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2012年5月

5月31日(木)

1.5月最終日。今日は昨日の学年会を受けて、修学旅行関係のこまごまとした文書をつくることになるかな。授業は今日で小テストが全クラス終えることになる。昨日は行けなかったから、今日は父を見舞おう。

2.今日は昨日届いた郵便物をすべて確認しなくちゃ。ゲラの校正も始めなくちゃ。DVDも確認しなくちゃ。できれば見本原稿も仕上げなくちゃ。忙しい一日になるな。

3.授業は四つ。小テストが二つ。小テストの復習が二つ。全学級に昨日評価した作文を返す。空き時間は様々な事務仕事。15時に年休をいただいて岩見沢へ。母を温泉に連れて行こうと思ったのだが、今日は膝に注射を打ったとかで入浴禁止とのこと。暇なのでゲラの校正。その後、母といっしょに父を見舞う。

4.夢を抱いて教職に就いた若者が1年も経たないうちに教壇を去って行く……そんな事例が増えています。若い教師が自ら命を絶ったという報道も後を絶ちません。

5.教職について三十年以上という大ベテランが早期退職する事例も増えています。管理職が自ら希望して降格するという事例も増えています。

6.正直、どうしてこんな時代が来てしまったんだろう……と感じます。ひと昔前までは、教師っていい仕事だったんです。身分的にも経済的にも安定していて、夏休み・冬休みがあって、子どもたちの成長にかかわれることで自己実現を図れる、そんなイメージの仕事だったんです。

7.そんなに昔のことではありません。私が教職に就いた20年前には、まだまだそんな雰囲気がありました。「十年ひと昔」と言いますが、ほんのふた昔前の話です。

8.「教師力」という語を最初に用いたのは、私の記憶が正しければ朝日新聞です。2003年の3月のことでした。

9.「教師力」などという言葉が流行するということは、世論に多くの教師が「教師力」が持ち得ていないという批判的言説がはびこっているということを意味しています。教師の多くが普通に教師として満足のいく仕事をしているのであれば、わざわざ「教師力」などという仰々しい言葉を使う必要はありません。

10.当時は2000年前後からマスコミを賑わした「学力低下論争」や「学級崩壊・学校崩壊」を受けて、「指導力不足教員」や「不適格教員」という語が流行の兆しを見せ始めた頃でした。時を同じくして小渕内閣の「教育改革国民会議」から安倍内閣の「教育再生会議」へという政治的な流れが、学校教育における「教師力不足」という世論を一気に加速させたようにも思います。

11.それに伴って、保護者による学校へのクレームも増加する一方。当初は多くの教師が抵抗を感じていた「モンスター・ペアレンツ」という言葉も、もう定着してしまった感があります。もう多くの教師が保護者のクレームに慣れてしまったのです。中には理不尽なクレームだと保護者を訴える教師まで出る始末……。

12.私にはこれが正常な状態だとはとても思えません。少なくとも、子どもたちを育てるのに良い環境でないことだけは確かでしょう。

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5月30日(水)

1.今日の放課後は学年会。修学旅行に向けて、旅行業者を呼んでの最終打ち合わせである。長い一日になりそうだ。授業は小テストの連続なので、楽である。

2.授業は三つ。どれも小テスト二つ。テスト監督しながら生徒たちの作文を評価。空き時間の一つは期末テストの修正。もう一つは作文の評価の続き。評定資料もほとんど揃った。放課後は期末テストの印刷。金庫に保管。更に修学旅行の最終打ち合わせ学年会。終了は18:30。思ったよりも早く終わった。

3.「○○さんがマイカレンダーであなたの誕生日を追加させてくださいしました」 わけのわからん日本語だ。

4.今日はOFF。「長い長い殺人」を見る。見るのは2回目だが、よくできたドラマだ。前にDVDを借りてきて見た記憶がある。出演者の豪華さに驚いたのをよく覚えている。

5.ものすごい数の郵便物。ゲラとかDVD見本とか謹呈書とか講座の感想とか雑誌の原稿依頼とか……。一つも開けずに明日まわし。こういう日もある

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コントロールしきることは不可能である

教室はハプニングの起こるところです。ハプニング性にこそ本質があります。教育技術や授業技術はハプニングを極力排除しようという提案でした。しかしそれは背理なのです。そんな発想一辺倒では教室は活力を失ってしまいます。そこでどうバランスをとるかが問われます。そこに教師の個性が表れます。

私が教師になったのは1991年のことです。当時は教育行政がいわゆる「新学力観」を推し進めるなか、「教育技術の法則化運動」が隆盛をきわめ、「授業づくりネットワーク」が台頭し始めるとともに、「全生研」をはじめとするかつての民間教育団体が再評価され……と、様々な主張が乱立する時代でした。ポストモダンの技術主義、記号主義、構造主義の機運とも相俟(あいま)って、時代はまさに〈教育技術〉の時代。戦後、あれほど教育技術・授業技術の研究が流行したことはなかったのではないか……、そういう時代でした。

〈教育技術〉の時代とはいうものの、この時代の〈教育技術〉はあくまで一斉指導の技術が研究された時代でした。例えば授業技術であれば、一斉授業をどのように成立させるか、どのようにすれば効率的に進むのか、どうすれば学習課題に対して児童生徒に興味を抱かせることができるか、すべてそういう発想で研究されていたのです。それは言い換えるなら、「いかにして教室から〈ハプニング〉を排除するか」「いかにして子供集団を教師の思い通りにコントロールするか」という研究だったのです。そしてそうした機運は、いまなお、学校現場に色濃く反映しているのではないかと感じます。

もちろん、教師である以上、子どもたちを〈コントロール〉することは大切なことです。これを全否定することなどできません。しかし、学校教育はあまりにも〈コントロール〉に偏りすぎているのではないでしょうか。

こうした時代にあっては、子どもたちを〈コントロール〉できる教師が優秀な教師になります。技術のない新卒教師に子どもたちの〈コントロール〉などできるはずもありません。子どもたちと心理的距離が開いてしまうベテラン教師も子どもたちの〈コントロール〉がしづらくなります。怖いイメージの先生とちょっとひ弱な印象の先生とでは、最初から〈コントロール〉するためのスタートラインが変わってしまいます。いわゆる「学級崩壊」現象も、決してこうした構造と無縁ではありません。

これに対して、現在は、各機関で協同学習が推し進められています。教育行政までがワークショップという語を用いて推進するようにもなりました。ファシリテーションや特別支援の思想も普及してきています。職員室内外のチーム・ビルディングも叫ばれるようになりました。

こうした機運が台頭してきたのはなぜでしょうか。おそらく私は、子どもたちを〈コントロール〉しようとする「責めの技術」一辺倒では成り立たなくなったという実感が、教育関係者の間に意識的・無意識的に広がったからではないかと感じています。いくらしっかり〈コントロール〉しようと考えても、〈ハプニング〉があまりにも多く起こってしまうのです。それにいわゆる〈教育技術〉が耐えられなくなってしまったのでしょう。

「教育技術の時代」とは、別の見方をすれば、〈ハプニング〉を極力排除しようとした時代だったのです。教師からみればスキルを身につけなければ評価されない、子どもたちからみれば〈ハプニング〉を起こすと叱られる、そんな時代です。しかし、これは背理なのです。教室とは、或いは子どもとは〈ハプニング〉が起きることにこそその本質があるのですから。〈ハプニング〉の起こらない教室は子どもの主体性や感性を犠牲にするところに成り立っているにすぎません。とすれば、そこにはもともと「責めの技術」のみならず、「受けの技術」が必要だったのではないでしょうか。

あなたは子どもたちを〈コントロール〉したいタイプですか? それとも、子どもたちの〈ハプニング〉を楽しめるタイプですか? 一度、じっくりと考えてみることをお勧めします。

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5月29日(火)

1.さあ、今日は期末テストづくりだ。久し振りに空き時間がたくさんあるから、仕事が進むぞ。

2.授業は三つ、空き時間も三つ。授業は三つとも期末テスト前の小テストを二つ。空き時間は期末テストの作成。一応完成。放課後は解答用紙をつくる。その後、授業で同学年を組んでいる国語教師とテスト問題の打ち合わせ。授業以外は期末テストづくりに費やした一日。これで修学旅行前の事務仕事を終えた。

3.一般にどの教科の教師も、授業が講義中心、教師の説明中心で良いとは考えていないはずです。その証拠に、秋の研究授業になると教科を問わず子どもたちの交流によって課題を解決していく授業ばかりが公開されます。しかし、多くの研究授業は、日常的に交流学習に取り組んでいないものですから、それがうまく機能しない……という結果に陥ります。

4.もしもあなたが、最終的には子どもたち同士の交流・協同によって課題解決を図るような授業を展開していきたいと考えているならば、それは四月からの計画的な指導が必要になります。具体的には、すべての授業で小集団による交流を仕組むことです。四月から毎時間、よほどのことがない限り、例外はつくらない。その決意と覚悟が必要です。これを私は〈グループワーク〉の原理と呼んで、現代の子どもたちを授業に集中させるのに必須の原理だと考えています。

5.どうやら7月下旬か8月上旬に、再び新潟に行くことになりそうです。僕は新潟が大好きです。良き人たちとおいしい食べ物。最近は新潟に住みたいと思うほどに好きになってきています。新潟で嫌いなのはA坂S二という変な人だけです(笑)。あの人の自虐ネタだけは僕は笑えません。

6.仕事術。今日、僕は期末テストをつくりましたが、このテストが行われるのは6/15です。まだ2週間半あります。それでも最近忙しかったせいで、僕のテスト作成としては遅い方です。世の中の「ギリギリ君」の皆さん、仕事は余裕をもって進めましょう。余裕をもってこそ急なことに対処できるのです。

7.「協同学習」が大流行しています。「ファシリテーション」も大流行しています。「ワークショップ型授業」の多くは協同的な〈学び〉の保障を目指しています。「シェアリング」や「リフレクション」による振り返りも協同で行うことが多いようです。どれも子どもたちの〈学び〉を大きく機能させます。私も基本的にこれらの動きを良いことだと思っています。

8.しかし、一つだけ確認しておきたいことがあります。それは〈学び〉というものが最終的には〈個人〉のものである、ということです。その意味で、〈グループワーク〉にしても体験活動的な〈ワークショップ〉にしても、最終的には、子どもたち個人個人に自分自身の〈学び〉を確認させることが大切です。私はこれを〈パーソナライズ〉の原理と呼んでいます。

9.煮詰まってきた。パン屋を再襲撃でもするかな。それとも納屋でも焼こうかな。

10.読者の皆さんにお尋ねします。「あなたを支えているものは何ですか?」仕事に行き詰まったとき、何か辛いことがあったとき、あなたを支えているかけがえのないものはなんですか? 家族でしょうか。恋愛でしょうか。かつての部活動での体験でしょうか。それとも、かつてのうまくいった仕事でしょうか。これまでも幾度となく辛いことを乗り越えてきたという経験でしょうか。胸に手をあてて考えてみてください。

11.あなたを支えているものとして、具体的に何か浮かんできたにせよ、あなたを支えているものは他ならぬ〈あなたの物語〉であるはずです。あのときああだったじゃないか、このときはこうだった、たれがいなくても私にはこの人がいる……そう。人の人生を支えているのはその人自身の〈物語〉なのです。

12.もう少し突っ込んで考えてみましょう。では、その他ならぬ〈あなた自身の物語〉は、いったいあなたの何の〈物語〉でしょうか。私は断言します。それは、あなたの「〈学び〉の物語」であり、「〈成長〉の物語」なのです。自分を支えているのが家族であろうと友人であろうと恋愛対象であろうと、あなたはそこに「人間関係とは何か」「無償の愛とは何か」「だれかのために生きる喜び」とか、そういうものを学び、成長を遂げたのです。部活動で得た「努力の大切さ」とか「チームワークの大切さ」も、かつて大切な学級と出逢って教職の喜びを知ったことも、執拗な保護者クレームに耐え続けた苦しい日々も、みんなあなたの中に「〈学び〉の物語」や「〈成長〉の物語」をつくってくれたのです。

13.学校教育とは、子どもたちが「〈学び〉の物語」や「〈成長〉の物語」を作り上げていくことに寄与する営みです。授業もその大事な要素の一つなのです。

14.私は本章の原理9〈パーソナライズ〉において、作文は散逸しないようにノートに貼らせたりファイルに綴じ込ませたりすることを提案しました。それが〈元ポートフォリオ〉として機能するのだとも述べました。しかし、それらの〈学び〉のパーソナライズをそのまま放っておかせてはいけません。〈元ポートフォリオ〉は〈凝縮〉させてこそ意味をもつのですから。

15.私は授業の究極の目標は、「〈学び〉の物語化」「〈成長過程〉の物語化」のモデルを示すことにあると考えています。これまでの〈学び〉を振り返ることは、〈現在〉を〈過去〉との関連で見つめ直してみることです。そこにある種の連関を発見したり、そこにある種の因果関係を発見したりすることは、実は同じ構図で〈現在〉と〈未来〉との関係に思いを馳せることを意味しています。〈現在〉と〈過去〉とが密接に関わり合っているのなら、同じ構図で〈未来〉は〈現在〉と密接にかかわっているはずなのですから。〈学び〉を振り返ることの究極の〈目的〉はそこにあるのです。私はこれを〈ポートフォリオ〉の原理と呼んでいます。

16.『一斉授業10の原理・100の原則』の第1章「一斉授業をつくる10の原理」40頁。脱稿です。よし!パン屋再襲撃だ!

17.さて、次は「教師力ピラミッド」だな。明日から〈授業頭〉を〈生徒指導頭〉に切り替えなくちゃ。この際だから、自分のコンテンツを全部吐き出しちまおう。そして書くネタがなくなったら、アンダーグラウンドだ。それまで頑張ろうっと。

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何でもできると思ったら大間違いである

私は、人は「自分に何ができるか」ではなく「自分には何ができないか」を最初に考えるべきだと思っています。できないことをやろうとしてそれがうまくいかないと、かえってやらなかったときよりも他人を傷つけることがあります。できないことに取り組み始めないことも重要なのです。

「先生はいじめは絶対に許さない!ちょっとでも何か傷つけられたということがあれば、どんな小さなことでも先生に相談しなさい。先生はちゃんと話を聞いて対応します。」

4月、こう宣言したとします。

5月になって、おとなしめのある女の子がか細い声で「先生……」と声をかけてきました。ところが、そのとき、教師がたまたま急ぎの連絡をする用事があって急いでいたために、「ちょっと待ってね。いま、急いでるんだ。あとでね。」と用事を優先させてしまいました。教師側からみれば些細なことに感じますが、こんな小さなことが4月の宣言を「嘘」にしてしまい、教師の「言行不一致」と捉えられてしまう要因になってしまいます。この場合、用事を済ませたあとにほんとうにすぐに戻ってきてその子に対応すればまだ間に合いますが、それを忘れてしまったとしたら、その子との人間関係は致命的な破綻を迎える可能性さえあります。この子は「どんな小さなことでも先生に相談しなさい。先生はちゃんと話を聞いて対応します」という教師の言葉を信用していたわけですから。

実は、こうした、教師の側から見れば些細なことのように思えることが、生徒の側から見れば大きなことと捉えているという事案は、学校生活において多々あるものです。特に、女子生徒に対して、「いつでも相談しなさい」とか「先生が絶対に守るから」といった発言をすることは、かなりの危険を伴います。教師にしてみれば、「いつでも相談しなさい」の「いつでも」には真夜中や土日は含まれていません。一般的にはそれが常識でしょう。しかし、その女子生徒にとって、「いつでも」は文字通り「いつでも」かもしれないのです。つまり、真夜中であろうと休日であろうと「いつでも」です。

特に、最近は携帯電話の普及によって、生徒たちのコミュニケーションは24時間、絶え間なく動いています。真夜中に自分を中傷するメールが届いた。日曜日の朝、ふと友人のブログを読むと明らかに自分の悪口と思われる内容が綴られていた。こうしたことがあったとき、「いつでも相談して良い」と言ってくれている担任がいるというのは、間違いなく生徒にとっては心強いはずです。

こうして真夜中や休日にメールや電話が来ました。教師にとっては明らかに迷惑な話です。しかし、「いつでも相談しなさい」と言った手前、教師はそのような時間、そのような休日であっても対応せざるを得ません。断ってしまっては、生徒に裏切りと思われてしまいますから。

しかし、問題なのは、これに一度対応してしまうと、絶対に一度では終わらないということです。二度目も言うとおりに対応しました。三度目も同じように対応しました。でも、どうしても迷惑がっているのが表情に出てしまいます。それが当の女生徒にも伝わります。結果、その生徒の中では「先生は嘘をついた」「先生に裏切られた」になっていくわけです。

こうした経緯があっての人間関係の断絶は、実は最初から何もしなかった場合の人間関係の希薄さよりも、何倍もこの生徒を傷つけます。不登校や非行化、場合によっては自殺まで考えるという生徒もいます。特に、もともとリストカットの傾向があるなどという場合には、こうした指導の在り方は厳禁です。

私たちは神ではありません。私たちにも私たちの生活があります。教師にもできることとできないことがあるのです。自分には何ができて何ができないのか、常に意識して生徒にあたることが必要です。

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5月28日(月)

1.久し振りの10時間睡眠。21時寝の7時起き。疲れていたのだろう。全く目覚めなかった。今日から1週間は修学旅行に向けて、こんな感じで睡眠を確保しよう。一日8時間睡眠を継続していこう。

2.今週の前半は学校運営要綱を印刷業者に出さなければならない。後半は期末テストをつくることになるな。あとは期末テストに向けて小テストをつくって生徒たちにやらせる日々が続くな。修学旅行の最終チェックの毎日でもあるな。忙しい一週間になるな。それもまたよし。原稿が順調なので何の焦りもない。

3.授業は四つ。「握手」の回想場面の読み取りが一つ。あとの三つは漢文の小テスト。空き時間の一つは学校運営要綱関係の最終チェック。完成。あとは業者に渡すだけになった。もう一つは朝自習の印刷。放課後は漢詩二編と「おくのほそ道」の小テストを作成、印刷。懸案の仕事をどんどん片付けた一日。

4.「なぜ、勉強しなければならないの?」と子どもに訊かれて、困ったことはないでしょうか。教職に就いている者にとって、勉強することはあまりにも当然のことです。そのせいでしょうか、多くの教師が授業で〈学習趣意〉を語らないという悪弊に陥っています。なぜこの学習をするのか、この学習をすることにどんな価値があるのか、どのように学習すると効果的なのか、そうしたことを教師があまり語らないのです。

5.しかし、授業において教師が〈学習趣意〉を語り、授業の〈目的〉を明確にすると、子どもたちは見違えるほどに授業に集中して取り組むものなのです。自分に置き換えて考えてみればわかることです。私たちだってそうではありませんか。〈目的〉も〈価値〉もわからずに、ただこの仕事をやれと命じられて、果たして意欲的に取り組むことができるでしょうか。

6.教師は授業において、「〈学習趣意〉の明確化」を怠ってはなりません。この〈学習趣意〉を明確化することを〈インストラクション〉と言います。

7.〈スモール・ステップ〉という語をご存知ないという読者はさすがにいらっしゃらないと思います。そのくらい〈スモール・ステップ〉は、学校教育において主要な指導原理であると言えます。大学の講義でも研究会の講座でも盛んに主張されます。

8.しかし、多くの場合、〈スモール・ステップ〉は指導事項の系統的な細分化を意味することが多いようです。もちろんその意味もあるのですが、私はもう一つ、学習活動の系統的細分化も必要だと考えています。

9.子どもたちに「自分にもちょっと頑張ればできそうだ」と思わせることは、〈学習意欲〉の喚起に不可欠です。〈学習意欲〉というと、液体窒素で凍らせたテニスボールを床に投げつけて割って見せるとか、難しそうにみえる計算問題をまるでマジックのように瞬時に解いてみせるいった、初発の動機づけばかりが問題にされます。しかし、教師は、その喚起された意欲をどうやって「持続させるか」ということをも同時に考えなければならないのです。

10.「初発の意欲を喚起すること」と「喚起された意欲を持続させること」、〈スモール・ステップ〉は後者の〈意欲喚起〉のために有効な原理なのです。

11.「一斉授業」の10原理。7つまで執筆完了。40頁中28頁を書いたことになる。あと12頁かぁ。もう4頁書いてから寝るか、もう寝てしまおうか。それが問題だ。

12.だいたい、学級経営にしても生徒指導にしても一斉授業にしても、こんなに奥の深いものを10の原理に整理しようとすること自体に無理がある。著者がこんな言って良いのだろうか(笑)。

13.かつて宇佐美寛先生が「私は一日に原稿を3枚しか書かない。それ以上書くと筆が荒れる」とおっしゃっていたっけ。なるほどなあ……と思う。

14.‎10の原理とかに整理されたものを見せられちゃうと、曖昧模糊としていた霧が晴れるというメリットも確かにあるんだけれど、その整理されたものに引っ張られちゃって視野が狭くなると言うデメリットもあるんだよね。読む人にはそれを意識して欲しい。書く側の僕はそれをわかってるから視野が狭くなることはないけれど、読む側にはそういう危険性があるっていうことを。

15.知ることが必ずしも良いこととは限らない。しかし、知らなければ何も始まらない。

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5月27日(日)

1.授業が幾つかのユニットに分かれている─二一世紀に入って、そうした授業の在り方が数多くの現場教師から提案されるようになりました。子どもたちか45~50分の一単位の授業時間に対して、集中力を持続させるのが難しくなってきているという現状認識のもと、現代的な子どもたちに対応する方法として現場教師が編み出した授業スタイルです。一般に〈ユニット型授業〉と呼ばれています。

2.〈ユニット型授業〉は、相互に直接的には関係していない授業パーツを幾つか組み合わせる〈オムニバス型授業〉と、一つの指導内容を学習活動や思考形態の差を意図的につけることによってユニットを形成していく〈ユニットプログラム型授業〉とに分かれます。

3.例えば国語であれば、前者は①漢字5分→②発声練習3分→③ペア・デイスカッション7分→④教科書の音読10分→⑤グループディスカッション10分→⑥作文技術5分→作文10分のように、一時間の授業パーツがそれぞれ独立しているような授業形態です。毎時間、同様の授業形態をとることによって、モジュール学習のように一定の期間で学力を形成していくことを目指します。

