあります。後者は効率的に教えることで「ほら、うまく行くでしょ?」という授業構成です。指導時数との兼ね合いで両方を使い分けなければなりません。

28.指導事項の定着には三段階があります。第一にその指導事項を知識としてもっている段階、第二にその指導事項を意識的に使ってみる段階、第三にその指導事項を意識しなくても使えるようになった段階という三段階です。私はこれを指導事項の〈習熟三段階〉と呼んでいます。

29.一時間単位の授業構成を考える上で、最も大切なことは「個から始めて個で終わる」という明確な意識をもつことです。学力とは最終的には個人で身につけなければならないものです。もちろん授業の最中(さなか)に学級全体での話し合い活動や小集団での交流活動があって構いませんが、①最初は個人の問題意識から出発させること、そして②最後は個人の課題解決の状況を表出させること、この二つがどうしても必要です。

30.学級全体として、集団としてここまで到達させたいという授業目標と、子どもたち一人ひとりにここまで到達させたいという学力目標とは分けて考えなければならないのです。

31.〈ユニット型授業〉における一つ一つの〈ユニット〉というものは、繰り返し繰り返し、しかも長期間にわたって継続されるからこそ効果を発揮する、そういうものを設定したはずです。短期間で一見効果が出ていないように見える指導であっても、子どもたちの中には間違いなくその効果が少しずつ蓄積されているものです。学習効果というものは、ある地点を越えたとき、突然効果が目に見えて顕れるものです。それ以前にやめてしまうのは愚の骨頂なのです。例外をつくってはなりません。特別日課であろうと研究授業であろうと、何が何でも継続するのです。

32.一時間一時間の指導事項は、教科書によって、或いは学校の年間指導計画によって必然的に決まるものです。その意味では、〈縦の授業構成〉をつくるための指導事項は自分で決める余地はあまりないというのが現実です。しかし、〈横の授業構成〉をつくる指導事項、つまり、子どもたちを指導していくうえで年間を通してどこに重点を置くのかということは、教師にはずいぶんと自分の考えを発揮する余地があります。

33.授業づくりを考えるうえで、教師のこだわりポイントを明確に抱いて、年度の〈重点〉を年間通した〈ユニット〉として位置づけることが重要です。年度の〈重点〉を〈ユニット〉として位置づけることを決めたら、その〈ユニット〉を一年間を通じてどのように系統立てて行くのかを考えます。

34.年度の〈重点〉に従って、各学期に軽重をつけて系統的に組織していくのです。そのように一年間を捉えると、それぞれの学期で取り組むべきことの〈重点〉がぶれなくなります。一貫した指導ができるようになっていくわけです。

35.「授業構成を考える」と言うと、一般には一時間の授業をどのように組み立てるかということが想定されます。しかし、一時間の授業というものは、決してその一時間だけで独立しているわけではありません。

36.すべての学習は単元の中に位置づいていたり、年間カリキュラムの中に位置づいていたりしています。要するに、次のBという学習のために今日のAという学習があったり、今日のAと明日のBと明後日のCという三つの学習が融合することによって、初めてそれらを活用してのDという学習が成立したりするわけです。これをどこまで意識できるかが教師の力量です。

37.その意味で、「授業構成を考える」うえでも、単発の一時間だけで考えるのではなく、今後の学習においてこの一時間がどのような位置づけにあるのかまで視野に入れる必要があるのです。

38.必ずしも教師の指導言を丁寧語にすべきだと主張するつもりはありません。「~しなさい」「~なんだよ」という常体の指導言がしっくり来るという教師もいるでしょう。しかし、例えば、私が若い教師に指導言の在り方を訊かれたとしたら、やはり丁寧語を用いることを勧めます。

39.丁寧語でしゃべり出すと、人はたいていの場合、常体で話すよりも落ち着いたトーンで話し始めるものです。要するにゆっくりしゃべるようになるわけですね。それが子どもたちにとって聞きやすいスピードになることが多いのです。また、丁寧語は、個人に対して語りかけるのではなく、全体に対して語りかけているという印象を与えます。コンテクスト(教師と子どもとの日常的な関係性)に関係なく、パブリックな場という意識を醸成しやすいのです。更には、授業で丁寧語を使うことが日常会話と一線を画すので、日常会話によく見られる一文がやたら長いという状態に陥りにくくする、という利点もあります。

40.「ええと…」「あのう…」といった無意味な感動詞的挿入言。「~ですね」「~でさあ」と繰り返される口癖となった終助詞。「はい!それではですね、はい、やってみますよ」「うん。そういうことなんだ。うん」など、子どもたちにというよりは自分に向けて言っている「はい」や「うん」。無くて七癖と言いますが、教師の指導言には多くの癖があるものです。これらがノイズとして耳障りな指導言にしています。

41.何かを説明しようとする場合、子どもたちにその説明を理解させるか否かの決定的な要素は、具体例があるか否かです。その意味で、教師は説明において常に具体例を用意しておく必要があります。しかも、複数の具体例、できれば三つ以上の具体例を用意しておくのが理想です。

42.具体例は、①実際に教室内で実演できる事例、②子どもの日常の生活経験を想起させる事例、③これをすればこうなるだろうと実感できるような同質の因果関係をもつ事例、④一見異なるもののように見える二つ以上の事象が同じ構造をもっているという事例、という四種類があり得ます。

43.説明すべき内容がその場にある日常の学校生活上のものであれば①を、学校生活にはないけれど子どもたちの経験の中にあり得るものであれば②を、子どもたちが経験したことのない抽象的な事象の説明なら③や④を用います。

44.①なら一度見せれば事足りますが、②は必ず複数の事例を、③④はできるだけ多くの事例を取り上げて、念を押す必要があります。

45.指示には「教科書を18頁を開いてください」「鉛筆を置いてください」のような〈一義の指示〉と、「~はなぜでしょうか。『……だから』の形で一文で書いてください」「四人グループで話し合ってください。時間は8分です」のように、これから行う活動を促すような〈多義の指示〉とがあります。

46.子どもたちの集中を促したり授業に不可欠な準備をさせたりするための小さな〈作業指示〉ならば、いわゆる「一時一事の原理」に従って子どもたちの行動を細分化することになります。

47.しかし、これからダイナミックな活動をさせようという〈学習活動指示〉の場合には、「『……だから』という一文で書いてください」「時間は8分です」のような〈規模の提示〉が不可欠になります。〈規模〉がわからないと、子どもたちはその活動の見通しをもつことができません。

48.全部で180頁の原稿のうち、76頁が完成したことになる。20頁分はイクタケさんの漫画だから、僕が書かなければならないのはあと84頁分である。7項目について12頁ずつだ。もうすぐ半分にさしかかるところだ。まだ遠いな。今日明日でどこまで進むだろう。あと3項目、36頁分書けないかなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月22日(金)

1.授業は四つ。登場人物の人物像の交流が二つ、作文を書きながらのノート・ワーク点検が一つ、行動描写と会話文の抽出が一つ。空き時間は郵便局に支払いに行く。帰宅後はゲラ校正を仕上げて発送。その後、お酒を飲みながらテレビを見て過ごす。21時に寝る。

2.【拡散希望/定員50/残席17/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)
http://kokucheese.com/event/index/31411/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月21日(木)

1.授業は五つ。三つがテストの返却。二つが登場人物の人物像の読み取り方。空き時間は銀行に行って支払いなど。生徒指導案件が一つ。退勤後、岩見沢へ。父を見舞い、母と長沼温泉へ。露天風呂。19時だというのに昼間のように明るい。夏至。何を食べようかと母と散々思案した挙げ句、吉野屋(笑)。

2.【教室ファシリテーション】取材コンテは徹底的に質問パターンを細かく想定していくか、ちょちょういと核心的な質問を決めてあとはその場で臨機応変と割り切るかのどちらかです。どんなに細かく想定しても想定しきれないというギリギリまで想定する経験を何度も経験したあとの割り切りこそが本物です。

3.【生徒指導の原則】生徒指導では何はともあれ記録をとっておくことが重要です。生徒や保護者とのやりとりを記録するのは当たり前です。私は何時に電話し、ベルを何回鳴らしたけれど相手は出なかったということまで記録しています。こういう記録の取り方こそが、いざというときに役立つのです。

4.【学級経営の原則】席替えに限らず、4月に担任が決めたルールについては、1年間、変更しないのが基本です。逆に言えば、1年間、変更しなくても済むようなルールを敷かなければならない、ということです。自分がつくったルールのあらが年度途中に見えてくるということは、ルールが不完全なのです。

5.僕はミニチュア・ダックスフンドを2匹飼っている。愛犬である。​僕はHONDAオデッセイに乗っている。愛車である。なぜオデッ​セイを買ったのかというと、形がダックスフンドに似ていたからだ​。

6.八木菓子舗の「桜ほのか」という三石羊羹は絶品である。

7.「行事指導」本のゲラ校正がなかなか終わらない。忙しいからではない。責任感がないわけでもない。だから少しずつ進めてはいる。でも、乗り切れない。僕の中では、もう終わってしまった仕事だからなのだと思う。仕事というのは、完成して出来上がったものよりも、やっている途中が一番楽しいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月20日(水)

1.‎9時に家を出て静内へ。日高教育研究所の講演会。教育局の局長初め、錚々たるメンバーの前の講演で最初はやりづらかった(笑)。でも、まあ、お役目は果たせたかな……。わざわざ僕ごときの話を聴きに来てくれた先生方が熱心に耳を傾けてくれて、行って良かったなと思った。中島くんも元気そうだった。

2.驚いたのは日高教育研究所長さんが、僕の教育実習の指導教諭だった中村先生だったこと。なんと……。中村先生は恩人である。とても良い教育実習を経験させていただいた。授業もすべてを僕に任せてくれた。初日から「教育実習は度胸だ」と、算数の授業をさせてくれたっけ。平成元年の夏のことである。

3.編集者とメールでやりとり。それをきっかけに言葉探し。言葉探しというより、途中から言葉遊びに発展していく。でも、言葉遊びはずいぶんと発想を広げてくれるもの。こういう時間は決して無駄ではない。一人ブレイン・ストーミングみたいなものだ。

4.【教室ファシリテーション】子どもたちのインタビューは「なるほどインタビュー」になりがちです。「~は~ですか?」 一つ質問したら、「なるほど…。ありがとうございます。二つ目の質問です」と次に行ってしまうのである。一問一答というやつである。確かにメモはとっていますが、それだけです。

5.【教室ファシリテーション】これでは、子どもたちが事前に準備した活動だけで終わってしまいます。要するに、インタビューをする前からわかっていたことを確認しているだけ、子どもたちの世界観はまったく広がりません。「なるほどインタビュー」を「つっこみインタビュー」に変えなければなりません。

6.【教室ファシリテーション】要するに、一つ質問して一つ答えが返ってきたら、その答えに対して3つの重ね質問をする決めるのです。しかもその場で考えて。これを強制するのです。そうすると、最初は戸惑っても、自分たちの想像以上のことが聞けるこを実感していきます。これを〈1A3Q〉と言います。

7.【学級経営の原則】席替えのルールは教師の専権事項とすべきです。子どもの意見を聞いてはなりません。誤解しないでくださいよ。席を担任が決めろと言っているわけではありません。席替えの仕方の「ルール」を担任の専権事項とすべきだと言っているのです。これがよく誤解を受けます。

8.【学級経営の原則】ただし、なぜそのような席の決め方をするのか、その裏にはどんな思想があって、担任が今後どういう見通しをもっているのか、子どもたちが理解し納得するようにしっかりと語らなければなりません。席替えは子どもにとって一大イベントです。席替えのシステムを軽視してはなりません。

9.【生徒指導の原則】一人でできると思うから失敗するのです。一人でできることなんてそう多くはありません。担任をもち、自分の学級の子どもが何かトラブルを起こすと、教師はどうしても一人で抱え込もうします。でも、一人で抱えてはいけません。同僚を、管理職を信じなければなりません。

10.【生徒指導の原則】有能な教師はHELPを出すのがうまい教師です。HELPの出し方がうまいというのは、手遅れになるまでに先輩を、上司を頼れることを言います。もうどうしようもならない状態になってから出すのはHELPではありません。「お手上げ」というのです。この違いを意識しましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月19日(火)

1.今日も午後から修学旅行の振休です。なんでこんなに振休があるのかと思ったら、夜の超過勤務だけでなく、土日もからんでいたからなのでした。おかげでやることがないので、執筆ばかりしています。原稿は進みますが、健康的な生活からは遠ざかっていきます。肉体的にも精神的にも。

2.今日は授業が三つ。全部、期末テストの返却。3組の担任が休んでいるので、昨日から担任業務。今日は3組だけ朝学活からテストを返し始めて早めに終わらせ、授業の後半は修学旅行の写真を見に行きました。生徒たちはとても楽しそうでした。僕もその場で事務仕事をしていました。なごやかな時間でした。

3.【学級経営の原則】係活動を決めるときには欠席時の代理まで決めておくことを原則とします。誰かが欠席することによって、仕事が滞るというシステムはシステムとは言えません。私の場合、まず代理生徒、その代理生徒が欠席したり仕事をし忘れたりした場合には係長、それも忘れた場合には学級代表です。

4.【生徒指導の原則】トラブルが起こったら、何より重要なことは起こった事実を確認することです。これを怠って生徒を疑ったり、いきなり説諭に入ったりしてはいけません。教師のそうした態度が「オレだけ悪者にされた」「先生はオレの話を聞いてくれなかった」「いっつも私だけが悪いの?」になります。

5.【教室ファシリテーション】アイスブレイキングを軽視してはなりません。ただし、あまりにダイナミックなものもいけません。難しく考えてもいけません。①簡単にでき②全員が一斉に参加でき③他者との交流があり④笑い声が起こる、この四つの要素さえ満たせば、アイスブレイキングとしては充分です。

6.【力量形成の原則】若手に大切なのは「可愛がられる人間」になることです。これさえ身につければ鬼に金棒です。色んなことを訊けますし教えてもらえます。敵は可愛がられる人に嫉妬の目を向ける一部の人達だけです。しかし、そういう人が職場で影響力をもっていることはほとんどないので大丈夫です。

7.【学級経営の原則】席替えは子どもたちには一大イベントです。子どもたちが納得するとともに担任の求める雰囲気の醸成に寄与するようなシステムを敷くこと、むやみにそのシステムを変更しないこと、机間巡視のしやすさ、子どもたちの学びやすさの両方に配慮すること、考えるべき観点が色々あります。

8.【生徒指導の原則】〈心でっかち〉になってはいけません。〈心でっかち〉とは、すべての行動の原因を子どもたちの心の在り樣を要因として指導する態度のことです。「何考えてるの」「そんなこと許されると思ってるの」「なんでそんなことができるの。信じられない」みんな〈心でっかち〉の指導です。

9.【教室ファシリテーション】インストラクションはその活動の〈目的〉〈フレーム〉、そして〈価値〉を伝えます。学習活動のインストラクションでは、何より子どもたちに「すっきり感」を与えることを優先しましょう。「なるほど、よくわかった。速くやってみようぜ」という気持ちに誘うのです。

10.【力量形成の原則】大人の、組織の、企業の言う〈コミュニケーション能力〉などという言葉に踊らされてはなりません。そんなものは曖昧で、せいぜい「一緒に机を並べて仕事をしたいか」というような直感的なものでしか使われていない概念です。大人の側だって定義づけなどできていないのです。

11.【力量形成の原則】就職活動において、「コミュニケーション能力とは…」と深刻に考えるなんてナンセンスです。そのためにやりたいことを諦めるなんて馬鹿げています。やりたいことをやってみるのです。成功しても失敗してもそこから学んだものこそが、実はその人のコミュニケーション能力を作ります。

12.【教室ファシリテーション】ペアでインタビューをするという場合、或いはグループで質問を考えるというような場合、まず必要なことは相手の情報を知ることです。一度でもプロノインタビュアーに取材を受けるとわかることですが、彼らは取材対象を徹底的に調べてきます。細かいところまで徹底的にです。

13.【教室ファシリテーション】効果的な質問法として四つの指導事項を設定し練習しています。①オープンクエスチョンで質問する。②大きなことから小さなことへと質問していく。③軽いことから重いことへと質問していく。④オウム返しを入れて相手に言い直してもらうと、補足説明(新情報)が聞ける。

81ei16bp4rl_214.万華鏡/奥村愛子/2005

数年前、「無駄遣いをしよう」と1万円もってCDショップに行った。ジャケットに惹かれて買ってみたら大当たり。以来、愛聴盤。その後のアルバムも購入。

51vogyalfkl__sl500_aa300_15.天使のパン/くめさゆり/2009
あの「異邦人」の久保田早紀のさんびか集です。久米大作と幸せな結婚生活を送っているようです。このアルバムは傑作です。歌はかつての久保田早紀同様、それほど上手いわけではありません。でも、久保田早紀のサードアルバム以降に見られた「迷い」みたいなものが払拭され、伸びやかな歌声がとても心地よいアルバムになっています。僕はあの名作と謳われたファーストアルバム「夢かだり」と同じくらい好きです。

Oct135516.VIRGINAL/南野陽子/1986
僕はまったく南野陽子のファンではありませんでしたが、このアルバムは妹がもっていて、それを録音して聴いているうちに大好きになりました。「ガールフレンド」「ベルベット・シークレット」「呼びすてにしないで」「曲がり角蜃気楼」など名曲が多いです。南野陽子の舌っ足らずな歌がこれらの名曲にマッチングしています。「海のステーション」は本気で切なくなります。

17.kayaDVDシリーズⅢ
第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都
堀 裕嗣・藤原友和
http://sogogakushu.gr.jp/kayaDVD/main.htm

【お知らせ】
DVDをご購入の皆様へ。私にメールをいただければ、このセミナーで用いている教材を添付メールにてお送りします。ファイルは一太郎です。hori-p@nifty.com

18.【拡散希望/定員50/残席34】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は山田洋一さんとの行脚です。http://kokucheese.com/event/index/34401/

19.【拡散希望/定員50/残席18/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定) http://kokucheese.com/event/index/31411/

20.【生徒指導の原則】1年間、一貫した指導が大切です。言われるまでもないと思うかもしれません。しかし、一貫した指導を日常的に意識して生徒指導にあたっている教師は少ないという印象を抱いています。一貫した指導は教師が一貫していると思っても仕方ありません。生徒にどう見えるかがすべてです。

21.【学級経営の原則】席替えで大切なのも「偶然性の排除」です。座席をくじで決めて、「うちの娘が新しい席がいやで学校に行きたくないと言っているのですが」という電話がかかってきたらどうしますか?明確な手立てがあるのなら、くじで決めても良いでしょう。私にはそんなものはありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月18日(月)

1.今日は授業が三つ。合間に期末テストの採点、採点、また採点。職員会議中も採点。会議が終わったあとも採点。17:35終了。6クラス分237枚。周りに「話しかけるな」オーラを出しながら採点に集中。机上にプリントを置いていく先生さえ遠慮しながら(笑)。私はこういうことが得意である(笑)。

2.いま振り返ってみると、結局、今日一日、職員室で僕に話しかけてきたのは、校長が1回、研修関係の用事があった先生が1回の計2回。たぶん職員室では、僕は自分から声を出すことのない一日だった。周りの先生方には気を遣わせて申し訳なかったが、こうでもしないとこの240枚近い採点は終わらない。

3.〈批判聴取〉において重要な視点の一つに、発話者の主張とその論拠とされている具体例とがほんとうに整合しているか否かを見極める、ということがあります。

4.〈批判聴取〉においてもう一つ重要な視点として、発話者が提示しているデータに主張とのズレや矛盾がないかを見極めることが挙げられます。

5.〈要約聴取〉において〈発話内容の再構成〉が、〈情報聴取〉において〈獲得情報の再構成〉が必要であると述べたように、〈批判聴取〉も批判的に聞くだけで良いというものではありません。最終的に発信することを念頭に置いて聞くからこそ、批判的に聞くということの意義も高まるのです。基本的には、〈批判聴取〉では「反論する」ということが発信の常道となります。

6.国語本の執筆はひと休み。「一斉授業10の原理・100の原則」の締切があと20日後に迫っている。うーん……。あと120頁か。ちょっと焦り始める時期に入ってきたなあ。もう取りかからないと間に合わない可能性が出て来てるなあ。困ったなあ。ゴーストライターいないかなあ……(笑)。

7.よし!今日は原稿を書かない日にしよう。だいたい昼間に240枚の採点をした日の夜に原稿を執筆するなんて、「健康で文化的な生活」ではない。憲法違反だ。よし。テレビ見よ。

8.せっかく決意を固めてテレビ見ようと思ったのに、先週の「土曜ワイド劇場」を録画し忘れていることが発覚。渡辺えりの名演技が見られなかった。僕にはどこか「生きる力」がない。ついでに昨日届いたゲラが封も開けられないまま、茶の間のテーブルの上で存在感を示している。仕事しろってことかなあ。

9.【拡散希望/定員50/残席18/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)
http://kokucheese.com/event/index/31411/

10.【学級経営の原則】生活班は、実は授業の小集団学習で使われる基本単位になっていることが多いのです。担任の都合だけで考えずに、男女バランス、係分担バランス、学力バランスをとっておくのが学級のためです。そうした配慮もせずに班をつくっている学級担任が中学校には多すぎます。

11.【生徒指導の原則】生徒との距離感覚は近すぎず遠すぎず。若いうちはどうしても近くなりすぎ、年齢を重ねると遠くなりすぎる傾向があります。若いうちは一歩引く、四十路に近くなったら一歩前へ出るが基本です。子どもたちの中に入りもせずに、最近の子がわからないと嘆くベテランが多いです。

12.【学級経営の原則】係活動は一人一役が基本です。必ず学級の人数分の仕事を用意しなければなりません。しかも、毎日必ず仕事があるという一役を人数分用意するのです。学級に貢献しているという思いが学級への所属意識を醸成し、責任感を醸成し、達成感を生み出します。様々な場で所見にも使えます。

13.【生徒指導の原則】教師は生徒指導において「~しなさい」「~してはダメ」と言葉に頼りすぎる傾向があります。しかし、~したくなるような、~をしてはいけないと考えるような〈空気〉を醸成することこそが実は生徒指導のキモなのです。生徒指導の下手な教師は、この〈空気の醸成〉に失敗しています。

14.【生徒指導の原則】トラブルは起こるものと考えましょう。相手は子どもなのです。トラブルを起こさない子ども集団など、むしろ異常な集団です。「トラブルを起こさない」と考えずに、「トラブルは起こるもの」と考えると、指導にもゆとりが生まれます。この精神的ゆとりが実は指導を機能させるのです。

15.【学級経営の原理】学級リーダーに与えるべきは重い仕事ではなく、重い責任です。なのに多くの学級担任はリーダーに重い仕事を与えて時間的・労力的余裕をなくさせます。時にリーダーをつぶしてしまったり、「大変だから」と退かせたりしています。リーダーには責任感とお得感を抱かせましょう。

16.【学級経営の原理】リーダーに与える「重い責任」とは簡単に言えば「フォロワー」と「仕切り屋」しての役回りです。欠席した子の代わりに仕事をしたり、仕事を忘れた子の代わりに仕事をしたりする何でも屋。仕事に苦労している子に寄り添い手伝ってあげるお節介屋。そして仕事を分担する仕切り屋です。

