5月15日(火)
1.若い頃は、何か教職にマニュアルがあって、そのマニュアルに沿って動いていればなんとか生徒たちを動かせる、そんな気になるものです。授業でも学級経営でも確かにマニュアルに沿っていれば、大失敗をすることは避けられますし、責任をとらなければならないような大きなクレームに晒されることもないような気もします。若い教師の学年主任や管理職への相談は、そのマニュアル主義がもたらすものです。こんなときどうすればいいのか、その判断を仰いでいるわけですから。
2.しかし、こうしたマニュアル主義は具体的な教育活動の一つ一つを、とても狭いものにしてしまいます。学年主任や管理職に判断を仰ぐという場合、決して大きなことは訊かないものです。「学級経営とはどうすればいいんですか?」とか「学級組織ってどうつくるんですか?」とか「生徒たちを活躍させられる行事指導はどうあるべきですか?」とか、そんなことを訊いている教師を見たことはありませんし、聞いたこともありません。あくまで、「こういう生徒指導事案の保護者連絡はどうするのか」とか「修学旅行の自主研修のコースはどうやってつくらせるのか」とか「合唱練習で歌わない子がいるのですがどうしたら良いですか」とか、そういうレベルのことばかりが先輩教師に尋ねられるのです。
3.先輩教師は先輩教師で訊かれたことに誠実に対応しようとしますから、こうしたことには「技術」で語ろうとします。もっといえば、「一般論」で語ろうとします。ですから、一般的に「保護者連絡ならこういう方向性で確認するといいよ」という話になってしまうわけです。それが責任をもつ学年主任や管理職ということになると、クレーム回避の心性も働いて、もっと一般的な内容になります。それが若い教師たちを知らず知らずのうちに、「一般論」「技術論」へと誘ってしまうのです。
4.私はこの構造を、職員室における「継承の負のスパイラル」と呼んでいます。若手だけが悪いのでもない、先輩教師だけが悪いのでもない、学年主任や管理職だけが悪いのでもない、時代的にそういう構造が出来上がってしまっているのです。
5.ここで若い読者の皆さんが心しなければならないのは、先輩教師も学年主任も管理職も、決してあなたが尋ねたことへの対応策の全体像を語っているわけではない、ということです。すべての教師は、「自分だからできる」「自分だからできている」「自分の教師としての資質に合った方法がある」という前提で教師として生きています。決して「一般論」や個別の「技術論」だけで実践しているわけではありません。従って、先輩教師が語る内容というものは、あくまでも「失敗しないために最低限これは押さえておいた方が良い」という確実な線だけで語られるのです。先輩教師の助言というものは、これを充分に理解したうえで受け入れなくてはなりません。
6.もしかしたら、あなたは「それならちゃんと全体像を教えてくれよ」と思うかもしれません。しかし、それはこの世界ではあり得ません。その先輩教師があなたにそれを語ったとしても、あなたには使えないからです。「教育活動」を司る全体像というものは、その人間と切り離して機能させることは難しいからです。あなたはあなた独自の全体像を創り出すしかないのです。数年から十年程度かかるのが常ですが、それを創り出したとき、教師としての安定感が生まれるのです。
7.私はそういうレベルのことを、その教師の創り出した〈システム〉と呼んでいます。私が〈システム〉という語を使うとき、実はこのくらいハイレベルなことを想定して使っているのです。私には『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(ともに明治図書)という著作がありますが、実はこれらの書で用いている〈システム〉の語も、実はこのレベルで使っています。
8.教師は自分なりの〈システム〉を構築したとき、一人前になるのです。
9.人間は頑張らなければなりませんが、頑張りすぎてはいけません。自分で限界をつくっちゃいけませんが、決して無限だと思ってもなりません。みんなこんなあたり前のことを忘れがちになります。一種の視野狭窄に陥るわけですね。みんな完璧じゃないけれど可能性はあります。「完璧じゃない」も「可能性がある」もともに忘れてはなりません。
10.例えば、研究授業を見ていますと、前に進もうとしているものと逃げているものとがあることに気がつくことがあります。失敗しないようにつくられた研究授業には魅力がありません。前に進もうとしている研究授業はその荒削りさ、その不完全さがかえって参観者の胸を打つことが多くあります。研究授業には提案性が欲しい、それが自分も日々前向きに進んでいる教師たちの共通の願いです。
11.失敗しない研究授業をつくろうとすることは、自分に限界をつくることを意味しています。いまの実力ではこのくらいやっておいて、無難にまとめよう、そういう研究授業です。実はこうした心性は「自分の限界はここだ」と規定しているだけでなく、子どもたちもこの程度のことならできるだろう、これ以上は無理だろうという「子どもたちの限界はここだ」という規定もしています。子どもたちにとても失礼な話です。
12.私は大規模校に勤めていますから、私の勤務校には毎年、教育実習生がたくさん来ます。6~8人来ます。数年前のことです。教育実習生の研究授業を2年間で7本ほど参観して、そのほとんどが失敗しないための研究授業であったことにかなり大きなショックを受けました。教育実習生に対して「若いのに…」と感じたことも確かですが、実習生を指導した先生方にもそういう意識があるのですね。そっちのほうがショックが大きかったのをよく覚えています。
