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浮き上がって見えてくるのである

窓から外を眺めると、数十人の人たちがしたたり落ちる汗をふきながら働いている。新校舎への立て替え作業である。かつてグラウンドだった広い空き地に、数十台の車が停められ、大型の重機が運び込まれ、そこかしこにな大きく深い穴が空き、それでいて田畑よりも美しく区画されている。

工事は隣の小学校の運動会を終えた6月から始まったのだが、やっと建物の基礎を造り出したところである。これまでの3ヶ月間は穴を掘っては埋め、穴を掘っては埋めで、素人には何をやっているのかよくわからなかった。それが基礎を造り始めてようやく何をやろうとしているのかがぼくらにも見えてくるようになってきている。

科学の力だ。

美しく区画されたその基礎の美しさに、ぼくはそんなことを感じていた。こんなにも美しく、そしておそらくは強固につくられているであろうこの新校舎の基礎ができるまで、どれだけの理論と技術的なシミュレーションの成果が活かされているのか、ぼくには想像もつかない。

オレンジ色のショベルカーが5台、土をすくい上げてはトラックの荷台へと運ぶ。荷台がいっぱいになるとトラックが発車。現校舎から150メートルほど向こうで、その作業が一日中行われている。授業の合間の10分休みごとに窓の外を眺めるのだが、常にその作業だけは行われていた。

空き時間、ぼくはあまりにおもしろくてその風景を眺めていた。3校時である。いまショベルカーは5台のうち3台だけが動いている。

ふとある事に気がついた。

3台のうちの2台の動きと、もう1台の動きとか微妙に異なるのだ。

2台のショベルカーのアームの動きは、見ているとそれが重機であることを忘れさせてしまうくらいになめらかに曲線を描きながら動いている。トラックへと運ぶ動きもフラミンゴの首と見紛うようななめらかさである。

しかし残りの1台は、それが重機であることをまじまじと感じさせる。そのアームが2本の太い鉄の棒であり、関節は一つしかないのだと。一回一回の作業も他の2台に比して明らかに遅い。新米なのか、ただ下手なのか、それとも他の2台の作業員に比べて運動能力が低いのか、それはわからない。

ただ明らかなのは2台のショベルカーを操作している作業員は間違いなく感覚でやっている。頭で次はこうだとか対象をよく見てとか、そんなことを考えながらやっているのではない。ちょうどぼくらが車を運転するときに、助手席の向こう側に見える壁との距離を感覚で正確に感じ取るように。しかし、運転に慣れるまではその距離感覚がわからず、ガードレールや壁に車体がぶつかりそうな気がしてならなかった。駐車場に車を停めようとするときにいちいち考えて停めなければならなかった。だからいちいち確かめなければならなかった。おそらく動きの遅いショベルカーもそういう状態なのだ。

そんなことを考えながら工事現場全体を眺めると、そのショベルカー以外の動きは、重機も、作業をする人の動きも、3人で向かい合って打ち合わせをしている人たちさえ、みな動きがなめらかであることに気づかされる。そうこうするうちに、工事現場全体を見ていてもそのショベルカーが気になってきた。特に見ようとしなくても、その、アームに潤滑油でもぬってあげたくなるようなショベルカーだけが浮き上がって見えてくるのである。

このショベルカーを運転しているのはどんな人だろうか。会って話をしてみたい。そういう衝動にかられた。

4校時、始めたばかりのぼくの新しい授業スタイルにまだ適応していない、数人の生徒たちの戸惑いが浮き上がって見えてきた。そんな生徒たちが愛おしく思えてきた。模造紙に向かって、右手に握られたプロッキーがなぜかカクカクときごちなく動くのだ。ほとんどの生徒たちの利き腕はなめらかな曲線を描いている。教室全体を見ようとしているのに、その、利き腕に潤滑油でもぬってあげたくなるような数人の生徒たちだけが浮き上がって見えてくるのである。

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