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ヒドゥン・カリキュラム

数年前、前々任校に勤めていた頃の話であるから、10年近く前なのかもしれない。年度末に校内研修会が開かれた。そこでは、一年間の研究の成果と課題とが、実践の具体に即して各教科から発表される。司会者からは各教科三分で、との指示がなされた。各教科が三分、九教科で二十七分。多少延びても三十分という計算である。

ところが、この発表が実際には四五分かかることになる。結果、その後に予定されていた次年度計画の提案・質疑・討議の時間が十五分しかなくなってしまったのである。今年度の研究は三年計画の三年目。つまり、次年度計画は来年度だけの計画ではなく、今後三年間の計画が提案される、かなり重要な計画の第一歩になるはずであった。しかし、次年度計画の討議は誰もが時間を気にしながら発言せざるを得なくなり、どこか消化不良のまま終了することになる。結局、次年度計画は、必要事項が共通理解されることもなく、また、課題が明らかにされることもなく、「再提案」とまとめられて先送りされることになったのである。

このような事例は、どこの学校にも見られる光景である。さして珍しいことではない。読者の皆さんもおそらく、こうした事例を一度や二度は経験しているに違いない。しかしこの事例には、実は小さくない問題が内包されている。一般にはあまり意識されていないが、ひどく重要な問題が隠されている。それを明らかにしていくために、各教科の発表の場面をもう少し詳しく検討してみたい。

まず司会者から各教科三分でという指示があった。続いて、授業の具体に即して発表して欲しいとの要望があり、普段は国・社・数・理・音・美・体・技・英と進むところを、研究部長が社会科の発表者をかねているため、最初に社会科の発表を行う旨が示された。つまり、社会科の発表をモデルとして、それに倣って各教科の発表をして欲しい、ということである。こうして各教科の発表が始まった。 まず社会科の発表である。研究部長氏は五十代前半。授業の具体に即して、授業の方法や生徒のレポート作品等を示しながら、具体的に発表した。これが少々伸びて五分ほどかかった。次に国語。発表者は私である。社会科が多少伸びたので、私は時間調整を図ろうと二分ほどで発表を終えた。続いて数学が三分ちょうど。理科が八分。音楽・美術が各三分。保健体育が四分。技術・家庭の若手教師が自分の実践を熱く語り始め十分。最後に英語の若手教師がこれまた自分の実践を熱く語り始めて、七分の発表となった。これで、合計四五分となったわけである。
 さて、読者の皆さんは、発表時間を十八分も延ばしてしまった責任が誰にあると思われるだろうか。

まず、「発表時間」を検討してみよう。発表に最も時間がかかったのは技術・家庭科の若手教師の十分である。次に理科教師の八分。そして、英語の若手教師の七分。この三人で本来九分のところに実に二十五分かかっている。この罪は確かに軽くない。社会科教師の五分、保健体育科教師の四分は、まだ許される範疇かもしれない。

次に、時間が延びた最大の責任は司会者にある、という考え方がある。職員会議、或いは研究協議において、最後に司会者が「司会の不適際で時間が延びてしまいました。不慣れなもので、お許しください」と言う場面が日常よく見られる。この各教科の発表の場面でも、司会者が時間の長くなった発表者に「手短にお願いします」とか「時間をオーバーしています」とか言えば良かったのではないか。

しかし、これら二つの責任論は、もう一つの罪に比べればはるかに小さい。最も罪が大きいのは、実は発表のモデルを示すために最初に発表をした社会科教師、つまり研究部長なのである。
 第一に、この社会科教師が研究部長である、という立場的な責任がある。研究部長が時間を延ばしたのだから、という空気が形成されたとしてもおかしくない。

第二に、研究部長の社会科の発表をモデルとして機能させたにもかかわらず、それがモデルとしてふさわしくなかったという点である。この社会科教師は、確かに授業の具体に即した魅力的な発表をした。授業の方法も具体的に提示したし、生徒のレポート作品を紹介しもした。五分という時間は、発表を聞いている者にとって、決して長い時間とは感じられなかった。一つの実践発表としては、有効なものであった。しかし、魅力的な内容を時間を延長して発表するという行為は、その場にいる教職員、或いはこれから発表を控えている各教科の発表者にとって、「今日の発表は、時間よりも内容重視である」というメッセージとして機能したのではなかったか。つまり、「内容さえ良ければ多少の発表時間の延長は許容される」という、暗黙の空気を形成してしまったのである。時間を大幅に延長して発表した理科や技術・家庭、英語の教師たちは、この空気に従って発表したに過ぎない。特に、技術・家庭科と英語科の若手教師が、自らの実践(への思い)を熱く語り始めたのは明らかに研究部長氏の発表の影響である。「時間」という場のフレームを越境させてしまうほど、(若さ故の)意欲・情熱を喚起してしまったのである。

もちろん、研究部長にはこうした意識はなかった。研究部長の意図は、おそらく各教科が抽象論の発表に終始しないように、授業の具体に即して発表して欲しい、という一点にあったはずである。そしてそれは、一定の効果を示した。技術・家庭科や英語の若手教師をはじめとして、すべての教科に授業の具体に即した、実践的な発表をしようという意識を芽生えさせることに成功した。

しかし、本人の意図しないところで、この研究部長氏の発表モデルは別の意味をもってしまった。つまり、「内容さえ良ければ多少の発表時間の延長は許容される」というメッセージである。人間がある意図をもって言葉を発したり行動をしたりという場合、このように本人の意図から離れて意味をもってしまうことがある。本人が意図も意識もしていない、別の機能をもってしまう場合がある。

私がここで言いたいのは、この事例の研究部長氏のように、本人の意図とその機能とがズレてしまうということは、教室でもよくあることなのだという警鐘である。

教師は一般に、自分が生徒たちのためを思って指導したと考える。また、生徒によかれと思って言葉を発する。そしてそれらの指導が結果としてうまくいかなかったとき、なぜうまくいかなかったのかと悩み、自分には力量がないのだと悩む。しかし違うのだ。指導が失敗するとき、多くの場合、教師が意図も意識もしていないような別の機能が働いているのである。教師の指導言や指導行動が、その意図どおりに働いていないのである。教師が思いも考えもしなかった別の方向に進んでいるのである。

こうした、教師が意図も意識もしないままに、結果的に教えてしまっている内容を、教育用語で「ヒドゥン・カリキュラム」(hidden curriculum)と言う。

実は、この研究部長氏は大変な勉強家で非常に緻密な教材研究をしているにもかかわらず、授業や生徒指導がうまく機能しないことが多かった。もちろん、そうした生徒たちの退屈そうな表情、納得していない表情は本人にも伝わる。うまくいかないことが本人にもわかるので、「自分はまだまだだ。まだ勉強が足りない」と、更に本を読み、教材研究を緻密化していく。しかし、それは実は、氏の勉強不足が原因なのではないのだ。授業中に時間を守らなかったり、熱心に語ることが別のメッセージを発していたりと、様々な「ヒドゥン・カリキュラム」が本人の意識しないところで様々に機能してしまっているのである。そのズレに生徒たちが辟易しているのである。氏がいくら教材研究を重ねても、その現状は打開できないのだ。

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