ヤマアラシ・ジレンマ
ご存知の読者も多いと思うが、心理学に「ヤマアラシ・ジレンマ」という概念がある。
ヤマアラシは外敵から身を守るために、多くのトゲを身にまとっている。ヤマアラシのカップルがある寒い日に二匹で凍えている。互いの躰を寄せ合って暖をとりたいと思うのだが、接近しすぎるとお互いの躰のトゲによって相手の躰を突き刺してしまう。お互いに傷だらけである。すり寄っては離れ、離れてはすり寄りしながら、それを繰り返すうちに、ヤマアラシのカップルはお互いに暖め合える、ちょうど良い距離を見つける。
ショーペンハウアーの寓話をアメリカの精神分析医ベラックが、現代人の人間関係のジレンマに転用して警告している。現代人はヤマアラシのように、人間関係の適切な距離を見つけようとするが、その距離感覚をなかなかつかめずに様々なトラブルを起こしてしまう、と。
顕著な事例を二つ挙げるので、皆さんもご自身の経験を思い起こしていただきたい。
【事例1】
年度当初、転勤者の中に、妙に自分の能力に自信たっぷりの人物が入ってきた。職員会議をはじめ、すべての校内会議において、前任校と比較して「この学校のやり方はおかしい」と何かにつけて文句をつける。確かに一理はあるのだが、もともとこの学校でそのシステムに慣れ親しんでいる自分から見ると、正直、そうまでこだわらなくても……と思うこともしばしば。ひと月もたたないうちに、その新任者が職員室で浮き始める。「ああ、○○さん浮いてきたな……」という空気が読めたところで、職員室でも信頼を集めている教務主任とか、長くその学校に勤めている職員が、「うちはかくかくしかじかでこういうシステムだから」と諭し始める。或いは最初から、この学校は自分が仕切っていると思っている教務主任や古くからいる職員が、「うちはこういうシステムなんだ」と、喧嘩を始める場合もある。どちらにしても、新任者には分が悪い。少なくとも、昨年はこのシステムでやってきたのである。もともといる職員にとってみれば、慣れたシステムの方が対しやすい。積極的に会議で発言まではしないけれども、なんとなく、現状維持でいいじゃん……という空気が支配的になっていく。しかし、三ヶ月がたち、半年がたつうちに、新任者もなんとなくうまく立ち回れるようになり、職員室の雰囲気にも落ち着きが戻ってくる。
まあ、教員を五年やれば二回くらいは、十年やれば五回くらいは経験する事態であろう(笑)。
【事例2】
結婚した当初、ほんの些細なことが大きなトラブルへと発展することがある。電子レンジを「チン」と呼ぶ家庭で育った夫、そして「レンジ」と呼ぶ家庭で育った妻。夫がちょっとだけ冷めかかった料理を妻に渡して、何気なく「ちょっとこれチンして」と頼む。三十年近くの長きにわたって、そういう場合には「ちょっとこれレンジにかけて」と言う家庭で育った妻は、夫の物言いに対して幼児的なかわいらしさを感じ、少しだけ嘲笑の混じった薄笑いを浮かべる。しかし、夫にはそれが許せない。自分は馬鹿にされた。しかも、自分にとっては普通の、そして当然の言葉遣いが嘲笑を受け蔑(さげす)まれた。いたくプライドが傷ついてしまう。「チンして」と言うか「レンジにかけて」と言うかというほんの些細な違いが、○○家と××家のプライドをかけた諍(いさか)いに発展する。端(はた)から見れば、あまりにも小さな、かつあまりにも馬鹿馬鹿しい問題が、本人達も気づかぬうちに、お互いの両親兄弟、一族のプライドをかけた深刻な問題へと発展していく。これはお互いに自分が育った環境が異なるというコンテクストのズレによる些細な指摘が、人格を否定されたかのごとき重みをもって感じられることによって生じた、馬鹿馬鹿しくも深刻な問題である。
しかし、こうした諍いは、結婚生活が一年たち、二年たちするうちに、次第に減っていくものである。三年もたてばほとんどなくなる。お互いに距離感覚がわかってくるからである。夫婦関係が安定してくると言ってもよい。
まあ、この時期になると、こういう小さなコンテクストの違いによる諍いではなく、本格的なトラブルが生じてくる夫婦も、決して少なくないけれど……(笑)。
ある程度の教職経験があり、かつ結婚もしているという読者の皆さんは、事例1・2ともに思い当たるところがあり、ニヤリとほくそ笑むことができただろうと思う。しかし私は、この二つの事例を、そんな「世間話」レベルのエピソードとして並べたわけではない。
あなたの学級においても、事例1はいわゆる「濃いキャラクター」の転入生が入ってきた場合に、事例2は学級編成後の小グループが付いたり離れたりしている場合に、間違いなく同じ質のことが起こっているはずなのだ。
発達心理学に「前思春期」という概念がある。十歳くらいから十二、三歳までの間、つまり、小学校高学年から中学一、二年くらいの間の時期を指している。この時期の子ども達が人間関係をつくる上での特徴は、「擬似恋愛」或いは「恋愛予行演習」としての、一種の同性愛的傾向を示すところにある。つまり、こういうことだ。
いわゆる「思春期」には、異性を異性として意識し、異性との恋愛関係成就のために、相手との一体化を希求し始める。このこと事態はごく一般的なことなので、誰しも理解できるだろう。しかし、それ以前、「前思春期」と呼ばれる一時期、まだ異性と本格的に付き合うと考える以前の一時期に、同性の友人と精神的な同性愛のような感覚に至って、ものすごく深い友情や同族意識、同志意識によって固く結びつくことを求める時期があるのだ。小学校高学年から中学校の前半において、女子の間で小グループメンバーの盛んな入れ替えが行われたり、小グループ同士のかなり深刻な対立が生じたりする理由の一つとして、この「前思春期」の発達段階的な特徴が挙げられる。「そういえば……」と、読者の皆さんにも思い当たるところがあるはずである。大人になった現在もなお、幼なじみとして絶大な信用を与え合っている友人の顔を思い浮かべて欲しい。小学校高学年から中学校にかけて、あなたとその友人との間にどんな人間関係が生じていたかを。
実はこの時期が、その後の人間関係の結び方、或いはその後の恋愛関係の結び方に大きな影響を与えるという。つまり、この時期の在り方が無意識のうちに、その後、他者と付き合っていく上でのスキルを学ぶ場、つまり、「作法」を学ぶ場になっているというのである。
小学校の高学年、或いは中学校一、二年生の特徴として、学級編成後の一、二ヶ月は、学級全体が非常に良好な人間関係に見えるのに、ある時期から同性同士において(相対的には女子の方が活発に見えるのだが)急に小さな人間関係トラブルが頻発するようになる。しかし、学級という共同体が一年数ヶ月を経た時期から、人間関係が固定化するとともに、小さなトラブルは影を潜め、安定した人間関係が形成される。実はこれは、「前思春期」的な特徴をもつ子ども達が、同性他者に対するそれぞれの深い思い入れから関係を結び合おうとし、その距離感覚の違いからヤマアラシ・ジレンマを経験し続けた末に、学級の大多数の間に適切な距離が形成されるまでの期間なのである。この時期が過ぎると、人間関係は固定化し、てこでも動かなくなる。
そこで学んだ人間関係の作法は、大人になっても一つの規範として無意識的に発揮される。職員室での新任者の動きや、新婚当初に見られる小さなトラブルでさえ、実は個々の「作法」の違いによって起こっているのである。
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