4.これに対して後者は、一単位時間の課題は基本的には一つで従来の授業の在り方に近いのですが、学習活動が細分化されているというタイプの授業です。例えば、①音読5分→課題設定5分→課題解決方法の解説10分→個人解決5分→グループディスカッション10分→シェアリング5分→課題解決作文10分のような授業形態です。学習活動としては一つ一つのユニットに分かれているのですが、一単位時間の指導内容としては一貫性がある、そういう授業形態です。

5.いずれを採用するかはそれぞれの教師の教育観や授業観、児童生徒観によるというのが現実ですが、このような〈ユニット型授業〉の意識をもちないことには、現代の子どもたちには対応しづらいということだけは確かです。

6.私は後者を採用しているのですが、こうした一貫性のある指導内容を学習活動として細分化しながら、一時間全体としては子どもの思考過程を広げたり深めたりしていくことを目指す、こうした授業のつくり方を〈ユニットプラグラムの原理〉と呼んでいます。

7.『一斉授業10の原理・100の原則』の第1章「ゴールイメージの原理」「フレームワークの原理」「メインターゲットの原理」「ユニットプラグラムの原理」の四つが書き上がりました。16頁分、第1章の4割を書き上げたことになります。この紙幅で情報量の多さをどうおさめるかに苦労しています。

8.ここ1ヶ月間、瀬木貴将を聴き続けている。原稿がはかどる。とてもリラックスできるのが良い効果を上げているのだろうと思う。なんとなく、幾つかの執筆を同時進行で進めていく原稿の書き方にもこなれてきた感じ。別々のテーマに同時に取り組んでいると相乗効果も実感できる。思わぬ副産物である。

9.古くから教師の指導言の王道は〈発問〉だと言われてきました。良い〈発問〉をつくることが教材研究の王道であり、良い〈発問〉さえつくれば授業は自ずから機能する、そう主張されてきたわけです。世に〈発問研究〉の本は溢れていますし、有名な実践家の優れた〈発問〉もずいぶんと追試されてきました。しかし、私はこの発想が基本的に間違っていると思います。

10.教師の指導言には〈発問〉と〈指示〉と〈説明〉の三つがあります(『授業づくり上達法』大西忠治・民衆社・一九八七年四月)。皆さんはこの三つのうち、教師の指導言として、どれが最も大切だと感じるでしょうか。

11.〈説明〉〈指示〉〈発問〉は次のように捉えるとわかりやすいと思います。【説明】授業のフレームや、〈指示〉〈発問〉の前提をつくる指導言/ 【指示】子どもたちの行動に働きかける指導言/【発問】子どもたちの思考に働きかける指導言

12.つまり、〈説明〉は、授業自体の〈フレーム〉を規定したり、〈発問〉や〈指示〉の前提となったりする指導言であり、〈説明〉なくしては〈発問〉も〈指示〉どころか、授業の〈フレームワーク〉自体が揺れてしまう、重要な〈ブリーフィング〉なのです。

13.私はこうした〈説明〉〈指示〉〈発問〉といった指導言の機能性を操作することを〈ブリーフィング・マネジメント〉と呼んでいます。〈ブリーフィング〉とは「これから発生する事象について、事前に意識合わせをすること」を指しますが、この〈意識の共有化〉〈前提の共通理解〉をどのようにつくっていくかが一斉授業ではとても大切になります。これを意識しない授業、この意識の甘い授業は、まず間違いなく「授業がにごる」という状態に陥ります。

14.一斉授業の在り方を貫く五つの原理の執筆を完了。「ゴール・イメージの原理」「フレームワークの原理」「メイン・ターゲットの原理」「ユニット・プラグラムの原理」「ブリーフィング・マネジメントの原理」の五つです。これから一単位時間をどう構成していくかという五つの原理の執筆を開始します。「インストラクションの原理」「スモール・ステップの原理」「グループワークの原理」「パーソナライズの原理」「ポートフォリオの原理」の五つです。早く完成させて、イクタケマコトさんに漫画を描いてもらいましょう。

15.いま数えてみると『一斉授業10の原理・100の原則』が僕の単著の10冊目になることがわかりました。順調にいけば来年度の前半には20冊に到達することが決定していて、その意味では通過点に過ぎませんが、それでも10冊目というのは記念すべき本に感じます。妥協しないで書こうと思いました。

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5月26日(土)

1.目が覚めた。2:51。窓を開けると涼しい風が部屋を通り抜ける。外は驚くほど静かだ。珈琲がひと口ごとに胃に沈んでいく。瀬木貴将が似合う夜だ。

2.1球目は外角低めに赤い直球を投げた。2球目は内角低めに青い直球を投げた。3球目は外角低めに黄色いスローカーブを投げた。4球目は内角高めの緑の直球である。そして5球目は外角にボール気味のスライダーを投げることに決めた。

3.3:14。静かな夜を突き破るように激しい雨が降り出した。それでも瀬木貴将が似合う夜だ。

4.『一斉授業10の原理・100の原則』を執筆中です。先週、プロットも確定し、第1章はこの連休で脱稿の見込みになってきました。でも、これから執筆をひと休みして、日ハムvs中日を観戦しに行きます。11:22。僕はもちろん、中日サイドで応援します。

5.拡散希望/定員50/残席26/今度はこのセミナーです!】室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)

6.春休み。新しい学年も決まりました。四月から新しい学年、新しい学級でどんなことに取り組もうかとあれこれ考えます。少しでも教材研究しておかなくちゃと考えます。まずはどんな教材から始まるのだろうと教科書を開きます。ふむふむ。なるほどなるほど。私はまず、これが間違っていると考えています。

7.どんな教材から始まるのか。それを確認して教材研究をする。すると、その教材の特性ばかりが目につきます。あれもできる、これもできる。あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃ。新学期は教師にとってもっともやる気のある時期です。なんでもできそうに感じてしまいます。そんな時期に第一教材の特性をあれやこれやと見つけてしまう……実はそれが、焦点の定まらない、散漫な授業への第一歩となります。

8.最初に教材研究する教材、それは年度の最後の教材です。例えば、四月から四年生の担任に決まったとしましょう。教科書の最後の教材を見たとしましょう。すると「ごんぎつね」だったとしましょう。この教材をよく読んでみる。そして、自分は四年生の担任として、三学期にこの教材でどんな授業ができたら満足なのか、この教材でどんな授業が展開できたら子どもたちを育てられたと自信をもって言えるのか、それを具体的にイメージしてみる。まずはこうした〈最終目標〉をできるだけ具体的に意識してみるのです。一年をここから始めるのです。

9.『一斉授業10の原理・100の原則』を書き始めました。第一原理は「ゴールイメージの原理」。30分程度で4頁が書けました。こうした授業カリキュラム論は専門中の専門なので、割とすぐに書き上がりそうです。書いてみると、自分は学級経営や生徒指導ではなく、授業の専門家なのだと実感します。

10.札幌ドームはドラゴンズが良い勝ち方をしました。山内が6回までほぼ完璧なピッチングでした。良い若手が出て来たものです。ブランコも4打数4安打。タイムリーもありました。岩瀬も万全の締め方をしました。強いなあ…と感じました。日ハムでは陽が良い選手になったなあと感心させられました。

11.一斉授業だからと言ってどれも教え込みであるとか、どれも講義形式であるとか、どれもスキル学習であるとか、そうした固定的なイメージを抱いてはいけません。一斉授業にも〈目的〉によって〈フレーム〉があります。授業が上手いとか下手とかいう〈質〉の話ではありません。あくまでも〈目的〉応じた〈フレーム〉の違いです。

12.今次の学習指導要領において、「習得」「活用」「探究」というキーワードが提示されました。現在、だれもが意識しているキーワードですから、読者の皆さんもご存知のことと思います。例えば、この「習得」「活用」「探究」が私の言う〈フレーム〉の一つです。「今日は習得の授業である」とか「この一時間は活用の一時間である」とか「これから三時間かけて探究型の授業を行う」とかいった、一時間一時間の授業に対して〈フレーム〉意識をもちましょう、それが一斉授業をつくる原理の2「フレームワークの原理」です。

13.来月発売される「教室ファシリテーションセミナーin京都」DVDの映像チェック。今日は第3講座の「教室にOSTを導入する」の映像をチェック。これでDVDの映像チェックをすべて終えた。あとは平井さんの編集完了と発売を待つだけである。

14.「研究集団ことのは」の「教室ファシリテーションへのステップ1・音読編」の原稿が続々上がり始めている。たいしたものだ。この本は割と早くできそうな雲行きになってきた。「ことのは」の国語関係の本としては実に10年振りの著作になる。感慨も一入である。早くできないかなあ。

15.少しだけ本書を読むのをやめて、あなたが今日やった授業を想い出してみましょう。今日が休日だというのならば、昨日の授業でも一昨日の授業でも構いません。とにかく最近行った具体的な一時間の授業を思い浮かべて欲しいのです。そして、考えてみてください。「その授業の指導事項は何ですか?」

16.あなたが教材名で答えたとしたら、それは指導事項に関する意識がないということです。あなたが幾つもの指導事項を挙げたとすれば、それは指導事項が散漫であり、おそらく授業も散漫だということを意味しています。あなたが指導事項を一つだけ明快に答えられたとしたら、本節を読む必要はないかもしれません。あとはその指導事項をどれだけ具体的に答えられたかということだけが、あなたが今後追究すべき「指導事項意識」になると思います。

17.教師は一時間一時間の授業において、「今日の指導事項はこれだ。これだけは子どもたち全員に理解させ、取り組ませ、定着させるのだ」という明確な意識をもって臨むべきです。このように一時間の指導事項を具体化することを、私は〈メインターゲットの原理〉と呼んでいます。

18.『一斉授業10の原理・100の原則』を書いている。うーん。これは読者が離れるなあ。前著3冊に比べて断じて質は下がっていないが、明らかに難しくなっている。いまどき、若い人たちがここまで考えて授業ができるとはとても思えない。困った。でも、一応硬派を売りにしているシリーズだからいいか。

19.この本はこれまでの著作の中で、最も「堀裕嗣らしい本」になるなあ。吉と出るか凶と出るか楽しみだなあ。でも、予想としては断然「凶」だな(笑)。

20.そうか。第1章では難しいこと書くけれど、第2章では徹底的な技術主義で書けばいいんだ。そうだ。そういうことにしようじゃないか。

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5月25日(金)

1.授業は3時間。「握手」の回想場面が一つ、「握手」のルロイ修道士の人物像が一つ、「握手」の再会場面の行動描写の洗い出しが一つ。空き時間は学校運営要綱の仕事。放課後は校舎の引っ越し作業。次いで学年会。更に学校運営要綱の学校経営分、中扉の印刷。おそらく今日の印刷は1万枚を超えたはず。

2.しかし、この「人それぞれ」というテーゼは、趣味の世界や友人関係の人づきあいなら支障はないのですが、ともに仕事をする立場の人間同士となると大きな問題です。それは「人それぞれ」という言葉が、それぞれが自分の思いにしたがってそれぞれに仕事に取り組もうという意味を裏にもつからです。つまり、仕事の集団を「烏合の衆」化するのです。

3.確かに、教員集団において「人それぞれ」を認めてしまえば、他の教師の領域を侵さない限りは揉め事が起こりません。また、他の教師の領域を侵さない限りは自分のやりたいことに取り組むことができ、だれに文句をいわれることもありません。ある程度の力量があり、やりたいことももっているという教師には、とても楽な組織運営になります。

4.反面、職員室においては、致命的な二つのデメリットがあります。

5.一つは、若手教師が育たないということです。武道や芸能で用いられる「守・破・離」を持ち出すまでもなく、人の成長には一般的に「型から入って型から抜ける」という過程が必要です。この過程を通らずに大きな成果を上げられるのはごくごく一部の天才だけです。なのに、「人それぞれ」の職員室運営にはその「型」がないのです。先輩教師はみなそれぞれにバラバラのことをやっている。何が良くて何が悪いのかわからない。先輩教師に訊いてみても、「人それぞれだから自分で見つけろ」と言われる。こういうことになりがちです。

6.もう一つは、どの部所にも属さない、いわゆる「隙間仕事」が一部の良心的な教師や責任ある立場の教師が、そのほとんどすべてをかぶらなければならなくなることです。学校には「隙間仕事」がいっぱいあります。私の実感では、学校の全仕事の3割程度は「隙間仕事」なのではないか、と思われるほどです。「人それぞれ」がまかり通る職員室では、この「隙間仕事」が「仕方ないから子どもたちのために自分がやろう」「先生方のために自分がやろう」と考える良心的な教師か、教頭・教務主任・学年主任といったその「隙間仕事」の重要性を熟知している責任ある立場にある人がすべて負う、ということになりがちです。その結果、良心的な教師や責任ある立場の教師たちがパンクしてしまうのです。

7.「絶対なんてない」「人それぞれです」など、「正しすぎる論理」のうえに胡座をかいて自己満足に浸っている教師たちは、その自己満足が若手教師や良心的な教師、そして自分よりも仕事のできる責任ある立場にいる教師たちの犠牲のもとに「自分のいま」があるのだということを自覚すべきです。自分は頑張っているつもりでも、少しずつ少しずつ職場を壊しているのです。

8.この構造が見えていない、この構造に気づかない、それなのに「正しすぎる論理」を声高に主張する……。実は私は、こういう教師こそが「不適格教師」だと感じています。いいえ、「不適格教師」どころではなく、「不適格社会人」かもしれません。

9.ただしこれも、「言うは易く行うは難し」です。人は無意識のうちにこの構造の落とし穴に迷い込んでしまうものです。意図的に激しい言葉を使いながら述べてきましたが、私とてこの構造と決して無縁ではいられません。本節は私の自戒を込めた提案と受け止めていただければ幸いです。

10.どうも書き始めてみると、あっさりし過ぎているような感じがしてきた。もう一度、プロットを立て直すか。それともこのまま書き進めてみるか。でも、僕の場合、ちょっとあっさりし過ぎているなあ……と自分で思うくらいがちょうど良いという話もある。これまで自信作が売れたためしがない(笑)。

11.今週は長かった。公務では懸案事項をすべて片付け、来週末締切の仕事にも今日目鼻をつけてきた。来週の月曜には完成する。あとは期末テストさえつくれば修学旅行に行ける。今週は帰宅後も原稿執筆をさぼらなかった。疲れている。どうやら限界らしい。今日はもう寝ることにしよう。そういう日もある。

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結果を出すことに貪欲にならねばならない

教師は結果を出すことにもう少し貪欲になるべきです。結果を出すためには粛々とこなさなければならない現実的な現実が当然出てきます。現実を避けて結果が出ないと悩む自分に酔っている、或い自分は正しいはずなのに周りの理解が得られない愚痴る、教師の世界には、そんな独善や責任転嫁が多く見られる現実があります。

教育の成果は一朝一夕では表れない─昔からよく言われる言葉です。

確かに、我が国の学校教育が人格形成を担っていることを考えれば、学校で施した指導がその場では効果がなかったように見えても、5年先、10年先に実を結ぶということはあり得ます。私たちがかつて学生だった頃のことを思い返してみても、後に「ああ、あのときあの先生が言っていたことはこういうことだったのだな」と感じたことは数知れず、そうした意味でもこの言葉は実感をもって受け止めることができます。

しかし、「ああ、あのときあの先生が……」と学ぶ側が振り返るのは良いとして、教師の側が「教育の成果はいまは表れなくても良い」と考えるのはいかがなものでしょうか。それは筋が違うのではないでしょうか。

もちろん、結果がすぐに出ないことなどたくさんあります。しかし、結果が出なかったときに、「どうすれば結果が出るだろうか」と考えるのではなく、「そう簡単に成果など出るものではない」「あいつもいつかわかってくれるに違いない」という理屈が、一種の逃げ口上として機能してしまっているように思えるのです。それではいけません。

皆さんの学校に、毎年毎年、例外なく〈一定の成果〉を上げている教師はいないでしょうか。なぜかあの先生が担任すると、やんちゃな生徒が落ち着いてしまう。あの先生の学級は文化祭でも合唱コンクールでも必ず質の高いものが生まれる。あの先生が担当しているクラスは、他の先生が担当したクラスに比べて明らかに平均点が高い。そんな先生です。

実はこうした教師の存在は、教育の成果が短期間で表れ得ることを示しています。もちろん、こうした教師はごく一部のスーパー教師であるかもしれません。私には無理だと思う人がいても不思議はありません。しかし、少なくとも、やり方次第によっては教育の成果が短期間で表れ得ることの証左ではあるのです。すべての教師がまずはこの認識をもつことが大切だと私は思っています。

では、毎年、例外なく〈一定の成果〉を上げている教師は、一般の教師たちと何が異なるのでしょうか。私は多くの優れた同僚を観察してきて、そこには二つの特徴があると考えています。

一つは「理想を高くもっていること」です。比喩的に、一般に生徒が教師の指導の6割を達成することが平均である、と考えてみましょう。そうすると、10の理想をかかげる教師のもとで生徒たちは平均6の達成しか示しません。しかし、15の理想をかかげる教師のもとでは、生徒たちは平均9の達成を示すのです。この単純な原理を侮ってはいけません。

かつて、「○○中の生徒だから仕方ない」と職員室が口を揃えて言う学校に勤めたことがあります。諦めているという口調ではなく、笑顔で許しているのです。つまり、生徒たちを可愛がってはいるのですが、甘いのです。私は転勤早々、これはまずいと思いました。理想が低すぎるのです。私はこの学校に勤めている間、すべての提案において、生徒指導でも教科指導でも先生方の意識を変えることを第一義に考えて仕事をしたものです。だいたい1年間くらいで成果が出るようになりました。

もう一つは「自分のやり方だけに固執せず、生徒の状況を見ながら手立てを打つこと」です。教師は「自分のやり方」に固執しがちです。「自分のやり方」から漏れる生徒は「悪い生徒」と断罪しがちです。しかしそれは多くの場合、その「自分のやり方」が狭いのです。この意識をもっているか否かが教師として長くやっていけるか否かの生命線であると私は考えています。

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5月24日(木)

1.授業は四つ。「握手」の回想シーンの整理が三つ。ルロイ修道士の人物像を読み取るグループワークが一つ。空き時間は学校運営要綱関係の仕事。放課後は校務部会。更に国語の小テストを二つ作成。退勤時間ぴったりに退勤。帰宅してこれから原稿執筆の予定。こんな生活がいつまで続くのだろう。

2.どの学校にも「ものすごい力量をもっている」と周りから評価されている教師がいるものです。その教師が担任すると、学級経営が安定する。その教師が指導すると、学校祭・文化祭での発表の質が上がる。その教師が指導すると、合唱コンクールで必ず優勝する。そんな教師です。

3.若い教師はそんな教師に憧れます。そして少しでもその先生に近づきたいと考えます。そして努力が始まります。それはとても良いことです。

4.しかし、そうした「ものすごい力量をもつ教師」は、総じて自分本位に教育活動を進めている傾向があります。自分勝手だとか協調性がないとか、要するにそういう教師がわがままだと言っているのではありません。そういう先生が人間的にどうこうということでもありません。そうではなく、本人にはまったくそんなつもりはないのに、本人も気づかないままに自分本位の教育活動になってしまっていて、周りに迷惑をかけているということが少なくないのです。しかも、迷惑をかけられている側も、迷惑をかけられていることに気づかない構造があるので、これまた始末が悪い……そんな状況があるのです。

5.1980年代から1990年代にかけて、教師の間で、教育技術や授業技術を学び、力量を高めていこうという発想が大流行しました。こうした取り組みは「教師修業」と呼ばれ、かなり大きな運動として流布しました。「全生研」「教育技術の法則化」「授業づりネットワーク」など、様々な新たな民間教育団体が現れたり、かつて隆盛を極めた教育運動が息を吹き返したりしました。

6.こうした教育団体で学んできた教師に共通する傾向として、必ずあるのが「個人の力量を高める」という発想です。職員室の力量を高めようとか、学校としての力量を高めようなどという発想で、こうした運動体に参加するということはまずありません。運動体自体がそうした構造にはなっていませんから、当然といえば当然のことです。学校全体である教育運動に参加するということは考えづらいですからね。

7.教師個人が教師としての力量を上げるということは、実はその教師が力量上げれば上げるほど、他の一般教員との力量の差が開いていくことを意味します。その教師の評判は上がり、生徒にも保護者にも信頼され、喜ばれる教師になっていきます。それ自体はとても素晴らしいことです。

8.ただ、これがプロのスポーツ選手であるとか、企業の営業部門の社員であるとかであれば良いのですが、学校の先生というのはこれをただ手放しで喜ぶわけにはいかない職業なのです。

9.皆さんもご存知の通り、学校というところはすべての教師が同じ力量をもっているということを前提にシステムが構築されています。ですから、生徒にも保護者にも先生を選ぶ権利がないわけですね。

10.もちろん、すべての教師が同じ力量をもっているなんて、国民のだれ一人として信じていませんし、そんな夢みたいなことはあり得ないのですが、システムがこの思想によって構築されていることによって、様々な問題が生じてしまうのが学校というところです。教師同士の力量の差が許容範囲内であれば、「それは個性の差である」と言い訳もききますし納得もできますが、力量の差が許容範囲を超え出すと、様々な弊害を生んでしまうのです。それは、学級経営が相対的に評価されるという特徴をもっているからです。

11.新年度、生徒たちも保護者たちも、担任が発表されたり教科担任が発表されたりすると同時に、「今年は当たりだ」とか「今年ははずれだ」とか言っています。私も学校に通っている頃はそう感じていましたし、私の母も、仲の良い友達のお母さんもそういう言い方をしていました。だれもが経験していることであるはずです。つまり、生徒や保護者は学級担任や教科担任を当たりはずれで評価している、ということです。

12.しかし、ここでよく考えてみましょう。生徒や保護者は何を基準にして当たりだ、はずれだと判断しているのでしょうか。

13.確かに年度当初であれば、「女の先生はダメだ」とか「若い先生は頼りない」とか「年寄り先生はいやだ」とか、そういう何の根拠もない差別的な判断もあるかもしれません。また、「あの先生は評判が悪いようだ」とか「かつて学級崩壊をしたことがあるようだ」といったような伝聞情報による評価もあるかもしれません。しかしこうした差別的な評価、評判に基づく評価ならば、多くの場合、その後に、普通に学級経営・教科経営をしていれば立ち消えていきます。