17.【学級経営の原理】時に掃除をサボって帰ってしまった子の代わりに掃除当番を手伝う仕事さえあります。しかし、サボった子を注意させてはなりません。それは担任の仕事です。注意する担任、手伝うリーダー、そこに担任とリーダーの間の阿吽の呼吸と信頼感が生まれます。例えばそういうことです。

18.【学級経営の原理】学級代表に立候補が出なかった。いや~な雰囲気がしばらく続いた後、ある子が「私がやります」と立候補した。PTA役員が決まらなかった。いろいろな経緯があってある保護者がやってくれることになった。担任はこの人たちに対して、その年度内に全力で恩返ししなければなりません。

19.【学級経営の原理】僕のプロモーションビデオをつくるという実践は、他の子どもたちに不公平感を抱かせずに恩返しをする方策として何があるかと考えた末に生まれたものです。笑いあり感動ありのビデオですが、他の子たちよりも少しだけ、リーダーやPTA役員さんのお子さんの出演頻度が高いのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月17日(日)

1.雨。予定は中止。降って湧いた一日をどう使おうか。取り敢えず、この週末にしなくちゃならない連絡数本から始めよう。メール5本だな……と思っていたらピンポーン!ゲラゲラゲラ……大嫌いなゲラゲラゲラ……。うーん。ゲラゲラゲラ。まずはメール5本だな。

2.【学級経営の原則】学級リーダーに負担をかけ過ぎていけません。学級代表に学校祭企画リーダー、合唱コン指揮者、学級内の揉め事まで頼りにする……。負担をかけ過ぎです。しかも一人の子にこれだけ役を与えるということは、実は他の子の成長機会を奪うことにもなっています。バランス感覚が必要です。

3.【生徒指導の原則】予防が基本。そのためには「空白」をつくらないことが大切です。一日の流れにおいて、「時間的な空白」をつくらない。校舎内の巡視において「空間的な空白」をつくらない。多くの学校が組織で動くことを奨励するのはこの「空白をつくらない」ことを第一義としているからなのです。

4.【生徒指導の原則】空白をつくらない。そうは言っても、いかにも管理という雰囲気はいけません。この時間は、子どもたちと遊び型コミュニケーションを図りながら、人間関係をつくる、深める機会だと思って、教師自身も楽しんでしまいましょう。その感覚をもてたら、色んなことがうまくいき始めます。

5.島田雅彦のインタビューを読んでいて思うところがあった。80年代、表現者は斜に構えていることに価値があった。いまは斜に構える表現者が好まれなくなった。若い表現者は少し斜に構えているくらいが将来有望に見えるのだが。教師にも同じような印象を抱いている。でも、時代はそれを許してくれない。僕は若い頃、斜に構えるどころか、背中を向けてさえいたものだが。石川晋などは大の字になって寝転がっていた印象がある。僕も晋もいまの時代に新卒だったら、やっていけなかったかもしれないな(笑)。

51gcit6el__sl500_aa300_6.渚でシャララ/JULIE with THE WILD ONES

だれも興味を抱いてくれないかも知れないけれど、この曲はいい。アルバムもいい。

7.kayaDVDシリーズⅢ
第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都
堀 裕嗣・藤原友和
http://sogogakushu.gr.jp/kayaDVD/main.htm

【お知らせ】
DVDをご購入の皆様へ。私にメールをいただければ、このセミナーで用いている教材を添付メールにてお送りします。ファイルは一太郎です。hori-p@nifty.com

8.ある共著企画について思案中。お互いに同一テーマで見本原稿を書いてみて、具体的に構想を練る。割と丁寧な仕事の仕方をしている。きっと、これからおもしろい発想が出てくるに違いない。前に、編集者から良い企画が提案されたと僕が絶賛していた企画である。この本は丁寧につくっていこうと思う。

9.話し手の発話内容から自らに必要な情報のみを取り出して聞くという場合、そこでは〈内容情報〉を聞く場合と〈表現情報〉を聞く場合とが考えられます。多くは〈内容情報〉を聞くことになります。先ほど例に挙げた電車内で連絡列車を確認する場合も、ラジオの星占いを聞く場合も、ともに話し手の発話内容から〈内容情報〉を聞き取ろうとしています。

10.学校生活においても、こうした例はたくさんあります。修学旅行の部屋割りが発表されるときとか、合唱コンクールの音楽科の先生の全体講評の中から自分の学級に関する情報のみを聞こうとするとか、部活動で自分の学校の試合会場だけを聞き取るとか、そういう場合ですね。

11.話し手の発話内容から必要な情報を取り出して聞く第二は、〈表現情報の獲得〉です。これは話し手の発話から話し方の技術を取り出して、自分の表現に活かそうとする目的的な聞き方です。

12.私たちは人生において、何人もの話のうまい人に出逢います。講演で感動したり、研究授業で非常にうまい説明で子どもたちを惹きつけるのに感心したり……そうした経験は皆さんもおもちではないでしょうか。しかし、そうした感動や感心はそのまま放っておいてはいけません。何かそのうまさなのか、しっかりと分析して自分の表現に取り入れるのです。

13.国語科・教室ファシリテーションへのステップ!音読編。完成が近づいてきた。原稿が8割方揃った。そろそろ本気で原稿請求始める時期が来た。原稿って完成が見えてくると、俄然やる気が出る。この本は「研究集団ことのは」の10年振りの国語教育の本になるから尚更だ。でも、これから編集が大変だぞ。

14.スピーチ編と聞き方編も原稿がちらほら集まり始めている。昨日の​例会では作文編のプロットも立った。こういうサークルの共同作業​には、久し振りにわくわく感を抱く。それも10年前の若い頃のわくわく感とはちょっと質の違うわくわく感だ。この違いは何なのだろう。

410i1ybmoml__sl500_aa300_15.only dreaming/V6

なぜかジャニーズでこの曲だけは好きだな。

16.〈情報聴取〉の授業を聞く活動だけで終えてしまっては、その効果は半減してしまいます。必ず再構成して「話す」活動を伴わせなければなりません。いわゆる〈発信型授業〉です。従って、授業づくりにおいては、〈情報聴取〉の〈目的〉を〈発信〉に置くのが基本です。

17.例えば、授業でスピーチ発表会を開催するとします。多くの授業はスピーチ発表会がゴールになっていることが多いようです。しかし、そのスピーチ発表会を通じて、スピーチの工夫点に視点を据えて〈表現情報〉を意識させます。しかも、スピーチ発表会の後には、「良いスピーチとは」というテーマで400字作文を書くというような〈発信〉活動を予め予告しておくのです。子どもたちの中に、一般的なスピーチ評価とはまったく異なった、目的的な聞き方が生まれます。

18.これらの〈表現情報〉を優先順位で整理する、上位のスキルと下位のスキルに階層化してみる、こうした営みを経て〈再構成〉する、こうした単元としての発想が必要です。

19.「第3章 「聞くこと」の20の言語技術」を脱稿。これで「話すこと・聞くこと」の40の言語技術が終わった。この本は3割程度が完成したことになるな。でも、まだ執筆しなければならない言語技術が80もある。まだまだ先は長い。でも、来春には出せそうな感じになってきた。美南ちゃん効果だな。やっぱり持つべきものは原稿を優しく請求してくれる編集者だな。

20.それにしても、この本は、我ながらすごい本になるなあ。少なくとも実践者で国語学力を整理しようという壮大な思いつきを形にした人は、国語教育史上皆無なんじゃないかな。まったく売れないだろうし、あれが足りないこれが足りないという書評も出るかもしれないが、この志だけは評価されるだろう。

21.この本が出たら、また、宇佐美先生とか、大内先生とか、俊三先生とか、鶴田先生とか、野口先生とか、阿部先生とか、小森先生とか、渋谷先生とか、須貝先生とか……数え切れないお世話になった先生方とまた飲みたいな、と思う。思えば、僕はなんて幸せな三十代を過ごしたのだろうと実感させられる。

22.一般にはあまり意識されていないことですが、すべての表現には〈主材〉と〈主想〉があります。例えば、次の例を見てみましょう。

  【例文】 オレ、めっちゃ忙しくてさ~、夕方から家庭教師だろ? その後は皿洗いのバイト。2時までだよ。でも、朝9時にはきっちり講義には出てるよ。だって、学生の本分は勉強だろ?

この例の〈主材〉、つまり、この話の主たる題材となっているモノ・コトは、「自分は忙しい」ということであり、その忙しさを構成しているアルバイトや講義です。しかし、この話の〈主想〉、つまり、何のためにこの話をしているのかという思想は、「オレってエラいでしょ?」なのです。「オレはエラい」と直接言ったのでは聞き手に引かれてしまうという思いが、こうした忙しさを題材として語っているわけですね。〈主材〉と〈主想〉にはこのような関係があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』目次

まえがき

第Ⅰ章 時代の変容と学校行事

1.行事指導が難しくなった
2.演劇・合唱は終焉に向かっている
3.演劇・合唱の指導力がこれまで以上に必要になる
4.価値を語り、技術を身につける

第Ⅱ章 合唱コンクール指導の30日間システム

Ⅰ 合唱コンクールに臨む心構え
1.合唱コンクールがコンクールであることを意識する
2.学級担任のやる気が生徒のやる気を左右する
3.各パートの音、曲想まで頭に入っている定番曲をもつ

Ⅱ 合唱コンクールの選曲
1.合唱コンクールは選曲で半分が決まってしまう
2.ユニゾンから入る曲を選ぶ
3.発達段階に応じてユニゾンを応用していく
4.発声練習箇所のある曲を選ぶ
5.強弱のはっきりした箇所のある曲を選ぶ
6.発達段階に合った歌詞の曲を選ぶ
7.得意分野では自分なりに工夫する
8.学級の実態に合った曲を選ぶ

Ⅲ 合唱コンクール練習以前の準備
1.年度当初に学級の実態を把握する
2.一歩リードする雰囲気をつくる
3.担任の得意な曲を選ぶ
4.指揮者は個人能力の発揮よりも成長機会であると心得る
5.伴奏者は二番手ピアニストをあてる
6.パートリーダーは二人ずつ選出する
7.決意の表情とポーズを決めて学級写真を撮る
8.個人用楽譜は丁寧に製本する
9.夏休み前に個人CDを配付する
10.夏休み前に副担任の協力を仰いでおく

Ⅳ 合唱コンクール練習週間の第1週
1.2学期始業式に1学期末の空気を想い出させる
2.音楽の時間に担任もいっしょに参加する
3.最初に全パートをあわせてみる
4.毎日、最後に全体合唱をしてビデオ撮影する
5.練習1日目でパート練習の基本パターンを確立する
6.歌詞のイメージから強弱をつけて音を取る
7.ビデオ撮影は次の日への仕掛けである
8.初日から飛ばしすぎない
9.声量を上げる

Ⅴ 合唱コンクール練習週間の第2~3週
1.生徒の耳を鍛える
2.歌詞をはっきり歌わせる
3.鼻濁音をつくる
4.曲想をつける
5.最後には音楽の先生を頼る

Ⅵ 合唱コンクール練習週間の第4週・当日
1.合唱曲に対する気持ちをあらためてつくる
2.課題をもって歌い込む
3.学級別交流会の体験を積む
4.本番当日に少しだけテンポを上げる
5.直前ミーティングは静かなトーンで行う

第Ⅲ章 ステージ発表指導の30日間システム

Ⅰ ユニット型ステージの構成法
1.ステージ発表は花形である
2.演劇型ステージには二つのデメリットがある
3.二つのデメリットには理由がある
4.ユニット型ステージ発表のすすめ
5.全体としてポジティヴな雰囲気を醸成する
6.大規模なユニット型ステージは学年発表で行う
7.一つのユニットを4分程度におさめる
8.生徒のタイプによってユニット構成を考える
9.1秒たりとも「無駄な間」をつくらない

Ⅱ 演劇型ステージの構成法
1.演劇とは主人公の成長物語である
2.トリック・スターを印象的に描く
3.脇役が主人公の価値を決める
4.登場人物の特徴を具体的に把握する
5.物語の全体構造を具体的に把握する
6.場面には重要度の違いがあり優先順位の違いがある
7.オープニングを派手につくる
8.トリック・スターの登場を派手に演出する
9.最終場面は感動的に幕を閉じていく
10.大道具はできるだけつくらないことを原則とする

Ⅲ ステージ発表を構成する技術
1.ステージ発表を構成するには5つの観点がある
2.演出に一貫性をもつ
3.会場の空間全体を支配する
4.効果的に場面転換する
5.格好良さとおもしろさを追究しよう
6.できるだけ早く全体像を共有することが成功への近道となる

Ⅳ ステージ発表練習に取り組む30日間
1.子どもたちのアイディアを可能な限り実現する
2.リーダー生徒に音響・照明をあてる
3.演劇型ステージはハイペースでつくっていく
4.30日間をこう組み立てる

あとがき

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月16日(土)

1.kayaDVDシリーズⅢ
第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都
堀 裕嗣・藤原友和
http://sogogakushu.gr.jp/kayaDVD/main.htm

【お知らせ】
DVDをご購入の皆様へ。私にメールをいただければ、このセミナーで用いている教材を添付メールにてお送りします。ファイルは一太郎です。hori-p@nifty.com

2.【拡散希望/定員50/残席36】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は藤原くんにかわって山田洋一さんとの行脚です。
http://kokucheese.com/event/index/34401/

3.【拡散希望/定員50/残席21/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)
http://kokucheese.com/event/index/31411/

4.聞き手の態度として意外と指導されないのが、聞いた話をむやみに他人に漏らさないという、当たり前と言えば当たり前の、それでいて重要なマナーです。教師は子どもたちがよくこの点でトラブルを起こすことに、いやというほど遭遇しています。大人でもよくトラブルになるのは、ご存知のとおりです。

5.生徒指導上の秘密や恋愛話などを教材化して、他人に漏らしても良いことと良くないこととを分けてみる、良くないという場合にはその理由も考えてみる、それを小グループや学級全体で交流してみる、そうした授業が年に数回はあって然るべきと思います。

6.【学級経営の原則】学級組織づくりにおいて私が最も大切するのは「偶然性の排除」です。「誰とでもコミュニケーションを図れる」ことを理想にくじで決める……もちろん、一理あります。しかし、生徒会・行事・授業との連動を考えたとき、やはり優先順位は意図的な組織づくりの方にあると考えています。

7.【生徒指導の原則】生徒指導は予防を基本とします。もちろん予防しきることは不可能ですが、この感覚をもってなされる生徒指導とこの感覚をもたなないでなされる生徒指導には雲泥の差が出ます。学級運営・学年運営・学校運営において、決定的な原則です。

8.生活の中心というか生活の核というか、一日の核が子供たちに何かを教えることである日と、文章を綴ることである日と、活字を読むことである日と、映像を見ることである日と、人に会うことである日と、5種類があります。平日か休日かなんてことは関係ありません。今日は活字を読みます。

9.「仲良く、楽しそうにしている大人が身近にいること」 これにまさる高い教育効果はない。

10.【ファシリテーションの機能】小集団交流は4人が中心です。特に議論を深めるタイプは4人がベストです。逆に、ブレイン・ストーミング的にアイディアを広げるタイプの交流ならば、題材によって6~8人が適しています。

11.【ファシリテーションの機能】教室はハプニングの起こるところです。ファシリテーションの効果の一つにハプニングを誘発するとともに、そのハプニングの自力解決に培うという点が挙げられます。ハプニングを極力排除し、効率化のみを優先しようとする一斉授業とは根幹的な思想が異なります。

12.【ファシリテーションの機能】一斉授業がちゃんとできる人じゃないと、ファシリテーションは機能させられません。ファシリにもここが要所だとキュッと締める箇所があります。要所をとらえた的確な指示、フレームづくりのインストラクション、これらの点は一斉授業の感覚よりむしろ難しいのが現実です。

13.話し手は必ずしもわかりやすい構成で話してくれるとは限りません。しっかりした組み立てを意識してわかりやすく話された話はだれでも理解することができますが、話題があっちに行ったりこっちに行ったりという話し方をする話し手も決して少なくありません。その手の話は理解しづらいものです。

14.しかし、そういうわかりにくい話でも、その話の核心をしっかり理解できる人がいます。このことは、実は聞き手というものが、わかりにくい話の核心を捉えて理解できる者ほど能力が高い、ということを意味してもいるのです。

15.「なんだ、あのわかりにくい話は。どんなに良いことを言っていたとしても、あの話し方じゃだめだ!」と話し手を一方的にばっさり斬る方がいます。しかし、それは自らの聞く力の低さを宣伝しているようなものです。わかりにくいから聞かない、わかりにくいから読まないという態度に成長はありません。

16.【学級経営の原則】学級組織は生徒会組織や行事組織と連動させるのが最も効率的です。教師のためではありません。それを怠ると、生徒たちの負担が重くなるのです。生徒会の委員が学級ではまったく別の仕事をする、そういうことが多すぎます。学級組織は先生のお手伝いのためにあるのではありません。

17.今日の札幌は風が冷たくて、寒いです。朝起きて開けた窓も閉めてしまいました。もうすぐ夏至だというのに、なんということでしょうか。

18.一般的なスピーチ評価表や聞き取りシートは、あくまで「話し方」の評価をさせているのであって、「聞くこと」の評価シートにはなっていません。聞き手の子どもたちによく聞かせよう、子どもたちに聞く力をつけようと思えば、「このスピーチの内容はずばりひと言でいうと何を言いたかったのか」とか「そのために幾つの具体例を挙げていたか。それは何と何か」といったことを書かせるのがふさわしいのです。

19.話し手の話の内容を聞き取るということは、ごくごく簡単にいえば、話を構成する情報をこのような階層意識をもって理解することです。こうした階層意識をもって聞き取ることを一般に「話の中心的な部分と付加的な部分とを聞き分ける」と言います。

20.私が最も影響を受けた先達を一人だけ挙げるとすれば、それは他を圧倒して諏訪哲二である。私は何度か諏訪哲二に会うためだけに上京したことがある。氏は刺激的で、教師という仕事の意味と意義を達観しているようなところがある。それでいて人となりはとてもお茶目な方である。新刊はとても嬉しい。

21.TWITTERで「学級経営の原則」をつぶやいていたら、3匹目のドジョウを思いついた。『必ず成功する「学級経営」魔法の365日チェックリスト』だ。これはちょっと頑張れば書けそうだ。でも、これは3匹目のドジョウなんかじゃないな。「教師力ピラミッド」と並んで、僕の代表作になりそうだ。

22.「教師力ピラミッド」の思想は「一人で抱えるな、みんなでやろう」だ。その裏には「頑張りすぎるな。このままじゃだめだなんて思うな。そのままでいいんだよ」という同僚への思いがある。そして「得意技を発揮すればいいんだ。不得意なところはお互いにカバーし合えばいいんだ」というメッセージがある。

23.中学校ではこれが成立する。これをいかに成立させられるかが、学級経営も生徒指導も機能させるのだ。決して個人技ではない。同調圧力でもない。そのバランスをとるのが主任クラス、管理職の仕事のすべてだと言っても良いほどだ。

24.〈中心と付加〉と並んで、発話内容から聞き分けなければならないとされるのが〈事実と意見〉です。話し手の話を聞くときに、いま話されている内容が話し手の〈意見〉なのか、それとも〈事実〉なのかを聞き分けること重要とされています。

25.しかし、誤解しないでいただきたいのは、世の中には純粋な〈意見〉も純粋な〈事実〉もあり得ないということです。〈どちらかといえば意見に近い発話〉と〈どちらかといえば事実に近い発話〉とがあるだけです。

26.【学級経営の原理】学級経営は相対的に評価されます。ある教師の学級経営が絶対的に良いとか、絶対的に悪いとか、そんな風に断罪されることはまずありません。ただ比べられ、比較されるのです。常に相対評価にさらされるのです。子どもたちも保護者も隣の担任やお兄ちゃんの担任と比べているのです。

27.珈琲が切れたので、気分を変えるために近くのローソンに行きます。運動にはなりません。自宅から約1分です。老夫婦がやっている、とっても良いローソンです。

28.話を構成する情報を階層意識をもって理解すれば、その話を要約して他者に伝えるときにどの段階、どの階層までを取り込んで要約するかということを判断できるようになるのです。つまり、目的に応じて、発話された情報のどこまでを要約に取り込むかを考えて、自分の表現を構築することができるわけです。これを〈発話内容の再構成〉と言います。

29.「聞くこと」に限らず、「読むこと」においても、その発話内容や文章情報を「理解する」ということは、このように目的に応じて臨機応変に〈再構成〉して、他者に伝えられるという状態を指します

Torinouta131030.僕は昔から杉田かおるが好きですが、それは池中玄太のエリちゃん役に依拠しています。「鳥の詩」はその象徴的な曲です。いま聴いてもたまらなく良いです。あの「池中玄太80キロ」のミクちゃん役の子とかヤコちゃん役の子とか、いま何しているんだろう。二人とももう40歳前後になってるはずだよなあ。ミクちゃん役の子なんか、ものすごく綺麗な女性になっているに違いない。思えば、丘みつ子も坂口良子も良い味出してた。宇野重吉とか丹阿弥谷津子とか、名優も脇を固めていたっけ。長門裕之とか三浦洋一とか松尾和子とか、もう亡くなってるんだもんなあ。寂しいなあ。

31.話し手の発話内容から自らに必要な情報のみを取り出して聞くことを〈情報聴取〉と言います。この聞き方は話し手の意図を汲み取ったり、話し手の発話内容をまるごと理解したりするのではなく、聞き手が明確な目的意識をもって、その目的に適った必要情報のみを聞くという聞き方です。

32.日常生活で言えば、電車内で自分に必要な連絡列車の情報のみを聞き取ろうとしたり、ラジオの星占いで自分の星座に関してのみ聞き取ろうとしたり、そんな場面を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。

33.〈情報聴取〉において何よりも大切なのは、〈目的〉を明確に、しかもできるだけ具体的にもつことです。〈目的〉が曖昧だったり抽象的だったりすると、せっかく有益な情報が提示されていたとしても聞き漏らしたり曲解したりする可能性があります。

34.【学級経営の原則】最低限のフレームをつくり、システム化してしまったら、あとは大胆に子どもたちの自由度を高める。それが学級経営のキモです。しかし、この「最低限のフレーム」に担任によって狭い広いがあるのです。教師主導も生徒主導も世の中にはありません。線の引き方の違いに過ぎません。

35.「させる」という語を使うなとか、「指導」という語を使うなとか、そんなものは言葉狩りに過ぎません。本質を見失った、イメージ先行の愚かな自己規制です。

36.8月に行う予定だった学級経営と新教科書教材研究の二つのセミナーを中止した。外向きのセミナーによってもたらされるであろう学びと、自分たちだけの例会での議論によってもたらされるであろう学びとを秤にかけたところ、後者の方が大きいだろうと判断した。だんだん内向きになっていくなあ(笑)。

37.久し振りにサークル活動というものが自分たちの学びのためにあるのだという当たり前のことを象徴する出来事だった。どうやら、これから「研究集団ことのは」も僕も露出が少なくなっていきそうな気配だ。それはある意味では良いことである。じっくり考える時期が近づいてきているということなのだろう。

