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2011年9月

今月のお知らせ/2011年9月

いよいよ、今月末、10原理・100原則シリーズの第二弾『生徒指導10の原理・100の原則』(堀裕嗣著・学事出版)を上梓します。『生徒指導10の原理・100の原則』の最終校正を終えました。編集者にも発送して、ひと安心です。今回は第1章に簡単ではありますが、理論が載っています。若い先生方には『学級経営…』よりは少しだけ難しいかもしれません。また、中堅・ベテランの先生には読み応えがあると思います。『学級経営…』ともどもよろしくお願いします。

9月はほとんど研究会がありません。初旬に新潟行きがありますが、それ以外は月末まで何もありません。まあ、勤務校が学校祭一色になる時期なので、わざと研究会の予定を入れませんでした。その代わり、9月23日から12月23日まで、すべての土曜日と祝日が研究会ということになっています。2学期は教師力BRUSH-UPセミナーの連続です。全道各地に飛びます。道内の皆様、お逢いできれば嬉しいです。10月に東京、11月に大阪にもうかがう予定です。

【書籍・出版関係】

生徒指導10の原理・100の原則』(堀裕嗣著・学事出版)近刊。今回もイクタケマコトさんの装丁で刊行されます。『生徒指導…』は青い本になります。『学級経営…』とは内容的に重ならないように書きました。また、よろしくお願いします。

第1章 生徒指導を機能させる10の原理/1.スクール・カーストの原理/2.サイレント・マジョリティの原理/3.ヒドゥン・カリキュラムの原理/4.ブロークン・ウィンドウズの原理/5.イニシアティヴの原理/6.インクルージョンの原理/7.マクドナルド化の原理/8.パッチング・ケアの原理/9.FMCチームワークの原理/10.自己キャラクターの原理

第2章 生徒指導で身につけたい100の原則/1.基本として身につけたい10の原則/2.生徒を観察する10の原則/3.生徒との距離を調整する10の原則/4.事実を確認する10の原則/5.生徒を説得する10の原則/6.現場に対応する10の原則/7.保護者に対応する10の原則/8.年度当初に徹底する10の原則/9.自分の現状を知る10の原則/10.自分の身を守る10の原則

9784761918088学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣著・学事出版・2011年3月 ご注文はこちら

編集の戸田さんに頑張っていただいて、ぼくの本としてはかなり読みやすいものになっています。イクタケマコトさんのイラストも内容にマッチしていて、表紙カバーの装丁も気に入っています。基本コンセプトは、「学級経営に失敗できない時代になった」という前提のもとに、まずは非凡な実践に憧れる前に平凡なことをしっかりと基盤づくりとして意識しよう、というものです。いま、勤務校でつまずき、ひとたび目に見えた失敗してしまうとなかなか浮上できない現実があります。「成功すること」よりも「失敗しないこと」が大切な時代になってきている……そういう現状認識のもとに書きました。ある程度の構造化を目指していることが売りです。

51v2ygbqk6l__sl500_aa300_CD-Rでアレンジ自在 中学校学級活動ワークシート』堀裕嗣編・研究集団ことのは著・学事出版・2011年7月 ご注文はこちら

「月刊HR」に3年間連載した内容を修正して1冊にまとめたものです。高校版が既に1年前に出ていますが、CD-Rつきでワークシートを自在にアレンジできることが売りの企画です。奇をてらわないオーソドックスなワークシートが多いので、実際に教室で使うには適したものが多いと思います。細かなところの修正がワードでできますので、自分の学校に合った日程に、自分の教室に合った内容につくりかえることが可能です。 CD-Rがついている分、値段が一般のワークシート集よりは500円ほど高めになっていますが、CD-Rにはそれだけの価値はあると感じています。

また、『とっておきの道徳授業・中学校版 Ⅸ』(日本標準)が刊行されました。こちらもよろしくお願いいたします。

14_ihk83e838d83b83v000明日の教室DVDシリーズ14/文学の授業~読む・解く・書く』石川晋・堀裕嗣・門島伸佳・有限会社カヤ・2011年3月中旬発売

1月末に京都で行われた「明日の教室」がDVDになりました。発売開始されました。「オツベルと象」を題材に、〈語り手の自己表出〉の読み解きの基礎的な授業を模擬授業の形で提案しています。後半は石川晋先生と授業づくりの視点について語り合っています。

【研究会関係】

私に関係する9~10月の研究会をご案内させていただきます。お時間が許せばお越しください。

2011年9月2日(金)/新潟県十日町市立十日町東小学校公開研究会/庭野三省校長先生の学校です。赤坂真二・野中信行・堀裕嗣の3人が児童相手に授業をします。/終了しました。

2011年9月3日(土)/先生のためのとっておきセミナーin新潟/北海道vs新潟模擬授業対決!国語・算数・社会/上越教育大学新潟サテライト(予定)/講師:赤坂真二・兒玉重嘉・高橋裕章・野中信行・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一他交渉中/定員50名/終了しました。

2011年9月23日(金)/第4回学級づくりプログレッシブセミナーin札幌/学級づくりの折り返し地点・チェックリスト&マンネリを打破する手立て/札幌白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸・山田洋一/定員30名/終了しました。

2011年9月24日(土)/第1回場づくりフォーラム・BAF/北翔大学 北方学術情報センター「ポルト」8階 大会議室/参加費:1000円(学生500円)/テーマ:生命の尊重/岡山洋一・堀裕嗣の模擬授業を題材に、参加者全員で検討しながら「生命の尊重」について考えます。/講師:岡山洋一・堀裕嗣・丸山昌宏/定員30名/終了しました。

2011年10月1日(土)/第4回中学校学級づくりセミナーin東京/江東区文化センター第4研修室/参加費:3000円(予定)/講師:合田淳郎・佐瀬順一・田中利幸・堀裕嗣・桃崎剛寿/定員40名

