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5月14日(月)

1.授業は3時間。「朝焼けの中で」を題材とした指示語の授業が二つ。「握手」を題材とした語り手の授業が二つ。午後は銀行に行き、その後は学校運営要綱関係の事務作業。帰宅後は新しい本の画像データの整理。原稿執筆。編集者とのメールのやりとり。またまた面倒そうな企画が舞い込んできた。

2.昨日書いた20頁を整理して少しだけ書き足して一つの章として完成させる。「教師の表現」と題した26頁ほどの章である。編集者に送付。「スペシャリスト直伝」という明治図書のシリーズの「中学校・学級経営」である。残り19項目なので、あと60~80頁といったところ。2週間くらいかかるかな。

3.追い詰められているせいか、それともセミナー等の登壇がないせいか、原稿の執筆がどんどん進んでいく。仕事が進むことは良いことだが、少し筆が荒れてきている感じもする。ゴールデンウイークから執筆詰めだから疲れてきているのかもしれない。僕はやはり量産には向いていないのかもしれないなあ……。

4.かつて、教師には強い追い風が吹いていました。保護者は「先生のいうことをよく聞くのよ」と言って、子どもを学校へと送り出しました。地域の方々は「そんなことしていいと思っとるのか!」と、学校と同じ視点で地域の子どもたちを叱りました。学校、保護者、町内会、商店街……地域は一つの共同体を構成していました。そんな時代、学校は地域において一つの拠点であり、教師は尊敬を集める存在でした。そんなに遠い昔のことではありません。私が子どもだった頃、1970年代までは間違いなくそんな空気があったのを覚えています。

5.いつの頃からか、教師は尊敬されない職業になりました。保護者も「学校の先生は世間知らずだ」と揶揄するようになりました。地域の方々も子どもたちが何か悪さをしていると、注意するのではなく、「学校でどういう指導をしているのか」と電話でクレームを伝えてくることが多くなってきました。その結果、学校は子どもたちをどんな風に育てたいかを中心に考えるのではなく、どうすればクレームを受けないかを中心に考えて教育活動を行うようになってきました。私が教職に就いたのは1991年の春ですが、この20年余り、私の教師生活は学校がそうした一方向へと向かっていく時代をともに歩んできた……そんな実感があります。

6.私が若い頃、ある先輩教師は「昔は良かった」と呟きました。また、別のある先輩教師は「こんなのは本当の学校教育ではない」と叫びながら退職していきました。「こんな状況とは闘わねばならない」との決意のもと、教委や保護者と闘い、無残に敗北していった教師も一人や二人ではありません。

7.私はそんな先輩教師たちを間近に見ながら、教師生活を送ってきました。そうして身にしみて感じたのは、「もう二度と教師に追い風が吹くことはないのだ」という乾いた認識でした。そんな時代の中で、学生時代の仲間と酒を酌み交わす度に、「とすれば、自分たちの世代は、追い風の吹かない中でなんとか教育活動に取り組んでいく、その具体的方策を編み出さねばならない」という半分後ろ向きで半分前向きな、なんとも形容しがたい決意を抱くのでした。

8.「もう二度と追い風は吹かない」いつしかそんな合い言葉さえ忘れてしまうほどに、世の中から教師への追い風が完全に消えていきました。

9.21世紀を迎え、私たちの世代はいつしか「中堅」と呼ばれ、「ベテラン」と呼ばれるようになりました。それと同時に、当然のことながら、自分よりも若い世代が学校現場に入ってきました。就職難の時代、教員採用試験の倍率が信じられないほど高騰する中でも、自分より若い教師が少しずつ少しずつ、自分の同僚に増えてくるのでした。時代は団塊世代の大量退職、ここ数年はものすごい勢いで若い教師が増え続けています。

10.そんな時代の中、私たちよりも若い世代が私たちの世代以上に教職に使命感を抱いていたり、教師に追い風が吹くのは当然という意識で教壇に立ったりと、どうも私にとっては不思議だなと思える現象が垣間見られることに気がつきました。彼らは当然のことながら、生徒たちから疎まれ、保護者からクレームを受ける、そんなことが少なくありません。これはいったいどうしたことなのでしょう。

11.彼らは総じて学力的には優秀でした。性格的にも真面目で与えられた仕事にテキパキと取り組むことも共通していました。彼らは若いですから、自分たちよりも多少の世間知らずであることは当然です。若さに任せて多少のやりすぎが見られるのも微笑ましいことです。しかし、どうもそれだけではないのです。

12.彼らは私たちの世代以上に、生徒たちが教師のいうことを聞くことを当然だという意識をもち、私たちの世代以上に、生徒たちが学校規範を守ることを当然だという前提に立って教育活動を行っているのです。時間を守れ、服装を正せ、まっすぐに整列せよ、もちろんどれも学校文化としては正しいことです。しかし、なぜそれらが必要なのか、彼らは一度も考えたことがないのではないか……私にはそう見えてしまうのです。

13.もちろん、若い世代のすべてがそうなのではありません。しかし、新規採用される教師たちの中に、かつてのような「子どもが好き」とか「子どもたちの成長の糧になりたい」とか「子どもに主体性を発揮させられるような教師になりたい」とかいう思いを抱いて教師になるのではなく、「私は授業をやりたい」「私は部活をやりたい」といった自らの狭い目的意識のために教職についている割合が多くなっているように感じるのです。

14.こうした自己実現のために教職に就くという在り方は、実は学級経営とか生徒指導とか学校行事とか、要するに学校の根幹をなす教育活動に対して、どこか乾いた、淡々とこなすべき「お仕事」として対応する姿勢をつくり出します。もちろん彼らに学級経営や生徒指導を蔑ろにしている意識はないのでしょうが、優先順位が授業、優先順位が部活動といった教師の在り方は、生徒にも保護者にも同僚にも、微妙なルーティンワーク的な匂いを嗅ぎ取られてしまいます。それがクレームを受ける致命的な理由になっているのです。

15.彼らの多くは自分の学級で生徒指導事案があった場合、保護者に電話連絡すべきかどうか、学年主任や管理職の判断を仰ぎます。また、電話でどういう方向性で話し、どういう内容を確認すれば良いのかという確認を取り付けようとします。最近の職員室が若手をそう指導することが多くなってきていることを差し引いても、あまりにも借り物で勝負しすぎではないかと思えてしまいます。おそらくその保護者への電話での学級担任の言葉には、どこか空虚な、気持ちの乗らない言葉が並び、それを保護者も敏感に察知してしまう、そうなってしまうことは想像に難くありません。

16.教師に追い風が吹かないという論調で書いていたときは随分リツィートがあったのに、若手教師批判が始まった途端にリツィートされなくなった。ダメなものはダメだというのが堀節である(笑)。そこが野中さんとの違いかもしれない。教師が善であり守るべき存在だなんて、僕は絶対に信じないし言わない。

17.努力する者だけが教壇に立って良い。自らの成長を怠らない者だけが教壇に立つ資格がもつ。もっと遠くへ。もっと高みへ。自らの可能性に飢えない者に教壇に立つ資格はない。もちろん心を病んでまでそうする必要はない。死を考え出したらすぐに逃げるべきだ。でも命に関わる場合以外は逃げるべきでない。

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