38.こういう自由度がサークル活動の強みである。誰を気遣う必要もなく、誰に気兼ねする必要もない。僕が教育運動を志したり、サークルの拡大路線をとらないのはそのためだ。僕らは起動力勝負の人間が集まっている。もしかしたら、石川が表に顔を出し始める頃に僕が籠もるかもしれないな(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月15日(金)

1.今日は試験監督が三つ。その後、国語の期末テスト。試験問題はノーミス。子どもたちからの質問もなし。一つだけ出た質問は「大意って何ですか?」という質問。「授業で教えています」と答えて終わり。まあ、ありがちである。13:40で修学旅行の振休。それにしてもずいぶんと休ませてくれるもんだ。おかげで今日も書きたくもない原稿を書いている。

2.どうやら新刊『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』が7月に刊行になるらしい。学校祭指導と合唱コンクール指導が内容だから、編集者が急いでくれたらしい。ありがたいことだ。近日中に二校が届くらしい。でも、これは必要としている教師が限られているからそんなに売れないよ(笑)。

3.さきほど男性から「女子力高ッ」というツイートがあって、違和感を覚えた。男性がこの言葉を使うのを初めて見たからだ。調べてみると、ファッションやメイクにしても立ち居振る舞いにしても、女性から見て美しさとか可愛さとか、要するに好感をもたられるような力を「女子力」ということが多いらしい。

4.ただ、定義は曖昧で、確定していないようだから、男性がファッションやメイクのセンスの良さを指して「女子力」と言葉を使ったとしても、あながち間違いではないようだ。それにしても、自らに潤いのあるイメージを付与して肯定感を抱くためのイメージ語が氾濫している。アラフォーなんて最たるもんだ。

5.まあ、新たなイメージ造語によって、気分良く過ごせるのならそれに越したことはない。基本的には良いことなのだろう。ちょっと前までは、パラサイトシングルみたいに否定的なニュアンスのイメージ造語が多かったわけで、それに比べればずっと良い。

6.僕が中学教師だからかもしれないが、教育系出版社が中学教師の市場に注目し始めているように感じる。これまで教育技術ばかりを題材にした小学校教師向けの本と、少し学術的な匂いも醸した高校教師向けの本しかない傾向があった。中途半端な存在である中学教師はどちらも買わなかったという現実がある。

7.そんなこんなで僕みたいな人間に依頼が来るのだけれど、最近、断り始めた。どうも小学校教師向けの本と同じつくりで中学校向けを書かせようとするのだ。褒めるとか叱るとか、説得するとか、いずれにしても一人の教師が生徒に対応するHOW TOを書かせようとするのだ。中学校の現実と乖離している。

8.『AKB48がヒットした5つの秘密』(角川新書)を読んだ。久し振りに苦しい読書だった。マーケティング理論はよくわかるけれど、そこに挙げられている豊富な具体例において、秋元康以外の一切の顔が浮かばないという読書は、ほとんど何も理解できないのと同じだ。僕は前田敦子の顔さえ知らない。

9.うなずき・あいづち・おどろきを〈傾聴三動作〉と言います。聞き手として話を聞くときに、話し手に話しやすい環境をつくるための三つの動作です。聞くことはよりよい情報を知るために行う「理解行為」 です。とすれば、話し手が気持ちよく話してくれるほど良質な情報を得られることになります。

10.もちろん、〈傾聴三動作〉を子どもたちに学ばせる意義としては、話し手に対する礼儀という観点もあります。特に、目上の人の話を聞くときや、パブリックな場面で話を聞くときには、話し手に対して礼を失することは許されません。

11.会議などにおいて、話したいことを明確にもっている人ほど、他人の話を最後まで聞かなかったり話の途中で人の話を遮って割り込んだりするものです。自己主張をしたいとか、自分の主張の正しさを信じているとか、そういう人に多く見られる傾向です。

12.実は、子どもたちの中にも、もこうした傾向をもつ者が決して少なくありません。人の話にすぐに割り込み、「いまは自分の番ではない」という意識が希薄なのです。コミュニケーションを円滑に進めようとすれば「番意識」、つまり、「いまはだれだれがしゃべる番」という意識が不可欠です。

13.学級組織づくりにおいて私が最も大切するのは「偶然性の排除」です。「誰とでもコミュニケーションを図れる」ことを理想にくじで決める……もちろん、一理あります。しかし、生徒会、行事、授業との連動を考えたとき、やはり優先順位は意図的な組織づくりの方にあると考えているのです。

14.山下くんがまたやらかしたようだ。さっきからスパムの嵐だ。失敗も二度目になると笑えない……。

15.質問というものは、会話をふくらませ、会話に勢いをつけるものです。多くの場合、聞き手の質問がその会話の流れを決めるのです。主導権を握るのは聞き手だと言っても良いかもしれません。

16.ただし、質問は「肯定的な気持ち」から生まれた質問であるという条件があります。「そんなのおもしろい?」「何がしたいの?」 といった否定的な質問では、会話話は途切れてしまいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師の表現

36.毎週月曜日の最初の授業を1時間録音して、そのテープを聞きながら通勤していた時代があります。3年続けました。「ええと」が多い。口癖がうるさい。余計な言葉が多い。無駄な言葉が多い。指導言の言い換えで意味が変わっている。生徒の発言の核心を拾えていない。そんなことにいやというほどに気づかされました。

37.生徒ともPTAとも、出逢いにおいて定番の自己紹介ネタをもつことが大切です。自分を強く印象づけることなしに良い学級経営も良い授業も良いPTA活動もあり得ません。出逢いは楽しく、日常も楽しく、真面目に語るときには心底真面目に……そんな当然のメリハリをつけられない教師が増えています。

38.教師は文体にバリエーションをもつべきです。生徒に届けるために書かれる文章にも幾つかの文体をもつべきです。人の心を打つのは必ずしも美文ではありません。ましてや借り物の四文字熟語や格言などかえって品位を落とします。自分らしさがにじみ出る文章…そのバリエーションをこそもつべきなのです。

39.若いときの文体には自分をよく見せたいという思いがあらわれます。年齢を重ねると、自分をよく見せることよりも、自分の伝えたいことが他人に伝わることの方を重視するようになります。もっと年齢を重ねると、自分の伝えたいことを伝えるよりも、他人の触媒になることを重視するようになります。

40.教師が魂を載せた言葉をしゃべれない、そんな雰囲気が蔓延して何年が経つでしょうか。いくら技術を駆使してみても、最後に説得力をもつのは魂が載っているか否かです。そんなあたりまえの理屈も通用しなくなった感があります。学校教育から言霊が消えてしまったら……そう考えるとゾッとします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師の成長

29.〈スキル〉を学べばいいと若者は思っています。しかし、〈スキル〉が多いほど教師としての力量が上がるわけではありません。〈スキル〉を自分の学級に合わせて修正し、それらの〈スキル〉が一貫性をもって機能するような〈システム〉を構築してこそ力量は高まるのです。

30.もしもあなたが若者で、もしもあなたが日々の仕事におろおろしているならば、その原因は周りにあるのではなく、あなたの心性にこそあります。あなたには若者がもつべき「健全な野心」がないのです。「不健全な野心」は人を堕落させますが、「健全な野心」は人に覇気と可能性をもたらします。

31.若い教師が最初の学級をうまくまとめて、それなりに自信をもってしまったときが一番危ない。自分が人間的に優れているとか自分は感性が鋭い人間であるとか勘違いしてしまう。誤解を怖れずに言えば、若い教師など人間的には下の下の下です。二十代はそのくらいのつもりで生徒の前に立った方が安全です。

32.発展途上の自覚のある先達にこそ学ばねばなりません。直接逢って教えを請わねばなりません。完成されたように見える先達、自分の主張を相対化して話すことのない先達は、その世界では既に終わってしまった先達です。本で読めば充分です。しかし、人は多くの場合、その逆の行動をとってしまいます。

33.教育論に興味を抱いて教師をしているうちはうまくいきません。目の前にいる子どもに興味を抱き、試行錯誤しているうちに教育観が生まれ、やがてそれが自らの教育論になっていくのです。10年間がむしゃらに取り組むとその萌芽が見えてきます。10年の時を経ずに見えてきたものは幻想に過ぎません。

34.経験を重ねるほど主張はシンプルになっていきます。こねくりまわす必要も、裏返す必要もないことに気づいていきます。若い頃は、先達のそのシンプルさが大雑把な主張に見えて、どんどん思考を複雑化させていきますが、先達のシンプルさが複雑な思考のの末に到達したシンプルさであることに気づくのにそれから20年かかります。

35.努力する者だけが教壇に立つべきなのです。自らの成長を怠らない者だけがその資格をもつのです。もっと遠くへ。もっと高みへ。自らの可能性に飢えない者に教壇に立つ資格はありません。もちろん心を病んでまでそうする必要はありませんし、死を考え出したらすぐに逃げるべきです。しかし、それでも命に関わる場合以外は逃げるべきでありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師の職場

17.例えば力量のある教師がものすごい学級経営をしているとします。でも多くの場合、その学級の隣にはその教師と比較されることによって苦しんでいる担任がいるものです。力量のある教師は隣の学級担任が苦しまないように、隣の学級の子どもたちが損したと思わないように配慮する必要があります。

18.何かを思考しようとするとき、何かを議論しようとするとき、「絶対なんてない」という論理は取り敢えず括弧に括らなければなりません。括弧に括って、もっといいものはないか、いま自分が考えているよりも高次の見解はないか、こういう構えで思考したり議論したりしないことにはすべてが現状維持です。

19.生徒指導屋には生徒指導屋の役割があり、担任屋には担任屋の役割があり、研究屋には研究屋の、教務屋には教務屋の、そして行事屋には行事屋の役割があります。もちろん管理職にも管理職の役割があります。これらを有機的に結びつけること。教員再生の道も学校再生の道も、このこと以外にはありません。

20.人材不足を嘆く言葉を見ると哀しくなります。ぼくは自分の地域にも自分の学校にも人材きら星のごとくに見えます。ないのはそれぞれの能力とか資質をつなげ、有機的に機能させるようなシステムだと感じています。教育の現場は能力や資質はもちろん、どんな小さな趣味でも嗜 好でも活かせる場所です。

21.職員会議は何が正しいかではなく、だれが言ったかで決まります。その意味で、職員室でまず目指すべきは「あの人がいうなら仕方ない」と思ってもらえるような人間として認めてもらうことになります。良いか悪いかは別としてこれが真実です。「うちの先生方は……」と嘆く方にはいつもこう言います。

22.その人が好きでも嫌いでも、その人を買おうが買うまいが、「あなたを信じておまかせします」と言えばいいのです。「まかせる」と言われたとき、それが人間がもっとも力を発揮するときです。ネガティヴな感情も関係も好転してきます。おまかせします……なんと美しく、おくゆかしいことばなのでしょう。

23.結局、人は楽しい雰囲気の中にいる時に最も成長するのだと実感させられます。大人も子供も楽しいからこそ、高いハードルにも挑戦しようと思うのです。生徒を見ても若手教師を見ていてもこれを実感します。自らの中で楽しさと成長とが融合された瞬間を実感したとき、人はそ れを「充実」と呼びます。

24.教師は、若いうちから一国一城の主になれるまれな職業です。その分、一人で突っ走り、若いうちから自分はいっぱしの者だと勘違いしやすい職業でもあります。教師の成長には、その勘違いを謙虚に戒めて成長する場合と、その勘違いに実質を伴わせて勘違いではなくする場合と、二つあるように思います。

25.指導力不足教員は本当に学校から廃絶した方が良いのか。指導力不足とは相対的なものではないでしょうか。指導力不足教員を100人排除したら、101番目から200番目までが新たな指導力不足教員にならないでしょうか。100人排除したら、次はあなたの番、そしてぼくの番なのではないでしょうか。

26.頑張らなきゃならないけれど、頑張りすぎてはいけない。自分で限界をつくっちゃいけないけれど、決して無限だと思ってはならない。みんなこんなあたり前のことを忘れがちになる。視野狭窄に陥る。みんな完璧じゃないけれど可能性はある。「完璧じゃない」も「可能性がある」もともに忘れてはならない。

27.誤解を怖れずに言えば、仕事なんてなんとでもなるのです。あなたが一日くらい休んだところで、あなたが突如入院したところで、あなたが心の病で休職したところで、だれかがなんとかしてくれます。強迫観念で働くことをやめて、もっとおおらかに働きましょう。日本人にはこのくらいの気持ちが必要です。

28.師をもつ。あなたは師をもっているでしょうか。教師として子どもたちの前に立っているというのに、自らは学生時代に習ったことなど役に立たないなどと嘆いてはいないでしょうか。私は二十数年の実践研究生活で確信しています。良き実践者は必ず良き師をもっているというテーゼを信じて疑いません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師の姿勢

7.「教える-学ぶ」関係が崩れている現在、教師は子どもに嫌われてはいけません。現在、生徒に嫌われないということが、すべての教育活動を推進していくうえでの前提になっています。生徒に嫌われてしまうと、「指導者」としても「評価者」としてもその資格を問われる時代になってきています。

8.「怒鳴る教師」になってはいけません。怒鳴ることに頼り始めると教師はみるみる堕落していきます。怒鳴ることなく同じ効果をあげられる手法がないかと考え続けること。それを一つ一つためすこと。そのスキルを一つ一つ整理していくこと。この3つが大切です。怒鳴ることに頼って楽をしてはいけません。

9.重要なのは、何事も適切な距離を意識して臨まなければうまくは運ばない、ということです。人間関係の悩みは、そのほとんどがそうした距離感の調整がうまくいかないが故に生じます。そういうことを、なかなか教えてもらえないのが世の中です。生徒とも、保護者とも、同僚とも、適度な距離が必要です。

10.教育の神髄は続けること。若いうちはあれもこれもと喰いついて良いけれど、「ああ、これだな」っていう手法をみつけたら、うまくいかなくても失敗しても苦しくても、取り敢えず続けてみること。少しずつ子どもたちにもその意味と効果が実感されるようになっていきます。残念ながら、その前に諦めてやめてしまうことが多いのが現実です。

11.教師は結果を出すことにもう少し貪欲になるべきです。結果を出すためには粛々とこなさなければならない現実的な現実が当然出てきます。現実を避けて結果が出ないと悩む自分に酔っている、或い自分は正しいはずなのに周りの理解が得られない愚痴る、教師の世界には、そんな独善や責任転嫁が多く見られる現実があります。

12.私は、人は「自分に何ができるか」ではなく「自分には何ができないか」を最初に考えるべきだと思っています。できないことをやろうとしてそれがうまくいかないと、かえってやらなかったときよりも他人を傷つけることがあります。できないことに取り組み始めないことも重要なのです。

13.教室はハプニングの起こるところです。ハプニング性にこそ本質があります。教育技術や授業技術はハプニングを極力排除しようという提案でした。しかしそれは背理なのです。そんな発想一辺倒では教室は活力を失ってしまいます。そこでどうバランスをとるかが問われます。そこに教師の個性が表れます。

14.一斉授業の教師の言葉はすべてが〈迎えに行く言葉〉でした。おいで、こっちにおいで、そういう言葉です。〈迎えに行く言葉〉ではなく、子どもに〈したたり落ちる言葉〉や〈あふれ出る言葉〉を求めると授業も生徒指導も変わります。そのときに教師に必要になるのは〈待つ言葉〉と〈戯れる言葉〉です。

15.言葉が不意にしたたり落ちる。カウンセリングが目指すのがこれです。言葉が不意にあふれ出る。ファシリテーションが目指すのがこれです。「したたり落ちる」「あふれ出る」に惹きつけられてはいけません。肝心なのは「不意に」なのです。「不意に」をいかにつくるかに焦点を合わせましょう。

16.支援を要する子と関わっていて思うのは、教師の「教え方」以上に「在り方」のほうを圧倒的に問われているということ。この認識に立つと、支援を要しない子にとっても「在り方」のほうが重要だとわかってきます。ここまで来ると、支援を要する子と要しない子という境界のナンセンス性に気づくようになります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師の資質

1.教師に必要な資質。1.いつも笑顔でいること。2.孤独に耐える力をもつこと。3. 無駄とわかっていることに取り組めること。4.子どもといっしょに馬鹿げたことを一生懸命にやるのを楽しめること。5.いつでも変われること。今を壊し、新しい自分になることを怖れないこと。

2.教師にとって最も必要な資質……。それは「いつも笑っていること」です。これを基準に自分の教師生活を振り返ってみることが必要です。そうするとすべきことが見えてきて、すべきでないことも見えてきます。やらなければならないことが見えてきて、やりたいことの優先順位も見えてくるようになります。

3.教師に必要な資質……。 孤独に耐える力をもつこと。教師の仕事の第一は生徒と良好な関係を築くことではありません。彼らを正しい道へと導くことです。そして第二に、自分の判断した正しさが本当に正しいかを常に疑い続けることです。それが結果として生徒との良好な関係を築くことにつながるのです。

4.教師に必要な資質。無駄とわかっていることに取り組めること。教師は人間相手の商売ですから、常に成果が上がるわけではありません。すぐに効果があらわれることなど皆無です。しかし、それを続けるということでしか、成果が上がることはないのです。「それでもやる…」 教師の仕事はその連続です。

5.教師に必要な資質。子どもと一緒に馬鹿げたことに一生懸命取り組めること。そしてそれを楽しめること。人は一緒に笑った分だけ人間関係を築くことができます。子どもたちとの関係も同じです。行事やレクだけでなく日常会話でも子どもたちとともに楽しむ姿勢が必要です。できれば、PTAとも。

6.教師は何より変化を恐れます。変化しないことが最も楽で安全で安心だからです。でも、〈変化からの逃避〉は、実は〈成長から遁走〉を意味しています。変化のないところに成長などあり得ないからです。そして変化しないこと、成長しないことは子どもたちの前に立つ資格を問われるほどの重大事なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

〈物語消費〉としての法則化運動・3

この「物語消費論」の構造は、アニメ業界で既に80年代前半に大ヒットを飛ばしていた。例えば、「北斗の拳」や「機動戦士ガンダム」である。

「北斗の拳」は、拳が敵を倒すたびに新たな敵(拳の使い手)を紹介され、その敵に挑むという構成を取り続ける。しかも、新たな強い敵になればなるほど、拳の知りたがっている謎(=世界観)により近づいていく、という構造をもっている。子ども達、いや、大人までもが「北斗の拳」に熱狂したのは、キャラクターの美しさや拳のヒロイズムばかりではない。謎だった世界観が少しずつ明らかになっていく、その構造こそが牽引力として機能していたのである。

一方の「機動戦士ガンダム」はもう少し複雑である。私は「機動戦士ガンダム」を見たことがないので、詳しいことがわからないのだが、大塚によれば、「ガンダム」の一話ないし一シリーズのアニメは、「ビックリマンチョコ」のシールに相当する、断片的な商品に過ぎない。

この一話ないしは一シリーズでは、アムロなりシャアなりのキャラクターを主人公とした表向きの物語が描かれている。一般の視聴者はこの〈表向きの物語〉のみを見ている。ところがアニメの作り手は、こうした一回性の物語のみを作っているわけではない。「ガンダム」なら主人公たちの生きている時代、場所、国家間の関係、歴史、生活風俗、登場人物それぞれの個人史、彼らの人間関係の秩序、あるいはロボットにしても、そのデザインなり機能をこの時代の科学力にてらしあわせた場合の整合性、といった一話分のエピソードの中では直接的に描かれない細かな〈設定〉が無数に用意されているのが常なのだ。この〈設定〉が多ければ多いほど、一話分のドラマは受け手にとってリアルなものとして感知される。そしてこれらの一つ一つの〈設定〉は全体として大きな秩序、統一体を作り上げていることが理想であり、〈設定〉が積分された一つの全体を〈世界観〉とアニメメーションの分野では呼びならわしている。

これが明らかに、「ビックリマンチョコ」と同じ構造をもっていることはおわかりだろう。「機動戦士ガンダム」は、当時の子ども達にとって、〈表向きの物語〉のみならず、その裏に隠されている「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を統合していこうとする意欲こそが、アニメーションに熱狂する牽引力となっていたのである。

しかし、これだけのことならば、さして特筆すべきことではない。近代日本に成立した「私小説」の伝統は、個人体験の一つ一つから「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を見ようとしたのであり、無数の「私小説」を読み続けた読者達は、新たな作品を読むことによって、また一つ〈世界観〉に近づくことができたという満足感を得ていたはずである。日本の近代文学はこの構造を基本としていたのであり、むしろ、「私小説」的手法に対抗して、ただ一つの〈世界観〉を捏造し、そのバリエーションとして作品を描き、読み続けた「団塊の世代」こそが特異な存在であったのだとも言える。

しかし、「ビックリマンチョコ」や「機動戦士ガンダム」は、この「私小説」的伝統とも一線を画す。読者のみなさんは想い出さないだろうか。「ビックリマンチョコ」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを、教室で脇目もふらずにデザインする男の子達の姿を。また、「機動戦士ガンダム」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを熱狂的にデザインし続ける、「おたく」と呼ばれた同級生達を。彼らは決して、単にオリジナルのキャラクターを創造していたわけではない。「ビックリマンシール」から、或いは「機動戦士ガンダム」から〈世界観〉を読み取った者達が、自らその〈世界観〉を構成する新たなキャラクターを模倣的に創造していたのだ。

それはこういうことだ。「ビックリマンシール」の772のキャラクターすべてを集めてしまった子ども達は、「ビックリマン」が提供する「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)をすべて把握してしまう。その〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達にとって、772二枚に及ぶ個々の「ビックリマンシール」は、〈世界観〉と整合する七七二の小さな小さなドラマに過ぎなくなる。つまり、〈世界観〉を構成する極々小規模な要素に過ぎなくなり、「〈大きな物語〉の全体像」即ち〈世界観〉を追い求めて、次々とシールを購入していた時代と比べて、その価値は相対的に低くなってしまうわけだ。相対的に低くなるというよりは、もはやどん底に近づくといった方が当たっているかも知れない。

そうした場合、新たな〈世界観〉を提供する「ビックリマンシールⅡ」が出れば良いのだが、772ものキャラクターが、一つの〈世界観〉をもって、ネットワークを結んでいる商品を、メーカーもそう簡単にはつくることができない。そこで、この「ビックリマン」の〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達が始めたことが、その〈世界観〉に整合する773人目のキャラクターを自ら創造することだったのである。そして、その773人目のキャラクターが774人目のキャラクターを呼び、そこにキャラクター相互の関係(抗争だの裏切りだの)が生まれていく。また、その関係を解決すべきキャラクターとして775人目のキャォラクターが必要となる。そうすると、ここに新たな「小さな物語」が出来上がる。しかもそれは、「ビックリマンシール」が提供した「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)と密接な関係性を保持するとともに、完全な整合を得ている。こうなると、これらの模倣的創造品が「偽物」とは言い切れなくなりはしないか。あの子ども達や同級生達の熱狂ぶりは、まさに商品開発に参画しているという主体意識だったのである。

