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5月17日(木)

1.私は昨日、「慣れ」と「過信」が教師の敵であるの述べました。そして、新卒から2年程度を終えたあたりで、教師としてよりよい在り方を追求し続けようという者と、環境に慣れ困らなくなれば良いと考える者とのふた手に分かれていく、とも述べました。ですから二十代は、自分はまだまだだ、自分は下の下だくらいの気でいるのが良い、とも述べてきました。

2.しかし、この構造は、実は若い教師にばかりあるのではありません。かなり教師として経験と実績を重ねた後にも、どうしてもこの分岐点がやってくるものです。そしてそれは、本を出したり様々な場で講師を務めたりといった、著名な先生方にとってもいつか訪れる分岐点なのです。言ってみれば、どのような人間もいつかはその日を迎えるのを避けられない、「死」のようなものです。

3.例えば、地域で実践家としてずいぶんと活躍し名を上げた教師が、管理職になった途端に守りに入り、新しい提案をほとんどしなくなる……という例をよく見ます。また、現場での活躍や提案性を買われて大学の研究者へと転身した人が、数年の後に新たな提案をできなくなる、という例もよく見ます。

4.どちらも自分が実践者として考えていたことだけで勝負した結果、かつての実践をすべて吐き出してしまって、新たに提案するものなくなってしまったのです。要するに、提案が枯渇してしまうわけですね。

5.しかも、昨今の状況は言うまでもなく、年々変化のスピードが速くなっています。3、4年前とは教育界の状況がまったく変わっている……などということも珍しくなくなってきています。そういう時代にあって、現在、管理職になるにしても研究者になるにしても、実践者を退いてからの賞味期限は長くて5年、短ければ3年程度になってきています。結果、だいたい多くの人が3~5年もすると、管理職なら文教政策の代弁者になり、研究者なら教育実践史の研究に走ることになります。

6.私は決して批判的に言っているのではありません。世の中には文教政策の代弁者も教育実践史の研究者も必要ですから、彼らが果たすべき役割はしっかりと位置づいています。むしろそういう立場の人たちがいないと、教育界は動いていきません。彼らは絶対に必要な人たちです。

7.しかし……、しかしです。これから教育実践に向かおうとしている若手教師が、自らの学級経営や授業運営、生徒指導を充実させるために学ぼうとする、その対象としては、彼らはもう〈終わった人たち〉です。もちろん「あなたはもう終わっている」なんて言ったら喧嘩になりますから、顔ではにこにこして話を聞かなければなりませんが、基本的にはもう既に自分には益をもたらさない人と判断してまず間違いありません。それならばむしろ、生粋の行政マン、生粋の研究者の方が教員世界などからはまったく見えない世界観によって政策や研究を構築している場合が多いので勉強になります。そういうものなのです。

8.もちろん、管理職や現場上がりの研究者の中にも、自らも飛び込み授業をしたり研究会に参加したりいる管理職や、自分の弟子を集めて実践の現場を研究フィールドにしている研究者もいますから、すべての管理職や研究者が〈終わった人たち〉とは言えないのも事実です。しかし、生徒を相手とした現場を離れて5年経てば、その9割は既に〈終わった人たち〉と見て間違いないでしょう。

9.実はこの構図は、本を何冊も出したり、様々な研究会やセミナーで講師を務めるような超有名講師にもいえることです。そうした講師の方々も、退職して3~5年経つと、言うことが原理主義化してきます。自分の言っていることを試す場がなくなって久しくなると、現役時代の試行錯誤を忘れて、自分の到達点が唯一絶対に正しいという論調になってくるのです。

10.もちろん、彼らもそれを直接的に口にしたりはしません。しかし、基本的には、そうやって有名講師は神格化していくのです。自分を肯定する者だけを周りに集め、その内部で神格化したとき、いかなる超有名講師も〈終わった人〉になります。本で読めば充分な人になります。もっといえば、歴史に組み込まれる第一歩を迎える、そんな時期が来たことを意味します。

11.これが中堅以上の教師ならだれでも知っているのにだれも口にしない、知らないのは若手だけという一般原理です。私も若いときにはそのように同じことを言っていたのに、年を取ってそのような引き際の悪さを示している先達を何人も知っています。もしかしたら、私だっていまにそうなるかもしれません。しかし、これがほんとうのことなのです。

12.私の師匠は森田茂之という現場上がりの国語教育学者でした。森田は2001年末に急死しました。54歳の若さでした。私は二十歳のとき、三十代後半の森田と出逢いました。師弟の契りはわずか15年でした。

13.あるとき、二人で酒を酌み交わしていたときのことです。森田が呟きました。私が堀くんから見て、もう終わったな、と思ったら、堀くんが私に引導を渡してくれ。たぶんそれが私にとって幸せなことだから……。私は何を言ってるんですかと笑いましたが、四十代も半ばになってくると、あのときの師匠の気持ちがわからないでもなくなってきます。私の中には、師匠森田に自らの手で引導を渡さずに済んだことに、どこかにほっとしている気持ちがあります。確かにあります。

14.おそらくこの構図は、人間の性(さが)であり、業なのでしょう。

15.私が「発展途上の先達にこそ学ばねばならない」と言うのは、この意味においてです。完成されたように見える先達、自分の主張を相対化して話すことのない先達は、あなたの教育技術の伸張、向上にとってほとんど益をもたらしません。むしろ毒になることの方が多いくらいです。私はそういう実感をもっています。

16.発展途上の先達にこそ学ぶべきなのです。自分よりも一歩先んじている人にこそ学ぶべきなのです。彼らは、いまあなたが悩んでいることに自分が悩んでいたことがあった頃をまだ忘れていません。まだ具体的な像として、彼らは彼らの頭と心に刻みつけています。自分がその壁をどう乗り越えたかをまだまだ具体的に語ることができます。そういう発展途上人にこそ学ぶべきなのです。

17.特に、一年ぶりにこの人の講演を聴いてみたら、去年の言ってることがまったく変わっていた……というタイプの実践人の話は傾聴に値します。彼らがこの一年間でそれだけ動いていることの証左です。まさに渦中にいることの証明です。動かない信念に見えるもの……それは、いまの時代にとって、必ずしも善ではありません。

18.ただし、誤解していただきたくないのは、完成されたように見える先達から学んではいけないのは、あくまでも具体的な教育技術だということです。人間如何に生くべきか、教師の成長の在り方とは何か、自分はどのように成熟してきたか、そういう話ならば傾聴に値します。こういう次元の話になると、発展途上人の適うところではありません。これもまた真なりです。

19.しかし、人は多くの場合、逆のことをしてしまいます。教育技術を完成しているように見えるが故に完成した先達から学ぼうとし、成熟の在り方を自分に年代が近く実感的に理解できるが故に発展途上の先達から学ぼうとするのです。それはおそらく、あなたの成長、成熟にとって、よりよい道ではありません。少なくともいまの私はそう思っています。

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