素行評価の原理
1 素行評価の原理
【視点1】自分は何を見ているか。
【視点2】自分はどこを見ているか。
【視点3】自分はそれを、なぜ見ているか。
ためしにこの三つの視点を、教師としてのありふれた日常にインストールしてみよう。
授業中、ある生徒を指名する。指名された生徒が発言する。すぐに生徒が反応してスムーズに進むこともあれば、生徒がうつむいてしまい沈黙のままに時間が過ぎることもある。教師ならだれしも経験したことのある、ごくありふれた教室風景である。
さて、教師としてのあなたは、このありふれた日常の中で何を見ているだろうか。
合唱コンクールが近づいてきた。疲れてきているせいか、ソプラノの高音が下がり気味である。他のパートを座らせてソプラノの高音を調整する。そうだ、その音だ、頑張るんだ……、心の中でそう声をかける。
このとき、あなたは視野には何が映っているだろうか。
授業で発言している生徒は、自分が指名され頑張って発言している。なんとか自分の考えていることをわかりやすく説明しようと、思考をフル回転させている。周りの生徒たちもその生徒に注目している。そういう生徒の姿を見ることは教師にとって一つの喜びであり、心楽しい瞬間でもある。
しかし、ここで考えてみよう。数十人の学級の生徒たちのうち、発言している生徒はたった一人である。もしも教師がこのとき、発言している生徒だけに注目してしまっているとしたら、それはずいぶんともったいない話なのではないだろうか。発言中の生徒はいままさに脚光を浴びている。いわば「晴れ舞台の緊張状態」にある。実はこのとき、ほかの生徒たち、すなわちその発言を聞いている側の生徒たちこそが、いろいろな表情を見せているのである。
ある生徒は席の少し離れた生徒に向けて手紙を書いているかも知れない。ある生徒はどうしても朝読書の続きが読みたくて、机の下で本を開いているかも知れない。ある生徒は窓の外を眺めながら給食のメニューは何だったかなどと考えているかも知れない。もちろん、多くの生徒たちは発言者の意見を聞き漏らすまいと、真剣に耳を傾けているはずだ。
いずれにせよ、こうしたとき、実は緊張状態にない周りの生徒たちにこそ、彼らの「素の状態」が表れるのある。教師にとって、これほどの生徒理解のチャンスはない。しかも、こうした場面は日常的に、しかも日に何度も訪れるのである。
合唱コンクールの例でも同様である。ソプラノが高音の音取りをしているとき、実は休んでいる他の3パートは休憩タイムになっている。こんなときにこそ、生徒たち個々の合唱コンクールへの意識を垣間見ることができるのだ。ある生徒は真剣にソプラノの響きに耳を傾け、多くの生徒たちは小声のおしゃべりに花を咲かせている。その表情は例外なく「素」なのである。
このように「素の状態」の行為を観察して日常的な指導に活かす目をもつこと、これを私は「素行評価の原理」(1)と呼んでいる。
2 素行評価の場面
「素の状態」の行為を観察するとはいっても、生徒たちからみれば、教師は自分たちの「管理者」である。そう簡単に素顔を見せてくれるわけではない。そこで素行評価場面を意図的に創り出す必要が出てくる。
例えば、一年生を担任した四月、どんな生徒たちかがわからないなかで、学級担任としては少しでも情報が欲しいと思う。こんなとき、入学式後の学活、或いは次の日の自己紹介シートを書く学活などで、わざと五分ほど時間を余した振りをする。
「じゃあ、時間が余ったから、おしゃべりタイム。席を立っていいよ。ただし、教室から出ちゃダメだよ。」
こんな時間をとる。生徒たちはいろいろな表情を見せてくれる。
新入生にこれをやると、まず、「えっ?ほんとうに立ち歩いていいの?」という雰囲気に包まれる。ここで生徒たちに様々な目配せが起こる。だれとだれが目配せしているかは教卓からは手に取るようにわかる。
そのうち、だれか一人(生徒A)が意を決して立ち上がる。追随して二、三人(生徒B~D)がそれに続く。教師はそれをにこにこしながら見ている。他の生徒たちも安心して立ち上がり始める。こういう流れである。