さて、ここで再び、「教育技術の法則化運動」の運動方針1・2を見てみよう。

1 この運動は、20世紀教育技術・方法の集大成を目的とする。

「集める」「検討する」「追試する」「修正する」「広める」(以上まとめて法則化とよぶ)ための諸活動を行う。

2 運動の基本理念は次の四つである。

①教育技術はさまざまである。できるだけ多くの方法をとりあげる。(多様性の原則)

②完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原   則)

③主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)

④多くの技術から、自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)

「教育技術の法則化運動」に参加する教師は、まず運動内部の実践報告を「集める」。それを次々に「追試する」ことによって、自らの実践として位置づけていく。こうした中で、それぞれの実践報告同士の関連について思考し、場合によっては「修正する」。こうした営みを続けながら、全国で次々に開発されていく新たな実践報告の集積・追試・修正を繰り返していく。これら一つ一つが、強大なネットワークを形成していく。

おそらくこの営みの原動力となったのは、当初は〈大きな物語〉(=〈世界観〉)に到達したいとの欲望であり、自らが実践を開発するようになってからは、〈大きな物語〉(=〈世界観〉)と密接な関係性をもつとともに完全なる整合を示している、自分自身の〈小さな物語〉の創作だったのである。「法則化運動」に参加する教師たちのメンタリティは、おそらくは、独自のキャラクターデザインに熱狂するあの子ども達と同様のものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

〈物語消費〉としての法則化運動・2

「教育技術の法則化運動」は〈物語消費〉論(大塚英志・角川文庫・1989年)の教育運動としての具現化であったというのが、私の持論である。

今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての〈物〉ではなく、記号としての〈モノ〉を消費しているのだというボードリヤールの主張は、80年代末の日本を生きるぼくたちにとっては明らかに生活実感となっている。ぼくたちは目の前に存在する〈モノ〉が記号としてのみ存在し、それ以外の価値を持つことがありえないという事態に対し充分自覚的であり、むしろ〈モノ〉に使用価値を求めることの方が奇異な行動でさえあるという感覚を抱きつつある。(「物語消費論」大塚英志・角川文庫・1989年)

大塚はこうした時代認識から、かの「ビックリマンチョコレート」を時代のエポックとして捉え、自身の1980年代論の象徴的題材として論述する。

‎1987年から88年にかけて子どもたちの間で爆発的に大流行し、市場を席巻した「ビックリマンチョコレート」は、それまでの菓子商品の常識を覆した。それは一言でいえば、チョコレートという商品本体とシールというおまけが逆転しているからである。

それまでも、グリコのキャラメルをはじめとして、おまけつきの菓子商品は決して少なくはなかった。しかし、「ビックリマンチョコ」は二つの意味において、それまでのおまけ付き菓子商品と一線を画していたのである。

第一に、先にも述べたように、商品とおまけとの逆転である。グリコのキャラメルは、「一粒三百メートル」というキャッチコピーに象徴されるように、あくまでも商品本体はキャラメルであった。もしも商品本体がおまけならば、キャッチコピーはおまけに関するフレーズで構成されていたはずである。

キョロちゃんでお馴染みの「チョコボール」は、「金のエンゼル」「銀のエンゼル」によって「おもちゃの缶詰」が当たるという、特典によって商品本体たるチョコレートを売ろうとする企業戦略であった。

このように、それまでの菓子メーカーは、あくまでもおまけを付属品の特典として考えていたのである。

しかし、「ビックリマンチョコ」は異なる。商品本体は、あくまでもシールである。メーカーはあくまでシールで売り上げの拡大を図ったのである。たまたまこれを商品化したメーカーがお菓子メーカーであったために、お菓子の流通ルートに載せざるを得なかったに過ぎない。

その結果、「ビックリマンチョコ」を購入した子どもたちは、意識としてはあくまでもシールを買っていたのであり、付属品のチョコレートは惜しげもなく捨てられるという逆転現象が起こったのである。

第二に、「ビックリマンシール」が既成のキャラクター商品によって付加価値を付けるのではなく、メーカーが開発したオリジナルのキャラクターであった、という点である。

それまでにも、商品たるお菓子が捨てられ、おまけだけが必要とされた商品は確かにあった。例えば、「仮面ライダースナック」や「プロ野球スナック」である。あの「仮面ライダーカード」や「プロ野球カード」を付けたヒット商品である。

しかし、これらは「仮面ライダー」にしても「プロ野球選手」にしても、あくまでも既成のキャラクターをパッケージにあしらい、付属品のおまけとしてカードをつけたものである。それがスナック菓子の付加価値として機能したに過ぎない。

しかし、「ビックリマンシール」は違う。完全にメーカーの開発したオリジナルキャラクターなのである。それまでこうした例は、せいぜいサンリオのキティちゃんがあった程度であり、少なくとも男の子向けの商品としては皆無だったのである。つまり、「ビックリマンシール」は、原作なきキャラクターであったわけだ。

以上、二つの意味で、80年代後半に大ヒットした「ビックリマンチョコレート」は、時代のエポックたるにふさわしい商品だったわけである。加えて、この商品が時代のエポックとして象徴的であるのは、次のような商品の構造を持つ点にある。

①シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている。

②この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせてみると、漠然とした〈小さな物語〉─キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の─が見えてくる。

③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。

④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話的叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。

⑤消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする。

こうしたキャラクターシールは、大塚によれば全部で772枚あったそうである。

子どもたちはコレクションが一枚増えていくごとに、これまでのコレクションによって見えていた〈大きな物語〉を適宜修正し、「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)に近づいていく。そしてまた一歩近づきたいがために、また新たに「ビックリマンチョコ」を幾つも買う。さらに購買意欲がそそられる。

「ビックリマンチョコレート」には、まさにこうした構造があったのである。

子どもたちがこぞって買っていたのは、チョコレートでもなければキャラクターシールでもない。実はキャラクター解説が少しずつ明らかにしていく〈大きな物語〉であった。こうした構造を大塚英志は、「物語消費論」と名付けたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

〈物語消費〉としての法則化運動・1

「教育技術の法則化運動」とは何だったのか。私は昭和41年生まれだが、我々の世代の教師人生は「法則化」以後の教師人生である。教師になった頃には、教育雑誌には「法則化」支持者が目白押し、既に学校に来る研究会案内の何割かは「法則化」がらみのものであった。

思えば、「教育技術の法則化運動」は、向山洋一率いる「法則化運動」と、その後の「TOSS」のみで語ることはできない。例えば、「授業づくりネットワーク」「でき学セミナー」「道徳教育改革集団」「日本教育再興連盟」などなど、「法則化運動」がなければ生まれていないであろう教育運動は数多い。

この3月まで私が代表を務めていた「教師力BRUSH-UPセミナー」も、決してその流れから自由ではない。80年代から90年代にかけての「法則化運動」による教育界の席巻がなければ、まず間違いなく生まれていない運動体の一つである。その意味では、これら後発の教育運動は、巨視的に見れば「法則化運動」の分派に過ぎない。

もちろん、「教授学研究の会」や「文芸研」「全生研」といった運動がなければ、「法則化運動」もまた生まれていなかったという物言いはあり得る。その意味で、教育運動が通時的な連続性をもつことなど当たり前ではないか、と。しかしそれは、半分当たっているが半分は間違っている、そう私には思える。

「法則化運動」は通時的に見ても明らかなエポックなのである。それは、その実現性がどのくらいあったかはともかくとして、運動参加者に「自分も向山になれるかもしれない」という夢を見させたことである。少なくともそれまで、教育運動に参加する者は、自分も「齋藤喜博になれる」とか「西郷竹彦になれる」とか「大西忠治になれる」とか考えて教育運動に参加したのではなかったのである。

数年前のことである。函館市において、ある学習会が開かれた折、その学習会の中に興味深い企画があった。函館学習会の事務局メンバーが「ミニネタ」と題した教育技術シート(A4判1枚)を作成し、それを2~3分で提案、それを参加者の討議で検討するというものである。

興味深かったのは、彼らがこれを、「教育技術の収集」であり、「書くこと(研究記録を綴ること)の訓練」である、と捉えていたことだった。しかも、力量のない教師たちが参加しやすいようにと、ハードルを極端に低くしてA4判1枚に規模を設定したのだと言うのである。

私は「ああ、この試みは、かつての法則化運動の骨格だけでできているな」と感じた。厳しい物言いになるが、「法則化運動の立ち上げを知らない新世代の、良心的ではあるが機能性のない、従って現実性のない、自己満足だけがここにあるな」と。

‎50歳以上の世代には自明のことなのだが、若い読者も多いと思われるので、まずはここに、「法則化運動」のかつての運動方針を挙げておこう。

1 この運動は、20世紀教育技術・方法の集大成を目的とする。
「集める」「検討する」「追試する」「修正する」「広める」(以上まとめて法則化とよぶ)ための諸活動を行う。
2 運動の基本理念は次の四つである。 
①教育技術はさまざまである。できるだけ多くの方法をとりあげる。(多様性の原則)
②完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原則)
③主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)
④多くの技術から、自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)
3 目的・理念に賛成する人は、事務局に連絡して支部・サークルを結成できる。支部・サークルは定期的な研究会などの活動を行う
4 事務局は、支部・サークルに対して「定期的な情報」「企画の優先案内」「資料等の斡旋」等の活動をする。活動資金は、事務局の諸活動の中からつくり出す。当分の間、京浜教育サークルが事務局を担当する。
5 事務局と支部とは対等の関係にある。支部はその責任においていかなる企画を実施することもできる。また諸活動に対する賛成・反対・拒否・無視は何人も自由である。
6 この運動は次のとき解散する。
①目的を達成したとき。(日本教育技術・方法体系の完成、コンピュータ検索システムの完成、追加・修正システムの完成等)
②事務局を担当する支部・サークルがなくなったとき。
③21世紀になったとき。
実は、函館学習会の「ミニネタシート」は、ここで言う運動基本理念の③「実証性の原則」が希薄であった。ちょっとしたアイディアを集積することによって、自分たちの日常の仕事が楽になり、ちょっとだけ機能的になるのでは、そんな〈癒し〉の思想にささえられているように私には見えたのである。
私は「法則化運動」の運動理念ほど素晴らしい運動方針を見たことがない。それはもはや美しくさえある。このとおりに運動が行われていればどれだけ日本の教育に貢献しただろうかと夢想する。
しかし、「法則化運動」を意固地にさせ、この理念の実現に向けて運動を展開させなかったのは、この素晴らしさを理解せず、イメージだけで差別し、「法則化運動」を抹殺せんとしたかつての民教と地域の行政によるノイズであったことも記しておかなければならない。
そういう時代だったのである。「法則化運動」だけが悪いのでもないし、民教や地域行政だけが悪いのではない。私は「遅れた来た青年教師」だったので、一度も「法則化運動」に与したことはない。しかし、やはりこの運動理念は美しいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月14日(木)

1.今日は午前中が健診で義務免。午後は修学旅行の振休という一日です。学校では期末テストの1日目で、生徒たちがヒーヒー言ってるはずです。僕はバリウムで調子の悪いお腹をさすりながら、ゆっくりと休んでいます。これからマッサージに行きます。

2.【拡散希望/定員50/残席37】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は藤原くんにかわって山田洋一さんとの行脚です。
http://kokucheese.com/event/index/34401/

3.【拡散希望/定員50/残席21/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)
http://kokucheese.com/event/index/31411/

4.修学旅行から帰還して1週間。やっと疲れがとれてきた。次に行くときには2週間かかるかな?まいったなあ。

5.どうやら今週末に「研究集団ことのは」の例会があるらしい。みんな原稿もできていないのに、どんな顔で参加するんだろう。とても楽しみでもあり、怖くもあり。そんなに原稿って書けないんかなあ。書き出さないから書けないんだよな。書き出しさえすれば、出来上がるもんなのに。あれこれ考えてるからダメなんだ。見る前に跳べ!だよな。

6.本っていうのは、ワンコンテンツで書くのが書いていても楽しいものだ。それも初めてまとめるコンテンツは特に楽しい。「学級開き」本とか「行事指導」本ってのは、書いていてとても楽しかった。もう一つ楽しいのは、編集者が僕が予想もしないような企画をもってきたとき。これもワクワ感がある。

7.今日は14日かぁ。1ヶ月後にはこの執筆生活から脱して、週末が全部セミナーという生活に突入してるんだなあ。どちらが良いのか、わかんないなあ。そういや、こういう生活から脱するために教師力BRUSH-UPセミナーの代表を降りたんじゃなかったっけ……(笑)。

8.怒鳴る教師になってはいけないけれど、一度怒鳴られた方がいいんじゃない?って教師はいっぱいいる。きっと僕もその一人(笑)。

9.「書籍原稿」というフォルダを整理した。これまでこのフォルダを開くと、仮の書名がわんさと並んでいた。それを「既刊書籍」「脱稿済み」「現在進行中」「10原理・100原則シリーズ」「企画進行中」「その他の依頼原稿」の6つのフォルダに整理した。これで書名の威圧感から解放される(笑)。

10.これで毎日、「現在進行中」っていうフォルダだけ相手にすれば良いわけだ。いつ書けるかわからない本のタイトルに威圧されることもない。ホッとした。きっと僕の性格から言ってサボり始めるな。それも良い。それにしても、フォルダの整理ってなんて簡単なんだろう。これで気持ちが軽くなるなら最高だ。

11.昼間に寝たせいで眠れない。かと言ってこのまま起きていては明日がつらい。明日は試験監督が三つに、採点が6クラス分。どう考えても眠らなければならない。どうしよう……。取り敢えず、音楽でも聴くか。

12.一般に、そろそろ教師が生徒との関係がうまくいかないことに悩む時期にさしかかっています。こういう時期こそ、原点にかえって、印象で説諭せずに、指導事案はすべて事実確認を怠らずにあたる、そういう姿勢が大切です。生徒がだれてきている以上に、教師が今年度に慣れてしまっていることが問題です。6月に気を引き締められるか……1年を過ごす上で、かなり重要な時期です。

13.1学期の終わりが見えて来始めていますが、あとはテストに評定……などと考えてはいけません。1学期にはもうひと山もふた山もあります。7月は忙しい月ですが、何かひとつ目標を立てることが必要です。できれば、教師と生徒がいっしょに楽しめる何かが。中体連と懇談だけでは引っ張っていけません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月13日(水)

1.「話すこと・聞くこと」領域は基本的に、次の三つに分類できます。①独話/1対多の一方的なコミュニケーション、②対話/1対1の双方向的なコミュニケーション)、③会話/1対小数の双方向的なコミュニケーションの三つです。

2.①独話は講演・講話・演説・スピーチ・プレゼテーションなど、②対話は問答・質疑応答・面接・インタビューなど、③会話は話し合い・座談会・討議・討論などです。パネルやディベート、シンポジウムなども会話の一種です。また、電話のようにその機能自体が必然的に対話を促すツールもあります。

3.私はこの三つのコミュニケーション形態を、授業においては使い分けています。即ち、対話は1対1で話しやすいので意欲の喚起に、独話は自分自身ですべての責任を負わなければならないので言語技術の指導に、そして会話は様々な視点で意見交流ができるので思考を促すときに、というようにです。これが基本だと思っています。もちろん、これらを組み合わせての応用編というのもありますが。

4.私は「言語技術」の指導には「独話」が向いていると考えていますから、基本的に私の「話すこと」の言語技術のほとんどは「独話」が想定されています。私の提案しているのは、次のような5系列20の技術です。

5.【基礎系列】…「話すこと」において前提となる基礎的な技術・態度/姿勢・呼吸・発声・口形

6. 【抑揚系列】…話を一本調子にしないために、声や速度に変化をつけて話す技術/声量の大小・速度の緩急・声音の高低・適切な間

7. 【構成系列】…話をわかりやすくするために、話題を提示する順番を組み立てて話す技術/IBC・ナンバリング・ラベリング・オリエンテーション

8. 【叙述系列】…話のディテール(細部)を豊かにして、話の説得力を高める技術/エピソード・データ・オブジェクション・ツール

9. 【聴衆系列】…話し手と聞き手との心理的な距離を近づけて、聞き手に聞く構えをもたせる技術/アイコンタクト・ジェスチャー・ダイアログ・ユーモア

10.授業づくりには領域別にこうした原理・原則があります。しかし、そうした原理・原則を勉強することなく、考えることもなく、曖昧なままに感覚的に授業づくりをしている教師が多いのです。

11.原理・原則は多くの場合、諸派によって違いがありません。授業づくりの歴史を繙いてみると、大村はまと斉藤喜博と向山洋一が同じことを言っているという例が数多あります。その意味で、勉強したいと思うならば、運動論イメージによる差別は頭の中から払拭しなければなりません。

12.〈洞察力〉は一般に、冷徹な目で物事を見抜いたり、先を見通したりする眼力のことです。

13.子どもを見る目にしても同僚を見る目にしても、教師には「温かい眼差し」が必要と言われます。子どもたちが何かトラブルを起こしたときに冷徹な目で叱りつけるだけとか、「どうしてあんな子がいるのかしら」と投げ出してしまうとか、そんなことをしてはいけません。また、いっしょに仕事をしていくうえで、「あの先生は○○だからしょうがない」というレッテルを貼ることは人間関係をギスギスしたものにしてしまい、仕事を停滞させてしまいます。職員室には「協働」の精神が絶対に必要です。

14.しかし、「冷徹な目」で見抜いたり見通したりということが、「温かい眼差し」と矛盾すると考えてはなりません。温かさを実現するために冷徹に接しなければならないとか、温かな眼差しを向けているからこそ、物事を見抜いたり先を見通して仕事をしなければならないとかという場面は多々あります。

15.温かさを温かさだけで発揮しようとしたために、結果的にかえって子どもや同僚を傷つけてしまう……そんな事例がたくさんあります。温かさとか冷たさとかというものは、実は「過程」と「結果」との両方の視点で考える必要があります。「過程」の温かさが「結果」としての冷たさにつながるとか、「過程」として冷たく接したが故に「結果」としての温かさにつながるとか、そういうことがたくさんあるのです。

16.例えば、子どもにちょっとした変化が表れます。良い変化でも悪い変化でも構いません。ふだんは大人しい子が係活動の掲示物づくりでちょっとしたリーダーシップをとっているとか、ある子がいままではなかったのに名札にキラキラ光る小さなシールをつけているとか、そんな些細な変化です。

17.こんなとき、教師は微笑ましく思ったりちょっとだけ気にしたりしますが、特に何も言わず、特に何も行動を起こさないということが少なくありません。しかし、こうしたちょっとした変化をとらえたときに、「三ヶ月後を見通そう」という意識をもてるか否かが、教師の〈洞察力〉のキモなのです。

18.前者であれば、その場で「○○さんは~が得意なんだねえ。良いセンスしてるなあ」と褒め、「たとえば、この場合はどうなの?」と詳しく聞いてコミュニケーションをとります。更に、近いうちにこの子のこの特技を生かせる行事や学級活動場面がないかと、すぐに今後の予定に頭を思い浮かべます。少し無理をしてでも、この子の特技を発揮させる場面をつくろう……そう考えなくてはなりません。

19.後者であれば、いまは名札のシールだけれど、二週間後はどうなるだろうか、一ヶ月後はどうなるだろうか、と考えるべきです。何かお洒落をしたくなる理由ができたのか、友人関係に変化はないか、そうしたことを話せるような場を設定しなければならないのです。

20.kayaDVDシリーズⅢ
第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都
堀 裕嗣・藤原友和
http://sogogakushu.gr.jp/kayaDVD/main.htm

21.仕事上の〈洞察力〉の最たるものは、仕事の〈優先順位〉をとらえられるか否かにあります。

22.一般には、個人的な仕事よりも全体に関わる仕事の方が優先順位が高く、個人で完結する仕事よりも自分が仕事を終えればそれを他の人が引き継ぐというタイプの仕事の方が優先順位が高くなります。簡単に言えば、学年の仕事よりも校務分掌、学級の仕事よりも学年の仕事、そういうことになるわけですね。ただし、命に関わるような生徒指導、子どもや保護者との信頼関係を損ねる怖れのある案件については、全体にかかわる仕事に優先させて構いません。これが原則です。

23.しかし、原則は原則として大切なことですが、仕事の〈優先順位〉というものが刻一刻と変化するものであることも事実です。特に生徒指導や保護者対応は生き物ですから、一時間前なら優先順位が低かったのに、いまこの瞬間には何よりも優先順位が高くなっているとか、昨日なら優先順位が高かったのに、一日遅れてしまったがためにもう様子を見ること以外に手立てがなくなってしまっているとか、そういうことが少なくありません。その瞬間瞬間で的確な判断が必要だとよく言われますが、それはこういう構造に依拠しています。一般に「仕事ができない」と言われる人には、この感覚が欠落しているのです。

24.仕事というものは、オールorナッシングで考えてはいけません。百点の仕事もなければ0点の仕事もないのです。比喩的に言えば、70点の仕事の仕方と60点の仕事の仕方があったら、常に70点の仕事の在り方を選ぶ、しかも、一度その判断を下したらあれこれ迷わずに一心にその方向で取り組む、それがコツです。

25.冷徹な目で〈優先順位〉を推し量り、判断したら大胆に行動する、それが〈洞察〉のもたらす力です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月12日(火)

1.授業は二つ。どちらも期末テストに向けてプリントやワーク。空き時間は期末テストの準備をしたり、学校運営要綱を配付したり。4時間目は修学旅行の解団式。午前授業。午後は我々も振り替え。帰宅。軽い昼食をとり、寝る。仕事をしてみて気づいたが、まったく疲れがとれていない(笑)。こりゃひどい。

2.kayaDVDシリーズⅢ/第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都/堀 裕嗣・藤原友和

3.【拡散希望/定員50/残席38】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は藤原くんにかわって山田洋一さんとの行脚です。
http://kokucheese.com/event/index/34401/

4.【拡散希望/定員50/残席22/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)
http://kokucheese.com/event/index/31411/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月11日(月)

1.それにしても疲れがとれない。年だなあ。今日で修学旅行明けの休みもおしまいなのに。こんなんで、明日、学校に行けるんだろうか。

2.平日なのに、ブログのアクセスカウンターがどんどん上がっていく。みんな勤務時間にブログなんか見てんだなあ。職務専念義務違反じゃないのか?

