アブストラクト
私は中学校の国語教師である。
このことは、私の妻も、両親も、同僚もサークル仲間も、そして本誌の読者も、誰もが疑問を抱かない私の特徴である。誰もが納得する。そう、堀裕嗣は「中学校の国語教師である」と。
しかし、堀は「力のある実践家である」となると評価が分かれる。
私のサークル仲間やブログの読者ならそれほどの疑問を抱かないかもしれない。だが、同僚は、そういえば先日の飲み会で新卒の女の子に日本酒を飲ませてつぶしていたなとか、そういえば前に仕事を忘れた旅行業者さんを怒鳴りつけていたなとか、いつも空き時間に職員室で馬鹿話をしていて、ほとんど仕事をしているのを見たことがないなとか、一応バドミントン部の顧問だが、部活の時間にはいつも自分がバドミントンをして遊んでいて、指導をしているのを見たことがないなとか、そんな私の日常と「力のある実践家」という言葉との間にある齟齬を的確に指摘するはずである。
堀は太っている。堀は髭を蓄えている。堀は煙草を一日に二箱も吸う。堀はコーヒーを一日に十五杯も飲む。堀は辛口の日本酒が好きである。堀はロッテと中日を贔屓にしている。堀は岩崎宏美と太田裕美と渡辺真知子のファンである。堀はカラオケに行くと、世良公則ばかり歌う。堀はドラムを叩ける。堀は職体野球では一塁手で四番バッターである。堀は片付けが苦手である。堀は数学が苦手である。堀は蜘蛛が嫌いである。堀は……もういいだろう。
私という人間は、こういった種種の特徴の総合として存在している。いや、私が種々の特徴の総合体として存在しているのではなく、私という曖昧模糊とした存在がいて、その存在が種々の特徴を備えているのである。こう考えてくると、例えば、「堀は中学校の国語教師である」という場合、確かに誰もがそのテーゼに納得はするのだが、そのテーゼには堀のその他の特徴が一切加味されていないということに気がつくはずだ。堀は確かに誰から見ても「中学校の国語教師」なのだが、堀は「中学校の国語教師」としてのみ存在しているわけではない。
「アブストラクト」(abstract)という英単語がある。かつて、大学入試の長文問題でよく目にしたはずなので、記憶に残っている読者も多いことと思う。「抽象」と訳されることが多い。
ところが、頻度は低いのだが、この単語が「捨象」と訳されることがあった。「抽象」とは抽出することであり、その意味は簡単に言えば〈拾うこと〉である。「捨象」とは読んで字のごとく〈捨てること〉である。なぜ、こんな正反対の意味が同じ単語の意味として成立するのだろうか。高校時代、受験勉強をしていたときに、このことに素朴な疑問を感じた読者も多いのではないだろうか。
しかし、いま考えると、この原理は実に簡単である。種々の特徴をもつ堀裕嗣という存在から「中学校の国語教師」という特徴を〈抽象〉する。すると、同時に、堀という人間のもつ太っていることや髭を蓄えていることを初めとして、コーヒーや煙草や酒、だらしなさ、芸能人やスポーツに対する嗜好といった特徴が、すべて〈捨象〉されるのである。つまり、堀という人間を「職業的な特徴」によって〈抽象〉したことによって、「身体的特徴」や「性格的特徴」が〈捨象〉されるわけである。実は、ある「もの・こと」を〈抽象〉的に捉えるということは、そのある「もの・こと」における他の属性を〈捨象〉することを意味する。〈抽象〉と〈捨象〉は表裏一体、実は、同時にしか現象し得ない、同じことなのである。これが「アブストラクト」だったのだ。
しかし、問題は、一般に、ある「もの・こと」を〈抽象〉として捉えたときに、それと同時に〈捨象〉してしまっているものに、私たちが気づいていないということである。このことが様々な場面でおかしなことを引き起こしている。人間を「独善」に陥らせている。
例えば、自分の学級において、もっとも「いい子」と思われる子どもを思い浮かべてみるといい。明るくて、素直で、友達にも優しく、人のいやがる仕事でも率先して引き受ける。先生の言うことを一生懸命に聞いて、勉強にも熱心に取り組む。そんな子がどの学級にも一人か二人いるはずだ。そしてその子の担任であるあなたは、その子を「いい子」と捉えている。しかし、その子をよく観察してみると、その子の家庭の生活レベルは高く、貧しい家の子の前で何の悪気もなく昨夜の外食の様子を話し、貧しい家の子を傷つけていることはないか。正義感が強く、他の子のちょっとした言葉遣いに軽蔑の目を向けていることはないか。図工や美術の時間に作業の遅い子を手伝ってしまって、本人の成長を阻害してしまっているなどということはないか。実はその子が学級に与えている悪影響は、無視できないほど大きいのではないか。担任としては、良い影響ばかりが目に入って、散在する悪影響を見落としてしまってはいないか。
例えば、学級の子ども達の保護者の中で、もっとも「口うるさい保護者」を思い浮かべてみるといい。学級懇談会では、みんなの前で担任の小さな落ち度を指摘する。何かにつけて要求ばかりする。他の保護者からも、どうやら避けられているようだ。期末懇談でその保護者と会わねばならない日は、なんとなく朝から憂鬱である。そしてその保護者の子どもの担任であるあなたは、その保護者を「口うるさい保護者」と捉えている。しかし、よく考えてみると、手紙や懇談で知らされた学級の問題点は、自分では気がつかなかったものである。確かにその保護者はクレームをつけてきたが、その子が家でそんなふうに学級のことを言っているなどとは、まったく想定すらしていなかった。自分を信用してくれ、うまく人間関係を築けている保護者が他に何人もいるのだが、実はその保護者たちは「口うるさい保護者」に先生がいじめられていて可哀想だと思って、自分を気遣ってくれている。つまり、同情がその保護者達の目を曇らせ、必要以上にあなたに対して共感的(同情的)な視線を向けさせている。そんなことはないだろうか。
例えば、あなたが最も頻繁に使う授業技術を思い浮かべてみるといい。本で読んで学んだ、セミナーで直接に講師から教えを受けて学んだ、その授業技術を導入してから、なんとなく授業が流れるようになった。本誌の読者なら、そんな授業技術を一つや二つはもっているだろう。そしてあなたは、その授業技術を「優れた授業技術」と捉えている。しかし、よく考えてみると、教材との関わりでその授業技術を使うことがふさわしくないという場面はないか。ごんが兵十に撃たれて悲劇的な結末を迎える授業なのに、「さあ、音読します。全員起立!」とやることは、その授業にとって本当に効果的なのか。「よし、じゃあ、その理由を『~から』の形で一文でノートに書きなさい」と指示したとき、理由を二つ考えていて、どっちを書こうか困ってしまっている子どもがいる可能性に配慮しているか。その授業技術を提案している先達本人がもしもあなたの授業を見たら、あなたのことを「授業技術に使われている」と評価してしまうような要素を、あなたの授業はもってはいないか。
あなたが日常的に「良い教育」として意識的に実践していることが、あなたに他の可能性を〈捨象〉させてはいないだろうか。学級の子どもに「いい子」「明るい子」「素直な子」「元気な子」というラベルを貼っていることによって、かえってその子のネガティヴな部分を〈捨象〉してしまってはいないか。
自分が世界を「アブストラクト」して認識していることを意識するだけで、いろいろなことが見えてくる。大袈裟に言うなら、「世界」が変わるほどの大転換が起こる。
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