14.問題は普通に学級経営や教科経営をしても立ち消えていかない評価です。生徒や保護者は常に、自分の担任が隣の担任と比べてどうか、お兄ちゃん、お姉ちゃんのときの担任と比べてどうか、という視点で評価しています。しかも「隣の芝生は青い」の諺通り、自分の担任と隣の担任が同程度の力量なら「隣の担任の方が良い」、自分の担任が隣の担任よりも少しだけ力量が落ちるとなれば「隣の担任は自分の担任と違ってものすごく力量が高い」になりがちです。私たち教師は、学級担任としてこのような評価に常に晒されていると見なければなりません。

15.こうした構造の中に、一人だけ、「ものすごい力量をもつ教師」が入ってきたとします。力量の高い、その教師自身は何も困ることはありません。また、その教師に担任されている生徒たち、そしてその保護者たちも、自分たちが幸せだと感じることはあれ、困ることはありません。

16.しかし、問題はその隣の学級の担任教師、或いはその力量ある教師といっしょに学年を組んでいる担任教師たちなのです。彼らはその力量ある教師が近くにいるがために、常にその教師と比較されることによる評価に晒されるのです。生徒や保護者から見て、その力量ある教師の学級経営が評価基準となってしまう、と言い換えても良いかもしれません。

17.しかし、誤解しないでいただきたいのは、私は何も力量ある教師が力利用ない教師に合わせるべきだ、と主張しているわけではありません。むしろ、力量ある教師は、生徒たちの成長のためにその力量を遺憾なく発揮すべきです。ただ、力量ある教師がそうした力量を発揮するときには、周りにいる教師たちが困らないように、周りに配慮するところまで責任の範囲なのだ、と言っているのです。

18.具体的に言うなら、例えば、周りの教師たちがそれぞれの得意分野を発揮できるような場を意図的に設けて、生徒たちからそれぞれの教師の良さを見えるようにする。保護者にもそれを大きく宣伝する。例えば、そういうことです。

19.一番良いのは、周りの教師たちを巻き込んで研修の場をつくったり、学年で歩調を合わせたりしながら、周りの教師をも自らの力量に近づけていくことです。それも、当の周りの教師にその気がなく、いやがられたとしてもです。教師が力量を高めるのは職員室のためではなく、生徒たちのためです。自分の学級の生徒たちに良い思いをさせることによって、他学級の生徒たちの不満を招いたり成長にひずみを招いたりするのだとすれば、それは「力量が高い」とは言えないのではないか、そこまでが「力量の高い教師」の責任の範囲なのではないか、私はそう主張しているのです。

20.もちろんこれは「言うは易く行うは難し」です。しかし、こうした志向性を抱いているのと抱いていないのとでは、大きな違いがあります。世の中には、この志向性を抱くことなく、自分本位に教育活動を進めている自称「力量の高い教師」が多すぎるのです。

21.この姿勢のない「力量の高い教師」は、やはり「自分本位」であり、「自己満足」を目的とした力量形成でしかない、と言わざるを得ません。学校教育は教師の「自己実現」の場としてあるのではないのです。自分の学級だけではなく、勤務校の生徒たちすべてを対象としてより良い教育を考えてこそ教師なのです。

22.【拡散希望/定員50/残席27/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)

23.教師が陥りがちな病理に「正しすぎる論理」があります。「絶対なんてありません。人それぞれですから……」というのがそれです。この論理は正しい。正しいだけにだれも反論できません。しかし、正しすぎるがゆえに何の役にも立ちません。役に立たないばかりかマイナスにさえなります。それは、この論理を持ち出した途端に、すべての思考がストップしてしまうからです。

24.何かを思考しようとするとき、何かを議論しようとするとき、「絶対なんてない」という論理は取り敢えず括弧に括らなければなりません。括弧に括って、もっといいものはないか、いま自分が考えているよりも高次の見解はないか、こういう構えで思考したり議論したりしないことにはすべてが現状維持のままです。

25.だれもがそんな失敗を繰り返しています。しかし、この論理の厄介なところは、それが現状維持をつくるだけに、なかなか失敗だと気づけないところにあります。

26.教員世界には思いの外この論理を持ち出す人が多くいます。特に研究畑の教師に多い気がします。更にいえば、国語教育に携わっている者に多い傾向があります。おそらく、あまりにも諸派諸説が乱立しているため、対立しないために編み出された詭弁なのでしょう。また、自分の主張へのこだわりが大きいために、対立する主張から自分の身を守るために弄される詭弁という側面もあります。前者は〈止揚〉を、後者は〈成熟〉を拒否している点で百害あって一利なしといえます。

27.百歩譲って、こうした態度が自分自身のみのこだわりから発祥しており、他に迷惑をかけないでいるのであれば、それほどの実害はありません。しかし、こうした人々の多くは、他の人にもこの論理への帰依を要求します。絶対なんてない、だからそれ以上言うな、そう強制します。

28.久し振りに悪口を書く。この1週間で朝日と読売から取材依頼をいただいた。FBのメッセージ欄でである。ずいぶんと軽く見られたものだ。FBのメッセージ欄の短い依頼でひょいひょいと取材に応じる輩が多いのだろうか。そもそも新聞記者の依頼の仕方自体が知らないうちにずいぶんと軽くなったものだ。

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成果を挙げるには続けなければならない

教育の神髄は続けること。若いうちはあれもこれもと喰いついて良いけれど、「ああ、これだな」っていう手法をみつけたら、うまくいかなくても失敗しても苦しくても、取り敢えず続けてみること。少しずつ子どもたちにもその意味と効果が実感されるようになっていきます。残念ながら、その前に諦めてやめてしまうことが多いのが現実です。

よし!今年の国語は毎時間、最初の5分間で漢字の書き取りを5問取り組ませることにしよう。4月にそう決意します。あなたは7月にも12月にも3月にもそれをやり続けることかできているでしょうか。

よし!今年は朝の学活で朝自習に取り組ませよう。毎日プリントをつくるのは大変だけど、頑張るぞ!4月にそう決意します。あなたは7月にも12月にも3月にもそれをやり続けることができているでしょうか。

かつて十ます計算や百ます計算が大流行したことがありました。当時、あなたはとても良い方法だと感じ、子どもたちに取り組ませました。あなたはいまでも十ます計算や百ます計算に取り組ませていますか。

かつて、ベストセラー『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝)の流行とともに、学校現場でも音読・朗読・暗唱が大流行したことがありました。朝学活やモジュールを用いて音読や暗唱に取り組むという学級が全国至るところに現れました。あなたはいまなお、音読・朗読・暗唱を重視しているでしょうか。

現在、『学び合い』や「ファシリテーション」が流行し始めています。あなたはこれは良い手法だと取り組み始めました。あなたは3年後にもそれをやり続けているという確信がもてるでしょうか。

一度や二度取り組んでみただけで、自分には合わないとか、うちの生徒たちには合わないとか、簡単に判断してしまって切り捨ててしまってはいませんか? 初めて取り組んだ日に、生徒たちの表情がいまひとつだった、生徒たちに戸惑いの表情が見られた、特別な支援を要する子がその活動に対応できなかった、やんちゃな子に「なんでこんなことするの?」と言われた、そんなたった一つのネガティヴな現象で諦めてしまい、やめてしまったりしていないでしょうか。そもそも初めて取り組んだ日に大きな成果が出る、そんな実践理念や実践手法があり得るのでしょうか。

そうです。何かを始める、何かを続けるということには覚悟が必要なのです。あれもこれもと手を出してはうまくいかないとやめてしまう、自分には向かないと諦めてしまう、そういう人に向く実践手法は実はこの世に一つもないのです。

すべての実践手法は「続けること」を前提に提案されています。続けることによって、生徒たちにじわりしわりと浸透していく、じわりじわりと効果が出てくる、それを前提として考案されているのです。そもそも「教育に特効薬なし」と言われるように、教育という営み自体がそういうものなのですから。

しかも、すべての実践手法は「それを続ける教師が試行錯誤のもとに改良すること、そしてそれを交流することによって更に良い方法へと進化されること」を期待して提案されています。「こうすれば完璧に機能するからこのやり方だけで改善も改良もするんじゃない」という提案の仕方をしているものなどこの世に一つもないのです。一度や二度取り組んだたけでうまくいかないからとやめてしまう在り方は、そもそも教育実践というものの根幹をはずしていると言わざるを得ません。

生徒たちの表情にうまく機能していないのではないかと不安になる、「これはいやだなあ」という表情をする一部の生徒たちがいる、そういうことは確かにあるでしょう。しかし、やると決めた以上は覚悟を決めて、なぜうまく機能しないのかと考え、ネガティヴな生徒たちを巻き込むにはどうしたら良いのかと考える、自分のスタイルを築いていくということはそのような試行錯誤の連続なのです。まず1ヶ月続ける。1ヶ月やってみたら、成果と課題を整理して3ヶ月頑張ってみる。そうした発展的な営みを続けていきたいものです。

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5月23日(水)

1.授業4時間。「握手」の語りが三つ。回想の契機と内容の確認が一つ。その後、朝自習の印刷など。14時で年休をいただいて岩見沢へ。帰宅は21時過ぎ。

2.帰宅してみると、ブログがものすごいアクセス数。なんなんだ、これは。炎上してる様子もない。単純にアクセスする人がたくさんいたということか。オレ、何かアクセスされるような記事書いたかなあ……。別にたいしたこと書いてないけどなあ。

3.私は昨日、「教えるべきことは徹底して教え、経験させるべきことは大胆に経験させる」というフレーズを提示しました。これは私が講演や講座でもよく言うフレーズです。私の話を聞いている人たちはこのフレーズに対して「なるほどな」という顔をする人たちが7~8割、「そんなこと当たり前じゃないか」という表情をする人が2~3割……、そういう実感が私にはあります。

4.そんなとき、私がよく思うことがあります。それは自分が二十代後半くらいだった頃にいまの私を聞いていたならば、私もまた「そんなこと当たり前じゃないか」の2、3割に入っていただろうな、ということです。当時の私は何事も複雑に考える傾向がありましたので、こうしたフレーズには雑な提案という印象を受ける傾向がありました。

5. しかし、前節でも詳しく述べたように、私がこのフレーズに到達するまでには、学級経営上・教科運営上におけるかなり大胆な努力と、ある程度の広さと深さとを伴った検討とがなされています。そうしたことに三十歳前の私は思いも及ばなかったはずです。

6.また、私は本書執筆時点で、TWITTERを始めて約1年といったところです。最初は、学校教育に関するちょっとした原則を140字にまとめて、気軽にツイートしていました。しかし、私のツイートが若い先生方にかなり多くリツイートされたり「お気に入り」に登録されているのを見ていると、これはちゃんと説明した方が良いかもな……と考えるようになりました。それが本書執筆の一つの動機になっています。

7.シンプルな提案を「そんなの当たり前じゃないか」と切り捨てるのもよくありませんが、心地よいシンプルなフレーズをシンプルなままにただ受け取るのもまたよくありません。それは「わかったつもりになって、何もわかっていない」、そういう状態に過ぎないからです。

8.若い頃には、だれもがなんとなく世の中には〈真理〉というものがあるような気がして、それを追い求めます。それが志向を複雑にしてすべてをすくい取ろうという発想になったり、ちょっとした心地よいフレーズを「ああ、これは世の中の普遍原理だ」とよく理解しないままに収集したりしがちです。しかし、どちらもよくありません。どちらもよくないというよりも、どちらも一長一短なのです。

9.何事も〈提案〉というものは、すべてをすくい取りたいという〈志向〉のもとに複雑な〈思考〉をくぐり抜け、それらに優先順位をつけながら実際に〈試行〉され続けた結果として、シンプルな言葉で皆さんに伝えられることが〈指向〉される、そういう過程をとるものです。この四つの〈シコウ〉を通らない〈提案〉は、少なくとも教育の提案としてはまがいものだと私は思います。

10.私にも尊敬する先達がたくさんいます。みんな一様に主張していることはシンプルでした。失礼になるといけないので名前は挙げませんが、先にも述べたように、私は若い頃、それらを雑な主張だと感じていました。
しかし、それから20年が経って、自分が年齢を重ねるにつれて、「ああ、あのとき、あの先生がおっしゃっていたことはこのことだったのだ」と気づくことが多くあるのです。それも毎日のようにあるのです。なぜ、あの言葉が用いられていたのか、それはこの優先順位思考の結果だったのだとか、ああ、このこととこのこととが結びついたとき、こういう発想に至ったのだなとか、そういう発見が至る処にあるのです。人間の認識というものが、自分が見えているものを超えることがないとはよく言われますが、世の中が見えてくるに従ってそれを実感します。

11.では、若い皆さんがそういう境地に立つにはただ時が経つのを待つしかないのかというと、決してそうではありません。私は若い先生方に次の三つの構えが急成長を促すと自信をもって主張します。

12.第一に、直感的に「これはいい!」って思った実践手法に出逢ったら、自分を惹きつけたものが何なのかを真剣に考えてみる、ということです。それもしつこくしつこく考えてみるのです。この思考を通らない実践は、多くの場合人真似になり、借り物になります。自分は武器にしているつもりでも、実は技術に使われている……ということになりやすいのです。

13.第二に、直感的に「それは違う!」って思うような実践手法に出逢ったら、その違和感が何なのか、明確になるまでその手法について勉強してみる、ということです。そうすれば、そのいやな部分を解消できる手法に自分で作り替えてみることができます。システマティックなパッケージになるまで構想できれば、それは自分の大きな武器になっていきます。

14.第三に、「ああ、私が求めていたものはこれだな」っていう手法を見つけたら、教師人生をかけて続けることも大切だ、ということです。決して途中で諦めてはいけません。少なくとも3年、できれば10年です。10年続けたらその手法については、言葉が悪いですが片手間でもできるようになるはずです。そうしたらそれをやり続けながら、次の手法にも挑戦してみるのです。そしてそれも続けてみる。できれば二つの手法をミックスしてみる。その頃、その提案は大提案として世の中に受け入れられるようなものになっているはずです。

15.『スペシャリスト直伝!中学校・学級経営の極意』(明治図書)がもうすぐ脱稿します。あまりにもサボッていて、依頼を受けてから半年以上かかりましたが、ようやく完成の見込みが立ちました。良かった良かった。

16.これで夏に出る本2冊が完成です。秋の上梓を予定している『一斉授業10の原理・100の原則』を上げてしまえば、次は冬に上梓する予定の「ことのは」のファシリテーションシリーズ5冊の編集です。今年はすごいぞ。書けそうな気になっているところが、これまでとの違いです。

17.楽しいことばかりでは生きていけない─。みんなそう言います。しかし、私には、楽しいことばかりに取り組んで生きてきた、という実感があります。私にとって、実践研究は「道楽」でした。だって楽しいではありませんか。自分の考えたことが一つ一つ具現化していくのです。自分の考えたことを試してみると、昨日の自分の考えの足りなさに気づくことができるのです。この1年間を振り返ってみたら、去年の自分には考えも及ばなかったことを幾つも幾つも知っている自分を実感できるのです。これ以上の「道楽」があるでしょうか。

18.成長とか実践研究とかいうものを、何か苦行僧の修業のようなイメージで捉える向きもありますが、私はそんな感覚は間違っていると思います。楽しむことがいけないのではありません。何に楽しみを見出すのか、それこそが核心なのです。

19.旅行、スポーツ観戦、映画鑑賞、読書、ネットサーフィン、グルメ、パチンコ……、どれも確かに楽しいでしょう。私だって若い頃に毎日パチンコに興じていた時期があります。しかし、自分が何を楽しんでいるかが問わなければなりません。楽しいことにも質があるのです。

20.私は皆さんに自信をもって主張します。最も楽しいのは、自分が成長していることを実感できることです。

21.だれもがこの感覚をもてたなら、心を病むことも自殺を考えることもないはずなのに……と思うことが、私にはよくあります。

22.HALCALIのファーストアルバムは僕にはダメでした。これで僕の中のHALCALIブームも終わりました(笑)。代わりに人生で数十度目の中村雅俊ドラマ主題歌ブームがやってきています。「俺たちの旅」も好きですが、「俺たちの祭」がいっとう好きです。

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5月22日(火)

1.授業は4つ。「握手」の範読・音読が一つ。「握手」の語りの授業が三つ。午後は生徒総会。今日も担任が出張している学級に入って休みなし。放課後は試験範囲表をつくったり、進路希望調査を整理したり、学校運営要綱の印刷業者と打ち合わせをしたり。退勤時間と同時に退勤。帰宅後は原稿執筆。

2.教師は一般にふた通りに分かれます。教育の目的を「学力形成」にあると考えているタイプと、「人間形成」にあると考えているタイプとにです。もちろん、どちらかにはっきり分かれるわけではありませんが、どちらかというと「学力形成」、どちらかというと「人間形成」という、いずれを重視するかによってタイプが分かれるのです。

3.まず第一に、「学力形成」派は授業や研究、教育課程に関わることを好む傾向があり、「人間形成」派は学級づくりや行事指導、部活指導を好む傾向があります。おそらく自分が育ってきた過程において、前者は自分自身で勉強して学力を身につけたり、自分で試行錯誤しながらいろいろなことを発見したり、仲間と議論することから何かを生み出したりといったことに喜びを得てきた人に多いのだろうと思います。また、後者にはお祭り事が好きだったり、仲間と旅行することをを好んだり、部活動に一生懸命取り組みチームワークを学んだことが自分の人生の基盤だと感じている人が多いのだろうと想像します。要するに、前者はまずは勉強をして世界観を広げること、人間形成は自分でするものという人間観を抱く傾向をもち、後者は勉強なんて二の次、人との関わり合いの中でこそ人間は成長するという人間観を抱く傾向をもっています。

4.第二に、「学力形成」派は校務分掌で教務部や研究部、文化部などを渡り歩くことが多く、「人間形成」派は生徒指導部や生徒会指導部、保健体育部といった分掌を好む傾向があります。前者は政治の動向や世論の動向に敏感で、文教政策にも精通していることが多く、後者はそうした政策的なことよりも、アスリートや文化知識人、歴史上の人物などの成功譚や成長譚を好む傾向もあります。ともにこうした傾向に基づいて仕事をしているものですから、「学力形成」派は学校運営を司る校務分掌を学級経営や生徒指導以上に大切なものだと感じる傾向があり、「人間形成」派は学級経営や生徒指導、部活動こそが生徒を育てるのであって、校務分掌は雑務だと考える傾向があります。

5.第三に、「学力形成」派は生徒指導を苦手としていることが多く、事務仕事を得意としている傾向があり、「人間形成」派は生徒指導を得意としていることが多く、事務仕事を不得意としている傾向があります。前者が教職を知的な専門職と捉えているのに対し、後者は教職を子どもたちを導く聖職のイメージで捉える傾向がありますから、生徒指導や事務仕事に対するスタンスが異なるのも当然といえば当然でしょう。

6.【拡散希望/定員50/残席40】第1回学級づくりプログレッシヴセミナーin東京/2012年7月14日(土)/上智大学/堀裕嗣・山田洋一/参加費:3000円/学級づくりと授業づくりの勘所/今年後半は藤原くんにかわって山田洋一さんとの行脚です。

7.【拡散希望/定員50/残席29/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)

8.第四に、「学力形成」派は教師である自分の人間としての個性を生徒たちに押しつけてはいけないと自制する傾向をもち、「人間形成」派は自らの個性、自らの経験と同質の体験を生徒たちにさせたいと願う傾向をもっています。生徒指導を得意とするか否かは、私には、自分の経験を活かしながら生徒たちに熱く語ることを潔しとするか否かに出発点があるように見えます。

9.第五に、「学力形成」派は教育活動を系統主義的学力観・教育観で捉える傾向があり、「人間形成」派は教育活動を経験主義的学力観・教育観で捉える傾向があります。例えば、両者が「総合的な学習の時間」のカリキュラムを立てたとしますと、前者は単元1から単元5まで難易度を上げていったり、最後にこれまでの単元を総合した単元を設定したりということにこだわりをもちますが、後者はおもしろそうな単元、意義のありそうな単元を五つほど並列させるだけ、ということになりがちです。顕著な例を挙げれば、両者の仕事振りにはこのような違いが出るわけです。

10.さて、ここまで、便宜上教師のタイプを「学力形成」派と「人間形成」派との二つに分け、それぞれを純化して両者の違いを大袈裟に表してきました。現実には、どちらかに一方的の視点しかもっていないなどということはなく、両者の中間的な位置にいる教師が圧倒的多数です。

11.しかし、両者の視点をバランスよく五分五分でもっているという教師もまたいません。すべての教師が必ずどちらかに偏っているということができるのです。6:4とか4.5:5.5とかであればかなりバランス感覚をもった優秀な教師であるといえますが、多くの教師は7:3とか2:8とか、どちらか一方に大きく偏っているというのが現実なのです。

12.実は、かつての学校では、それもほんの十年くらい前までの学校では、「学力形成」派よりも「人間形成」派の教師が圧倒的多数でした。もちろん、小学校から中学校、中学校から高校と、子どもたちの発達段階が上の校種にいくに従って、「学力形成」派教師の割合が増えるという傾向はありました。しかし、高校の先生方でさえ、その数では「人間形成」派が「学力形成」派を圧倒していたのです。

13.それが最近、急速に変化してきています。何の根拠もない、私の実感に過ぎないのですが、先生方の多くが「学力形成」派になってきている、そんな兆候があるのです。おそらく、①行政の教師に対する管理が厳しくなり、教員評価制度が定着して数値目標が設定されるようになったこと、②保護者クレームの増加によって、教師が自らの個性を発揮しての教育活動をしづらくなったこと、③2000年前後から「ゆとり教育」の反動として、文科省からも「学力向上」が大きく喧伝されたこと、そして何より、④世論が「学力向上」路線を支持しているような空気がこの国に醸成されていることなどなど、様々な要因があるのでしょう。

14.意識的にしても無意識的にしても、「学力向上」派になりますと、学習指導要領や教育政策、系統主義的教育観や教育理念、教材論や授業論など、子どもたち以外のところに目が向きがちになります。「学力向上」というときの「学力」は、かつての「新学力観」とは異なり、どうしても子どもたちの外にある、一般教養や試験の点数に重きが置かれているからです。これが教師の目を曇らせ、子どもたちの実態から乖離したところで、或いは浮遊したところでカリキュラムが立てられてしまう、ということ悪弊を招きやすいのです。

15.では、「人間形成」派になればそれを回避できるのかといえば、決してそうではありません。前にも述べたように、彼らは自らの経験を絶対視する傾向が強いですから、「教育は人間形成だ」と強く叫ぶ人ほど子どもたちに自分の敷いたレールの上を歩かせたいという欲求を強くもつ傾向があります。そして、自らの経験のポジティヴな側面を肯定してくれる、そういう理念ばかり収集して理論武装する……そういう人が少なくありません。

