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「対話」がクラスにあふれる!国語授業・言語活動のアイディア42

遠いところからだんだんと近づいてくる者がいる。気がつくと自分もまたその者に同じように近づいていた……。みなさんはそんな感慨をもつ人物をもっているだろうか。

切磋琢磨ではない。ライバルでさえない。互いに互いのやっていることをおもしろがっているうちに、なんとなくいっしょにいるようになる。そして、自分が何でも糧にしようという姿勢をもっているが故に、ふと気がつくとずいぶんと頭の中身まで近づいていたと気づく、そんな関係の人間をである。

石川晋は私にとってそういう人間である。

彼とはもうかれこれ15年の付き合いだ。最初の出逢いは私の記憶によれば、1997年の1月、ネットワークの北海道集会だったと思う。大谷和明さんを介して紹介してもらった記憶がある。当時の彼は、実践思想に何のまとまりもなく、おもしろそうなもの、楽しそうなものに何にでも飛びつく、俗にいうミーハー実践家だった。いや、もう少しその本質を言えば、自分の直感だけを頼りに取り入れるものと取り入れないものとを峻別する……それだけの男だった。

いま、石川晋を「ミーハー実践家」と書いたが、実は当時は、石川も私も決して「実践家」などと呼んで良いものではなかった。実践に核もなく、方向性もなく、ぐだぐだの実践を繰り返している、ただの若手教師だった。自らの直感だけを頼りに、石川は人間関係のネットワークを築くことに猛烈な意欲をもち、私は自らの理論体系をつくることに猛烈な意欲をもつ、それらの意欲だけが私たちを支えていた、そんな若者だったように思う。

私と石川とは同い年である。たぶん私たちはS極とN極だったが、同じものを見てきた、同じ時代を生きてきたS極とN極だった。おそらく石川は私からものごとをドットとして座標に置くことを学び、私は石川から座標に置くべきドットの集め方を学んだ。ドットの置き方に長けてきた石川と、ドットの集め方に長けてきた私とは必然的に近づいてしまった……、非常に単純化していえばそういうことなのだろうと思う。

041wvgcbwa0l__sl500_aa300_今回、石川晋の新刊を読んで(なんと初の単著というからまったく晋らしい……)、なんとも晋らしい本だと感じた。理屈を最小限にとどめたことや思想的な背景を語らなかったことは教育書特有の出版社による編集方針であろうが、それにしても実践群にまとまりがない。体系化の志向性がない。

いや、本当は私には彼の体系化の志向性、シンプルにいえばなぜこの順番で実践を並べたのかという志向性はよく伝わってくる。でもそれを晋は語らない。それが私にとって彼らしいのだ。語ったところで、大きな方向性しか出てこない。各実践は入れ替えが可能である。試行錯誤の後に取り入れて偶然に機能したことが満載である。その裏に機能しなかった失敗例も数多ある。それでいて、なぜその地点にたどり着いたのかというライフヒストリーについてはエッセンスを出したくてたまらないという自己顕示も隠せない。そういうことがよく見える並べ方なのである。なんとも石川晋らしいではないか(笑)。

もちろん言語活動というものは、これをやったらあれ、あれで布石を打って次はこれといった、系統的実践化を主張するのがナンセンスな領域である。そもそもそうした思考は〈一人の架空の子どもの成長モデル〉を想定して単線的に並べないと系統化されないのだから、様々な子どもたちにいろいろな機能の仕方があって、そういう活動にこそ取り組まねばならないという言語活動本来の方向性に合致しない。それはそもそも活字媒体には馴染まないのだ。本当はDVDか何かで実際の子どもたちの姿をふんだんに使いながら、1本2時間20本くらいで伝えられたら……というタイプの実践群である。それを「手法の概要」「進め方」「活用のポイント」の3点で整理しようというのにも無理がある。なんとも石川晋らしいではないか(笑)。

しかし、逆にいえば、よく書いたな……という思いもある。私が言ったようなこの試みの「無茶」は石川としては承知のうえだろう。編集者との打ち合わせにおいて、かなり忸怩たる思いも抱いたはずだ。基本的に「言語活動」の本質は技術ではない。従って、「手法の概要」「進め方」「活用のポイント」というフォーマット自体が馴染まない領域である。それを敢えて技術を前面に出さざるを得なかったところに、彼の深い忸怩を想像してしまうのだ。多くの画像を載せることだけが、著者と編集者の方向性の異なるベクトルの間で唯一交差したところなのだろう。良い画像がたくさん載っていることだけは確かである。このあたりが想像できるところも、なんとも石川晋らしいではないか(笑)。

いずれにしても、これからである。編集者にも読者にも私は断言するが、こんなものは石川晋という男の3%くらいにしか過ぎない。全体像のように見えて、まったく全体像ではない。42のドットを紹介したように見えて、まったくドットの紹介でもない。これはシンプルに言えば、3年間の実践記録に過ぎない。石川晋実践の中で目に見える部分、文字通り「氷山の一角」に過ぎない。

教師にとって、学びのネットワークとは何なのか。子どもにとって、学びのネットワークとは何なのか。そのために学校教育は何ができ、教師にはどんな現実的な方途があるのか。次が待たれる。

私は先年、学事出版の「10原理・100原則」シリーズを得て、若い頃からの資質であった体系化への志向を一段一段積み重ね始めた。一つ一つの観点を絞っての切り取りは明治図書から具体的に提案し始めている。これから国語科教育においても同じことを始める。そのためにドットを集める毎日を送っている。

おそらく石川晋はその逆の道を辿るだろう。次は学級運営のアイディア集かもしれないし、道徳かもしれないし、教師の研修の在り方かもしれないし、教材開発かもしれないし……。でも、彼はいつか領域に関係なく、「つながる」ことの意義と「つながる」ための方途と「つながる」ことを第一義としたときの生き方の方向性を提案するはずである。編集者の方針で、それがアイディア集の形をとるにしても……。

私たちはいくら近づいても、やはりスタート地点が異なる。直感に従う構造は同じでも、その直感の在り方が異なるのだ。いやはやまったくおもしろいものである。

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