2011年10月8日(土)/第15回教室実践セミナーin札幌教室に対話を!ファシリテーションのアイテム&ファシリテーション・グラフィック/札幌市白石区民センター/参加費:3000円/講師:堀裕嗣・藤原友和/定員20名

2011年10月9日(日)/第29回累積科学国語教育研究会in札幌/言語活動の充実/札幌市白石区民センター/参加費:3000円/講師:高橋裕章・藤原友和・堀裕嗣・山口淳一・山下幸・他交渉中/定員30名

2011年10月15日(土)/第5回学級づくりプログレッシブセミナーin札幌/札幌白石区民センター1F多目的室(予定)/参加費:3000円/講師:大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸・山田洋一/定員30名

2011年10月22日(土)/白石区中学生の主張発表会/札幌市白石区民センター/ぼくの指導した生徒が出場します。引率です。しかも札幌BRUSHとのはしごです。

2011年10月22日(土)/教師力BRUSH-UPセミナーin札幌/特別支援教育/札幌市白石区民センター/講師:大野睦仁・梶倫之・柏葉恭延・桑原賢・平山雅一・堀裕嗣・湯藤瑞代(他交渉中)

2011年10月29日(土)/教師力BRUSH-UPセミナーin北見言語活動~言葉で伝える、言葉を受け取る授業づくり・学級づくり/参加費:2000円/北見芸術文化ホール小練習室B/講師:岩田知也・太田充紀・高橋正一・平山雅一・堀裕嗣・水戸ちひろ・湯藤瑞代

2011年10月30日(日)/10:00~12:30/さっぽろみらいカフェ/みんなで語れば つながる!ひろがる!さっぽろの食、観光、医療、教育、スポーツ/参加費:500円・1ドリンク付き/あじと2 cafe 日びの(札幌市中央区南16条西4丁目1-10)/主催:さっぽろ未来カフェ/札幌市内の本物のカフェを借り切り、食・観光・医療・教育・スポーツに分かれてワールドカフェを行います。話した内容は、札幌市の新たなまちづくりの指針「まちづくり戦略ビジョン」に活かされます。私は教育のファシリテーターを担当します。

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学級経営10の原理・100の原則

学級経営 10の原理 100の原則/困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣・学事出版・2011.03.17初版

ご注文はこちら

9784761918088編集の戸田さんに頑張っていただいて、ぼくの本としてはかなり読みやすいものになっている。イクタケマコトさんのイラストも内容にマッチしていて、表紙カバーの装丁も気に入っている。出来上がるまで1年半ほどの紆余曲折があったこともあって、著者として満足感とともに大きな喜びも感じている。

基本コンセプトは、「学級経営に失敗できない時代になった」という前提のもとに、まずは非凡な実践に憧れる前に平凡なことをしっかりと基盤づくりとして意識しよう、というものである。いま、勤務校でつまずき、ひとたび目に見えた失敗してしまうとなかなか浮上できない現実がある。生徒も保護者の中には、一度失敗した先生としてずーっと記憶に残る。下手をするとネット上に記録としてまで残ってしまう。そういう時代になった。同僚や管理職もかつてほど頼りにはならなくなっている。もちろん指導に加わってはくれるのだが、かつてのような精神的な支えとしてはなかなか機能してくれなくなった。「成功すること」よりも「失敗しないこと」が大切な時代になってきている。

教師は「成功」に憧れる。非凡な教師が非凡な実践をしていると、「よし!自分も」となる。これは人としてあたりまえの思考回路でもある。しかし、「よし!自分も」と始められる実践の多くは成功しない。非凡な教師の実践が「平凡の上に築かれている非凡である」ことに、彼らが気づいていないからである。非凡なまでに生徒たちを引っ張り、非凡なまでに自己実現しているように見える教師の実践は、その前提にやるべき平凡なことが積み重ねられ、それを基盤として成り立っているのである。若い教師はそれに気がついていない。これまで若さで乗り切ってきたのだが、最近どうもうまくいかないと嘆いている中堅教師もそれに気がついていない。最近子どもがわからなくなった、最近子どもが変わった、自分のやり方ではもう通用しないのだ、やめたい……と嘆いているベテラン教師もそこのところに気づいていない。

この本は徹底的に学級経営の基盤となる「平凡」にこだわった。それもかなり細かいところにまでこだわった。学級経営で決して蔑ろにしてはいけないマネジメントの10原理、そして「学級組織づくり」「席替え」「給食指導」「清掃指導」「ショート・ホームルーム」「リーダー育成」「学力向上」「家庭訪問」「通知表所見」「職員室の人間関係」という10項目について、それぞれ10原則を提示した。どれも臨機応変性の求められる領域ではなく、基本原則に則って指導にあたることで、まず間違いなく失敗を避けられるといういわばコンクリート領域ばかりである。

生徒指導や教育相談、不登校生徒の対応や特別な支援を要する子の指導など、臨機応変性の求められる領域については次著で……という予定である。

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第4回中学校学級づくりセミナーin東京

【告知】2011年10月1日(土)/第4回中学校学級づくりセミナーin東京​ 受け付け開始です。

札幌→名古屋→新潟とご好評いただいている全国縦断セミナーの4回目になります​。この後、11/5大阪、1/22熊本と続きます。

講師は合田淳​郎・佐瀬順一・田中利幸・堀裕嗣・桃崎剛寿の5人です。

セミナーの詳細・プログラムについてはこちらをご覧ください。

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意識と行動

以下、ある教育雑誌から「規範意識を育てる生徒指導の原理・原則」というテーマをいただいて、途中まで書いてあまりに観念的だとボツにしたものです。もったいないので、ブログに載せておきます。