16.どちらしても教師は自己満足に陥ってしまうとすれば、いったい私たちはどうすれば良いのでしょうか。

17.しかし、教職に就いてから6~7年が過ぎた頃でしょうか、私の教育観はすべての生徒の特性に合致しているわけではない、ということに気づきました。また、すべての生徒や保護者の要求に応えているわけでもない、私の教育観は私という人間の個性に過ぎない、私は生徒たちを洗脳しようとしているのではないか、そう考えるようになりました。生徒たちを見ていると、私が担任することが、私という教師と出逢うことがプラスに働いている生徒たちがたくさんいる反面、「ああ、この生徒には私でなく、あの先生が担任だった方が合っていたかもしれない……」と思える生徒たちが一定数存在することに気がついたのです。それも、私とは考えの合わない、なんとなくウマが合わない、そんな教師たちの方が、です。

18.私はこのことにかなり深い悩みをもちました。生徒たちは親を選ぶことができないように、教師を選ぶことができません。所属する学級を選ぶこともできません。少なくとも義務教育ではさそういうシステムになっています。そのシステムが変わりそうな気配もありません。

19.道は二つに一つです。私が自分とは合わないと思われる生徒たちも包含できるような教師として大成長を遂げるか、そういう生徒たちのことは諦め、そういう生徒たちにはそれなりの教育効果を上げることを目指すか、です。私は後者を潔しとしませんでした。

20.私は自分とウマの会わない人たち、これまでの文脈でいえば「学力形成」派の人たちがどんな世界観をもって教育にあたっているのか、私には見えないどんな世界を見ているのか、知りたくなりました。おそらく私という人間の犠牲になっている生徒たちは、私にそれが見えていないから犠牲になっているのです。私がその世界を見えていないとすれば、それはだれの罪でもない、他ならぬ私自身の罪である、理屈としてはそう考えたのです。

21.私は決意しました。3年間だけ、自分の教育活動のすべてを〈あちら側〉から構想してみよう、そう考えました。人間はそう考えてみたところで、本質的なもの、つまり〈地〉というものはそれほど変わるものではない。特に私はアクの強いタイプの人間である。そう考えて教育実践に取り組んでみたところで、もともとの特性はいっぱい出てしまうはずだ。そのくらいがバランス的にちょうど良いのではないか……。その3年間で、自分の教員生活を大変革させるような、そんな学びが訪れるに違いない。そんなふうに考えたのでした。

22.私は校内で付き合う人間を変え、生徒たちへの接し方を変えました。もともと私をよく知っている保護者に「先生も年をとったね」と批判的に言われました。精神的にはこの出来事が私にはもっとも堪えました。それでも自分には必要なステップなのだと、自分を納得させました。

23.そんな仕事の仕方を始めて1年が経った頃、私は札幌市の伝統校に転勤しました。市内有数の研究校であり、「学力形成」派の権化みたいな教師がいっぱいいる学校でした。職員会議は私にとって、腹に据えかねるような発想ばかりを基準に決まっていきましたが、私はその発想を学ぶように努めました。管理職とも教務主任ともたくさん話をして、彼らがどういう発想で教育活動に取り組んでいるのか、ひたすら学び続けました。

24.この時期、私は自分のアイデンティティであった「文学教育」を自分の授業から排除し、「言語技術教育」を盛んに取り入れました。国語科教育としては、経験主義的授業観の極から系統主義授業観の極への劇的な転身です。しかも時代は「ゆとり教育」へと走っている時代です。国語教育の研究仲間たちからは、「堀は転向した」とさえ揶揄されました。これも先の保護者の言と同様、私にはずいぶんと堪えましたが、それでもこの試みはやめませんでした。もうやめられないほどに学びの大きさを実感していたのです。

25.3年間だけ〈あちら側〉を見てみようという私の取り組みは、結局、5年間続きました。私にはこの間を通じて、「経験主義」と「系統主義」とのバランスをとる実践の在り方とはどういうものなのか、おぼろげながら見えてきたという実感がありました。これを整理してみたいとも考えました。そこで1年間休職して、大学院に進学したのです。生活は妻におんぶにだっこ、それも本代や研究会参加に伴う旅費などは惜しげもなく使う、俗に言う「ヒモ」のような生活でした。

26.大学院での研究は国語教育に関するものでしたので、ここで詳しくは述べません。しかし、ここでの到達点をひと言でいうなら、とてもシンプルな結論です。それは「教えるべきことは徹底して教え、経験させるべきことは大胆に経験させる」という、ただそれだけのことです。

27.一般に、「人間形成」派はもちろん、「学力形成」派でさえ、子どもたちに教えるべきことを教えるときには「徹底さ」に欠けています。また、「学力形成」派はもちろん、「人間形成」派でさえ、子どもたちに経験させるべきことを経験させるときには「大胆さ」に欠けているのです。そういう認識のもと、この「徹底さ」と「大胆さ」が私のキーワードとなったのです。この二つのキーワードを得たことが、この一連の試みから大学院へという私の「徹底さ」と「大胆さ」の成果でした(笑)。

28.「ダメだ。お前がなんと言おうと、これは学ばなければならないことなのだ」という言葉と、「お前がやってみたいというのならやればいい。だれも認めなかったとしてもオレが応援してやる」という言葉と、この二つをともに吐ける教師はなかなかいません。しかし、生徒たちからみれば、これほど基準のはっきりしている、わかりやすい教師もいないのです。このシンプルな構造に教師は気づかねばなりません。

29.「人間形成」派としての6~7年、「学力形成」派として3~4年が経った頃、つまり新卒から10年が経った頃、私の教育実践は雑誌に掲載されるようになり、幾つかの書籍にもなりました。この時期がちょうど、私の教師人生を形づくる教育観の萌芽が形成され始めた頃だったのだと、いまでも感じています。

30.10年がむしゃらにやると何かが見えてくると私がいうとき、そのがむしゃらさとはこういう大胆な営みを指しています。10年を経ずに見えてきたものは幻想だと私がいうとき、その10年はこのくらい振幅の激しい10年が想定されています。私は本節において、この時期の私の意識の変遷を骨格だけで述べてきましたが、もちろん人間のやることですから実際にはもっとドロドロしています。言い合いも喧嘩も日常茶飯でしたし、その後、口もきいてもらえなくなる先輩教師を何人もつくってしまいました。それでもこの10年が私を支えている、これで良かったのだ、その想いが揺れることはいまもありません。

31.とにかく10年、がむしゃらにやることが必要です。とにかく10年、上に向かって動き続け、変化し続けることです。これをやった者とそうでない者との間には、10年も経てばいかんともしがたい大差が生まれます。世の中はそういうふうにできています。大切なのは「10年」と「がむしゃら」です。

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5月21日(月)

1.授業4時間。学活1時間。今日は担任出張の学級に一日入る。「握手」の範読・音読が1時間、「握手」の語りの授業が2時間、「握手」の回想の契機の授業が1時間。学活は修学旅行のJR座席の決定。空き時間は学校運営要綱の原稿を作成。月曜日なのに生徒たちは割と落ち着いていてゆったりした一日。

2.5/4・金に行われた「教室ファシリテーションセミナーin京都」がDVDになるのですが、第一講座「教室にワールド・カフェを導入する」の編集が上がってきたので、チェックを兼ねて見ているところです。自分の映像を見るのはいやなものですが、それ以上に平井さんの編集のうまさにうなっています。

3.FBってすごいなあ。今日もまた一人、新卒で初めて担任した1年2組の教え子から連絡があった。新卒で担任し、2年進級時の学級解体でその子たちを卒業させられないことが悲しくて、その後、13年間にわたって、校内人事で僕に1年生担任を拒否させた……そういう学級である。特別な学級である。

4.昨夜、「堂本兄弟」で初めてHALCALを見て、すっかりファンになってしまった。脱力ラップと呼ばれているらしいが、肩の力の抜けた感じがとてもいい。特にYUCALIのダンスがやわらかさがあってとてもいい。ルックスは決して良くないのに、踊り始めるとものすごく魅力的な女の子に見える。

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自分のキャラクターを分析する

重要なのは、何事も適切な距離を意識して臨まなければうまくは運ばない、ということです。人間関係の悩みは、そのほとんどがそうした距離感の調整がうまくいかないが故に生じます。そういうことを、なかなか教えてもらえないのが世の中です。生徒とも、保護者とも、同僚とも、適度な距離が必要です。

昔から、「教師は生徒たちとの適切な距離感覚を身につけたら一人前」と言われます。

若いいうちは生徒たちと年齢的に近いこともあって、どうしても友達感覚に近くなってしまいます。生徒たちの方も親しみをもって接してくるものですから、教師の側もついつい「教師-生徒関係」「教える-学ぶ関係」を逸脱して接してしまう……そんなことになりがちです。

逆に三十代後半から四十代くらいになってくると、自分では意識していないのに、いつのまにか生徒たちとの関係がぎくしゃくしてしまっていた、と戸惑っている先生をよく見かけます。これは自分はまだまだ若いつもりでいるのですが、生徒たちから見ればかなり遠い存在になっていて、そのことに他ならぬ教師自身が気づいていなかったという事例です。

若いうちは生徒を甘えさせ過ぎないように少し距離を置こうと意識しながら生徒に接する、四十前後になったあたりから生徒を理解しようとそれまで以上に近づこうと意識して生徒に接する、まずはこれが原則です。若いうちは一歩引き、ベテランになったら一歩前へ、そんな感じですね。

2000年前後から、「学級崩壊」「指導力不足教員」という用語がマスコミを賑わしてきました。子どもの変容が原因とは言いますが、もう少し詳しく見ると、若い先生は生徒たちとの心理的距離が近すぎたことが災いして馴れ合いを生み、ベテランの先生は生徒たちとの心理的距離が遠くなりすぎたことが災いして生徒たちを理解できなくなって、「指導が通らなくなった」ことが要因と見ることができます。生徒との距離は近すぎても遠すぎてもいけないのです。

京都橘大学の池田修先生によれば、教職を目指す学生たちに「どんな教師になりたいか」と尋ねると、ほとんどの学生さんが「生徒たちが気軽に相談でき、試行錯誤しながら、いっしょに成長していけるような教師」「生徒たちとフラットな関係でともに悩みともに成長する教師」といったような教師像を挙げるそうです。要するに、生徒たちとフラットな関係の、友達のように心の通じ合える教師ということなのでしょう。しかし、池田先生もおっしゃっていましたが、こういう教師像はダメです。ダメというよりも危険だと言ったほうが良いかもしれません。

少し固く言うなら、教師はまず社会の在り方とか社会の価値とかを体現する存在として、生徒たちに映らねばなりません。要するに「分別のある大人」として生徒たちの前に立たねばなりません。

教師という職業にとって最も大切にしなければならないことは何でしょうか。それは生徒たちの学力形成でもなければ、人格形成でもありません。生徒たちの肉体的・精神的な安全を確保することです。地震や火事があれば適切に避難させて安全を確保する。喧嘩があれば制止する。いじめがあればそれがどのように良くないのかを語って聞かせて解決する。こういう安全確保が教師としての基本中の基本なのです。こうした災害やトラブルにおいて、教師が友達関係のようなスタンスで助言して良いはずがありません。

若い先生方は、信頼関係を築ければ生徒たちが言うことを聞いてくれるという順番で考えがちです。つまり、まずは信頼関係を築く、その後生徒たちが教師の指導を受け入れる……という順番です。しかし、現実的には、実は逆なのです。大人として生徒たちの前に立つといことをフレームとしてしっかり意識したうえで、その中でいかに信頼関係も築いていくのかという順番で考えるべきなのです。

教師は生徒たちの相談に乗れる近い存在であると同時に、生徒たちをより良い方向に導いたり、いざというときには生徒たちをきちんと避難させられたりする統率者でなければなりません。そのどちらにもなれるような〈あいだ〉の位置に立つことが生徒との適度な距離感覚であるといえるのです。

さて、では、教師はどのように生徒たちとの距離感覚を身に付ければ良いのでしょうか。私は先に「若いうちは一歩引き、ベテランになったら一歩前へ」と述べました。しかし、これはあくまでも最大公約数的な原則であって、話はそれほど単純ではありません。

実は、詳しく、ちゃんと考えてみると、生徒たちとの適切な距離の取り方というのは、教師一人ひとりのキャラクターによって大きく異なる、というのが本当のところです。要するに、原則としては「若いうちは一歩引き、ベテランになったら一歩前へ」ということがいえますが、一歩引くとき、一歩前へ出るとき、どの程度引いたり前へ出たりするのが適切な距離なのかという基準は、一人ひとり異なるのだということです。

例えば、ここに菅原文太先生がいるとします。菅原文太先生が「こら!シャツが出てる!」といえば、おそらくほとんどの生徒たちがシャツを入れるでしょう。しかし、アンガールズ先生が「こら!シャツが出てる!」といったとしたら、生徒たちはすぐには言うことを聞いてくれない場合が多いでしょう。

こういう場合、そもそも教師としてのキャラクターが異なるというのに、「アンガールズ先生は生徒になめられている。もっと厳しく接しなくちゃダメだ。」などと評されるのが一般的です。そこでアンガールズ先生は「生徒になめられちゃいけない」ともっと厳しく接したり、怒鳴ってしまったりということが起こる、そして生徒たちとの人間関係がしっくりいかなくなる、それが一般的な学校でした。

しかし、考えてみてください。教師としてのアンガールズ先生は、そもそもキャラクター的に厳しい指導、怖がられる指導、なめられない指導が向いていないのです。その手の指導が向いていないというのに、菅原文太先生の真似をして厳しい指導をしなければならないとしたら、そんな指導がうまくいくはずがないではありませんか。

逆に考えてみましょう。アンガールズ先生にできて菅原文太先生にできないことはないでしょうか。いっぱいありますよね。教師ならわかるはずです。例えば、おとなしい女子生徒のフォローをするとか、オタク傾向をもつ男子生徒たちの気持ちを理解するとか、或いはカウンセリングマインドに基づいた教育相談活動をするとか、こうした指導の在り方を菅原文太先生は苦手としている場合が多いのです。

だとしたら、アンガールズ先生は、菅原文太先生とは苦手としているような、カウンセリング・マインドを旨とした優しく親しみやすい先生として生徒たちの前に立つ、そのように振る舞うというほうが教師の在り方としてうまく機能するのです。もしかしたら、菅原文太先生の厳しい指導によって必要以上に教師団を怖がったり、一方的な指導に傷ついたりしている生徒たちのフォローをすることによって、菅原文太先生が動きやすいような、菅原文太先生にもにも喜ばれるような機能を果たせるかもしれません。

つまり、私は言いたいのは、教師としての生徒たちとの距離の取り方は、人によって異なるのだということです。それは自分のキャラクターによってふさわしい距離感覚というものを自分で編み出さなければならないのです。そしてできれば、他の教師との協同的な機能性を発揮できるような形で行うのが理想なのです。

私はこれを「教師の〈自己キャラクター分析〉の必要性」と呼んでいますが、教師にとって必要なのは、何を措いてもまず「自らを知ること」なのです。自らを知ってこそ、自分に合った教育スキル、教育システムを開発することができるようになるのです。

ちなみに私は体も大きく、いかつい顔をしているので、黙っていると生徒たちから怖がられる雰囲気をもっています。性格的にも自己主張が強く威圧的な雰囲気をもっている人間です。ですから、私は若いときから冗談を言いながら生徒たちを笑わせることに努力してきました。しかも、どちらかというと毒舌口調で、生徒たちをいじる教師として生徒たちの前に立つようにしてきました。それが私のもっている雰囲気、キャラクターには最も無理のない距離感覚のつくり方だったからです。

しかし、アンガールズ先生が生徒たちを笑わせようと毒舌口調を用いるのはおそらく得策ではないでしょう。キャラクターと毒舌とがイメージ的に合致しないからです。おそらくは自分をオトしながらエピソードを語り、そのエピソードから教訓を導くというような語りを意識して行ったほうが、生徒たちとの距離感覚もうまくとれるだろうと思われます。

教師として生徒たちの前に立つには、こうした〈自己キャラクター分析〉に基づいた立ち居振る舞いまでが求められるのです。

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5月20日(日)

1.朝の仕事はまず、昨日の例会で決まった共著の執筆分担などを整理して、著作関係の「ことのは」のMLに挙げること。例会に参加していないメンバーはきっとびっくりするに違いない。どんどん具体化してくる。8年振りに「研究集団ことのは」が猛烈なスピードで動き始めている。久し振りの感慨である。

2.音読というと教室で一人一人が練習する光景が思い浮かびます。せいぜい隣の人同士で「まる読み」をさせているとか、グループで古文の「暗唱」をし合うとか、その程度のことしか行われていないのが現実です。ダイナミックな協同学習として「群読」の実践がありますが、これも「群読」の価値を理解し、「群読」の楽しさを子どもたちに体験させたいと強く願う教師の実践がまれに見られる程度……。ごくごく一部の教師の取り組みに過ぎません。

3.その結果、音読を得意とする子どもは先生の助言を参考にしながら、自分でどんどん工夫してどんどん上手くなっていきますが、読み間違えたり、つっかえたり、たどたどしい読み方をする子はいつまでたってもたどたどしいまま……そんな現実があります。音読が文章を読む力を身につけていくうえで重要であるとだれもが知っているのに、その授業の多くは旧態依然です。

4.しかし、音読は協同学習的な発想で授業づくりをしようとする場合にも、実はかなり可能性をもっている学習事項です。みんなで声を出し合うとか、みんなで声を揃えて読むとか、みんなでテンポを合わせるとか、みんなで呼吸を合わせるとか、みんなで間を合わせるとか、みんなで読みの工夫を考えるとか、みんなで音読しながら演じてみるとか、思いつくままに挙げてみても、子どもたちがみんなで行うことに価値を見出すことができる、そんな活動がいくらでも浮かんできます。

5.逆に、みんなでテンポをずらしてみるとか、みんなで間をずらしてみるとか、違いを際立たせることによって学習効果を生む、そんな活動も想定できそうです。グループで互いに音読を披露し合って批評し合う、なんていう学習も成立します。

6.「つながること」が大流行しています。時代のキーワードにもなっているほどです。それと同時に、学校教育でも「つなげる」ための実践が数多く発表されるようになりました。
しかし、「つながる」とはどういうことなのでしょうか。そして、「つなげる」とはいったい何をどうすることなのでしょうか。具体的に考えてみるといまひとつイメージがつかめないものです。

7.自分が〈つながった〉経験をもつ者は、実感的に「ああ、つながった」という高揚感を抱きます。その高揚感によって直感的に〈つながった〉ことを意識できます。それに喜びを感じると同時に、意義も実感します。しかし、どうすれば〈つながる〉のか、どうすれば〈つなげる〉ことができるのか、「ワールド・カフェ」や「ホワイトボード・ミーティング」といったシステムは知っているものの、また、そうした実践も数多く行われているものの、日常実践とは切り離されている……そんな例が多く見られます。

8.私は「教室ファシリテーション・セミナー」と題して、全国の大都市でセミナーを開催しています。「ワールド・カフェ」(以下「WC」)や「オープン・スペース・テクノロジー」(以下「OST」)などをどのように教室に持ち込むのか、具体的に提案してまわっています。

9.そこで多く質問されるのは、「WCもOSTもよくわかりました。でも、これらは学級経営がうまくいっている学級でのみ機能するものですよね」とか、「WCもOSTもわかった。でも、いきなり教室に導入するのは難しいように思う。ここまでにどのようなステップがあるのか」とかいうものです。まだまだファシリテーションというものが、①WCやOSTといった〈システム〉だと捉えられていること、②日常実践とはかけ離れたものだと捉えられていること、の証左です。そして何より、③多くの先生の日常実践が子どもたちを〈つなげる〉という意識が希薄なままに行われているのが現実だという何よりの証拠でもあります。

10.ファシリテーションは、決してWCやOSTといったダイナミックな〈システム〉を指しているのではありません。「ファシリテイト」とは「促進する」という意味です。議論や交流、会話を「促進する」こと、それがファシリテーションなのであって、その顕著な例、顕著なシステムとしてWCやOSTがあるだけなのです。

11.従って、協同的な音読活動を促進する手法があるとすれば、それはもう充分にファシリテーションです。話し合いを促して協同的なアクションプランを構築するための手法、それも紛れもないファシリテーションなのです。

12.私たち「研究集団ことのは」は、「教室ファシリテーション」という名を用いて、ファシリテーションの発想を教室に持ち込むことを提案していますが、その定義は「協同的な学びを促進することを意識して行われ、子どもたちを〈つなげる〉ことに寄与する教育実践」くらいの非常に緩いものに過ぎません。

13.「つながること」「つなげること」は日常実践でこそ大きく意識すべきである……それが私たちの基本的な発想なのです。

14.しかし、次の指示でその表情が一変します。「では、もう一度、ご起立ください」と言ったあと、次のような指示を出したのです。
「これから、みなさんにもう一度読んでいただきますが、その際、一度も読み間違わず、詰まらず、噛まず、読んでいただきます。いいですか?咳もくしゃみもダメですよ。これから声を揃えて一斉に読み始めますが、自分が読み間違えたり噛んだりしたら、座ってください。では、サンハイ!」
学生さんたちは真剣な表情で読み始めました。3行目に入ったころから、一人、また一人と座っていきます。それでも中学校の教科書にして半頁くらいの量ですから、最後まで読み切った学生さんが200人程度はいました。最後まで読み切った学生さんたち、つまり最後まで立ったまま読むことのできた学生さんたちは、一様に笑顔を見せてほっとした様子です。

15.そこでたたみかけます。
「皆さんはこれまで20年前後の人生を歩んで来られました。小学校1年生から始まって、これまで何度も音読を経験してきているはずです。これからその20年の人生における『最高の音読』の音読をしていただきます。いいですか?声の出し方、呼吸、間、抑揚に至るまで、人生最高です。それでは練習時間を2分間とりますから、各自練習してみましょう。」
学生さんたちの一斉練習が始まりました。みんな眼差しは真剣です。表情に悲壮感の漂っている学生さんさえいるほどです。こうした〈適度な抵抗〉というものは、やはり多くの人を真剣にさせるのです。私は中学生と同じだなあ……などと不謹慎なことを考えながら見ていました。その後、「テンポは各自で決めて良いんですよ。だから、さっきのようには声は決してそろいませんよ」と言って、一斉に「最高の読み」をさせました。終わったとき、学生さんたちの表情はやはり一様にほっとした様子でした。

