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第二世代に向けて

「教育技術の法則化運動」は〈物語消費〉論(大塚英志・角川文庫・1989年)の教育運動としての具現化であったというのが、ここ数年来の私の持論である。

今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての〈物〉ではなく、記号としての〈モノ〉を消費しているのだというボードリヤールの主張は、80年代末の日本を生きるぼくたちにとっては明らかに生活実感となっている。ぼくたちは目の前に存在する〈モノ〉が記号としてのみ存在し、それ以外の価値を持つことがありえないという事態に対し充分自覚的であり、むしろ〈モノ〉に使用価値を求めることの方が奇異な行動でさえあるという感覚を抱きつつある。

大塚はこうした時代認識から、かの「ビックリマンチョコレート」を時代のエポックとして捉え、自身の1980年代論の象徴的題材として論述する。1987年から88年にかけて子どもたちの間で爆発的に大流行し、市場を席巻した「ビックリマンチョコレート」は、それまでの菓子商品の常識を覆した。それは一言でいえば、チョコレートという商品本体とシールというおまけが逆転しているからである。それまでも、グリコのキャラメルをはじめとして、おまけつきの菓子商品は決して少なくはなかった。しかし、「ビックリマンチョコ」は二つの意味において、それまでのおまけ付き菓子商品と一線を画していた。

第一に、先にも述べたように、商品とおまけとの逆転である。グリコのキャラメルは、「一粒三百メートル」というキャッチコピーに象徴されるように、あくまでも商品本体はキャラメルであった。もしも商品本体がおまけならば、キャッチコピーはおまけに関するフレーズで構成されていたはずである。また、キョロちゃんでお馴染みの「チョコボール」は、「金のエンゼル」「銀のエンゼル」によって「おもちゃの缶詰」が当たるという、特典によって商品本体たるチョコレートを売ろうとする企業戦略であった。このように、それまでの菓子メーカーは、あくまでも「おまけ」を付属品の特典として考えていたのである。しかし、「ビックリマンチョコ」は異なる。商品本体は、あくまでもシールである。メーカーはあくまでシールで売り上げの拡大を図ったのである。たまたまこれを商品化したメーカーがお菓子メーカーであったために、お菓子の流通ルートに載せざるを得なかったに過ぎない。その結果、「ビックリマンチョコ」を購入した子どもたちは、意識としてはあくまでもシールを買っていたのであり、付属品のチョコレートは惜しげもなく捨てられるという逆転現象が起こったのである。

第二に、「ビックリマンシール」が既成のキャラクター商品によって付加価値を付けるのではなく、メーカーが開発したオリジナルのキャラクターであった、という点である。それまでにも、商品たるお菓子が捨てられ、おまけだけが必要とされた商品は確かにあった。例えば、「仮面ライダースナック」や「プロ野球スナック」である。あの「仮面ライダーカード」や「プロ野球カード」を付けたヒット商品である。しかし、これらは「仮面ライダー」にしても「プロ野球選手」にしても、あくまでも既成のキャラクターをパッケージにあしらい、付属品のおまけとしてカードをつけたものである。それがスナック菓子の付加価値として機能したに過ぎない。しかし、「ビックリマンシール」は違う。完全にメーカーの開発したオリジナルキャラクターなのである。それまでこうした例は、せいぜいサンリオのキティちゃんがあった程度であり、少なくとも男の子向けの商品としては皆無だったのである。つまり、「ビックリマンシール」は、原作なきキャラクターであったわけだ。

以上、二つの意味で、八○年代後半に大ヒットした「ビックリマンチョコレート」は、時代のエポックたるにふさわしい商品だったわけである。加えて、この商品が時代のエポックとして象徴的であるのは、次のような商品の構造を持つ点にある

①シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている。
②この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせてみると、漠然とした〈小さな物語〉─キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の─が見えてくる。
③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。
④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話的叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。
⑤消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする。

