ファシリテーションだって授業に導入すれば一斉授業の一形態なのだ。活動と交流がダイナミックなだけである。それをインストラクションとファシリテーションの技術だけでできると思うのは浅はかだ。活動がダイナミックになれば教室ではハプニングが起こりやすくなる。ハプニングを解決したり解消したりする一斉指導の技術が必要になる。そして個別対応の技術も。
ファシリテーションの問いがゆるくて良いと思うのも誤解だ。ファシリテーションの問いを僕は戦後60年の発問研究の成果としてつくっている。一斉授業の問いよりもはるかに練らねばならない。活動が始まってからの修正が利かない分だけ、実は一斉授業の発問づくりよりもよほど難しい。ファシリテーションは準備が命といわれる所以がここにある。
生半可なにわか勉強では機能しないのだ。徹底した覚悟を抱いての経験の蓄積が必要なのだ。そろそろこういう本当のことを誰かが言った方が良い。だれもいわないなら僕が言おう。それが教室ファシリテーションの一面の本質である。もう一面の本質は、それでも導入しないより導入した方が良いということだ。時代がこうした手法を求めている。
ただし、ここにも不易と流行の見極めは必要だ。流行として取り入れた者は失敗し、両者を見極めて導入した者はこれまでにない成功をおさめるだろう。僕の実感としては導入するには怖い手法であり、覚悟のいる手法だ……といったところ。
でも、この穴は「研究集団ことのは」が次年度をかけて必ず埋めます。埋めて見せます。1年間あればきっと可能だと思います。
コメント
堀先生はじめまして。
小学校教師2年目の者です。
>生半可なにわか勉強では機能しないのだ。
>徹底した覚悟を抱いての経験の蓄積が必要なのだ。
先生のお言葉の特にこの部分が特に心に残りました。
ファシリテーションに限らず、どの教育技術にも通じていえることだろうと解釈しました。
投稿: しょうや | 2012年1月17日 (火) 06時46分
すごく内容の深い記事ですね
投稿: イニエスタ | 2012年3月11日 (日) 20時01分