16.ここで私は次のように話しました。
「ここまでは、先生の指示を皆さんが聞いて活動に取り組むという授業でした。皆さんは一生懸命に取り組んでくれましたが、こういう授業だけでは先生のと皆さん一人ひとりとは線で結ばれますが、皆さん同士はつながりません。要するに、教師と生徒の〈縦糸〉を張ることはできても、生徒同士の〈横糸〉を張ることはできないわけです。現在、こういう授業だけでは、授業崩壊・学級崩壊になりかねないわけです。」

17.そこで、私は学生さんたちに二人ひと組のペアをつくらせました。
「では、まず一人が自分の『最高の読み』を披露してください。もう一人の人はそれを聞き終わって、『ああ、あなたの読みは人生最高の読みにふさわしい』と感じたら、『あんたは最高!』と言ってハイタッチをして、短い感想で褒めてあげてください。それが終わったら交代です。はじめ!」
これで会場は一気にはじけました。あちらこちらで、ものすごいハイタッチが交わされています。「あんたは最高!」「センスいいねえ!」「さすがだねえ!」と、シラジラしいまでの褒め合い・たたえ合いの大合唱が始まります。

18.みんな自分の努力は褒めてもらいたいし、他人の努力はたたえてあげたいのです。そうした人間だれしももっている無意識を表出させてあげる、顕在化してあげる、そういう場をつくってあげる、それこそがファシリテーション、つまり「促進する」ということなのです。或いは「〈その気〉にさせる仕掛け」と言い換えても良いかもしれません。

19.更に音読活動は続きます。
「では、6人のグループをつくってください。皆さん大学生ですから、このようにつくりなさいと指示しなくても、6人グループくらいつくれますね。百歩譲って、5人と7人はOKとしますが、4人や8人はダメです。グループをつくったら、この会場内のどこでも良いですから、空いているスペースで向かい合って輪をつくってください。なんならステージの上に上がってきても良いですよ。」

20.こうして多数の輪をつくらせたあと、ステージ中央のすぐ下にいたグループを例に、これから取り組む音読の仕方を説明しました。
「これからする音読は『句読点読み』です。いいですか?小学校のときにやった『句点読み』、つまり『まる読み』ではありません。『。』だけではなく、『、』でも読む人が交代するのです。しかも、最初のAさんが読み始めたら、続きを読む人はそのAさんのトーン、Aさんのテンポを倣って読んでいきます。結果、6人で読みながらも、一人の人が読んでいるような、そんな音読を目指します。もちろん、読み間違わず、詰まらず、噛まずに読みます。」
会場はだれもが笑顔。これから始まる6人で協力しての音読が楽しそうに思えて仕方ないのです。これも「〈その気〉にさせる仕掛け」です。

21.実は、このときに用いた教材、菊池寛の「形」の冒頭は次のような文章なのです。
「摂津半国の主であった松山新介の侍大将中村新兵衛は、五畿内中国に聞こえた大豪の士であった。/そのころ、畿内を分領していた筒井、松永、荒木、和田、別所など大名小名の手の者で、『鎗中村』を知らぬ者は、恐らく一人もなかっただろう。それほど、新兵衛の……」

22.この「そのころ、畿内を分領していた筒井、松永、荒木、和田、別所など大名小名の手の者で、」における「筒井、松永、荒木、和田、別所など」という箇所を一人の人間が読んでいるように6人で読んでいく、ということの難しさと楽しさとやり甲斐……こうしたことが、まさに「〈その気〉にさせる仕掛け」になっているわけです。これを私は「句読点リレー音読」と呼んでいます。

23.学生さんたちは夢中になって「句読点リレー音読」に取り組み、時間が来たので私が「やめ」の合図をしてもなかなかやめない、そんな雰囲気になっていました。ある意味、私の「促進」が成功していたことの証拠です。

24.皆さんも学校に通っていた頃、教室全員で座席順に一文ずつ音読していった経験があるのではないでしょうか。また、教師になってからもそうした活動を子どもたちにさせたという方もいらっしゃるかもしれません。そんなとき、必ず出るのが、自分の番が来たときに「えっ?どこ?」と隣の人に訊いている子です。教師としては、他の人が読んでいるときも子どもたち全員が黙読する想定で組んでいる活動なのですが、なかなか子どもたち全員がそういう状況にはならないものです。しかし、この「句読点リレー音読」ではそんなことは絶対に起きません。みんなが間違いなく、いままさに音読されている活字を目で追い続けます。

25.しかも、決して目で追っているだけではありません。ここでは、「発声」とか「呼吸」とか「口形」とか「間」とか「抑揚」とか「基本トーン」とか「ブレスの位置」に至るまで、みんなで気持ちを合わせながら頭の中では全員が音読している……そういう状態になっています。①読む人が句読点で交代するという読む対象の短さ、②教材自体に読点の連続によるフレーズがあること、③6人という〈適度な抵抗〉をもつ人数構成、④指定されている座席から離れて広い空間で活動しているという開放感、⑤これまで一人音読やペアグループ学習を通じてスモールステップで培ってきた成長実感などなど、様々な「〈その気〉にさせる仕掛け」がこの状態、この現象をつくっているのです。

26.「ファシリテーション」の「促進」とは、このように時間軸と空間軸とが計算され、綿密に準備されたことによって現象する「促進」、そうした意味合いの「促進」なのです。

27.こうした授業のつくり方についてもう少し詳しくお知りになりたいという方は、「教室ファシリテーション」に関しては拙著『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ』(学事出版/2012年3月)を、また時間軸と空間軸とをどう交差させ、どう準備するかについては拙著『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版/2012年10月刊行予定)を御参照いただければ幸いです。

28.一昨日から妻が修学旅行に行っているので、一人で食事しています。近くのローソンでローソンオリジナルのレトルトカレーとハヤシを買ってきて、ご飯だけ炊いて、カレーライスとハヤシライスばかり食べています。もしも自分が一人暮らしだったら、こういう生活になってしまうのだなあ……と実感します。

29.昔、我が家のカレーはジャワカレーの辛口でした。5つ下の妹がカレーを食べられるようになった頃、我が家のカレーはバーモンドカレーの甘口になりました。私は母に文句を言うと、「お母さんに二種類つくれというの?お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」と叱られました。そんなことを想い出しました。

30.親父が倒れ、お袋も老いました。あんななんでもない日常がどれだけ幸せな時代だったのか、そんなことを思い知られます。でも、まだ両親が生きているだけ幸せなのでしょう。日曜日、一日中PCに向かって原稿を書いている、そんな自分に罪悪感に似たものを感じてしまいます。

31.音読指導は何を措いても、教師の〈範読〉から始まります。音読に苦手意識をもっている教師でも、必ず、あくまで自分の声で、しかも毎回、「人生最高の読み」を目指して行うのです。決して指導書についている教材朗読CDなどを聞かせてはなりません。あんなプロの朗読家や俳優が読むもの聞かせるのではなく、他ならぬあなた自身が人生をかけて最高の読みをしようとしている、その姿を示すのです。

32.教師に必要なのは「指導力」以上に「感化力」です。子どもたちはあなたの背中を見ながら学習に取り組むのです。そんな子どもたちのモデルとして機能し、影響力をもっている教師自身が、苦手意識を抱いているからといって逃げてはなりません。前日までに、いいえ、当日の朝も、練習に練習を重ねて「人生最高の読み」を披露するのです。その姿は間違いなく子どもたちを動かします。まずは教師がこうした姿勢をもつこと、それがファシリテーターとしての教師のみならず、〈教師力〉と呼ばれるものの基本です。

33.私は新しい教材に入るとき、いつも真剣に範読することにしています。私は中学校の教師ですから、持ち学級の数だけ、各学級で何度も範読することになります。例えば2012年度、3年生を6クラス持っていますが、6回同じように〈範読〉を繰り返します。それも前の学級よりも良い読みをと考えて範読します。中学3年生の教材は長いですから、ときには30分もかかることさえあります。それが一日に5回もあるという日もあります。その日の夜には喉が痛いなんてこともあります。それでも手を抜かないのです。繰り返しになりますが、教師がこうした姿勢を堅持することこそが子どもたちを動かす、そのことを私が実感しているからです。

34.教師の〈範読〉は情感を込めることなく、淡々と読むのが良いと主張する方がいらっしゃいます。教師が情感を込めて〈範読〉すると、子どもたちを教師の解釈へと無意識的に誘ってしまい、子どもたちの読みの主体性を損なってしまう、というわけです。一理ある見解と思います。

35.しかし、こうした主張に対しては、私は「〈優先順位の問題〉である」と反論することにしています。子どもの読みの主体性を損なってしまうことによるデメリットと、教師が本気で読む姿を示すことのメリットと、どちらを優先順位が高いと判断するかという問題です。私は教師の本気の姿勢を見せることのメリットをとる、そういうことです。

36.私は新しい学年をもち、初めて子どもたちに範読する際、次のような指導言で始めることにしています。
「鉛筆を持ってください。これから、先生が一度読みます。皆さんは読めない漢字に振り仮名を振ってください。読める漢字に振り仮名を振ってはいけません。そんなことをしていたら、振り仮名に頼る人間になってしまいます。堀先生は国語の先生として、皆さんにそんな人間になって欲しくはありません。あくまで鉛筆で振り仮名を振って、読めるようになったら消してください。そういうつもりで振り仮名を振ってくださいね。」

37.こうして情感を込めて「人生最高の読み」を志向しながらも、子どもたちが読めないだろうなという漢字についてはゆっくり読んで振り仮名を振ることを促します。本当はこんなことをしないで、〈範読〉と漢字の読みとを分けたいのですが、それではどうしても時間がかかってしまいます。泣く泣くこれを同時にやれる技術というか感覚を身につけました。これも優先順位による判断です。

38.音読指導をテーマとした文章としては余談になってしまいますが、教師の指導行為というものは、こうした優先順位による判断の連続といえます。この感覚を身につけていない者が先鋭的で原理主義的な実践提案を行うのです。教職にない方の教育実践に関する提案が、提案生がありながら使えないことが多いのは、おそらくそのせいです。

39.「研究集団ことのは」共著シリーズ「教室ファシリテーションへのステップ」第1巻第1章20頁を脱稿。今日一日頑張った甲斐あり。これでひと安心。第1巻は音読。音読の基本的指導過程、音読指導のバリエーション、音読技術をまとめることができた。これは全国の国語教室にそれなりに寄与するだろう。

40.それにしても、怖いくらいに仕事が思ったとおりに片づいていく。「片づいていく」という表現は依頼してくださった方に失礼だけれども、まさに「片づいていく」という勢いで片づいていく。何か悪いことが起こるのではないだろうか。人生なんてバランスでできていて、帳尻が合ってできているものだから。

41.2のつく年は僕にとって原稿の年である。1992年は僕が初めて紀要論文を書いた年だ。2002年は編著を5冊上梓して、「教育科学国語教育」に連載した年だ。そして今年が2012年である。あまりにも多くの原稿依頼に自分自身が圧倒されてしまっている年である。それでも一つ一つ仕上げている。

42.それに比して、1のつく年は僕にとって悲哀の年である。1991年は友人が25歳で自殺し、2001年は師匠が54歳で急逝し、2011年は学生時代からの畏友が44歳で急逝した。こういうのって、果たして偶然なのだろうか。

43.連休。昨日の昼間は懸案の本のプロットを立て、夜は楽しいサークル例会。今日はこれまた懸案のサークル共著の執筆分を脱稿。そして愛知の銘酒「空」に舌鼓。満足だ。心の底から満足だ。明日からはいよいよ「一斉授業」の執筆に入る。でも、少しペースを落として、修学旅行に向けて疲れをとらなくちゃ。

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5月19日(土)

1.昨夜からいよいよ「一斉授業10の原理・100の原則」の執筆を始めました。基本原理が多くて10の原理に整理するのにちょっと苦労しています。また、各原理の名称にどのような一貫性をもたせるかでちょっと悩んでいます。久し振りに難産の本になりそうな雰囲気です。でも6月中には完成させます。表紙はグリーンの予定です。

2.一斉授業の10原理100原則の内容を詰めているうちに、生徒観察の視点に関する良い発見があった。これは素晴らしいコンテンツになる。次年度はこの本を書こう。今年度は書く時間がないから。でも、この視点は熟成し、エピソードを集めればけっこうな提案になる。国語教師らしい良い本になる。僕の中に新しい境地が生まれる。今日という日よ、ありがとう。

3.「一斉授業10の原理・100の原則」のプロット完成。10原理と100原則を整理しました。いろいろ迷いましたが、10原理は「生徒指導」と同じ構成、つまりカタカナ語で統一することにしました。他のアイディアはまた別の機会に……ということに落ち着きました。あとは書くだけとなりました。

4.今日は17時から「研究集団ことのは」の例会なので、軽く食事をとりに行くことにします。

5.「研究集団ことのは」5月例会終了。原稿検討から始まって、プロット検討、3つの実践発表、共著2冊のプロット作成。楽しい6時間。それにしても生産しているときの楽しさは格別だ。発見の連続であることがその楽しさを保障している。こういう場をもっているか否かが教師に大きな影響を与えると思う。

6.【拡散希望/定員50/残席31/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)

7.今夜は本当に気分がいい。第一に懸案のプロットが立ったこと。それも独自の切り取り方が示せたように思えること。第二に例会がとても楽しかったこと。特にここ3年「ことのは」に所属している若い女の子がとてもしっかりした授業をしていることがわかったこと(生徒のノートのコピーを見た)。こういう喜びは久し振りだ。

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5月18日(金)

1.久し振りの早起き。今月3日に京都に行くために早起きして以来。修学旅行へと旅発つ妻を札幌駅まで送ってきた。4日間の独身生活の始まりである。帰宅すると、犬がウンチしてぐちゃぐちゃ。……。朝からこの忙しさは何だ。

2.授業を2時間を終えたあと北教大へ。講堂で250人程度の1年生に教職の在り方を講演。「織物モデル」「かくれたカリキュラム」「空気の醸成」「ファシリテーション」という4つのタスク。後半はリレー音読や語り手の読解を用いてワークを二つ。学生たちはキャッキャッと楽しみながら取り組んでいた。

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5月17日(木)

1.私は昨日、「慣れ」と「過信」が教師の敵であるの述べました。そして、新卒から2年程度を終えたあたりで、教師としてよりよい在り方を追求し続けようという者と、環境に慣れ困らなくなれば良いと考える者とのふた手に分かれていく、とも述べました。ですから二十代は、自分はまだまだだ、自分は下の下だくらいの気でいるのが良い、とも述べてきました。

2.しかし、この構造は、実は若い教師にばかりあるのではありません。かなり教師として経験と実績を重ねた後にも、どうしてもこの分岐点がやってくるものです。そしてそれは、本を出したり様々な場で講師を務めたりといった、著名な先生方にとってもいつか訪れる分岐点なのです。言ってみれば、どのような人間もいつかはその日を迎えるのを避けられない、「死」のようなものです。

3.例えば、地域で実践家としてずいぶんと活躍し名を上げた教師が、管理職になった途端に守りに入り、新しい提案をほとんどしなくなる……という例をよく見ます。また、現場での活躍や提案性を買われて大学の研究者へと転身した人が、数年の後に新たな提案をできなくなる、という例もよく見ます。

4.どちらも自分が実践者として考えていたことだけで勝負した結果、かつての実践をすべて吐き出してしまって、新たに提案するものなくなってしまったのです。要するに、提案が枯渇してしまうわけですね。

5.しかも、昨今の状況は言うまでもなく、年々変化のスピードが速くなっています。3、4年前とは教育界の状況がまったく変わっている……などということも珍しくなくなってきています。そういう時代にあって、現在、管理職になるにしても研究者になるにしても、実践者を退いてからの賞味期限は長くて5年、短ければ3年程度になってきています。結果、だいたい多くの人が3~5年もすると、管理職なら文教政策の代弁者になり、研究者なら教育実践史の研究に走ることになります。

6.私は決して批判的に言っているのではありません。世の中には文教政策の代弁者も教育実践史の研究者も必要ですから、彼らが果たすべき役割はしっかりと位置づいています。むしろそういう立場の人たちがいないと、教育界は動いていきません。彼らは絶対に必要な人たちです。

7.しかし……、しかしです。これから教育実践に向かおうとしている若手教師が、自らの学級経営や授業運営、生徒指導を充実させるために学ぼうとする、その対象としては、彼らはもう〈終わった人たち〉です。もちろん「あなたはもう終わっている」なんて言ったら喧嘩になりますから、顔ではにこにこして話を聞かなければなりませんが、基本的にはもう既に自分には益をもたらさない人と判断してまず間違いありません。それならばむしろ、生粋の行政マン、生粋の研究者の方が教員世界などからはまったく見えない世界観によって政策や研究を構築している場合が多いので勉強になります。そういうものなのです。

8.もちろん、管理職や現場上がりの研究者の中にも、自らも飛び込み授業をしたり研究会に参加したりいる管理職や、自分の弟子を集めて実践の現場を研究フィールドにしている研究者もいますから、すべての管理職や研究者が〈終わった人たち〉とは言えないのも事実です。しかし、生徒を相手とした現場を離れて5年経てば、その9割は既に〈終わった人たち〉と見て間違いないでしょう。

9.実はこの構図は、本を何冊も出したり、様々な研究会やセミナーで講師を務めるような超有名講師にもいえることです。そうした講師の方々も、退職して3~5年経つと、言うことが原理主義化してきます。自分の言っていることを試す場がなくなって久しくなると、現役時代の試行錯誤を忘れて、自分の到達点が唯一絶対に正しいという論調になってくるのです。

10.もちろん、彼らもそれを直接的に口にしたりはしません。しかし、基本的には、そうやって有名講師は神格化していくのです。自分を肯定する者だけを周りに集め、その内部で神格化したとき、いかなる超有名講師も〈終わった人〉になります。本で読めば充分な人になります。もっといえば、歴史に組み込まれる第一歩を迎える、そんな時期が来たことを意味します。

11.これが中堅以上の教師ならだれでも知っているのにだれも口にしない、知らないのは若手だけという一般原理です。私も若いときにはそのように同じことを言っていたのに、年を取ってそのような引き際の悪さを示している先達を何人も知っています。もしかしたら、私だっていまにそうなるかもしれません。しかし、これがほんとうのことなのです。

12.私の師匠は森田茂之という現場上がりの国語教育学者でした。森田は2001年末に急死しました。54歳の若さでした。私は二十歳のとき、三十代後半の森田と出逢いました。師弟の契りはわずか15年でした。

13.あるとき、二人で酒を酌み交わしていたときのことです。森田が呟きました。私が堀くんから見て、もう終わったな、と思ったら、堀くんが私に引導を渡してくれ。たぶんそれが私にとって幸せなことだから……。私は何を言ってるんですかと笑いましたが、四十代も半ばになってくると、あのときの師匠の気持ちがわからないでもなくなってきます。私の中には、師匠森田に自らの手で引導を渡さずに済んだことに、どこかにほっとしている気持ちがあります。確かにあります。

14.おそらくこの構図は、人間の性(さが)であり、業なのでしょう。

15.私が「発展途上の先達にこそ学ばねばならない」と言うのは、この意味においてです。完成されたように見える先達、自分の主張を相対化して話すことのない先達は、あなたの教育技術の伸張、向上にとってほとんど益をもたらしません。むしろ毒になることの方が多いくらいです。私はそういう実感をもっています。

16.発展途上の先達にこそ学ぶべきなのです。自分よりも一歩先んじている人にこそ学ぶべきなのです。彼らは、いまあなたが悩んでいることに自分が悩んでいたことがあった頃をまだ忘れていません。まだ具体的な像として、彼らは彼らの頭と心に刻みつけています。自分がその壁をどう乗り越えたかをまだまだ具体的に語ることができます。そういう発展途上人にこそ学ぶべきなのです。

17.特に、一年ぶりにこの人の講演を聴いてみたら、去年の言ってることがまったく変わっていた……というタイプの実践人の話は傾聴に値します。彼らがこの一年間でそれだけ動いていることの証左です。まさに渦中にいることの証明です。動かない信念に見えるもの……それは、いまの時代にとって、必ずしも善ではありません。

18.ただし、誤解していただきたくないのは、完成されたように見える先達から学んではいけないのは、あくまでも具体的な教育技術だということです。人間如何に生くべきか、教師の成長の在り方とは何か、自分はどのように成熟してきたか、そういう話ならば傾聴に値します。こういう次元の話になると、発展途上人の適うところではありません。これもまた真なりです。

19.しかし、人は多くの場合、逆のことをしてしまいます。教育技術を完成しているように見えるが故に完成した先達から学ぼうとし、成熟の在り方を自分に年代が近く実感的に理解できるが故に発展途上の先達から学ぼうとするのです。それはおそらく、あなたの成長、成熟にとって、よりよい道ではありません。少なくともいまの私はそう思っています。

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5月16日(水)

1.大切なものがずいぶん前に失われていたことに気づくことがあります。大切なものがずっと前にどこか別の場所に去ってしまったことに気づくこともあります。そんな失われてしまったり去ってしまったりしていることが既に自分の一部になってしまっていることに気づき、茫然と立ちすくむことがあります。

2.そんなとき、自分の胸に手をあててよく考えてみると、そのきっかけが自分のエゴであることに気づきます。これでいいや、これ以上は面倒だ、これだけやっておけばいいだろう……そう考えてしまった瞬間に、「これ」になってしまい、「これ以上」を目指せなくなってしまい、「これだけ」やる人間になってしまいます。そしてそれが次第に習慣になり、自分そのものになっていくのです。変化しない人間になっていくのです。変化しない人間に成長はあり得ません。成長とは向上的に変容し続けることなのですから。

3.若い頃の話です。私は大学を出て、札幌市の教員になりました。初任者研修で同期採用十数人とともに毎月議論をしました。中学校の国語教師だけで同期採用が十数人です。バブル採用といわれる所以ですね(笑)。

4.私たちは毎月の初任者研修を楽しみにしていました。私たちは同じ悩みを抱えていましたから、それを率直に語り合える場として初任者研修があったのです。国語の授業はどうするのか、学級経営はどうするのか、先輩教師はなかなか教えてくれない、だから自分たちの頭で考え出そう……そんなことを語り合っていた記憶があります。

5.1年が経ち、初任者研修が終わりを迎える頃、私たちはこの場がなくなることを惜しいと感じるようになりました。この場がなくなってしまったら、自分たちは4月からどうやって生きていけば良いのか、そんな切迫した感覚さえ抱きました。