生徒の規範意識は教師の規範意識によって培われるのではない─すべての教師はまずこの逆説を謙虚に受け止める必要がある、私はそう考えています。

生徒に規範意識が身に付いているか否かを測るとき、教師は生徒の行動を観察します。生徒たちが頭の中で何を考えているのかは厳密にはわからないわけですから、生徒の行動を評価対象とすることは理に適っていると言えます。

しかし、ここで問題なのは、教師が生徒の行動を評価する場合の評価基準が、教師自らの規範意識、つまりあくまで規範に対する意識になっているという点です。現在、教師という仕事はかなり高い規範意識をもたないと成り立たない職業です。みな自分は社会規範に抗うことなく教師としての仕事を行っていると考えているはずです。

でも、ここでよく考えてみましょう。あなたは本当に規範意識に従ってすべての行動を制御しているという自信があるでしょうか。生徒たちに提出物の期限は絶対に守るようにと言っているあなたも、行事反省の提出が遅れたり、学年会に諮る文書をつくるのを忘れたりしているのではないでしょうか。あまり気乗りのしない飲み会につい出席すると言ってしまい、当日になってやっぱりドタキャンなんてことをしたことはありませんか。そうです。行動を評価されるということはこういうことなのです。規範意識をもっていても規範意識に則った行動ができない、そんなことは誰にでもあることなのです。

では、行事反省を遅れないで提出したり、学年会への提案文書を忘れずに作れたり、或いは飲み会をドタキャンしなかったりというときはどんなときでしょうか。それは難しいことではありません。だれでも経験のあることです。職員室にコミュニケーションの図られた〈共同性〉があるときです。

胸に手を当てて考えてみましょう。職員室が仲が悪いときには、私たちは忘年会のゲームさえ楽しむことができません。余興の仮装やちょっとした罰ゲームなども、なぜこんな仲の悪い集団のためにそんなことをしなければならないのかと感じてしまいます。

しかし、職員集団がうまくいっていて、信頼のできる人たちとの忘年会ならば、ちょっとくらい恥をかいてもみんなで楽しむことを選ぶのではないでしょうか。人間の心性とはそういうものなのです。

実は〈規範〉とは正しい服装で過ごすことや時間を守って生活することを指すのではありません。集団の中で誰もが損をしたりいやな思いをしたりしないように共通したルールの中で過ごすための共同幻想のことです。とすれば、もちろん年度当初にルールはルールとして確認しておく必要はありますが、学級担任も含めた学級集団、或いは学年所属の副担任をも含めた学年集団が徹底してコミュニケーションを図ること、誰もが「この人たちに迷惑をかけたくない」「この人たちに楽しい思いをさせてあげたい」と思うような状態となること、それが〈規範意識を育てる生徒指導〉の理想型ということになります。

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正し過ぎる論理

教師が陥りがちな病理に「正しすぎる論理」があります。「絶対なんてありません。人それぞれですから…」というのがそれです。この論理は正しい。正しいだけにだれも反論できない。しかし、正しすぎるがゆえに何の役にも立ちません。この論理を持ち出した途端にすべての思考がストップするからです。

何かを思考しようとするとき、何かを議論しようとするとき、「絶対なんてない」という論理は取り敢えず括弧に括らなければなりません。括弧に括って、もっといいものはないか、いま自分が考えているよりも高次の見解はないか、こういう構えで思考したり議論したりしないことにはすべてが現状維持です。

しかし、教員世界には思いの外この論理を持ち出す人が多くいます。特に研究畑の教師に多いようです。更にいえば、国語教育に携わっている者に顕著に多いようでもあります。おそらく、あまりにも諸派諸説が乱立しているために、対立しないことを目的に編み出された詭弁なのでしょう。

また、自分の主張へのこだわりが大きいために、対立する主張から自分の身を守るために弄される詭弁という側面もあります。前者は〈止揚〉を、後者は〈成熟〉を拒否している点で、私には「百害あって一利なし」に見えます。

百歩譲って、こうした態度が自分自身のみのこだわりから発祥していて、他に迷惑をかけないでいるのであれば、それほどの実害はないといえます。しかし、こうした主張を展開する人々の多くは、他の人にもこの「正し過ぎる論理」に帰依することを要求します。

いずれにせよ、思考停止に陥らないために最も必要なことは唯一絶対的に正しいという価値判断の基準になるような思想をもたないこと。絶対なんてない!という思想も正しい思想になるので要注意。この「思考停止に陥らないために正しいという価値判断の基準になる思想をもたない」という思想も疑われなければならない。

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第1回場づくりフォーラム(BAF)

第1回場づくりフォーラム(BAF)

実力派教師&講師による学びの場づくり

■内容は

あの人が教えると伸びる!人の力を引き出すのが上手い!
生徒が学ぶ教室や、セミナー、企業内研修の場などで教える
そんな人たちはいったい何をしているんだろう?

第1回の場づくりフォーラムでは、教える場が異なる教師と講師が
つくる学びの場を通して、それぞれの場づくりを学びます。

生徒との関係が持続的な教師と、一過性の研修として開かれることの
多い研修講師が、同じテーマで教えると何が見えてくるのか。
手法や技法ではなく、教師や講師が何を意識して、どうように場に関わっているかを探求します。


■こんな方にお勧めです

授業力を高めたい教師、セミナー講師、研修担当者。

講師:岡山洋一・堀裕嗣・丸山宏昌

【日時】 2011年9月24日(土)
    13時00分~16時30分(12:30開場)

【会場】 北翔大学 北方学術情報センター「ポルト」8階 大会議室
    札幌市中央区南1条西22丁目1番1号
    (地下鉄東西線 西18丁目駅徒歩5分)
    http://www.hokusho-u.ac.jp/porto/access.html
    地図は上記URLより。駐車場はありません。

【定員】 先着100名(事前申込)
 
【参加費】 1,000円 (学生500円)
  (当日会場にてお支払いください。)

