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ヒドゥン・カリキュラムを意識する

「教える-学ぶ」関係が崩れている現在、教師は子どもに嫌われてはいけません。現在、生徒に嫌われないということが、すべての教育活動を推進していくうえでの前提になっています。生徒に嫌われてしまうと、「指導者」としても「評価者」としてもその資格を問われる時代になってきています。

西暦2000年前後のことです。「学級崩壊」「学校崩壊」という語がマスコミを闊歩するようになりました。

当初は教師に力量がないから学級が崩壊するのだという論調が多かったのですが、次第に子どもが変わったのだ、保護者が変わったのだという論調が優位になっていきます。現在では、力量のあるベテラン教師であっても一つ歯車が狂えば学級崩壊が起こり得る……というのが常識になっています。

こうした時代、教師にとって生徒に嫌われるということが、かなり大きなリスクになってきているという現実があります。生徒たちに否定的な評価を受けている教師が「指導者」としても「評価者」としても認められなくってきているのです。生徒たちとうまく人間関係を築けないような者は教師としての資格が問われてしまう、こう言い換えても良いかもしれません。現在は生徒だけでなく、保護者もこう感じていると見てまず間違いありません。

「現在、生徒に嫌われないことが、すべての教育活動を推進していくうえでの前提になってい」るというのはこういう意味です。

ただし、誤解しないでいただきたいのは、生徒に嫌われないことは何も生徒たちにすり寄ったり、妥協したり、要するに生徒たちに甘く接するということを意味するのではない、ということです。

生徒たちは決して、「甘い先生」が好きなわけではありません。

良いことをしたら褒めてくれ、悪いことをすれば叱ってくれる、つまり、指導すべきことは指導してくれる筋の通った先生が好きなのです。21世紀になって、その傾向は特に強くなってきています。

かつては若いお兄さん先生やお姉さん先生が、無条件に生徒にも保護者にも人気がありましたが、現在はそういう先生方が「頼りない」という評価を受けることが多くなってきました。こうした傾向がかつてに比べて、若い先生方の学級経営を難しくしている現実があります。

確かに現在、教師は生徒たちに嫌われてしまうとすべての教育活動がやりづらくなります。しかし、私たち教師が目指すべきは「好かれる教師」というよりも、どちらかというと「頼りがいのある教師」なのです。

「頼りがいのある教師」とは、ごくごく簡単にいうなら「物事の筋を通しながら結果を出し続ける教師」です。こんなふうに考えますと、私たち教師は常に学び続けなければならないと、謙虚に構えることができるようにもなっていきます。学び続けなければ結果など出せるはずがありませんから。

思えば、かつては教師には追い風が吹いていました。保護者も地域も、「先生のいうことをよく聞くんだよ」と言って、子どもを学校へ送り出してくれました。その追い風に乗っかっていれば、教師は自らなんとか結果を出そうとか、ことさら頼りがいのある教師になろうとかしなくても無難にやっていくことができました。

しかし、いまは情勢がまったく異なります。教師は自らの力で子どもたちを、保護者を、振り向かせねばならない時代になったのです。物事の筋を通し、結果を出し続け、頼りがいがあると認知させる、それを個人の力量で成し遂げなければならない時代になったのです。そうしなければ、「指導者」としても「評価者」としてもその資格を問われる時代になったのです。

厳しい時代になったものだと溜息をつきたい時代でもありますし、やり甲斐のある時代になったものだと意欲を抱ける時代でもあります。教師になった以上、意欲をもって、前を向いて仕事をしたいものです。

では、生徒たちに嫌われることなく、頼りがいのある教師と認知されるためには、どのような点に気をつければ良いのでしょうか。実は私は、教師が気をつけなければならない視点はたった一点だと思っています。

皆さんは〈ヒドゥン・カリキュラム〉という概念をご存知でしょうか。日本語では「かくれたカリキュラム」と呼ばれ、「教師が意識しないままに教え続けている知識・文化・規範」と定義されます。

