自分のキャラクターを分析する
重要なのは、何事も適切な距離を意識して臨まなければうまくは運ばない、ということです。人間関係の悩みは、そのほとんどがそうした距離感の調整がうまくいかないが故に生じます。そういうことを、なかなか教えてもらえないのが世の中です。生徒とも、保護者とも、同僚とも、適度な距離が必要です。
昔から、「教師は生徒たちとの適切な距離感覚を身につけたら一人前」と言われます。
若いいうちは生徒たちと年齢的に近いこともあって、どうしても友達感覚に近くなってしまいます。生徒たちの方も親しみをもって接してくるものですから、教師の側もついつい「教師-生徒関係」「教える-学ぶ関係」を逸脱して接してしまう……そんなことになりがちです。
逆に三十代後半から四十代くらいになってくると、自分では意識していないのに、いつのまにか生徒たちとの関係がぎくしゃくしてしまっていた、と戸惑っている先生をよく見かけます。これは自分はまだまだ若いつもりでいるのですが、生徒たちから見ればかなり遠い存在になっていて、そのことに他ならぬ教師自身が気づいていなかったという事例です。
若いうちは生徒を甘えさせ過ぎないように少し距離を置こうと意識しながら生徒に接する、四十前後になったあたりから生徒を理解しようとそれまで以上に近づこうと意識して生徒に接する、まずはこれが原則です。若いうちは一歩引き、ベテランになったら一歩前へ、そんな感じですね。
2000年前後から、「学級崩壊」「指導力不足教員」という用語がマスコミを賑わしてきました。子どもの変容が原因とは言いますが、もう少し詳しく見ると、若い先生は生徒たちとの心理的距離が近すぎたことが災いして馴れ合いを生み、ベテランの先生は生徒たちとの心理的距離が遠くなりすぎたことが災いして生徒たちを理解できなくなって、「指導が通らなくなった」ことが要因と見ることができます。生徒との距離は近すぎても遠すぎてもいけないのです。
京都橘大学の池田修先生によれば、教職を目指す学生たちに「どんな教師になりたいか」と尋ねると、ほとんどの学生さんが「生徒たちが気軽に相談でき、試行錯誤しながら、いっしょに成長していけるような教師」「生徒たちとフラットな関係でともに悩みともに成長する教師」といったような教師像を挙げるそうです。要するに、生徒たちとフラットな関係の、友達のように心の通じ合える教師ということなのでしょう。しかし、池田先生もおっしゃっていましたが、こういう教師像はダメです。ダメというよりも危険だと言ったほうが良いかもしれません。
少し固く言うなら、教師はまず社会の在り方とか社会の価値とかを体現する存在として、生徒たちに映らねばなりません。要するに「分別のある大人」として生徒たちの前に立たねばなりません。
教師という職業にとって最も大切にしなければならないことは何でしょうか。それは生徒たちの学力形成でもなければ、人格形成でもありません。生徒たちの肉体的・精神的な安全を確保することです。地震や火事があれば適切に避難させて安全を確保する。喧嘩があれば制止する。いじめがあればそれがどのように良くないのかを語って聞かせて解決する。こういう安全確保が教師としての基本中の基本なのです。こうした災害やトラブルにおいて、教師が友達関係のようなスタンスで助言して良いはずがありません。
若い先生方は、信頼関係を築ければ生徒たちが言うことを聞いてくれるという順番で考えがちです。つまり、まずは信頼関係を築く、その後生徒たちが教師の指導を受け入れる……という順番です。しかし、現実的には、実は逆なのです。大人として生徒たちの前に立つといことをフレームとしてしっかり意識したうえで、その中でいかに信頼関係も築いていくのかという順番で考えるべきなのです。
教師は生徒たちの相談に乗れる近い存在であると同時に、生徒たちをより良い方向に導いたり、いざというときには生徒たちをきちんと避難させられたりする統率者でなければなりません。そのどちらにもなれるような〈あいだ〉の位置に立つことが生徒との適度な距離感覚であるといえるのです。
さて、では、教師はどのように生徒たちとの距離感覚を身に付ければ良いのでしょうか。私は先に「若いうちは一歩引き、ベテランになったら一歩前へ」と述べました。しかし、これはあくまでも最大公約数的な原則であって、話はそれほど単純ではありません。