【申込】 本ページ下から申込ください。

【主催】 場づくりフォーラム 実行委員会

【共催】 教育研究団体「ことのは」
      NECO塾
      異教師交流会 Teacher's Sharing Cafe

【後援】 札幌市、札幌市教育委員会

申し込みはこちらから

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授業づくりネットワーク2012冬in北海道

授業づくりネットワーク2012冬in北海道が開催されることになりました。北海道大会20回目になります。2012年1月7日(土)~8日(日)です。詳しいことは後日連絡しますが、道内のネットワーク関係の皆様、日程をあけておいていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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教師力BRUSH-UPセミナーin北見

言語活動~言葉で伝える・言葉を受けとる授業づくり、学級づくり~

先生方におかれましては、小学校では学習発表会、中学校では学校祭など行事を通して学級・学校づくりにご尽力をされていることと思います。

当教師力BRUSH-UPセミナーは、昨年度にも北見で「みんなが活躍できる学級づくり・授業づくり」というテーマで研修会を行っています。その中で、「子どもの姿勢が思わず前のめりになるような授業がしたい。」「子どもの考え・思い・夢を引き出せるような学級づくりがしたい。」「友達同士でコミュニケーションを取りながら学習ができるように内容・方法を考える必要がある。」という声をしっかりと受け取りました。また同時に、「学力、学習マナーもしっかりつけなければならない。」「相手の意見を聞いたり、友達と話したりする力が育っていない現状がある。」「活動をさせるのは良いが、どんな場面でどんな時間で行ったら良いのだろうか。」というような実情・とまどいの声も聞かれました。

今回は,国語の教科だけに特化せず、考える力・表現力・コミュニケーション・感情や情緒の発達の基礎となる、「言語活動」をテーマとして研修会を企画します。講師として、当セミナーの代表である堀裕嗣氏,稚内でご活躍されている高橋正一氏をはじめとして、道内各地から楽しく力をつける実践をされている講師を多数お招きします。行事なども一段落した頃だと思います。「今から・今日から・明日から」できることを一緒に考え,よりよい授業・学級づくりについて、深め学びましょう。期限付きの方や初任者の方・日頃の悩みを共感したい方・日頃の実践を振り返りたい方、学校種問わず是非お越し下さい,

○日 時 2011年10月29日(土)9:30~16:30

○場 所 北見芸術文化ホール 小練習室B
〒090-0811北見市泉町1丁目2−22 ℡0157―31―0909

○主 催 教師力BRUSH-UPセミナー

○後 援 北海道教育委員会

○参加費 2000円

○定 員 40名程度

○講 師 堀裕嗣氏(札幌私立北白石中学校),高橋正一氏(稚内市立富磯小学校)、太田充紀氏(名寄市立智恵文小学校)、水戸ちひろ氏(洞爺町立とうや小学校)、平山雅一氏(砂川市立砂川中学校)

【日程】

9:20~ 受け付け開始

9:30~ 開会セレモニー 湯藤瑞代(北海道紋別養護学校)

9:40~11:10 講演、「言語活動を意識して授業をつくる、子ども集団をつくる」 講師 堀裕嗣氏

11:20~11:50  交流

11:50~13:00 昼食

① 授業づくりの視点から「授業提案+解説」

13:00~13:30言語活動を意識した国語の授業 平山雅一氏(解説 髙橋正一氏)

13:30~14:00言語活動を意識した社会の授業 太田充紀氏(解説 堀裕嗣氏)

14:00~14:30言語活動を意識した芸術教科の授業(解説 髙橋正一氏)

② 学級・学校づくりの視点から「ミニワーク提案」

14:40~15:00職員間、対保護者とのコミュニケーション・人間関係づくり 岩田和也氏(佐呂間町立佐呂間中学校)

15:00~15:20ミニネタで言語活動を意識した学級・学年集団づくり 髙橋正一氏

15:20~15:50  実践上の願いを実現し、課題意識を解決するヒント 司会 湯藤 助言者 登壇者

16:00~16:30 全体シェアリング
司会 岩田和也氏  助言者 堀裕嗣

【お申し込み方法】
以下の7点をお書きの上,葉書かFAXかEメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(ない場合には「なし」と明記)

湯藤 瑞代(ゆとう・みずよ)

〒094-0006 紋別市落石町1丁目22-3

FAX (0158)24-1153

E-mail:yutou@ruby.ocn.ne.jp

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第二世代に向けて

「教育技術の法則化運動」は〈物語消費〉論(大塚英志・角川文庫・1989年)の教育運動としての具現化であったというのが、ここ数年来の私の持論である。

今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての〈物〉ではなく、記号としての〈モノ〉を消費しているのだというボードリヤールの主張は、80年代末の日本を生きるぼくたちにとっては明らかに生活実感となっている。ぼくたちは目の前に存在する〈モノ〉が記号としてのみ存在し、それ以外の価値を持つことがありえないという事態に対し充分自覚的であり、むしろ〈モノ〉に使用価値を求めることの方が奇異な行動でさえあるという感覚を抱きつつある。

大塚はこうした時代認識から、かの「ビックリマンチョコレート」を時代のエポックとして捉え、自身の1980年代論の象徴的題材として論述する。1987年から88年にかけて子どもたちの間で爆発的に大流行し、市場を席巻した「ビックリマンチョコレート」は、それまでの菓子商品の常識を覆した。それは一言でいえば、チョコレートという商品本体とシールというおまけが逆転しているからである。それまでも、グリコのキャラメルをはじめとして、おまけつきの菓子商品は決して少なくはなかった。しかし、「ビックリマンチョコ」は二つの意味において、それまでのおまけ付き菓子商品と一線を画していた。