例えば、4月に担任が決めたルールを秋口に変更したとします。班替えのときには班長と担任とが話し合って決めると4月には言ったのに、班替えを二度三度としているうちに、ある生徒が「先生、くじ引きで決めてもいいんじゃないですか?」と言ったのを受けて、「そうだな」と軽い気持ちで変更してしまう……などという場合です。この場合、実は変更したのは班替えの仕方だけではありません。生徒たちからみれば、「4月に先生が決めたルールは変更可能である」ということを学ぶことになります。

例えば、4月のある授業中におとなしめの生徒を指名したとします。しかも、その子が指名したのにもかかわらず、ずっと黙っていたとします。教師としては「わからないのかなあ…」とか、「みんなの前で発表するのが苦手なのかなあ」とか、いろいろ考えます。その結果、いまゴリ押しするのはこの子が可愛そうだ、何か事情があるかもしれないし……と考えて、「わからないのかな?じゃあ、もう少し考えてみてね」などと言って、次の生徒を指名します。しかし、ここで生徒たちはある重要なことを無意識的に学んでいます。それは、「ああ、指名されても黙っていれば、許されるのだな」ということです。

どちらの例も、教師としてはそんなことを教えているとは意識もしていないし、自覚もしていないということです。それだけに怖いのです。

こうした教師が意識しないままに教えている知識・文化・規範を、正規のカリキュラム(=授業や学活などで教師が意識的に教えようとしている指導事項のカリキュラム)に対して、〈ヒドゥン・カリキュラム〉(=かくれたカリキュラム)と呼ぶわけです。なお、詳細は拙著『生徒指導10の原理・100の原則』(学事出版・2011年10月)をご参照いただければ幸いです。

さて、私がこの概念を知ったのは学生時代、宇佐美寛先生の『国語科授業批判』(明治図書・1986年6月)ですが、当時、学生の私でさえこれは怖い機能だと震えたものです。大学卒業後、現場に出たら何を措いても〈ヒドゥン・カリキュラム〉の悪しき機能を最小限に抑えなければ……と決意しました。それから実に四半世紀が経過しましたが、私は四十代半ばになった現在(いま)でも、自分の教師としての日常の行動規範のすべてを〈ヒドゥン・カリキュラム〉理論と照らし合わせて点検し続けています。少なくとも私にとってはそれほどに重要な概念なのです。

教師はどのような印象をもたれる教師として生徒たちの前に立つかということを、常日頃から気にしているものです。怖い顔で生徒たちの前に立ったり、妙に笑顔を振りまいたり、ときには思い切り怒鳴ってみたり、ときには軽口を叩いて笑わせたり、そういったことを演じるのが教師の日常とさえいえます。しかし、生徒たちから見た教師の印象をもっとも規定するのは、その教師が「言行一致」しているかどうかという点です。そして、班替えは話し合いと言っていたのにくじ引きに変えたとか、黙ってれば次の子を指名してもらえる楽な教師だとか、そうした「悪しきヒドゥン・カリキュラム」が少なければ少ないほど、「言行の一致した教師」と見られるようになるのです。この機能を軽視してはなりません。

私はこの項の冒頭に、「教師は子どもに嫌われてはいけません」と言いました。しかし、「嫌われないこと」は「おもねること」ではないとも述べました。それよりも「頼りがいのある教師」を目指すべきだとも提案しました。実は、子どもに嫌われない頼りがいのある教師とは、常に自分本位ではなく生徒たちのためを思って行動しているということが、「言行一致」の姿勢として生徒たちにも「見える」教師なのです。私たち教師はこうした姿を追究する必要があるのです。

ついでに言いますと、これは簡単なことではありません。こうした意識を抱いたとき、教師としての果てしない力量形成の旅が始まるのです。だって人間にとって、「言行一致」ほど難しいものはありませんから。教師が学び続けなければならない理由の一番は「言行一致」を目指さなければならないからだと、私はいまも本気で考えています。

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