3.数ヶ月間続いた懸案事項が落ち着くところに落ち着いた。これでこれから数ヶ月の間のやるべきことが定まった感じ。

4.kayaDVDシリーズⅢ/第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都/堀 裕嗣・藤原友和

5.【拡散希望/定員50/残席38】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は藤原くんにかわって山田洋一さんとの行脚です。
http://kokucheese.com/event/index/34401/

6.【拡散希望/定員50/残席22/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)
http://kokucheese.com/event/index/31411/

7.国語の授業の多くがいま一つうまくいかないのは、教師が指導事項の体系をもっていないからです。何を指導するのかを授業者自身がわかっていない、曖昧な状態のままで多くの国語の授業は行われています。

8.算数の繰り上がりをやるときにその指導事項を曖昧なままに授業する先生はいません。理科でも社会でも同様です。しかし、国語の授業では、教師がこれが決定的な解釈だとか、ここではこういう表現を使わせるんだとか、そういうことを意識せずに、活動だけさせている場合が多いのです。

9.「決定的な解釈」という言葉に違和感をもたれる方がいらっしゃるかもしれません。「国語の解釈は多様である」と。しかし、「多様」とは何でもアリを指すのではありません。「妥当な解釈の範囲」というものがあります。その「妥当な範囲」を論拠を立てて説明できない教師が多いのです。それが問題なのです。

10.「話すこと」は発声機能を旨としていますから、合唱や演劇同様、表現者の姿勢が大切です。しかし、「良い姿勢で話しましょう」と言っても、子どもたちには伝わりません。「良い姿勢」の要素を細分化して伝えなければなりません。姿勢や態度の指導は、その要素を細分化して指導するというのが原則です。

11.私の言う「呼吸」はもっと単純です。それは「たっぷりと息を吸い込む」ということです。

12.ある授業でのことです。私がある男子生徒を突然指名したことがありました。「~ってどういう意味なんだろうねえ。はい、敏夫くん!」といった感じです。敏夫くんは即座に「はい」とささやくような声で返事をしました。息を吸わずに返事をしたのです。

13.私はこれを見て合点がいきました。そうか。子どもたちの声が小さいのはちゃんと息を吸っていないからだ、と。皆さんも自分の学級の子どもたちを観察してみてください。きっと同じような例がたくさん見られるはずです。

14.いま、「姿勢」「呼吸」「声音の高低」「IBC」「エピソード」という国語科の五つの指導事項を紹介しました(facebookでのことです)。こんなふうに指導事項が120並んでいる国語科の指導事項の事典が欲しいとは思われないでしょうか。実はいま執筆中です。来春の上梓を予定しています。『義務教育で〈習得〉させたい国語学力~授業づくりの10の原理/120の言語技術』(仮)です。もちろん、全領域をカバーします。かなり値段の高い本になると思いますが、皆さん、買っていただけますか?小学校でも中学校でも高校でも使えるように構成します。

15.すみません。ちょっと手の込んだ宣伝でした。

16.今日、ある出版社からある企画を引き上げました。最近、本を出すことの第一義は売れることではない…という感覚が出版社から消えましたね。少なくとも教育書業界からは消えたように思います。僕が出版社にお世話になり始めた頃には、本にしてもらえるかどうかの一番の基準は提案性だったものですが。

17.まあ、出版不況だから仕方ないのでしょうね。教育系出版社がそういう姿勢になるということは、それだけ教師が本を買わなくなっているということでしょうから。そして僕はその業界に身を置いているわけですから。周りの先生方を見ていても、本ってほとんど買っていないですもんね。特に教育書は。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』(明治図書)/まえがき

まえがき

TWITTERを始めたのは2011年の春のことです。

学級経営や生徒指導など、教師としての仕事の在り方を140字以内にまとめて軽い気持ちでアップすると、思いの外多くの反応が返ってきました。一つツイートを上げる度にコメントが寄せられたり、お気に入りに登録されたり、リツイートされたり……。

最初はそうした反応がただおもしろくて、どんどんツイートを重ねていたのですが、次第に疑問を抱くようになっていきました。それは教師にとって耳障りの良いツイートについてはずいぶん多くの反応があるのですが、教師を批判するツイートについては明らかに反応がにぶいのです。

「ああ、この人たちは自分のツイートを癒やしに使っている……」

そんなことを感じたものです。

実は私のツイートには、無条件に教師を応援するものなど一つもありません。むしろ、一般的な教師の在り方に批判的なものばかりで構成しているというのが他ならぬ私自身の実感です。しかし、140字という限定された表現の在り方が、そしてひと目見ては流れていく情報としての処理のされ方が、私の意図を超えて耳障りの良いものに見え、口当たりの良いものとして機能してしまう……そういう現実がありました。

本書は、私がTWITTERでつぶやいたもののうち、リツイートの多かったものを40ツイート抽出して、それぞれに解説を施したものです。どれも学級経営や教師としての在り方の心構えを提示しています。その意味では教育技術の極意というよりは、教師としての構えの極意になっています。

私は既に、学級経営の技術については『学級経営10の原理・100の原則』(学事出版)を、学級開きの具体的な手法については『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書)を上梓しています。本書はそれらの教育技術がどのような理念・思想に支えられているのか、その基盤についてできるだけわかりやすくということを念頭に書きました。どうぞ両著とともにお読みいただければ幸いです。

本書は五つの章で構成しました。

第1章は「教師の資質」と題して、すべての教師が共通して目指すべき五つの資質について私の考えを述べました。「いつも笑顔でいること」「孤独に耐える力をもつこと」「無駄とわかっていることに取り組めること」「子どもといっしょに馬鹿げたことを一生懸命にやるのを楽しめること」「いつでも変われること」の五つです。私はこの五つをすべての教師が身につけたら、教育問題はすべて解決するのではないかとさえ感じています。

第2章は「教師の姿勢」と題した、子どもや保護者と接するうえでの心構え集です。教育現場でよく見られるネガティヴな事象を取り上げて、その対策がどうあるべきか、どのような考え方のもとに対応していくべきかについて述べています。

第3章は「教師の職場」と題して、主に同僚との関係をどのように築きながら仕事を進めていくべきか、その勘所について述べています。また、現在の職員室に多く見られるネガティヴな構造の所以を指摘するとともに、その対策もできるだけ提示しようと心がけました。

第4章は「教師の成長」、第5章は「教師の表現」と題して、若い教師がどのように力量形成を図っていけばよいのか、どのように表現を洗練させていけばよいのか、そのコツを私が経験した実際のエピソードや資料をふんだんに用いて、私なりの見解を提示したつもりです。

本書が右も左もわからない新卒教師に、若さで乗り切ることに限界を感じ始めた中堅教師に、最近の子どもがわからなくなつたと嘆くベテラン教師に、総じて学級経営や生徒指導に悩んだり不安を感じたりしているすべての教師に、少しでもお役に立てるなら、それは望外の幸甚です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月10日(日)

1.3時に寝たのに、7時半に目覚めた。もう少し寝た方が良いような気もするけれど、まあせっかく目覚めたのだから仕事を始めよう。それにしても、いつからこんなに勤勉になったのだろう。やることがあり過ぎると、人は勤勉にならざるを得ないらしい。

2.2000年前後から学力低下と学級崩壊がマスコミが賑わし、それに伴って教師の指導力不足が指摘されるようになりました。「指導力不足教員」「不適格教員」という語がマスコミを闊歩しました。「指導力不足教員」を排除せよ、「不適格教員」を排除せよ、その後、マスコミも教育再生会議もそうした論調でした。

3.しかし、私は「不適格教員」は確かに排除するべきでしょうが、「指導力不足教員」は排除するのではなく、研修に取り組ませるべきだと考えています。「指導力不足」という概念が、あくまで他の教師との比較による相対的なものに過ぎないからです。

4.学級経営は相対的に評価されるものです。それは、指導力というものが相対的に評価されるものであることをあらわしています。学級を崩壊させた教師が転勤先で普通に学級を運営しているとか、授業崩壊した教師が学年をかわれば安定的に授業を展開したというよな事例はたくさんあります。もちろんすべてがそうだとは言えませんが、学級崩壊や授業崩壊の多くは、生徒たちや学年教師と相性が合わなかったり、ちょっとした言葉の行き違いから歯車が狂ってしまって負のスパイラルに陥ってしまったりといった、一回性のものなのです。

5.マスコミは「指導力不足教員」の例として、指導事項を理解していない教員とか生徒たちとコミュニケーションをとれない教員とかを挙げていました。要するに、当然解けなければならないような問題を解く学力がなかったり、生徒たちに話しかけることも話しかけられることもなかったり、そうした教員ですね。

6.しかし、これらの例は「指導力不足」ではなく、「不適格」なのではないでしょうか。教師として教壇に立つ資格をもたない教員なのではないでしょうか。世論は「指導力不足教員」と「不適格教員」という言葉を曖昧に用いています。決して犯罪を犯したり体罰を繰り返したりという教員だけが「不適格」なのではないのです。

7.ただし、「指導力不足教員」はこれとはまったく概念の異なる言葉です。もしも「指導力」が不足していることによって排除される要因となるというのなら、新卒教師の98%は排除しなければならないことになってしまいます。しかし、新卒教師は経験がなく可能性があるから基準を甘くして良い、おそらくそういうことなのでしょう。

8.だとしたら、中堅・ベテランにも同じ基準でチャンスを与えるべきです。彼らの多くは新卒時代、周りに教えてもらうこともなく、実用的な研修を受けることもなく、モデルとなる先輩教師ももたないままに、ただなんとなく教師を続けてきた、そういう教師たちです。新卒時代の経験もなく、可能性だけがあるという時期に、自らを力量形成へと向かわせる出逢いをもたなかった教師たちに過ぎないのです。そのうちに世の中の教師を見る目がどんどん厳しくなり、数十年前なら退職までやっていけていたのにいまとなっては「指導力不足教員」の烙印を押されている、そういう教師なのです。

9.彼らに必要なのは研修であって、免職ではありません。研修成果が出るまで給料を下げるというのは妥当な在り方かもしれませんが、排除しようというのはやり過ぎです。

10.仮に、ここに「指導力不足教員」と認定された教師がいて、研修を受けさせることになったとします。その教師に職場復帰したいという意欲さえあれば、私はその教師の「指導力不足」状態を3ヶ月から半年程度で改善できる自信があります。集団を統率しながら一斉授業や学級経営をくずさない程度に行える技術など、決して難しいものではありません。身につけるのにそれほど時間がかかるものでもないのです。基本的に、私が『学級経営10の原理・100の原則』『生徒指導10の原理・100の原則』(ともに学事出版)の二著で書いた事柄について、ロールプレイで研修を繰り返せばまず間違いなく「指導力不足」状態は改善します。

11.問題なのは、多くの現場も地域の教育行政も、こうした「指導力不足」改善への実効的なプログラムをもたないことなのではないでしょうか。新卒教師さえ育成できない職員室、教育委員会が多すぎるのです。職員室は日常の忙しさにかまけて、教育委員会はその時々の文教政策に沿った口当たりの良い講座ばかりを設けて、実効的な研修を行いません。それでいて指導力を身につけていないのは自己責任だとバッサリと斬ってしまうのでは、現場も教委も責任を果たしているとは言えません。

12.繰り返します。「指導力不足教員」に必要なのはあくまで「研修」であって、「排除」ではないのです。

13.世の中に完璧な人間などいません。しかし、可能性のない人間もまたいないのです。生徒にも保護者にも同僚にも、そして自分にもこの視線を向けることができたら、人は優しくなれます。教師としての度量が生まれます。

14.しかし、言うは易く行うは難し、人はこんな当たり前のことさえ時に忘れてしまいます。目の前のことばかりに囚われて、視野狭窄に陥ります。

15.人の人生に潤いをもたせるのは「不在」です。自分が完璧じゃないと認めることは、自分が自分が求めているものをもっていないこと、つまり、「不在」を認めることです。自分に可能性があると期待することは、自分が自分が求めているものを将来はもつことができるかもしれないと期待すること、つまり、「不在」への期待です。この一見逆方向のベクトルに見える二つの「不在」をともに抱き続けること、それが人生の潤いなのだと思います。

16.「不在」を嘆かず、「不在」に飢える。教師にもこの両方が必要です。

17.生徒にも保護者にも同僚にも、あるべきものがないと嘆く視線を投げかけているうちは人間関係はうまくいきません。もつべきものをもっていないと嘆く視線を投げかけているうちは人間関係はうまくいきません。逆に、同じようにあるべきものがない、もつべきものをもっていないと嘆く視線を投げ返されるだけです。胸に手を当てて考えてみましょう。自分だってその視線に耐えられないのではないでしょうか。

18.逆に、どんな自分になりたいのか、どんな子育てがしたいのか、どんな教育が理想なのか、そんな「不在」を共有していっしょに飢えてみる。そんな関係を築けたら、人間関係は知らぬ間にうまく行くものなのです。

19.教師を志して30年近くが経ちますが、私はこの中で片手に余る「自ら命を絶つ教師」を身近に見てきました。学生時代の先輩から高校時代の友人、職場の同僚に至るまで、片手に余る人数の自殺をです。

20.私はかつて「明後日(あさつて)の思想」を紹介しました。その要諦は、いま自分が置かれている状況が苦しくても、5年後の自分はそれを成長の糧としているはずだから、未来を信じてもう少し頑張ってみましょう、そう考えましょうということです。

21.しかし、いま現在の自分が置かれている状況が、死を考えるほどに深刻だとすれば、それは迷うことなく逃げることです。休職したって構わないではありませんか。退職したって構わないではありませんか。

22.同僚に迷惑をかけるとか、生徒たちに申し訳ないとか、親に顔向けできないとか、そんなことはどうでもいいことなのです。確かに、教職は尊い仕事ですし、この安定した職業に就いたことをあなたの両親は喜んでくれたかもしれません。しかし、命を賭けるほどの仕事ではありません。命を賭けてはいけません。

23.死ぬくらいなら、逃げてください。それがよりよい選択なのです。

24.拙著『スペシャリスト直伝!中学校・学級経営の極意』(明治図書)をいま完全脱稿し、編集者に送信しました。いやあ、スッキリ!/14:42

25.さあ、今日は仕事はおしまいだ。うまいもん喰って、うまい酒呑んで、溜まったビデオ見て、寝ることにしよう。ウッシッシ……。

26.常に5冊を同時進行で書くことにしています。昔から5冊を同時進行で読むことにしていたのに倣った形です。1冊仕上がったので、どれに着手するかを迷っています。依頼を受けた純に着手するのが礼儀に適うのですが、なかなかそうも行きません。次に着手すべき企画の中に気持ちの乗るものがないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子どもに「不意に」をつくる

言葉が不意にしたたり落ちる。カウンセリングが目指すのがこれです。言葉が不意にあふれ出る。ファシリテーションが目指すのがこれです。「したたり落ちる」「あふれ出る」に惹きつけられてはいけません。肝心なのは「不意に」なのです。「不意に」をいかにつくるかに焦点を合わせましょう。

教師には待つ姿勢が必要だといわれます。子どもの発言を待ち、子どもの変化を待ち、子どもの成長を待つ教師こそが価値ある教師であるともいわれます。しかし、ここで考えてみましょう。教師はいったい子どもがどのような状態になることを待つのでしょうか。

1980年代から90年代にかけて、カール・ロジャースの来談者中心療法、そしてその理論に基づいた非指示的カウンセリングが大流行しました。カウンセラーが主導権を握りながら対話するのではなく、クライエントが自ら気づいていくようなカウンセリングを……ということで、教育界にも教育相談活動の大流行をもたらしました。当時、私もずいぶんと影響を受け、本を読んだり映像を見たり、実際に研究会に足を運んだりしたものです。

実践報告を聞いたり、実際にカウンセリングの映像を見たりしたときに、必ずといってエポックとなる場面があります。それまではクライエントの言葉がしたたり落ちるようにぽつりぽつりと語ることによってカウンセリングが進んでいたというのに、また、カウンセラーがまるでオウム返しのように「なるほど…。あなたは~なのですね。」とうなずきや相槌とともにクライエントの言を繰り返すだけだったというのに、ある瞬間、不意に、クライエントが自己の内面の構造に気づき、まるで堰を切ったように言葉があふれ始めるのです。

また、2010年前後から、ファシリテーションが教育界で大流行しています。最近では、校内研修やセミナーばかりでなく、学級活動や教科の授業にも本格的に取り入れられるようになってきました。かくいう私もファシリテーションが学校教育においても有効な手法であるとの認識のもと、「教室ファシリテーション」の提案して、公務ではもちろん、様々な研究会でもその手法を活かすよう心掛けています(拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』学事出版・2012年2月を参照)。

ファシリテーションはごくごく簡単に言えば、アイスブレイキングによって場を温め、インストラクションによってモチベーションを高め、小集団の交流によって活発な意見交換が行われることほ目指すわけですが、こうした営みにおいても、それまで悩みながら「こうじゃないか」「ああじゃないか」とぽつりぽつりと語り合っていた参加者たちが、ある瞬間、それまでに話題に上った要素が結びつき、不意に、堰を切ったように参加者の言葉があふれ出す……そういう瞬間を目の当たりにしてきました。

一般にこうした話をすると、教師は「言葉がしたたり落ちる」「言葉があふれ出す」といった現象に目を向けがちです。ぽつりぽつりとでも本音がこぼれ落ちるような教育相談活動をしたいものだとか、子どもたちが次々に言葉をあふれ出させるような授業がしたいものだとか、そのように考えます。しかし、子どもたちと接するときの勘所は、実は「言葉がしたたり落ちる」とか「言葉があふれ出す」とかいった現象をつくることにあるのではありません。その本質は、実は「不意に」にあります。「不意に」をいかにつくり出すか。そこにこそ焦点を合わせるべきなのです。

「言葉がしたたり落ちる」とか「言葉があふれ出す」とか、現象面に焦点を合わせていると、教師の思考は「どうやって本音を言わせようか」「どうやって話し合いを活性化させようか」という、HOW-TOに向いてしまいがちです。しかし、何か現象を起こそうとしてHOW-TOに目が向いてしまうと、どうしてもその手立ては薄っぺらいものにしかなりません。

ところが、どうやって「不意に」をつくり出そうかというところに焦点を合わせますと、教師の思考は「この問いに対して、子どもたちはどう考えるだろうか」「この手の意見とこの手の意見が掛け合わさると何が生まれるだろうか」と、子どもの認知や思考、葛藤へと向いていきます。そこがミソなのです。

「不意に言葉がしたたり落ちる」とか「不意に言葉があふれ出る」とかいうとき、子どもを外から見ていると現象的には「不意に」に見えますが、実はそこには何かの葛藤が解消されたり、開き直りが見られたり、或いは納得が得られたり、自分自身も気づかなかった自身のこだわりが見えてきたり、某かの発見があったり、創造する喜びを感じたり、人とつながることを喜びを知ったり……いずれにせよ、子どもにとってはちゃんと「思考の文脈」ともいうべきものが存在しているのです。教師はこれを勘違いしてはなりません。人が、何の理由もなく語り出すなどということはあり得ないのです。

カウンセリングにおいて必要なのは「待つこと」です。言葉がしたたり、場合によってはあふれ出すまで、ひたすら待つことです。教師は生徒指導や教育相談において、となかく自分の言いたいことをしゃべりがちです。ためしに同僚教師の生徒指導場面において、一度、教師と子どものしゃべっている量の違いを観察してみることをお勧めします。その多くはまず例外なく、子どもの側は全体の1割もしゃべっていないはずです。その9割以上を教師がしゃべっているはずです。

しかし、教師が最初から傾聴の姿勢を示し、「何があったの?最初から話してごらん…」と始め、一つ一つにうなずき、一つ一つに相槌を打ちながら子ども自身にしゃべらせるならば、教師が2割、子どもが8割くらいの比率ににすることはそれほど難しいことではないのです。読者の皆さんも生徒指導では、教師の言葉対子どもの言葉を2:8にすることを目指してみてはいかがでしょうか。見違えるほどに子どもの考えていることが見えてくるものです。ちなみに私はこれを「ニッパチの生徒指導」と呼んでいます。

ファシリテーションも同様です。何か難しい課題を与えて、子どもたちに交流させる。或いは、多様な見方をいくつかにまとめてみるという体験を子どもたちにさせてみる。こうしたとき、子どもたちの話し合いは「ああでもない、こうでもない」となかなか実りあるものになりません。

しかし、あるとき、一人の子が「これ、こうなんじゃない」と叫び出した瞬間、それまで話題に上がった様々な要素たちが化学反応を起こし始めるのです。教師はこの瞬間を待てなくてはなりません。こんなに時間がかかるなら教えた方が早いのではないか……そうした焦りと苛立ちとを抑えなければなりません。いいえ、ほんとうは焦りや苛立ちを感じなくなるくらいにまで、「待ちの姿勢」を身につけなければならないのです。その姿勢を身につけると、むしろ子どもたちの交流の中に後の発火要素になる視点が少しずつ、しかし確実にあらわれてきているのを楽しめるようになってきます。

このような境地に立つためにも、教師に必要なのは「不意に」に焦点を合わせるという覚悟なのだと私は感じています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月9日(土)

1.【拡散希望/定員50/残席40】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は藤原くんにかわって山田洋一さんとの行脚です。

2.【拡散希望/定員50/残席23/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)

3.kayaDVD/第3回教室ファシリテーションセミナーin 京都/堀 裕嗣・藤原友和

4.修学旅行中は朝ご飯を毎日ちゃんと食べていたものだから、なんか腹が減ってきた。

5.修学旅行から帰ってきてそのまま飲みに行って日本酒まで飲んで、次の日はちゃんと朝から起きて原稿を書いている。以外と体力あるなあ、オレ……。我ながらちょっとびっくりしている。でも、ちゃんと頭が働いているかと言うと、ちょっとあやしい。

6.研究会のQ&Aコーナーにおいて、「実際に仕事をしていくうえで教師に必要な力は何ですか」と訪ねられたり、「若い教師にこういう力をつけると良いよというメッセージをお願いします」と求められたりすることがあります。私はいつも、冗談めかして次の三つだと応えることにしています。

7.第一に「サボる力」です。「サボる力」などというと不謹慎に聞こえるかもしれません。しかし、世の中には、朝早くから来てその日の授業の準備をし、放課後に部活動を指導した後も遅くまで事務仕事をしているという教師が多すぎるように感じています。一日に14~15時間くらい働いているわけですね。そういう先生を見ていると、もう少し仕事を効率化できないのだろうか、効率化することを覚えればずいぶんと楽になるのに……と思わずにいられません。

8.教師の仕事において、「効率化」という言葉使うと、どうしても違和感をもつ方が多いだろうと思います。教師の仕事を効率主義で運営するのはいかがなものか、というわけてず。もちろん、部活動とか行事指導とか生徒指導とか、要するに生徒と関わる仕事は効率化することはできません。

9.しかし、そういう先生はいわゆる事務仕事をとても非効率にやっていることが多いのです。例えば、1枚のプリントをつくるのに何時間もかかる、「時候の挨拶はどんなのにしようかなあ」なんて考えているうちにネットや事典で調べ始めるとか、ちょっとしたひと言にこだわってなかなか完成しないとか、そんな仕事の仕方ですね。また、行事の反省アンケートを係の先生に請求されてから慌てて書き始める、もう行事が終わって1週間も経っているのでどんなことを感じたかも忘れてしまっている、結果、アンケート1枚書くのにずいぶんと時間がかかってしまう……こんなこともあります。

10.私の言う「サボる力」というのは、こんな現状を「サボる時間」を生み出すにはどうしたら良いかと考え続けることによって、仕事の仕方を工夫し効率化することによって、時間を生み出すとともに効率的な事務仕事の在り方を身につけよう、という意味合いです。

11.現在の私は職員室で珈琲を飲んでいる時間とか、ちょっとした調べものをする時間とか、放課後に生徒たちとコミュニケーションを図る時間とか、そうした余剰時間がたくさんあります。しかも残業は生徒指導関係以外にはまったくと言って良いほどありません。それは私が保護者向けなら1枚つくるのに15分程度しかかかりませんし、定期テストをつくるのでさえ2時間程度しかかからないからです。ちなみに授業用のワークシートなら10分程度ですし、校務分掌の提案文書もどんなに複雑なものでも30分まではかかりません。