第一に、先にも述べたように、商品とおまけとの逆転である。グリコのキャラメルは、「一粒三百メートル」というキャッチコピーに象徴されるように、あくまでも商品本体はキャラメルであった。もしも商品本体がおまけならば、キャッチコピーはおまけに関するフレーズで構成されていたはずである。また、キョロちゃんでお馴染みの「チョコボール」は、「金のエンゼル」「銀のエンゼル」によって「おもちゃの缶詰」が当たるという、特典によって商品本体たるチョコレートを売ろうとする企業戦略であった。このように、それまでの菓子メーカーは、あくまでも「おまけ」を付属品の特典として考えていたのである。しかし、「ビックリマンチョコ」は異なる。商品本体は、あくまでもシールである。メーカーはあくまでシールで売り上げの拡大を図ったのである。たまたまこれを商品化したメーカーがお菓子メーカーであったために、お菓子の流通ルートに載せざるを得なかったに過ぎない。その結果、「ビックリマンチョコ」を購入した子どもたちは、意識としてはあくまでもシールを買っていたのであり、付属品のチョコレートは惜しげもなく捨てられるという逆転現象が起こったのである。

第二に、「ビックリマンシール」が既成のキャラクター商品によって付加価値を付けるのではなく、メーカーが開発したオリジナルのキャラクターであった、という点である。それまでにも、商品たるお菓子が捨てられ、おまけだけが必要とされた商品は確かにあった。例えば、「仮面ライダースナック」や「プロ野球スナック」である。あの「仮面ライダーカード」や「プロ野球カード」を付けたヒット商品である。しかし、これらは「仮面ライダー」にしても「プロ野球選手」にしても、あくまでも既成のキャラクターをパッケージにあしらい、付属品のおまけとしてカードをつけたものである。それがスナック菓子の付加価値として機能したに過ぎない。しかし、「ビックリマンシール」は違う。完全にメーカーの開発したオリジナルキャラクターなのである。それまでこうした例は、せいぜいサンリオのキティちゃんがあった程度であり、少なくとも男の子向けの商品としては皆無だったのである。つまり、「ビックリマンシール」は、原作なきキャラクターであったわけだ。

以上、二つの意味で、八○年代後半に大ヒットした「ビックリマンチョコレート」は、時代のエポックたるにふさわしい商品だったわけである。加えて、この商品が時代のエポックとして象徴的であるのは、次のような商品の構造を持つ点にある

①シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている。
②この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせてみると、漠然とした〈小さな物語〉─キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の─が見えてくる。
③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。
④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話的叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。
⑤消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする。

こうしたキャラクターシールは、大塚によれば全部で772枚あったそうである。子どもたちはコレクションが一枚増えていくごとに、これまでのコレクションによって見えていた〈大きな物語〉を適宜修正し、「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)に近づいていく。そしてまた一歩近づきたいがために、また新たに「ビックリマンチョコ」を幾つも買う。さらに購買意欲がそそられる。「ビックリマンチョコレート」には、まさにこうした構造があったのである。子どもたちがこぞって買っていたのは、チョコレートでもなければキャラクターシールでもない。実はキャラクター解説が少しずつ明らかにしていく〈大きな物語〉であった。こうした構造を大塚英志は、「物語消費論」と名付けたのである。  この「物語消費論」の構造は、アニメ業界で既に80年代前半に大ヒットを飛ばしていた。例えば、「北斗の拳」や「機動戦士ガンダム」である。

「北斗の拳」は、拳が敵を倒すたびに新たな敵(拳の使い手)を紹介され、その敵に挑むという構成を取り続ける。しかも、新たな強い敵になればなるほど、拳の知りたがっている謎(=世界観)により近づいていく、という構造をもっている。子ども達、いや、大人までもが「北斗の拳」に熱狂したのは、キャラクターの美しさや拳のヒロイズムばかりではない。謎だった世界観が少しずつ明らかになっていく、その構造こそが牽引力として機能していたのである。

一方の「機動戦士ガンダム」はもう少し複雑である。私は「機動戦士ガンダム」を見たことがないので、詳しいことがわからないのだが、大塚によれば、「ガンダム」の一話ないし一シリーズのアニメは、「ビックリマンチョコ」のシールに相当する、断片的な商品に過ぎない。

この一話ないしは一シリーズでは、アムロなりシャアなりのキャラクターを主人公とした表向きの物語が描かれている。一般の視聴者はこの〈表向きの物語〉のみを見ている。ところがアニメの作り手は、こうした一回性の物語のみを作っているわけではない。「ガンダム」なら主人公たちの生きている時代、場所、国家間の関係、歴史、生活風俗、登場人物それぞれの個人史、彼らの人間関係の秩序、あるいはロボットにしても、そのデザインなり機能をこの時代の科学力にてらしあわせた場合の整合性、といった一話分のエピソードの中では直接的に描かれない細かな〈設定〉が無数に用意されているのが常なのだ。この〈設定〉が多ければ多いほど、一話分のドラマは受け手にとってリアルなものとして感知される。そしてこれらの一つ一つの〈設定〉は全体として大きな秩序、統一体を作り上げていることが理想であり、〈設定〉が積分された一つの全体を〈世界観〉とアニメメーションの分野では呼びならわしている。

これが明らかに、「ビックリマンチョコ」と同じ構造をもっていることはおわかりだろう。「機動戦士ガンダム」は、当時の子ども達にとって、〈表向きの物語〉のみならず、その裏に隠されている「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を統合していこうとする意欲こそが、アニメーションに熱狂する牽引力となっていたのである。

しかし、これだけのことならば、さして特筆すべきことではない。近代日本に成立した「私小説」の伝統は、個人体験の一つ一つから「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を見ようとしたのであり、無数の「私小説」を読み続けた読者達は、新たな作品を読むことによって、また一つ〈世界観〉に近づくことができたという満足感を得ていたはずである。日本の近代文学はこの構造を基本としていたのであり、むしろ、「私小説」的手法に対抗して、ただ一つの〈世界観〉を捏造し、そのバリエーションとして作品を描き、読み続けた「団塊の世代」こそが特異な存在であったのだとも言える。

