コントロールしきることは不可能である
教室はハプニングの起こるところです。ハプニング性にこそ本質があります。教育技術や授業技術はハプニングを極力排除しようという提案でした。しかしそれは背理なのです。そんな発想一辺倒では教室は活力を失ってしまいます。そこでどうバランスをとるかが問われます。そこに教師の個性が表れます。
私が教師になったのは1991年のことです。当時は教育行政がいわゆる「新学力観」を推し進めるなか、「教育技術の法則化運動」が隆盛をきわめ、「授業づくりネットワーク」が台頭し始めるとともに、「全生研」をはじめとするかつての民間教育団体が再評価され……と、様々な主張が乱立する時代でした。ポストモダンの技術主義、記号主義、構造主義の機運とも相俟(あいま)って、時代はまさに〈教育技術〉の時代。戦後、あれほど教育技術・授業技術の研究が流行したことはなかったのではないか……、そういう時代でした。
〈教育技術〉の時代とはいうものの、この時代の〈教育技術〉はあくまで一斉指導の技術が研究された時代でした。例えば授業技術であれば、一斉授業をどのように成立させるか、どのようにすれば効率的に進むのか、どうすれば学習課題に対して児童生徒に興味を抱かせることができるか、すべてそういう発想で研究されていたのです。それは言い換えるなら、「いかにして教室から〈ハプニング〉を排除するか」「いかにして子供集団を教師の思い通りにコントロールするか」という研究だったのです。そしてそうした機運は、いまなお、学校現場に色濃く反映しているのではないかと感じます。
もちろん、教師である以上、子どもたちを〈コントロール〉することは大切なことです。これを全否定することなどできません。しかし、学校教育はあまりにも〈コントロール〉に偏りすぎているのではないでしょうか。
こうした時代にあっては、子どもたちを〈コントロール〉できる教師が優秀な教師になります。技術のない新卒教師に子どもたちの〈コントロール〉などできるはずもありません。子どもたちと心理的距離が開いてしまうベテラン教師も子どもたちの〈コントロール〉がしづらくなります。怖いイメージの先生とちょっとひ弱な印象の先生とでは、最初から〈コントロール〉するためのスタートラインが変わってしまいます。いわゆる「学級崩壊」現象も、決してこうした構造と無縁ではありません。
これに対して、現在は、各機関で協同学習が推し進められています。教育行政までがワークショップという語を用いて推進するようにもなりました。ファシリテーションや特別支援の思想も普及してきています。職員室内外のチーム・ビルディングも叫ばれるようになりました。
こうした機運が台頭してきたのはなぜでしょうか。おそらく私は、子どもたちを〈コントロール〉しようとする「責めの技術」一辺倒では成り立たなくなったという実感が、教育関係者の間に意識的・無意識的に広がったからではないかと感じています。いくらしっかり〈コントロール〉しようと考えても、〈ハプニング〉があまりにも多く起こってしまうのです。それにいわゆる〈教育技術〉が耐えられなくなってしまったのでしょう。
「教育技術の時代」とは、別の見方をすれば、〈ハプニング〉を極力排除しようとした時代だったのです。教師からみればスキルを身につけなければ評価されない、子どもたちからみれば〈ハプニング〉を起こすと叱られる、そんな時代です。しかし、これは背理なのです。教室とは、或いは子どもとは〈ハプニング〉が起きることにこそその本質があるのですから。〈ハプニング〉の起こらない教室は子どもの主体性や感性を犠牲にするところに成り立っているにすぎません。とすれば、そこにはもともと「責めの技術」のみならず、「受けの技術」が必要だったのではないでしょうか。
あなたは子どもたちを〈コントロール〉したいタイプですか? それとも、子どもたちの〈ハプニング〉を楽しめるタイプですか? 一度、じっくりと考えてみることをお勧めします。
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