12.こうした仕事の仕方ができるようになるまで、私は自分自身をずいぶんと鍛えてきました。そしてその出発点が「サボる時間」を生み出すにはどうしたら良いか……という発想だったわけです。

13.効率化というのはいかに時間を生み出すかということです。時間を生み出す必要性がないと、人間、なかなか時間を生み出そうなどとは考えないものです。私はちょっと珈琲ブレイクとかちょっとおしゃべりとかが大好きなので、そういう時間を生み出そうと考えるわけですね(笑)。そうした私の性質が意図的・意識的な仕事の効率化へと私の発想を向けさせたわげです。

14.第二に、「いじりいじられる力」です。生徒との関係にしても保護者との関係にしても同僚との関係にしても、「いじれていじられることができる」という双方向が成立している状態が、まず間違いなく信頼関係が築けている状態と言えます。基本的にはこういう人間関係を目指すのです。

15.いじるだけではダメです。それは自分がツッコミばかり入れて、上下関係が固定化されている状態です。そうなると、相手がどのようなことを考えていて、どのよなことを感じているのか、相手の真意に気づきにくくなっている状態です。

16.また、いじられるだけもダメです。それは自分が下に見られている人間関係が固定化している危険性があるからです。その時々の話題に従って、その時々の空気に従って、どちらもいじりいじられる上限関係の流動性が担保されている、それが理想的な人間関係であると私は思います。

17.ちなみに「いじめ」と「いじり」の違いを皆さんはご存知でしようか。「いじめ」は相手に対する悪意、ネガティヴな感情から行われるものであり、「いじり」は相手に対する好意、ポジティヴな感情から行われるものです。従って、「いじりいじられる」ということは双方の双方に対する好意が双方によって認識されている状態を担保します。そうした潤いこそを目指そう、そんな意味合いです。

18.ただし、最初からそういう状態を目指していじったりいじられたりすべきと言っているのではありません。私はここまでかなり「理想状態」という言葉を用いてきましたが、それはあくまで人間関係ができた末に出来上がる状態です。当初は誠実な対応をし、楽しいことに取り組んでともに笑う機会を重ねる、そうした営みの末にこそこの「いじりいじられる関係」は成立するのです。

19.どんなに好意をもっていたとしても、いきなり生徒をいじると傷つけてしまうことがありますし、いきなり保護者をいじると引かれてしまうことがありますし、いきなり校長をいじったら怒られるかもしれません。そんなことはあり得ないのです。

20.私は「いじり」というものが相手に対する好意から生まれると言いました。つまり、「いじりいじられる力」をもてというのは、だれ一人嫌ってはならない、全員に好意をもつのだということを前提思想としているのにお気づきでしょうか。教師の資質として、他人を嫌わないということはとても重要なことです。「いじりいじられる力」とは、そのような資質を求めた、教師の力量の根幹を提示しているつもりです。

21.それにしても奥入瀬は何度行っても良いものだ。あそこに流れている涼やかな空気。木漏れ陽と滝のしぶきとの何とも言いようのない調和。修学旅行に行くたびに感動が増していく気がする。

22.第三に、「流される力」です。自分の考え方や仕事の作法をただ主張するだけではなく、必要なときには周りに流されてみる、そういう力です。

23.「周りに流されてみる」などというと、そんなことが力量なのかと思われるかもしれません。一般に、周りに流されることはネガティヴな捉え方をされていますからね。しかし、私の言う「流される力」は、ポジティヴに流されてみることを指しています。

24.皆さんにはこんな経験がないでしょうか。

25.新しい学校に転勤したときの話です。転勤先の学校のやり方に違和感を抱きます。一つ一つがシステマティックに動いておらず、どうも無駄が多い感じがする。第一義に考えるべきことが蔑ろにされている感じがあり、どうも職員室の先生方の仕事の優先順位が違うような気がする。もう少し生徒たちに高い要求をすれば良いのに、生徒指導上大切な点がなあなあになっている気がする。職員会議で議論が交わされることがなく、提案された原案がすべて通っていく。違和感の質は様々ですが、転勤したてのときというのは、だれもが違和感の塊になるものです。

26.こうした違和感から、力量の高い先生ほど「この学校はおかしい!」と思い、改革しようと考えます。私はそれがいけないと思っています。

27.実は新しい学校に対して抱く違和感には、かなり大きなバイアスがかかっているものです。長年にわたって慣れ親しんできた前任校の仕事の優先順位や仕事の作法が、転任先の学校の在り方に必要以上の違和感を抱かせるのです。もちろん、郷には入ったからといって必ずしも郷に従う必要もありませんが、学校改革は前任校のイメージを先行させながら改革しようとすると必要以上に揉めるのが関の山、まずうまく行くことはありません。

28.しかもあなたはその学校の職員室から見れば新参者です。古くからその学校にいる先生方にとって、新参者の改革など受け入れられるはずもありません。「おもしろくない」と思われるのが普通です。

29.その学校がそのような状態になっているのには、大袈裟にそうなるだけの歴史があるのです。あなたはその歴史に参加してきた人間ではありません。ですから、転勤先の学校において新任者がまず何より優先させて行うべきはその学校の歴史を知ることです。なぜ仕事上そのような優先順位になっているのか、なぜそのような仕事の作法が生まれ維持され続けているのか、そのような歴史を理解するのです。この歴史を理解しないままに行われる学校改革など、所詮「机上の空論」的な改革に過ぎないのです。

30.転勤したときにまず私たちが考えなければならないことは、その学校の歴史を知ることです。前任校の作法を基準としてではなく、あくまでもこの学校の歴史を基準として改革案を考えられるようになる、その状態になって初めて転勤先の学校改革に参画する資格が得られるのです。このように考える謙虚さをもつことが、新しい学校でうまくやっていくコツ、新しい学校でも仕事を楽しくやっていくコツなのです。

31.もう一つは、自分に与えられた担任学級、校務分掌で目に見える成果を上げることです。安定的な学級経営を行うこと、これまでとは違った分掌運営をすること、それも職員室の先生方が「良くなった」と感じられるような先生方に配慮した分掌運営を行うことです。それが職員室で「認められる」ことにつながります。

32.この国の会議は、「何が正しいか」ではなく「だれが言ったか」で決まります。良い悪いはともかく、そういうものなのです。それが現実なのです。職員室で認められていない教師が何を提案してもダメです。提案が通るのは「現状維持提案」だけです。もしも本気で学校を改革しようと思うならば、まずは職員室で「認められること」なのです。「認められること」なく為される提案は、多くの先生方にとって「わがまま」にしか映りません。この原理は教員に限らず、この国で職業人として生きていくうえで、大切な大切な原理です。

33.私の言う「流される力」とはこういう意味です。ポジティヴに流されてみる力のことです。流されながらも問題の本質を見極めていく力のことです。究極的ではありますが、本質的な仕事術であると私は考えています。

34.学年主任だった頃の話です。私の学年には1年のときに二人、2年のときに一人、3年のときに一人、と四人の新卒が配属されました。

35.私は新卒さんが学年に配属されると、最初は生徒指導をさせないことにしています。生徒指導のイロハを知らないうちに指導しますと、無用のトラブルを引き起こすことが多く、生徒も保護者も、そしてその教師自身もいやな思いをすることになるからです。

36.その代わり、私が生徒指導する場面には必ず付き添わせます。そして、指導の後には、「オレはなぜああいう言い方をしたと思う?」とか「あのときの生徒の言はどういう気持ちで発せられたと思う?」と問いかけながら、事実確認の仕方や指導の言葉がけの在り方などを具体的にレクチャーしていきます。オン・ザ・ジョブ・トレーニングの初期指導ですね。

37.その後、その教師の持ち味によってそれぞれではありますが、早い者で3ヶ月目くらいから、遅くとも半年後くらいから新卒さんが指導して私が付き添うという体制を組み、更にそれに慣れてくると一人で生徒指導にあたる許可を出します。

38.「よし!まかせるからやってみろ」と私が初めて言ったときの彼らの笑顔をよく覚えています。「ああ、堀先生がまかせると言ってくれた」という、なんとも照れくさそうな、それでいて使命感を感じさせるような、なんとも形容しがたい複雑な笑顔です。

39.これも学年主任だったときの話です。ある学年をまたいでの生徒指導事案のときに、加害生徒の保護者と被害生徒の保護者とがともに相手の生徒の対応に納得ができないと言って、加害生徒をもつ学年の学年主任の意見と、被害生徒をもつ学年の学年主任である私の意見とが対立したことがありました。

40.校長室で学校長や生徒指導主事を交えて喧々諤々が始まって10分くらいが経った頃でしょうか、私はこのままでは埒があかないと感じ、学校長に言いました。

41.「校長先生、この問題を校長先生があずかってはいただけませんか?このまま対等の立場である学年主任同士が自らの正しさを主張し合って対立しても、決して良い方向には進まないと思うんです。校長先生のご判断にお任せしたいと思うのですが、いかがでしょうか。それでどうですか、○○さん(相手の学年主任の名前)。」

42.生徒指導事案なので具体的には書けませんが、このときの校長先生の対応はそれは見事なものでした。どちらの学年主任にも花を持たせながら、双方の保護者には自分が出ていって解決する、そういう対応でした。

43.「おまかします」という言葉は、「あなたを信頼しています」ということと同義です。新卒さんには、要するに「お前を信じるからやってみろ。責任はちゃんとオレがとるから」と言っているわけですし、学校長には「校長先生間の対応の結果、何か自分に不利益があつたとしても文句は言いません」と言っているわけですね。世の中にこういうあずけ方をされて意気に感じない人はいません。特にこの国にはそういう言い方をされてテキトーな対応しかしない、頑張らないという人を私は見たことがありません。様々な問題の本質は、私たちが「おまかせします」と言えない、同僚を信頼できないことなのではないか、私はそう感じています。

44.生徒たちを楽しませる教師は生徒たちを成長させます。保護者を楽しませる教師は保護者の信頼を得られます。同僚との関係も研究会での若手の育成も同じです。

45.人の上に立ったら、まずはみんなを楽しませることを考えるのです。何をすれば楽しいか、どうすればみんなで楽しめるか、それだけを考えていれば、みんな勝手に仕事をし、みんな勝手に成長していきます。

46.このとき、心しなければならないことは、決して自分の思い通りの仕事をやってほしいとか、自分の思ったとおりに成長して欲しいとかと思わないことです。他人は自分の思い通りになりません。また、その人の人生のすべてに自分が責任をとれるわけではありません。彼らは彼らの思い通りに仕事をし、成長すべきであって、決して自分の思ったとおりの仕事の在り方をしなければならないのではありません。これも人の上に立ったときのに重要なテーゼです。

47.ただし、ここでは「楽しませる」の意味合いが大切です。ここで言う「楽しさ」は決してただ大笑いができるという類の「楽しさ」を言っているのではありません。もちろんそういうことはあって良いですし、必要でもありますが、それ以上に大切なのはいまの自分よりもちょっとだけ上の仕事に挑戦させる、ちょっと頑張れば届きそうな適度な抵抗をもたせる、それを乗り越える体験を連続的に保障する、それが次第に「楽しさ」になっていく、こうした類の「楽しさ」なのです。

48.私は年に10~15回くらいの研究会を主催します。その企画は私が立てます。研究会企画において私が大切にしているのは、お客さんを集めることではありません。自分の主宰する研究会の先生方が成長することです。

49.そのために、必ずそれぞれの先生方の研究テーマに沿った講座をもってもらいます。しかもその講座タイトルは、その先生の現状よりも少しだけ上を行く、要するにその先生の研究の現状を一歩進めたり、少し視野を広めたりするような講座タイトルにするのです。講座をもつ先生にとって、その講座をもつことが経験としてだけでなく、研究を充実させるうえでもプラスになる……そういう企画を考えるわけですね。

50.登壇する先生方は、自分が不得意とするような内容の講座をもつことはありません。自分がもっているコンテンツを一歩進める講座だけをもつわけです。それでいて自分の現状からかけ離れた無理な講座内容をもつこともありません。要するに、少しだけ頑張れば到達できそうな、頑張り甲斐があって見通しのもてる、それでいて成長を実感できる、そういう企画が提示されるわけです。

51.私の研究会の若手たちは、こういう講座に何度も何度も挑戦するたびに、ヒーヒー言いながら研究会を楽しんでくれています。本書でも何度も何度も繰り返し言っていますが、人に心の底から「楽しい」と思わせるのは、自らの成長の実感なのです。そのためには「適度な抵抗」を与えること、そしてそれを確実に乗り越えさせること、しかしその乗り越えること自体には一切手を貸さないこと、この三つなのです。これは生徒であろうと教師であろうと、同じ構図です。

52.最近、「子どもが変わった」「若者が変わった」と、なんでも親切に環境をつくりすぎてしまう、そういう教育実践や研究会運営が目立つような気がします。しかし、それは背理なのです。準備万端に整えて「さあ、やってみろ」と言われても、自分の力で乗り越えたという感覚は持てません。それでは「やらされてる感」が残るだけです。

53.こうした成長実感に伴う「楽しさ」を与えることにも、「まかせる」部分を大胆につくることが必要なのです。人のすべての成長は「自立」に向かわなければなりません。「自立」に向かっての変化をこそ「成長」と言うのです。そして「自立」に向かっていると実感できるからこそ、自らの「成長」を楽しむことができるのです。

54.野村克也がこんなことを言っています。「ピッチャーというのは「おれがおれが」でいくもの。その気持ちになれば強い。逆にキャッチャーは「おかげおかげ」でバランスをとる。」( 『考える野球』野村克也・角川SSC新書・2011年4月)

55.教師にも両方のタイプがいるな……、どっちも必要だな……と感じます。しかし、大きく成長し、後に周りの者が目を見張るような提案をする教師は間違いなくピッチャータイプです。要するに、「おれがおれが」タイプですね。若いうちはピッチャータイプが良い─これは私の経験から言って、まず間違いないと感じています。

56.人間には謙虚さが必要と言われます。それはその通りであり、言うまでもないことです。しかし、「謙虚」であることと「妥協」することとは紙一重です。若いうちから「謙虚」を旨としてのみ人と付き合っていると、いつしか「妥協」に慣れてしまい、自らが「妥協」していることにさえ気づかなくなっていきます。それではいけません。

57.これに対して、若いうちに「自己主張」が強く、その「自己主張」の強さ故に様々な失敗を繰り返してきたという人間は、その失敗の構造を省みるようになっていきます。そこから自分の主張を曲げぬままにうまくやっていくにはどうするか……という視点を学んでいきます。要するに、「自己主張」と「謙虚さ」の両立を身につけていくわけですね。

58.大きな提案にはこの「自己主張」と「謙虚さ」とのせめぎ合いが必要なのです。これを実感として抱いている者は、様々な場面で現実的でありながら理想を追う、そういう対応を心がけるようになります。心がけるようになるというよりも、されげなくそういう対応ができるようになると言った方が良いかもしれません。大きな提案をするにはそういう姿勢が必要なのです。

59.教師の提案の難しさは、いくら壮大な教育理念を掲げても評価されないところにあります。その理念をその教師自らが具現化しなければならない、もう少し簡単にいえばやって見せなければならない、そういう難しさがあるわけです。要するに、脚本を書くだけではダメで、役者としてその脚本を演技しなければならない、ということですね。しかも、その結果評価されるのはあくまでも演技であって、脚本ではないというところも特徴的です。

60.若いうちから謙虚な人間というのは、敢えて簡単に言うなら、若いうちから演技を中心に考えている人が多いのです。演技が上手くなることによって観客との調整を図る……そういう仕事の仕方です。これに対して、「自己主張」の強い人間というのは、脚本を書くのが好きなのです。ただし、演技力がその脚本の具現化に追いついていかない……だから、周りから見ると、自己主張の強さが鼻につく、そういう構図です。

61.言うまでもないことですが、提案というものはあくまで脚本ですから、脚本家がその脚本に見合った演技ができるようになったとき、提案する教師として初めて評価されるようになるわけです。演技ができないうちは、周りはその教師の書いている脚本を理解することができないわけですから、当然と言えば当然のことです

62.実は私も、若い頃は演技が下手くそでした。演技が下手ですから、研究会その他で提案しても、考えていることがなかなか理解されない。それが腹立たしくて、先輩教師と喧嘩になる。そんなことが頻繁にありました。

63.教師同士だけではありません。演技が下手だということは、生徒たちにも私の意図が伝わりにくく、授業では発問や指示が通らなくて立ち往生することがよくありました。

64.私はその後、自分の教育理念に実質を伴わせるにはどうしたら良いか、自分の教育理念を機能させるにはどうしたら良いかと真剣に考え、授業技術やプレゼンテーション技術を10年ほどかけてじっくりと学ぶことによってある程度克服した感があります。しかし、時に、演技力を身につける以前に壮大な脚本だけを声高に主張していた時期を思い返すと、ただただ赤面せざるを得ません。

65.少々難解な言葉が並んでいますが、この三島由紀夫の言は、それほど難しいことを言っているわけではありません。しかし、実際にこれを実現しようと思えばとてつもなく難しい、そういう類の言葉です。これまでの文脈を用いて私なりに言い直すなら、演技力を伴わない脚本家は次第にその脚本自体も腐らせていくものだ……とでもなりましょうか。

66.私の教師としての在り方は、自分が描いたすべての脚本を演技しようということであり、演技できない脚本はないのと同じなのだという強い覚悟をもとうということでもあります。自らができないことを声高に主張するのは、演劇において脚本を朗読するがごとき背理なのだと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月5日(火)~8日(金)

1.5日。修学旅行1日目。6:30白石駅集合でスーパーホクトの臨時列車で函館へ。海峡線に乗り換え、15時にねぶたの里で学級写真。そこから更に安比高原へ移動。安比グランドホテル泊。

2.6日。修学旅行2日目。安比自然学校。農作業や酪農、ペンション、またぎなど、様々な体験学習。安比グランドホテル連泊。

3.7日。修学旅行3日目。学級別選択コース。7組に同行。小岩井農場。十和田湖。奥入瀬渓流散策。萱野高原。浅虫温泉南部屋海扇閣泊。

4.8日。修学旅行4日目。海峡線、スーパーホクトの臨時列車で帰札。17:20解散。白石駅前のわさびで軽い打ち上げ。帰宅。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月4日(月)

1.授業は一つ。ワークに取り組ませる。空き時間は修学旅行のこまごまとした仕事。学年集会。給食後は室長会議。生徒が帰ったあとは、修学旅行の最終打ち合わせ。

2.職員室には実に様々な教師がいます。

3.生徒指導や学級経営をそつなくこなすけれど事務仕事を苦手にしているとか、事務仕事は抜群に速くて正確だけれど生徒指導を苦手にしているとか、生徒を叱りつけるのは苦手だけれど生徒の話をじっくり聞いてあげて信頼を得ることに長けているとか、普段は目立たないけれど毎年の学校祭ステージ発表は奇抜なアイディアで全校をわかすとか、部活動がやりたくて教員になったと公言するだけあって毎年県大会の上位まで進出するとか、まだ仕事はほとんどできないけれど若さと元気さでいつも生徒たちと触れ合っているとか、いろいろな個性があるものです。

4.私はいま、「個性」という言葉を使いましたが、職員室の揉め事の多くはこの個性の違いを前提とせず、自分の得意な領域を教師の普遍的価値と考える者同士の間に起こります。生徒指導が得意な教師は生徒指導ができない者は教師ではないと思い、授業づくりや研究が好きな教師はもう少し学校に授業に力を入れる体制ができれば学校は変わるのに……と感じています。

5.こうした考え方の前提のちがう者同士の間で、職員会議に提案されたある行事の在り方をきっかけにその価値観の違いが顕在化し、次第に深刻な揉め事へと発展していく。或いは、学年運営における生徒指導上の方針においてまったく逆のベクトルの方針が示される。従来からの規範型の生徒指導方針を主張する者と、カウンセリングマインドを旨とする生徒指導方針を主張する者と……。職員室の揉め事というものはこうしたことから起こるものです。なんとなく、「あいつは甘すぎる」「あの人は時代遅れだ」といった静かな応酬が繰り返されるようになるわけですね。

6.しかし、私はこうした違いというものが、教師としての「質」の違いであって、「価値」の違いではないと考えています。従って、これらの個性に価値の高低があるわけではないというのが私の主張です。

7.人間には得手不得手があります。それは仕方のないことです。不得意なことを得意になれと言われても、それはそうそうできることではありません。

8.問題は価値観の違いがあったり、方針の違いがあったり、得手不得手があったりしたときに、自らの価値観だけ、自らの方針だけ、自らの得意なことだけを「唯一の正義」として主張してしまう、その主張の在り方です。

9.この傾向は多くの学校において、「学校を動かしている」と一目置かれているタイプの、実力派教師に多く見られます。私は学校を背負っているといわれるこうした教師たちは、その功罪において「罪」の方が大きい場合が多いと感じています。

10.学年団の運営や職員室の運営というものは、教師に「質」の違いがあることを認め、お互いにだれが何を得意とし何を不得意としているのかを理解し合ったうえで、個々の教師が得意な領域で最大限の力を発揮しながらも、お互いに不得意な部分はカバーし合う、その結果として「チーム」として質の高い教育活動ができる、そういう姿をこそ目指すべきだと考えています。

11.私がかつて学年主任をやっていた頃の話です。

12.学年主任は年度末の校内人事の際、校長に呼ばれて新年度の人事について打診されます。ざっくばらんに言えば、学年にだれが欲しいかと尋ねられるわけですね。

13.こんなとき、多くの学年主任が力量の高い教師を指名します。要するに、一つの学級の担任を任せることができ、できれば弱い担任のフォロー役も務められる、更には学年全体の規律の維持にも力を発揮する、そういう教師ですね。

14.その結果、一般にどういうことが起こっているか。事務仕事が得意な教師とか研究好きの教師とか優しいお母さん先生とかおとなしめのおじいちゃん先生とかおたくっぽい若手とか……こうしたタイプの教師があまされたりお荷物扱いされる雰囲気がつくられてしまうのです。

15.しかし、私は学年主任が力量の高い先生を自分の学年に集めようとするのは、学年主任に力量がないからだと思います。生徒指導や学級経営の力量がない、と言っているのではありません。人の上に立つための力量がないのです。つまり、主任としての力量がないわけですね。

16.人の上に立つ者は、まず何と措いても己(おのれ)を知ることが必要です。

17.私の場合、全体規律を維持するための「怖い教師」の役柄を担うことができます。また、学校行事や生徒会活動で生徒たちを楽しませることにも自信をもっています。しかし、いわゆる「弱い生徒」を包み込むタイプの指導を苦手としています。また、その頃には既にある程度の年齢になっていましたから、生徒たちと昼休みにサッカーをするとか、生徒たちの恋バナの相談に乗るとか、そうした生徒たちへの昇華作用を発揮するような指導には向きません。そして何より、私は四十代前半の男性教師でした。

18.こうした学年主任たる私の特徴をより機能させ、足りない部分をカバーしてくれるのはどういった教師だろうか。チームをつくるための発想というのは、ここから始まるのです。

19.私は学年の生徒指導係として、規律維持に努めなければなりません。いかつい顔をして生徒たちの前に立つことも多くなります。その意味で、私はまず、副主任には常に笑顔で生徒たちに接する、明るい女性教師が欲しいと思いました。