しかし、「ビックリマンチョコ」や「機動戦士ガンダム」は、この「私小説」的伝統とも一線を画す。読者のみなさんは想い出さないだろうか。「ビックリマンチョコ」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを、教室で脇目もふらずにデザインする男の子達の姿を。また、「機動戦士ガンダム」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを熱狂的にデザインし続ける、「おたく」と呼ばれた同級生達を。彼らは決して、単にオリジナルのキャラクターを創造していたわけではない。「ビックリマンシール」から、或いは「機動戦士ガンダム」から〈世界観〉を読み取った者達が、自らその〈世界観〉を構成する新たなキャラクターを模倣的に創造していたのだ。

それはこういうことだ。「ビックリマンシール」の772のキャラクターすべてを集めてしまった子ども達は、「ビックリマン」が提供する「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)をすべて把握してしまう。その〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達にとって、772枚に及ぶ個々の「ビックリマンシール」は、〈世界観〉と整合する772の小さな小さなドラマに過ぎなくなる。つまり、〈世界観〉を構成する極々小規模な要素に過ぎなくなり、「〈大きな物語〉の全体像」即ち〈世界観〉を追い求めて、次々とシールを購入していた時代と比べて、その価値は相対的に低くなってしまうわけだ。相対的に低くなるというよりは、もはやどん底に近づくといった方が当たっているかも知れない。

そうした場合、新たな〈世界観〉を提供する「ビックリマンシールⅡ」が出れば良いのだが、772ものキャラクターが、一つの〈世界観〉をもって、ネットワークを結んでいる商品を、メーカーもそう簡単にはつくることができない。そこで、この「ビックリマン」の〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達が始めたことが、その〈世界観〉に整合する773人目のキャラクターを自ら創造することだったのである。そして、その773人目のキャラクターが774人目のキャラクターを呼び、そこにキャラクター相互の関係(抗争だの裏切りだの)が生まれていく。また、その関係を解決すべきキャラクターとして775人目のキャォラクターが必要となる。そうすると、ここに新たな「小さな物語」が出来上がる。しかもそれは、「ビックリマンシール」が提供した「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)と密接な関係性を保持するとともに、完全な整合を得ている。こうなると、これらの模倣的創造品が「偽物」とは言い切れなくなりはしないか。あの子ども達や同級生達の熱狂ぶりは、まさに商品開発に参画しているという主体意識だったのである。

さて、ここで、かつての「教育技術の法則化運動」の運動方針を見てみよう。

1 この運動は、二十世紀教育技術・方法の集大成を目的とする。「集める」「検討する」「追試する」「修正する」「広める」(以上まとめて法則化とよぶ)ための諸活動を行う。
2 運動の基本理念は次の四つである。 
①教育技術はさまざまである。できるだけ多くの方法をとりあげる。(多様性の原則)
②完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原則)
③主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)
④多くの技術から、自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)
3 目的・理念に賛成する人は、事務局に連絡して支部・サークルを結成できる。支部・サークルは定期的な研究会などの活動を行う。
4 事務局は、支部・サークルに対して「定期的な情報」「企画の優先案内」「資料等の斡旋」等の活動をする。活動資金は、事務局の諸活動の中からつくり出す。当分の間、京浜教育サークルが事務局を担当する。
5 事務局と支部とは対等の関係にある。支部はその責任においていかなる企画を実施することもできる。また諸活動に対する賛成・反対・拒否・無視は何人も自由である。
6 この運動は次のとき解散する。
①目的を達成したとき。(日本教育技術・方法体系の完成、コンピュータ検索システムの完成、追加・修正システムの完成等)
②事務局を担当する支部・サークルがなくなったとき。
③21世紀になったとき。

注目していただきたいのは、この運動方針の1と2である。

「教育技術の法則化運動」に参加する教師は、まず運動内部の実践報告を「集める」。それを次々に「追試する」ことによって、自らの実践として位置づけていく。こうした中で、それぞれの実践報告同士の関連について思考し、場合によっては「修正する」。こうした営みを続けながら、全国で次々に開発されていく新たな実践報告の集積・追試・修正を繰り返していく。これら一つ一つが、強大なネットワークを形成していく。

おそらくこの営みの原動力となったのは、当初は〈大きな物語〉(=〈世界観〉)に到達したいとの欲望であり、自らが実践を開発するようになってからは、〈大きな物語〉(=〈世界観〉)と密接な関係性をもつとともに完全なる整合を示している、自分自身の〈小さな物語〉の創作だったのである。「法則化運動」に参加する教師たちのメンタリティは、独自のキャラクターデザインに熱狂するあの子ども達と同様のものである。

おそらく深澤久の「命の授業」も、そして「マル道」も、若き「法則化戦士」のこうしたメンタリティの中から生まれてきた。言わば、「法則化亜種」である。

私は批判的に言っているのではない。彼らよりもひと世代若い世代で構成され、私が代表を務める「教師力BRUSH-UPセミナー」も、同様のメンタリティにおいて、好むと好まざるとに関わらず「法則化亜種」として存在していることを自覚している。

しかし、「道徳改革集団」が、或いは我々「教師力BRUSH-UPセミナー」が、「法則化亜種」から脱却し、新たな教育理念と新たな運動理念のもと、新たな志をもって活動していこうと考えるならば、かつてグーグルがマイクロソフトを食い破って情報世界を席巻したような、ドラスティックなシステム転換が必要である。

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具体的…。

人間一般や男一般や女一般がいないように、子ども一般や教師一般もいない。そこから敷衍すると、政治家一般もいなければマスコミ一般もいない。

今回の件も鉢呂吉雄という具体的な政治家がいて、彼に具体的な行動と発言とがあって、その発言を不祥事だと認識した具体的な新聞記者がいるということ。ただし、前者は顔が見えて後者は顔が見えない。そこが怖いところ。ついでいえば、その記事の掲載を同じメンタリティで認めた具体的なデスクもいる。

