5月22日(火)
1.授業は4つ。「握手」の範読・音読が一つ。「握手」の語りの授業が三つ。午後は生徒総会。今日も担任が出張している学級に入って休みなし。放課後は試験範囲表をつくったり、進路希望調査を整理したり、学校運営要綱の印刷業者と打ち合わせをしたり。退勤時間と同時に退勤。帰宅後は原稿執筆。
2.教師は一般にふた通りに分かれます。教育の目的を「学力形成」にあると考えているタイプと、「人間形成」にあると考えているタイプとにです。もちろん、どちらかにはっきり分かれるわけではありませんが、どちらかというと「学力形成」、どちらかというと「人間形成」という、いずれを重視するかによってタイプが分かれるのです。
3.まず第一に、「学力形成」派は授業や研究、教育課程に関わることを好む傾向があり、「人間形成」派は学級づくりや行事指導、部活指導を好む傾向があります。おそらく自分が育ってきた過程において、前者は自分自身で勉強して学力を身につけたり、自分で試行錯誤しながらいろいろなことを発見したり、仲間と議論することから何かを生み出したりといったことに喜びを得てきた人に多いのだろうと思います。また、後者にはお祭り事が好きだったり、仲間と旅行することをを好んだり、部活動に一生懸命取り組みチームワークを学んだことが自分の人生の基盤だと感じている人が多いのだろうと想像します。要するに、前者はまずは勉強をして世界観を広げること、人間形成は自分でするものという人間観を抱く傾向をもち、後者は勉強なんて二の次、人との関わり合いの中でこそ人間は成長するという人間観を抱く傾向をもっています。
4.第二に、「学力形成」派は校務分掌で教務部や研究部、文化部などを渡り歩くことが多く、「人間形成」派は生徒指導部や生徒会指導部、保健体育部といった分掌を好む傾向があります。前者は政治の動向や世論の動向に敏感で、文教政策にも精通していることが多く、後者はそうした政策的なことよりも、アスリートや文化知識人、歴史上の人物などの成功譚や成長譚を好む傾向もあります。ともにこうした傾向に基づいて仕事をしているものですから、「学力形成」派は学校運営を司る校務分掌を学級経営や生徒指導以上に大切なものだと感じる傾向があり、「人間形成」派は学級経営や生徒指導、部活動こそが生徒を育てるのであって、校務分掌は雑務だと考える傾向があります。
5.第三に、「学力形成」派は生徒指導を苦手としていることが多く、事務仕事を得意としている傾向があり、「人間形成」派は生徒指導を得意としていることが多く、事務仕事を不得意としている傾向があります。前者が教職を知的な専門職と捉えているのに対し、後者は教職を子どもたちを導く聖職のイメージで捉える傾向がありますから、生徒指導や事務仕事に対するスタンスが異なるのも当然といえば当然でしょう。
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8.第四に、「学力形成」派は教師である自分の人間としての個性を生徒たちに押しつけてはいけないと自制する傾向をもち、「人間形成」派は自らの個性、自らの経験と同質の体験を生徒たちにさせたいと願う傾向をもっています。生徒指導を得意とするか否かは、私には、自分の経験を活かしながら生徒たちに熱く語ることを潔しとするか否かに出発点があるように見えます。
9.第五に、「学力形成」派は教育活動を系統主義的学力観・教育観で捉える傾向があり、「人間形成」派は教育活動を経験主義的学力観・教育観で捉える傾向があります。例えば、両者が「総合的な学習の時間」のカリキュラムを立てたとしますと、前者は単元1から単元5まで難易度を上げていったり、最後にこれまでの単元を総合した単元を設定したりということにこだわりをもちますが、後者はおもしろそうな単元、意義のありそうな単元を五つほど並列させるだけ、ということになりがちです。顕著な例を挙げれば、両者の仕事振りにはこのような違いが出るわけです。
10.さて、ここまで、便宜上教師のタイプを「学力形成」派と「人間形成」派との二つに分け、それぞれを純化して両者の違いを大袈裟に表してきました。現実には、どちらかに一方的の視点しかもっていないなどということはなく、両者の中間的な位置にいる教師が圧倒的多数です。
11.しかし、両者の視点をバランスよく五分五分でもっているという教師もまたいません。すべての教師が必ずどちらかに偏っているということができるのです。6:4とか4.5:5.5とかであればかなりバランス感覚をもった優秀な教師であるといえますが、多くの教師は7:3とか2:8とか、どちらか一方に大きく偏っているというのが現実なのです。