20.また、若さを発揮して、生徒たちとともに遊び、ともに悩み、ときにはぶつかることのできる、そんな若手教師が欲しいとも感じました。できれば男女各1名ずつ。

21.更には、いるだけで存在感を示すような好々爺的なおじいちゃん先生、生徒たちのわがまをやさしく笑顔で受け止めるおばあちゃん先生も欲しいと考えました。そうした年配教師の醸し出す雰囲気というものは、私のようないかつい顔をした教師のマイナス面を緩和し、元気で明るい女性教師とは違った包み込み方を発揮するものです。

22.そして、できれば、学年主任の私にとって、学年運営の相談役となるような学年主任経験者がいてくれたら最高だ。そういう人がいれば、自分にとってずいぶんと心強いはずだ。私はこういう結論に達しました。

9784761918484s23.その結果、私の学年は拙著『生徒指導10の原理・100の原則(学事出版)のp63に掲載されているような写真のような構成になりました。

※ネット上には写真を掲載できないので、こんな形の紹介になることをお許しください。なお、こうしたチームづくりの考え方を「FMCチームワーク指導」と言いますが、これについても同書の第1章に詳しく書かれています。興味のある方はご覧下さい。

111207cover24.また、「FMCチームワーク指導」をどのように機能させるのか、その具体については、拙著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書)に生の資料を掲載しながら解説しました。こちらも興味のある方はご覧下さい。

5.私(後列左から二人目)が1組担任で怖い教師の役回り、前列左側女性教師が元気で明るい副主任の先生です。前列右側が2組の担任です。若手体育教師で新卒数年でした。後列の一番右は大学を出たての女性教師です。後列で私をはさんでいる二人の男性教師は、一人が退職まで数年という物静かな男性教師、もう一人が前年度に学年主任として卒業生を出したばかりの生徒指導主事でした。

26.年齢層も理想的でした。私が四十代前半で生徒指導主事が四十代半ば、副主任が三十代後半、若手はともに二十代前半、そして退職間際の男性教師です。おばあちゃん先生を得ることはできませんでしたが、生徒たちから見れば、まるでお父さんとお母さん、おじさん、おじいちゃん、そしてお兄さんとお姉さんがいる、そんな学年団になっています。

27.実はこの写真は、私が学校祭でつくったビデオのひとコマなのですが、この年は30分にも及ぶ学年の凝ったビデオをつくったり、本当に楽しく充実した修学旅行を実現したり、更には部活動でもバドミントンの団体戦で優勝したりと、これ以上ない1年を送ることができました。

28.また、私が現在、様々な形で展開している主張の多くは、この1年間の実践に基づいています。これも、学年団が「チーム」として機能し、私自身が時間的にも余裕のあり、精神的にも充実した1年間を過ごせたからにほかなりません。この年の学年団の先生方には、いくら感謝しても感謝しきれないほどです。

29.教師の「チーム力」というものは、まず違いを認め合うことから始まります。異なった個性が集まったときに、それぞれがそれぞれの能力を発揮し、足りない部分を補い合う、この意識が必要です。こうした発想だけが「チーム」を機能させるのです。

30.私の文は述語が長いと言われます。また、挿入句も多いと言われます。それがだらだらした印象を与えると。例えば、今日、私は「学校を背負っているといわれるこうした教師たちは、その功罪において「罪」の方が大きい場合が多いと感じています。」と書きました。これを「『罪』の方が大きいと感じています」とは、私にはどうしても書けない。そうでない人を何人も知っているから。だから「大きい場合が多いと感じています」としか書けない。そういう性格なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月3日(日)

1.昨日は夜更かしして原稿を書いたので、今日はいま起きました。半日損した気分です。躰もだるいです。今日は少しだけ原稿を書いて、早めに寝ることにしましょう。なんといっても明後日から修学旅行ですから。校正ゲラをもう一度見直して、新しい企画の見本原稿を10頁ほど書く、そんな一日です。

2.子どもの表情や仕草に敏感であることが子ども理解の基本。よく言われることですが、それは相手が保護者や同僚であっても同じです。そのためには、日常的に適度な距離感覚を意識することが大切です。人間関係の〈距離〉に敏感になりましょう。

3.人間関係の最大の難しさは〈距離感覚〉にあります。遠すぎるのももちろんダメですが、馴れ馴れし過ぎるのはもっとダメです。昔から、「教師は生徒たちとの適切な距離感覚を身につけたら一人前」と言われるほどです。

4.保護者や同僚、管理職との関係も同様です。ギスギスした人間関係は論外ですが、甘え合いもまたいけないのです。

5.子どもたちとフラットな関係が理想などと思ってはいないでし ょうか。この国は3.11を経験しました。大きな災害があったと き、教師の最大の仕事は子どもたちの命を守ることです。教師は 統率者の役割を常に意識しなければなりません。

6.若いうちはどうしても生徒との距離が近くなりますから、一歩 引いて距離をつくるくらいの構えをもつことが最適です。

7.自分が子どもたちとどういう関係を結ぶかばかりに意識がいっ て、子どもたち同士の関係をどう結ばせるかに意識が向いていな い若手教師がたくさんいます。気をつけましょう。

8.保護者・同僚との関係は「誠実」を旨としましょう。

9.三十代後半あたりから、自分は意識していなくても子どもたちとの距離がどうしても遠くなっていきます。アラフォーになった ら一歩前に出て子どもに近づく、この構えが必要です。

10.若い頃に比べて、保護者や同僚、管理職が昔に比べて質が劣化 しているように見えますが、それはあなた自身が経験を積んで成 長しているからです。他人を責めずに解決できる方法がないか、 と常に考えるようにしましょう。

11.子どもとの〈距離感覚〉設定の在り方は教師のもつ雰囲気によって変わります。優しい雰囲気をもった先生は一歩引き、怖い雰囲気をもった先生は一歩前へ出る、そういう原則もあります。

12.教師は学校では権力者です。長く教師をやっていると、どんな人も、どうしても自分の「正しさ」を主張するようになっていきます。しかし、職員室世論と実際の世論との間には大きな開きがあるものです。「職員室の論理」を相対化する目をもちたいものです。

13.自分は頑張っている……。自分は間違っていない……。ついついそう言いたくなります。確かにそうでしょう。同僚も管理職もあなたの頑張りや正しさを認めてくれているかもしれません。

14.でも、それは職員室という狭い空間の中での「頑張り」や「正しさ」に過ぎません。世の中は広いのです。あなたの教師としての姿勢が子どもの頃の担任教師のものだったとしたら、あなたのお母さんはどう思ったでしょうか。そんな視点が必要です。

15.【拡散希望/定員50/残席40】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は藤原くんにかわって山田洋一さんとの行脚です。

16.【拡散希望/定員50/残席25/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)

17.教師にはどうしても「孤独に耐えなければならない」という側面があります。子どもとの関係がうまくいかない、保護者にクレームをつけられる、そういうことは避けられません。そんなとき に必要なのは、「職員室の論理」ではなく「世論の目」で自分を見つめることなのす。

18.職場に閉じこもらずに、いろいろな人と会うことをお勧めします。自分の職場を相対化する目をもちましょう。

19.自分の主張したい「正しさ」は、職員室や学校でしか通用しない論理ではないか、常に自己点検しましょう。

20.若手教師に助言するときは、それが自己保身や学校を守ることだけを考えていないかと、そのバイアスを考えましょう。もしも学校のために若手に泣いてもらわなければならない事情があるのなら、それをちゃんと若手にも伝えましょう。

21.管理職はもちろん、学年主任や生徒指導主事など責任ある立場になったら、部下と子ども、保護者との「調整係」になることを第一義としましょう。そこでは笑顔と誠実さが必要になります。

22.地域には様々な職種の人が集まるコミュニティがたくさんあります。月に一度くらいが一番良いのですが、そうしたコミュニティに定期的に参加して、教師とか学校とかを相対化する目をもちたいものです。ちなみに私は、ファシリテーション系の市民交流イベントによく参加します。

23.「具合が悪いので保健室に行っていいですか?」授業中に子どもが訊いてきます。教師はその場で、瞬時に判断できなければなりません。一人で行かせて良いのか、保健委員の子を付き添わせるのか、自分が連れて行かなければならないのか、移動させずに人を呼ぶのか、それともサボろうとしているから「もう少し頑張りなさい」と制するのか……。例えば、こんな専門教育も受けていない判断を新卒から求められるのが教師なのです。

24る教師にとって最も大切な仕事は何か。学力形成でもなければ人格形成でもありません。それは子どもたちの肉体的・精神的安全を守ることです。子どもたちが元気に過ごせる教室、子どもたちが安心して過ごせる教室、そして何かあったときにはすぐに手当てしてもらえる教室……。それがすべての大前提なのです。

25.教師は簡単な診断と治療ができなくてはなりません。教師はそれぞれの子がいまどんな精神状態にあるのかを常に気にかけなければなりません。そのためにも、子どもたち一人ひとりについて、背景を含めて理解しなければならないのです。

26.学校で一番物知りなのは養護教諭です。子どもたちの手当ての仕方はもちろん、その時々の各学級の状態まで知り尽くしています。養護教諭と日常的にコミュニケーションを図りましょう。

27.何かトラブルがあったとき、先輩教師や養護教諭がどのような手立てをとっているか、常に意識して学びましょう。

28.避難訓練や交通安全教室、生活安全教室といった行事をなめてはいけません。子どもたちのゆるみは毅然と注意しましょう。

29.年齢を重ねるにつれて、子どもたちとの距離が遠くなるものです。子どもたち一人ひとりの背景理解に意識して努めましょう。

30.若い教師には、常々、子どもたちの安全確保のために気をつけなければならないことを伝えましょう。

31.看護・介護関係の本を読むことをお勧めします。教育と看護や介護との間には、相違点もたくさんありますが、それ以上に共通点がいっぱいあります。とても勉強になります。私は『ためらいの看護-臨床日誌から』(西川勝・岩波書店・2007.10)という本を読んで、教育観が変わるほどの衝撃を受けたことがあります。

32.布施明を聴き始めた。きみにできることはボタンつけと掃除……だけど満ち足りていた。そうか。彼女は料理ができなかったんだな。洗濯はちゃんとできたんだろうか。ふとそんなことを考えてしまった。

33.積木の部屋。いい歌だなあ。何度聴いても。シクラメンのかほり。たまらないなあ。落葉が雪に。ウイスキーが飲みたくなる。オレ、二杯が限度かな……。

34.布施明にぎりぎり間に合う世代で良かったな。「積木の部屋」や「シクラメンのかほり」や「落葉が雪に」をリアルタイムで聴けない世代だったら、人生が貧しくなるような気さえする。

35.「先生、机の天板のネジがはずれてぐらぐらしてます」  子どもが言ってくることがあります。ビデオがちゃんと接続されていなくて、なかなか映らないなんてこともあります。PCにトラブルが起こったり、ソフトの使い方がわからないなんてこともよくありますね。こんなとき、気軽に用務員さんや視聴覚担当の先生、PCの得意な先生を呼んでしまっていないでしょうか? みんな忙しいのです。自分でできることは自分でやる。一度聞いたら自分でできるようになる。そういう構えが大切です。

36.人間には得手不得手がありますから、必ずしもなんでもできるようになるのは無理かもしれません。年配の先生がPCソフトのトラブルを周りの先生に頼っているのは愛敬でさえあります。

37.しかし、若い教師はそういう意識ではいけないでしょう。時代は刻一刻と変化しています。教師もその波には逆らえません。これからの変化の時代に対応するためにも、自分でできることをどんどん増やしていくのだ、という決意と覚悟が必要なのだと思います。

38.事務員さんや業務員さん、用務員さんや栄養士さん、こうした学校職員の皆さんと仲良くなりましよう。先輩教師から学べないことがたくさん学べます。

39.何事も一度尋ねるのはOKですが、二度目はなしと心得ましょう。その覚悟が自分を成長させます。

40.PCや情報処理に強くなりましょう。これからは必須です。

41.1.学校職員を軽視してはいけません。彼ら彼女らがどれだけ学校を支えているか、一日よく観察してみましょう。

42.年配の女性の先生が修理修繕やPCに弱いのはかえって愛敬です。ただし、お返しは御茶やお菓子ではなく仕事で……を心がけましょう(笑)。

43.周りの人から学べるか否かは、実は自分の興味関心の広さが決めています。木工の技術に興味を抱いていれば用務員さんは尊敬の対象になりますし、料理に興味を抱いていれば栄養士さんに訊きたいことがいっぱい出て来ます。学びも人間関係も、視野の広さと密接に関係しているのです。

44.「教室ファシリテーションセミナー」第一弾DVDの契約書を返送。『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』のゲラ校正を返送。ふう。これで修学旅行前の仕事がひと段落。あとは『教師力ピラミッド』の見本原稿を仕上げて、添付メールで送るだけだ。しかも、それもあとたった2頁。ふう。

45.レイアウトはスカスカだけど、まずまずのできになりそうな予感がしてきたな。まだ、指導力や事務力の項に入ってないからいまひとつだけど、指導力や事務力の具体が入ってきて、チーム力の作り方がはいってくると、けっこう提案性のある本になりそうな気がしてきた。良い機会をもらったな。新境地だ。やっぱり僕は若い女性編集者と組むのが良いらしい。いや、一般的におじさんは若い女性編集者に持ち前の固さを緩和してもらうのが良いのかもしれない。ファンシーレイアウトも捨てたもんじゃない……(笑)。

46.先生はお堅い職業。先生は全体の奉仕者。先生の仕事の中心は学力形成と人格形成。先生の仕事は健全な市民の育成。どれも間違いではありませんが、私は敢えて「教師の仕事の半分はサービス業」とよく言います。

47.子どもや保護者を楽しませる視点は、常にもたなければなりません。だって、堅物なだけの先生よりも楽しい先生の方が良いに決まってるじゃありませんか。言うまでもないことです。

48.子どもたちが楽しめるような授業を展開する。保護者が楽しめるような保護者会にする。こんなふうに「楽しさ」だけを追究してはいけません。

49.授業の要所でユーモアを発揮する、保護者会の話では最初にひと笑い起こす、そういうことであって、大事なことや真面目なことは誠実に語らなければなりません。要はメリハリです。

50.楽しいスピーチを心得ていたり、ちょっとした芸を身につけていたり、子どもたちの学校での姿をビデオに編集したり、そんな技術を身につけることで、教師の仕事に潤いが出るものです。

51.1.子どもたちに教師がツッコミを入れることで笑いをとるという在り方は、年度当初には危険を伴います。最初は自分がボケて子どもにツッコミを入れてもらうところから始めます。教師のツッコミは子どもとの信頼関係を築いてからと心得ましょう。

52.保護者相手のスピーチでは、自分を落とすのがコツです。さり気ない日常生活の話題が良いでしょう。大仕掛けなユーモアはかえって品位を落とすことがあります。

53.写真やビデオの編集、ちょっとした綺麗なしおりをつくるといった、子どもも保護者も楽しめる技術を身につけましょう。

54.1.年齢を重ねれば重ねるほど、教師の言は重く受け取られるようになっていきます。三十半ばを過ぎたら、きわどい笑い、毒舌系の笑いは厳禁と心得ましょう。

55.教師が保護者の年齢を超えた頃から、保護者から見ても少しずつ距離感覚が離れていくものです。保護者集会では、威厳を示すことよりも、親しみやすさを優先しましょう。

56.子どもにしても保護者にしても、人を楽しませるのは大がかりで個性的な話術ではありません。芸人の真似や駄洒落はかえって品位を落とします。日常生活の中でだれでも経験するようなちょっとした不満、恥ずかしさ、照れくささなどを普段から収集しましょう。

57.取り敢えず、この週末に予定していた仕事はすべて終えた。この予定をこなすために金曜日の学年の呑み会を失礼した。でも、終えてみると呑み会に出ていても仕上がっていたな、と思えるような仕事量だった。さて、満足すべきか後悔すべきか。金曜日の呑み会は参加していれば、間違いなく楽しめたのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自らの経験を絶対視しない

一斉授業の教師の言葉はすべてが〈迎えに行く言葉〉でした。おいで、こっちにおいで、そういう言葉です。〈迎えに行く言葉〉ではなく、子どもに〈したたり落ちる言葉〉や〈あふれ出る言葉〉を求めると授業も生徒指導も変わります。そのときに教師に必要になるのは〈待つ言葉〉と〈戯れる言葉〉です。

授業においても学活においても、教師は無意識のうちに子どもたちをコントロールしようとします。言い換えれば、自分が子どもたちをコントロールできると思っています。それがうまくいかないと、腹を立てたり落ち込んだりすることも少なくありません。

しかし、そこには奢りがあります。自分は子どもたちよりも優れているとか、自分は自分の人生において価値ある経験をしてきたとか、自分は教職に就いたのだから子どもたちを指導する資格があるとか、感じ方は様々ですがどこか奢っているのです。また、保護者に対してもそうした奢りに基づいた対応をしてしまい、クレームを招いてしまい、大問題に発展していくという事例も少なくありません。最終的には意固地になってしまい、周りの助言にさえ耳を傾けない、ときにそういう人さえ見ることがあります。

私は基本的に「自分は教師に向かないな…」と自己認識しています。私は自分よりも他人のことを考えて生きるということができませんし、モラルをもってしっかりと生きるということができていません。体調や病気に関する知識にも乏しく、子どもが怪我をしたり体調をおかしくしたりするときにはおろおろすることが少なくありません。周りの先生方にいつも助けられています。すべてを賭けて部活に打ち込んだという経験もありませんし、これといった趣味に打ち込んだという経験もありません。言ってみれば、ごくごく普通の人間に過ぎません。そんな自分が教職に就き、子どもたちが自分の話に毎日耳を傾けてくれることが不思議な気さえしています。保護者と呑み会で話をしたりしていると、自分の知らない世の中の話題が次々に出て来て、驚きの連続を体験します。

何を言いたいのかというと、私は教師などというものはその程度の人間がなっているのだと言いたいのです。

例えば、部活動を一生懸命に指導している先生がいます。学生時代にその競技ひと筋に取り組み、ある程度の成果も挙げています。教職に就いてからも毎日毎日部活動の指導に勤しんできました。おそらくそうした先生はその競技を通じて「人間とはかくあるものだ」とか「チームワークとはかくあるものだ」とか、自分の人生にかかわるような体験をしたきたのでしょう。もちろんそれは大変立派なことですが、その経験がすべての子どもたちに通じるような、すべての人々にとって絶対的な勝ちをもつような普遍性のある経験だなどと思ってはいけません。

例えば、人は一人では生きていけない、他人の気持ちを考えながら謙虚に生きなければならない、人間にとって最も大切なのは謙虚さである、そう主張する先生がおられます。教室には「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という「三銃士」の名言が掲げられていたりします。それはそれで一つのやり方であり、否定されるべきものではありません。しかし、そうした先生が、子どもや保護者のエゴイスティックな振る舞いをすべて否定したり批判したりしながら教職にあり続けるとしたら、それは大問題です。世の中には「自分のやりたいことに打ち込みながら、道を切り開いていくのだ」という人生観に基づいて生きている人だってたくさんいるのです。

教師の奢りは、もっと言えば人間の奢りは、自分の経験を絶対視し、その経験から導き出される価値観にそぐわないモノ・コト・ヒトを批判的に見るところから形成されます。友人同士で語り合ったり居酒屋談義に花を咲かせたりする場面ならそれも悪くはありませんが、集団を導こうとする人間がそうした心性を軸にして教壇に立っているとしたら、私はそれを明確に否定します。

教師の人生観、世界観にとって必要なのは、「深さ」よりもむしろ「広さ」なのです。もちろん「深さ」が必要ないというわけではありませんし、深ければ深いほど良いのは確かでしょう。しかし、優先順位は「広さ」の方が上です。「広さ」のない「深さ」は害悪になることさえ少なくありません。それが教職です。自分を「正しい」などと過信しないことです。むしろ、「これには別の見方がないか」「もっと広い世界観はないか」と常に自らに問い続ける姿勢こそが必要なのです。

実は、世界観の「広さ」を追究し出したとき、子どもや保護者が指導の対象ではなく学びの対象となります。子どもの言うこと、保護者の言うことが「これはどういう意味なのか」「前提となっている思想は何なのか」「結局、自分にどうして欲しいと言いたいのか」「その言に妥当性はどのくらいあるか」などなど、いろいろなことを考えながら接することができるようになっていきます。

この境地に立つと教師の言葉は変わります。「こっちにおいで」と〈迎えに行く言葉〉ではなく、子どもや保護者から〈したたり落ちる言葉〉や〈あふれ出る言葉〉が発せられるのを待つことができるようになります。こちらに待つ姿勢ができると、子どもや保護者は自然に周りに張っていた膜を取り除くようになっていきます。その結果、これまでどうしてもうまくいかなかった対峙的な人間関係が溶解し、戯れることができるようになるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フォーマット

こんなフォーマットはどうでしょうか。僕にしか書けない本になるような気がするのですが。

規範意識をもつ!
「このくらい許されるだろう」が失敗を生む

自分が他人の目にどう映るか……それを常に気にしなければなりません。「このくらいは許されるだろう」という発想で行われることは、確かに9割の人たちは許してくれますが、許してくれない1割の人たちが必ずいるものです。

学生時代は徹夜明けで講義中に寝てしまったり、酔って馬鹿なことをしたり、喧嘩をした友人とそれ以後の付き合いを絶ったり、なんだかんだ言ってもそういうことが許されてきました。しかし、社会人になった途端に、それらのすべてが許されなくなります。

特に教師にはまだまだ「聖職」のイメージがつきまといます。他の職業の人よりも行動には気をつけなければなりません。

【若い教師に向けて】

1.夜更かしや徹夜、遊び過ぎや深酒など、仕事に支障を来すような学生時代のノリは許されません。

2.学生時代の「勉強より恋愛」とか「学校より友情」といった考え方も、仕事には通用しません。

3.電話の応対や敬語の使い方、挨拶や服装など、日常生活をただす必要があります。スピード違反や車の改造など以(もつ)ての外(ほか)です。

【中堅・ベテラン教師に向けて】

1.自分一人くらいはいいだろう……ちょっとした油断が周りから のあなたの評価を大きく下げてまいます。すべての会議に顔だけ は出しましょう。そして一度くらいは発言しましょう。

2.もう一匹狼でいられる年ではありません。同調圧力を醸し出し すぎるのも嫌われます。バランス感覚を身につけましょう。

【自分を磨くヒント】

あなたは自分の〈キャラクター〉を自分自身で的確に捉えているでしょうか。「自分はこういう人間だ」という自己認識ではありません。周りの同僚や子どもたちにどう見えているかという〈キャラクター〉です。

服装にしても言葉遣いにしても立ち居振る舞いにしても、〈キャラクター〉にふさわしいものであれば、自然と受けられいられるものです。その意味で、教師に必要なのはまず自己分析です。教師だって、究極の目標は「自分らしい教師」になることですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月2日(土)

1.昨日は『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(明治図書)の初校ゲラ。読んでいてかなり直したいところが出てくる。もう合唱コンクールやステージ発表の本を出すこともないだろうから、これが最初で最後だろう。そう思うと、ある程度こだわりをもって校正した方が良いなと感じる。