ぼくはいつも一人の具体的な教師として具体的な発言と行動をしたいと考えているし、一人の具体的な教師として具体的に扱ってもらいたいと考えている。そういうあたりまえのことがあたりまえで亡くなったとき、言葉狩りや魔女狩りが始まる。

鉢呂吉雄も就任以前に福島に大きく貢献していたからといって今回の発言が許されるわけでもないし、今回の発言があったからといって就任以前の善行まで否定してもいけない。一人の人間に善行と配慮のなさが共存していたからといって何の不思議もありません。自分の胸に手を当てればわかることです。

ただし、ぼくは北海道に住んでいて、鉢呂吉雄という政治家を古くから知っていて親近感を抱いている、具体的な有権者の一人であるということを自戒しなければなりません。

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教育の達人セミナーin仙台

ぼくの登壇する研究会ではありませんが、多賀さんや西手のおっちゃんが登壇するセミナーの仙台イベントのお知らせです。こんな機会は滅多にありませんから、東北の方々は足を運ぶことをお勧めします。札幌にも来てくれればいいのに。

教育の達人セミナーin仙台

関西を中心に、年に2、3回、「教育の達人セミナー」と題して、先生方に元気と教育の手法を伝えてきました。近畿のみならず、北海道から中国、四国、関東、北陸、東北に至るまで、多数の参加を頂いてきました。

 初めての他府県開催となります。今回の震災に際し,仙台の先生方に元気と技術を伝えたいという思いから、仙台で開催することとなりました。国語教育を中心として、学級教育・授業について、実践を基に語ります。神戸発・仙台へ「学校における心のケアについて~われわれが今伝えられること」を行います。もちろん、東北以外の地域の方も、参加くださってかまいません。

 一日を、純粋に教育についてだけ考える時間にしたいと思っています。

日 時  2011年11月 26日(土)9時45分~16時30分 [9時15分開場]

場 所  仙台市教育センター(仙台市宮城野区鶴ヶ谷北1-19-1)(TEL)022-251-7441

※セミナー会場は当日玄関に標示いたします。

交 通  仙台市営バス オープン病院教育センター前駅下車徒歩2分

時間帯   

10時00分~10時05分 オリエンテーション

10時05分~11時00分 八巻寛治 講座『震災後の心のケア~ストレスマネジメント~』

11時10分~12時30分 多賀一郎 講座『国語教室は心の教室』

        (昼休み休憩) 

13時30分~14時30分  東田 充司 講座『魅力的なコミュニケーション力の育成』

14時40分~15時50分  西手 湧亮 講座『学級を作るための人間関係作り』 

15時55分~16時30分 多賀VS八巻 パネルトークコーディネーター 森本幸一

「学校における心のケアについて」

費 用  参加費はいただきません。 事前に下記の通りお申し込下さい。

◇上記の内容で、EメールかFAXにてお申し込み下さい。

〔事務局〕〒651-1321 神戸市北区有野台1-1-9 多賀 一郎 taga169@sage.ocn.ne.jp  tel/fax 078-981-1218

◇お寄せ頂きました個人情報につきましては、法令に従い安全かつ適正に管理し、受講の登録手続及びご本人への連絡、今後開催するセミナー等のご案内にのみ使用させて頂きます。

参 加  定員40名  教員や教員を目指す方々、広く教育に関心をお持ちの皆様の参加をお待ちします。

◆ ゲスト講師 八巻寛治  仙台市立沖野小学校 教諭  上級教育カウンセラー ガイダンスカウンセラー

教育の達人セミナーIN仙台 講座案内

■ 西手 湧亮  講座  『学級を作るための人間関係作り』

 新学習指導要領の特活の目標の中に「集団の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度の育成が盛り込まれました。人間関係作りは、学級作りには必要不可欠な要素です。子どもと子どもの関係、教師と子どもの関係をもう一度とらえ直し、皆さんといっしょに考えてみたいと思います。

■ 東田 充司 講座  『魅力的なコミュニケーション力の育成』

 新指導要領では、実に数多くの“聞くこと・話すこと”に関する指導事項が示されました。舞台演劇の手法

を生かした指導事例を元に、新指導要領に対応した魅力的なコミュニケーション力の育成の実際を紹介します。

■ 八巻 寛治 講座  『震災後の心のケア~ストレスマネジメント~』

 今後心配される“子供たちの心のケア”について,どのような取組が考えられるかを,ストレスマネジメントや不安や悩みの解消の視点から,手軽に使えて効果的なエクササイズとして紹介します。

■ 多賀 一郎 講座  『国語教室は心の教室』

 国語教室こそが子どもたちの心を支え、生きる力をつけられると信じて、実践してきました。楽しくて、感動のある教室で子どもたちを育てていくには、どのような手だてが必要なのでしょうか。その極意を少しでも伝えられたらと思います。

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浮き上がって見えてくるのである

窓から外を眺めると、数十人の人たちがしたたり落ちる汗をふきながら働いている。新校舎への立て替え作業である。かつてグラウンドだった広い空き地に、数十台の車が停められ、大型の重機が運び込まれ、そこかしこにな大きく深い穴が空き、それでいて田畑よりも美しく区画されている。

工事は隣の小学校の運動会を終えた6月から始まったのだが、やっと建物の基礎を造り出したところである。これまでの3ヶ月間は穴を掘っては埋め、穴を掘っては埋めで、素人には何をやっているのかよくわからなかった。それが基礎を造り始めてようやく何をやろうとしているのかがぼくらにも見えてくるようになってきている。

科学の力だ。

美しく区画されたその基礎の美しさに、ぼくはそんなことを感じていた。こんなにも美しく、そしておそらくは強固につくられているであろうこの新校舎の基礎ができるまで、どれだけの理論と技術的なシミュレーションの成果が活かされているのか、ぼくには想像もつかない。