12.実は、かつての学校では、それもほんの十年くらい前までの学校では、「学力形成」派よりも「人間形成」派の教師が圧倒的多数でした。もちろん、小学校から中学校、中学校から高校と、子どもたちの発達段階が上の校種にいくに従って、「学力形成」派教師の割合が増えるという傾向はありました。しかし、高校の先生方でさえ、その数では「人間形成」派が「学力形成」派を圧倒していたのです。
13.それが最近、急速に変化してきています。何の根拠もない、私の実感に過ぎないのですが、先生方の多くが「学力形成」派になってきている、そんな兆候があるのです。おそらく、①行政の教師に対する管理が厳しくなり、教員評価制度が定着して数値目標が設定されるようになったこと、②保護者クレームの増加によって、教師が自らの個性を発揮しての教育活動をしづらくなったこと、③2000年前後から「ゆとり教育」の反動として、文科省からも「学力向上」が大きく喧伝されたこと、そして何より、④世論が「学力向上」路線を支持しているような空気がこの国に醸成されていることなどなど、様々な要因があるのでしょう。
14.意識的にしても無意識的にしても、「学力向上」派になりますと、学習指導要領や教育政策、系統主義的教育観や教育理念、教材論や授業論など、子どもたち以外のところに目が向きがちになります。「学力向上」というときの「学力」は、かつての「新学力観」とは異なり、どうしても子どもたちの外にある、一般教養や試験の点数に重きが置かれているからです。これが教師の目を曇らせ、子どもたちの実態から乖離したところで、或いは浮遊したところでカリキュラムが立てられてしまう、ということ悪弊を招きやすいのです。
15.では、「人間形成」派になればそれを回避できるのかといえば、決してそうではありません。前にも述べたように、彼らは自らの経験を絶対視する傾向が強いですから、「教育は人間形成だ」と強く叫ぶ人ほど子どもたちに自分の敷いたレールの上を歩かせたいという欲求を強くもつ傾向があります。そして、自らの経験のポジティヴな側面を肯定してくれる、そういう理念ばかり収集して理論武装する……そういう人が少なくありません。
16.どちらしても教師は自己満足に陥ってしまうとすれば、いったい私たちはどうすれば良いのでしょうか。
17.しかし、教職に就いてから6~7年が過ぎた頃でしょうか、私の教育観はすべての生徒の特性に合致しているわけではない、ということに気づきました。また、すべての生徒や保護者の要求に応えているわけでもない、私の教育観は私という人間の個性に過ぎない、私は生徒たちを洗脳しようとしているのではないか、そう考えるようになりました。生徒たちを見ていると、私が担任することが、私という教師と出逢うことがプラスに働いている生徒たちがたくさんいる反面、「ああ、この生徒には私でなく、あの先生が担任だった方が合っていたかもしれない……」と思える生徒たちが一定数存在することに気がついたのです。それも、私とは考えの合わない、なんとなくウマが合わない、そんな教師たちの方が、です。
18.私はこのことにかなり深い悩みをもちました。生徒たちは親を選ぶことができないように、教師を選ぶことができません。所属する学級を選ぶこともできません。少なくとも義務教育ではさそういうシステムになっています。そのシステムが変わりそうな気配もありません。
19.道は二つに一つです。私が自分とは合わないと思われる生徒たちも包含できるような教師として大成長を遂げるか、そういう生徒たちのことは諦め、そういう生徒たちにはそれなりの教育効果を上げることを目指すか、です。私は後者を潔しとしませんでした。
20.私は自分とウマの会わない人たち、これまでの文脈でいえば「学力形成」派の人たちがどんな世界観をもって教育にあたっているのか、私には見えないどんな世界を見ているのか、知りたくなりました。おそらく私という人間の犠牲になっている生徒たちは、私にそれが見えていないから犠牲になっているのです。私がその世界を見えていないとすれば、それはだれの罪でもない、他ならぬ私自身の罪である、理屈としてはそう考えたのです。
21.私は決意しました。3年間だけ、自分の教育活動のすべてを〈あちら側〉から構想してみよう、そう考えました。人間はそう考えてみたところで、本質的なもの、つまり〈地〉というものはそれほど変わるものではない。特に私はアクの強いタイプの人間である。そう考えて教育実践に取り組んでみたところで、もともとの特性はいっぱい出てしまうはずだ。そのくらいがバランス的にちょうど良いのではないか……。その3年間で、自分の教員生活を大変革させるような、そんな学びが訪れるに違いない。そんなふうに考えたのでした。