こうしたキャラクターシールは、大塚によれば全部で772枚あったそうである。子どもたちはコレクションが一枚増えていくごとに、これまでのコレクションによって見えていた〈大きな物語〉を適宜修正し、「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)に近づいていく。そしてまた一歩近づきたいがために、また新たに「ビックリマンチョコ」を幾つも買う。さらに購買意欲がそそられる。「ビックリマンチョコレート」には、まさにこうした構造があったのである。子どもたちがこぞって買っていたのは、チョコレートでもなければキャラクターシールでもない。実はキャラクター解説が少しずつ明らかにしていく〈大きな物語〉であった。こうした構造を大塚英志は、「物語消費論」と名付けたのである。  この「物語消費論」の構造は、アニメ業界で既に80年代前半に大ヒットを飛ばしていた。例えば、「北斗の拳」や「機動戦士ガンダム」である。

「北斗の拳」は、拳が敵を倒すたびに新たな敵(拳の使い手)を紹介され、その敵に挑むという構成を取り続ける。しかも、新たな強い敵になればなるほど、拳の知りたがっている謎(=世界観)により近づいていく、という構造をもっている。子ども達、いや、大人までもが「北斗の拳」に熱狂したのは、キャラクターの美しさや拳のヒロイズムばかりではない。謎だった世界観が少しずつ明らかになっていく、その構造こそが牽引力として機能していたのである。

一方の「機動戦士ガンダム」はもう少し複雑である。私は「機動戦士ガンダム」を見たことがないので、詳しいことがわからないのだが、大塚によれば、「ガンダム」の一話ないし一シリーズのアニメは、「ビックリマンチョコ」のシールに相当する、断片的な商品に過ぎない。

この一話ないしは一シリーズでは、アムロなりシャアなりのキャラクターを主人公とした表向きの物語が描かれている。一般の視聴者はこの〈表向きの物語〉のみを見ている。ところがアニメの作り手は、こうした一回性の物語のみを作っているわけではない。「ガンダム」なら主人公たちの生きている時代、場所、国家間の関係、歴史、生活風俗、登場人物それぞれの個人史、彼らの人間関係の秩序、あるいはロボットにしても、そのデザインなり機能をこの時代の科学力にてらしあわせた場合の整合性、といった一話分のエピソードの中では直接的に描かれない細かな〈設定〉が無数に用意されているのが常なのだ。この〈設定〉が多ければ多いほど、一話分のドラマは受け手にとってリアルなものとして感知される。そしてこれらの一つ一つの〈設定〉は全体として大きな秩序、統一体を作り上げていることが理想であり、〈設定〉が積分された一つの全体を〈世界観〉とアニメメーションの分野では呼びならわしている。

これが明らかに、「ビックリマンチョコ」と同じ構造をもっていることはおわかりだろう。「機動戦士ガンダム」は、当時の子ども達にとって、〈表向きの物語〉のみならず、その裏に隠されている「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を統合していこうとする意欲こそが、アニメーションに熱狂する牽引力となっていたのである。

しかし、これだけのことならば、さして特筆すべきことではない。近代日本に成立した「私小説」の伝統は、個人体験の一つ一つから「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を見ようとしたのであり、無数の「私小説」を読み続けた読者達は、新たな作品を読むことによって、また一つ〈世界観〉に近づくことができたという満足感を得ていたはずである。日本の近代文学はこの構造を基本としていたのであり、むしろ、「私小説」的手法に対抗して、ただ一つの〈世界観〉を捏造し、そのバリエーションとして作品を描き、読み続けた「団塊の世代」こそが特異な存在であったのだとも言える。

しかし、「ビックリマンチョコ」や「機動戦士ガンダム」は、この「私小説」的伝統とも一線を画す。読者のみなさんは想い出さないだろうか。「ビックリマンチョコ」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを、教室で脇目もふらずにデザインする男の子達の姿を。また、「機動戦士ガンダム」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを熱狂的にデザインし続ける、「おたく」と呼ばれた同級生達を。彼らは決して、単にオリジナルのキャラクターを創造していたわけではない。「ビックリマンシール」から、或いは「機動戦士ガンダム」から〈世界観〉を読み取った者達が、自らその〈世界観〉を構成する新たなキャラクターを模倣的に創造していたのだ。

それはこういうことだ。「ビックリマンシール」の772のキャラクターすべてを集めてしまった子ども達は、「ビックリマン」が提供する「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)をすべて把握してしまう。その〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達にとって、772枚に及ぶ個々の「ビックリマンシール」は、〈世界観〉と整合する772の小さな小さなドラマに過ぎなくなる。つまり、〈世界観〉を構成する極々小規模な要素に過ぎなくなり、「〈大きな物語〉の全体像」即ち〈世界観〉を追い求めて、次々とシールを購入していた時代と比べて、その価値は相対的に低くなってしまうわけだ。相対的に低くなるというよりは、もはやどん底に近づくといった方が当たっているかも知れない。