13.私が教育実習生をもつと、教育実習1ヶ月前程度に行われる打ち合わせにおいて、最初に言う言葉があります。「真剣に教師になりたくて実習に来てる?それとも取り敢えず、免許取りたくて来てる?真剣なら評価10がつくような指導をするし、取り敢えずなら8のつく指導しかしないけど。前者ならオレはキミの人生に影響を与える人間になるし、後者ならならないし……。オレも忙しいからどっちか選んで。」教育実習生はこのひと言で固まります。ですから、「大丈夫だよ。本音で応えても。オレがオレの時間をどう使うかを決めようとしてるだけだから。どっちを応えても、変わるのは俺の本気度であって、キミじゃないから」とたたみかけます。教育実習生はもっと固まります。
14.しかし、これまで私のこの投げかけに対して「取り敢えずです」と応えた実習生は一人もいませんでした。私は怖い印象をもたれる風貌をしていますし、私としても実習生が「本気です」と言うことを狙っているわけですから、まあ当然といえば当然です。これからお世話になろうという怖そうな教育実習担当の先生に、「取り敢えず免許だけとれれば……」とは言いにくいでしょう(笑)。
15.そこで教科書を渡して、必ず出す宿題があります。「既にやってしまった教材はこれとこれととこれだ。その他の教材はすべてキミがやっても良い教材だ。2学期の教材だろうと3学期の教材だろうと、キミのやりたい教材をやらせてあげる。それによって生まれるデメリットはすべて実習が終わってからオレが取り返すから心配しなくていい。だからやりたい教材を5日後までに連絡してきなさい。オレのメールアドレスはこれだ。ただし、実習一日目までにその教材で、キミがやりたいと思う理想の教育が具現されているような指導計画をもってきなさい。その理想の教育がどのようにすれば実現できるか、そういう教育実習にしてあげるから。心配しなくていい。オレも教員生活が長くなってきた。学生さんがすごい指導計画をもってくるなんて思っていないから。でも、そのつくってきた指導計画を見れば、どんな理想を抱いているのかくらいはわかる。まあ、気楽にやってみてください。」これでだいたいの教育実習生は覚悟を決めます。ああ、この人にはちゃんと取り組まないといけないのだなあ、と。教育実習初日には、学生さんなりのしっかりと練られた指導計画をもって現れます。
16.教育実習生をどう指導するかがテーマではありませんから、この辺でこの話は終わりにしますが、私の言いたいことはおわかりかと思います。
17.私は教育実習生に対しても、サークルの若手教員に対しても、学年主任としてもった新卒教員に対しても、言うことは同じです。「おまえは何がやりたいのか。そしてそのやりたいことを具現化するためのどんなイメージをもっているのか。そのためにオレに何をして欲しいと思っているのか。その全体像を示せ。全体像なんてもっていないというなら、現段階の精一杯を考えて示してみろ。それをしたら、オレの時間を割いて、本気で相手をしてやる。」要するにそういうことです。
18.人間はだれしも〈野心〉を抱いて生きています。自分の可能性を信じて、自分には何ができるのか、自分はどこまで行けるのか、そういう心性です。しかし、〈野心〉には「健全な野心」と「不健全な野心」があります。
19.教師は、若いうちから一国一城の主になれるまれな職業です。その分、一人で突っ走り、若いうちから自分はいっぱしの者だと勘違いしやすい職業でもあります。教師の成長には、その勘違いを謙虚に戒めて成長する場合と、その勘違いに実質を伴わせて勘違いではなくする場合と、二つあるように思います。
20.そしてこれには賛否両論があると思いますが、本当に大きく成長する教師を、私は後者であるという印象をもっています。実は後者のタイプも、自分の勘違いに何度も何度も気づいたのです。だからこそ、その勘違いに実質を伴わせる努力を怠らなかったのです。周りの人間にはそれが見えないだけです。こういう人間こそが「謙虚」の名に値すると私は思っています。
21.自らが「健全な野心」をもつと、他人の野心が「健全な野心」なのか「不健全な野心」なのかを見抜けるようになります。それは本気で学ぶべき対象や本気で付き合うべき対象が理解できることを意味しているからです。
22.いつかあの人が見ているものを自分も見てみたい。いつかいま見えていないものが見える自分になりたい。これは「健全な野心」です。いつか人の上に立ちたい。いつか尊敬される仕事をしたい。いつか本を出したい。これらは「不健全な野心」です。前者は自らを常に「過程」に位置づけ、後者は常に「結果」を求めます。前者が生涯楽しめるのに対し、後者は手に入れた途端に飽きるのが常です。
23.冒頭に挙げた研究授業の例にしても、今日の授業を今日の授業の成功を目指して考えるのと、今日の授業を3ヶ月後にここに到達したいから今日の授業があると考えるのとでは、今日の授業の位置づけも評価もまったく変わってしまいます。子どもたちにとっても、長い目でみればその方がよっぽど良いのです。目の前の小さなミス、周りの人のすぐに忘れられてしまう評価を気にして、小さくまとまってはいけません。
24.「若者よ、小さくまとまることを目指してはいけない。この程度で良いと線引きしてはいけない。飢えろ。もっと飢えろ。高みに飢えろ。自分にもできることを目指すのでなく、自分にしかできないことを目指せ。飢えろ。もっと飢えろ。明日の自分に、明後日の自分に飢えろ。」私は自分が本気でかかわった若者に対して、心の中で、いつも、そう叫んでいます。
25.世の中には強者の論理で動く人と弱者の論理で動く人とがいます。強者は弱者の論理を理解して、バランスの取り方を発見し、強者の論理をより盤石にしなければなりません。弱者はもっとそれを声高に主張して、その存在をアピールしなければなりません。どちらもある種の強さをもたなければなりません。
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