22.私は校内で付き合う人間を変え、生徒たちへの接し方を変えました。もともと私をよく知っている保護者に「先生も年をとったね」と批判的に言われました。精神的にはこの出来事が私にはもっとも堪えました。それでも自分には必要なステップなのだと、自分を納得させました。
23.そんな仕事の仕方を始めて1年が経った頃、私は札幌市の伝統校に転勤しました。市内有数の研究校であり、「学力形成」派の権化みたいな教師がいっぱいいる学校でした。職員会議は私にとって、腹に据えかねるような発想ばかりを基準に決まっていきましたが、私はその発想を学ぶように努めました。管理職とも教務主任ともたくさん話をして、彼らがどういう発想で教育活動に取り組んでいるのか、ひたすら学び続けました。
24.この時期、私は自分のアイデンティティであった「文学教育」を自分の授業から排除し、「言語技術教育」を盛んに取り入れました。国語科教育としては、経験主義的授業観の極から系統主義授業観の極への劇的な転身です。しかも時代は「ゆとり教育」へと走っている時代です。国語教育の研究仲間たちからは、「堀は転向した」とさえ揶揄されました。これも先の保護者の言と同様、私にはずいぶんと堪えましたが、それでもこの試みはやめませんでした。もうやめられないほどに学びの大きさを実感していたのです。
25.3年間だけ〈あちら側〉を見てみようという私の取り組みは、結局、5年間続きました。私にはこの間を通じて、「経験主義」と「系統主義」とのバランスをとる実践の在り方とはどういうものなのか、おぼろげながら見えてきたという実感がありました。これを整理してみたいとも考えました。そこで1年間休職して、大学院に進学したのです。生活は妻におんぶにだっこ、それも本代や研究会参加に伴う旅費などは惜しげもなく使う、俗に言う「ヒモ」のような生活でした。
26.大学院での研究は国語教育に関するものでしたので、ここで詳しくは述べません。しかし、ここでの到達点をひと言でいうなら、とてもシンプルな結論です。それは「教えるべきことは徹底して教え、経験させるべきことは大胆に経験させる」という、ただそれだけのことです。
27.一般に、「人間形成」派はもちろん、「学力形成」派でさえ、子どもたちに教えるべきことを教えるときには「徹底さ」に欠けています。また、「学力形成」派はもちろん、「人間形成」派でさえ、子どもたちに経験させるべきことを経験させるときには「大胆さ」に欠けているのです。そういう認識のもと、この「徹底さ」と「大胆さ」が私のキーワードとなったのです。この二つのキーワードを得たことが、この一連の試みから大学院へという私の「徹底さ」と「大胆さ」の成果でした(笑)。
28.「ダメだ。お前がなんと言おうと、これは学ばなければならないことなのだ」という言葉と、「お前がやってみたいというのならやればいい。だれも認めなかったとしてもオレが応援してやる」という言葉と、この二つをともに吐ける教師はなかなかいません。しかし、生徒たちからみれば、これほど基準のはっきりしている、わかりやすい教師もいないのです。このシンプルな構造に教師は気づかねばなりません。
29.「人間形成」派としての6~7年、「学力形成」派として3~4年が経った頃、つまり新卒から10年が経った頃、私の教育実践は雑誌に掲載されるようになり、幾つかの書籍にもなりました。この時期がちょうど、私の教師人生を形づくる教育観の萌芽が形成され始めた頃だったのだと、いまでも感じています。
30.10年がむしゃらにやると何かが見えてくると私がいうとき、そのがむしゃらさとはこういう大胆な営みを指しています。10年を経ずに見えてきたものは幻想だと私がいうとき、その10年はこのくらい振幅の激しい10年が想定されています。私は本節において、この時期の私の意識の変遷を骨格だけで述べてきましたが、もちろん人間のやることですから実際にはもっとドロドロしています。言い合いも喧嘩も日常茶飯でしたし、その後、口もきいてもらえなくなる先輩教師を何人もつくってしまいました。それでもこの10年が私を支えている、これで良かったのだ、その想いが揺れることはいまもありません。
31.とにかく10年、がむしゃらにやることが必要です。とにかく10年、上に向かって動き続け、変化し続けることです。これをやった者とそうでない者との間には、10年も経てばいかんともしがたい大差が生まれます。世の中はそういうふうにできています。大切なのは「10年」と「がむしゃら」です。
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コメント
経験を意図的に積み上げる事が出来る人とそうでない人がいるんだよなあ。堀さんは前者で私は後者だなあ。ただ、今のことに取り組んでいたら、結果的に経験が積み重なったという気がしています。
投稿: 池田修 | 2012年5月23日 (水) 07時52分