2.そうそう。石川の新刊を読む若者たちに一つだけ言っておきたいことがある。それは石川は一斉授業がものすごくうまいということだ。おそらくもう生涯提案されることはないだろうが、石川実践もただ「活動」として生み出されたわけではない。要所要所の勘所がしっかりと押さえられている。私の立場からはこのことだけは伝えておきたい。

3.『必ずKimiwonosete1成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(明治図書)の初校ゲラ。完了。結局、写真を増やすことにした。それも90年代の僕の位置が見える、なんとも懐かしい写真を。‎1995年8月。「君をのせて」(堀裕嗣作)。バックは「最後の晩餐」のシルエット。舞台中央では愛した女性の肖像画を描くというロマンチックなラストシーンである。

Micemen4.結局、合唱コンクールの方は「たった一枚の賞状。しかし、その価値はただ一枚の賞状に止まらない」という言葉で、ステージ発表の方は「演劇とは一つ一つの瞬間をまるで一枚の絵のように構成することだ」とまとめた。画像は1997年8月。「ハツカネズミと人間」(ジョン・スタインベック作/堀裕嗣脚色)の中文連公演である。

5.長年にわたる新聞報道を見ていて、教師批判の理由というのは四種類に分類されるなあと感じるようになりました。保護者のクレームも基本的にはマスコミの論調を受けて成り立つ傾向にありますから、だいたい同じ四つの批判に傾向としては分類できるのではないかと思っています。

6.第一に、教師のモラルや人間的素養を批判する場合です。教師であるのにこういう不道徳なことをしたという批判ですね。淫行や飲酒運転で全国ニュースになる事例は論外としても、教師のちょっとした発言の内容が批判されるとか、言葉遣いが汚いと非難されるとか、或いは服装や立ち居振る舞いなどがやり玉に挙げられることもあります。これらの点については、「民間では通用しない」というフレーズが決め台詞になることが多いのも特徴です。

7.第二に、指導力の在り方が批判の対象となる場合です。「厳しすぎる」「甘すぎる」という批判をはじめとして、「子どもと距離がありすぎて、子どもが相談しづらいと言っている」とか「学校の立場ばかりを主張して、うちの子のことをわかってくれない」とか、「若くて頼りないので、もう少し教師然として欲しい」とか、「ダメなことはダメと、しっかり指導して欲しい」とか、まあ様々な批判があります。これらに加えて、「先生の授業をうちの子がわからないと言っている」といった授業力に対する批判も多くあります。

8.第三に、事務能力に対する批判です。「評価評定がいいかげんなのではないか」とか、「前にどんな指導や保護者連絡のやりとりが行われたのかをちゃんと記録しているのか」とか、「連絡文書を細かいところまでちゃんと出して欲しい」とか、「こんな文章を書いていて、それでも先生か」とか、これまた様々な批判があります。

9.第四に、先見性や創造性の無さに対して批判される場合もあります。「こんなことになる前に予兆を捉えられなかったのか」とか、「うちの学年の学習発表会は地味なのではないか」とか、「この時代にこんな学校運営は時代遅れなのではないか」とか、「うちの学校には特色がないですよね。校長先生はどうお考えですか」とかいうタイプの、教師を評論家的に批判する立場です。

10.すべてが一理ある批判です。そして私は、こうした保護者クレームや教師批判の報道を見ていて、とすれば、これらをすべて併せ持つこと、それが一応の「教師力」ということになるのではないか、そう捉えて良いのではないか、と考えるようになりました。教師には耳の痛いことばかりではありますが、少なくとも世論が求めている「教師力」はここから想定できるのではないか、そう考えたわけです。

11.「教師力」の要素には四つある。第一に「人間的素養」、第二に「指導力」、第三に「事務力」、第四に「先見性・創造性」。私はそういう結論に達しました。そしてこの結論を得るに及び、教師のという職業の特殊性、難しさを身にしみて理解しました。

12.よく教師を評して「民間では通用しない」という言を聞きますが、教師には大学出たての新卒からこれら四つのすべてが求められるのです。少なくともこれらの四つすべてが批判の対象となり得るのです。この一事をとっても民間と比べて楽だとはとても思えません。

13.また、もう一つ、重要なことがあります。「教師力」がこの四つからできていると仮定して、私たち教師はこれらの四つのどれについても専門教育を受けていないという事実です。教員養成のシステムを批判したいのではありません。こういう特殊な職業なのだと主張したいのです。

14.「指導力」一つとってみても、普通のサラリーマンが三十代・四十代になって、部下をもつことで初めて自分の「指導力」の有無を意識して修養に努める、少しずつコツを覚えていく、自信を深めていく、一般にそうやって獲得していくものを、私たち教師はいきなり新卒で求められるのです。

15.相手は子どもじゃないかと侮ってはいけません。常識や損得勘定や競争意識や、社会人なら当然のようにもっている諸々の基盤をもっていないだけに、子供たちへの指導力が大人へのそれと比べて容易だなどということは決してありません。むしろ子どもを介して、教師と対等な立場の保護者を常に意識しなければならないことが、その指導力の発揮を二重にも三重にも難しくするのです。

16.むしろ哀しいのは、他ならぬ教師自身がそのことに気づいていないことです。私たちの仕事は私たち自身が考えているよりも、私たち自身がイメージしているよりも、はるかに難しい職業なのです。

17.それも時代が変わって、最近になって難しくなってきたわけではありません。おそらくもともと難しい職業だったのです。それが学校教育に追い風が吹かなくなり、社会が多様化して学校教育への国民的コンセンサスが危うくなり始め、みんなが無意識に抱いていた学校に対する愛憎半ばする思いを口にするようになって、教職がもともともっていた難しさが顕在化してきただけです。私はいま、そのように考えています。

Photo18.このような現状認識に立ったとき、私は「教師力」のモデルとして〈教師力ピラミッド〉を考案しました。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる資質と能力を概観することが様々な問題解決の出発点になるだろう……そう考えたからです。


19.〈教師力ピラミッド〉はごくごく簡単にいえば、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、資質・能力の習得を難易度に応じて三段階にランクづけしたものです。

20.第一段階は、「モラル」と「生活力」です。教師の基盤が「モラル」であることは言うまでもないことですが、「生活力」には若干の説明が必要でしょう。具体例を挙げればこういうことです。

21.例えば教師は、子どもが具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはなりません。教室のテレビが壊れたとなれば修理もしますし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになります。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないわけです。 こうした「なんでも屋」的な資質・能力を、私は「生活力」と呼んでいます。つまりは、日常生活で必要なライフスキル全般のことですね。

22.言葉でいってしまえば簡単ですが、こうしたことを新卒から求められてしまうのが教師の最も難しいところであり、他の職種とは異なるところだと思っています。

23.第二段階に、「指導力」と「事務力」です。

24.「指導力」には、悪いことは悪いと子どもにしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる子どもを優しく包み込むような「母性型指導力」、子どもと気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種がありますが、性格の三分類とさえ言えるこれら三つのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められるわけです。

25.また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高いといわざるを得ません。

26.成績処理や生活記録、進路事務などにおいては高い「緻密性」が求められます。ミスは下手をすると裁判にもなりかねません。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自の教育課程づくりを文部科学省が推進していますから、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編制という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められます。

27.要するに、指導事項のディテールを系統的に組織する力からグランドデザインを構築する力まで、多種多様な事務能力が期待されているわけです。

28.更にその上に、「先見性」と「創造性」です。

29.いじめや不登校など、担当する子どもに事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められます。最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄されます。行事や生徒会活動では、地道な活動ばかりでなく、子どもたちの多くが活躍する華のある運営が求められもします。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければなりません。

30.まさに、「先見性」や「創造性」も、教師を評価する重要なポイントなのです。

31.〈教師力ピラミッド〉を「教師力」のモデルとしてもつことには大きく分けて三つの利点があります。

32.まず第一に、世論や保護者の視点の鏡になっているということです。一般に、教師は「学校の論理」「職員室の論理」で動きがちです。それにそぐわない子どもの態度や保護者の言い分を退けがちです。その点を戒めるためにも、世論が求めているものの全体像を常に意識することが大切です。〈教師力ピラミッド〉はこの意識をもつことを促します。

33.第二に、教師の自己評価の枠組みになるということです。学校という閉じられた空間で、周りには同じ職種の同僚と子どもたちしかいないという環境に慣れてしまうと、教師としての自己評価の観点が狭くなってしまいます。自分の視点に閉じこもってしまいます。〈教師力ピラミッド〉はこのような悪弊を打開し、自らをメタ認知する視点を与えてくれます。

34.第三に、教師の成長モデルにもなっているということです。〈教師力ピラミッド〉は三段階で構成されています。原則的には下の方から上の方へという成長モデルを表しています。つまり、ピラミッドの広い部分、「モラル」や「生活力」はすべての教師が絶対に資質・能力としてもたなければならないものです。新卒教師はまずこれを身につけなければなりません。

35.それに対して、「先見性」や「創造性」はすべての教師がもたなければならないとまではいえない、そんな資質・能力です。しかし、これを身につければ教師としてはかなり力量が高いと判断できる、そういう類の力です。また、これらの資質・能力をもっていないと管理職になってはいけないという、私なりの管理職批判の意味合いも込めています。

36.更に、ビラミッドの二段目、「指導力」と「事務力」についても同様のことがいえます。「指導力」は下方の「友人型指導力」を身につけることから入り、次第に自らのキャラクターに応じて、上方の「母性型教師」と「父性型教師」へと転移していくものだといいう、教師の力量形成に対する私の認識を表しています。また、「事務力」についても同様に、まずは「緻密性」であり、次第に「研究力」を身につけ、最終的には「教務力」が身につくのだという順次性を示しています。

37.〈教師力ピラミッド〉はこのように、教師が自らの現状を自己評価できるようにと、その視点を提示することを目指して開発されたものなのです。

38.いつも感じることだけれど、教師に厳しいことをツイートすると、途端にリツイートされなくなる。FBの「いいね!」ももらえなくなる。僕のフォロワーには教師が多いからあたりまえといえばあたりまえなのだけれど(笑)。僕はきっと普通の先生にとって決して敵ではないけれど、きっと味方でもない。

39.教育界の外から、教師がいわれのない批判を浴びせられることには抵抗を示すけれど、教師視点に閉じこもって自らを正当化している教師は大嫌いである。基本的に勉強しない教師も嫌いだ。僕がすべての著作で言っていることは、結局、教師は「世の中の視点」をもちましょう、ということに過ぎない。

40.おいおい!編集者に提示されたフォーマットで原稿を書き始めたら、怖ろしいほどに進むぞい。なんせ一話題二頁、しかも4割が挿絵だもの。これ、すぐできそう。いいのか、ほんとにこれで……。でも、絶対にこのテーマでちゃんと文章でできた本を書きたくなっちゃうな、オレの場合。それもいいか(笑)。

41.すごくいやなこと言うけど、あのスカスカの教育書って、こんなに楽して書かれていたんだって書いてみてよくわかった。これで僕と同じ原稿料もらってたんだ。原稿料って文字数で支払われるべきだ…なんて非現実的なことを思ってしまった。このスカスカ教育書文化はやめた方がいい。著者も育たない。そういや、晋の本はスカスカじゃない……。

42.よし!イラストありまくりのスカスカなのに読み応えがある……っていうフォーマットを開発してみよう。また楽しみが増えた。こういう、不満をすぐに自分の楽しみに転化してしまうところが僕の真骨頂なのだ。なにせ、実践研究も本を書くのも道楽だから(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「教師力」って何だろう

夢を抱いて教職に就いた若者が1年も経たないうちに教壇を去って行く……そんな事例が増えています。若い教師が自ら命を絶ったという報道も後を絶ちません。

教職について三十年以上という大ベテランが早期退職する事例も増えています。管理職が自ら希望して降格するという事例も増えています。

正直、どうしてこんな時代が来てしまったんだろう……と感じます。ひと昔前までは、教師っていい仕事だったんです。身分的にも経済的にも安定していて、夏休み・冬休みがあって、子どもたちの成長にかかわることで自己実現を図れる、そんなイメージの仕事だったんです。

そんなに昔のことではありません。私が教職に就いた20年前には、まだまだそんな雰囲気がありました。「十年ひと昔」と言いますが、ほんのふた昔前の話です。

「教師力」という語を最初に用いたのは、私の記憶が正しければ朝日新聞です。2003年の3月のことでした。

「教師力」などという言葉が流行するということは、世論に多くの教師が「教師力」が持ち得ていないという批判的言説がはびこっているということを意味しています。教師の多くが普通に教師として満足のいく仕事をしているのであれば、わざわざ「教師力」などという仰々しい言葉を使う必要はありません。

当時は2000年前後からマスコミを賑わした「学力低下論争」や「学級崩壊・学校崩壊」を受けて、「指導力不足教員」や「不適格教員」という語が流行の兆しを見せ始めた頃でした。時を同じくして小渕内閣の「教育改革国民会議」から安倍内閣の「教育再生会議」へという政治的な流れが、学校教育における「教師力不足」という世論を一気に加速させたようにも思います。

それに伴って、保護者による学校へのクレームも増加する一方。当初は多くの教師が抵抗を感じていた「モンスター・ペアレンツ」という言葉も、もう定着してしまった感があります。もう多くの教師が保護者のクレームに慣れてしまったのです。中には理不尽なクレームだと保護者を訴える教師まで出る始末……。

私にはこれが正常な状態だとはとても思えません。少なくとも、子どもたちを育てるのに良い環境でないことだけは確かでしょう。

とは言っても、もうかつての古き良き時代に戻ることはあり得ません。時間は不可逆です。教師には「じゃあ、これからどうするか」という現実的対応が求められます。

さて、どうしましょうか。いったい「教師力」って何なのでしょうか。それが問題です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「対話」がクラスにあふれる!国語授業・言語活動のアイディア42

遠いところからだんだんと近づいてくる者がいる。気がつくと自分もまたその者に同じように近づいていた……。みなさんはそんな感慨をもつ人物をもっているだろうか。

切磋琢磨ではない。ライバルでさえない。互いに互いのやっていることをおもしろがっているうちに、なんとなくいっしょにいるようになる。そして、自分が何でも糧にしようという姿勢をもっているが故に、ふと気がつくとずいぶんと頭の中身まで近づいていたと気づく、そんな関係の人間をである。

石川晋は私にとってそういう人間である。

彼とはもうかれこれ15年の付き合いだ。最初の出逢いは私の記憶によれば、1997年の1月、ネットワークの北海道集会だったと思う。大谷和明さんを介して紹介してもらった記憶がある。当時の彼は、実践思想に何のまとまりもなく、おもしろそうなもの、楽しそうなものに何にでも飛びつく、俗にいうミーハー実践家だった。いや、もう少しその本質を言えば、自分の直感だけを頼りに取り入れるものと取り入れないものとを峻別する……それだけの男だった。

いま、石川晋を「ミーハー実践家」と書いたが、実は当時は、石川も私も決して「実践家」などと呼んで良いものではなかった。実践に核もなく、方向性もなく、ぐだぐだの実践を繰り返している、ただの若手教師だった。自らの直感だけを頼りに、石川は人間関係のネットワークを築くことに猛烈な意欲をもち、私は自らの理論体系をつくることに猛烈な意欲をもつ、それらの意欲だけが私たちを支えていた、そんな若者だったように思う。

私と石川とは同い年である。たぶん私たちはS極とN極だったが、同じものを見てきた、同じ時代を生きてきたS極とN極だった。おそらく石川は私からものごとをドットとして座標に置くことを学び、私は石川から座標に置くべきドットの集め方を学んだ。ドットの置き方に長けてきた石川と、ドットの集め方に長けてきた私とは必然的に近づいてしまった……、非常に単純化していえばそういうことなのだろうと思う。

041wvgcbwa0l__sl500_aa300_今回、石川晋の新刊を読んで(なんと初の単著というからまったく晋らしい……)、なんとも晋らしい本だと感じた。理屈を最小限にとどめたことや思想的な背景を語らなかったことは教育書特有の出版社による編集方針であろうが、それにしても実践群にまとまりがない。体系化の志向性がない。

いや、本当は私には彼の体系化の志向性、シンプルにいえばなぜこの順番で実践を並べたのかという志向性はよく伝わってくる。でもそれを晋は語らない。それが私にとって彼らしいのだ。語ったところで、大きな方向性しか出てこない。各実践は入れ替えが可能である。試行錯誤の後に取り入れて偶然に機能したことが満載である。その裏に機能しなかった失敗例も数多ある。それでいて、なぜその地点にたどり着いたのかというライフヒストリーについてはエッセンスを出したくてたまらないという自己顕示も隠せない。そういうことがよく見える並べ方なのである。なんとも石川晋らしいではないか(笑)。

もちろん言語活動というものは、これをやったらあれ、あれで布石を打って次はこれといった、系統的実践化を主張するのがナンセンスな領域である。そもそもそうした思考は〈一人の架空の子どもの成長モデル〉を想定して単線的に並べないと系統化されないのだから、様々な子どもたちにいろいろな機能の仕方があって、そういう活動にこそ取り組まねばならないという言語活動本来の方向性に合致しない。それはそもそも活字媒体には馴染まないのだ。本当はDVDか何かで実際の子どもたちの姿をふんだんに使いながら、1本2時間20本くらいで伝えられたら……というタイプの実践群である。それを「手法の概要」「進め方」「活用のポイント」の3点で整理しようというのにも無理がある。なんとも石川晋らしいではないか(笑)。

しかし、逆にいえば、よく書いたな……という思いもある。私が言ったようなこの試みの「無茶」は石川としては承知のうえだろう。編集者との打ち合わせにおいて、かなり忸怩たる思いも抱いたはずだ。基本的に「言語活動」の本質は技術ではない。従って、「手法の概要」「進め方」「活用のポイント」というフォーマット自体が馴染まない領域である。それを敢えて技術を前面に出さざるを得なかったところに、彼の深い忸怩を想像してしまうのだ。多くの画像を載せることだけが、著者と編集者の方向性の異なるベクトルの間で唯一交差したところなのだろう。良い画像がたくさん載っていることだけは確かである。このあたりが想像できるところも、なんとも石川晋らしいではないか(笑)。

いずれにしても、これからである。編集者にも読者にも私は断言するが、こんなものは石川晋という男の3%くらいにしか過ぎない。全体像のように見えて、まったく全体像ではない。42のドットを紹介したように見えて、まったくドットの紹介でもない。これはシンプルに言えば、3年間の実践記録に過ぎない。石川晋実践の中で目に見える部分、文字通り「氷山の一角」に過ぎない。

教師にとって、学びのネットワークとは何なのか。子どもにとって、学びのネットワークとは何なのか。そのために学校教育は何ができ、教師にはどんな現実的な方途があるのか。次が待たれる。

私は先年、学事出版の「10原理・100原則」シリーズを得て、若い頃からの資質であった体系化への志向を一段一段積み重ね始めた。一つ一つの観点を絞っての切り取りは明治図書から具体的に提案し始めている。これから国語科教育においても同じことを始める。そのためにドットを集める毎日を送っている。

おそらく石川晋はその逆の道を辿るだろう。次は学級運営のアイディア集かもしれないし、道徳かもしれないし、教師の研修の在り方かもしれないし、教材開発かもしれないし……。でも、彼はいつか領域に関係なく、「つながる」ことの意義と「つながる」ための方途と「つながる」ことを第一義としたときの生き方の方向性を提案するはずである。編集者の方針で、それがアイディア集の形をとるにしても……。

私たちはいくら近づいても、やはりスタート地点が異なる。直感に従う構造は同じでも、その直感の在り方が異なるのだ。いやはやまったくおもしろいものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今月のお知らせ/2012年6月

6月です。修学旅行です。安比に2泊、浅虫に1泊です。農業体験と学級別選択コースなので、日程的には割と楽な修学旅行です。それが終われば期末テスト、評定作業、そして今年は勤務校の新校舎への引っ越しと進んでいきます。夏休みの研究会もびっしりですから、忙しい夏になりそうです。

【書籍・出版関係】

120504dvdDVD「第3回教室ファシリテーションセミナーin京都」堀裕嗣/藤原友和

教室にワールド・カフェを導入する/ファシリテーション・グラフィックで議論を見える化する/教室にオープン・スペース・テクノロジーを導入する/2000円/有限会社kaya/お申し込みはこちら

【お知らせ】 DVDをご購入の皆様へ。私にメールをいただければ、このセミナ​ーで用いている教材を添付メールにてお送りします。ファイルは一​太郎です。hori-p@nifty.com

9784761918842新刊『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ~授業への参加意欲が劇的に高まる110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2012年3月/第二刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

教室ファシリテーションセミナーでお逢いできればと思います。

9784761918484s生徒指導10の原理・100の原則~気になる子にも指導が通る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年10月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

生徒指導関係の講演や講座を依頼されることが多くなりました。有り難いことです。今後ともよろしくお願いいたします。

9784761918088学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年3月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(明治図書)と『スペシャリスト直伝!教師力アップ 成功の極意』(明治図書)を脱稿しました。現在、『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版)と『教師力ピラミッド~生徒指導でつまずかない40の鉄則』『義務教育で〈習得〉させたい国語学力~授業づくりの10り原理/120の言語技術』を執筆中です。また、『教室ファシリテーションへのステップ~音読~』(書名検討中/「研究集団ことのは」共著)『次世代リーダー必携!教師の「力」アップ講座』(山田洋一氏との共著)を鋭意作成中です。どれも秋から冬にかけて上梓できると思います。

この他にも、「教室ファシリテーションセミナー」のDVD企画のシリーズ化をはじめ、来春の上梓を目指して、僕の主要コンテンツの書籍企画をいろいろ書き進めています。

【研究会関係】

私に関係する6~7月の研究会をご案内させていただきます。お時間が許せばお越しください。6月は執筆専念と修学旅行準備のため登壇を控えています。

2012年6月16日(土)/「研究集団ことのは」6月例会/堀自宅/ご入会希望の方はご連絡下さい。ただし、中学校国語教師に限ります。/終了しました。

2012年6月20日(水)/日高教育研究所教育講演会/新ひだか町公民館

2012年7月7日(土)/教師力BRUSH-UPセミナーin旭川/桑原賢・小林智・堀裕嗣・松田剛史

2012年7月14日(土)/第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京学級づくりと授業づくりの勘所/講師:堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/上智大学

2012年7月15日(日)/第1回教室実践力セミナーin東京学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー/講師:堀裕嗣/東京都内

2012年7月21日(土)/「研究集団ことのは」7月例会/堀自宅

2012年7月30日(月)~31日(火)/北の教育文化フェスティバル

その後の予定はこちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6月1日(金)

1.授業は四つ。小テストが一つ。小テストの復習が三つ。学活は修学旅行の係会。僕の担当は班長会なので、42人の班長を集めて日程の中の重要ポイントを確認。放課後は少しだけ事務仕事。

2.今日は学校に晋の新刊が届く。一気に読んでしまった。ひと言でいえば、晋らしい本である。もう少し理論というか、思想を書いた方がわかりやすかったかもしれないね。活動型授業に興味をもっている人だけを読者対象としているのなら良いけれど、一般人にはわからないだろうなあ……という感想を抱く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »