正し過ぎる論理
教師が陥りがちな病理に「正しすぎる論理」があります。「絶対なんてありません。人それぞれですから…」というのがそれです。この論理は正しい。正しいだけにだれも反論できない。しかし、正しすぎるがゆえに何の役にも立ちません。この論理を持ち出した途端にすべての思考がストップするからです。
何かを思考しようとするとき、何かを議論しようとするとき、「絶対なんてない」という論理は取り敢えず括弧に括らなければなりません。括弧に括って、もっといいものはないか、いま自分が考えているよりも高次の見解はないか、こういう構えで思考したり議論したりしないことにはすべてが現状維持です。
しかし、教員世界には思いの外この論理を持ち出す人が多くいます。特に研究畑の教師に多いようです。更にいえば、国語教育に携わっている者に顕著に多いようでもあります。おそらく、あまりにも諸派諸説が乱立しているために、対立しないことを目的に編み出された詭弁なのでしょう。
また、自分の主張へのこだわりが大きいために、対立する主張から自分の身を守るために弄される詭弁という側面もあります。前者は〈止揚〉を、後者は〈成熟〉を拒否している点で、私には「百害あって一利なし」に見えます。
百歩譲って、こうした態度が自分自身のみのこだわりから発祥していて、他に迷惑をかけないでいるのであれば、それほどの実害はないといえます。しかし、こうした主張を展開する人々の多くは、他の人にもこの「正し過ぎる論理」に帰依することを要求します。
いずれにせよ、思考停止に陥らないために最も必要なことは唯一絶対的に正しいという価値判断の基準になるような思想をもたないこと。絶対なんてない!という思想も正しい思想になるので要注意。この「思考停止に陥らないために正しいという価値判断の基準になる思想をもたない」という思想も疑われなければならない。
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