そうした場合、新たな〈世界観〉を提供する「ビックリマンシールⅡ」が出れば良いのだが、772ものキャラクターが、一つの〈世界観〉をもって、ネットワークを結んでいる商品を、メーカーもそう簡単にはつくることができない。そこで、この「ビックリマン」の〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達が始めたことが、その〈世界観〉に整合する773人目のキャラクターを自ら創造することだったのである。そして、その773人目のキャラクターが774人目のキャラクターを呼び、そこにキャラクター相互の関係(抗争だの裏切りだの)が生まれていく。また、その関係を解決すべきキャラクターとして775人目のキャォラクターが必要となる。そうすると、ここに新たな「小さな物語」が出来上がる。しかもそれは、「ビックリマンシール」が提供した「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)と密接な関係性を保持するとともに、完全な整合を得ている。こうなると、これらの模倣的創造品が「偽物」とは言い切れなくなりはしないか。あの子ども達や同級生達の熱狂ぶりは、まさに商品開発に参画しているという主体意識だったのである。

さて、ここで、かつての「教育技術の法則化運動」の運動方針を見てみよう。

1 この運動は、二十世紀教育技術・方法の集大成を目的とする。「集める」「検討する」「追試する」「修正する」「広める」(以上まとめて法則化とよぶ)ための諸活動を行う。
2 運動の基本理念は次の四つである。 
①教育技術はさまざまである。できるだけ多くの方法をとりあげる。(多様性の原則)
②完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原則)
③主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)
④多くの技術から、自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)
3 目的・理念に賛成する人は、事務局に連絡して支部・サークルを結成できる。支部・サークルは定期的な研究会などの活動を行う。
4 事務局は、支部・サークルに対して「定期的な情報」「企画の優先案内」「資料等の斡旋」等の活動をする。活動資金は、事務局の諸活動の中からつくり出す。当分の間、京浜教育サークルが事務局を担当する。
5 事務局と支部とは対等の関係にある。支部はその責任においていかなる企画を実施することもできる。また諸活動に対する賛成・反対・拒否・無視は何人も自由である。
6 この運動は次のとき解散する。
①目的を達成したとき。(日本教育技術・方法体系の完成、コンピュータ検索システムの完成、追加・修正システムの完成等)
②事務局を担当する支部・サークルがなくなったとき。
③21世紀になったとき。

注目していただきたいのは、この運動方針の1と2である。

「教育技術の法則化運動」に参加する教師は、まず運動内部の実践報告を「集める」。それを次々に「追試する」ことによって、自らの実践として位置づけていく。こうした中で、それぞれの実践報告同士の関連について思考し、場合によっては「修正する」。こうした営みを続けながら、全国で次々に開発されていく新たな実践報告の集積・追試・修正を繰り返していく。これら一つ一つが、強大なネットワークを形成していく。

おそらくこの営みの原動力となったのは、当初は〈大きな物語〉(=〈世界観〉)に到達したいとの欲望であり、自らが実践を開発するようになってからは、〈大きな物語〉(=〈世界観〉)と密接な関係性をもつとともに完全なる整合を示している、自分自身の〈小さな物語〉の創作だったのである。「法則化運動」に参加する教師たちのメンタリティは、独自のキャラクターデザインに熱狂するあの子ども達と同様のものである。

おそらく深澤久の「命の授業」も、そして「マル道」も、若き「法則化戦士」のこうしたメンタリティの中から生まれてきた。言わば、「法則化亜種」である。

私は批判的に言っているのではない。彼らよりもひと世代若い世代で構成され、私が代表を務める「教師力BRUSH-UPセミナー」も、同様のメンタリティにおいて、好むと好まざるとに関わらず「法則化亜種」として存在していることを自覚している。

しかし、「道徳改革集団」が、或いは我々「教師力BRUSH-UPセミナー」が、「法則化亜種」から脱却し、新たな教育理念と新たな運動理念のもと、新たな志をもって活動していこうと考えるならば、かつてグーグルがマイクロソフトを食い破って情報世界を席巻したような、ドラスティックなシステム転換が必要である。

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