このとき、最初に立ち上がったAは、まず間違いなくリーダー生徒か問題傾向生徒である。追随したB~Dとの間には心理的な上下関係がある。はやりの言葉でいえばAは「スクール・カースト」(2)が高く、B~Dはその〈同調者〉である可能性が高い。今後、Aが他の生徒(E)を攻撃するようなことが見られた場合、それはAによるEへの攻撃に止まらず、Aを中心とした複数の人間によるEへの「いじめ」に発展する可能性が高い。このように把握するのである。
また、一人(F)が席に座っている周りを四、五人(G~K)が囲んでいるという状態も現れる。この場合もFとG~Kとの間には上下関係がある可能性が強い。更には、立ち歩き可としている四、五分の間、だれとも接することなく一人でポツンとしている生徒も散見されるはずである。本を読み出したり、漫画を描き出したり、ただ黙っていたりとその様相は様々だが、こうした生徒たちが何をしていたかまで含めて、生徒理解における重要な情報となることは言うまでもない。
3 素行評価の観点
生徒観察において最も大切なことは、目的的に見るということである。言い換えるならば、何を見るのか、どこを見るのか、なぜ見るのかということを、あらかじめ決めたうえで観察するということだ。教師は経験を重ねるにつれ、これまで接してきた生徒たちの印象の集積がなんとなくデータベースとして機能するようになり、自分の生徒を見る目は確かだと錯覚しがちになる。しかし、そんなことはあり得ない。それは神の領域である。
無目的に生徒集団を見ていると、どうしても態度の悪い生徒ばかりが気になってくる。その子ばかりを見るようになる。しかも悪いところばかりが見える。結果、やたらと注意ばかりすることになってしまう。教師はその子が嫌いになっていき、当事者生徒は「なんでオレばっかり……」と態度を硬化させていく。教師にとっても生徒にとっても不幸な展開が延々と続く。三ヶ月から半年くらいで亀裂は決定的となり、その生徒の指導を他の教師に頼まなければならなくなっていく。やっと和解できるのは卒業式当日……などということになりかねない。もちろん、注意すべきは注意しなければならないが、必要以上の細かな叱責になっていないかと、教師は常に自戒する必要がある。
最後に、「素行評価」における十箇条を挙げて本稿を閉じたい。
(1)「良いところ」だけを見る日、「悪いところだけを見る日」を交互に設定する(月・水・金は良いところ、火・木は悪いところのように)。
(2)観察する対象として、「今日の子」を男女 各一名ずつ決めて観察していく(一ヶ月も経てば膨大な具体的データが集積される)。
(3)発問のあとはまず意見をノートに書かせて 生徒の思考法・発想法を可視化する。また、小集団討議を頻繁に行うなど、質の異なる評価場面を意図的につくる。
(4)週に一度以上は短作文を書かせる。内容を読み取る以上に、言葉遣いや文字の乱れから心理状態を読み取る。
(5)休み時間の学級をまたいでの人間関係に注目する。
(6)多動性の高い生徒については、月に一度程度、十分休みの移動を気づかれないように 尾行してみる。
(7)授業前の三十秒の動きに生徒個々の現状が顕在化する(体育とそれ以外の教科との違いは一目瞭然であるが、実はその他の八教科の間にもかなり大きな差がある)。
(8)授業中の指示後一、二秒の動きに生徒個々の現状が顕在化する。
(9)机中・ロッカー・靴箱等に、物を介して生徒実態が顕在化する。
(10)通知表所見に活かせるように、顕著な素行(良い面)については必ずメモする。
【注】
(1) 詳細は拙著『学級経営10の原理・100の原則』(学事出版)を参照されたい。
(2) 『いじめの構造』森口朗・新潮新書・2007
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