6.私たちのうちの数人が初任者研修後に喫茶店で雑談をしていた折り、この場を失わないように続けようじゃないか、サークルをつくって今年1年してきたような実践報告会をつきに一度開こうじゃないか、そんな話になりました。私たちは初任者研修に参加していた同期採用全員に声をかけ、4月から「ポプラの会」という授業研究サークルを立ち上げました。同期採用十数人のうち、十人程度が参加しました。私たちは安堵しました。この場を失わずに済む……。それほどに初任者研修の場は私たちの実践報告の場であると同時に、安らぎの場であり癒やしの場でもあったのだと思います。私たちは月1回、ささやかな実践報告を持ち寄って、月例会を続けたのでした。

7.ところが、です。この「ポプラの会」が結成され、1年が経った頃のことです。メンバーが一人、また一人と参加しなくなってきました。どうやら、教職にも慣れ、授業にも困らなくになってきて、「ポプラの会」をあまり必要としなくなってきたようなのです。

8.毎回集まるメンバーは決まった数人……。私たちはこのまま、「ポプラの会」を続けるのは無駄だと考えました。やる気のある者だけでちゃんとしたサークルをつくろう、そう決めました。こうして出来上がったのが、当時たった4人から始まったサークル「研究集団ことのは」です。いまもなお私が代表を務めながら、中学国語教師ばかりのメンバーが30人以上、東京や名古屋にも支部をもつまでに成長したサークルです。

9.さて、長々とこんな話をするのは、教師というものが新卒から2年くらい経ったところでふた手に分かれていく……という実感を私がもっているからです。教師としてよりよい在り方を追求し続けようという者と、環境に慣れ困らなくなれば良いと考える者とにです。

10.だれだって2年も経てば、どんな環境にも慣れるものです。環境に慣れてしまい、日常的に困らなくなったとき、人はそれ以上の成長をしたいとはなかなか思えなくなるものです。前にも述べたように、「これでいいや」になり、「これ以上は面倒だ」になり、「これだけやっておけばいいだろう」になります。新卒教師の最初の分岐点がここにあります。

11.特に、新採用から1~2年程度を成功裡に終えた教師にこの傾向が見られます。例えば、初めての学級担任としての1年間をまずまず無難にやり遂げたとか、新採用としての数年でまずまず授業を成立させることができるようになったとか、そういう教師に、です。

12.いま、私は「まずまず無難に」という言い方をしましたが、他人から見て「まずまず無難だった」と捉えられる1年間は、実はやっている本人にとってはかなりの充実感があるものです。生徒たちとの関係においても、授業や行事、部活の運営においても大きなトラブルがないということですから、本人としては「自分には実力があるのでは」とか「自分には人間的魅力があるのでは」といった勘違いに陥りやすいわけです。

13.実は、こうした自信をもったときの教師というのが、一番危ういといえます。自分は正しい、自分は力がある、そう過信してしまい、子どものことを考えたり周りの目を考えたり、或いは世間がどう捉えるかというようなことを考えぬままに突っ走る……そういう状況に陥りやすいからです。

14.私自身の経験を振り返ってみても、失敗するときというのは、自分を過信して調子に乗ってしまったときです。人間というものは、年齢を重ね、三十代、四十代になってさえも、時に自分を戒めることを忘れてしまいます。

15.ましてや二十代の若手教師なら尚更です。自分を過信して、周りと強調することなく調子に乗ったり、周りからの評価を得ようと焦るままに突っ走ったりすると、大きなミスを犯したり、ちょっとした言葉の行き違いから重篤な保護者クレームをもらったりということがよくあります。自分を過信することなく、自分はまだまだだ、自分は下の下だと、慎重な姿勢を崩さず一歩一歩前へと進んでいく、そうした姿勢を堅持した方が安全だと思います。

16.本節をまとめますと、二十代教師にとって気をつけなければならないのは「慣れ」と「過信」である……ということになります。

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怒鳴ることは最終手段である

「怒鳴る教師」になってはいけません。怒鳴ることに頼り始めると教師はみるみる堕落していきます。怒鳴ることなく同じ効果をあげられる手法がないかと考え続けること。それを一つ一つためすこと。そのスキルを一つ一つ整理していくこと。この3つが大切です。怒鳴ることに頼って楽をしてはいけません。

「生徒になめられてはいけない……。」

あなたはそんな意識を強くもっていないでしょうか。

どうも中学校の教師はこの意識を必要以上に抱いている、そういう傾向にあるように思えます。もちろん小学校の先生も高校の先生もそういう意識を抱きはするのですが、中学校の先生にはその意識が特に大きいようです。

小学生には教師が怒鳴ることによって怯える児童がたくさんいますし、それが保護者のクレームにつながることも少なくありません。高校生には教師が怒鳴ることによって一方的に価値観を押しつけることを批判的に捉える生徒たちがたくさんいます。どちらも教師が怒鳴る教育に頼ることの歯止めとして機能しています。

その点、その中間にある中学生は大人になりかけていながらもまだまだ子ども……。教師が怒鳴ることによって萎縮し、取り敢えずは言うことを聞くことが多い。その結果、中学校にはどうしても「怒鳴る教師」の数が多くなっている、というわけです。しかも この傾向は老若男女を問いません。

しかし、怒鳴ることは長い目で見ると効果のうすい対処法なのです。生徒たちも人間ですから、教師がいつも怒鳴っているとだんだんと怒鳴られることに慣れていきます。みなさんも1年生のときは怒鳴ることによって生徒たちに言うことを聞かせていた教師が、2年、3年と生徒たちが成長するにつれてだんだんと乗り越えられていく……そんな事例をたくさん見ているのではないでしょうか。

怒鳴ることは確かにその場をおさめることには有効かもしれません。しかし、その場はその場だけで完結しているわけではありません。明日にも数ヶ月後にも1年後にもつながっているのです。こういう意識をもったとき、怒鳴ることはその場しのぎの、実は教師が楽をするための指導方法であることが見えてくるはずです。

世の中では、様々な教育技術が教育書やセミナーで紹介されています。その中に教師に怒鳴ることを奨励するものはおそらく一つもないでしょう。それは生徒たちを怒鳴って制止することが長い目で見ると効果が上がらないことを意味しているのではないでしょうか。

教師にとって怒鳴ることはある種の「魔力」をもっています。「麻薬」のようなものです。困っているときに確かにその場をしのげるわけですから、その効果は抜群です。しかし、怒鳴ることに慣れ、怒鳴ることに頼り始めた瞬間、実は教師の堕落が確実に始まっているのです。私はこうしたストイックな感覚を「怒鳴ること」に対してはもつべきだと思っています。

では、日常的にどのような心構えをもって過ごせば良いのでしょうか。私の経験から言って、それはまず、怒鳴りたくなったら深呼吸をして自分自身が落ち着くことです。続いて、意識して声のトーンを低くして、ゆっくりとしゃべることです。多くの場合、そのトーンが生徒をも沈めていきます。

あとは果てしない試行錯誤の連続となります。周りの先生方をよく観察して怒鳴る指導の代わりにどんな指導方法をとっているかを考えること、本を読んだり研修会に参加するなどして一つでも多くのスキルを学ぶこと、この二つが王道です。

しかし、学ぶことで満足してはいけません。多くの先生は、学んだことに満足し、自分でそれをやってみよう、取り組んでみようとしない傾向があります。それではいけません。スキルは知識としてもっていることには何の意味もありません。「知ってナンボ」のものではなく、「使ってナンボ」のものなのです。学んだら試す、そしてそれを整理する、その繰り返しにしか教師の成長の道はないのです。

私はいま、常時20学級以上の大規模校に勤めています。当然、職員室も大きく、教員は50名以上います。二十代の若手教師もたくさんいますし、五十代の大ベテランもたくさんいます。

こうした大規模校で先生方の指導を観察していますと、若手ほど怒鳴る教師が多いという傾向が見て取れます。ベテラン教師が生徒を怒鳴る場面を見ることはほとんどありません。見るにしても、「あんな温厚な○○先生があんなに怒鳴ってる。これはオレたちが悪かったんだなあ」と、生徒たちがかえってびっくりしていたり、納得していたりする有様です。

ここから私は二つのことがいえると考えています。

一つは、「怒鳴る教師」は、力量がないから怒鳴るのだということです。考えてもみてください。怒鳴る以外の手立てをもっている教師なら、怒鳴りつけて制止しようとなどしないのではないでしょうか。昨日もも怒鳴られ今日も怒鳴られ……生徒からみれば、小さなことでも大きなことでも指導のされ方は同じ……。これではいくら怒鳴られても、指導されたことの一つひとつの質の違いがわからなくなってしまいます。やはり、教師は怒鳴ること以外の指導方法、説得方法を数多く身につけるべきなのです。

もう一つは、「怒鳴る教師」は、怒鳴ることの効果的な活用について考えていないということです。普段は温厚そうに見えて、低い声でゆっくりとしゃべる。そういう先生が怒鳴るからこそ、その怒鳴りは効果をもたらすのです。日常的なこまごましたことで常に怒鳴っている教師が、生徒間暴力や対教師暴力といった場面に遭遇したとき、その教師の怒鳴り声は制止の威力を発揮するでしょうか。

あるとき、私が授業をしていると、廊下で怒鳴り声が聞こえました。「ちょっと待っててね」と生徒たちに言って廊下に出てみると、ある男子生徒と男性教師がもみ合っています。私はすぐに「ヨースケ!(もちろん仮名)」と怒鳴りつけながら走り寄りました。その怒鳴り声でその男子生徒は一瞬で我に返り、その場は事なきを得ました。

あとで話を聞くと、その男子生徒が言っていました。「堀先生に怒鳴られて、ああ、何やってんだ、オレ……と我に返りました」と。これは私がふだん怒鳴る教師ではないからこそできたことなのです。もしも私が日常的に怒鳴る教師であったとしたら、この男子生徒はもっと興奮したかも知れません。私の怒鳴り声は火に油を注ぐことにさえなったかもしれないのです。

さて、「怒鳴る教師」は、いざというときどうするのでしょうか。暴力行為があったとき、生徒が大きな興奮状態にあるとき、怒鳴ること以上の制止の手立てをもっているのでしようか。次の一手をもっているのでしょうか。まさか体罰でしょうか……。

実はいまの時代、怒鳴ること以上の手立てなどないのです。怒鳴ることが最終手段なのです。日常的に怒鳴っている教師は、その最終手段を日常的な手段として使ってしまっているのです。そんな綱渡りの状態であることに、自らが気づいていないのです。

ふだん「怒鳴ること」に頼っている教師が「怒鳴ること」の効果が実感できない場面に遭遇したとき、体罰が起こりやすいと現実があります。「怒鳴ること」は効果がないだけでなく、また教師を堕落させるだけでなく、実に危険な手法でもあるのです。こうした視座をもって、スキルを一つひとつためして整理していくことは、自分の身を守るためにも大切なのです。

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5月15日(火)

1.若い頃は、何か教職にマニュアルがあって、そのマニュアルに沿って動いていればなんとか生徒たちを動かせる、そんな気になるものです。授業でも学級経営でも確かにマニュアルに沿っていれば、大失敗をすることは避けられますし、責任をとらなければならないような大きなクレームに晒されることもないような気もします。若い教師の学年主任や管理職への相談は、そのマニュアル主義がもたらすものです。こんなときどうすればいいのか、その判断を仰いでいるわけですから。

2.しかし、こうしたマニュアル主義は具体的な教育活動の一つ一つを、とても狭いものにしてしまいます。学年主任や管理職に判断を仰ぐという場合、決して大きなことは訊かないものです。「学級経営とはどうすればいいんですか?」とか「学級組織ってどうつくるんですか?」とか「生徒たちを活躍させられる行事指導はどうあるべきですか?」とか、そんなことを訊いている教師を見たことはありませんし、聞いたこともありません。あくまで、「こういう生徒指導事案の保護者連絡はどうするのか」とか「修学旅行の自主研修のコースはどうやってつくらせるのか」とか「合唱練習で歌わない子がいるのですがどうしたら良いですか」とか、そういうレベルのことばかりが先輩教師に尋ねられるのです。

3.先輩教師は先輩教師で訊かれたことに誠実に対応しようとしますから、こうしたことには「技術」で語ろうとします。もっといえば、「一般論」で語ろうとします。ですから、一般的に「保護者連絡ならこういう方向性で確認するといいよ」という話になってしまうわけです。それが責任をもつ学年主任や管理職ということになると、クレーム回避の心性も働いて、もっと一般的な内容になります。それが若い教師たちを知らず知らずのうちに、「一般論」「技術論」へと誘ってしまうのです。

4.私はこの構造を、職員室における「継承の負のスパイラル」と呼んでいます。若手だけが悪いのでもない、先輩教師だけが悪いのでもない、学年主任や管理職だけが悪いのでもない、時代的にそういう構造が出来上がってしまっているのです。

5.ここで若い読者の皆さんが心しなければならないのは、先輩教師も学年主任も管理職も、決してあなたが尋ねたことへの対応策の全体像を語っているわけではない、ということです。すべての教師は、「自分だからできる」「自分だからできている」「自分の教師としての資質に合った方法がある」という前提で教師として生きています。決して「一般論」や個別の「技術論」だけで実践しているわけではありません。従って、先輩教師が語る内容というものは、あくまでも「失敗しないために最低限これは押さえておいた方が良い」という確実な線だけで語られるのです。先輩教師の助言というものは、これを充分に理解したうえで受け入れなくてはなりません。

6.もしかしたら、あなたは「それならちゃんと全体像を教えてくれよ」と思うかもしれません。しかし、それはこの世界ではあり得ません。その先輩教師があなたにそれを語ったとしても、あなたには使えないからです。「教育活動」を司る全体像というものは、その人間と切り離して機能させることは難しいからです。あなたはあなた独自の全体像を創り出すしかないのです。数年から十年程度かかるのが常ですが、それを創り出したとき、教師としての安定感が生まれるのです。

7.私はそういうレベルのことを、その教師の創り出した〈システム〉と呼んでいます。私が〈システム〉という語を使うとき、実はこのくらいハイレベルなことを想定して使っているのです。私には『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(ともに明治図書)という著作がありますが、実はこれらの書で用いている〈システム〉の語も、実はこのレベルで使っています。

8.教師は自分なりの〈システム〉を構築したとき、一人前になるのです。

9.人間は頑張らなければなりませんが、頑張りすぎてはいけません。自分で限界をつくっちゃいけませんが、決して無限だと思ってもなりません。みんなこんなあたり前のことを忘れがちになります。一種の視野狭窄に陥るわけですね。みんな完璧じゃないけれど可能性はあります。「完璧じゃない」も「可能性がある」もともに忘れてはなりません。

10.例えば、研究授業を見ていますと、前に進もうとしているものと逃げているものとがあることに気がつくことがあります。失敗しないようにつくられた研究授業には魅力がありません。前に進もうとしている研究授業はその荒削りさ、その不完全さがかえって参観者の胸を打つことが多くあります。研究授業には提案性が欲しい、それが自分も日々前向きに進んでいる教師たちの共通の願いです。

11.失敗しない研究授業をつくろうとすることは、自分に限界をつくることを意味しています。いまの実力ではこのくらいやっておいて、無難にまとめよう、そういう研究授業です。実はこうした心性は「自分の限界はここだ」と規定しているだけでなく、子どもたちもこの程度のことならできるだろう、これ以上は無理だろうという「子どもたちの限界はここだ」という規定もしています。子どもたちにとても失礼な話です。

12.私は大規模校に勤めていますから、私の勤務校には毎年、教育実習生がたくさん来ます。6~8人来ます。数年前のことです。教育実習生の研究授業を2年間で7本ほど参観して、そのほとんどが失敗しないための研究授業であったことにかなり大きなショックを受けました。教育実習生に対して「若いのに…」と感じたことも確かですが、実習生を指導した先生方にもそういう意識があるのですね。そっちのほうがショックが大きかったのをよく覚えています。

13.私が教育実習生をもつと、教育実習1ヶ月前程度に行われる打ち合わせにおいて、最初に言う言葉があります。「真剣に教師になりたくて実習に来てる?それとも取り敢えず、免許取りたくて来てる?真剣なら評価10がつくような指導をするし、取り敢えずなら8のつく指導しかしないけど。前者ならオレはキミの人生に影響を与える人間になるし、後者ならならないし……。オレも忙しいからどっちか選んで。」教育実習生はこのひと言で固まります。ですから、「大丈夫だよ。本音で応えても。オレがオレの時間をどう使うかを決めようとしてるだけだから。どっちを応えても、変わるのは俺の本気度であって、キミじゃないから」とたたみかけます。教育実習生はもっと固まります。

14.しかし、これまで私のこの投げかけに対して「取り敢えずです」と応えた実習生は一人もいませんでした。私は怖い印象をもたれる風貌をしていますし、私としても実習生が「本気です」と言うことを狙っているわけですから、まあ当然といえば当然です。これからお世話になろうという怖そうな教育実習担当の先生に、「取り敢えず免許だけとれれば……」とは言いにくいでしょう(笑)。

15.そこで教科書を渡して、必ず出す宿題があります。「既にやってしまった教材はこれとこれととこれだ。その他の教材はすべてキミがやっても良い教材だ。2学期の教材だろうと3学期の教材だろうと、キミのやりたい教材をやらせてあげる。それによって生まれるデメリットはすべて実習が終わってからオレが取り返すから心配しなくていい。だからやりたい教材を5日後までに連絡してきなさい。オレのメールアドレスはこれだ。ただし、実習一日目までにその教材で、キミがやりたいと思う理想の教育が具現されているような指導計画をもってきなさい。その理想の教育がどのようにすれば実現できるか、そういう教育実習にしてあげるから。心配しなくていい。オレも教員生活が長くなってきた。学生さんがすごい指導計画をもってくるなんて思っていないから。でも、そのつくってきた指導計画を見れば、どんな理想を抱いているのかくらいはわかる。まあ、気楽にやってみてください。」これでだいたいの教育実習生は覚悟を決めます。ああ、この人にはちゃんと取り組まないといけないのだなあ、と。教育実習初日には、学生さんなりのしっかりと練られた指導計画をもって現れます。

16.教育実習生をどう指導するかがテーマではありませんから、この辺でこの話は終わりにしますが、私の言いたいことはおわかりかと思います。

17.私は教育実習生に対しても、サークルの若手教員に対しても、学年主任としてもった新卒教員に対しても、言うことは同じです。「おまえは何がやりたいのか。そしてそのやりたいことを具現化するためのどんなイメージをもっているのか。そのためにオレに何をして欲しいと思っているのか。その全体像を示せ。全体像なんてもっていないというなら、現段階の精一杯を考えて示してみろ。それをしたら、オレの時間を割いて、本気で相手をしてやる。」要するにそういうことです。

18.人間はだれしも〈野心〉を抱いて生きています。自分の可能性を信じて、自分には何ができるのか、自分はどこまで行けるのか、そういう心性です。しかし、〈野心〉には「健全な野心」と「不健全な野心」があります。

19.教師は、若いうちから一国一城の主になれるまれな職業です。その分、一人で突っ走り、若いうちから自分はいっぱしの者だと勘違いしやすい職業でもあります。教師の成長には、その勘違いを謙虚に戒めて成長する場合と、その勘違いに実質を伴わせて勘違いではなくする場合と、二つあるように思います。

20.そしてこれには賛否両論があると思いますが、本当に大きく成長する教師を、私は後者であるという印象をもっています。実は後者のタイプも、自分の勘違いに何度も何度も気づいたのです。だからこそ、その勘違いに実質を伴わせる努力を怠らなかったのです。周りの人間にはそれが見えないだけです。こういう人間こそが「謙虚」の名に値すると私は思っています。

21.自らが「健全な野心」をもつと、他人の野心が「健全な野心」なのか「不健全な野心」なのかを見抜けるようになります。それは本気で学ぶべき対象や本気で付き合うべき対象が理解できることを意味しているからです。

22.いつかあの人が見ているものを自分も見てみたい。いつかいま見えていないものが見える自分になりたい。これは「健全な野心」です。いつか人の上に立ちたい。いつか尊敬される仕事をしたい。いつか本を出したい。これらは「不健全な野心」です。前者は自らを常に「過程」に位置づけ、後者は常に「結果」を求めます。前者が生涯楽しめるのに対し、後者は手に入れた途端に飽きるのが常です。

23.冒頭に挙げた研究授業の例にしても、今日の授業を今日の授業の成功を目指して考えるのと、今日の授業を3ヶ月後にここに到達したいから今日の授業があると考えるのとでは、今日の授業の位置づけも評価もまったく変わってしまいます。子どもたちにとっても、長い目でみればその方がよっぽど良いのです。目の前の小さなミス、周りの人のすぐに忘れられてしまう評価を気にして、小さくまとまってはいけません。

24.「若者よ、小さくまとまることを目指してはいけない。この程度で良いと線引きしてはいけない。飢えろ。もっと飢えろ。高みに飢えろ。自分にもできることを目指すのでなく、自分にしかできないことを目指せ。飢えろ。もっと飢えろ。明日の自分に、明後日の自分に飢えろ。」私は自分が本気でかかわった若者に対して、心の中で、いつも、そう叫んでいます。

25.世の中には強者の論理で動く人と弱者の論理で動く人とがいます。強者は弱者の論理を理解して、バランスの取り方を発見し、強者の論理をより盤石にしなければなりません。弱者はもっとそれを声高に主張して、その存在をアピールしなければなりません。どちらもある種の強さをもたなければなりません。

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5月14日(月)

1.授業は3時間。「朝焼けの中で」を題材とした指示語の授業が二つ。「握手」を題材とした語り手の授業が二つ。午後は銀行に行き、その後は学校運営要綱関係の事務作業。帰宅後は新しい本の画像データの整理。原稿執筆。編集者とのメールのやりとり。またまた面倒そうな企画が舞い込んできた。

2.昨日書いた20頁を整理して少しだけ書き足して一つの章として完成させる。「教師の表現」と題した26頁ほどの章である。編集者に送付。「スペシャリスト直伝」という明治図書のシリーズの「中学校・学級経営」である。残り19項目なので、あと60~80頁といったところ。2週間くらいかかるかな。

3.追い詰められているせいか、それともセミナー等の登壇がないせいか、原稿の執筆がどんどん進んでいく。仕事が進むことは良いことだが、少し筆が荒れてきている感じもする。ゴールデンウイークから執筆詰めだから疲れてきているのかもしれない。僕はやはり量産には向いていないのかもしれないなあ……。

