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問題は同じ〈質〉の幸福感を感じさせること、になる

食べ物になんて何のこだわりももたずに生きてきたぼくのような人間でも、四十を過ぎるとそれなりの人と食事をともにする機会が出てくる。出てくるというだけで頻繁にあるわけではないのだが、年に何度かあるその経験がけっこう重くのしかかってくる。要するに困ったことになるのだ。

別に緊張するとか、しきたりがどうとか、そういうことではない。ごくごく簡単に言えば、うまい料理とかうまい酒とかの味を覚えてしまうのだ。いや、実のところをいえば「覚える」というところまで行くわけではない。「あれうまかったなあ……」という印象だけが頭にこびりついて離れなくなる、といった方がいいかもしれない。

ぼくのような素人でも瞬時に理解してしまうほどに、うまいものというのは圧倒的にうまいのである。食べ物の味になどほとんどこだわりをもったことのないぼくのような者でも、ああ、もう一度あれを食べたいな……などと思ってしまうのだ。でももう一度冷静になって食べてみると、その圧倒的なうまさに、自分はこの味を覚えてはいけないなと、自戒を感じてしまうのである。このアンビバレンツとの闘いはけっこうきつい。

このアンビバレンツと闘わずにそうとは意識しないままに敗れてしまうと、もっともっと多くのものを失うことになる。そんな予感がする。例えば自尊心とか、誠実さとか、小説を楽しむこととか、脳味噌を絞りに絞って出てきたアイティアに興奮することとか、犬をだっこして眠りに就くときの幸福感とか、そういうものだ。当たり前のようにうまいものとか当たり前のように綺麗なものとかを選んでしまうと、これまで当たり前だった喜怒哀楽を失ってしまうに違いない。

きっと人生の途中から覚えるのがよくないのだ。生まれたときから知っていたなら、それはそれでちゃんと些細な幸福も得られるに違いない。おそらく家柄とか格差とかの本質とはそういうものなのだろう。ぼくはぼくのもって生まれた家柄と格に見合った生活をし、見合った幸福を感じるほうが良いのだ。そういう幸福の〈質〉についてはおそらく家柄や格によっては変わらないものなのだ。

この論理を学校教育に敷衍すれば、地域による格差とか学校による格差とかはそれほど大きなことではないように思えてくる。問題は同じ〈質〉の幸福感を感じさせること、になる。

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