実は、詳しく、ちゃんと考えてみると、生徒たちとの適切な距離の取り方というのは、教師一人ひとりのキャラクターによって大きく異なる、というのが本当のところです。要するに、原則としては「若いうちは一歩引き、ベテランになったら一歩前へ」ということがいえますが、一歩引くとき、一歩前へ出るとき、どの程度引いたり前へ出たりするのが適切な距離なのかという基準は、一人ひとり異なるのだということです。
例えば、ここに菅原文太先生がいるとします。菅原文太先生が「こら!シャツが出てる!」といえば、おそらくほとんどの生徒たちがシャツを入れるでしょう。しかし、アンガールズ先生が「こら!シャツが出てる!」といったとしたら、生徒たちはすぐには言うことを聞いてくれない場合が多いでしょう。
こういう場合、そもそも教師としてのキャラクターが異なるというのに、「アンガールズ先生は生徒になめられている。もっと厳しく接しなくちゃダメだ。」などと評されるのが一般的です。そこでアンガールズ先生は「生徒になめられちゃいけない」ともっと厳しく接したり、怒鳴ってしまったりということが起こる、そして生徒たちとの人間関係がしっくりいかなくなる、それが一般的な学校でした。
しかし、考えてみてください。教師としてのアンガールズ先生は、そもそもキャラクター的に厳しい指導、怖がられる指導、なめられない指導が向いていないのです。その手の指導が向いていないというのに、菅原文太先生の真似をして厳しい指導をしなければならないとしたら、そんな指導がうまくいくはずがないではありませんか。
逆に考えてみましょう。アンガールズ先生にできて菅原文太先生にできないことはないでしょうか。いっぱいありますよね。教師ならわかるはずです。例えば、おとなしい女子生徒のフォローをするとか、オタク傾向をもつ男子生徒たちの気持ちを理解するとか、或いはカウンセリングマインドに基づいた教育相談活動をするとか、こうした指導の在り方を菅原文太先生は苦手としている場合が多いのです。
だとしたら、アンガールズ先生は、菅原文太先生とは苦手としているような、カウンセリング・マインドを旨とした優しく親しみやすい先生として生徒たちの前に立つ、そのように振る舞うというほうが教師の在り方としてうまく機能するのです。もしかしたら、菅原文太先生の厳しい指導によって必要以上に教師団を怖がったり、一方的な指導に傷ついたりしている生徒たちのフォローをすることによって、菅原文太先生が動きやすいような、菅原文太先生にもにも喜ばれるような機能を果たせるかもしれません。
つまり、私は言いたいのは、教師としての生徒たちとの距離の取り方は、人によって異なるのだということです。それは自分のキャラクターによってふさわしい距離感覚というものを自分で編み出さなければならないのです。そしてできれば、他の教師との協同的な機能性を発揮できるような形で行うのが理想なのです。
私はこれを「教師の〈自己キャラクター分析〉の必要性」と呼んでいますが、教師にとって必要なのは、何を措いてもまず「自らを知ること」なのです。自らを知ってこそ、自分に合った教育スキル、教育システムを開発することができるようになるのです。
ちなみに私は体も大きく、いかつい顔をしているので、黙っていると生徒たちから怖がられる雰囲気をもっています。性格的にも自己主張が強く威圧的な雰囲気をもっている人間です。ですから、私は若いときから冗談を言いながら生徒たちを笑わせることに努力してきました。しかも、どちらかというと毒舌口調で、生徒たちをいじる教師として生徒たちの前に立つようにしてきました。それが私のもっている雰囲気、キャラクターには最も無理のない距離感覚のつくり方だったからです。
しかし、アンガールズ先生が生徒たちを笑わせようと毒舌口調を用いるのはおそらく得策ではないでしょう。キャラクターと毒舌とがイメージ的に合致しないからです。おそらくは自分をオトしながらエピソードを語り、そのエピソードから教訓を導くというような語りを意識して行ったほうが、生徒たちとの距離感覚もうまくとれるだろうと思われます。
教師として生徒たちの前に立つには、こうした〈自己キャラクター分析〉に基づいた立ち居振る舞いまでが求められるのです。
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