4.かつて、教師には強い追い風が吹いていました。保護者は「先生のいうことをよく聞くのよ」と言って、子どもを学校へと送り出しました。地域の方々は「そんなことしていいと思っとるのか!」と、学校と同じ視点で地域の子どもたちを叱りました。学校、保護者、町内会、商店街……地域は一つの共同体を構成していました。そんな時代、学校は地域において一つの拠点であり、教師は尊敬を集める存在でした。そんなに遠い昔のことではありません。私が子どもだった頃、1970年代までは間違いなくそんな空気があったのを覚えています。

5.いつの頃からか、教師は尊敬されない職業になりました。保護者も「学校の先生は世間知らずだ」と揶揄するようになりました。地域の方々も子どもたちが何か悪さをしていると、注意するのではなく、「学校でどういう指導をしているのか」と電話でクレームを伝えてくることが多くなってきました。その結果、学校は子どもたちをどんな風に育てたいかを中心に考えるのではなく、どうすればクレームを受けないかを中心に考えて教育活動を行うようになってきました。私が教職に就いたのは1991年の春ですが、この20年余り、私の教師生活は学校がそうした一方向へと向かっていく時代をともに歩んできた……そんな実感があります。

6.私が若い頃、ある先輩教師は「昔は良かった」と呟きました。また、別のある先輩教師は「こんなのは本当の学校教育ではない」と叫びながら退職していきました。「こんな状況とは闘わねばならない」との決意のもと、教委や保護者と闘い、無残に敗北していった教師も一人や二人ではありません。

7.私はそんな先輩教師たちを間近に見ながら、教師生活を送ってきました。そうして身にしみて感じたのは、「もう二度と教師に追い風が吹くことはないのだ」という乾いた認識でした。そんな時代の中で、学生時代の仲間と酒を酌み交わす度に、「とすれば、自分たちの世代は、追い風の吹かない中でなんとか教育活動に取り組んでいく、その具体的方策を編み出さねばならない」という半分後ろ向きで半分前向きな、なんとも形容しがたい決意を抱くのでした。

8.「もう二度と追い風は吹かない」いつしかそんな合い言葉さえ忘れてしまうほどに、世の中から教師への追い風が完全に消えていきました。

9.21世紀を迎え、私たちの世代はいつしか「中堅」と呼ばれ、「ベテラン」と呼ばれるようになりました。それと同時に、当然のことながら、自分よりも若い世代が学校現場に入ってきました。就職難の時代、教員採用試験の倍率が信じられないほど高騰する中でも、自分より若い教師が少しずつ少しずつ、自分の同僚に増えてくるのでした。時代は団塊世代の大量退職、ここ数年はものすごい勢いで若い教師が増え続けています。

10.そんな時代の中、私たちよりも若い世代が私たちの世代以上に教職に使命感を抱いていたり、教師に追い風が吹くのは当然という意識で教壇に立ったりと、どうも私にとっては不思議だなと思える現象が垣間見られることに気がつきました。彼らは当然のことながら、生徒たちから疎まれ、保護者からクレームを受ける、そんなことが少なくありません。これはいったいどうしたことなのでしょう。

11.彼らは総じて学力的には優秀でした。性格的にも真面目で与えられた仕事にテキパキと取り組むことも共通していました。彼らは若いですから、自分たちよりも多少の世間知らずであることは当然です。若さに任せて多少のやりすぎが見られるのも微笑ましいことです。しかし、どうもそれだけではないのです。

12.彼らは私たちの世代以上に、生徒たちが教師のいうことを聞くことを当然だという意識をもち、私たちの世代以上に、生徒たちが学校規範を守ることを当然だという前提に立って教育活動を行っているのです。時間を守れ、服装を正せ、まっすぐに整列せよ、もちろんどれも学校文化としては正しいことです。しかし、なぜそれらが必要なのか、彼らは一度も考えたことがないのではないか……私にはそう見えてしまうのです。

13.もちろん、若い世代のすべてがそうなのではありません。しかし、新規採用される教師たちの中に、かつてのような「子どもが好き」とか「子どもたちの成長の糧になりたい」とか「子どもに主体性を発揮させられるような教師になりたい」とかいう思いを抱いて教師になるのではなく、「私は授業をやりたい」「私は部活をやりたい」といった自らの狭い目的意識のために教職についている割合が多くなっているように感じるのです。

14.こうした自己実現のために教職に就くという在り方は、実は学級経営とか生徒指導とか学校行事とか、要するに学校の根幹をなす教育活動に対して、どこか乾いた、淡々とこなすべき「お仕事」として対応する姿勢をつくり出します。もちろん彼らに学級経営や生徒指導を蔑ろにしている意識はないのでしょうが、優先順位が授業、優先順位が部活動といった教師の在り方は、生徒にも保護者にも同僚にも、微妙なルーティンワーク的な匂いを嗅ぎ取られてしまいます。それがクレームを受ける致命的な理由になっているのです。

15.彼らの多くは自分の学級で生徒指導事案があった場合、保護者に電話連絡すべきかどうか、学年主任や管理職の判断を仰ぎます。また、電話でどういう方向性で話し、どういう内容を確認すれば良いのかという確認を取り付けようとします。最近の職員室が若手をそう指導することが多くなってきていることを差し引いても、あまりにも借り物で勝負しすぎではないかと思えてしまいます。おそらくその保護者への電話での学級担任の言葉には、どこか空虚な、気持ちの乗らない言葉が並び、それを保護者も敏感に察知してしまう、そうなってしまうことは想像に難くありません。

16.教師に追い風が吹かないという論調で書いていたときは随分リツィートがあったのに、若手教師批判が始まった途端にリツィートされなくなった。ダメなものはダメだというのが堀節である(笑)。そこが野中さんとの違いかもしれない。教師が善であり守るべき存在だなんて、僕は絶対に信じないし言わない。

17.努力する者だけが教壇に立って良い。自らの成長を怠らない者だけが教壇に立つ資格がもつ。もっと遠くへ。もっと高みへ。自らの可能性に飢えない者に教壇に立つ資格はない。もちろん心を病んでまでそうする必要はない。死を考え出したらすぐに逃げるべきだ。でも命に関わる場合以外は逃げるべきでない。

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一人で研究授業・研究協議をする

毎週月曜日の最初の授業を1時間録音して、そのテープを聞きながら通勤していた時代があります。3年続けました。「ええと」が多い。口癖がうるさい。余計な言葉が多い。無駄な言葉が多い。指導言の言い換えで意味が変わっている。生徒の発言の核心を拾えていない。そんなことにいやというほどに気づかされました。

新卒から数えて5年目のことです。

私はそれまでいくつもの研究授業の機会を与えられていました。初任者研修しても校内研修にしても地元の研究団体にしても、研究授業の機会があれば立候補していました。

当時、私の授業は「教材研究」と「授業構成」と「主要発問の検討」のみでつくられていました。自分のプレゼン能力とか、生徒たちの意見をどう引き取るとか、自分の指導言が言い直しによって揺れているとか、そんなことにはまったく気がつかず、意識もなく、そして何よりそんなことにはまったく興味がありませんでした。

そんな折り、研究仲間のすすめで野口芳宏先生を講師とする研究会に参加する機会を得ました。それまで「教育技術の法則化運動」は私にとって、官製研究と相反する、授業研究の王道ではない民間の教育運動でしたから、ずいぶんと抵抗感を抱きながら、研究仲間の顔を立てる……なんていう意識で参加したのをいまでもはっきりと覚えています。

私にはまことに不遜ながら、野口先生の教材研究が深いものには見えませんでした。文学研究を踏まえていない、それまでの数多の作品分析理論のどれにも基づいていない、ただ表層的な言葉の言い換えが展開されている……そういう印象でした。この印象は実は私の中でいまなお消えてはいません。野口先生は私の中で、〈教師〉ではあるけれど〈研究者〉ではない、そういう先達として位置づけられています。もちろん、ここで言う〈研究者〉は大学教員などという意味ではありません。〈学術的価値〉を志向しない実践研究者……というような意味合いです。

さて、しかしです。

私はこの研究会で、自分の生涯を規定するような教育観の転換を迎えずにはいられませんでした。自分から見ると、文学理論の先行研究に基づいておらず、表層的な言葉の言い換えに終始しているように見える授業だというのに、私が目指し、私がそれなりの自信をもって取り組んでいる授業研究よりも、授業として成立しているのです。子どもたちが子どもたちなりの発想で素直な意見を言うのです。子どもたちの表情が良いのです。そして何より、野口芳宏という教師が子どもたち全員を包み込んでいるのです。しかもこの研究会は飛び込み授業でしたから、野口先生は子どもたちと初見のはずなのです。これはいったい、どういうことなのでしょうか。

当時は、野口先生がちょうど北海道教育大学函館校にいらっしゃった時代であり、北海道内では野口先生の模擬授業を種とした研究会や講演会が毎週のように開かれていました。私は1年ほど、まるでアイドルのおっかけのように野口先生の研究会に出席し続けました。札幌市内の研究会はもとより、網走や函館、中標津の研究会にまで足を運びました。北海道はとても広いですから、移動時間が5時間、6時間を数える地域です。

私の目的はただ一つ。野口先生の話術はどういう構造でできているのか、野口先生のつくり出す空気はどういう構造でできているのか、それを分析することでした。野口先生の発問の質はこれまた不遜ながら、「なぜか」「○か×か」「AかBかCか」「+か0か-か」といったシンプルなものですから、野口先生の授業がつくり出す空気は授業における「責め」ではなく「受け」にあります。その「受け」の構造を明らかにしようとしたのです。

もちろん、野口先生の全集も買い、野口先生のすべての著作を読みました。

研究会に足しげく通っているうちに、野口先生と親しくお話させていただく機会も増え、私は「教材研究」や「授業構成」や「主要発問の検討」よりも、子どもの発言を教師がどう受け、どう返していくか、授業の機能度を上げることの方が大切なことだと考えるようになりました。もちろん、誤解しないでいただきたいのですが、「教材研究」や「授業構成」や「主要発問の検討」を蔑ろにして良いと言っているのではありません。こうした「教師の責め」以上に、「教師の受け」が授業を機能させる、という構造に気がついたということです。言い換えれば、それまで私の志向してきた授業研究は、授業研究の半分にも満たなかったのだということに気づいた、とでもいえば良いでしょうか。

私は翌年、「鍛える国語教室」研究会札幌支部を立ち上げ、「礎(そ)石(せき)」「碑(いしぶみ)」「実践研究ことのは」という3冊の同人誌を発行しました。「礎石」「実践研究ことのは」は月刊、「碑」は隔月刊です。この3冊は多くの読者を得る言ができました。また、いま考えると、この3冊を発行していた4年間で、私が代表を務めるサークル「研究集団ことのは」はもとより、北海道の民間研究会に集う各サークルの地力をものすごく高めることができたと感じています。あの4年間は北海道にとって、大切な大切な4年間でした。

前置きが長くなりました。このような時期に、私は毎週、自分の月曜日の最初の授業を録音し、そのテープを通勤途中の車で聞いていたのです。つまり、1本の同じ授業の録音テープを月曜の帰り道、火~土の出勤・退勤時、そして週明け月曜の出勤時と12回聞いていたのです。当時の私は、札幌在住の方しかわからない話ですが、発(はつ)寒(さむ)から厚別まで片道50分ほどをかけて自家用車で通っていましたから、この営みに取り組むには最高の環境にあったのです。

土日で自分の課題をを整理し、1週間分の授業案をつくる。課題を意識しながら、月曜日の朝に実践してみる。そしてそれを車で聞く。私はたった一人で毎週月曜日に研究授業をし、1週間かけて車の中でたった一人で研究協議をする、そんな生活をしていたことになります。こんな生活が3年間続きました。

最初にしたことは、自分の言葉の中にある「ええと…」とか「ええー」とか「あー」とかいう無駄に挿入される感動詞をとることでした。テープを聞くと、怖ろしいほどにこれらの言葉が出てくるのです。それが私の言葉を、発言を聞きづらくしているのです。最初にテープを聞いたときにはこれは癖だからとれないのでは?などとも思いましたが、1週間、このテープを聞いていると「いや、こんな癖は直してしまおう」と思えるようになりました。次の週に、私は「ええと…」を言わないように意識して授業に臨んでみました。テープを聞いてみると、意識した分だけ、「ええと…」は消えていました。「ええと…」を言わないように意識している分だけ、自分の言葉がぎこちなくなっている嫌いはありましたが、しかし、「ええと…」がこれだけ少なくなっているのだから、こうしたぎこちなさもいまに消えて行くに違いない、そう確信がもてました。この一人研究授業、一人研究協議はこんな小さなことから始まったのでした。

この生活が1ヶ月も続いた頃、カーステレオから「ええと…」が流れてくることはほとんどなくなりました。そして、3ヶ月も続いた頃には、私の言葉には意識しなくても「ええと…」がなくなっていきました。「ええと…」を言わないようにと意識することで生じていたぎこちなさも、この時期には解消していきました。

私は自分の表現が洗練されていくのを感じていました。それと同時に、生徒たちに自分の言葉がこれまで以上に機能しているのを実感し始めていました。

もちろん、3ヶ月にもわたって「ええと…」ばかりにこだわり続けていたわけではありません。ある程度、「ええと…」が消えてきたところで、次の課題を自分に課します。次に私が取り組んだことは、「最初に結論を言い、その後に理由を言う」でした。要するに、最初に結論を言って、生徒たちがいま何について話しているのか、何のためにこの話が先生によってなされているのか、常にそれを意識して聴ける状態をつくる、それを課題としました。これも3ヶ月くらい意識してやっていると、意識しなくてもできるようになっていきます。私の表現は少しずつ、イメージ通りに機能するようになっていきました。

一人研究授業を始めて1年が経った頃でしようか、私は意図的に「ええと…」とか「なんだったっけ」とかボケてみることを覚えました。それ以外の言葉に「ええと…」をはじめとする戸惑いがない分、意図的に入れるボケは思いの外生徒たちに受けるのでした。その後、どのくらい間を置いてボケると良いのかとか、生徒の発言を聞いてどのくらい間を置いてから「マジか」とか「へえーっ」とか「やるなあ」とか大袈裟に感嘆すると大爆笑を誘えるのかとか、そんなことを毎日毎日考え続けながら通勤しました。

私の一人研究授業は、目的意識をもっての一人研究授業ではなく、私の生活の一部になっていきました。私のこの生活は、転勤をして通勤時間が15分になってしまったのを機に終わりを迎えてしまいましたが、この3年間が私にもたらしたものは計り知れません。

もともと私は書くことを得意とはしていましたが、話すことにはものすごく苦手意識をもっている教師でした。授業こそ慣れて来て緊張しないで臨むことができるようになっていましたが、PTA集会で保護者に対して話すときとか、研究発表で先生方を相手に話すときなどは、自分が自分でないような、足が宙に浮いているような感じを抱きながら話しているのが常でした。声が裏返らないようにとか、変なことを言わないようにとか、この思いをわかって欲しいとか、そんなことばかりを考えながら自分を緊張させていました。そんな教師でした。

私は現在、年に100回以上の講座や講演に登壇しますが、いまでも自分が人前でこんなに言いたいことを自然に表現できていることに不思議な感覚を抱くことがあります。

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ヒドゥン・カリキュラムを意識する

「教える-学ぶ」関係が崩れている現在、教師は子どもに嫌われてはいけません。現在、生徒に嫌われないということが、すべての教育活動を推進していくうえでの前提になっています。生徒に嫌われてしまうと、「指導者」としても「評価者」としてもその資格を問われる時代になってきています。

西暦2000年前後のことです。「学級崩壊」「学校崩壊」という語がマスコミを闊歩するようになりました。

当初は教師に力量がないから学級が崩壊するのだという論調が多かったのですが、次第に子どもが変わったのだ、保護者が変わったのだという論調が優位になっていきます。現在では、力量のあるベテラン教師であっても一つ歯車が狂えば学級崩壊が起こり得る……というのが常識になっています。

こうした時代、教師にとって生徒に嫌われるということが、かなり大きなリスクになってきているという現実があります。生徒たちに否定的な評価を受けている教師が「指導者」としても「評価者」としても認められなくってきているのです。生徒たちとうまく人間関係を築けないような者は教師としての資格が問われてしまう、こう言い換えても良いかもしれません。現在は生徒だけでなく、保護者もこう感じていると見てまず間違いありません。

「現在、生徒に嫌われないことが、すべての教育活動を推進していくうえでの前提になってい」るというのはこういう意味です。

ただし、誤解しないでいただきたいのは、生徒に嫌われないことは何も生徒たちにすり寄ったり、妥協したり、要するに生徒たちに甘く接するということを意味するのではない、ということです。

生徒たちは決して、「甘い先生」が好きなわけではありません。

良いことをしたら褒めてくれ、悪いことをすれば叱ってくれる、つまり、指導すべきことは指導してくれる筋の通った先生が好きなのです。21世紀になって、その傾向は特に強くなってきています。

かつては若いお兄さん先生やお姉さん先生が、無条件に生徒にも保護者にも人気がありましたが、現在はそういう先生方が「頼りない」という評価を受けることが多くなってきました。こうした傾向がかつてに比べて、若い先生方の学級経営を難しくしている現実があります。

確かに現在、教師は生徒たちに嫌われてしまうとすべての教育活動がやりづらくなります。しかし、私たち教師が目指すべきは「好かれる教師」というよりも、どちらかというと「頼りがいのある教師」なのです。

「頼りがいのある教師」とは、ごくごく簡単にいうなら「物事の筋を通しながら結果を出し続ける教師」です。こんなふうに考えますと、私たち教師は常に学び続けなければならないと、謙虚に構えることができるようにもなっていきます。学び続けなければ結果など出せるはずがありませんから。

思えば、かつては教師には追い風が吹いていました。保護者も地域も、「先生のいうことをよく聞くんだよ」と言って、子どもを学校へ送り出してくれました。その追い風に乗っかっていれば、教師は自らなんとか結果を出そうとか、ことさら頼りがいのある教師になろうとかしなくても無難にやっていくことができました。

しかし、いまは情勢がまったく異なります。教師は自らの力で子どもたちを、保護者を、振り向かせねばならない時代になったのです。物事の筋を通し、結果を出し続け、頼りがいがあると認知させる、それを個人の力量で成し遂げなければならない時代になったのです。そうしなければ、「指導者」としても「評価者」としてもその資格を問われる時代になったのです。

厳しい時代になったものだと溜息をつきたい時代でもありますし、やり甲斐のある時代になったものだと意欲を抱ける時代でもあります。教師になった以上、意欲をもって、前を向いて仕事をしたいものです。

では、生徒たちに嫌われることなく、頼りがいのある教師と認知されるためには、どのような点に気をつければ良いのでしょうか。実は私は、教師が気をつけなければならない視点はたった一点だと思っています。

皆さんは〈ヒドゥン・カリキュラム〉という概念をご存知でしょうか。日本語では「かくれたカリキュラム」と呼ばれ、「教師が意識しないままに教え続けている知識・文化・規範」と定義されます。

例えば、4月に担任が決めたルールを秋口に変更したとします。班替えのときには班長と担任とが話し合って決めると4月には言ったのに、班替えを二度三度としているうちに、ある生徒が「先生、くじ引きで決めてもいいんじゃないですか?」と言ったのを受けて、「そうだな」と軽い気持ちで変更してしまう……などという場合です。この場合、実は変更したのは班替えの仕方だけではありません。生徒たちからみれば、「4月に先生が決めたルールは変更可能である」ということを学ぶことになります。

例えば、4月のある授業中におとなしめの生徒を指名したとします。しかも、その子が指名したのにもかかわらず、ずっと黙っていたとします。教師としては「わからないのかなあ…」とか、「みんなの前で発表するのが苦手なのかなあ」とか、いろいろ考えます。その結果、いまゴリ押しするのはこの子が可愛そうだ、何か事情があるかもしれないし……と考えて、「わからないのかな?じゃあ、もう少し考えてみてね」などと言って、次の生徒を指名します。しかし、ここで生徒たちはある重要なことを無意識的に学んでいます。それは、「ああ、指名されても黙っていれば、許されるのだな」ということです。

どちらの例も、教師としてはそんなことを教えているとは意識もしていないし、自覚もしていないということです。それだけに怖いのです。

こうした教師が意識しないままに教えている知識・文化・規範を、正規のカリキュラム(=授業や学活などで教師が意識的に教えようとしている指導事項のカリキュラム)に対して、〈ヒドゥン・カリキュラム〉(=かくれたカリキュラム)と呼ぶわけです。なお、詳細は拙著『生徒指導10の原理・100の原則』(学事出版・2011年10月)をご参照いただければ幸いです。

さて、私がこの概念を知ったのは学生時代、宇佐美寛先生の『国語科授業批判』(明治図書・1986年6月)ですが、当時、学生の私でさえこれは怖い機能だと震えたものです。大学卒業後、現場に出たら何を措いても〈ヒドゥン・カリキュラム〉の悪しき機能を最小限に抑えなければ……と決意しました。それから実に四半世紀が経過しましたが、私は四十代半ばになった現在(いま)でも、自分の教師としての日常の行動規範のすべてを〈ヒドゥン・カリキュラム〉理論と照らし合わせて点検し続けています。少なくとも私にとってはそれほどに重要な概念なのです。

教師はどのような印象をもたれる教師として生徒たちの前に立つかということを、常日頃から気にしているものです。怖い顔で生徒たちの前に立ったり、妙に笑顔を振りまいたり、ときには思い切り怒鳴ってみたり、ときには軽口を叩いて笑わせたり、そういったことを演じるのが教師の日常とさえいえます。しかし、生徒たちから見た教師の印象をもっとも規定するのは、その教師が「言行一致」しているかどうかという点です。そして、班替えは話し合いと言っていたのにくじ引きに変えたとか、黙ってれば次の子を指名してもらえる楽な教師だとか、そうした「悪しきヒドゥン・カリキュラム」が少なければ少ないほど、「言行の一致した教師」と見られるようになるのです。この機能を軽視してはなりません。

私はこの項の冒頭に、「教師は子どもに嫌われてはいけません」と言いました。しかし、「嫌われないこと」は「おもねること」ではないとも述べました。それよりも「頼りがいのある教師」を目指すべきだとも提案しました。実は、子どもに嫌われない頼りがいのある教師とは、常に自分本位ではなく生徒たちのためを思って行動しているということが、「言行一致」の姿勢として生徒たちにも「見える」教師なのです。私たち教師はこうした姿を追究する必要があるのです。