オレンジ色のショベルカーが5台、土をすくい上げてはトラックの荷台へと運ぶ。荷台がいっぱいになるとトラックが発車。現校舎から150メートルほど向こうで、その作業が一日中行われている。授業の合間の10分休みごとに窓の外を眺めるのだが、常にその作業だけは行われていた。

空き時間、ぼくはあまりにおもしろくてその風景を眺めていた。3校時である。いまショベルカーは5台のうち3台だけが動いている。

ふとある事に気がついた。

3台のうちの2台の動きと、もう1台の動きとか微妙に異なるのだ。

2台のショベルカーのアームの動きは、見ているとそれが重機であることを忘れさせてしまうくらいになめらかに曲線を描きながら動いている。トラックへと運ぶ動きもフラミンゴの首と見紛うようななめらかさである。

しかし残りの1台は、それが重機であることをまじまじと感じさせる。そのアームが2本の太い鉄の棒であり、関節は一つしかないのだと。一回一回の作業も他の2台に比して明らかに遅い。新米なのか、ただ下手なのか、それとも他の2台の作業員に比べて運動能力が低いのか、それはわからない。

ただ明らかなのは2台のショベルカーを操作している作業員は間違いなく感覚でやっている。頭で次はこうだとか対象をよく見てとか、そんなことを考えながらやっているのではない。ちょうどぼくらが車を運転するときに、助手席の向こう側に見える壁との距離を感覚で正確に感じ取るように。しかし、運転に慣れるまではその距離感覚がわからず、ガードレールや壁に車体がぶつかりそうな気がしてならなかった。駐車場に車を停めようとするときにいちいち考えて停めなければならなかった。だからいちいち確かめなければならなかった。おそらく動きの遅いショベルカーもそういう状態なのだ。

そんなことを考えながら工事現場全体を眺めると、そのショベルカー以外の動きは、重機も、作業をする人の動きも、3人で向かい合って打ち合わせをしている人たちさえ、みな動きがなめらかであることに気づかされる。そうこうするうちに、工事現場全体を見ていてもそのショベルカーが気になってきた。特に見ようとしなくても、その、アームに潤滑油でもぬってあげたくなるようなショベルカーだけが浮き上がって見えてくるのである。

このショベルカーを運転しているのはどんな人だろうか。会って話をしてみたい。そういう衝動にかられた。

4校時、始めたばかりのぼくの新しい授業スタイルにまだ適応していない、数人の生徒たちの戸惑いが浮き上がって見えてきた。そんな生徒たちが愛おしく思えてきた。模造紙に向かって、右手に握られたプロッキーがなぜかカクカクときごちなく動くのだ。ほとんどの生徒たちの利き腕はなめらかな曲線を描いている。教室全体を見ようとしているのに、その、利き腕に潤滑油でもぬってあげたくなるような数人の生徒たちだけが浮き上がって見えてくるのである。

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人間テトリスの想像力

男子生徒15人ほどが、休み時間に「人間テトリス」なるものに興じていた。廊下の突き当たりに一人一人順番に張り付いていって、隙間をなくして重なっていくのだそうだ。そのために、だれもが変な格好をしながら折り重なっていく。なんともくだらないのだが、なんとも難しく、なんとも楽しい遊びである。

他の人間と隙間なくくっつくということは、自分の視点からのみ見ていたのでは認識できない。天井から視点をもたないと認識できない。くだらないといえばくだらないし、レベルが低いと言えばレベルが低いけれど、ある種の〈メタ認知〉の訓練にもなりそうだ。少なくとも〈空間認識〉の訓練にはなりそうである。

テトリスが大流行したのは二十数年前のこと、いや、もう三十年近く前になるのかもしれない。ぼくは大学生だったような気がする。最後のコサックダンスが見たくて、毎日毎日、何度も何度も、寝る間も惜しんでやったのを覚えている。まわりの友人たちも教授も助教授もみんな持っていて、テトリス談義に花の咲くコンパが何度かあった。ぼくの師匠などは、原稿を書いていると原稿用紙がテトリスに見えてくる、なんて言っていたっけ。

口を開けばエロ話ばかりしている友人が、テトリスで一列だけ残して、そこにL字型のテトリスを入れて消すと興奮する、といっていた。「あれは性行為のメタファだ」と。二十歳のぼくはヤツの想像力に感心したものだが、いま考えるとこれは想像力などという代物ではない。あまりにも日常的に考えているものだから、すべてがそう見えたというだけである。そういえば、テトリス以外のことにも同じようなことを言っていた。生徒たちの「人間テトリス」のほうがまだ想像力としてはマシかもしれない。

母親も妹もずいぶんとはまっていた。12時くらいまではぼくらがやっているので、母はぼくらが寝てから3時くらいまでやっていた。朝は目を腫らして何面までクリアしたと喜んでいたのを昨日のことのように想い出すことができる。専業主婦というのは夜更かししても昼間寝ればいいのだな、気楽な立場だ、と当時は感じたものだ。

昨日、父が倒れた。軽い脳梗塞とのこと。ろれつがまわらなくなって、足もふらついて、救急車を呼んだらしい。仕事を終えて病院まで行ってみると、ICUには入っているものの、割と元気そうだった。意識のあるうちに救急車を呼んだので大事には至らなかったらしい。少しずつリハビリさえ開始するという。イメージとはずいぶん違うものである。母はもちろん、妹も見舞いに来ていた。

一時は今日からの新潟行きをキャンセルしなければとも思ったくらいだったが、なんとか行けることになった。お世話になっている人たちに迷惑をおかけしなくて済んで良かった。

久し振りに家族みんなでテトリスに興じたい、と感じた。あの、ファミコンの、シンプルな、初代のテトリスである。10年前に亡くなった師匠も、来世でテトリスに興じているかもしれない。

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