ついでに言いますと、これは簡単なことではありません。こうした意識を抱いたとき、教師としての果てしない力量形成の旅が始まるのです。だって人間にとって、「言行一致」ほど難しいものはありませんから。教師が学び続けなければならない理由の一番は「言行一致」を目指さなければならないからだと、私はいまも本気で考えています。

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5月13日(日)

1.2日連続の呑み会明け。なんとなく頭がボーッとしている。昨日の講座は準備なしで会場入り。会場に着いてから、僕の前の講座を見たり、会場のポスターを見たりして教材化。60分強の講座時間だったが、あっという間に終わってしまった感じ。その場にいる人たちで共有化されているネタは臨場感を生む。

2.ある編集者に依頼されて「教師力ピラミッド」を題材にプロットを立てる。僕のチーム力の主要コンテンツがいよいよ本になりそうだ。これは力を入れて執筆しよう。それと同時に若い先生にも手にとってもらえるように、わかりやすさを重視しようと思う。来年の春までには上梓したい本である。

3.今日は夕方から20頁ほど書く。「教師の表現」と題して若い頃のエピソードや二十代の頃に書いた文章を繙いていると、その頃の感慨に耽ってしまい、なかなか執筆が進まない。それもありだな……と思いながら、寒さにストーブをつけて、自らの成長と成長しなさに思いを馳せる。そんな日曜日の夜である。

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5月12日(土)

1.完璧な二日酔い。でも、いい酒しか飲んでないから、頭痛や吐き気はない。たぶん、6人で8升くらいは飲んだと思う。気の合った者同士で飲む酒のうまさは格別である。勤務校の職員室の合い言葉は「チーム北白」。その中でも僕ら6人はチームの中のチームである。ただののんべえという話もありますが。

2.さて……と。6時間後の講座の準備がまだゼロ。金曜日の教育大学の新入生に対して行う講演の準備もまだゼロ。そんな状況なのに二日酔い。眠い。困ったなあ。取り敢えず寝よ。

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5月11日(金)

1.授業は4時間。「朝焼けの中で」を用いての指示語が二つ、作文が一つ。「握手」の音読が一つ。授業の進度がアップしてきた。そろそろ僕の授業ペースになってきた感じ。午後からは二つ連続の空き時間でゆったリズム。校長面談があったり、ちょっとした生徒指導があったりもしたが、基本的にはゆったり。

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5月10日(木)

1.授業は4つ。一つは「おくのほそ道」の解説。二つは指示語。一つは作文。空き時間は郵便局へ。たまっていた様々な書類を返送。放課後は修学旅行関係の学年会。生活の決まりについて。そして、学級別選択コースについて。会議が終わったのは18時過ぎ。会議終了とともに退勤。帰宅後は原稿執筆。

2.嬉しい…。『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』(明治図書)脱稿。久し振りの脱稿感覚……。嬉しいというよりもホッとした感の方が強いかも。いずれにしても5月中の脱稿という編集者との約束を果たせて良かった。これで次に進める。これから1ヶ月半ほど執筆専念の予定である。

3.ストレス解消の為に書く。僕はいま23の企画を抱えている。単著も共著も編著もあるが、とにかく23冊である。23冊のうちの1冊が今日完成した。あと22冊である。これをなんとか今年度中に仕上げてやろうなんて考えている。おそらく無理だと思うし実際に無理かもしれないが、挑戦するのは自由だ。

4.優先順位の1番はなんとか仕上げた。現在、優先順位の2番と3番と4番と5番を同時進行中だ。1番が仕上がったので6番に着手する。とにかく今年は5冊を同時進行するペースを保持する。そう決めたのだ。決めただけで何の根拠もないし、なんの成果も出ていないが、とにかくそう決めたのだ。着手する。

5.まえがきとあとがきも書いて送信した。これで完全脱稿だ。もうゲラまでこの本のことは忘れよう。おやすみなさい。明日は同僚5人と日本酒の会です。

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5月9日(水)

1.授業は三つ。「朝焼けの中で」という森崎和江の短いエッセイ。引き締まった詩人らしい文体。見事なエッセイである。こんな素晴らしい文章を授業でいじるのは申し訳ないと思いつつ、指示語の復習。その後、俵万智の文章と比較読みして主題の背反性と同質性を読み取り作文する。良い作文がたくさん出る。

2.午後は修学旅行に向けての学年集会。学年リーダーが頑張った学年集会であり、少々落ち着きにかけた学年集会でもあったけれど、最後の学年主任の投げかけには水を打ったように静かになる。放課後は珍しくゆったり。少し学校を早めに出て岩見沢へ。父を見舞い、母と長沼温泉へ。疲れがとれた感じ。

3.毎週月曜日の最初の授業を1時間録音して、そのテープを聞きながら通勤していた時代がある。3年続けた。「ええと」が多い。口癖がうるさい。余計な言葉が多い。無駄な言葉が多い。指導言の言い換えで意味が変わっている。生徒の発言の核心を拾えていない。そんなことにいやというほどに気づかされた。

4.行事本の第Ⅱ・Ⅲ章を脱稿した。これで第Ⅰ章数頁を書き、まえがきとあとがきをつければ完成である。明日には書き上がるだろう。本当は今日中の完成も不可能ではないのだが、一日くらい寝かせた方が総論を欠くにはふさわしいテンションになるものである。こういう感覚的な判断に従うのが良い。

5.親父のリハビリが進んでいるようで、今日見舞うと、車椅子からベッドへ、ベッドから車椅子へと自力で移動していた。3ヶ月振りである。これはまた歩けるようになるかもしれない……と希望的観測を抱いてしまう。もしも歩けるようになったら、いっしょに温泉に行き、札幌ドームで日ハム戦でも見ようか。

6.教師が魂を載せた言葉をしゃべれない、そんな雰囲気が蔓延して何年が経つでしょうか。いくら技術を駆使してみても、最後に説得力をもつのは魂が載っているか否かです。そんなあたりまえの理屈も通用しなくなった感があります。学校教育から言霊が消えてしまったら……そう考えるとゾッとします。

7.生徒ともPTAとも、出逢いにおいて定番の自己紹介ネタをもつことが大切です。自分を強く印象づけることなしに良い学級経営も良い授業も良いPTA活動もあり得ません。出逢いは楽しく、日常も楽しく、真面目に語るときには心底真面目に……そんな当然のメリハリをつけられない教師が増えています。

8.教師は文体にバリエーションをもつべきです。生徒に届けるために書かれる文章にも幾つかの文体をもつべきです。人の心を打つのは必ずしも美文ではありません。ましてや借り物の四文字熟語や格言など、かえって品位を落とします。自分らしさがにじみ出る文章……そのバリエーションをもつべきなのです。

9.若いときの文体には自分をよく見せたいという思いがあらわれます。年齢を重ねると、自分をよく見せることよりも、自分の伝えたいことが他人に伝わることの方を重視するようになります。もっと年齢を重ねると、自分の伝えたいことを伝えるよりも、他人の触媒になることを重視するようになります。

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5月8日(火)

1.授業5つ。暗唱が二つ、「おくのほそ道」の解説が一つ、「朝焼けの中で」の指示語が二つ。連休があって授業の進度に差がついてきた。これに健診が入って進度に更に差が出る。毎年のことだが、かなわんなあ……と感じる。空き時間は銀行に行って連休の旅行代金の支払い。放課後は修学旅行実行委員会。

2.連休ツアーの疲れが抜けたようだ。三泊四日だったのだが、あまり飲み過ぎないこと、三泊ともすべて6時間以上は寝ること、二つをやり遂げたことが大きかったのだろう。これまでのこの手のツアーとは疲れ方が全然違う。なーんて言ってるけれど、疲れが3日目に出るなんていう躰になってたりして(笑)。

3.【拡散希望/定員50/残席34/今度はこのセミナーです!】教室実践力セミナーin東京/学級づくり&授業づくりの原理原則・ALL堀裕嗣セミナー /2012年7月15日(日)/講師:堀裕嗣/参加費:5000円/会場:上智大学(予定)

4.次々に企画が具体化していくなあ。プロット、というか企画書がどんどん出来上がって送られてくる。なるほどこれはいい……という感じのものばかりだ。自分が立てたものをまとめてもらっているのだから当然といえば当然である。しかし、問題は本当に書けるのか、書く時間があるのかということだ。

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5月7日(月)

1.今日は朝からフラフラ。めまい&吐き気。それでも授業を三つ。先日暗唱テストを18連勝していたクラスは26連勝まで記録を伸ばす。今日から暗唱テストに入ったある学級はその話を聞いて22連勝。自分が連勝を途切れさせるのではないかとプレッシャーを感じ、過呼吸気味になる生徒も……。心配した。

2.先週まで4連休の遠出の講座内容のことしか考えていなかったのだが、今日になっていろいろなメールが入る。今週の土曜日に国語の90分講座、来週金曜日には大学の講義があるのだった。札教大の1年生全員に講堂で教職の基礎についてしゃべる。つい先日まで高校生だった学生さんに何を語ろうか……。

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5月3日(木)~6日(日)

1.5月3日(木)。朝7:50新千歳発。10:00関空着。はるかで京都へ。タクシー待ちの列に閉口。12:25佛教大学着。まずは学食でカレー。中條軍団と談笑。会場に行ってまずは行事指導の原稿執筆。糸井先生講座を拝聴。対談。自分の講座。対談。呑み会。二次会の「膳」というお店が最高だった。

2.5月4日(金)。教室ファシリin京都。WC&FG&OST。2月の東京と同じ内容。レイアウトに凝ってみた。DVDの撮影もあり、それなりに力も入った。いろいろな人と出会い、いろいろな人と再会し。終了次第、新幹線で名古屋へ。石田さんのお仲間と飲む。男5人だったので話題はえげつなかった。

3.5月5日(土)。教室ファシin名古屋。WC&FG&OST。東京・京都と同じ内容。でも議論の内容が全然違う。地域と人が変わるとこれほどまでに違うかと驚き。そういえば、この会は濃い人が多かった印象。小比賀くんと再会。TWITTERやFBで交流のある人たちと初見。初めての感じがしない。

4.新幹線で東京へ。人見さんと合流し、編集者と合流して飲みながらある企画のプロットを立てる。久し振りに頭を使う呑み会。いつもこういう呑み会をしていれば、仕事はどんどん進むのだが。24時をまわっても新宿はやはり新宿。去年、3・11直後にネオンが消えて星空が見えたのが嘘のようだった。

5.5月6日(日)。教室ファシin東京。東京は2回目なので内容を変えて臨む。WCの問いのつくり方。WCに進むまでのステップや校内研修会について少し話したあと、参加者に問いをつくってもらって磨き合い、その問いを使って実際にWCをやってみる。かなり冒険的な講座だったが、それなりにまわる。

6.飛行機が30分ほど遅れる。飛行機の中ではPCに向かって原稿執筆。懸案の修正原稿が完成。あと一歩。もうすぐ、行事本自体が完成する。なんだか、黄色本の原稿が完成したのがはるか昔のように思える。これをさっさと完成させて次に進もう。帰宅は22時。遅い夕食のあと、すぐに寝る。自宅はいい。

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5月2日(水)

1.授業2時間。空き時間二つ。避難訓練。給食から避難訓練までは副担学級に入る。放課後は評価評定研修会。提案をすべて通す。年度当初業務はすべて終わった感じ。これで今月は修学旅行に集中できる。研修会のあとはこまごまとした仕事を。勤務時間終了とともに退勤。岩見沢へ。母と北村温泉、回転寿司。

2.明日の旅支度が整った。なんと明日は5時起きらしい。8時に飛行機が新千歳を発つらしい。10時に関空に着くらしい。教師に着くのは11時半くらいらしい。15時から講演らしい。その後呑み会があるらしい。どうにも現実感がない。

3.自分で言うのもなんなのだが、今年度は割とまともに働いている。昨年度後半は親父が脳梗塞で倒れて以来、まともに働けない半年間が続いた。やっと親父の病状も落ち着き、僕の生活も落ち着いてきた。まともに働けるということは、実は有り難いことなのだ。この1ヶ月はまさに毎日が勤労感謝の日だった。

4.キリンのメッツコーラとやらも、いろはすのりんご味とやらも、それほどのものではないという印象を受けた。特定の商品についてこういうネガティヴ系の発言をネット上でするのは、何か法的に問題はあるのだろうか。どなたか教えてください。僕にとってはやはり暑くなってきたらガリガリ君のソーダ味だ。

5.できないことをやろうとしてそれがうまくいかないと、かえってやらなかったときよりも、他人を傷つけることがあります。できることはしてあげなければなりませんが、できないことには取り組み始めないことが重要です。

6.人は哀しみを知った分だけ優しくなれると言うけれど、優しくなりたいと願う人も望んで哀しみに遭遇しようとは思わない。自ら望んだわけでもないのに突如哀しみはやってくる。突如襲われるからこそ、人は優しくなってしまうのだ。自ら優しさを得るのではない。自ずから優しくならざるを得ないのである。

7.大切なものがずいぶんと前に失われていたことに気づくことがある。大切なものがずっと前にどこか別の場所に去ってしまっていたことに気づくこともある。そんな失われてしまっていたり去ってしまっていたりしていることが既に自分の一部になってしまっていることに気がつき、愕然とすることがある。

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今月のお知らせ/2012年5月

5月です。連休明けに4月がどうであったかの評価が決まる……今年もそんな5月がやってきました。ばたばたと忙しい毎日を過ごしているうちに5月はすぐに終わります。私も5月は修学旅行の準備をしているうちに終わりそうです。

【書籍・出版関係】

9784761918842新刊『教室ファシリテーション10のアイテム・100のステップ~授業への参加意欲が劇的に高まる110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2012年3月/第二刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。教室ファシリテーションセミナーでお逢いできればと思います。

111207cover必ず成功する「学級開き」 魔法の90日間システム』堀裕嗣著・明治図書・2012年2月/第5刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

さすがに時期はずれになって、売り上げは落ち着いてきました。夏には『必ず成功する「行事指導」 魔法の30日間システム』を上梓する予定です。こちらもよろしくお願いいたします。

9784761918484s生徒指導10の原理・100の原則~気になる子にも指導が通る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年10月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

生徒指導関係の講演や講座を依頼されることが多くなりました。有り難いことです。今後ともよろしくお願いいたします。

9784761918088学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年3月/第四刷になりました。お読みいただいた皆様、ありがとうございます。

現在、『スペシャリスト直伝!中学校学級づくり・成功の極意』『必ず成功する「行事指導」魔法の30日間システム』『義務教育で〈習得〉させたい国語学力~授業づくりの10の原理/120の言語技術』『誰でもできる!「教室ファシリテーション」入門~つながりを生む授業スキル』『一斉授業10の原理・100の原則』の5冊を同時進行中です。

また、今年は「教室ファシリテーションへの挑戦」という国語科ファシリテーション実践シリーズを「研究集団ことのは」が作っていきます。音読、作文、話し合い、スピーチ、聞き方の5冊が現在進行中です。

夏から秋にかけて、また幾つかの提案をさせていただきます。よろしくお願いいたします。

【研究会関係】

私に関係する5~6月の研究会をご案内させていただきます。お時間が許せばお越しください。5~6月は執筆専念と修学旅行準備のため登壇を控えています。

2012年5月3日(木)/教育サークル「未来の扉」春の研修会/糸井登・藤原友和・堀裕嗣/京都佛教大学紫野キャンパス/参加費:3000円/定員60名/終了しました。

2012年5月4日(金)/第3回教室ファシリテーションセミナーin京都/堀裕嗣・藤原友和/京都佛教大学紫野キャンパス/参加費:3000円/定員30名/終了しました。

2012年5月5日(土)/第4回教室ファシリテーションセミナーin名古屋/堀裕嗣・藤原友和/名古屋国際センター/参加費:3000円/定員30名/終了しました。

2012年5月6日(日)/第5回教室ファシリテーションセミナーin東京/堀裕嗣・藤原友和/上智大学(予定)/参加費:3000円/定員50名/終了しました。

2012年5月12日(土)/第2回見える授業・見える学級づくりセミナーin札幌年間を見通した基礎・基本の指導/大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・水戸ちひろ・南山潤司・山口淳一・山下幸/参加費:2500円/札幌市南区民センター/定員30名/終了しました。

2012年5月18日(金)/北海道教育大学札幌校講義/終了しました。

2012年5月19日(土)/「研究集団ことのは」5月例会/堀自宅/ご入会希望の方はご連絡下さい。ただし、中学校国語教師に限ります。/終了しました。

2012年6月16日(土)/「研究集団ことのは」6月例会/堀自宅/ご入会希望の方はご連絡下さい。ただし、中学校国語教師に限ります。

2012年6月20日(水)/日高教育研究所教育講演会/新ひだか町公民館

その後の予定はこちら

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自信がないと成長できない

教師は何より変化を恐れます。変化しないことが最も楽で、安全で、安心だからです。でも、〈変化からの逃避〉は、実は〈成長から遁走〉を意味しています。変化のないところに成長などあり得ないからです。そして変化しないこと、成長しないことは子どもたちの前に立つ資格を問われるほどの重大事なのです。

自分の学級経営がどのように形づくられてきたのか、意識したことがありますか?現在、採っている学級経営の手法が何をモデルにして形成されてきたのか、考えたことがあるでしょうか。

例えば、学級担任をもてば、春には学級組織をつくりますよね。班とか係とか日直とか当番活動とか席替えの仕方とか、そうした学級のシステムをつくるはずです。

しかし、あなたが作っているそのシステムは、いつだれから学んだものでしょうか、或いはいつだれの影響を受けてつくられたものでしょうか。意外と自分が小中学生だった頃の担任の先生が敷いていたシステムをもとにしているとか、新卒の年に隣の先生に教えてもらったやり方を基盤にしているとか、そういうことが多いのではないでしょうか。

もちろん、そうして学んだ学級システムが悪いというのではありません。良くないのは、それを改変することも修正することも点検することもなく、使い続けることです。実はベテラン教師の中には、20年、30年にわたって何の疑問も抱くことなく、新卒時代に狭い範囲で学んだことを絶対視して使い続けているという方が少なくないのです。

学級システムだけではありません。授業の仕方、行事への取り組み方、生徒指導の在り方、評価評定の在り方、テストの作り方などなど、教師という人種はそれまで慣れ親しんだ手法をなかなか変えることができません。

もちろん、その手法が機能しているのならば必ずしも変える必要はないでしょう。しかし、同じ手法を8~10年程度使っていると、時代の変容や子どもたちの変容によって耐用年数が切れてくるものです。なのに教師は自分のやり方にこだわり続け、なかなか変えようとしない、変わろうとしないという傾向があります。また、転勤によって質の異なる子どもたちを受け持っているにもかかわらず、同じ手法で実践し続けるという傾向もあります。

物事には不易と流行があります。しかし、一般にシステムやスキルが不易であるということはありません。教育における不易とは、教育理念や教育思想、学力の構造といった「観」のレベルです。その「観」を実現するために、時代に合ったシステムや生徒たちの実態に合ったスキルが選択されるのは必然的なことです。従って教師は、常に時代の変容と、その時代によって変容する生徒たちの実態に敏感でなければなりません。そしてその実態を捉えるとともに、常にいま目の前にいる生徒たちの実態に合致したシステムを敷き、いま目の前にいる生徒たちの実態に合致したスキルを身につける必要があるのです。少なくとも常にそれを模索し続ける存在でなければなりません。

教師はいつだってシステムを変え、スキルを変え、そして自らが変わる用意をもたなくてはならないのです。

変えるために最も必要なことは何でしょうか。私は長年、この問いについて考えてきました。そして、いまのところ「これじやないかな」と合点がいっている到達点があります。

それは「自信」です。変えることによって予想外のこと、想定外のことが起こる、それに対応できるという信頼を自らに寄せる、そういう人だけがシステムやスキルを変えることができるのです。自信のない人は、予想外のことや想定外のことが起こるのを怖れ、システムやスキルを変えることを拒みます。「自信」をもっていない人ほど変えられません。

私はそんな自信はもてないなあ……と感じる読者がいらっしゃるかもしれません。その気持ちはわかります。いいえ、そうした態度でいることは、もしかしたら人として謙虚であるともいえるのかもしれません。

しかし、大切なのは、教師という職業が生徒たちに「変われ」と言い続けなければならない職業である、ということです。私たちは生徒たちを変えなければならない立場にいるのです。そんな私たち自らが現状維持に安住しているとしたら、私たちに生徒たちの前に立つ資格があるのでしょうか。「変化しないこと、成長しないことは子どもたちの前に立つ資格を問われるほどの重大事なのです」というのは、そういう意味です。そして「成長」とは、現状を破壊し再構成すること、即ち「変化すること」なのです。

日々学び続け、日々変化し続け、日々成長し続けることによって、生徒たちに自信をもって言おうではありませんか。

成長せよ、私も成長する─と。

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5月1日(火)

1.授業3つ。暗唱テストや「おくのほそ道」冒頭の解説など。空き時間は明日の評価評定研修会の準備と朝自習の印刷。向こう2週間分の朝自習の印刷が終わる。午後は介護休暇をいただいて岩見沢へ。

2.ステージ発表の原稿が完全に上がった。次は途中で止まっている合唱コンクールの章の仕上げである。あと15頁といったとろだろうか。いずれにしても1週間後あたりにはこの本が完成しそうである。次はいよいよ「一斉授業10の原理・100の原則」だ。こちらも急がねばならない。月末が締切である。

3.今日、黄色本・青本・ワークシート集の増刷分が届いた。中に手紙が添えられていて、封筒を開けると10原理・100原則シリーズの10刷分の企画書が入っていた。なんと2015年の分までである。反吐が出そうになった(笑)。まいったなあ。本当に書けるんだろうか。あと7冊である。とほほ……。

4.今日の執筆は10頁強といったところ。いよいよ完成が近づいてきた。完成が見えてくると執筆意欲が湧いてくる。4連休にセミナーなんて行かないで、この本を仕上げてしまいたい気持ちに駆られる。書きたくないときはあんなに書きたくなくて逃げ回ってばかりいたというのに。我ながら我が儘なものだ。

41sp3itpvpl__sl500_aa300_5.MOON ROAD/瀬木貴将/2007

皆さんは瀬木貴将をご存知だろうか。サンポーニャ、ケーナの使い手だが、僕はこの人のCDをすべて持っている。特にこのMOON ROADは最高だ。

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